らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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かぎかけ山物見・つり鐘久保 (松本市波田竜島)  

◆深志領の西の境目「飛騨口」・「木曽口」を抑える要衝◆

2009年7月に始めたこのブログ、今月で7年を超える事になる。

熱し易く冷めやすい性格を自負する小生が7年も続けているなんて、信じられない暴挙であろう・・(笑)

今回ご案内するのは波田シリーズ第六段「かぎかけ山物見・つり鐘久保」。(・・・しつこい?)

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (44)
梓川に架かる雑炊橋(ぞうすいばし)。夏道と冬道(野麦街道)が合流する「かぎかけ山」と島々を結ぶ地点にある。

【立地】

●かぎかけ山物見

旧安曇村と旧波田町の境界に近く、梓川へ黒川が合流する所にある岩山が「かぎかけ山」である。南面は黒川に、西面と東面は梓川に削り取られているために、下部は岩盤が露出して絶壁となり、ごく限られた所に危うげな道が通っている。(現在は岩盤の崩落による落石が酷く通行禁止になっている)足下は梓川の渕になっているような道が100mほど続く。
夏道の西端の出口にあたる「かぎかけ山」は、島々集落の対岸にあり、ここからは島々谷や梓川の谷筋と、小嵩沢山(こたけさわやま)を通って徳本峠(とくごうとうげ)へ向かう峯道を見通すことが出来る。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (47)
雑炊橋から見た「かぎかけ山物見」の登り口。岩盤の崩落が酷く登山道も欠落して危険な状態。現在は立ち入り禁止。落石=即死

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (52)
崩落した「かぎかけ山物見」の登り口。百戦錬磨の「ていぴす殿」は強引に登ったが足場が脆く生命の危機に遭遇し辛うじて引き返したという。

●つり鐘久保(波田の撞鐘久保とも)

「鐘撞き」(かねつき)という言葉は狼煙台の跡地に伝わる言葉である。
天候不良で狼煙リレーが使えない場合は、鐘や太鼓を叩いて次の中継地の狼煙台に伝えていたのだという。
宮坂武男氏は「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」の「68.波田の撞鐘久保」として「かねつき」と「つきかね」は同意語であろうと推察している。そしてその場所はかぎかけ山の一段上にある日向岩あたりではないか?としている。

「波田町誌 歴史現代編」(昭和六十二年発刊)では以下のような記載があるが、狼煙台としての考察はしていない。
カギカケ峠(日向岩辺りのことか?)から夏道の山道を四十八曲がりをたどり、山を越し黒川の二ノ沢に出る山路がある。二ノ沢には「つり鐘久保・堂平・法伝寺窪・まや」などの地名があり、堂平には昔「法伝寺」があったと伝えられている。

小生が勝手に推測するには、二ノ沢は黒川の上流の奥まった場所で、日向岩よりも上部の黒川山に近いので、黒川山付近の杣人(そまびと 林業を生業とする人々)の山岳信仰における宗教施設の跡地であった可能性は否定できない。
「つり鐘」はそのままの意味だと思うが、どうであろうか。

かぎかけ山物見
こんなザックリした概略図で良いのだろうか?ご理解いただけるのでしょうか・・・(汗)

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (50)
東の黒川橋から見た雑炊橋。往時の梓川はダムなど無いので、春先から夏は北アルプスの雪解け水で暴れ川だったと思われる。

【城主・城歴】

●かぎかけ山

「かぎかけ山の物見」は夏道の砦と連携して夏道を抑えるための物見として機能していたと思われる。
もちろん、平時にあっては深志領の西端の境目を守る物見砦として、地元の領民が交代で見張りを命じられていたのであろう。
飛騨口、木曽口からの侵入に備えるには格好の立地であり、万が一ここを破られても夏道の砦で迎撃出来る守備体制が敷かれていたと思われる。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (1)
雑炊橋からは崩落が酷く登れないので、東側から夏道経由でトライ。登り口は新渕橋の手前を左斜めに入り黒川林道沿いに進む。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (53)
出遭わなければ、お互い幸せに暮らせるのですw

●つり鐘久保(波田の撞鐘久保)

前述の通り、波田町誌に記載があるのは二ノ沢の「つり鐘久保・堂平・法伝寺窪・まや」である。
二ノ沢にあった「つり鐘」と軍事要素の「鐘撞」(つきかね)が同一であるかは断定する証拠がない。黒沢山に何か施設があったらしいのだが、場所も位置も確定できないので推測でしかないが・・。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (54)
夏道の途中から見た大野田・上波田方面。(東方面)

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (55)
西方面には島々の集落が見える。島々から徳本峠(とくごうとうげ)を越え上高地に至る道も鎌倉街道と云われたようだ。

林道のゲートから歩いて15分ほどで大きくカーブする場所がある。ここがかぎかけ山の一段上の日向岩(ひなたいわ)と呼ばれるところで、宮坂武男氏が「ここが波田の撞鐘ではないか?」として推定している。
通常の夏道は黒沢林道を進んだ竜島の発電所のあたりから一段下に入り、そのままかぎかけ山の「鍵懸大明神」の神社を経由し雑炊橋に下りていくが、林道が突っ切るこの道も裏道として存在していたように思えるがどうであろうか。

夏道と冬道
往時は稲核口の番所を通らない「夜盗道」(やとうみち)もあったようだが、はっきりしなくなっている。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (57)
日向岩のある場所には何故か鳥獣慰霊碑があり、カーブミラーの脇に石仏。

このまま下に下りれば夏道と合流し「かぎかけ山物見」に辿り着くようだが、信濃先方衆の日向岩探索は必須課題・・(笑)

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (10)
痩せ尾根を辿った先を「日向岩」というのであろう。かぎかけ山物見より50m高い場所なので狼煙台があったかもしれない。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (11)
黒川を挟んだ西側の対岸の峰。稲核を経由し角ヶ平~祠峠に向かう鎌倉街道はこの峰の裏側の山腹を通っている。


【城跡】

波田の撞鐘久保については写真で見ていただいた通りで、遺構らしきものはなく自然地形を利用したものであろうか。
かぎかけ山物見についても、鍵懸神社(かぎかけじんじゃ)の辺りを削平し番兵を交代で置いた程度のものであり、冬道にしても夏道にしても雑炊橋の直上のこの山を押さえられたら行軍は極めて難しくなる。
狼煙台も平時は神社辺りに置かれていたと思われる。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (18)
日向砦と鍵懸大明神の間にある石碑。周囲は広大な削平地になっているが、明治時代にこの辺りも養蚕が盛んであったらしく後世の耕作地の址らしいが断定は出来ない。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (32)
神社の削平地を調べる「ていぴす殿」

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (29)
社殿の周囲は土塁が囲む。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (30)
夏道沿いを威嚇するように伸びる土塁の全長は50m近くある。これは往時のものであろう。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (20)
鳥居は朽ち果ててしまったが、神社自体は大事にされてきたようだ。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (36)
神社から雑炊橋へ下る斜面。この先は崩落が酷いようなので調査は中止した。

【所感】

「夏草の砦」とは、木曽口・飛騨口に通じる街道を取り込んだ広域の城塞であるが、自然地形を利用した簡単なものである。
昔の旅人ヨロシク「弥次喜多道中」をていぴす殿と楽しんだ訳で、極端な緊張感は感じられなかった。

梓川の水位の少ない、楽な冬道を通過すればよいようなイメージを持たれると思うが、厳冬期の北アルプス越えが現代の防寒装備でも困難を極めるのに、四百年前は想像を絶する。そもそも通行人など皆無であったと思われる。

「夏道を押さえよ」  このことであろう。

ここから飛騨へ通じる鎌倉道は古来よりの往還であったというが、次回は三木秀綱伝説と共にその謎にチャレンジしてみたい。

●雑炊橋(雑司橋)の新旧

DSCF1191.jpg
江戸時代の雑炊橋(復元模型 安曇資料館展示品) 「はね橋」と呼ばれる構造で12年に一度架け替えが行われたと伝わる。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (43)
斜張橋と呼ばれる現在の雑炊橋。昭和62年に完成している。


≪かぎかけ山物見・つり鐘久保≫ (かぎかけやまものみ つりかねくぼ)

標高:831m・875m 比高:110m・150m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:松本市波田竜島
攻城日:2016年6月12日、2016年7月2日
お勧め度:★★☆☆☆ 
所要時間:20分
駐車場:路駐
見どころ:土塁など
参考文献:「波田町誌 歴史現代編」(昭和六十二年) 「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:黒川林道は波田のセブンイレブンに申し出るとゲートの鍵をかしてもらえるので、日向岩まで車で進入出来る。
付近の城跡:夏道の砦、殿様小屋、隠れ小屋、池尻砦など
Special Thanks:ていぴす殿

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (46)
雑炊橋付近からみた「かぎかけ山物見」の全景。

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Posted on 2016/07/11 Mon. 22:25 [edit]

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