らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0616

若澤寺跡 (松本市波田)  

◆松本藩の廃仏毀釈令によって取り壊された「信濃の日光」◆

いずれ城巡りに飽きたら神社仏閣巡りに突入する予感はするが、この歳にもなると、なんせ神様仏様が覚えられない・・。

初心者向けの古事記も読んでみたが、戦国武将ほどのワクワク感が無いのだ・・・(汗) 我が想像力の乏しさに涙・・(笑)

今回ご案内するのは、江戸時代に栄華を極め、明治の廃仏毀釈運動により廃寺となった「若澤寺」(にゃくたくじ)である。

若澤寺①
江戸時代後期に描かれた「若澤寺一山の略絵図」には壮大な伽藍が描かれている。(現地のパンフレットより転載)

この巨大な廃寺跡・・・実は昨年の6月に「ていぴす殿」に松本市の波田山城をアテンドして頂いた時に、併せて案内してもらって感銘を受けたので、今回の再訪となった次第である。

波田山城2016 (142)
旧野麦街道の上波田地区の田村堂から水沢林道へ入り約1.5km登った先が若澤寺跡の入口。

若澤寺2016 (12)
登り口には誘導看板があるので迷うことは無い。

【立地】

松本市の波田地区は長野県のほぼ中央に位置し、梓川流域右岸に広がる河岸段丘と飛騨山脈より分かれた山岳地帯、ならびにこれに連なる山麓平地より成り立っている。波田地区の中央にある白山(1387m)の山頂付近に「元寺場跡」(もとてらばあと)、中腹の水沢に「若澤寺跡」がある。また、若澤寺跡の沢を挟んだ北東には戦国時代の山城の波田山城がある。

若澤寺②
※若澤寺史跡保存会パンフレットより引用転載。

現在、若澤寺跡への入口は二ヶ所ある。林道から入ってすぐの最初の登り口を辿るのが表参道で、山番所や六地蔵などがあったと思われる平場を経由して「方丈・護摩堂」に至る。

若澤寺後201606 (4)
方丈・護摩堂に通じる最初の平場。

若澤寺後201606 (3)
方丈・護摩堂に続く表参道。


【歴史】

「若澤寺」は山号を水沢山といい、江戸時代には「信濃日光」と呼ばれるなど、真言宗の由緒ある古いお寺だった。
伝承によれば、若澤寺は奈良時代に僧侶である行基によってお寺が開かれ、田村将軍(坂上田村麻呂)によって大きくされたと云われている。当初は、白山の山頂近くにある大堂ヶ原と呼ばれる場所に建てられていたと云われている。
※白山付近に「元寺場跡」(もとてらばあと)と呼ばれる場所に山岳系寺院があり、若澤寺の前身の寺田と伝わる。

若澤寺は中世に地元の豪族に守られ、戦国時代にも武田氏や小笠原氏などの有力な大名からも保護を受けていて、この頃に元寺場跡から現在の場所に下ったとされている。

若澤寺後201606 (6)
方丈付近から見た護摩堂跡。無数の礎石が建物の大きさを語っている。

若澤寺後201606 (12)
護摩堂から見た方丈(僧侶が日常の生活を送った場所。庫裡の事)

江戸時代は最も若澤寺が栄えていた時代とされ、松本藩の藩主の保護の下、絵図に描かれたように寺を大きく広げたほか、江戸時代の著名な作家である十辺舎一九を始め多くの参拝者を集め、松本平からも多くの寄付を集めるほどの繁盛ぶりだったと伝わる。

若澤寺後201606 (15)
護摩堂の礎石跡。

若澤寺後201606 (17)
南側から見た護摩堂の礎石群。いかに巨大な建物だったかがうかがい知れる。

しかし、明治四年(1871)に松本藩の廃仏毀釈令により寺は取り壊され、仏像は散逸し、建物も周辺の寺に移され、現在は石垣や礎石を残すのみである。

若澤寺後201606 (18)
同じく南側から見た方丈(庫裡)の礎石跡。

若澤寺③
発掘調査を元に作成された若澤寺跡の平面図(パンフレット掲載図に加筆)

若澤寺後201606 (21)
護摩堂と中堂救世殿の接続部分。石垣の崩落が著しく最近立ち入り禁止のロープが設置されたようである。

波田地区にある文化財においても、田村堂をはじめとしてその多くが元々は若澤寺の遺構であるとされており、波田地区の歴史を語る上では若澤寺は切っても切れない存在である。

若澤寺後201606 (23)
中堂救世殿との間より見下ろした護摩堂・方丈の遠景。

若澤寺後201606 (24)
中堂救世殿の崩れた石垣。この石垣は波田山城に使用されていた石積みの一部を転用したとも伝わる。

【寺跡】

若澤寺跡は主に6つの平場で構成されており、全体の面積は11,000㎡という大規模な寺院跡。上の段からそれぞれ、「田村堂」、「金堂」、「中堂救世殿」、「護摩堂・方丈」などの建物があった。廃寺によって建物などは破壊あるいは移転され、現在は石垣と一部の石仏が残っているだけであった。

若澤寺後201606 (27)
近世城郭並みの往時の石垣も崩落して見る影も無い。

若澤寺後201606 (31)
石垣の間の参道を登った先には山門があったようだ。

若澤寺後201606 (30)
中堂救世殿跡。

しかし、平成11年(199年)から旧波田町の教育委員会が行った総合調査の結果、各平場から大規模な建物の礎石が発見され、その位置は江戸時代に描かれた若澤寺の絵図にある建物とほぼ同じ場所にあり、この絵図が当時の寺の状況を正確に描いていたことが証明されたのである。
また、室町時代から江戸時代までの寺で使われていた遺物も大量に発見され、若澤寺が当時活発に活動していたことも証明された。

若澤寺後201606 (38)
「水沢観世音霊場」と書かれた石碑と石燈籠が残る。

若澤寺後201606 (44)
金堂から見た中堂救世殿跡。

若澤寺2016 (6)
廃仏毀釈令の過激な解釈により首を落とされた石仏。このような仕打ちを受けた石仏は全国で数え切れないほど存在する。

若澤寺2016 (5)
中堂救世殿から見上げた金堂と田村堂。

【神仏分離の誤った解釈により廃寺となる】

慶応四年(1868)に明治新政府によって発せられた「太政官布告(神仏分離令)」及び明治三年(1870)の「大教布宣」は神道と仏教の分離が目的であって、仏教の排斥は意図していなかったが、結果として廃仏毀釈運動が起き、神仏習合の廃止、寺院の廃止、仏具の破壊など拡大解釈が横行し廃寺に追い込まれる寺院が全国で続出した。
若澤寺もその悲劇の被害者となってしまったのである。

若澤寺後201606 (45)
金堂跡。

若澤寺後201606 (56)
若澤寺跡の最上段に位置する田村堂。


【雄鳥羽の滝】 (おとはのたき)

中堂救世殿の南東の崖下に「雄鳥羽の滝」(おすとはのたき)がある。往時は寺院の東側を流れる川をせき止めて弁財天を祀り、高石垣の間から滝のように落水させて池を形成していたようだが、現在は崩れた石垣と石造物がかすかな記憶をとどめている。

若澤寺後201606 (84)
今じゃ「雄鳥羽の滝」も枯山水・・(笑)

若澤寺後201606 (89)
雨乞いしないと水も溜まりません。

若澤寺後201606 (93)
天狗様の祈りは通じたのかしら・・・。

如何でしたでしょうか?廃寺ツアー第一弾・・(笑)

栄華を極めた若澤寺が廃仏毀釈令により抹殺されたという事実。

「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い・・・・・・」

檀家制度に恨みを持つ庶民もいたと思われるので、何とも言えませんが重文クラスの文化財の破壊は如何なものかと・・(汗)

波田山城攻略にお越しの際は、是非この廃寺跡もお尋ねくだされ・・・。


若澤寺後201606 (80)
若澤寺の「雄鳥羽の滝」側の入口にある「阿弥陀来迎三尊種子碑」。長録二年(1458)の年号が刻まれている。


≪若澤寺跡≫ (にゃくたくじあと)

標高:950m 比高:210m (上波田地区より)
造営年代:不明
存続年代:戦国時代~江戸時代末期
※若澤寺の前身である元寺場(白山の手前に遺跡)は平安時代~戦国時代に山岳系寺院として信仰を集めた。
場所:松本市上波田
訪問日:2015年6月21日、2016年6月12日
お勧め度:★★★★☆ 
所要時間:林道より5分
駐車場:無し、路駐
見どころ:礎石、石垣など
参考文献:若澤寺史跡保存会パンフレットより抜粋(2014年発行)
注意事項:石垣付近は崩落が酷いので立ち入り禁止順守。
その他:上波田地区にある田村堂など若澤寺より移設された遺構も御覧ください。
付近の城跡:波田山城、櫛木城、淡路城、夏道の砦など

櫛木城2016 (8)
上波田地区に移された若澤寺の田村堂。

櫛木城2016 (10)
田村堂に安置されている坂上田村麻呂像(重要文化財)

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Posted on 2016/06/16 Thu. 23:46 [edit]

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コメント

こんばんは。
若澤寺、こんな大寺があったんですか。
初めて知りました。
新島々の近くなんですね。
新島々に行ったわけではないんですが、上高地へ行くときの足場になる所ですよね。
これだけのお寺さんを全部壊してしまうって、廃仏毀釈の狂気を感じてしまいます。
教えて下さって、有難うございました。
そうそう、TVで、クマよけの鈴はかえって危ないと言っていました。
今年はクマが多いようなので、十分お気を付け下さいね。

万見仙千代 #YR4Ixzf2 | URL | 2016/06/17 19:56 * edit *

Re: 万見仙千代様へ

こんばんは。

実は佐久市で有名な新海三社神社の三重塔も神仏習合時代に神宮寺の塔として建立されたものです。
国の重要文化財こ指定されているこの三重塔も廃仏毀釈により打ち壊しの対象になったのですが、新海神社が「神社の宝物庫である」と主張し破壊を免れました。おかげで今もその立派な勇壮を拝む事が出来るんですね。宮司さんの機転に拍手喝采ですw
残念ながら佐久の地元の方でもこの事実を知る方が少なくなったのは残念な事です。


クーさんの件、お心遣いありがとうございます。
熊除けの鈴は「信じる者は救われる」という信仰の証であり、その有効性は立証されておりません。気休めですネ(笑)
小生のお仲間で「熊除けスプレー」なる強烈なカプサイシンを携行している方もいますが、先日誤って噴射させて自爆しました。
熊に効果があるものは人間にも絶大な効果がある事を証明しました・・・(爆)
小生もクーさんもお互いに臆病なので、ニアミスがあっても気が付かないだけなんだと思っています。それでいいと思いますw

らんまる #- | URL | 2016/06/17 20:38 * edit *

城かと思えばお寺とは。

こんばんは、らんまるせんせ。底無し沼の世界へようこそ♪
松本藩の廃仏棄釈はほんとに激しかったのですねぇ。検索して、松本城クイズのページを見たらびっくりです。(←わかりやすかった♪)

礎石がそのまま残り、破壊された石仏様等が点在するだけでも「よく残ってくれたね」と声をかけたくなります。
結局、長い年月信仰の対象であったものも個人の思惑でいとも容易く破壊されてしまうものなんだよなぁと、いつも思います。
幸いにして残ったものも、個人の奮闘によるものが多いですね。

さすが山城の王様、遺構がわかりやすくて面白かったです。
これはシリーズになるのでしょうか。なるんですね。そうか!わくわくです!

つねまる #pjmS0te2 | URL | 2016/06/17 21:19 * edit *

Re: つねまる様へ

高校生時代は不覚にも弥勒菩薩に傾倒してしまい、56億7千万年後に我々を救済してくれるのだと信じておりました。
なので修学旅行で訪れた広隆寺の弥勒菩薩半跏像の前ではひれ伏して他の見学者のひんしゅくを買っておりました・・(笑)

神社仏閣紀行では「つねまる様」の記事を参考にしつつ、シロウトが入門するにはどうしたらよいか?と試行錯誤中です。
今回、小生のような部外者から見た廃寺の魅力を山城探訪と同じ視点で書いたらどうなるのやら・・と思った次第。
幸いな事に「義仲伝説」を掲載した時に神社仏閣のさわりは会得したので、もうちょっと修行すれば何とかなりそうですw

中世城郭も神社仏閣も研究者や愛好者の方々の「敷居の高さ」が、初心者の安易な訪問を邪魔している第一関門だと思うんです。
「俺たちの崇高な趣味に、素人が首を突っ込みんじゃねえよ!」
そんな奴らを打破したい・・・

神社仏閣のシリーズ化は先の話なので、「小学四年生にもわかる神社・寺院の話」は貴殿にお任せします・・・(爆)

らんまる #- | URL | 2016/06/17 23:00 * edit *

こちらも

らんまるさま

一時期はまってしまって、3、4回かよってしまった
飯山の小菅神社もおすすめですよ。↓
https://www.iiyama-ouendan.net/special/walk/

当時は、仏教の世界を体感できる
テーマパークも兼ねていたようで
楽しくてはまってしまいました。

近くには、映画、阿弥陀堂便りの阿弥陀堂が今も残されていて
こちらもお勧めです。

小菅集落は、過疎化で消滅するのは時間の問題といわれていますので
戸隠のように観光地になってほしいと思っています

ところで、信繁さんが黄母衣衆だったのは事実だと新聞にありました。
事実だったんですね、びっくりしました。

丸馬出 #- | URL | 2016/06/19 07:50 * edit *

らんまる先生が神社仏閣の世界に入るのが嬉しかったりする。
自分は中世山城に関心を抱くようになったのは、ここ2年くらいの話・・・
つまりは先生と先生を紹介してくれたつねまる様の影響なわけでして^^

元々は神社仏閣と武家の関係に興味があったので、神仏習合からくる神宮寺には興味深々。
時間とお金があれば九州武家所縁の神社仏閣巡りがしたいです^^

神仏分離だけでも大変革だったのに、とどめの廃仏毀釈には涙しか出ません。
長年人々に大事にされてた石仏が破壊されたり、貴重な文書が二束三文で散逸したりで落涙ものです。

またいつか次の寺院記事を楽しみにしてますね^^拍手

時乃★栞 #- | URL | 2016/06/19 19:19 * edit *

Re: 丸馬出様へ

情報ありがとうございます。

戸隠山、飯縄山、小菅山の三山は北信濃の戦国時代と宗教を語る上では避けて通れない場所でございますネ。
いずれも甲越紛争の受難に遭い、その凋落ぶりは目を覆うばかりとなりました。
市河氏と高梨氏の仁義なき抗争に巻き込まれた小菅山も非常に興味があるので、戸隠同様に調査を進めてみたいと思っております。

信繁が秀吉の馬廻りで黄母衣衆だったとは小生も知りませんでした・・(汗)
世の中に定説として出回っているパパ幸の肖像画は、信幸(信之)の晩年の画像ではないか・・との話を聞いたことがあります。
有名な足利尊氏の肖像画も実は高師直だったとか・・・
一次資料、二次史料がもっと数多く発見されれば、我々の学んだ日本史は根底から覆るかもしれませんネ・・(笑)

らんまる #- | URL | 2016/06/19 19:22 * edit *

Re: 時乃★栞様へ

政教分離を何の抵抗も無く受け入れている日本人は世界でも稀有な民族だと思います。
終わる事なく続く世界各地の紛争は、宗教vs宗教の争いで宗派の違いも大いに影響しているんでしょうネ。

住めば都的な「神仏習合」は日本人であることの柔軟な発想によって編み出されてすんなり受け入れられました。
明治維新という過去を真っ向から否定する一部の人間による誤った解釈と過激な発想による「廃仏毀釈運動」により仏教は不当な排斥を受けてしまいました。

「全てのものに神が宿る」

偶像崇拝を禁止する他の宗教からみればあり得ないその民族性・・(笑)
まあ、「天皇陛下万歳」という狂った国策により国民が精神的な拘束を受けた時代もありましたが・・・(汗)

苦しい時だけ「神頼み」するらんまるが神を語るのは心苦しいのですが、気が向いたらボチボチアップしようかと・・・(爆)

らんまる #- | URL | 2016/06/19 19:58 * edit *

自爆

熊スプレーで自爆って、そんな間抜けがいるんですかね?
そのアホ面、みたいもんですわ。
しかし、こんな山に寺院って・・これは完全に山城ですね。
うちの方にも、こことそっくりな立地の寺、寺院があります。
僧兵を擁していたり、領主が緊急時に立て籠もったので実質、城でもあったみたいです。
尾根の頂上より若干下に段々の平坦地をおき、背後はただの山、そこが城とは少し違うけど。
江戸時代の寺が神社を管理するめちゃくちゃさが、寺社はしごの今の正月の初もうでの姿につながっているんでしょうが、明治の廃仏廃仏毀釈はIS、タリバンそのものですなあ。

あおれんじゃあ #- | URL | 2016/06/22 22:27 * edit *

Re: あおれんじゃあ様へ

自爆テロを仕掛けたのが我が師匠であるなどとは、口が裂けても言えません・・(あっ、云ってしもうた・・笑)

戦国時代の宗教勢力と豪族の結びつきは我々が想像するよりも密接だったんでしょうね。
北信濃の戸隠山、小菅山、飯縄山の修験道も甲越紛争に巻き込まれ武田軍によって壊滅的な打撃を受けましたし・・。
ここの若澤寺も小笠原長時と西牧・仁科連合の境目の紛争地帯だったので、沢を隔てた山に波田山城を築城し地場の宗教施設を防衛することで地域住民の支持を得ていたと考えられます。

仰せの通り。緩やかな神仏習合が江戸幕府による寺社の厳格な神社管理に集大成されてしまった反動が「廃仏毀釈運動」を引き起こしてしまったんですね。過激派はいつの時代にも存在するものですが、その煽りを喰らって破壊された多数の文化財・・残念でありません。

らんまる #- | URL | 2016/06/23 07:42 * edit *
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