らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0130

信玄塚 (下伊那郡根羽村横旗)  

◆武田信玄の終焉地はここだったのか?◆

某国営放送局より受信料のリベンジを行うべく大河ドラマの真田丸を「BSプレミアム」(18:00~」)⇒「総合テレビ」(20:00~)と連続して観て、挙句の果てに録画までしている念の入れようである・・・(笑)

「小生は真田丸ブームになど惑わされない・・・」といいつつ草刈安房守昌幸よろしく表裏比興だったりする・・(汗)

さて、残念ながら第二話では、世間から絶大な支持を得た平岳大勝頼は自刃して武田家は滅亡し、小山田温水信茂は主家を裏切る不忠を詰られて織田玉置信忠により誅せられた。

岩殿城①
小山田信茂が城代だった岩殿城全景。単体の山城としては険しい立地にあるが、縄張は単純で後詰めが無ければ長期の籠城など無理である。

土壇場で勝頼を裏切った小山田温水信茂の評価は最悪だが、敢えて弁護させていただくと、長篠の戦いでは武田軍最大の三千の兵を投入しほとんどが討ち死するという損害を被っている。この時、御一門衆の穴山榎木梅雪は戦いにロクに参加せず真っ先に戦線離脱し武田軍総崩れの元凶となったので、勝頼が心情的に小山田を庇っているのは理解できるのである。

まあ、真田丸のよもやま話は都度挟んでいきたいと思うが、今回ご案内するのは信玄終焉の地と比定されている「信玄塚」。

ここは以前のブログで「武田信玄終焉地考」という書籍をご紹介した時に触れているが、今回ようやく現地を訪問することが出来た。

IMG_4141.jpg

【場所】

長野県の南西端となる下伊那郡根羽村横旗(よこはた)の国道153号線の道路沿い西上の山の中腹に八幡社と共に供養塔(宝篋印塔)が祀られている。根羽村の中心部と平谷村との境の赤坂峠との中間地点で、周囲を山に囲まれた谷間の傾斜地で民家が点在する淋しい場所。バイパス開通後は注意しないとうっかり通り過ぎてしまうので注意。

根羽村周辺図 001

【根羽村の宝篋印塔】

ここに高さ1.9mの花崗岩で造られた宝篋印塔(墓石・供養塔)があり、地元の人は「信玄の五輪」と呼んでいる。元々は現在地から東へ数十メートル先の国道下にあったようで、その場所が信玄塚と呼ばれ、クマサキの大木が生い茂り武田一族の名の刻まれた石塔群とともに道を挟んで十王堂が淋しく立っていたという。
国道拡幅のバイパス工事に伴い、信玄塚のあった場所は壊され地中深く眠り石塔群と十王堂は国道下の別の場所に移された。(今回は時間の都合で現地確認していない)

IMG_4138.jpg
かつて信玄塚のあった場所は国道の下に眠っているらしい。

元亀三年(1573)西上作戦で大軍を率いて三河に侵攻した信玄は、長篠で越年して正月より野田城攻めを行うが、陣中で病を発症し病状回復せず甲州へ帰還する三州街道の途中の旧暦4月12日に卒去。享年53歳。

信玄終焉の地は三州街道のどこなのかはっきりしたことは分からないのだが、定説として認められているのは「駒場(こまんば)であろう」という事らしい。

が、駒場には信玄卒去に関連したものが何もないのである。
※遺品の兜の前立二種と火葬場の伝承はあるが古文書は残っていない。

信玄塚 (7)
バイパスを西に曲がれば信玄塚である。

「武田信玄終焉地考」を書いた一之瀬義法氏が根羽村説に拘ったのは、城主大名級の供養塔(宝篋印塔)が何故根羽村に建立されここに設置されたのか?という素朴な疑問だったと後述しています。

信玄の終焉地としては、

①駒場説                「当代記」「御宿監物の長状」

②浪合あるいは浪合・平谷説   「徳川実紀」「三河物語」「三河風土記茎葉集」

③根羽説               「甲陽軍艦」「熊谷家伝記」

④田口説               「野田城記」「野田実録」等

四か所が候補として挙げられているものの、③根羽の宝篋印塔(供養塔)を覗いて何もそれを示すものは残っていない。(田口に小さな五輪塔が一つあるという)

なるほど考えてみれば根羽村の土地の人々何もない横旗にお金を出して立派な記念塔を立てる理由はないし、戦国時代の有力大名の出身地でもないのだ。

偉大な信玄公の終焉地(亡くなった場所)として武田家の旧臣やゆかりの者がお金を出し合い供養塔を建てたというのが真実のようで、現に一之瀬氏の調査では古老の話として浪合村の高坂氏が信玄の命日である四月十二日に「信玄公を祀るように」と毎年酒や物を村人に贈って依頼していたという。

信玄塚 (9)
石段を登った先にある八幡社の社務所。

現在の信玄塚には昭和56年の説明版と平成6年の説明版の2枚がある。恐らく国道のバイパス工事に前後した為であろう。
小生が色々申すよりも説明版の文言をお読みいただき、考えていただくのが得策かもしれない・・・(笑)

信玄塚 (11)

信玄塚 (13)
六尺五寸の宝篋印塔と他の二神の祀られている八幡社。

信玄塚 (12)
平成6年の説明版。

IMG_4142.jpg
花崗岩で出来たかなり立派な宝篋印塔が鎮座している。

信玄がご臨終した場所を特定することで、歴史学が変わる事は恐らくないだろう。

それでも、戦国最強の武将だった武田信玄が西上の夢を果たすことが出来ずに息を引き取った場所がここかもしれない・・と言われれば、その無念さが胸に去来するのである。

信玄塚 (14)

「巨星墜つ」

新田次郎原作の「武田信玄 山の巻」の目次にあるこの見出しは「焼き印」の如く頭を離れなかったが、信玄塚に立つと不思議に心の「つかえ」が取れた気がした。

信玄塚 (6)
信玄塚のある国道153号線のバイパスの壁画。なかなかの力作である。

信玄の西上作戦の目的は「京都へ上る事」ではなく「徳川・織田領への侵攻作戦」という考え方もあるようだが、自分の寿命を知っていた信玄は京都に是が非でも行くつもりだったと小生は考えているが、どうであろうか・・。

≪信玄塚≫ (しんげんづか)

標高:810m 比高:10m
造営年代:不明
造営者:不明
場所:下伊那郡根羽村横旗
攻城日:2015年11月23日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:バイパス脇に駐車場有り 
見どころ:宝篋印塔
注意事項:特になし
参考文献:「武田信玄終焉地考」(一之瀬義法著、1987年教育書籍)
付近の城址:根羽砦、根羽城ヶ峯、根羽女城、滝之沢城など
Special Thanks to ていぴす殿、u-naomochi殿

信玄塚 (2)
甲府への帰還途中の篭の中で、遠のく意識と闘いながら信玄は最後に何を思ったのだろうか・・・。










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Posted on 2016/01/30 Sat. 22:12 [edit]

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コメント

しんげん

信州人なので遺伝的に信玄は嫌いですが、それでも日本史の上での英雄の一人。
一応、リスペクトはします。
その最期の地が曖昧というのも不思議なことですが、それも軍事機密だったせいもあるのでしょうか。
この辺鄙で寂しそうな谷あいで、武田の重臣は途方に暮れたんでしょうねえ。
鈍よりとした空がそれを表してしるような気がします。

あおれんじゃあ #- | URL | 2016/01/30 23:47 * edit *

Re: あおれんじゃあ様へ

勝頼は長篠・設楽原の合戦で敗れると、杣路峠を越えて根羽村経由で伊那谷方面へ退却しました。
つまり、信玄の没した場所を三年後に敗軍の将として通らせるとは神様も凄い演出をしたものです。

本当に田舎道で何もないところです。ここも長野県だなんて遠すぎます。
そんな信濃の国を地道に各個撃破して侵略した信玄、遠征中に亡くなるというのも劇的でしたネ。

らんまる #- | URL | 2016/01/31 09:23 * edit *

本当に真田丸の勝頼公は素晴らしかったです。
本当は夫人も出して欲しかったけれど、最期が悲劇すぎてゴールデンタイム向きじゃないかもと思い直しました。

信玄公の没地に4候補もあるとは知らなかったです。
偉大な軍事機密ゆえですね。

信玄公の死は単に東国~関東にとどまらず、日本全体の戦国初期から中期への分岐点だと感じてます。
巨星に合唱。

時乃★栞 #- | URL | 2016/01/31 12:42 * edit *

Re: 時乃★栞様へ

名誉回復を目指して「武田勝頼」でドラマ化するのもありでしょうネ。まだまだ評価は低いかと。

信玄が何処で遺言をして何処で息絶えたのか、今まで誰も取り組まなかったテーマに挑んだ一之瀬義法氏の執念には脱帽です。亡くなった信玄も三年後に敗軍の将として勝頼が自分の終焉の地を通るとはまさか思わなかったでしょう。
仰せの通り「巨星墜つ」の衝撃は戦国期のターニングポイントとなりました。

らんまる #- | URL | 2016/01/31 13:26 * edit *

行かれたんですね、信玄塚!
「武田信玄終焉地考」 こちらの記事で読んで、早速借りて読んだんですよ。
『信玄塚のあった場所は壊され地中深く眠り』
これ、残念ですね。
仕方ないことではありますけど。
それにしても、信玄ほどの人が亡くなった場所がハッキリしないって、よほどの箝口令がしかれたんでしょうね。

真田丸、私も楽しみに観ています。
いつの日にか、大河で 「武田勝頼」 がとり上げられると良いなぁ。

万見仙千代 #YR4Ixzf2 | URL | 2016/02/01 21:08 * edit *

思い出します・・・

13年前に私が訪れた時とあまり変わっていないようで。
すごく懐かしく感じました。

当時の私はまだ、茅野市在住の立派な社会人として働いていました(笑)
生活がまったく変わってしまった現在、信玄塚に立っていた当時の自分に思いを馳せると、万感胸に迫るものがあります・・・
嬉しいレポートありがとうございました。

Shige #fonpFmVM | URL | 2016/02/02 01:50 * edit *

Re: 万見仙千代様へ

今回の下伊那ツアーの目的は、前年に土砂崩れで辿り着けなかった「犬坊狂乱」の舞台だった権現城とこの信玄塚でした。
西上作戦の途中で終焉を迎えるとは信玄の無念さはいかほどだったのでしょうか。それにもまして家臣団の落胆は察して余りあるものだったと思われます。
それでも遠征の途中で亡くなるとは信玄らしい最期なのかもしれませんね。

武田勝頼の名誉回復は重要なテーマです。これを機会に各方面で見直し機運が盛り上がるといいのですが・・・。

らんまる #- | URL | 2016/02/02 07:22 * edit *

Re: Shige様へ

そうでしたか、貴殿のメモリースポットだったんですね。
志を立てた立派な社会人が夢を実現させる・・なかなか出来そうで出来ず貴殿のように強い意志が持てずに小生は後悔ばかり・・(笑)

白馬・小谷の追加レポート楽しく拝見しております。既に踏査した場所は「ああ、そういう見方もあるのか」と思い、まだ未踏査の場所は雪解けを待って訪ねてみようか、などと思うております。腰を据えて集中して各個撃破すればよいものを、あちらこちらと食い散らかして効率の悪い城めぐりに終始しております(汗)
それにしても根羽村は遠かった・・・長野県とは思えなかった・・(笑)

らんまる #- | URL | 2016/02/02 07:51 * edit *

ほぼ愛知

こんばんは、らんまるせんせ。
あらぁ。ほぼ愛知ですね。名古屋にいた頃走り回ったけれど、全く存じませず。惜しいことしました。せんせのテリトリーからはかなり遠かったのでは?
武田信玄は知ってるけど、遠いとこの人、のイメージが強いです。
ここまで来たのに、さぞ悔しかっただろうなぁ。信玄。
真田丸、何度も繰り返し見てます。予備知識ゼロなので、何度見ても新しい発見ばかりで楽しいです。
すっかり小山田ポプリのとりこでございます。

つねまる #pjmS0te2 | URL | 2016/02/02 21:27 * edit *

Re: つねまる様へ

地図もナビもコンパスすらない時代に、甲斐からどうやって伊那谷に向かい、その先の三河まで行けたのでしょうか。
まあ、道案内は部下の責任ですから総大将は篭に揺られて景色を堪能していればいいのでしょうネ・・(笑)

室賀西村正武と草刈安房守昌幸は武田配下の時から犬猿の仲。正武の弟は屋代秀正で、天正壬午の乱では上杉景勝にいち早く服従しその信任厚く海津城の副将にまで昇り詰めるも、徳川方の昌幸の処遇との格差に嫉妬し家康と内通して反旗を翻しました。その時の景勝の動揺は凄まじく「逆臣の屋代なる賊を成敗せよ」とまで言わせしめた。
ドラマではどこまで描かれるかわかりませんが、上田城は上杉との抗争に備えた境目の城として徳川軍が築き昌幸が家康に貰い受けています。その後、沼田城の北条氏への引き渡しを拒否した真田昌幸が徳川家康と手切れになると、家康は昌幸謀殺を室賀正武に命じるが、正武の家臣が既に真田に内通していた為、正武は昌幸に誅殺され室賀宗家は滅びます。

僅か1日でお役御免となった吉田鋼太郎信長の死後、上方の騒乱ばかりが後世に伝えられていますが、武田遺領を巡る上杉・北条・徳川の争奪戦は熾烈を極めました。
内野聖陽家康・・・色々な俳優が演じた家康像に一石を投じる素晴らしい演技だと思っていますw

らんまる #- | URL | 2016/02/02 22:21 * edit *
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