らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0604

柏鉢城 (長野市中条清水)  

◆窮地に追い込まれた信玄が「謙信に負けるもんか!」と北信濃ゲリラ戦を展開した拠点城◆

木曽かと思えば再び北信濃に記事が飛ぶ。全く方針というものが無いブログなので、平にご容赦願いたい・・(笑)

現在までの未掲載の在庫城数は約160.さっさと掲載すれば良さそうだが、ズボラな身なので消化出来ず。
賞味期限切れならまだしも消費期限が切れそうだ・・(汗)

今回ご案内するのは、第二次川中島合戦後に川中島から撤収させられた信玄が山間部のゲリラ作戦により北信濃攻略の拠点とした柏鉢城(かしわばちじょう)。

柏鉢城遠景
以前から狙っていたが、中々の山奥なので腰が引ける。この日もガスが巻いてるし大丈夫かしら?

【立地】

鬼無里を源頭とする裾花川と、犀川の大安寺付近に流れ込む土尻川に挟まれた山系に 富士ノ塔、陣場平、虫倉山があり丁度長野市から西方にあるので西山と呼んでいる。 その中の最高峰が虫倉山だが標高は1500mに満たない小さな山だ。その虫倉山から西へ延びた尾根の上に柏鉢城がある。
往時は犀川沿いから鬼無里・戸隠方面へ抜ける重要な山間の古道が城の西側を通過していた。

城への登路は、
①西の尾根先の広福寺の裏側から虫倉山登山道を登るルート (搦め手側) ※傾斜は緩いが距離は長め
②清水集落の清水貯水池から100m先の尾根をひたすら登る大手道ルート(大手側) ※距離は短めだがチョッと厳しい

御旅屋跡 (3)
広福寺の脇には室町時代の五輪塔と宝篋印塔が残る。山間地の重要箇所として有力者が支配していた事が伺える。

根小屋は城の直下の南側に「御旅屋(おたや)」と呼ばれる遺構が残るが、北西の小川村にもあったという。

柏鉢城 (4)
清水貯水池に車を止めて100m林道を歩くと道路脇に登山道の看板。現在は通行禁止の通達なので自己責任だ。

柏鉢城 (5)
一応登山道があるが、九十九折りでかなり険しい。

柏鉢城 (6)
人によって個人差があるので、「あと●●m」とか「あと●●分」という表示は不要。方向だけ教えてくれればよい(笑)

柏鉢城 (17)
尾根にへばりついてから稜線を西へ。加工された土橋と堡塁が見えたら城域である。

【城主・城歴】

御山里村誌(明治十三年 長野県編纂)によれば「当時十二間 南北十八間、元標より西の方虫倉山の西にあり里俗の伝に弘治元年中武田の臣市川梅印なる者居住せしという。今天神の社地となる、井水等依然なり」と古くから武田氏が築城し、城番をおいて守らせた城と伝えている。

柏鉢城の初見は、近年発見された「弥富文書」に信玄(晴信)の直筆の書状に記載がある。

「幸便を以て自筆を染め候、意趣は大日方所より、木嶋(出雲守)を以て申し越さる如くんば、鳥屋へ嶋津(月下斎)より番勢を加え、あまっさえ鬼無里に向かって夜揺(夜攻)由に候。
実否懇切に聞き届けられ、気三の上言上せらるべく候。惣別帰国のついで、鬼無里筋の路次等見届けられ尤もに候。毎事疎略なく見聞ありて披露待ち入り候。恐々謹言、追って、小川・柏鉢より鬼無里・鳥屋に向かう筋々を絵午にいたされ候て持参あるべく候也。

卯月十三日  晴信 (花押)

長坂築後守殿
日向大和守殿」

この書状に年号はないが、弘治三年(1557)のものと推定されている。

柏鉢城見取図①
峻嶮な岩山の尾根上に作られた連郭式の山城。ゲリラ戦の出撃拠点としては充分である。


さて弘治三年?といわれても状況がピンと来ないので甲越戦争の前後を整理してみよう。

●北信濃侵攻が振り出しに戻った第二次川中島合戦とは

弘治元年(天文二十四年 1555年)、武田方に寝返った善光寺の栗田鶴寿の討伐で上杉景虎(謙信)が善光寺平に着陣すると、栗田鶴寿は武田軍の援軍とともに旭山城に籠城。上杉軍は葛山城を築き旭山城を封じる。後詰めとして武田晴信(信玄)が川中島に着陣し上杉VS武田の体陣は200日に及ぶも決着がつかず、今川義元の仲裁により和睦。
(第二次川中島合戦)

和睦の条件として武田晴信(信玄)は、旭山城の破却(城割り)、北信濃豪族(井上・島津・須田等)の旧領復帰を認める事を余儀なくされた。これにより晴信は犀川より南の屋代・坂城まで後退させられ、逆に上杉景虎(謙信)は、犀川以北の川中島支配権を確立したのである。

柏鉢城 (25)
堀切㋐。痩せ尾根をさらに削る執念・・(汗)

柏鉢城 (32)
堀切㋐を登り切った場所に接続する郭4。

●平地がダメなら山から戸隠を制圧して宗教と密接な民意を味方にせよ

今川義元の斡旋による和議の翌年の弘治二年(1558)は、晴信(信玄)のさしたる行動記録は無いので、表面上は同盟者の顔を立てていたが、水面下では謙信配下となっていた北信濃の国人衆に調略の手を伸ばしていたらしい。

上杉方として長沼城に復帰した島津月下斎が、武田に降った春日氏の戸屋城を奪取し、兵士を増員して鬼無里方面まで夜襲し、武田軍が手を焼いていた事が信玄の手紙の文面から読み取れる。そこで信玄は戸屋城から柏鉢城までの絵地図と鬼無里へ抜ける古道について詳細を知らせるよう依頼している。

そして古来からの信仰の地である戸隠・鬼無里を占領することで寺社・寺院を味方につけ北信濃の実行支配の理由を正当化しようと計画を実行に移していた節が伺える。

柏鉢城 (37)
主郭手前の二重堀切(㋑・㋒)。ここを制圧するのは至難の業であろう。

柏鉢城 (50)
堀切㋒から見上げた「1‘」手前の堡塁。攻城兵が絶望感に苛まれる瞬間であろうか・・・。

●和議を破り、真冬の二月に葛山城を落とし、謙信を挑発してその隙に戸隠を制圧

弘治三年(1557)二月、冬将軍の居座る春日山城から身動きの取れない謙信を嘲笑うように、武田方の馬場美濃守信房は深志城より犀川沿いを進軍し、城将落合備中守と援軍の小田切駿河守の守る葛山城を急襲。籠城空しく水の手を切られ、火攻めに遭い落城。籠城軍は全滅し落合・小田切氏は討死、足弱の女子供は谷に身を投げた。更に飯山城の高梨政頼を攻めるが、さすがに落とせなかったらしい。

「武田晴信、絶対に許すまじ!!(怒)」

雪解けを待ち三月末に飯山城に入った謙信は、北信濃の国人衆に檄を飛ばし川中島に本陣を敷いたという。

柏鉢城 (54)
本来の大手も堀切㋒から北側斜面を迂回して本郭に入ったものと思われる。

柏鉢城 (55)
北側斜面からの虎口。

謙信の出馬で最前線を引き下げた晴信(信玄)は、小川村の大日方領にある柏鉢に拠点を築き、そこから鬼無里、戸隠の攻略に乗り出したという。

柏鉢城 (59)
郭1.主郭を囲む土塁の痕跡すら見られないのは、最初から無かったと見るべきであろうか。

柏鉢城 (60)
主郭から雲海を距てて見た犀川方面。(南側)

永禄元年(1558)四月、武田晴信は柏鉢籠城衆を室住豊後守、箕輪衆水上六兵衛・坂西等と定め、越軍侵入の際の手筈を定めていることを見ても、当時の武田領小川領の防禦地として椿峰城等と共に重要な位置にあったことがわかる。(この時に尼厳城、大岡城についても同様に籠城衆を定めているのは周知の通り)

柏鉢城 (76)
主郭には立派な説明板があるが風化してしまい、早急に補修を望みたい。

同年八月、武田軍は柏鉢城を前線基地として戸隠領を攻略し、神社修理費50貫文を納めて祈願文を奉納している。世に言う「戸隠神社奉納祈願文」がこれである。

奉納 戸隠山大権現神前 願状
右意趣者、先筮曰、来戊午之歳欲移居於信州、則十二郡可随吾存分哉否之占ト、舛之九三也、其辞昇虚邑無所疑、注曰、往必得也、又越後与甲州円融和同之事停止之、動甲戈可吉哉否之先ト、坤之卦也、斯文曰、君子攸往、先迷後得、主利安貞吉云云、由是今移居於信州、則当歳之内、一国不残卓錐之土、可帰予掌握、若越士動干戈者、任先筮坤卦之吉文、敵忽滅亡、得晴信勝利者必矣、粤孔方五十緡為当社修補、可奉供 権現宝前者也、仍如件、

維時永禄元年戊午八月如意日 源晴信(花押)敬白
  戸隠山中院 

※以上、原文。戸隠神社文書。 

小生が読めるのは文章の最後で、「よってくだんのことし」・・それだけだ(笑)

柏鉢城 (82)
雲海が晴れた時に見えた景色は、何故武田がこんな山奥に柏鉢城を築城したか合点がゆく答えを出してくれた。

奉納祈願文の現代語訳は以下になるという。

「先年、筮竹(ぜいちく)で占いをした。まず、『永録元年に信州に出陣しようと思うが、12郡が自分の思う通りになるかどうか』を占ったら、『行けば必ず得るなり』という卦がでた。次に『越後と甲州の和睦を破って合戦をしてよいかどうか』ということを占ったら『君子往くところあり、先に迷いて後に得ん』という卦がでた。したがって、今信州に出陣すれば信濃全部が私の手に入ることに決まっている。筮の卦が吉とでたから、敵はすぐに滅亡し、晴信が勝利するに決まっている」というものである(『信濃史料』第十三巻)。

柏鉢城 (83)
主郭の南側には枡形虎口。(5×4)

これを知った謙信は烈火の如く怒り、翌年に戸隠に攻め入り、戸隠の三院衆徒は鬼無里に逃れ更には武田方の大日方氏を頼り、小川の筏に三院を移した。戸隠三院の疎開は30年間続き、文禄三年(1594)の上杉景勝による戸隠山三院再興でようやく戻れたのである。
この時代、宗教と政治は密接に繋がっていて、領民の信仰の厚い神社仏閣を支配下に引き入れる事は必須だったのであろう。

IMG_1548.jpg
主郭と2の郭の間にある堀切㋓(上巾13m)。まいどお馴染みの「ていぴす」さん。

柏鉢城 (97)
堀切㋓の西側には井戸跡。

【城跡】

東西55m、南北15mの不整形の本郭を中心とした連郭式の山城で東の搦め手に三条、西は郭2との間に幅広な堀切㋓(上巾13m 井戸跡も)を置き、郭2の背後を擂り鉢状に削り堡塁と見張用に郭3を接続している。その背後は自然地形を利用した堀切となっている。大手は主郭の枡形から考えると西側だが、麓の居館である御旅屋(おたや)からの道筋ははっきりしない。

柏鉢城 (104)
尾根を削り出した作りの郭2

柏鉢城 (106)
尾根先の郭3(8×3)

柏鉢城 (113)
自然地形を利用した堀切㋔

柏鉢城 (116)
岩窟の中に昨年の白馬村神城地震で倒壊した天神社を発見。もちろん、ていぴす殿と二人で元通りにしておきました。

城域の西側の小川村にも集落があるので、こちらの斜面にも在番衆の屋敷があったのかもしれない。

柏鉢城 (120)
小川村方面。

柏鉢城 (121)
西の尾根をさらに進むが、城域は堀切㋔で終わっているようだ。

永禄四年(1561)の第四次川中島合戦(八幡原の戦い)以降、武田軍は平地の交通路を使い北信濃を進駐していったため山間部の通路は使用されなくなり、柏鉢城もその戦略的意義を失っていったと考えられる。

柏鉢城 (123)
東側の清水集落。

≪柏鉢城≫ (かしわばちじょう 天神城 柏丸城)
標高:1054.4m 比高:250m (清水集落より) 
築城年代:不明
築城・居住者:武田氏
場所:長野市中条清水
攻城日:2015年4月4日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:30分 (清水配水池より)
駐車場:配水池脇を借用
見どころ:堀切、郭、景色、井戸墟など
参考文献:「信濃の山城と館②更埴・長野編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版) 「中条村誌」など
注意事項:現在のところは地震による崩落で原則入山禁止。城跡までは地割れ土砂崩落等は無いが万全を期して自己責任で。
付近の城跡:御旅屋、小虫倉山城、松原城、古屋敷城山城など

IMG_1553①
清水集落から見た柏鉢城全景。









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Posted on 2015/06/04 Thu. 07:58 [edit]

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コメント

歴史の舞台

紛れもない歴史の舞台ですね。戸隠、飯縄の掌握は、野尻湖または一気に妙高山麓まで武田勢が浸透できますので、南小谷制圧と併せて武田の信濃での大勢を決めた事象だと思います。まさにその戦略の要衝ですね。ブログ拝見し、戦慄しました。
弘治三年あたりで、虎口があったのは驚きです。これは行かねばなりません。しかし最近また日本各地で地震が頻発しており、あのような細尾根で地震に見舞われたら、と思うと慎重になってしまいます。

えいき #- | URL | 2015/06/04 22:24 * edit *

半端ないね

宮坂さんの本の図で想像していたのですが写真を見ると、険しさは半端ないですね。
城址の遺構もある程度は想像どうりですが、風景写真が解説を裏ずけているようで説得力があります。
しかし、こんな所に派遣を命じられてもいやだねえ。攻める気も起らないでしょう。攻撃を諦めさせるために造った駐屯地でしょうか?
しかし、こんな山奥、住んでいる人がいますけど、どんな生活しているんでしょう。
ここから長野市街に出るのも車があっても大変だもんね。

あおれんじゃあ #- | URL | 2015/06/04 22:42 * edit *

Re: えいき様へ

コメントありがとうございます。ささっと記事に出来ればよいのですが、史料を調べたり撮影した写真の場所が何処なのか思いだす作業が加わると遅々として筆が進まず挙句の果てにはうたた寝している始末・・(笑)

いやー、こんな山奥に集落があることも驚きですが、あんな痩せ尾根に城があるのも驚きでした。
「上杉何するものぞ!」という信玄の執念深さを垣間見れたような気がします。
居館の御旅屋もこれまた凄いんです。訪問の際はセットで是非ご覧ください。
ついでに小虫倉山城も行きましたが、高いし遠いし閉口しました・・・(汗)

らんまる #- | URL | 2015/06/05 07:13 * edit *

Re: あおれんじゃあ様へ

麓から見上げると岩崖の上に聳えてる感じで「厄介な城だなあ」って思いました(笑)
登れば登ったで、こんな痩せ尾根に築城するのもさぞかし難儀だった事だろうって。
それでも、その城跡からの展望は想像以上に素晴らしく、「川中島の平地がダメなら、ここから上杉の背後を衝いて撹乱するか」という信玄の執念を感じるに充分な景色でした。まさか和合城まで見えるとは・・・(汗)

鬼無里も戸隠も中条も七二会も小川村も恐ろしく山の中ですが、南向きで日当たりがいい。お天道様と向き合って自給自足で暮らすには申し分ないでしょう。我々のように便利さに慣れてしまった世代には「不便な生活」=「不自由」と感じてしまいますが。
あと数年で「限界集落」、十数年もすれば廃村。残念ですがそれが現実なんでしょうネ(涙)

らんまる #- | URL | 2015/06/05 07:29 * edit *

壁~

こんばんは、らんまるせんせ。巨大な岩の壁、すごいです。切岸、ですか!?違うのかな。当たり前過ぎて画像メモはスルーなのかな。くすん。
「戸隠大権現」なのですね。ふむふむ。そして、源晴信。そうか、源でした、武田氏。面白いなー。
そして、やせ尾根が本当にやせているので、当時の人はこんなとこを走ったのかと手に汗握って、ものすごい画像の数々を拝見しました。
地震から一年でしたね。やっと直してもらえて祠さんもさぞかし喜んでいることでしょう。せんせ、ご加護があるうちにヤバイ山城へ行かなくてはー!

つねまる #pjmS0te2 | URL | 2015/06/05 18:31 * edit *

Re: つねまる様へ

いえ、壁ではなくて崖です・・(笑)

瞬間湯沸かし器のような謙信をおちょくる信玄はツボです。
身動きの取れない冬に謙信方の城を落とすと雲隠れ。怒って出張ってきた謙信にお尻ペンペンしてさっさと引き上げる。怒りの収まらない謙信は武田方の城を次々と落とすも誰もいない・・・(汗)

「オラオラ、かかってこいやー信玄!!」空しい・・(爆)

まあね、そんな事してるから天下が遠くなっちゃった訳で。
飯山でも地震で崩れたお城の祠があったんで直しておきました。偉いでしょ、エヘン。

そういえば戸隠の鬼女伝説を訪ね歩いたのは去年の今頃でしたね、懐かしいです。

らんまる #- | URL | 2015/06/05 19:13 * edit *
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