らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0908

小丸山城 (木曽郡木曽町福島)  

◆木曽氏が須原より移り最初に築いた山城◆

「木曽路は全て山の中である」の書き出しで有名な島崎藤村の「夜明け前」。

木曽を語るのなら一度は読むべしとibooksでダウンロードし2/3まで読み進めたが、半年前に止まったままである・・・(汗)

彼の小説も凄いが、彼の一生をそのまま本にしてもベストセラー間違いなしであろう・・・。違う意味で凄い人生である。

今回ご案内するのは、そんな木曽谷を拠点として戦国乱世を乗り切った木曽氏の福島における最初の館城「小丸山城」。

小丸山城 (18)
木曽青峰高校のグランドと隣接するNHK中継基地が城跡だという。

【立地】

八沢川の左岸の段丘上が小丸山城のある所で、現在その主要部分はNHKの中継所や木曽青峰高校の敷地となっている。この台地は、北側と西側は八沢川と木曽川の段丘崖になっていて、その両面は人を寄せつけない。

小丸山城 (2)
八沢川と木曽川の合流地点に突き出る形の断崖上に主郭が置かれたようだ(現在はNHKの中継所)

【城主・城歴】

「西筑摩郡誌」(大正四年)によると、「小丸山は又八沢城とも言へり。応永忠(1394-1427)木曽親豊の築ける所 本丸 二の丸 出丸の遺址皆存す。~中略~小丸山は今日公園となり観楓を以て名あり」とある。

木曽福島には三つの山城があるが、その中でこの小丸山城が最も古く、次いで上之段城、それから福島城の順になる。親豊は須原(現在の大桑村須原)を本拠地としていたが、木曽谷の中心部で飛騨・伊那へ通じる交通の要衝「福島」の此の地に築城し、居館を移して木曽谷を制した。その子信道、孫の義元もこの城を使う。

小丸山城 (3)
中継所は立ち入り禁止なのだが、指揮所としては50×30ぐらいの充分な削平地である。

天文24年(1555)八月、武田晴信が木曽に侵攻した時には、「木曽古道記」によると義康が上之段城にその子義昌が小丸山城(八沢城)に籠り防いだが降伏したために戦火を免れることが出来た。
その後についてははっきりしない。福島防衛の一翼を担っていたものと思われるが、山村氏の頃になり、その必要性が薄れて廃城になったものと思われる。

小丸山城 (4)
郭2が現在高校のグラウンドになっていて面影は無い。

小丸山城① 001
航空写真で見るとこんな配置(Yahoo地図を加工)

【城跡】

諸記録によれば、主郭はNHKの中継所のある50×32m程のところで、二の郭は高校の所、三の郭はその西下の木曽福島駅の所で、ここが牛越の地名で居館地と言われる。
終戦まで主郭の東側に二段の腰曲輪があり、西側に上下二段の帯曲輪と西斜面に横矢掛りが残っていたというが今は無い。
山麓の八沢町はもと富田町といい、城下町として発達した所という。

小丸山城 (10)
主郭付近より三の郭(居館跡)があった駅方面を望む。

小丸山城 (12)
城址から見る福島城と居館跡。


≪小丸山城≫ (こまるやまじょう やさわじょう)

標高:811m 比高:58m
築城年代:不明
築城・居住者:木曽氏
場所:木曽町福島
攻城日:2015年5月24日 
お勧め度:★☆☆☆☆
館跡までの所要時間:- 駐車場:無し。道路狭いので路駐不可
見どころ:居館跡からの景色
注意事項:高校なので不用意に撮影すると通報される可能性あり。要注意。
参考文献:「信濃の山城と館⑦安曇・木曽編」(2013年 宮坂武男著 P441参照)
付近の城址:福島城、木曽氏居館跡、上之段城、火燃山狼煙台など

小丸山城 (15)
指呼の間に上之段城。

小丸山城遠景
木曽氏居館跡から見た小丸山城。



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Posted on 2016/09/08 Thu. 07:43 [edit]

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コメント

お世話様です。
千葉県旭市の木曽義昌の墓に行ったことあります。http://asahi.naviinfo.net/300/200_2/#a000014

父親の木曽義康は長生きで、長篠の敗戦まで知っていて、武田滅亡の3年前まで生きていたとは意外です。Wikiより

織田信長軍が武田勝頼の明智城攻めの、後詰めに来て、織田信長軍が木曽勢に山岳戦で負けた話(新田次郎節)も、木曽親子の作戦勝ちかもですね!

では。

室賀隆幸 #- | URL | 2016/09/08 20:59 * edit *

Re:室賀隆幸様へ

天正壬午の乱を境にして信濃の名だたる豪族が豊臣・徳川・上杉などの大大名の狭間で滅亡していく中で、木曽氏は当主義昌の舵取りの巧妙さもあり、辛うじて生きながらえました。
がしかし、木曽の豊かな森林資源に着目した秀吉に嵌められて息子の代で改易されてしまいました。

何時の時代もドロドロとした人のねたみや嫉みは消えないんですね・・・(汗)

らんまる #- | URL | 2016/09/08 23:28 * edit *

連続で失礼します。千葉県旭市近くに上代城(城主 松平家忠「筆マメの松平家忠」)があります。

長篠合戦で徳川方で城主で唯一戦死した松平伊忠の嫡男です。家康と血が繋がっていて、バリバリの松平。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E5%BF%A0

絶版でプレミア本の筆マメ「松平家忠日記」は戦国マニアからすると「爆弾級の一級資料」です。

・引退隠居中の臼井城(千葉県)の酒井忠次に挨拶し、そのまま宿泊。臼井城は上杉謙信が敗退した城。

・本能寺の変の岡崎城の徳川留守方の詳細情報

・秀忠上洛の餞別
・現代も続く、贈り物・もらい物に日本の悪しき?習慣。本多正信に近い松平家忠。
・借金の返済延長願いの為に、わざわざ商人の所に行く
・大久保長安、榊原康政、井伊直政、伊奈忠次、平岩親吉、板倉勝重、保科正光など有名人の名前が普通に出てくる。
・朝鮮出兵の名護屋陣から帰る家康の迎えに、江戸城から神奈川に行く。帰りは鎌倉観光した、など。

欠落部分もありますが、関ヶ原直前に鳥居元忠と一緒に伏見城に籠城。天守閣が焼ける中、自刃。親子揃って悲劇だったのかもです・・・。

戦と政治のイメージの戦国時代ですが、それだけではないという、普段の生活が良く分かります。

NHK真田丸で、松平家忠が鳥居元忠と「焼ける伏見城内で自刃した」と考えるだけでジーンときます。

では。

室賀隆幸 #- | URL | 2016/09/09 12:29 * edit *

Re: 室賀 隆幸様へ

情報ありがとうございます。

「家忠日記」の件、初めて知りました。この方のおかげで当時の戦国武将の生活や名だたる有名大名の側面を知る事が出来たんですね。マメな方でしたので、伏見城では惜しい事となりました。もし生き延びてその後の日記を残されたら、関ヶ原のその後や大坂の陣なんかも詳細に記録されたんでしょうか。残念な事です。

真田丸での伏見城の落城の件は例の如く「瞬殺」されそうな予感です。

「私はほとんど間違えることがないが、ごくたまに誤った決断をすることがある」by 石田三成 それが関ヶ原だった?(笑)

らんまる #- | URL | 2016/09/10 08:00 * edit *

わからんものです

家康さんは協力してくれた武家には面倒見がいい面もあるのですが、
真田昌幸さんに対しては終始、空手形ばっかりでしたね。

その辺のさじ加減がわからんです。
(徳川から豊臣方についた武家は、後に改易になった家が多いようなかんじですね)

ところで、予算の関係で仕方ないと思うのですが、
真田丸では関ヶ原合戦はスルーされそうな感じですね
新しい事実もわかってきたので、楽しみにしてたのですが残念です。
(小早川秀秋さんは世間のイメージどおりの配役で、ある意味びびりました)

丸馬出 #- | URL | 2016/09/10 21:10 * edit *

Re: 丸馬出様へ

そう言われてみれば、石川数正は息子の康長の代に大久保長安事件に連座して改易されましたネ。(表向きの口実だと思いますが・・)小笠原貞慶も義昌同様に空手形に業を煮やして家康を裏切りますが、その後の出世は破格の扱いで義昌とは雲泥の差となりました。昌幸も義昌も徳川と合戦に及んだ事実は赦し難い怨恨になり心証を悪くしたのは事実だと思われます。

関ヶ原は第二次上田合戦を軸に展開するので上方の合戦は省略されるかと・・・(汗)
どうしても結果論から歴史を検証しがちになりますが、この時の東軍も西軍も「勝って生き延びて家名を残す事」が最優先の博打に己が身を任せた。関ヶ原の戦いなど無かったという説もあり、これからの新発見に期待したいところです。

らんまる #- | URL | 2016/09/10 22:35 * edit *
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