らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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信濃国分寺跡 (上田市国分)  

◆「百聞は一見にしかず」~遠き都の天平文化の地方遺産~◆

最近は中世の城郭から離れた記事が続いているので読者数も激減している。こればっかりは致し方ない・・・・(汗)

決して山城探訪が狭義だとは思わないし、これからも未訪の山城の探索は続けて行こうと思うが、「日本の歴史」という広義な視点も時には必要な気がする。

今回ご案内するのは、昭和四十三年に国の史跡として15万㎡が追加指定された「信濃国分寺跡」。(最初の指定は昭和5年)
上田市で生まれ育った小生、恥ずかしながら何の関心も無かった為に今までにで一度も足を踏み入れたことのない聖域である(笑)

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まずは、上田市立信濃国分寺資料館でお勉強しないといけません。(入館料250円)

信濃国分寺跡 (3)
資料館の外観。周辺には縄文時代の住居跡のレプリカまである凝った仕様だ。

信濃国分寺資料館には、発掘調査による信濃国分寺跡関係資料を中心に、上田・小県地方で人々が活動を始めた旧石器時代から奈良・平安時代までを8つのテーマに分けて展示しています。(残念ながら展示室は撮影禁止)

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全国の国分寺と国分尼寺の所在地。

小生の他にも何組か見学者がいたが、さほど広くない資料館で30分以上も見学している強者は小生だけであった・・・(笑)
対価に見合う学習をしているまでですが、何か?。

【信濃国分寺の創建】

 「国泰らかに人楽しみ、災いを除き福至る」を祈願された、天平十三年(741)の聖武天皇の詔は、諸国に七重塔を造り、金光明経・法華経を安置し、国の華と言うべき寺院を創建することを目的とした。僧寺を金光明四天王護国之寺、尼寺を法華滅罪之寺と称し、全国六十六ヶ国と壱岐・対馬の二島に国分寺を建立し、仏教の弘通により国土安穏・万民豊楽を祈願するとともに文化の興隆をはかったのである。奈良の東大寺が総国分寺として位置づけられ、国を挙げての大事業であった。地域によっては建設が進まなかった所もあったようだが、上田の地に建てられた信濃国分寺は比較的早い時期に完成したと考えられる。
発掘調査により、僧寺・尼寺ともに当時の伽藍配置や規模がほぼ明らかになっている。

※八日堂信濃国分寺公式HPより引用⇒http://www.avis.ne.jp/~kokubunj/

【史跡公園内のご案内】

奈良時代に全国に建立された国分寺の僧寺・尼寺は、当時の仏教文化を代表する象徴的存在であった。信濃国分寺の僧寺・尼寺は当時の信濃国府の置かれていたこの上田の地に建立された。
昭和5年11月19日、国の指定史跡を受けた信濃国分寺跡は、上田市が国・県の指導を得て昭和38年から昭和46年にかけて大規模な発掘調査を実施し、地下に眠る僧寺と尼寺の全貌が明らかにされました。この調査は、全国の国分寺発掘調査のなかでも学術的に多大な成果を納めた発掘調査のひとつであったという。

この間、昭和43年3月19日には、この辺一帯の約15万㎡が国の史蹟として追加指定され、国分寺史跡公園として整備され、昭和47年3月にはこの史跡保存環境整備事業が完成し現在に至る。

伽藍配置図①
昭和38年~昭和46年の発掘調査時の伽藍配置図。(「信濃国分寺跡」昭和57年6月発刊より転載) 

信濃国分寺跡 (2)
現在の公園の見取図。公園の整備と国道18号線の拡幅により発掘調査時の姿よりもだいぶ狭くなった。※方角を合わせて掲載

●僧寺 北門跡(推定)

発掘調査による確認は未だされていないが、ここは国分僧寺の北の入口、北門が建てられていたと推定される場所だという。
他の国分寺跡の例を見ると、南大門が国分寺の正面の入口として「八脚門」(はっきゃくもん)など威容のある建物であるのに対し、その他の門は四脚門(しきゃくもん)など、比較的簡素な建物であることが多いという。
ここの信濃国分寺跡でも南大門が礎石のある八脚門、西門が檜皮や柿を葺いたであろう掘立柱の四脚門として確認されているので、北門も同様な建物であった可能性が高いとされる。

※南大門は東大寺の転害門が同時期の建築であるので、同様な建物と推定されている。
※東大寺の転害門に関しては「つねまる」様のブログの⇒ 東大寺転害門を参照願います

信濃国分寺跡 (6)
僧寺の北門は何故か未調査のままらしい。

信濃国分寺跡 (7)
北門跡の説明板。写真付きの丁寧な解説で非常に分かり易く秀逸な出来である。

【僧寺跡】

昭和38年(1963)から昭和46年にかけての8回の発掘調査により、僧寺(金光明四天王護国之寺 こんこうみょうしてんのうじごこくのてら)と尼寺(法華滅罪之寺 ほっけめつざいのてら)が確認された。
僧寺跡では、中門・金堂・講堂・廻廊・塔・僧房の遺構が明らかにされ、南大門の位置も推定された。百間(約177m)四方の寺域のなかに、南大門、中門、金堂、講堂が一直線に並んでいる。中門と講堂は廻廊(複廊)でつながり、金堂の東南に「塔」、東には僧房がある。このような伽藍配置を「東大寺(国分寺)式」という。

金堂は今の寺院の本堂にあたり、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)が安置され、国分寺の塔には金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう 法舎利)がまつられた。

講堂は法を説き経を講ずる場所で、僧房は僧が生活する宿舎であった。

信濃国分寺跡 (12)
講堂跡から見た北門跡。国道を挟んで直線上の奥に現在の信濃国分寺の仁王門が建っているのが分かる。

●僧寺 講堂跡

発掘調査前は、従来仁王堂といわれていた地区で、国分寺の金堂跡とみなされていた。仁王堂と呼ばれる所以は、江戸時代に小堂宇があったためで、土檀の中央の礎石もそのためにわざわざ移動させられたようだ。
第一次調査で周辺一部の基壇を調査し、さらにその南方に金堂跡とみなされる遺構が明らかにされると、この仁王堂のあった場所が講堂跡と認められるに至った。

信濃国分寺跡 (21)
南側から見た講堂跡。礎石も再現されている。

信濃国分寺跡 (24)
雨落溝が玉砂利によって再現されている。(本来の玉石敷の雨落溝はこの下に埋め戻されている)

発掘調査の結果によれば、基壇のサイズは、東西29.4m×南北19.3mで、礎石から推定される建物は正面24.2m、側面14.4m。(七間×四間)

信濃国分寺跡 (16)
講堂基壇の内部。基壇の高さは50cmで、50個ある礎石のうち27個が良好な状態で発見されたという。(正面は金堂跡)

●僧寺 金堂跡

昭和38年の第一次発掘調査で、仁王堂(のちの講堂跡)が金堂跡と推測された場合に、南に中門の存在があると仮定され、発掘調査が実施された。(発掘前は水田 )その結果、北側の仁王堂と呼ばれる場所よ同じ規模でありながら、より優れた構築物が存在していたことが確認され、北側の基壇は講堂跡、そしてこの場所は金堂跡だった事が判明したという。

信濃国分寺跡 (20)
金堂跡の全景(講堂跡より撮影)。残念ながら信越線により南西部分が欠損している。

信濃国分寺跡 (27)
金堂の基壇。南東方向に塔の基壇が見える。

信濃国分寺跡 (28)
金堂の雨落溝の再現。講堂の玉砂利敷とは違って石敷きされた規模の大きな雨落溝の遺構がこの下に埋め戻されている。

金堂の基壇は、東西29.7m×南北19.3mで、推定される建物規模は正面24.2m、側面14.4m。(七間×四間)

信濃国分寺跡 (31)

基壇内部は数度の調査にも関わらず、後世による削平により礎石や根固め石が取り除かれてしまっていたが地固め石が辛うじて残っており、そこから建物の柱間が想定できたのだという。

●僧寺 廻廊跡

当初、廻廊は金堂と講堂を結ぶものk、或いは金堂と中門を結ぶという前提として調査が進められたが、結果としては講堂と中門を結ぶもので、金堂との接続は無かったものと確認されている。
発掘調査では、往時の廻廊は複廊で、柱間は3.3m~2.55m(四間ないしは五間)。線路内は発掘不能だったがほぼ全容が明らかにされたという。

信濃国分寺跡 (39)
東側の廻廊跡。礎石の配置から中央に仕切りのある複廊下であったことが分かったという。

信濃国分寺跡 (33)
鉄道によって分断された中門への廻廊。

信濃国分寺跡 (49)
東側の廻廊を北から撮影。

●僧寺 塔跡

昭和31年3月よりの調査だったようだが、往時は個人所有の土地で徹底調査が出来ず、昭和38年、上田市の用地買収からの本格調査となった。既に心礎は失われていたが、周辺の根固め栗石の残存状況から、基壇は13.2m四方で建物の柱間は7.8m四方だったと推定されるに至った。また、基壇の高さは1.1mだったらしい。

信濃国分寺跡 (40)
塔跡の基壇。

信濃国分寺跡 (43)
塔跡の基壇。

塔は七重塔だったと推定されているが、明確な根拠はなく、総本山の東大寺の東塔や相模国分寺との類似性からの想像であろうか。水煙などの塔の遺跡が見つかっていないので想像の域は出ないものの、塔そのものは建てられていたという結論にはなるようである。

●僧寺 僧房跡

金堂跡の東寄りの地域に当たるもので、昭和45年の調査で明らかにされた。建物は南北34.2m、東西9.6mで南北中央間に幅4.2mの馬道がある。
内部からは生活痕としての土師器破片の出土がみられ、排水溝の処理にも生活臭が伺え、僧房たる証が多数確認されたという。

信濃国分寺跡 (47)
金堂の東に位置する僧房跡。

信濃国分寺跡 (48)
結構巨大な建物だった事に驚く。中央から派遣された坊さん達がひしめき合っていたのだろうか?

信濃国分寺跡 (54)
信越線によって分断された史跡の南側は、地下道を渡る。

●僧寺 中門跡

昭和46年の第四次整備調査にあたって徹底的に調査された。以下の威容が想定されるという。

基壇:正面約20.8m、側面約9.4m

建物:五間×二間
   正面:約18m、側面約6.6m 二層の建物があったことが推定されている。

信濃国分寺跡 (60)
西側から接続する廻廊跡から見た中門跡。

信濃国分寺跡 (69)
南側から見た中門基壇。礎石が4個残存していたという。

信濃国分寺跡 (70)
東側より見た中門。礎石の配置からして結構立派な建物であったことが伺える。

●僧寺 西門跡

平成22年の発掘調査でその存在が明らかになった門で、僧寺と尼寺の出入り口を繋ぐ門であったと想定されている。
僧寺の外枠の領域区画を示す築地塀上にあり、金堂の真西の位置で発見されている。
四脚門に控え柱を持つ建物で、発掘時の瓦の量が極端に少ない為、屋根は檜皮葺か板葺きの屋根で掘立柱建物だったと推定されている。

信濃国分寺跡 (57)
西門の復元推定図と発掘現場の写真(現地説明板より転用)

信濃国分寺跡 (58)
西門跡から見た廻廊と中門方面。

●僧寺 築地塀跡

平成26年に南大門と寺領の外郭を示す築地塀の発掘調査が行われ、南大門は礎石下の栗石が発見され、八脚門であることが確認されました。しかし、築地塀についてはその存在と構造(板塀なのか築地塀なのか)についてははっきりせず、今後も調査が継続されるようである。(これは尼寺も同じなのだという)

信濃国分寺跡 (63)
築地塀と南大門の発掘調査の写真(現地説明板より引用)

信濃国分寺跡 (64)
築地塀と南大門の発掘場所に立つ説明板。私有地なのでここから先は立ち入り禁止。(民家の裏側が中門跡)

●僧寺の建物の配置と寺域

・中門と金堂     心々距離  38.5m (約127尺)
・金堂と講堂     心々距離  39m  (約128.7尺)
・塔の心礎の位置  金堂と講堂とを結ぶ南北中心軸の東62m(約205尺)と金堂の中心から南に46.6m(約154尺)にあたる地点
・僧房の位置     馬道の南北中軸線の中央は金堂の中心から南70mの位置の東60m

なお、寺域の全体は東西176.56m(約582尺)南北178.05m(約587.5尺)ぐらい、すなわち100間と考えられる。この場合、金堂・講堂・中門を結ぶ南北中軸線は、その中央に位置せず、西よりである。そしてやや広い区域の南に塔を配している。また、国分八幡社は、東北方の丘陵上にあたるが、あたかも寺域の東北隣に位置する。当初から計画的になされたものとみなされる。
(「信濃国分寺跡」 信濃国分寺資料館発行 昭和57年6月初版 より引用掲載)

信濃国分寺跡 (62)
上田市教育委員会が発掘調査報告に基づいて作成した僧寺建物の復元予想図。

【尼寺の規模】

尼寺後については、調査の当初は一帯が桑畑になっていたが、その後の史蹟関連整備事業に関連して土地の買収も行われ桑も除去されたので調査も進捗した。
中門・廻廊・金堂・講堂が発見され、その他尼房や経蔵の跡とみなされる遺構も検出され、僧寺の配置と同じことが確認された。しかし、廻廊は単廊である。(僧寺は複廊)
また、尼房は僧寺の場合が金堂の東側に南北に長く存するのに異なって、講堂の北に東西に長く存する。僧寺において、経蔵あるいは鐘楼とみなされるものは明らかにされなかったが、尼寺の場合には、この所在を認める事ができた。
(「信濃国分寺跡」 信濃国分寺資料館発行 昭和57年6月初版 より引用掲載)

信濃国分寺跡 (73)
尼寺伽藍配置図

信濃国分寺跡 (74)
僧寺の史蹟が鉄道により分断されているのに対して、尼寺はその難を逃れた。その遺構は全国的にも貴重なものだという。

●尼寺 講堂跡

昭和44年の発掘調査において、根固め栗石群から明らかになった規模は、基壇が東西31m×南北21.6mで、建物は正面22m×側面12.4m(七間×四間)と推定された。

信濃国分寺跡 (75)
講堂全景。

信濃国分寺跡 (77)
南東から見た講堂跡。奥に尼房が見える。

●尼寺 尼房跡

昭和44年と昭和47年の2回の発掘調査でほぼ全容を解明したという。それによれば基壇は正面51m×側面14.1mで、建物は正面44m×側面8.1mであったという。床面からは土師器の小片が多数発見されたという。

信濃国分寺跡 (79)
線路により分断されてしまった尼房跡。

信濃国分寺跡 (80)
尼房内側。

●尼寺 金堂跡

礎石の根固め栗石が10ヶ所ほど検出されたほか、基壇の南・東・西縁の雨落溝遺構が検出された。特に東縁においては、羽目石の立っている状態が出土して注目された。基壇は東西29.7m×南北19.5m、建物は正面22.4m×側面12.4mと推定される。

信濃国分寺跡 (81)
尼房からみた講堂と奥の金堂。

信濃国分寺跡 (86)
金堂全景。

信濃国分寺跡 (94)
南側よりみた基壇内部。

●経蔵跡・鐘楼跡

講堂の建物の西縁から26.5m離れた西側に南北に長い長方形の建物が検出された。位置からして経蔵跡とされた。建物は南北10m×東西6m(三間×二間)。
南北の中軸線をおいてこれと対照の位置にあったであろう鐘楼跡は、線路の敷地内で建物の検出は出来ていないという。

信濃国分寺跡 (84)
西から見た経蔵跡。向こう側に講堂が見える。

●尼寺 廻廊跡

西半分が検出されたが、東側は後世の改変により調査は不能とされた。僧寺と同じく中門の左右から派出して、北に折れ講堂に続くもので、金堂を囲んでいる。

信濃国分寺跡 (82)
北側から見た西の廻廊跡。

信濃国分寺跡 (85)
廻廊と講堂の連結部分。(西側)

●中門跡

根固めの栗石などが発見された。基壇規模は東西19.5m×南北13.0mほどが想定され、建物は正面11.8m側面6.4m(三間×二間)の四脚門と考えられている。

信濃国分寺跡 (93)
民家に隣接している中門跡。

信濃国分寺跡 (90)
西側から見た廻廊と中門跡。

信濃国分寺跡 (89)
尼寺の南側の周辺は断崖の浸食等で変化が著しく往時の様子を知る事は困難になっているという。

●尼寺の建物の配置と寺域

・中門と金堂     心々距離  30.0m (約100尺)
・金堂と講堂     心々距離  43.0m  (約141.9尺)
・講堂と尼房     心々距離  30.0m  (約100尺)
・経蔵の位置    建物の中心は南北中軸線より37.7m(約125尺)
            建物の中心は講堂建物の中心より約4m(約13.2尺)

信濃国分寺跡 (97)
中門の南側より見た尼寺遠景。

尼寺跡では、北から北門・尼房・講堂・金堂・中門が直線上に並び、講堂と中門が廻廊で結ばれ、講堂のにしには経蔵も確認された。ただ、南大門と尼寺を取り囲む80間(約148m)四方と推定される築地塀の南辺と西辺は、未だ確認されていないことや建物の詳細についても未だ解明されていない事も多く、これからの調査や研究が必要とされている。

信濃国分寺跡 (67)
史蹟のど真ん中を走る「しなの鉄道」。違和感が無いもの不思議だ・・・(笑)

【終わりに】

●国分寺の創建

天平十三年(741)、聖武天皇により国分寺建立の詔が下され、僧寺(金光明四天王護国之寺)、尼寺(法華滅罪之寺)の建立が全国に命ぜられた。僧寺には、僧侶二十人、尼寺には尼十人が置かれ、僧や尼は毎月八日に最勝王経を転読することなど、定められた規則に従って生活することが義務付けられていた。

ところが、各地の国分寺造営は期待したほどにはかどらなかったようで、天平十九年(747)には国分寺の造営を督励(催促)する詔が発令された。
天平勝宝四年(742)に総国分寺である東大寺の大仏開眼供養が執り行われ、総国分尼寺の法華寺も建立された。
しかし、天平宝字三年(759)になっても国分寺造営を督促する記事が「続日本書紀」に見られ、西暦770年前後に至ってようやく大半の国で国分寺が完成したと考えられている。

信濃国分寺跡 (55)
鉄道の下は地下通路になっている。

●僧寺・尼寺の廃滅時期について

幾度かに及ぶ信濃国分寺の発掘調査によれば、出土古瓦からみて平安時代までは存続していたと考えて良いという。ことに僧寺跡の北方に接して存した瓦窯跡からは平安時代の初期のものと考えられる瓦が発見されており、この瓦窯は、むしろこの頃の補修用の瓦の必要に迫られ設置されたものと見なされ、寺院としての機能が継続していたものと考えられるという。

また、僧寺の西廻廊跡で火葬壺が発見されている。この骨壺は平安時代の末期の頃と考えられるものであり、この頃に至って僧寺は機能が廃滅していたか、または建物の一部を残す程度のものであった事がうかがい知れるという。

寺伝によれば、天慶2年(939)の平将門と平貞盛との戦闘の際に焼亡したと云われているが、廃滅した時期については必ずしも矛盾を示さないようである。

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現在の八日堂信濃国分寺の仁王門。僧寺の伽藍配置と中心線で結ばれるので、僧寺が移転したものと見做される。

以下は「八日堂信濃国分寺」の寺伝としての解説であるので、この場に引用掲示しておく。
引用元⇒信濃国分寺の歴史

 創建時の国分寺は、939年の平将門の乱(天慶の乱)に巻き込まれて焼失したと伝えられる。尼寺はその後も当初の地にしばらく存続したようだが、この事件を機に約300m北方の現在の地に寺域が移転したと考えられる。しかし律令制度の崩壊にともない国家の保護が失われた国分寺は、漸次衰退に向かったと思える。現境内地には鎌倉期の石造多宝塔や五輪塔が存在し、また源頼朝が堂塔の再建を誓願したとの寺伝があるので、鎌倉期以降に現地での復興が始まったようだ。

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現在の八日堂信濃国分寺の本堂。善光寺の本堂を彷彿とさせる作りである。(長野県宝)

 室町時代には現存最古の建物である三重塔が建立され、地域民衆の信仰の中心となり、八日堂(ようかどう)縁日の市は当地方の交易の場ともなった。八日堂の名は今も信濃国分寺の俗称として親しまれている。また民間信仰である蘇民将来信仰も取り入れ、この信仰に基づく蘇民将来符は現在でも有名である。

 戦国時代になると、永禄・天正の頃に三重塔を除く諸堂が兵火によって焼失したと伝えられる。江戸時代に入ると諸堂の再建が進み、特に薬師如来をまつる現本堂は文政十二年(1828)の発願より万延元(1860)の竣工まで近郷一帯から広く浄財を募り33年の歳月をかけて完成した重層の壮大な伽藍である。現在、境内にはこの本堂(長野県宝)をはじめ、三重塔(国重文)、大黒天堂、観音堂、地蔵堂、鐘楼、宝蔵、仁王門、客殿、庫裏(寺務所)などがある。他に文化財として石造多宝塔(鎌倉期)、本堂勧進帳(江戸後期)、牛頭天王祭文(室町期)、八日堂縁日図(江戸初期)、蘇民将来符など(以上、上田市指定文化財)を有する。

信濃国分寺跡 (118)
室町時代の建立とされる三重塔(国指定重要文化財)

●国府は何処にあったのか?

国分寺の僧寺・尼寺を考える場合に、国府は何処にあったのか?というのが重要な問題となるが、今現在も明確ではなく今後の調査が待たれる所なのだという。
現在の信州大学繊維学部の所在地の字名が「堀之内」なので、そこが国府という推察もあるが、あくまでも推測の域は出ない。染谷台に条里制の遺構が残っているので、こことの関係も注目されているが、はっきりしていない。

●所感

神社仏閣の「じ」の字ですら危うい小生が、国分寺を語ることなど「愚の骨頂」であろう・・・(汗)

しかし、興味を持って調べることは「夏休みの自由研究」に匹敵する快挙だと思う・・・(笑)

信濃の国府や守護所=「深志」(現在の松本市)としてのイメージが根強いが、平安時代までは小県(上田市)であったのだ。

平城京の都人と違い、相変わらず竪穴式住居に暮らす信濃の住民が見た往時の国分寺はさぞかし異形の建物であったろう。
そして天に向かって聳え立つ七重塔に、彼らは何を思ったのだろうか・・・。

信濃国分寺跡 (116)
異形といえば、現在の信濃国分寺の本堂に「神の使い」の白い象さんが鎮座しておりました。


≪信濃国分寺 僧寺跡・尼寺跡≫ (しなのこくぶんじ そうじあと・にじあと)

標高:475m 比高:-
造営年代:奈良時代
場所:上田市国分
訪問日:2016年6月19日
お勧め度:★★★★★ (満点)
所要時間:-
駐車場:有り
見どころ:国分寺資料館(入館料250円)・国分寺史跡公園(僧寺跡・尼寺跡) ※公園への入場は無料
参考文献:「信濃国分寺跡」(上田市立信濃国分寺資料館)など
注意事項:特になし

信濃国分寺跡 (106)
八日堂信濃国分寺参拝の際は、必ずカイリュウ拙者をご利用ください・・・・(爆)


国分寺跡の航空写真。右が僧寺で左が尼寺。並列であることが良くわかる。
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Posted on 2016/08/02 Tue. 20:58 [edit]

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コメント

素晴らしい!

こんばんは、らんまるせんせ。なんと見事な国分寺跡でしょう!
その場所すらおぼつかない中でこの遺構。航空写真に顕著な配置、よくぞ残って下さいました。こうやって伽藍配置の全体を眺める事がどれほど幸せなことか、ああ、羨ましい。
らんまるせんせの記事を拝見するにつけ、遺構の全体を見つめることの大切さに改めて気づきました。つい、礎石のドアップばかりを見てしまいがちなので反省。
さすが山城で培った目と考察力でございます。画像も解説も共にとてもわかりやすいです。最後に意味深な象さんを置いて下さるなんて、とても素敵。ありがとうございました。

リンクいただいた天害門の記事がお恥ずかしゅうございます。
でも東大寺とせんせの訪問と重なったご縁に感謝です。
今宵もしゅわーっと美味しくたしなむことが出来ます♪

つねまる #pjmS0te2 | URL | 2016/08/03 20:15 * edit *

こんばんは。
信濃国分寺、
国道18号線から良く見ているんですが、行ったことは無いんですよ。
でも、自分で見ても、らんまるさまの解説の十分の一も分からないと思うので、私としてはとても感謝のブログです。
≪最近は中世の城郭から離れた記事が続いているので≫
いえいえ、最近の記事で大ファンになった方も多いのでは。
少なくても、私には最高です。
信濃国分寺、鉄道路線で真っ二つになっちゃってるんですね。
後で発見された、とかを何かで読んだので、仕方ないですね。
これが創建されたとき、本当に近隣の住民たちの驚きはすごかったんでしょうね。

万見仙千代 #YR4Ixzf2 | URL | 2016/08/03 20:53 * edit *

Re: つねまる様へ

国分寺史跡といえば、「相模国分寺」が全国的には有名らしいのですが、あちらは何故か伽藍配置が法隆寺式。
「ええい、ひかえおろう!」と名を挙げたのは信濃国分寺で、こちらは東大寺直系の伽藍配置。「相模原の国分寺とやら、頭が高い!鎮まれ!!」(笑)

謎に包まれていた僧寺と尼寺が「他人の関係」ではなく、仲良く並んだ仲睦まじき「並列」だった事がこの信濃国分寺の発掘調査で解明されたのは奇跡に近い大発見なのだが、この時代に対する関心の薄さがその成果を薄めているのは事実かもしれない。残念な事です・・・(汗)

貴殿のように神社仏閣が専門ではないので、結構雑な見方になるものの、こうして門外漢の小生が客観的に見ると天平文化の美意識の高さは現在の日本の伝統美の基礎だったと改めて思う訳です。

「地元の歴史を語れぬものが、日本の歴史を語る資格など無い」

そう肝に銘じて最近は一生懸命に上田市周辺の古代についても一から学んでおります・・・・(笑)

らんまる #- | URL | 2016/08/03 21:08 * edit *

Re: 万見仙千代様へ

小学校5年生の自由研究の発表作が「後三条天皇の延久の善政について」でした。
担任の先生も検証と評価が出来ずに困っていたのを覚えております・・・・(笑)歴史大好きな変な小学生でした・・(爆)

歴史に没頭するキッカケになったのは小学校三年生の時に読んだ「古墳」の本。権力者の墓というよりもその形状の美しさと古代人の黄泉国に対する憧れと畏敬の念に触発されてスイッチがONになったんでしょうね。

これからも未だ見ぬ「歴史少年」のスイッチを探して色々な史跡に関する記事を書き続けたいと思います。
「ON」のスイッチを入れるにはまだまだ未熟ですが場所を探すお手伝いぐらいになれば、と思っておりますw

らんまる #- | URL | 2016/08/03 21:40 * edit *
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地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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