らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

1221

内山城 (佐久市内山)  

◆抗う佐久の土豪どもを徹底殲滅した武田方が新たに経営拠点として整備した宿城◆

更新されないブログに「死亡フラグか?」と思った方もいらっしゃるだろうか。いつもの事である・・・(爆)

13日の土曜日、悪天候の隙を付いて南佐久の蟻城(ありじょう)と勝見城に進駐する。
案の定、蟻城の南城では恐れていた鉄砲隊と遭遇するという危機に面したが、何とか無事に帰還・・・(汗)

いつから「城巡り=サバゲー」となったのだろうか・・・このことである・・・(笑)

それにしても近年稀に見る異常気象による降雪で、年内の攻城戦は「おしまい」。呆気ない幕切れとなった・・・・。

内山城2 (2)
内山城の城下町が形成されていた内山集落と出城の内堀城、佐久進出当初の宿城だった前山城方面。(園城寺より)

今回ご案内するのは、佐久地方における武田の拠点城として整備された内山城。(うちやまじょう)

「この期に及んで初掲載とは片腹痛いわ!! 首でも洗って おととい来やがれ!」

と諸先輩方にはお叱りを受けそうだが、初参戦の「トーシロ戦士らんまる」が考察する内山城とは果たしていかに・・・

内山城2 (112)
山麓の園城寺。

【立地】

佐久から群馬県の下仁田町に通じる通称「内山街道」(または富岡街道)の内山渓谷の入口の右岸に位置し、断崖上の岩山に立地する。東方の尾根続きには内山城があり、北側600mには五本松城がある。
往時は信濃と上州を繋ぐ重要な古道で、旧碓氷峠と共に関東方面への出入り口であった。

内山城2 (3)
内山城の居館跡と伝わる衣笠神社。大手の南西尾根の付け根の平場に位置し水の手(現在は池)も備えている。

今さら目新しい遺構や記述の発見など無いが、訪れる人も激減し城跡への大手道も藪に覆われ道も消えかけている。

織豊期の近世城郭ばかりが注目される最近の城郭ブームの風潮を残念に思う戦国の城のフリーク諸氏もいらっしゃるとお察し申し上げるが、嘆く暇があるなら「土の城について、思うままを発信せよ!!」

と、偉そうにノタマウ小生も一週間に一度の更新ペースじゃ「ダメよ~、ダメダメ」 このことである・・(笑)

内山城見取図①
集落を覆うようにそれぞれの尾根にも防御構造が施されているのが分かる縄張り。

【城主・城歴】

中世初期の内山は平賀郷の平賀氏の支配下にあったが、平賀氏の衰退後は大井庄地頭大井氏の手に移ったという。
内山城の初見は天文十五年(1546)五月で高白斉記には下記の記述が残る。

・五月小三己未卯刻、内山(現佐久市)に向け御門出の陣。巳刻御立。海野口まで。
・五月六日壬戌、前山(用佐久市)へ御着城。
・五月八日甲子巳刻先衆立つ。九日乙丑辰刻前山のワウツ立つ。
・五月十日、水の手取らせられる。雷雨。
・五月十四日庚午責敗。内山本城ばかり残りて小笠原(貞忠)と金吾(不詳)両人参る。
・五月二十日丁丑、内山の城主左衛門尉(大井貞清)城を明けて野沢(佐久市)へ下る。

内山城2 (7)
大手の南西尾根(衣笠神社の裏側)には五ヶ所の削平された郭が連続する。

内山城を奪取した武田晴信(信玄)は、七月に上原伊賀守昌辰(後の小山田備中守)を城将に命じ、志賀城で抵抗を続ける笠原氏や、内山峠を越えて笠原氏への援軍を出して来る上杉憲政に備えた。
内山城の拡張整備と城下の形成はこの時武田によって行われたと考えられるが、どうであろうか。

内山城2 (8)
南西尾根突き当りの郭。この裏が城の主要部になるが、巨石がそそり立つ岩崖が天然の防御となっている。

翌年志賀城が落城し佐久一円が武田の支配下となるも、翌々年(天文十七年)二月、上田原の合戦で武田が敗戦。四月に村上義清は佐久へ侵入し「四月二十五日敵内山宿城に動く、過半火を放つ。」(高白斉記)

「宿城」(根小屋)と記載されているので、城下が形成されていたのであろう。
上田原合戦での武田軍の敗戦は反武田の佐久衆の蜂起に繋がったものの、内山城の城将上原伊賀守は良く持ちこたえた。しかし武田軍の守る前山城を村上に支援された佐久衆が攻め落とし伴野氏が反旗を翻すに及び、晴信は九月に自ら佐久へ出陣し前山城に立て篭もる反乱軍を退け、伴野氏を降す。(この直後に前山城は武田により改修された)

内山城201411 (17)
宗吾神社の置かれた主郭。

高白斉記によれば、天文二十年三月に前内山城主だった大井貞清が上原伊賀守と交代し内山城将に任ぜられるが、九月には罷免され上原から名字を替えた小山田備中守に再び戻されている。※一説によれば村上方への内通を疑われていたと言われる。

内山城201411 (4)
郭1の切岸と郭2。

内山城201411 (3)
土留めの石積みが周回する。実に丁寧な普請だ。

その後、飯富兵部虎昌(おぶひょうぶとらまさ)など武田の重臣らが城将を勤めているので、諏訪の上原城同様に武田の佐久における経営拠点として重要な宿城だったことが伺える。

内山城201411 (8)
主郭の一段下の郭4から見た郭5.

武田氏滅亡後の内山城は、天正壬午の乱で北条氏が佐久へ侵攻し内山城を奪取。城代として猪俣能登守(のちの名胡桃城奪取の首謀者として北条氏を滅亡に追い込み全国区の有名人となる)を入れる。
しかし、徳川方の依田信蕃の佐久平定作戦で陥落し以後廃城となった。

内山城201411 (9)
郭5から望む内山街道。

内山城201411 (11)
城跡から見る内山の城下。

【城跡】

主郭とその周囲を囲む4つの郭のある山頂は周囲を峻険な岩崖に囲まれ容易には近づけない。
また、南の尾根には「馬場の平」と称する広大な郭があり、東側を防塁となる土手が遮断している。城の背後の東尾根は、内山古城へ続く鞍部を一条の大堀切㋓で遮断し、水の手のある北の沢を竪堀㋒で制限し石塁を斜面に構築する事で厳重に警戒している。
城下の背後を守るような西尾根はガレの痩せ尾根のため、二条の堀切と堡塁を置いているがそれだけで十分だろう。

内山城201411 (19)
東尾根に対して扇型の郭3。

内山城201411 (20)
急こう配の尾根には四段の段郭を置いて鞍部に堀切㋓。下手な二重堀切よりも防御力は高い。(鞍部を見下ろす)

内山城201411 (37)
鞍部の堀切㋓。左の尾根伝いで内山古城へ。

●水の手(井戸)及び周辺の石塁

この城へ来たら絶対に見て欲しいのが石組の井戸である。素掘り井戸とか天水溜めなら珍しくないが、この山中でこれほどの遺構はそうはお目にかかれないと思う。塩田城、伊那大島城、岩殿山城ぐらいだろうか。
また、斜面には謎の石塁がある。往時のものかは断定出来ないが、水の手防衛の執念を感じる遺構である。

内山城201411 (23)
竪掘㋒。(急斜面なので別になくてもイイと思うが・・・)この先を下って水の手になる。

内山城201411 (26)
斜面の石塁。石の組み方が主郭周辺の石積みに似ている感じがした。

内山城201411 (25)
こんな急斜面を下る。なので見学後は登るんです(汗)。命令とはいえ、水汲みも大変だったんでしょうねえ。

内山城201411 (31)
ありましたよ、石組みの井戸。堀切から比高差70mぐらいでしょうか。

内山城201411 (33)
枯れちゃってましたが、この石組の井戸は体力勝負してでも見る価値はありますネ。

●西尾根 ※撮影は9月末

内山城2 (88)
痩せ尾根を削っただけです。

内山城2 (94)
岩を削って穿った堀切㋑。

内山城2 (96)
急な尾根を下った先の尾根は円城寺の裏手になり、城下が良く見渡せます。

内山城2 (100)
堀切㋐。かなり埋まってます。

内山城2 (111)
郭8.単なる堡塁かと思いきや、真面目に削平してありました。

●馬場の平(郭6)

馬の放牧や飼育ぐらいは出来る広さはありますが、さすがに馬を連れて登るのは無理でしょう(笑)
兵隊さんの宿営地としては最適ですね。

内山城3 (6)
北側から見下ろした「馬場の平」遠景。

内山城3 (7)
結構な土木工事量かと。

内山城3 (9)
東側の防塁。登り石垣のように尾根伝いに加工されている。見どころのひとつです。

内山城3 (12)
南端の段郭。

さて、ツラアツラと例の如く写真で誤魔化して参りましたが(笑)、武田氏の佐久経営拠点として幾多の戦火に見舞われながら歴史を刻み続けた内山城。
武田さんちの宿城とはこういうものか、という学習にはイチオシの山城でございます。

これだけの史実と素晴らし遺構を現代に残しているのに、指定史跡じゃないんですネ(汗)
岩尾城や平賀城が県指定史跡なのに、何ででしょう?
指定史跡にすればイイという単純な問題ではありませんが、少なくとも志賀城と内山城は指定史跡にして欲しいものです。

内山城201411 (35)
晩秋の山城は、城が土の芸術作品であるという事を教えてくれる短いシーズンでもあります。(堀切㋓)

≪内山城≫ (うちやまじょう)

標高:913m 比高193m
築城年代:不明
築城・居住者:大井氏、武田氏、北条氏
場所:佐久市内山
攻城日:2014年11月8日 (最終訪問日)
お勧め度:★★★★★(満点)
城跡までの所要時間:円城寺より15分
駐車場:園城寺の駐車場借用
見どころ:堀切、土塁、石積み、石組井戸、石塁、登り石垣
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編」(2013年 宮坂武男著)
注意事項:岩場が続くガレ山なので転落、落石注意。途中の足場が悪いので靴はしっかりしたものを履く事。

内山城2 (115)
内山街道(コスモス街道)から見た内山城遠景。佐久を代表する「ゴッツイ」宿城だ。










スポンサーサイト

Posted on 2014/12/21 Sun. 12:45 [edit]

CM: 4
TB: 0

« 勝見城 (南佐久郡佐久穂町海瀬余地)  |  五本松城 (佐久市志賀) »

コメント

指定史跡じゃない?

もう10年くらい前に行ったきりかな?
戦国の城らしい気合いのあった物件でした。
そうですか。武田さんの宿城!
地域支配の城でもあったのでしょう。
だから、佐久の人は武田嫌いにつき、史跡にもせず、無視しているのかも?

あおれんじゃあ #- | URL | 2014/12/21 22:00 * edit *

Re: あおれんじゃあ様へ

そうなんですよ、武田嫌いは仕方ないとしても残った城に罪は無い。
段々畑となった素生のわからん平賀城やろくに整備もされてない岩尾城、地名の由来だけで指定してしまった根々井館・・・佐久の指定史跡は何か変です(汗)
志賀城、内山城、平尾城あたりはキチンと市の指定史跡にして市民にも興味持って頂かないといけません。いつまでも武田憎しじゃ笑われますネ。

らんまる #- | URL | 2014/12/22 07:16 * edit *

こんばんは。
内山城、やっぱり園城寺の手前を左に行くんですね。
あの案内板じゃ、さっぱり分からなかったわ。
それに、オバサンとワンコの2人では、ちょっと怖そうな感じだったし。
内山の町、山に向かう細い道に、こんな名前がついてるんですね。
大名小路 じゃんぽん小路、殿様小路、文明小路ですか。
それぞれ訳があって名付けられたんでしょうね。
今度行ったら、ちゃんと歩いてみようと思います。

万見仙千代 #YR4Ixzf2 | URL | 2014/12/22 21:13 * edit *

Re: 万見仙千代様へ

毎度読み逃げしておりますが、お赦し下さいませ(笑)

円城寺の駐車場(広いほう)に車を止めて脇の道を登ると右手に古い説明板があります。この先は民家なので侵入出来ません。城への道は看板の設置された場所の北側の石段を登ると「内山城」の方向表示があるので、そこを右に進むと居館跡の神社に出ます。見づらい位置の看板は何とかして欲しいものです。
佐久地方の方は武田さん大っ嫌いなのは仕方ありませんが、せっかくの中世の城下町の遺構なので、小路の名前も看板か標柱で表示してもらえるといいのですが、難しいところですね。
内山城は貴殿のコスモス街道の記事が無ければ再訪問しなかったでしょう。感謝感謝ですw

らんまる #- | URL | 2014/12/23 08:31 * edit *
コメントの投稿
Secret

トラックバック
トラックバックURL
→http://ranmaru99.blog83.fc2.com/tb.php/668-58502b97
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top