らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0707

横田城 (長野市篠ノ井)  

◆中世信濃の歴史上のターニングポイントとなった三大合戦に関わった居館城◆

いつ降り出すともわからない梅雨の時期の週末に連休を頂いても、この時期では山にも登れず遠出は出来ず、さりとて何処かに出掛けたい(笑)

何かイベントないかしら?と探したら、長野市立博物館でちょっとした特別展示をしていたので遊びに行って見た。

長野市立博物館①
飾らない手作り感満載の長野市立博物館は小生のお気に入りですw

長野市立博物館②
※撮影許可は頂きました。

長野市立博物館では最近山内上杉家に関係する「長尾忠景書状」なる資料を購入したようで、そのお披露目も兼ねて特別展示しているようです。そのお話はまた別の機会に・・

今回ご案内するのは、木曾義仲に関連する「横田城」。

もっとも、この城は室町時代における中央政権に対する地方の反乱として名高い「大塔合戦(1400年)」で、信濃の守護だった小笠原長秀が本陣を置いた事で有名となった。その後、川中島合戦においても地理的に重要なポジションにあったのだが、史料が残っていない。

横田城(長野市) (9)
長野市篠ノ井の県道77号線「御幣川北交差点」(おんべがわきたこうさてん)を東へ入ると住宅地に案内標識がある。

【立地】

千曲川左岸の北側に位置する篠ノ井会(しののいあい)地区の平坦地に横田城がある。川中島平の中にあり南東の妻女山と北西の茶臼山の中間地点にある。
かつては南側の千曲川まで畑の続く場所であったが、急速な市街地化により旧態は失われ水路のみ残る。

横田城2 (1)
唯一遺構の残る古殿稲荷社の北側の道路は嘗ての水堀跡だと伝わる。

横田城2 (2)
横田城の唯一の遺構である土塁の残欠(北側より撮影)。櫓台であった可能性があるという。

【城主・城歴】

長野県町村誌には「横田砦跡」として「本村横田組にあり。東西七間一尺 南北九間四尺五寸、一小丘をなし、東西北の三面に五間の空濠の残るあり。樹木鬱葱として富士社鎮座す・・」とある。これは写真の土塁痕のことを言っているらしく、その付近に堀が残っていたことがわかる。

横田城見取図①
Yahoo Japanの航空地図を引用し縄張りの推定を加筆。

養和元年(1181)六月、平家方の越後の城資職は、木曾義仲を討つべく大軍を率いて信濃に侵入し義仲の出撃に備えて陣を構えた所と考えられている。「吾妻鑑」では「筑摩河辺」と記してあり、「源平盛衰記」では「筑摩河横田の庄」に陣をとったと記されているという。
資職は軍場を作るために、横田、篠ノ井、石河(石川)に火をかけて焼き払ったとあり、こうしたことからも「更級郡埴科地方誌」(昭和53年)では資職の本陣は会以外には考えられないとしている。

横田城2 (4)
堀跡は防火水槽になっているようです。

この合戦のことを同書から拾うと、「資職は養和元年(1181)六月十四日の戦(横田河原の合戦)に木曾義仲に大敗し、越後に敗退する。義仲はこれを追って越後へ進撃したが、陣客を立てなおすために、信濃に一旦引き返している。
「平家物語長門本」では義仲は、越後国府において、兵を越前の燧城(ひうちじょう)に進めて平家軍に備え、自らは信濃に帰って横田城に住したと書いてある。
このことから、横田城は初め城資職の陣所となったが、その後、義仲がここに居て、北陸道の源氏軍の指揮を執ったことになる。

横田城2 (5)
櫓台の跡に立つ看板。

降って応永七年(1400)九月の大塔の合戦に先立って、信濃守護小笠原長秀がこの横田城に陣したことが、「大塔物語」や「市河興仙軍忠状」で知られている。

やがて、川中島地方は甲越合戦の場となるが、その間記録は無いが、この場所の重要性から考えると当然利用されたものと考えられている。その理由となるのは、古い時代にはなかった馬出しという曲輪の虎口を保護する施設があることである。形からすると、この形は武田氏が良く用いた丸馬出しに似ているが、直径100mにもなるので、少し違うかもしれない。いずれにしても戦国期に改修を受けている事が推察できる。
(以上、「信濃の山城と館②長野・更埴編」より宮坂武男氏の解説を引用・転載)

横田城2 (10)
南側の小路からが神社の参道らしい。

【城跡】

城跡に立つ案内板によると、「外堀は南北約180m、東西約230mの短矩形をなし、その内部がいわゆる環濠集落になっている。内城の部分は約55m四方で殿屋敷といわれ、その西北隅に南北10m、東西12m、高さ3m」の土塁が残り、古殿稲荷社が祀られている。稲荷社の北には近年まで6m以上の堀があった。
この殿屋敷の部分が本郭である。外堀内の西半分を宮内(くねうち、郭内の意)といい、東半分を古町という」とあり、堀で囲まれた城館として、その規模の大きさなどから貴重な遺構であると言っている。

横田城2 (9)
南の参道から見た古殿稲荷神社。

城跡の図から水路を入れてみると、城館の形が見えてくる。裏鬼門の位置に可毛羽根神社を配し、水路が方形のプランで通っている事が伺える。

こうした縄張り図が城氏・義仲の頃までの遡れるか不明であるが、その後の改修もあったと想像出来る。稲荷社のところは櫓台かもしれない。

横田城2 (6)
お社が二つあります。代々地元の方に大事にされてきたようです。有り難い事ですw

横田城(長野市) (5)
城跡の説明板には環濠集落の記載もあるので着目しよう。

昨年3月に初訪した時には、「環濠集落」などは気にせずに見学したのだが、今回は水路も注意深く観察して見た。

なんせ、路駐もままならぬ狭い集落で閉口する・・(汗)

横田城2 (11)

横田城2 (13)

城域の南西鬼門除けの位置には可毛羽神社(かもはじんじゃ)があり、この辺り一帯が城資職により焼き払われた事が説明板に記されている。

また、隣接して義仲の墓所らしき墓地群と説明板があるが、地元によれば、墓地の管理者が不明となり迷惑していると云う。義仲もさぞ困惑している事だろう・・・(笑)

横田城2 (18)

横田城2 (20)
可毛羽神社社殿

横田城2 (15)
木曾義仲の末裔の久保田氏一族が菩提を作ったようだが、その後管理者が不明になり地元も迷惑しているとか

残念ながら、この住宅地に何に思いを馳せるのか見当もつかなった・・・(汗)


≪横田城≫ (よこたじょう 会館「あいやかた」)

標高:354m 比高:-m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:長野市篠ノ井会
攻城日:2013年3月14日、2015年7月5日
お勧め度:★★☆☆☆ 
館跡までの所要時間:-分 
駐車場:無し
見どころ:土塁、水路
参考文献:「信濃の山城と館②更埴・長野編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版)
注意事項:住宅地なので撮影注意
付近の城跡:大塔古要害(推定)、二つ柳神社、屋代城など
その他:道路狭いので路駐厳禁。








スポンサーサイト

Posted on 2015/07/07 Tue. 23:19 [edit]

CM: 4
TB: 0

« 桜城2 (木曾義仲史跡関連 下諏訪町)  |  木曾義仲伝承の地巡り① 鳥居峠 (木曾郡木祖村)/腰越地区 (上田市腰越) »

コメント

昨日は七夕で

こんばんは、らんまるせんせ。うわぁい、横田河原の戦いのー・・・あれ?
城on城、ですのね。拠点はいつの世も拠点、なのでしょうか?
せんせの連載を拝見するにつけ、やはり現地に勝るものなし。途中でせんせが通報されないようにお祈りしてます。
管理者行方知れずは困りますね。趣のあるお社も、困っていそうです。
ところで。養和の飢饉が義仲も足止めしていたとは。凄まじい異常気象だったんですね。方丈記に記された都の惨状。この中へ義仲の軍勢が来たとは、ほんとにお気の毒なタイミングです。
七夕の夜もすっかり忘れ、毎度の消毒。ぽてん、っと寝落ちて夜明けでございます。おほほ。

つねまる #pjmS0te2 | URL | 2015/07/08 20:48 * edit *

お宮の木があ

会村には俺んちの親戚があり、よく行ったもんです。当時は完全な方形集落でした。
今は周囲は宅地化してますが、昔はりんご畑、俺の狩場でした。もう、時効だけど。
あの土塁は遊び場でしたねえ。でも木が切られちゃったんだねえ。
確かに堀はありましたよ。今は道を広げるため埋められたみたいだけど。
義仲さん、パワハラ親父長秀さん、それから川中島の合戦・・この城ほどこの地区の歴史に関わっているのはないでしょう。ここが重要な交通ルートだった証拠ですが、何じゃい、今の遺構は・・。

あおれんじゃあ #- | URL | 2015/07/08 22:07 * edit *

Re: つねまる様へ

ブログ用のデジカメ写真とオンツイッター用にスマホの2台で市街地の写真を撮っているとヤバイです・・(汗)
絶対通報されるレベルでございますw

養和の飢饉があったお陰で、義仲は早々に散ったとは言っても後世にその名を残した果報者でしょう。
もし飢饉がなかったら、苦戦していたでしょうネ。
それにしても、まだまだ不明や謎の多い武将ですから、新資料が登場する可能性は高いのかもしれません。

貴殿の力作に注目の毎日でございますw

らんまる #- | URL | 2015/07/08 23:40 * edit *

Re: あおれんじゃあ様へ

あの市街地化された土地に往時の景色を思い浮かべるのは困難な状況です。
土塁の欠損が一部残っているだけでも奇跡なんでしょうね。
往時の千曲川の暴れ具合はハンパ無いようで、河床も広大な面積だったと思われます。

第四次川中島合戦で有名な「雨宮の渡し」ですが、たとえ謙信公が千曲川を渡河せずとも横田河原の戦いでは血を血で染める源平合戦となった訳で、その面影を探しまくりましたが無駄な徒労に終わりました・・(笑)

大塔の古要害の位置も依然として不明です。
わからないほうが伝説として好都合みたいに言われますが、源平合戦なら赦されても、さすがに600年前はまだ恩赦の範疇ではありません(笑)ヒマ見て何度か探しに行きたいと思ってますw

らんまる #- | URL | 2015/07/08 23:54 * edit *
コメントの投稿
Secret

トラックバック
トラックバックURL
→http://ranmaru99.blog83.fc2.com/tb.php/718-40e62cbf
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top