らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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黒川城 (北安曇郡小谷村黒川)  

◆熾烈を極める「景勝VS貞慶」の攻防「小谷編」の舞台となった山城◆

安曇地方の山城の記事は1年ぶりとなる。

三日市場城の破壊について白馬村を追及し、事案が解決に向かう矢先の11月22日に神城断層地震が起き城域周辺は壊滅的な打撃を受けてしまったのだ。
原状回復にはまだまだ遠い状況だというが、一日も早い復興を願っております。

今回ご紹介するのは、平倉城の廃城後に信越国境に位置する小谷地方の拠点となった黒川城。

黒川館(小谷村) (1)
千国駅から見た黒川館と背後の黒川城(2013年9月撮影)

【立地】

姫川の右岸、黒川集落の北東1kmの姫川と横根沢との間の山上に黒川城がある。東西の斜面は急で要害の地である。登路は東の山蔭にある猿倉沢の真木の集落に向かう山道があり、尾根を登り切った切り通しの所が四ツ辻と言われる場所である。その少し手前に水場がある。四ツ辻より真木への道から分かれて、尾根通しに400mの山が黒川城跡になる。

IMG_1944.jpg
半自給自足で有名となった真木集落に向かう道の標識に従い山道を登る。

IMG_1946.jpg
登り始めてしばらくすると見える黒川城。気が遠くなる・・・(笑)

この山は千国街道の姫川左岸でなく街道から離れた比高360mもある高山に占地したのは、ここから姫川の谷筋の眺望にある。この山からは近在の城砦の多くは視界に入るが、何よりも大事に思われるのは、北方4.5km先の平倉城を直視出来る位置にあることである。またその手前に聳え立つ舘山も望見でき、西南の千国地区や千国街道を遠くまで視野に入れられることであり、この谷中の重要な展望台を担っている点にある。

IMG_1949.jpg
こんな書き方すると極悪非道の「ウォンテッド(おたずねもの)」だよネ・・(汗)

黒川城(小谷村) (1)
真木集落へ向かうこの道の脇に佇む地蔵さま。

黒川城(小谷村) (3)
登り始めて約40分で四ツ辻の交差。いわゆる「乗り越し」である。ここから左の尾根に入り黒川城へ向かう。

【城主・城歴】

「小谷村誌」では黒川館と黒川城はいわゆる城館一体型の史跡として認識しているので、築城時期も使われた年代もほぼ同じと推定している。
なので、本篇も依然の記事を抜粋し引用させていただくがご了承いただきたい。

黒川城(小谷村) (95)
四ツ辻から見た真木集落。山の向こうは鬼無里である。

黒川城縄張図 001
独立峰に築かれた円郭+放射状竪堀の縄張り。戦国末期まで改修が続けられたと思われる。

●小谷の千国氏の出自

千国氏は仁科一族の堀金氏(ほりがねし 現在の安曇野市堀金)の出自だという。

室町時代の安曇地方は、南を小笠原氏・北は仁科氏という二大勢力が領有し西牧氏と細萱氏はその間にあった。
当初は穂高川が境界線だったようだが、仁科氏の南進は続き古厩(小岩嶽・穂高有明)を制し、更に烏川を越え堀金の地に及ぶ。

仁科宗家は一族に古厩氏を名乗らせ、堀金氏も古厩氏の同族というのが定説である。

堀金氏の初見は天文二十年(1551)で「高白斉記」の十月二十日の条に「(晴信)深志へ御着城、二十二日ホリカ子出仕」とある。

この三日後に反武田勢力の拠点だった平瀬城は武田軍の猛攻により落城、二十七日には小岩嶽城は放火されている。(小岩嶽城は翌年八月には晴信が自ら出陣し落城させられた)

既に仁科宗家は前年の天文十九年(1550)七月に武田晴信に出仕していたが、堀金氏は最後まで武田に降るか迷っていたようである。

黒川城(小谷村) (93)
城域に入る手前の尾根の東の沢に巨大な天水溜がある。城の水の手であろう。

小岩嶽城の陥落により安曇郡は武田氏の支配下となったが、小谷の仁科氏の支族飯森十郎春盛は越後の長尾氏に通じて武田晴信への徹底抗戦を続けていた。

弘治三年(1557)七月、武田晴信は平倉城(小谷城)に籠る飯森十郎春盛を攻め滅ぼし、堀金氏もこの戦に出陣したようで、慶長十六年(1611)書留の千国文書によれば、
「此丹波(堀金氏三代目の兄)武田信玄(晴信)随申(身)、千国之平平倉責之節軍功ニ依て千国六ヵ村を被出置、則千国名字ニ信玄より被仰付、堀金職を捨、千国名字ニ成ル」とされている。

※小谷は来馬・石坂・千国・中谷・土谷・大網・深原の七ヵ村で、飯森氏の支配下にあったわけであるが、これに代わって堀金氏がこの支配を命じられたようである。しかし千国文書にみえる「千国五ヵ村の地頭」の五ヵ村がどこを指しているか明白でない。山口裕氏所蔵文書の「堀金氏之事」によると、千国丹波は千国黒川で病死していることからして千国枝郷の黒川城主であったようである。

以上「堀金村誌 上巻(自然歴史編)平成三年三月刊行」より引用。

黒川城(小谷村) (91)
分岐点の四ツ辻から10分ほど尾根を歩くと黒川城の城域となる。

武田統治時代の安曇野地方は、当初仁科一族の間接支配という形をとってきたが、北信濃を巡る上杉との緊張が高まると信玄は後顧の憂いを断つ結論を出した。

信越国境の安曇野を固める為に仁科宗家を滅ぼし、自分の子の五郎に仁科宗家を継がせて仁科五郎盛信と名乗らせたのである。

黒川城(小谷村) (89)
最初に現れる堀切㋐。ここから城域が始まる。

黒川城(小谷村) (85)
かなり埋没している堀切㋑。

黒川城(小谷村) (83)
堀切㋒までの尾根筋には六段程度の段郭を設けて侵入を困難にしている。

盛信はそれまでの安曇野地方における仁科支配体制を継続し優れた手腕を発揮し、信玄亡き後は兄の勝頼を補佐して信越国境を抑えた。

仁科盛信が仁科領国を統治していたのは10年間だが、千国氏も盛信の配下として小谷十人衆と共に小谷の地を治めたものと思われる。

黒川城(小谷村) (80)
城域の中枢部への侵入を遮断する堀切㋒(北側より見下ろす)。土橋は後世の造作だろう。土橋なんか渡したら堀切の意味が無い。

黒川城(小谷村) (15)
北側に対して横堀となる堀切㋒。傾斜の緩い東斜面に対する備えであろう。

黒川城(小谷村) (23)
南西の斜面に対しては竪堀となる堀切㋒。

黒川城(小谷村) (22)
堀切㋒を調査する「ていぴす殿」。この方、堀が続く限り終点まで調査するのである・・・(汗)

【天正壬午の乱における小谷の争奪戦】

武田氏滅亡後の天正十年(1582)三月、織田信長は武田に反して織田軍に味方した木曾義昌に安曇・筑摩の両郡を与える。義昌は直ちに仁科一族や在地土豪の家臣化に着手した。

一方、上杉景勝は信越国境の根知城に西片次郎右衛門房家を入城させ、小谷から仁科方面への通路を閉鎖し兵士を送り込んだ。

六月二日の本能寺の変で信長が横死し信濃から織田方の武将が撤収すると、上杉軍は直ちに小谷から安曇野方面へ侵入し在地土豪より人質を取り制圧。
さらに小笠原貞慶の叔父である貞種を擁して木曾義昌の深志城を攻めてこれを駆逐し、七月五日には入城に成功する。

黒川城(小谷村) (25)
主郭の一段下の帯郭。しっかり削平されている。

黒川城(小谷村) (30)
輪郭の帯郭に放射状の竪堀。ここら辺の仕様は三日市場城に類似している。

これに対して小笠原貞慶は徳川家康の支援を得て旧領の旧家臣団を募り、七月十六日には貞種を追い出し深志城の奪取に成功した。

上杉氏は小谷・白馬方面を抑えていたが、貞慶が安曇野における仁科一族の大半を味方に引き入れ、八月には上杉方となった日岐城を攻め落とし犀川を北上。麻績・会田を席捲すると同時に大町以北も支配下として小谷で上杉軍と対峙する。

黒川城(小谷村) (36)
主郭下の「帯郭+放射状」が北斜面に入ると「横堀+畝状竪堀」に変化するのは戦国末期まで改修された証だ。

黒川城(小谷村) (38)
横堀㋓、竪堀、土塁の交差する北側斜面。かなり厳重に防御を敷いている。

黒川城(小谷村) (47)
堀切㋔

黒川城(小谷村) (58)
郭2は中途半端な削平で終わっている。

天正十年十一月二日付けの「上杉景勝感状」(中土小谷温泉 山田寛氏蔵)によれば、上杉方では西片房家の配下にあった大所豊後守をはじめとする小谷衆が、この頃小笠原方の支配下にあった千国城を攻略し、付近一帯を焼き払っている。
※この千国城は「千国の城」とのみ書き記されているので黒川城を指すのか不明である。

黒川城(小谷村) (52)
堀切㋔の北側の不完全な郭。恐らく拡張して郭3とするつもりだったようだ。

これに対して小笠原貞慶も千国の地の確保に努め、翌天正十一年(1583)三月三日付けの「小笠原貞慶黒印状」(三郷村 千国靖夫氏蔵)によれば、貞慶はそれまで千国丹波守が握っていたと見られる千国の跡職(支配権)を善左衛門以下十人の「千国奉公衆」に宛行い、槍と鉄砲を十丁ずつ確保して小谷筋の警戒をするように命じている。

黒川城(小谷村) (59)
藪に覆われた北側斜面。もはや何が何だか・・・の世界である。

小谷地方における小笠原VS上杉の仁義なき戦いは麻績城、千見城を巡る攻防戦同様に一進一退が続き、最終的に小笠原の支配権が確定するのは秀吉の裁定が下りる天正十四年(1586)である。

黒川城(小谷村) (64)
主郭。藪の酷さは閉口もので、朽ち果て倒れていた表札を復旧してみる。

【城跡】

円郭方式に横堀と放射状の竪堀を組み合わせた城で、甲越紛争時~武田統治時代~戦国末期まで改修が続けられた城跡であることは城のパーツを見れば一目瞭然である。

残念ながら細部は藪に阻まれて充分な観察が出来ないが、小谷村の城砦群の中では平倉城と並び堅固な山城で、この地方を代表している。

現在の最終形は千国氏が単独で出来る土木工事量ではなく、大勢力による普請であろう。

黒川城(小谷村) (74)
常緑樹系の藪に覆われた主郭。

黒川城(小谷村) (72)
北国の城には何故椿が多いのだろうか?


黒川城(小谷村) (75)
斃れていた標柱に黒川城址の看板。村指定史跡ならもっとキチンと対処していただきたい。

黒川城(小谷村) (78)
南斜面の竪堀。

冬季間の12月~3月までは、小谷村や飯山地方を含む北信濃の山城は豪雪により閉ざされる。
兵士の束の間の休息期間だったのだろうか。
冬将軍の前には横堀も石積みも長大な竪堀も土塁も無力に等しい。

黒川城(小谷村) (77)
主郭南の帯郭。

≪黒川城≫ (くろかわじょう 黒川山城)

標高:953m 比高:360m(黒川集落より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:北安曇郡小谷村黒川
攻城日:2015年5月2日 
お勧め度:★★★★☆  
城跡までの所要時間:50分 駐車場:南小谷駅から南の月岡へ上り真木集落登り口の右側に空き地あり。
見どころ:畝状竪堀、横堀、土塁、天水溜など
注意事項:特に無いが、藪漕ぎ必死。
参考文献:堀金村誌、小谷村誌
付近の城址:黒川館、千国城、立屋の城峯砦など
Special Thanks:ていぴす様

黒川城遠景②
糸魚川街道(国道148号線)の中小谷付近から見た黒川城。



黒川城(小谷村) (100)
現在の城跡からの眺望は無いが、往時は立山、平倉城も監視できる位置にあったと推定される。(国道148号線より)













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Posted on 2015/11/18 Wed. 22:41 [edit]

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コメント

らんまるさまへ

相変わらず、何と重厚な内容でしょうか。
ぜひとも、書籍化していただきたいですねi-179

城と古戦場管理人 #iXQNhkLY | URL | 2015/11/19 21:39 * edit *

Re: 城と古戦場管理人様へ

いえいえ、そこらへんの能無し(失礼?)学生と同じでコピペの贋作ですよ・・(笑)
昔の記事を読むと、写真は薄っぺらなのに城歴や背景はキチンと調べてたんだなあーと我ながら感心しています。
それが今じゃ「面倒くさっ!」

小生の探訪記が書籍になるなんて真面目に城郭を調査されている方から見れば「青天の霹靂」でしょう・・・(爆)

らんまる #- | URL | 2015/11/19 22:14 * edit *

よくぞ行ってくれました。そして、よくぞ様子を紹介くださいました。
北へ放つ放射状竪堀は武田の、南に構える堀ウは上杉の改修と読めるでしょうか。
夏に黒川館を訪れ、黒川城、見上げてきました。らんまるさんの記事で満足すればいいものを、ぜひ行ってみたい欲求が湧いてきます。しかし、お腹満たそうとしているクーさんにお会いしたくはないです…。

えいき #- | URL | 2015/11/19 22:27 * edit *

らんまるさまへ

大変御無沙汰しております。

いつも楽しみに拝見させていただいております。
黒川城、攻め甲斐がありそうですね!
信濃の山城が私を呼んでいるので、今月末~来月初旬あたりに小谷村遠征を計画中です(^^ゞ
いろいろと参考になる情報があって助かります。






信玄を捜す旅管理人 Shige #- | URL | 2015/11/19 22:41 * edit *

Re: えいき様へ

ここの城は「武蔵の五遁」さんの記事を見てからどうしても行きたくて、藪の少ない時期に決行しました。雪国の山城はご存知の通りタイミングが難しくて、藪が少ないといっても常緑樹の「椿咲く春」満開でしたが・・(笑)

北側の斜面は椿を中心とした灌木に覆われてしまい、全体像がなかなか掴めない歯痒さがありましたが、それぞれのパーツは素晴らしいもので、麻績、千見と共に景勝VS貞慶が争奪戦を繰り広げ、両者が手を入れて武装強化した跡が伺えます。
GWあたりならクーさんも北上して不在かもしれません。四ツ辻までは歩道がしっかりあるので迷わず行けます。ぜひご鑑賞を。

らんまる #- | URL | 2015/11/20 07:17 * edit *

Re: 信玄を捜す管理人 Shige様へ

コメントありがとうございます。お元気でお過ごしでしょうか。

まだまだ経験の浅い小生のヘタクソな記事と写真では、ベテランの皆様の感性を揺すぶる事は出来ませんが「行ってみようか・・」という動機につながればシメシメでございますw

小谷、白馬は国境に近いためか見どころのある個性的な山城が多くてワクワクします。その反面、藪漕ぎ必死系が多く簡単には見学させていただけない山城も多く難儀します(汗)
近々に記事を書く予定の千束城(せんぞくじょう)と千束城の南東尾根砦は、椿が恐ろしい勢いで密生して立ち往生を繰り返しくじけそうでした・・椿のジャングルで格闘している人間を見たらクーさんも大笑いでしょうネ(笑)

年内はスケジュールが厳しいので、来春あたりで信濃にお出かけの際は是非お声がけくださいませ。

らんまる #- | URL | 2015/11/20 07:36 * edit *

いいんですけどね

お疲れさまです。
黒川城、遺構は素晴らしいんですけどね~。
あの椿どうにかならないのかな。。。
って小谷の城はいつも思います。
全く木のない状態見てみたいものです。
写真すら儘ならない、あの状態で縄張り図
を書く宮坂氏はやはり神デスヨネ。

ていぴす #- | URL | 2015/11/21 02:40 * edit *

Re: ていぴす様へ

ホントに椿の群生は夏場の藪よりたちが悪い・・・(笑)
宮坂センセはあの藪の中で千里眼をお持ちのようでして、我々のようなトーシロにはわからないのでしょう(汗)

それにしても千束城⇒中ドヤへの行軍は悲惨でしたね。白馬の飯田城、栄村の城坂城を上回る歴代1位。
そこを記事にしようと思っておりますが、写真も酷くてどうしたものか・・・(笑)

らんまる #- | URL | 2015/11/21 07:13 * edit *

こんばんは~いつも丁寧な解説ありがとうございます^^

>土橋なんか渡したら堀切の意味が無い

ですよね。
橋を架けるなら、少なくとも慶長年間以降~一城令が出る前くらいになるでしょうか?
もっとも本格的な橋ではなく、土木工事の足場に使うような「渡り」くらいのものを綱で組んだ程度でしょうけど。

こう真ん丸だと死角がなくて攻めづらいですね。
力攻めして足止めくらうより、スルーして周囲の城から落として孤城にさせた方が早いかな?

目の前の藪はカオスですが、らんまる先生の説明でワクワクしちゃって、つい楽しく妄想してしまいました^^
拍手☆

時乃★栞 #- | URL | 2015/11/22 18:59 * edit *

Re: 時乃★栞様へ

いつもコメントありがとうございますw
南信濃へ遠征していたものですから、返事が遅くなって申し訳ありません・・。

このあたりでは独立峰は上杉系に多く俗に雄の城といわれ、尾根筋を利用した山城は雌の城という区分もあります。
独立峰系は攻城兵に周囲を囲まれてしまえば逃げ場がないので、後詰めが無ければ玉砕必死の働きしかありません。まさに上杉軍団の宿命です。でも親分、義に厚くても口約束ばかりで後詰めしない場合が多く落城した城は数知れず・・・(笑)

冬の山城って往時はどんな状況だったのでしょうか。
積雪2mもあれば城にも辿り着けません・・(汗)

らんまる #- | URL | 2015/11/24 07:30 * edit *
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