らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0918

妻籠城 (木曽郡南木曽町吾妻)  

◆約束不履行の家康タヌキに一矢報いた木曽義昌の意地の籠城戦◆

先週の真田丸における「超高速関ヶ原」凄まじい反響を巻き起こした。天下分け目の決戦が僅か一日で決着してしまうとは、パパ幸も信繁もまさに「青天の霹靂」であったろう。

今回ご案内するのは、上田城の攻略に失敗し地団太踏んで悔しがった秀忠が、関ヶ原合戦における徳川方大勝利の知らせを受けた時の陣所だったという「妻籠城」(つまごじょう)。実はこの城も、徳川軍にとっては忘れられない屈辱を味わった城なのである。

妻籠城 (7)
19号線から妻籠宿方面の国道256号線に入り、途中の分岐から旧中山道へ向けて東に入ると二差路。ここが城跡への登り口。

【立地】

中山道妻籠宿の北、木曽川に面して独立峰のように聳立する小山が城山で、背後の山尾根との間の鞍部を中山道が通り、妻籠と三留野(みどの)を結ぶ要衝の地である。
この山は、北側は木曽川、西側は蘭川(あららぎがわ)の流れによって削られ、山体は急で要害の地である。谷中へ孤立したような山のために、西や北、あるいは南の蘭川流域への眺望がきき、美濃方面と伊那方面からの交通路が集まり、木曽南部での戦略上の重要拠点になる。

妻籠城 (3)
中山道の「しろやま茶屋」跡。かつては街道を行き交う旅人で繁盛したのであろう。

妻籠城 (5)
城址への登り口に立つ石碑。県指定史跡だとは知らなかった・・・(汗)

妻籠城 (8)
現在は遊歩道が堀切の中を通っているが、堀の東側の斜面にかつての旧道を確認出来る。

【城主・城歴】

妻籠地区は、室町の中期頃までは美濃の遠山氏の勢力圏内にあったらしいが、天文二年(1533)には京都醍醐寺理性院の巌助僧正の「信州下向記」(飯田の文永寺に行った時の記録)に「妻子(妻籠)は木曽一家也云々、即ち木曽路の内也」とあることから、木曽氏の支配下にあったことがはっきりしている。

妻籠城① 002
中山道を押さえる城として築城された事がハッキリ分かる縄張りである。

妻籠城 (16)
郭4を中心とした東西の防御ラインと本城との連絡路は両サイドを深く堀が抉る土橋。

妻籠城 (17)
本城側から見たS字状の土橋(堀切㋓)。こんな小城が徳川相手に持ちこたえたのは地形を生かした防御の工夫であろう。

「木曽考」によると、木曽家豊の頃に、弟の三留野右京亮家範三留野に、野路里右馬介家益を野尻に封じたことになり、「下条由来記」では「木曽妻籠殿は木曽の三男なり。」とあり、妻籠の辺まで木曽氏一族が配備されたことが伺える。更に清内路に家中の原伝衛門を置いたことが知られる。(「下条由来記」)

妻籠城 (18)
遊歩道による堀切㋐の改変に注意。往時は防御上、このような道などあるはずもない。

妻籠城 (19)
堀切㋐の堀中。高低差のある尾根を遮断しているのでかなりの効果があったはず。遊歩道の設置は残念だ。

妻籠城 (31)
堀切㋐に接続する平場(10×21)から堀底を見下ろす。堀切に入った敵を対岸の味方と共に挟撃するには極めて有効である。

妻籠城が世の中に知られるようになったのは、天正十二年(1584)の小牧長久手の戦いの時に家康を見限り、豊臣秀吉に内通した木曽義昌が家臣の山村良勝に妻籠城を守らせた籠城戦である。

がしかし、信濃の戦国武将研究の第一人者である平山優氏ですら、妻籠城攻防戦についての史料は乏しく、「木曽考」等の後世の編纂物に頼る以外にないと仰せなので、ここでは平山優氏の著作である「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望」(2011年 戎光祥出版)の第二章「織田政権の崩壊を信濃の情勢」の記述を引用し、この籠城戦の様子を写真とともにお届けしようと思う。

妻籠城 (23)
主郭の次に大きな東端の郭3。

天正十二年(1584)五月、秀吉方に内通した木曽義昌の討伐を家康に命じられた小笠原貞慶は、鳥居峠に押し寄せるも木曽軍の奮戦により撤退。続いて八月、家康は伊那郡代の菅沼定利を通じて、伊那の徳川軍および徳川方の信濃衆である諏訪頼忠や保科正直らに木曽攻めを命じた。

菅沼定利率いる徳川方は、妻籠城は寡兵だろうから、すぐに落とせると侮り攻め寄せたが、約三百の守備兵の士気は旺盛で、徳川方は返り討ちに遭い甚大な被害を受けた。その後、徳川方は城を包囲するだけで、攻めあぐんでいた。

妻籠城 (41)
西側から見下ろした郭2。堀切㋐に隣接する長方形の郭である。

妻籠城の様子を心配した木曽義昌は、家臣の西尾丹波守を派遣して様子を探らせたが籠城兵の士気旺盛なるを聞き及び安堵したという。

力攻めを断念した徳川軍は、近隣の土豪と領民を調略し妻籠城への武器弾薬と兵糧の補給路を遮断する策に出た。これが功を奏し、また水の手を断ち切る事にも成功した為に妻籠城は一転して窮地に追い込まれた。

妻籠城 (45)
堀切㋑の土橋。守備兵からすると、土橋を残すことで攻城兵のルートを限定させる効果がある。

これを知った豊臣方の森忠政は直ちに後詰めで出陣しようとするが、妻籠城の山村良勝はこれを固辞し糧道を確保するために城から討って出ようとした。配下の中関大隅守は山村を説得し思い止まらせ、籠城戦を継続させたという。

妻籠城 (46)
南の斜面遮断する堀切㋑。

妻籠城 (59)
北側の斜面に竪堀となって落ちる堀切㋑。

しかし、ついに城中の弾薬が尽き籠城衆の進退がきわまった時、城兵の竹中小左衛門が進み出て、夜中に城を脱出し三留野の味方に応援を頼む事を願い出て、山村はこれを許可した。
竹中小左衛門は夜半に敵の包囲網を潜り抜け、急流の木曽川を渡り三留野の木曽衆に城の状況を知らせ支援を求めた。
木曽衆は水泳に長けた者を三十人ほど選び髻に玉薬(火薬)を結び付け木曽川を渡らせて城に届けさせた。

妻籠城 (69)
主郭北側の帯郭。

妻籠城 (74)
西尾根を遮断する堀切㋒。(上から見下ろして撮影)

妻籠城 (86)
主郭の西下の段郭。周回しているので武者走りであったのかもしれない。

竹中が味方と共に帰還した事を知った山村は大いに喜び、早速玉薬を城兵に分配して、攻め寄せてくる敵に向かって鉄砲を撃たせた。たちまち敵兵二、三〇人が斃れた。
すでにまともな抵抗など出来ないと考えていた徳川方は大いに驚き、周到な籠城作戦だったと思うようになった。更に森忠政の救援の情報に接し、ついに徳川方は退却を決めたという。

妻籠城 (87)
主郭は低い土塁が囲み何ヵ所か出入り口がある。

妻籠城 (88)
主郭には東屋が建ち、石碑がある。

徳川方の退却を知った木曽衆は近隣の郷民に連日山中のあちらこちらで篝火を焚かせ、旗指物を掲げさせた。
これを見た徳川方は狼狽し、木曽義昌本隊の後詰めの到着と思い込み撤収を急いだ。さらに森忠政の援軍が来れば挟撃されて全滅の恐れがある。

妻籠城の山村良勝は徳川軍の退路となる木曽峠の山道に先回りして伏兵を置いた。そして徳川方が撤退を開始すると、城から討って出て追撃を開始した。城からの追撃兵を防戦する徳川軍は、突然背後の伏兵に接し挟撃される形となり多数の犠牲者を出し大いに敗走したという。

これが世にいう「妻籠合戦」で、豊臣秀吉は戦後、徳川軍の猛攻に耐えた妻籠城の山村良勝の戦功を賞し感状を与えたという。

妻籠城 (89)
城址に立つ妻籠城の説明板。

妻籠城 (92)
主郭から見下ろす妻籠宿。眺望の良さは抜群だ。

妻籠城 (95)
主郭の北側の小口は後世に開けられたものであろう。

●その後の妻籠城

慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの時、関ヶ原へ向かう徳川秀忠軍は、上田城で手間取り、家康の督促もあり9月12日に西へ向かい、本山宿に着いた9月15日が関ヶ原の合戦、17日妻籠城で東軍勝利の知らせを聞くことになる。
この時に妻籠城は改修を受け、大坂の陣の時には、馬場半左衛門以下11名が守り、元和二年(1616)に廃城になる。

妻籠城 (98)
東軍勝利の知らせを受け、秀忠と本多佐渡はここで何を思ったのであろう・・


【城跡】

妻籠城は典型的な輪郭式の山城で、それぞれのパーツの構成を見ても非常に守り易い城である事が分かる。高い切岸、武者走り、深い堀切。また沢を介して出城ともいうべき郭4との接続は一騎駆けにも近い土橋である。
城攻めが不得手な徳川軍には強固すぎる縄張である。

妻籠城① 002
再度ヘッポコ縄張に登場願おう・・(笑)

妻籠城 (104)
堀切㋑と土橋、その奥は郭2。

妻籠城 (111)
遊歩道により改変があるが、迫力のある堀切㋐。

●郭4とその周辺

中山道と本城との間には屏風のような尾根がある。妻籠城の出城ともいうべき郭4を中心としたこの尾根の防御構造について追記しておきたい。

妻籠城 (149)
尾根の西端の郭6。細長い見張用の堡塁のようだ。

妻籠城 (147)
痩せ尾根が続く。

妻籠城 (137)
郭5。

郭4から西へ延びる尾根上は細長い武者走りとなっていて、数カ所簡単な堀切が穿ってある程度。
さすがに郭4は前後に土塁を置き、三方に大きめの堀切を装備している厳重仕様。

妻籠城 (130)
東尾根を遮断する堀切㋕。

妻籠城 (127)
中山道側の南に設置された堀切㋖を見下ろす。笹薮が酷くて何が何だか・・(汗)

妻籠城 (121)
別角度から撮影した堀切㋖。土塁を付けて高さを稼いでいる。

妻籠城 (124)
堀切㋖の堀底から西尾根方面を見る。

妻籠城 (116)
郭4。妻籠城の防衛に際してはかなり重要な郭であったと思われる。

妻籠城 (117)
郭4は二段の土塁で守られている。(北側より撮影)

さあ、如何でしたでしょうか。

美濃国との境目の城だった妻籠城。空手形ばかり発行し約束を反故し続ける徳川家康に対して木曽義昌が見せた反撃の狼煙。そして家臣の山村良勝と木曽衆が見せた徳川軍への会心の一撃。

後世の評価の芳しくない義昌ですが、信濃の戦国武将としての心意気をそこに感じるのは私だけでしょうか・・・。


≪妻籠城≫ (つまごじょう しろやま)

標高:521m 比高:140m(国道より)
築城年代:室町中期か
築城・居住者:木曽氏、馬場氏
場所:木曽郡南木曽町妻籠吾妻
攻城日:2015年3月22日 
お勧め度:★★★★★ (満点)
館跡までの所要時間:10分 駐車場:道路脇路駐
見どころ:郭、切岸、堀切、土塁など
注意事項:特になし
参考文献:「信濃の山城と館⑦安曇・木曽編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版 P442参照)「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望」(2011年 平山優著 戎光祥出版)
付近の城址:妻の神土塁、妻籠古城、神明砦など

妻籠城 (91)
本郭に建つ説明板の拡大。


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Posted on 2016/09/18 Sun. 11:07 [edit]

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« 妻の神土塁 (木曽郡南木曽町吾妻)  |  須原城 (木曽郡大桑村須原) »

コメント

こんばんは。

あの妻籠宿にこんな城跡があり、こんな歴史があるなんて全く知りませんでした。
妻籠宿は、江戸時代以前から街道の重要な宿場だったんでしょうかね。

「しろやま茶屋」跡に何か建物が見えるんですが、茶屋の建物が残っているんでしょうか。

万見仙千代 #YR4Ixzf2 | URL | 2016/09/19 20:43 * edit *

Re: 万見仙千代様へ

建物は残ってますよ。ずいぶん前に閉鎖されたようで倒壊しそうです・・(汗)

この道は中山道巡の往時の雰囲気を味わえるので妻籠宿からの散策コースとして人気があるようです。
が、妻籠城に登る方はほとんどいません・・・。
妻籠・馬篭が宿場町として栄えるのは江戸幕府の五街道の整備以降だと思われます。戦国時代は美濃との境目なので、結構ピリピリしてたのかも知れませんネ。

江戸から京都・大坂へは東海道が近いのですが、大井川の氾濫がネックだったので、多少距離が長くても天候に左右される事の少ない中山道越えが重宝されたようです。

らんまる #- | URL | 2016/09/19 22:23 * edit *

無念の妻籠城

家族で木曽に行って、妻籠宿まで行ったついでに攻め落とそうと画策しましたが、「つきあっていられん」との家族の反対で攻城を断念した城です。
徳川の兵隊さんの気持ちがよく分かります。しかし、惜しかったなあ・・S字土橋など良さげですなあ。
真田丸での宗太郎こと義昌さん、まるで山賊扱いでしたが、母娘を殺されたり、苦労されたんでしょうなあ。
そこそこの優秀さもあったのでしょうなあ。
山村さんのような優秀な部下と山岳ゲリラ部隊を持っていたのが幸いだったのかもしれません。

あおれんじゃあ #- | URL | 2016/09/20 22:52 * edit *

つまごめ

こんばんは、らんまるせんせ。おおお、妻籠城!って城があったのですか!
こんなバリバリの縄張りで見張られていたとは。びっくりです。
妻籠宿の姿しか知らないので、とても面白いです。
妻籠と馬籠といえば五平餅♪食べたくなります。

ここで秀忠が関ヶ原の事を知ったのですか。んまぁ。
「秀忠、ショック!の地」で売り出したらどうかしら。マニアックかしら。

あっという間の九度山行きと、浦島太郎のような来週の幸パパ。
ああ、もう、秋だなぁと実感しております。



つねまる #pjmS0te2 | URL | 2016/09/20 22:52 * edit *

Re: あおれんじゃあ様へ

それは残念でしたね。
小生も昨年の秋の家人との旅行で「超高速関ヶ原」となり「無念!」でございました・・(笑)

義昌さん、せっかく苦難の戦国時代を乗り切ったのにバカ息子の代で改易。
優秀な山村さんは木曽に戻り、以前は敵だった家康に取り入って見事に木曽の代官様に昇格。妻籠城の戦いで武功を挙げた効果テキメン。さすがです。

ここは木曽というより美濃です。しかし上田からは遠くて長野県とは思えません・・(汗)

らんまる #- | URL | 2016/09/21 07:39 * edit *

Re: つねまる様へ

木曽路では超有名な「妻籠宿」(つまごじゅく)と「馬籠宿」(まごめじゅく)ですが、元々は峠を挟んだ同じ「つまごめ」という名の集落だったようです。(どんづまりの狭い土地という意味らしいです)
それが呼び名が変化して現在の名に落ち着いたみたいですね。どちらも同じ名前の宿だったらどうしましょう(笑)

中山道とはいえ渓谷続きの狭い木曽路を数万の徳川軍が行き交ったわけですから、先頭と最後尾は何キロ離れたのかしら?
皇女和宮の嫁入りの時の列も凄い長さだったと伝わっています。お供も大変です。

パパ幸さん、佐渡に蟄居だったらきっと反乱を企てて内野家康に一矢報いたと思うのですが、想像力逞し過ぎでしょうか(笑)

らんまる #- | URL | 2016/09/21 07:54 * edit *
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