らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0825

荒安 仁科氏屋敷 (長野市富田荒安)  

◆信玄造営と伝わる飯縄大明神の神官「千日太夫」の冬期居館跡◆

前回ぐだぐだと長編化してしまった飯縄山であるが、記事にも書いた通り現在の飯縄山里宮は神仏分離令及び修験道の廃止令により「皇足穂神社」(すめたるほみことじんじゃ)という名前に変えさせられてしまった。

明治政府により神領を取り上げられた神官の仁科氏が退去してしまった飯縄山里宮に、千日太夫時代の遺構などある訳なかろうと思っていたが、実は神社の隣に旧里宮跡と千日太夫の屋敷跡があったとは知らず、再度取材することとなった・・・(汗)

荒安仁科屋敷 (2)
荒安集落にある里宮。

荒安仁科屋敷 (4)
大鳥居の右側(東側)に旧里宮跡と屋敷跡がある。

【立地】

現在の長野市富田荒安にある飯縄神社里宮の東隣が仁科氏(千日太夫)の屋敷址である。現在は民家の宅地及び畑になっている。ここからは、葛山城が目の前に手に取るように見え、大峰城も指呼の間であり、眺望に優れた所である。ここからは飯縄方面はもちろんのこと、戸隠方面へも通じていて、古くは山道が開けていたものと思われる。

荒安仁科屋敷 (17)
旧里宮から見た葛山城と周辺の遠景。一段下は仁科屋敷(千日太夫屋敷)。

【館主・館歴】

飯縄明神の神宮である千日太夫の屋敷址である。伝承によると、元亀年間(1570~1573)に武田信玄が飯縄山の武田への帰属を評して荒安に里宮を造営した際に、冬季の居宅も建築し千日太夫に与えたという。
勝頼の代になると、安曇郡森城主の一族の仁科盛清が千日太夫の跡を継ぎ、神官も「仁科甚十郎」と名跡を変更したようだが、世間には受け入れられなかったようである。
武田滅亡後は上杉景勝、江戸幕府にも神領を安堵され、明治維新まで仁科家が神領を支配していたが、神仏分離令により神領を召し上げられるとと共に仁科氏も退去している。

荒安仁科屋敷 (5)
大鳥居から見た仁科屋敷址。

荒安 仁科氏屋敷見取図 001

荒安仁科屋敷 (8)
耕作地と化した屋敷址。江戸時代には飯縄山の修験道が廃れていくのに伴い、自給自足を強いられたと推定される。

荒安仁科屋敷 (10)
旧里宮と屋敷地は10m程度の段差で区切られていたようだが、旧里宮の建築物はだいぶ前に現在の位置に移築したようだ。

荒安仁科屋敷 (12)
旧里宮の敷地。かなり手狭な感じに思えるが、東奥はかなり広い。

荒安仁科屋敷 (13)
旧里宮と屋敷跡の中間にある段郭。

【館跡】

馬屋や長屋が入口にあったという。太平洋戦争後次第に廃墟となり、昭和60年に取り壊されたという。近くにある同家の墓地には寛文、延宝年間(1661~1681)などの墓塔が並ぶ。
現状は神社の参道に接して土塁が残り(今は無い)、東側にもあ土塁痕がある。屋敷は上下四段になり、中心になる平地は65m×35mほどで、山段の山際から湧水があり、水神碑が建つ。
後背に山を背負い、東側の沢に守られ、要害とは言えないが、南面する快適な居住地で、冬場を過ごすには格好の場所であったと思われる。

荒安仁科屋敷 (14)
なるほど、南向きの屋敷地はさぞかし快適であったろう。

荒安仁科屋敷 (19)
屋敷地と旧里宮跡地の中間地点にある水神の石碑。

荒安仁科屋敷 (9)
大峰城も眼下に抑える立地の良さ。

≪荒安 仁科屋敷≫ (あらやす にしなやしき)

標高:780m 比高:10m
築館年代:不明
築館者・居住者:千日太夫(仁科氏)
場所:長野市富田荒明日
攻城日:2016年8月21日
お勧め度:★★☆☆☆ 
所要時間:-
駐車場:参道より50m西側にあり
見どころ:段差の敷地跡、景色
参考文献:「信濃の山城と館② 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:私有地なのでプライバシー注意、無断侵入禁止
付近の城跡:大峰城、葛山城は必見。
その他:飯縄山奥宮へのチャレンジは心して挑むべし。

荒安仁科屋敷 (27)
現在の飯縄山里宮。

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Posted on 2016/08/25 Thu. 22:00 [edit]

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コメント

こんばんは。
信玄の子息、仁科五郎盛信は、この仁科氏に入ったのでしょうか。
ここを退去した仁科氏は、どこへ行かれたんでしょうね。

万見仙千代 #ONPw2w7Q | URL | 2016/08/26 19:47 * edit *

Re: 万見仙千代様へ

この件の調査に際しては、

「天正6年(1578)、武田勝頼は千日大夫の養孫に「仁科甚十郎」の名を与えている。これ以後、飯縄明神社の別当は、仁科甚十郎を襲名したが、この名はまだ定着しなかったらしく、武田家滅亡の後、川中島は上杉景勝領となり国人領主は帰郷したl、と徳川家の記録文書にある。

無理強いは無駄な徒労に終わったようですネ。

神官仁科氏のその後は小生にも分かりませぬ・・・(汗)

らんまる #- | URL | 2016/08/26 21:30 * edit *

こんにちは~

日本の各地に神官・仁科氏のように消えた一族?が沢山いたんでしょうね。
水神の石碑が自分には珍しかったです。
北海道の地元にはないものなので^^

時乃★栞 #- | URL | 2016/08/28 17:54 * edit *

Re: 時乃★栞様へ

今年、全国版のニュースでも紹介された諏訪御柱でお馴染みの諏訪大社(上社・下社)にも明治維新まで神宮寺が存在しており、勝頼は上社本宮の三重塔まで寄進されたそうです。残念ながら明治政府の出した廃仏毀釈で諏訪社内にあった神宮寺も解体の憂き目にあってしまったそうです。
あのようなつまらない法律を施行しなければ、勝頼寄進と伝わる貴重な三重塔も見れたはずですが残念です。

今年の北海道は水神様は不要でしたネ。今後も充分にお気を付けください。

らんまる #- | URL | 2016/08/28 22:30 * edit *

千日太夫

こんばんは、らんまるせんせ。前記事にうっとりしていたらうっかり時が過ぎてしまいました。
千日太夫ははじめは修験者、次第に神官の性格が強くなっていったのかしら。面白いですね。
冬のおうちがあるとは、何とも優雅な。羨ましいお話です。しかもそれが残っている点が素晴らしいです。私有地の難しさはありますが、遺構として後世に伝えられていくといいですね。
しかし、数百年の間守られてきたものを一瞬でぶち壊すとは、ほんとに愚かな事。

和歌山で神社合祀を少しかじって参りましたが、まー、声を出したら悪態をつきそうな事ばかり。文句を書き連ねても仕方がないので、らんまるせんせのように現地の状況をつぶさに調べてお伝えしたいものです。

つねまる #pjmS0te2 | URL | 2016/08/29 21:26 * edit *

Re: つねまる様へ

飯縄山の千日太夫さん、信玄が北信濃に進出してくるといち早く味方となり武田軍の庇護を受けました。謙信も自分の兜の前立てである飯縄権現を攻めるという愚行はさすがに避けたんでしょうネ。
それに対して戸隠山は両者に挟まれてボロボロにされ、挙句の果てに小川村に疎開するという受難続き。我慢したご褒美は観光地としての全国区人気。とはいっても善光寺さんには敵いませんなあー(笑)

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」を地でやってしまった廃仏毀釈。返す返す残念な愚行でございました・・。
仰せの通り、私たちはその愚行の跡をお伝えしていくのが使命なのかもしれませんネ。

らんまる #- | URL | 2016/08/30 07:23 * edit *
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