らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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波田山城 (松本市上波田)  

◆木曽口・飛騨口の境を抑え、対岸の西牧氏に備えた小笠原一門の山城◆

前回で「若澤寺跡」を取り上げた以上、逃げ道を自ら塞いでしまったので隣接する波田山城は記事にするしかない・・・(汗)

宮坂武男氏の縄張図を参照して久々に描く山城の見取図は実に面倒だ。やはり方形居館は簡単でいいなーと思う(笑)

波田山城2016 (144)
登り口は水沢林道から「はた歴史の遊歩道」が城跡の南側に通じているので迷う事はなく、城址もある程度整備されている。

この城は昨年6月に「ていぴす殿」にアテンド頂き、「こんな狭い林道をガンガン飛ばして大丈夫かしら?」と心配しつつ初回訪問。険しい山城なのにあっさりと登り口に行ける手軽さに感動・・(笑)。しかし、その時の写真がピンボケばかりで使えずに、今回1年ぶりの単独再訪となった次第。

波田山城2016 (1)
入口に立つ説明板。豪快な鳥瞰図(作者不明)と宮坂武男氏の縄張図が掲載されている。が宮坂氏の名前掲載が無いが大丈夫か?

波田山城2016 (3)
登城口には沢を堰き止めて作ったような天然の水堀がある。遊歩道だが、この近くまでは車高の高い軽自動車なら入れる。

【立地】

北アルプスの奥穂高岳を源流とする梓川が松本平の平野部へ出るところの右岸の上波田集落(かみはたしゅうらく)の後背の名刹若澤寺の表参道が登るところで、城への登り口は水沢林道の遊歩道沿いが最も分かり易い。また、城跡の南の沢から東山麓の中沢へ若澤寺の裏参道が通り、現在は「はた歴史の遊歩道」となっている。城跡から北方山麓へ下る四本の尾根やその沢筋にも山道があり、往古はこれらの道を使って登城したことが考えられる。波田地区の浄水場のところを「御天城」(おてんじょう)と言い、裏参道を「大名道」と言うらしい。

波田山城2016 (5)
南側の段郭で構成される尾根にもこんな感じで木戸があったのかもしれません。

波田山城2016 (9)
東尾根との合流地点。

波田山城見取図①
五つの尾根が広がる為に、段郭を多用し主要部を四条の大堀切で遮断する処理が技巧的である。


【城主・城歴】

「信府統記」では「波田山古城の地」として「波田村ヨリ十一町二十間、光明寺沢ト云フ所ノ峯ナリ、今ニ土手一重、乾堀ノ跡モアリ、本城ノ平 東西六間、南北二十間 波田某ノ要害ナリ、居住ノ地此辺ニアリシト云フ」とあり、光明沢の山にあると言っている。
「長野県町村誌」では、「城山」として「本村の西南に当たり、直立二町山上に城址あり。東西二十間、南北二十五間、中央に井あり 今に清水湧出す。年号詳ならず 畑六良左衛門時能之を築くといふ。文化年間(1804-17)まで石壁存すと雖も本村真言宗若澤寺明治四年に廃寺になる。増営に付、之を取壊し用ふ。遺濠なを形を存せり。昔時、畑六良左衛門時能、東国より姥と共に此の地へ来たり住す・・・・」とあり、後に六良左衛門は新田義貞に属して越前鷹巣城で討死したと伝説があるとしている。

波田山城2016 (12)
分岐から東尾根に向かう。堡塁から下った先に堀切㋔。

波田山城2016 (18)
堀切㋔から少し下ると北斜面に対して長大な竪堀となる㋕が現れる。展望台のあるあたりが城域の東端になっていたようだ。

いくらなんでも波田山城の築城時期を南北朝時代に遡るのは無理があるので「波田町誌」(昭和62年発刊)で調べてみた。要約すると以下のようである。

●波多郷と源姓波田氏

波田氏の名称は既に鎌倉時代の内田埴原地頭としてみえているが、波多郷(波田)の名は、室町時代の永享十一年(1439)に若澤寺に源信盛が大檀那となって寄進した梵鐘銘が初見である。

波田町(現在の松本市波田)と山形村には平安時代より信濃十六牧としての官牧「大野牧」(牧場)があり、埴原に置かれた朝廷の牧監庁(ぼくげんちょう 信濃の牧の監督官庁)の役人であった源姓の波田氏が土着して鎌倉時代に地頭となり、大野牧を横領し私牧化して勢力を拡大したものと推定されている。

波田山城2016 (32)
登城口(南斜面)と東尾根の合流地点。北東の沢に対して三連の竪堀を入れている。

波田山城2016 (37)
本城と北城を断ち切る豪快な堀切㋐。

牧場経営によって得た経済力をバックに源姓波田氏は、近隣の寺社の造営や仏像・鐘楼等の寄進を行い次第に武士化をすすめ、居館も堀ノ内から上波田の段上に城館を構えて移ったと伝わる。(水沢の館、現在の波田神社付近)

IMG_5699.jpg
西光寺跡に鎮座する波田神社。源姓波田氏の水沢の館跡と伝わり、波田町を見下ろす高台の上にある。

この時の信濃の守護は小笠原貞宗で、建武の新政の頃から足利尊氏に属して活躍した功績が認められ守護として任命されたという。したがって国府の置かれた府中に近い波多郷もまた小笠原氏に力を貸したと思われ、南朝に近い西牧氏や南朝方の姉小路氏を警戒し高台の水沢に館を移したと想定される。

太平記に登場する南朝方の畑時能が波田山城の築城に関与したとの説も伝わるが、南朝方の英雄がわざわざ北朝方の小笠原氏に同調する波田郷に出向いて源姓波田氏を排除し、波田山城を築城するとは考えにくい。明治維新で一時的に南朝方の人気が高くなった事もあり、その時の南朝贔屓における想像の産物だったと思われる。

波田山城2016 (36)
本城の南下の段郭(25×7)。丁寧に削平されている。

武士としての波田氏の行動は「私本大塔記」によると、応永七年(1400)に小笠原長秀が信濃守護となって、川中島平へ入った時の従軍武将中に、「波田小次郎・百瀬・輿・塩原・清原」の名が見える。
次いで「結城陣番帳」には永享十二年(1440)に小笠原政康の軍中に波多殿・同名中殿とある。
この二つの戦記は室町時代初頭における、小笠原氏と終始行動を共にしていた波田氏とその一族の動きを示すものである。
百瀬氏は波多郷、清原氏は竹田郷、塩原氏は小坂郷の土豪的武士であり、輿氏は内田埴原郷の地頭で、池田判官代跡を名乗った波多腰大和守清勝のことであろう。

波田山城2016 (48)
北城(37×13)

波田山城2016 (57)
北城の先には一段下がって帯郭が展開する。

波田山城2016 (63)
北城の周囲を囲む帯郭。

波多郷の源信盛の名は至徳四年(1387)に、牛伏寺地蔵胎内銘に見え、それから五十二年後の永享十一年(1439)に若澤寺鐘銘にも見える。したがって結城合戦(1440)ごろは六十歳以上の老人であるので、あるいは子息が出陣戦死したのであろうか。
宝徳二年(1450)には若澤寺拝殿鰐口施主に西牧郷の「讃岐守信兼」とあるので、波多郷の主権が西牧氏に移った。また、長録二年(1458)には平朝臣六翁の名が鰐口や供養碑にみえているので、源信盛死去によって跡取りが絶えたため西牧氏や仁科氏の支配下に入ったのだろうか。

若澤寺後201606 (80)
若澤寺の「阿弥陀来光三尊種子碑」には「長録二年(1458)平朝臣六翁沙弥盛高禅定門願主」と刻まれている。

波田氏の没落については、はっきりはわからないが、江戸時代の文化年中に江戸の文人十返舎一九が書いたという「水沢」の写本によると、源信盛の死後「お家騒動」があって、家老が家督を横領したことが書かれている。
いずれにしても源姓波田氏の正統は信盛によって中断しており、戦国期に見える「波田某」については、古くから小笠原方の「波多郷」を宿敵の仁科・西牧氏に奪われた小笠原長朝が、文明十二年(1480)になってから失地回復のため、仁科・西牧氏と戦って波多郷を奪回し、有力な家臣櫛置氏と小笠原系武士団を波多郷に入植させている。

櫛置氏入城後に、波多郷は小笠原氏によって、源姓波田氏の分流から取り立てて「波田殿」を名乗らせ、小笠原氏の「籏本槍備衆、百四十貫文、十騎の将」として波田山城主としていることが考えられる。

波田山城2016 (62)
帯郭から見た北城の壁(へき)。

波田山城2016 (65)
北城の北側は光明沢に竪堀を穿ってその周囲は段郭を重ねている。

波田山城2016 (73)
北城の西側には一段下がって楕円形の郭(20×10)があり、堀切㋐に接続している。

波田山城2016 (78)
本城と北城を遮断する豪快な堀切㋐。

●小笠原四天王と呼ばれた櫛置氏(くしきし 櫛木氏)による波多郷の統治

源姓波田氏の領有であった「波多郷」の主権は、宝徳二年(1450)には西牧郷の讃岐守信兼がにぎり、その後長録二年(1456)には若澤寺施主として平朝臣六翁沙弥盛高がみえている。
信濃一円を平定した守護小笠原氏は、その後、伊那郡伊賀良庄の小笠原家と信府井川の小笠原家に分裂抗争が続き、また諏訪神社も上社と下社が争うなど内紛があり、守護職は名ばかりとなり、小笠原持長(井川)は諏訪下社に味方して、上社及び伊那小笠原氏と合戦を行い大敗するありさまで、自領地を保つことさえ精一杯の状態であったから、波田氏の領土が西牧氏や仁科氏の手に渡ってもこれを取り戻すだけの余力は無かったのであろう。

波田山城2016 (82)
堀切㋐から見た本城と北西下の段郭。

波田山城2016 (86)
主郭(本城)に入るには、一段下の帯郭に入り西側の堀切㋑から馬出を経由するというスタイルで、この仕組みは林大城と共通。

しかし文明十二年(1480)になると、小笠原長朝(井川)は、穂高において仁科盛直を攻めて破り、続いて諏訪上社の党である西牧・仁科・山家の諸氏の平定にむかっている。

波多郷に進出していた西牧氏は、小笠原長朝によって根拠地である北条於多屋館(おたや)と城下町の民家千軒ほどを焼かれ大きな打撃を受けたとみられる。

小笠原民部長朝は上社と下社の内紛に乗じ、神社領を横領したり、安曇・筑摩両郡の内で上社に味方する領主を討伐して守護権の回復と領土の拡大をはかったわけである。波多郷をも仁科・西牧氏から取り上げて直参の部将である櫛置氏を派遣して地頭とし、上波田に西光寺城と波田山城を築いて西牧氏及び飛騨・木曽口へ備えとしたのである。
※櫛置氏の出自等については櫛木城(西光寺城)の掲載時に触れてみたいと思う。

波田山城2016 (90)
本城の虎口から見下ろした馬出(5×5)

波田山城2016 (88)
馬出から見上げた本城の虎口。

【城跡】

白山(1387m)の中腹にある若澤寺と水沢を挟んだ977mの山頂(本城)を主郭として、両袖に北城・南城の主要な郭を置きその間うを三条の堀切で穿った中世の山城である。 元々は段郭を多用する戦国初期の山城様式であったものを、小笠原長時配下の櫛置氏が長大な堀切を入れて防御を高めたものと想像される。

波田山城2016 (89)
北西斜面の横移動は㋐と㋑の長大な堀切で制限を余儀なくされる。


波田山城2016 (93)
土塁の全周する主郭(本城)

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主郭には井戸跡が残っている。

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井戸跡。掘れば湧水であったようだ。(宮坂氏は天水溜めと考察している)


本城の東に位置する北城を中心とする段郭は大手口の防衛が主目的となり、光明沢に竪堀を入れ幾重にも重ねた郭で攻城兵の攻め口を絞る工夫が見られる。併せて本城及び南城についても、野麦街道から梓川を隔てた西牧領からの攻め手を想定し、段郭の構築も結構細かく刻んでいる。

波田山城2016 (104)
本城の南側の帯郭。

波田山城2016 (105)
南城から見た堀切㋑。

波田山城2016 (115)
南城の削平地。

波田山城2016 (116)
南城と堀切㋑。

波田山城2016 (117)
西尾根の堀切㋒とその先の馬出郭(20×10)

波田山城2016 (120)
西側最終の堀切㋒。

波田山城2016 (130)
とっても厳しい竪堀㋑。

波田山城2016 (132)
城域の南斜面の移動を制限する堀切㋑と㋓。

波田山城見取図①
戻るのが面倒な方に縄張図を再掲。

縄張図を見ると、とても複雑で戦国末期の城のように思えるが、主要な郭の間を大堀切で断ち切る技法や尾根に対して段郭を重ねる手法は戦国初期の山城に共通のものである。
横堀や畝状竪堀を確認する事が出来ないので、波田山城の最終の活動時期を特定することは難しい。

天正十年(1582)に小笠原貞慶が深志に復帰した際には、波田山城は櫛置の城として、「VS木曽義昌・VS西牧氏」への重要な役割を果たしたと思われるのだが、記述が少なく詳細は不明である。

波田山城2016 (134)
南斜面に三連の竪堀を配置しているのは配慮すべき重要課題である(笑)

≪波田山城≫ (はたやまじょう 秋葉城)

標高:993m 比高:240m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:松本市上波田
攻城日:2015年6月21日、2016年6月12日
お勧め度:★★★★☆ 
所要時間:15分
駐車場:無し、路駐
見どころ:堀切、土塁、井戸跡、切岸など
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)、「波田町誌 歴史現代編」(昭和六十二年)
注意事項:秋は止め山(松茸山)なので8月下旬あたりから入山禁止。夏でも雑草や藪が少ないので遺構は良く見えるのでお勧め。
付近の城跡:若澤寺跡、櫛木城跡、淡路城、夏道の砦、かぎかけ山物見など
SpecialThanks:ていぴす殿

若澤寺後201606 (44)
若澤寺跡から見た波田山城方面。


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Posted on 2016/06/25 Sat. 23:17 [edit]

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コメント

すいかあ

下草がなく遺構がきれいですね。
しかも写真の加工もせず、はっきり分かるのもいいです。
城も丁寧に作られていますね。こういう物件は記事の書き甲斐があります。

そう、波田といえば、「すいか」だねえ。
おれの友人、Fがここの出身。
中学時代にすいかドロで補導されたが、補導歴は消してもらい、現在、警察の幹部・・・。
ちなみに花火遊びで藁小屋を燃やしたMは消防署の所長。世の中わからんもんです。
すみません脱線して。

あおれんじゃあ #- | URL | 2016/06/27 23:10 * edit *

Re: あおれんじゃあ様へ

波田は小笠原領の東端なので、やはり境目として色々な出来事があった興味深い場所です。

天正壬午の乱で一時的に深志城主となった木曽義昌が景勝によって追われ、土豪から差し出された人質を連れて逃げる途中、この付近で人質奪還戦が行われ、義昌は命からがら木曽福島へ逃げ帰ったという。
また、秀吉による飛騨征伐で敗走した三木秀綱(姉小路氏)は徳川方であった小笠原貞慶領に逃げる途中で奈川で殺され、別行動した奥方は波田淡路城の春日氏を頼って徳本峠を越えたが、波田の手前の島々で殺された。
その淡路城の春日氏は大久保長安の事件に連座して父子ともども転封先の明石で自害したという話もあります。

師匠のご友人の皆様、それぞれご自分の天性ともいうべき得意分野で活躍されているんですね(笑)
私たちの昭和は「罪を憎んで人を憎まず」という寛容な時代」だったということでしょうか・・・(爆)

らんまる #- | URL | 2016/06/28 07:51 * edit *
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