らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0508

小境城 (飯山市豊田)  

◆その規模に不釣り合いな長大な竪堀と、五連続の鋭い堀切で守られた城館一体型の要塞◆

そういう見出しを付けると、「今さら葬り去られた城館一体型の山城の定義を持ち出すか??」と笑う方もおられるであろう。
「平時は麓の居館で政務を執り、戦時は背後の山城に詰めて籠城」・・一時期スタンダードとなった説だが、近年否定される事が多い。

確かに全国的には例が少ないとしても、信濃ではセットで考えないとつじつまが合わない。あのような険しい山の上に居住空間や生活空間を持つのは無理な話で、「お山の大将」は猿だけで充分であろう・・(笑)

今回ご案内するのは、合理的な城館一体型の山城を体現した小境城。実態は恐ろしき要塞であった・・・。

109.jpg
「長野県町村誌」に掲載されている小境城の略図。特徴を集約していてなかなかの秀作である。


【立地】

戸狩スキー場の中に位置する北条城の西側に位置していて、似たような山が続くので中々見つけにくい山城である。県道411号線の平丸峠の東側を押さえており、登り口は弥勒寺から左手の沢筋を登る。途中、権現清水(ごんげんしみず)と呼ばれる湧水の水場を通過すると右手に巨大な竪堀㋙が出現する。ここから東側が城域となる。

小境城 (8)
権現清水と呼ばれる城の水の手。祠の脇から豊富な湧水が流れ出ている。

小境城 (11)
権現清水。奥まった西の沢筋にも川が流れており、水の手の確保には問題なかったようである。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」には「小境城址」として以下の記述がある。

「村の中央より西方鷹落山の支峯、今は草山なり。上る高凡九十間、麓は東南西に耕地を囲みし、頂上に二段の平地あり、各東西廿間、南北は共に廿六間、北隅に一塚を遺す。後ろに五重の堀切あり、其一、其四、最深し。西下に二重の空堀を穿ち、無比の要害を構えしものならん。又御屋敷と称して、東下に一反歩餘の平地西隅に出水あり。城主西堀刑部少輔重次(尾崎重廣の二男なり)築城して之に居る。其年代不詳。其後、天正年間上杉氏に属し、外様衆十人に列り、慶長三年戌戊三月、上杉景勝に従ひ、陸奥国會津に移り、跡荒廃して草山となる。」


小境城見取図①
防御の指向性は西斜面が主体で、主郭背後に回り込まれるのを嫌い異様な五連の堀切になった仕様が見て取れる。

【城跡】

「屋敷」と言われる東尾根の郭3・郭4・郭5を割愛して考えた場合、郭1と郭2の曲輪の大きさに対して、五連の堀切と連結する竪堀が異様な大きさと長さである事が縄張図からも確認出来るであろう。

●西斜面の竪堀とその周辺

小境城 (15)
権現清水の上に現れる長大な竪堀㋙。

小境城 (16)
ていぴす殿の横の竪堀㋚。(ピンボケ写真ご容赦!)

小境城 (19)
堀切㋙は全長200mぐらいあるが、途中から藪が酷くなり全部を辿るのは不可能となる。


小境城 (22)
竪堀㋙⇒竪堀㋔への堀底探訪を諦めた我々は、耕作を放棄され藪化し荒れ果てた斜面をトラバースして郭2に突撃する。

●郭2・郭1

小境城 (28)
郭2の一段下の帯郭。

小境城 (29)
郭2からの展望。残念ながら、ここから上の主郭からは藪が酷くて景色がロクに見えない。

小境城 (34)
郭2.(20×37)

小境城 (35)
郭2から見上げた郭1と切岸。

郭の大きさに対する堀切の数や長さのアンバランスな加減は、どうやらこの地域のドクトリンのようで、その縄張の指向性は、山口小城に驚きの類似性を見出すことが出来る。

山口小城も、主郭と副郭の小さな郭ニ個に対して四連の恐ろしく深く長大な横堀を背後に穿っている。

築城時期の前後はあるとしても、山口小城と小境城は、全く同じ意図を持った設計者によって縄張がされたと見ても良いのではないだろうか。

小境城 (41)
主郭(16×16)

小境城 (43)
主郭の背後の「塚」。郭の背後を高くすることで直接覗かれる事を阻止している。

小境城 (40)
郭1の東側の土塁。全周せず片側のみだ。

●五連装の堀切群

小境城 (51)
一条目の堀切㋔

小境城 (56)
堀切㋔の堀底から郭1を見上げる。まさに「壁(へき)」だ。

小境城 (53)
西斜面に竪堀となる㋔。藪が酷く辿る事は不可能だ。西の長大な竪堀㋙に連結するようだが確認は無理だろう。

小境城 (59)
堀切㋕との連結部分。落差が大きくもはや「山」に近い(笑)

小境城 (62)
二条目の堀切㋕

小境城 (64)
堀切㋕と堀切㋖の連結部は堡塁になっている。

小境城 (65)
堀切㋖の壁を登り堀切㋗へ向かう「ていぴす殿」。巨大な堀切の連続に辟易するし乗り越えるだけで大変な体力を消耗する。

小境城 (67)
三条目の堀切㋖の堀底。

藪を掻き分けて三条の巨大堀切を乗り越えた我々は、その光景に目を疑った。堀切㋗は上巾22mの巨大な空間である。
箱堀とも違うようで、さながら兵隊の駐屯地のようだ。天水溜のような窪みもある。

小境城 (77)
堀切㋗の堀底。

小境城 (95)
かなり広い。堀というレベルではない。独立した一つの郭のようだ。

小境城 (76)
ここからも西斜面に対して長大な竪堀を形成しているが、藪に阻まれて確認することが出来ない。

小境城 (73)
これだけの土木作業量が可能だったのだろうか。謎である。

四条も見ればお腹一杯なのだが、最後の堀切㋘に向かった。藪漕ぎは体力を消耗する。

小境城 (86)
五条目の堀切㋘。最終防衛ラインで西斜面を下り竪堀㋔と合流するらしいが確認出来ず。

小境城 (90)
堀底をひたすら進めば堀切㋔と合流するらしい。我々には藪に突撃する体力はもはや無かったのである・・・(汗)

小境城見取図①
戻るのが大変になってきたので再度縄張図を掲載しておきましょう。

●御屋敷と呼ばれる郭3・郭4・郭5

さて、五連装の堀切群、その大きさと藪の凄さで戻るのも大変だった・・・(汗)

そして我々は最後の体力を振り絞って、南東の尾根先にある「御屋敷」(郭2との比高差約100m)に挑むのであった。

小境城 (80)
五連の堀切付近から見た「御屋敷」。結構下るの大変そう・・・(笑)

小境城 (98)
郭2に接続する堀切㋓の壁。

小境城 (103)
こんな角度を下る途中の南東尾根を見上げる。葉っぱの無い藪はビシビシと顔・体を打ち付けるので「百叩きの刑」より酷い・・・・。

御屋敷と呼ばれる郭3とその周辺の郭から郭1・郭2への通路は南東尾根だろうか。こんな急斜面を登るには縄が必要だと思う。

小境城 (109)
郭3と北東尾根の接続部分。堀切㋒は明確な堀形にはなっていないが埋まったのであろう。

小境城 (113)
郭3。小境城の郭の中では一番面積が大きく削平もキッチリされている。

小境城 (114)
郭3と郭4の接続部分は土塁付きの堀切により虎口が開けられている。(写真は南端の土塁)

小境城 (119)
土塁との間の虎口。

郭3は丁寧に削平されていて小屋掛けするにも充分な広さがあった。平時における居館があったか?というと、弥勒寺からは比高100mもあるので戦時における居館および倉庫建物というのが想定される。

小境城 (120)
郭5は一段高い位置にあるので矢倉か物見櫓が立てられていたのかもしれない。

小境城 (130)
尾根先の堀切㋐の断面図。藪が酷くて断面しか撮影出来なかった・・・。


北信濃の山城は、広い信州の中でもとりわけ「鋭い城」が多く我々を魅了してやまない。それはやはり信玄VS謙信の「仁義なき戦い」である甲越紛争により北信濃が戦乱に巻き込まれ、極度の緊張状態が続き双方が最高の土木技術を駆使して最新の軍事要塞を築いた為であることは今さら言うまでもないだろう。

しかし、よく考えてみれば冬季間は豪雪地帯なので全く機能しない山城である。それなのに雪解けになれば、せっせと改修を続けながら睨めっこをしているのである。意地の張り合いもそこまで徹底するとある意味凄いですよネ(笑)


≪小境城≫ (こざかいじょう 城山)

標高:595m 比高:205m(弥勒寺より)
築城年代:不明
築城者・城主:不明
場所:飯山市豊田
訪問日:2015年12月13日
お勧め度:★★★★★ (満点) 
所要時間:30分(弥勒寺~権現清水~主郭まで)
駐車場:弥勒寺の駐車場借用
見どころ:斜面を下る長大な竪堀、五連装の巨大な堀切と集合堀、御屋敷と呼ばれる郭群など
周辺の城跡:北条城、黒岩城、中小屋城、中条城・累城、山口城など
注意事項:晩秋から春先が最も良い。藪漕ぎで体力を消耗するので注意。
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)、「定本 北信濃の城」(1998年 郷土出版社)、「長野県町村誌 北信編」
Special Thanks:ていぴす殿

小境城 (134)
県道409号線から見た小境城遠景。

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Posted on 2016/05/08 Sun. 16:51 [edit]

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コメント

素晴らしい城でした

お疲れさまです。
小境城・累城など飯山方面の城は、郭の規模に比べて堀切の規模や数が桁違いに大きくて多いのが特徴ですね。
山奥で人の少ない地域での城の防御への工夫かもしれませんね。
また、記事楽しみにしてます。

ていぴす #- | URL | 2016/05/08 19:24 * edit *

Re: ていぴす様へ

いつも人柱のように堀切写真にご登場いただきありがとうございますw

小境城の五連装の堀切はほぼ「ヤケクソ」で探索していたのを思い出します。
「なんでこんな山の上にドデカイ面倒クサい堀切を作るのさ!」と疲労困憊で叫んでおりました(笑)

得体のしれない「武田信玄」という人物の残虐非道な信濃侵略が飯山衆の間で誇大宣伝され、上杉軍を巻き込んで疑心暗鬼になっていたんでしょうか。でなければこのような縄張はあり得ないでしょうね。

らんまる #- | URL | 2016/05/08 20:06 * edit *

待ってました小境城

おぉー、これが小境城の実際の姿ですね。縄張図からも異様な感じは漂いますが、実地も凄いですね。郭に対する堀の比が、その通りです。なぜにここまで…、て疑問が湧きますが、彼らには必要だったのでしょうね。土塁の方向もまちまちで、それぞれ効用があったのでしょう。こんど攻め側と守り側に分かれて検証できたら面白いですね。面白そうとはいっても、藪が邪魔しそうで上手くはいかないでしょうが。
お二人の辛苦の成果を、痛くもなく拝見でき、申し訳ない(ほくそ笑んでいます)気持ちで一杯です。痛謝いたします。

えいき #- | URL | 2016/05/08 20:52 * edit *

風化してないねえ

いつぞやご一緒した富倉城、山口城、中条城、いずれも堀切がほとんど風化していませんでしたが、ここも鋭いままですね。これは驚きです。やっぱり、雪が遺構を保護しているんでしょうかね。

あおれんじゃあ #- | URL | 2016/05/08 21:57 * edit *

Re: えいき様へ

宮坂図面の正確さは寸分の狂いが無い事は過去の城攻めで実証されていたので、今回も迷うことなく竪堀㋙経由で郭1背後の堀切㋔に突っ込むつもりでしたが、藪のトンネルを匍匐前進する勇気はないので郭2に突撃した次第ですw

長野県町村誌の略図には権現清水付近から御屋敷に通じる横移動の通路が描かれているので、等高線を横移動する大手もあったのか?なんて想像しております。
ドSではないので、やはり藪の痛さは北信濃攻めにおいては深刻な問題でございます・・(笑)

らんまる #- | URL | 2016/05/08 22:32 * edit *

Re: あおれんじゃあ様へ

豪雪地帯は気温が氷点下になる日が少ないので、水分を含んだ土壌が凍結して割れて遺構を破壊することが少なくて済んだという可能性もありますよね。まして冬期間は店じまいしているので使用頻度も案外短かった事も幸いしているような気がします。

先日、中条城・累城を再訪してきました。いつぞやのお土産のお礼も改めて申し上げておきました。
今年、主郭背後の林の一部を伐木するようです。いつも無償で私有地を快く見学させていただける事はありがたい事ですネ。頭が下がります。

らんまる #- | URL | 2016/05/09 07:46 * edit *

ちょうど、歴史群像の最新刊に
中野の鴨ケ岳城と館が載ってますね。
今回の記事と内容が似てて参考になりました。
それにしても、藪が横を向いているのは
この地方ならではの逆茂木ですね

丸馬出 #- | URL | 2016/05/11 06:04 * edit *

Re: 丸馬出様へ

北信濃の城砦群は甲越紛争の境目の城の最前線ということで、かなり緊張感の高い城が多いのですが、雪の季節は店じまいです。

そんな事情からか「イッキに片づける」という気構えが薄れ気が付いたら10年間にも及ぶ泥沼の抗争になったのでしょうか。
栄村出身の市河さん、野沢温泉どころか中野市あたりまで後退していたような気がします。それに武田と上杉に対して両属していたんでしょうね。

らんまる #- | URL | 2016/05/11 22:37 * edit *
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