らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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栗田氏館 (長野市戸隠二条)  

◆甲越紛争の本当の目的は宗教勢力の取り込みであった◆

昨年の夏も「鬼女紅葉伝説」で戸隠や鬼無里(きなさ)を彷徨ったが、いつも頭をよぎるのは「こんな辺境の地で戦乱?」

北信濃は甲越紛争で、いわゆる「川中島合戦」というものが五回繰り広げられたというのは周知の事実である。

しかし両軍が死力を尽くして戦った真の目的は、全国にも名の知れた信州の三大修験場(戸隠・飯綱・小菅)の修験者と信仰集団の囲い込みであった事を知る人は少ない。

特に北信濃の国人として勢力を拡大していた栗田氏が代々俗人別当を勤める戸隠山顕光寺と善光寺は、参詣者の絶えない人気を誇っていたので、彼らを取り込めれば実効支配の大義名分が得られるので、武田も上杉も必死だったと思われる。

栗田氏館(長野市戸隠) (1)戸隠地区の中世城郭の遺構としては福平城と共に唯一案内板のある堀之内城。

【立地】

二条集落の南端、諸沢の谷に面した台地の先端部に立地している。周囲を深い谷に囲まれ東側のみが地続きとなる要害の地である。戸隠の宝光社、中社にも近く、二条の尾上集落は別当の里坊屋敷があり、栗田氏の墓所がある。

栗田氏館見取図①
専勝寺の敷地も家臣団の屋敷地だったのであろうか。

【城主・城歴】

甲越合戦が勃発した天文二十二年(1553)、栗田氏は他の北信濃の豪族同様に上杉を頼ったが、第二次甲越合戦(1555)で里栗田の栗田鶴寿が武田方に寝返り旭山城に籠城。約200日間の対陣ののち今川義元の仲介により和議。これにより犀川以北を上杉領、以南が武田領となり信玄は善光寺平からの撤退を余儀なくされた。栗田鶴寿(里栗田)は善光寺から本尊(秘仏)や鐘を持ち出し甲斐に移り甲斐善光寺の建立とともに引き続き別当を勤めた。

この時の戸隠(山栗田)の動向は不明だが、里栗田とは別行動となり上杉方に留まっていたと思われる。

栗田氏館(長野市戸隠) (12)
鳥居の西側から見た居館跡。

弘治三年(1557)二月、和議を破った武田軍は上杉方の葛山城を急襲し落城させ、飯縄山の千日太夫を味方につけることに成功したが、戸隠山は従属を拒否。武田軍は戸隠攻めを行い、戸隠衆徒は謙信を頼って越後の石山(関山)に逃れた。
※飯縄大明神は善光寺と同様にこれ以降甲斐に移される。

永禄元年(1558)八月、武田軍の調略により戸隠山は武田に寝返り信玄の戦勝祈願状を奉納する。これを知った謙信は翌年四月に報復措置として戸隠山に攻め入り、戸隠衆徒は小川・鬼無里に逃れるが九月に武田軍が奪還し帰山する。

栗田氏館(長野市戸隠) (2)この説明板で山栗田氏の経歴を理解するのは不可能だ・・・。

永禄七年(1564)八月、第五次甲越合戦(塩崎の対陣)が始まり、謙信の報復を恐れた戸隠衆徒は、武田の配下である大日方氏の小川筏ヶ峰に三院を移し30年間の疎開信仰を余儀なくされる。

天正十年(1582)に武田氏が滅亡し織田信長が本能寺の変で倒れ、天正壬午の乱が勃発すると北信濃の川中島四郡は上杉景勝の支配下となる。この時の小川に疎開していた戸隠衆徒の記録は無いが、大日方氏が上杉氏の配下となったので戸隠山の別当は上杉氏の元に出仕した可能性が高い。

栗田氏館(長野市戸隠) (3)
郭2。

文禄元年(1592)、朝鮮出兵を命じられた上杉景勝は、春日山城に滞在していた戸隠山別当の賢栄に戸隠大権現へ戦勝祈願を奉納させる。
十月に無事帰国した景勝は戸隠山の再興を部下に命じ文禄三年(1594)九月に竣工。小川筏ヶ峰の衆徒も帰山した。

慶長三年(1598)、上杉景勝が会津へ転封されるのに伴い里栗田は景勝に従ったが、山栗田の栗田寛祐は戸隠に残り、二百石で日之御子社の神官として奉仕。

栗田氏館(長野市戸隠) (9)
郭1も広大な水田として耕作地になっている。

慶長十六年(1612)、徳川家康が戸隠神領として千石を寄進。同時に幕府により「戸隠山法度」を賜る。翌年戸隠山顕光寺は天台宗の末寺としての位置づけとなり、その後修験道から寺院へ改められる。

明暦四年(1658)、栗田氏が二条に移住し達書場(たっしがきば)となり戸隠神領の行政司法の中心となった。

栗田氏館(長野市戸隠) (8)
本郭の北側になる天神社。毎年秋祭りで獅子舞が奉納されるという。建物の北側に堀跡が確認出来る。

これだけ一生懸命調べたのに、二条の栗田氏館は明暦四年(1658)の竣工で戦乱の終結後の館城なのである・・(笑)


【城跡】

まあ、そうは云っても地元では城之内城と呼ばれ、戸隠山神領の神官として200石の扶持を与えられ行政のボスを任された栗田氏の居館なので、それなりの構えがあったと思われる。

栗田氏館2 (3)
南側の空堀跡。

南西に突き出た台地を利用して北東に堀切を穿った単純な構造であるが、戦乱の収まった戸隠地区の行政の拠点としては充分であろう。鳥居の西側には池があったようだが、現在は埋め立てられている。

栗田氏館2 (10)
天神社の東側の崖には堀切が残っているので、図のように中央を区切っていたのかもしれない。

栗田氏館2 (1)
専勝寺。ここも屋敷地だったと思われる。

≪栗田氏館≫ (くりたしやかた 城之内城) 

標高:897m 比高:-m 
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:長野市戸隠二条
攻城日:2015年6月7日、2015年8月29日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:5分
駐車場:邪魔にならないように路駐。
見どころ:郭、堀切跡
参考文献・書籍:「信濃の山城と館 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:住宅地なのでプライバシーに注意、写真撮影にも注意
付近の城跡:栗田山城、古城など
Special Thanks:ていぴす殿

栗田氏館2 (6)
絶えることなく秋祭りが続く事を願って止まない。



















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Posted on 2015/09/17 Thu. 23:28 [edit]

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コメント

天空の水田

天空の城ってのはありますが、ここは天空の水田。
谷を見下ろす水田なんて、そんじょそこらにないでしょう。
でも、ここはかなり古い城かと思いましたが、何と近世城郭なんですね。
栗ちゃん、戦国の世をあちこち泳ぎまくり家を繋いできた能力は凄いです。
これは運もあるでしょうが、何と言われても優れた一族です。

あおれんじゃあ #- | URL | 2015/09/19 16:31 * edit *

Re: あおれんじゃあ様へ

師匠、毎度ありがとうございますw

山は山で武田に降った後も上杉と関係を持ち続けながら小川村に疎開し苦難の信仰生活。
里は里で信濃先方衆として武田軍の先鋒を努め転戦。高天神城の落城の際に壮絶な討死を遂げた栗田刑部が里栗田だったと知る人は少ない・・・・(汗)
里栗田の「その後」は結構波乱万丈なので、いずれ栗田城のページで・・(笑)

らんまる #- | URL | 2015/09/20 09:24 * edit *
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