らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0806

古屋敷城山城 (長野市中条日下野)  

◆宮坂武男氏が長年の経験と聞きこみで探し当てた城館跡◆

そんな言い方をしてしまうと現地の住民の方に失礼かもしれないが、旧鬼無里村、旧戸隠村、旧中条町、小川村は現代の交通事情から取り残された山間部の「へき地」である。
自然が豊かで風光明媚な場所だと知っていても、終の棲家として移住する気にはなれないというのが本音であろう。

では、現代の便利さを排除したらどうであろうか?
鉄道もバスも車も無く、交通手段は徒歩か馬、あるいは荷物運搬の為の牛。食料は自給自足。山を越えた隣村には物々交換で盆暮れしか行かない。

そう、隔絶された土地だからこそ安心・安全なのである。現代の便利さに慣れ親しんでしまった我々の陥る錯覚がそこにある(汗)

戸隠その他 (1)
戸隠の栃原から見た長野市方面。あの山の向こうに何があろうと知らなくとも生きていけた時代があったのだ。

今回ご案内するのは、旧中条村古屋敷(ふるやしき)地籍にあり「城の腰(しろのこし)」という字名が残り、その上に「城山」(しろやま)という屋号まであった城館跡。これだけの証拠があれば、中世時代にこの場所に何かあったと見るのが自然であろう・・(笑)

古屋敷城山城 (60)
看板は林立すれども通行する車はほとんど無い・・・

古屋敷城山城 (56)
「乗出合」(のじあぜ)というバス停の南側が城域である。

古屋敷城山城 (57)
バス停を振り返って大手道へ進もう。途中の分岐を左へ進めば早川邸のある郭2に向かう。

【立地】

長野市の西部にある奇峰「虫倉山」(1378m)の南東の山麓で旧中条村古屋敷の西側の山になる。ここから岩井堂峠を越えて戸隠・鬼無里に通じる古道があり、集落の上限でもある。小さな山であるが、信州新町や信更町まで広く見渡せる立地である。

古屋敷城山城 (6)
宮坂氏の聞き取りでは、この場所(郭3)に城があったと伝わるというが家臣の屋敷跡であろうか。


古屋敷城山城見取図①
1が城跡で、序列からすると早川邸のある2が城主居館、3と4は家臣の屋敷となるか・・


【城主・城歴】

宮坂武男氏によれば詳細不明の城だが、地名や字名から見当を付け聞き取り調査をし、早川氏の住む場所が「城山」という事が判明し特定に至ったという。
氏によると、旧中条村にはその他に「梅野城」「古城」という城跡があるらしいが、所在ははっきりしないという。

古屋敷城山城 (48)
砦(郭1)と居館跡(郭2)の間には堀切があったと推定される。

古屋敷城山城 (15)
鞍部の北側(郭4)も屋敷地と推定さえる(現在は廃屋が二棟建つ)

古屋敷城山城 (44)
「城山」と呼ばれる屋号に建つ早川邸(郭2)。昨年11月の地震によるダメージがあったようだ。

古屋敷城山城 (45)
城主の居館跡として推定される郭2は削平もしっかり為されている。

【城跡】

ちいさな丘状の山が二つ連結していて指摘されなければ通り過ぎるような場所にある。標高の高い方が主郭(というか物見)で、細長い頂上を削平し東側に二段の腰郭を備えたシンプルな縄張りで戦闘を意識した作りではない。
さりとて先日ご案内した小虫倉山城の平地の居館というのも時代に若干の相違点があるので、無理がありそうだ。

古屋敷城山城 (63)
東側の道路より見上げた郭4の屋敷地跡。

古屋敷城山城 (35)
東側の段郭から見上げた郭1。

古屋敷城山城 (20)
人工的に削平されたと分かる郭1。杉林が無ければかなり良い眺めであろうか。

古屋敷城山城 (28)
郭1の東斜面には長大な帯郭が存在していた。

古屋敷城山城 (34)
主郭手前の堀切跡。

古屋敷城山城 (39)
北側の山塊のロケーションはバッチリである。

このような山間部を本拠とする土豪とは、いったいどのような実態だったのであろうか。
彼らの生活基盤や収入、ふだんの暮らしはどうだったのか。意外と平地に暮らすよりもリッチだったのかもしれない。

古屋敷城山城 (11)
往時はこのように地肌の見える禿山仕様だったはずだ。

山間地の豪族の実態はまだまだ解明の余地がありそうですネ(笑)

≪古屋敷城山城≫ (ふるやしきじょうやまじょう) ※宮坂氏の仮の命名
標高:783m 比高:70m (古屋敷より) 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:長野市中条日下野古屋敷
攻城日:2015年4月12日
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:5分 (乗自合バス停より)
駐車場:道路脇に路駐
見どころ:段郭など
参考文献:「信濃の山城と館②更埴・長野編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版) 
注意事項:現在空き家になっているが、私有地に付き無断侵入禁止。
付近の城跡:柏鉢城、御旅屋、松原城、小虫倉山城など

古屋敷城山城 (73)
城域西側の中条日下野本郷付近から見た古屋敷城山城遠景。(ズーム5倍)











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Posted on 2015/08/06 Thu. 22:18 [edit]

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コメント

>あの山の向こうに何があろうと知らなくとも生きていけた時代があったのだ。

ロマンですね^^
国衆ファンなので山岳地帯の豪族とか、落ち武者伝説のある隠れ里とか好きです。
自分が港町育ちなので憧れてます^^
足弱な現代人ですから実際に体験するのは無理かも・・・ですけど(笑

>彼らの生活基盤や収入、ふだんの暮らしはどうだったのか

肥前の山内豪族たちの場合は、耕地開墾だけでは限界があるので狩猟の他に革製品の加工で現金収入を得ていました。
山伏の修験道で知られる山岳地帯だったので間道⇒街道があり、奥深い山間部にも関わらず人的交流は奈良の昔から盛んだったので、作った製品の販売ルートには困らなかったという背景があります。

こちらですと、中世からあって一番近いのは大町街道でしょうか?
と仮定していくと長野県道452号が動脈線になるから、
もし このルートが中世期からあったなら、パッと見が僻地(すいません><:)に見えて、実は戦の伝令とか情報が入るのは早かったと思います。

変な事言ってたらすいません。
こんな感じで街道を地図上で辿ってアレコレ地理史と絡めて調べるのが好きなんです^^
記事を地図と見比べつつ見て読んで楽しかったです^^
拍手☆

時乃★栞 #- | URL | 2015/08/09 21:11 * edit *

Re: 時乃★栞様へ

いつもコメントありがとうございますw

山間地の豪族というと、どうしても狭く痩せた開墾地での農業が中心みたいなプアなイメージを持ってしまうのですが、貴殿の仰せの通り「よろずや」稼業でかなりリッチだったんでしょうね。
現に中条村の隣の小川村を本拠地とした大日方一族は大町方面と善光寺平を繋ぐ街道の要衝を抑えていた豪族なので、信玄もかなり気を使って配下にしたような記録が残っているようです。本筋は戦国時代の終わりと共に帰農したのですが、僅かな禄を食む武士身分よりも「何でもありの農業+商業」を選び豪農となり明治に至っています。

何をもって「不便」と呼び何をもってすれば「便利」なのか。
もし彼らが今の時代の退化していく現代人をみれば「不便極まりない」と思うのでしょうネ・・(笑)

らんまる #- | URL | 2015/08/10 07:22 * edit *
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