らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0326

木曾路放浪記2  

◆武田領の西の果ては遠かった・・◆

「復讐するは我にあり」・・・2月の木曽福島城の雪中行軍によって諦めた信濃先方衆の木曾路の城攻めの再開である。

欲深きわが身なれば、妻籠城、妻の神土塁、妻籠古城、神明砦、須原城・・・などと移動時間や比高などあまり考えずに「お気楽極楽」でスケジュールを立てて、いざ木曾路に向かうものの、往復300kmは移動時間との戦いであった・・(汗)

【妻籠城】

武田領と美濃を有する織田との境目の城で、御親類衆の木曾義昌が守備を命じられた重要拠点であった。

妻籠城 (3)
旧中山道の城山茶屋跡。茶屋の前身は番所が置かれ妻籠城と共に街道を抑えたと思われる。

信玄亡き後の勝頼の扱いに不安と不満を抱き、信長に内通し武田氏滅亡への引き金を引いた木曾義昌だが、本能寺の変で信長が斃れると、他の信濃の国衆同様に大勢力に翻弄される運命となった。

妻籠城 (17)
1600年代は深い堀切に橋が架けられていたようだが、1900年代に土橋が造成されたという。何で??

その辺のお話は、また今度・・・(笑)

妻籠城 (111)
遊歩道の為に改変されてしまった大堀切。

妻籠城 (104)
ここも土橋じゃなかったでしょうネ。主郭手前の堀切にそんなもの作りませんよ。

妻籠城 (88)
妻籠城の主郭。四重の腰郭が取り囲む輪郭式の美しい縄張りである。

妻籠城 (92)
眼下には妻籠宿が一望出来る。織田との国堺でもあり、武田軍にとっての最前線でもあったというのが分かる。


【妻の神土塁】

「さいのかみどるい」と読む。妻籠城と中山道を挟んだ対岸の斜面に構築された謎の土塁群である。

妻籠城の入口にある説明板には「妻籠城に付随する軍事構築物」と断定していたが、果たしてそうであろうか?

宿城とか陣城の遺構にしては、土塁も中途半端な高さで外側の堀も狭いし浅い。

妻の土塁①
斜面に登り土塁のように続く。

妻の土塁②
区画するように横にも土塁を入れているが、家畜の飼育場にも思える。

妻の土塁③
植林による削平地もあるので、どこまでが遺構なのか判断が難しい。

関ヶ原の戦いで中山道を抑えた軍勢が駐屯するにはもってこいのスペースだが、軍事構築物とは思えない。

このような構造物は他にも白馬村の月夜棚、下伊那の遠野にもある。きちんと調べるべきであろう。


【定勝寺・須原城】

木曾氏が福島へ進出する前の本拠地と伝わり、定勝寺に館があり、その詰め城が須原城だとされる。
木曾義仲の末裔と称する木曽氏の出自は捏造されたものというのが近年の通説になっている。

まあ、その辺のお話は後日ゆっくりと・・・(いつになるやら・・)

須原城 (4)
居館跡と伝わる定勝寺の山門と碑。

須原城 (43)
須原城の主郭。

実は須原城を目指して適当に尾根に張り付いたのだが、途中で疑心暗鬼となりかなり時間と体力をロスした。

「鉄塔の誘惑・・・」 このことであった・・・(笑)

須原城 (56)
緩すぎる堀切は戦国初期のものと想定され、その後改修された跡も見受けられない。

確かに木曾領における中心的な位置ではあるが、要衝の地では無い。飛騨からの侵攻を考えれば交通の要衝である木曽福島が本拠地としてふさわしい。


【山吹山烽火台】

木曾谷は渓谷が深いために、烽火台が重要な通信手段だったと思われる。

甲斐本国との通信手段の精度や伝達速度の速さはいくばくであったろう?と常々思うこの頃ではあります(笑)

それにしても、こんな場所「登りとうはなかった・・・」このことであった・・・(笑)

山吹山烽火台 (13)
烽火台でも堀切が二条ちゃんと刻まれてます。

山吹山烽火台 (15)
往時はもっと粗末な掘立小屋だったと思うのですが・・・。

山吹山烽火台 (48)
苦労して登って腐りかけた展望台にも登る・・・高い所は高所恐怖症なので苦手ですw

山吹山烽火台 (49)
麓から見上げた山吹山烽火台。

「信玄の飛脚かがり」はいつか解明したい小生のライフワークですネ。


【藪原砦(鳥居峠)】

天文十八年四月、武田軍は木曾領へ侵攻し贄川・平沢で木曾軍を破るも、鳥居峠で福島からの加勢を得た木曾氏に敗れたという。天文二十四年、武田軍は鳥居峠を越え藪原に布陣するも、川中島の合戦の援軍として主力が転戦。残る武田軍に木曾氏が和議を申し立て赦され、その後武田に降る。

藪原砦(鳥居峠) (1)
藪原側の旧中山道に立つ説明板。

藪原砦(鳥居峠) (9)
幕末に将軍家に嫁いだ皇女和宮も鳥居峠からこの景色を見たのであろうか。

実のところ、最近は信玄時代の鳥居峠侵攻は無かったというのが定説になりつつある。川中島で抜き差しならぬ事態に陥っていた信玄が二面作戦を強行できるような動員兵力ではなかったというのが大筋の意見のようだ。

藪原砦(鳥居峠) (19)
碑の置かれた丸山公園も砦の一部らしい。

天正十年二月、武田を裏切り織田に内通した木曾義昌は、勝頼の派兵した甲軍の攻撃を二度にわたって鳥居峠で防戦している。

藪原砦(鳥居峠) (47)
御嶽山を望む遙拝所も砦の遺構とされる。

藪原砦(鳥居峠) (51)
鳥居峠も行きたかったのだが、雪中行軍となるため已む無く中止。

藪原砦(鳥居峠) (60)
測候所跡に休息塔が建設された為、堀切が消えかかっている。

鳥居峠の北側は奈良井宿で、往時は木曾氏傘下の奈良井氏の領土であったが、その前の奈良井氏は三村氏に従属していた。なので、実質的には鳥居峠が木曾領の北限だったと思われる。

藪原砦(鳥居峠) (92)
遊歩道の看板。

木曾路は砦よりも「烽火台の繋ぎ方」が重要な課題のような気がする。

信州の山城と城館が一段落したら、「信玄の飛脚かがり」を辿ってみたいと真剣に考えているこの頃である・・(笑)



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Posted on 2015/03/26 Thu. 23:04 [edit]

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コメント

往復300㎞はきついですなあ。茨城-群馬間の往復距離です。
伊那谷なら高速道路があるので便利ですが、木曽は国道19号線のみですから。
こんな山の中にもそれなりの城があるもんですね。
あまり生産性が高くない地の領主、超大国ににらまれたら・・・
大陸のキ印国と東南アジアの国々の関係のようです。

あおれんじゃあ #- | URL | 2015/03/29 07:54 * edit *

Re: あおれんじゃあ様へ

木曾地方はかつては鳥居峠を境として美濃国となっていた時期もあるようです。
あまりの遠さに馬篭宿の山口村が岐阜県に編入されたのは仕方ないでしょう。長野県広過ぎ・・(汗)

木曾川渓谷に点在する集落の農業生産性はあまり期待出来なかったようですが、豊かな森林資源が魅力だったのでしょうか。それにしても木曾義昌は武田信玄の娘婿としての扱いは低く、勝頼時代にその鬱積が爆発してしまったかのようです。そんな性格なので家康や秀吉に上手く利用されて騙されてしまいました。そう考えると昌幸は大勢力を翻弄したカリスマですか(笑)

らんまる #- | URL | 2015/03/29 17:40 * edit *
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