らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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長沼城 (長野市穂保)  

◆廃城による破却と千曲川の氾濫により失われた縄張が推定復元された戦国の城◆

北信濃の長沼城といえば、甲越紛争における武田軍の飯山口方面攻略の最前線基地として改修され、そして天正壬午の乱では上杉景勝が北信濃の海津城攻略の中継地点として活用し、江戸幕府となってからは森忠政、松平忠輝が領し、元和元年には長沼藩一万石として初代藩主佐久間勝之の居城として交通の要衝に位置する戦国の世を駆け抜けた貴重な平城であった。

「?、であった???、 今は無いの?」

naganuma3.jpg
千曲川の堤防道路の下には長沼城の唯一の遺構として残る土塁があり天王宮が祀られている。(2010年11月撮影)

6年前、それでもと痕跡を求めて僅かな遺構しか残っていない長沼城を訪ねてみたが石碑以外は何も見つけることが出来なかった・・・。

先輩諸氏のブログやHPでも上にある写真ばかりが並ぶ。

naganuma2.jpg
6年前の探訪時の写真。「千曲之真砂」の長沼古城之図」を当てはめるとこんな感じで、千曲川の氾濫により本丸付近は壊滅。

その城歴は凄いのだが、なんせ遺構の欠片がほとんど無いので攻城戦記にも掲載を躊躇していた・・・・。

ところが、先日、長野県立歴史館の企画展「信濃国の城と城下町」を見学した際に「長沼城の復元縄張図」があってビックリ!!

長沼城の現状を憂えた地元の有志の方が平成20年に長沼歴史研究会を発足させ、長沼藩時代の検地帳や廃藩後の千曲川の増水による被災記録の古文書を読み解くという地道な努力を重ねて、平成26年に縄張の復元案をまとめたのだ。(「長沼城の研究 ~城跡の検証~」をその年に発刊)

長沼城復元縄張図①
足掛け6年という地道な努力により平成26年に完成した長沼城の復元縄張図。

今回は、長沼歴史研究会の皆様の長年に及ぶ努力に敬意を表しつつ、復元縄張図を辿りながら長沼城の歴史を振り返ってみたいと思います。

【立地】

長沼城は、千曲川の左岸、善光寺平の北よりの千曲川自然堤防上に築かれた平城である。飯山城と海津城(松代城)の中間地点にあり、往時は北国街道の脇往還が通る交通の要衝でもあった。

長沼城立地
※長野県立歴史館平成28年度冬季展「信濃国の城と城下町」の資料集5Pの地図を加工して一部分を引用掲載しています。

【城主・城歴】

長沼郷は古くは太田荘に属し、地頭は島津氏で長沼には南北朝の頃から島津氏の一族が住んでいたという。
戦国期に入り、島津氏は上杉方についた長沼島津氏と武田方についた赤沼島津氏に分裂。島津月下斎(忠直)は高梨氏とともに上杉方に属して長沼城を守ったが、弘治三年(1557)二月、葛山城が武田氏の手に落ちると、詰めの城大倉城へ退き第四回川中島合戦で景虎の先陣をつとめたが、退却し越後に逃れた。

長沼城跡2017 (10)
長沼城の大手門跡。長沼りんごホール(長野市役所の分館)の駐車場腋のクランク付近。

長沼城跡2017 (11)
城の北側にあたり、大手門を入ると侍屋敷が立ち並んでいたと推定されている。

永禄六年(1563)、武田信玄は戦乱で荒廃した長沼城下の地下人をふたたび戻すよう島津尾張守忠吉(赤沼島津氏)に命じている。永禄十一年(1568)には信玄は長沼城を拡張し、兵力を増強する。長沼城将として市川梅印、原与左衛門、島津泰忠等で守らせ、島津泰忠には本領夏川(飯綱町)・西尾張部(長野市)・普光寺(飯綱町)などを安堵した。これ以降、長沼城は上杉攻めの武田軍の最前線基地となった。

長沼城跡2017 (1)
長沼城跡の復元縄張図と現在地の説明板がポイント箇所に設置されているので有難い。

長沼城跡2017 (9)
守田神社は現在地よりも100m東にあったというので、城の鬼門除けの役割を担っていたと推定される。

天正六年(1578)三月、御館の乱の時には、武田勝頼は上杉景虎の援軍として長沼城に入り越後へ出兵している。

天正十年(1582)三月に武田氏が滅亡すると川中島四郡は織田の将の森長可の支配下となり森は海津城に入城する。武田の信濃先方衆であった芋川親正は森長可の配下となる事をよしとせず、上杉景勝の支援を受けて自らが総大将となり反織田方の牢人衆と百姓や一向宗門徒約八千を集め大蔵城で一揆を蜂起。景勝の命を受け密かに長沼城に入城していた島津忠直と共に飯山城を攻撃するが、森軍の反撃に合い撤退。逆に長沼城を落とされ1200人余が討死。大蔵城に籠城していた婦女子約1000人が撫で斬りにされ、一揆は鎮圧された。芋川親正と島津忠直は越後に逃れた。

長沼城跡2017 (3)
守田神社の境内の南側が北側の三日月堀跡だという。

長沼城跡2017 (4)
神社側から見た北三日月堀の痕跡。僅かだが積雪の段差に往時の土塁(岸)の痕跡が残る。

長沼城跡2017 (5)
西側寄り撮影。微妙な段差がお分かりいただけるでしょうか。

天正十年六月、本能寺の変により信長が横死すると森長可は美濃へ逃れ、上杉景勝が北信濃へ侵攻し川中島四郡を手中に収めた(天正壬午の乱)。景勝は6月27日に長沼城に入城し川中島四郡の仕置きを行い、長沼城は城将として島津忠直が命じられ、河北郡司として北信濃統治をおこなった。また、武田方であった島津泰忠は赦され忠直付きとなっている。

長沼城跡2017 (6)
北三日月堀付近から見た二の丸跡。廃城により破却埋め立てされ、耕作地となり現在に至る。

長沼城跡2017 (13)
大手門から西へ。復元縄張図では三の丸に侍屋敷が置かれ、その外側に外堀があったと記されている。

長沼城跡2017 (19)

長沼城跡2017 (21)
三の丸西側の侍屋敷の中に建てられている吉祥庵。1650年の建立。この38年後に長沼藩は改易され城も廃城となった。

長沼城跡2017 (22)
現在では民家が立ち並ぶかつての侍屋敷通り。

慶長三年(1598)、上杉景勝の会津転封に従って島津忠直が長沼城を去ると、豊臣秀吉の蔵入地として代官の関一政が入城。その後、江戸幕府が成立すると、森忠政(森可成の六男で長兄は長可、長可が戦死すると森家の家督を継いだ)、松平忠輝が領し、元和元年(1615)に大坂の陣の功績により佐久間勝之に与えられ、ここに長沼藩(一万八千石、一部は近江領)が成立する。
※佐久間勝之は蒲生氏郷の家臣であったが氏郷の死去のあと、秀吉より既に長沼城を与えられていたという説もある

長沼城跡2017 (23)
二の丸正面にあったとされる西三日月堀の説明板。

長沼城跡2017 (25)
西三日月堀跡(推定)。堀の外側のカーブが筆境として確認出来るとしているが、全然見えない小生の目は節穴のようだ・・・(汗)

長沼藩は、佐久間勝之⇒勝友(勝之の次男)⇒勝豊(勝友の長男)と続き、佐久間勝親(婿養子、日向高鍋藩秋月種信の五男)の代の元禄元年(1685)に、将軍綱吉の御側小姓を命じられたが病と称して出仕せず、その後仮病とであったことが露見して改易、廃藩となった。

長沼城跡2017 (26)
二の丸の堀跡前に立つ三の丸の説明板。

長沼城跡2017 (27)
三の丸と言われても、耕作地が広がるばかり。

長沼城跡2017 (31)
説明板には中堀とあるが、二の丸の外堀の北側であろう。一部水路として残されたようだ。

【復元縄張図から見た城跡】

今回「長沼歴史研究会」の皆さんの努力によって蘇った「復元縄張図」は、「千曲之真砂」に掲載されている「長沼古城図」を基本に地形や地名(字名)を調査し辿ってつくられたものと推察される。

残念ながら長沼城は元禄元年の廃藩による廃城の際に、建物は破却され全ての堀は埋め立てられて石垣も撤去され完全な更地となり耕作地化してしまった。
加えて千曲川の氾濫原に隣接していたために度重なる洪水により嘗ての本丸付近の地形もだいぶ浸食・変形してしまい原形を留めていないいまいようだ。

長沼城跡2017 (32)
中堀跡の水路脇を堤防側に向かって歩くと櫓台跡の説明板。

長沼城跡2017 (34)
二の丸の北東で鬼門(隅欠)の位置に当たる。ここには望楼のような建物かあったのか?

本丸があったと推定される場所は、西側を堤防道路が貫通し東側は千曲川の河川敷となっているので全く不明だ。千曲川を背にした輪郭式の縄張りで、本丸と千曲川の間には馬場があったと指定されているが、川沿いには石垣は積まれなかったらしい。

長沼城跡2017 (36)
こんな積雪の中をわざわざ長靴に履き替えて狂ったように城跡巡りしているのは小生のみ・・・(汗)

長沼城跡2017 (38)
この堤防がなかった往時はどんな城跡だったのだろうか・・。現在の場所からは全く想像できない。

長沼城は元々は島津氏の居館であったが、永禄四年(1561)の武田軍の北信濃侵攻において、信玄に命じられた弟の武田信豊が大規模に改修し丸馬出を備えた武田流の縄張りの平城となり、その原型が出来たものと推察される。

長沼城跡2017 (42)
二の丸と西三日月堀の連結路付近は「おんま通り」と呼ばれていた。おんまは「馬」なので馬出しを意味しているようだ。

長沼城跡2017 (43)
広大な二の丸跡。冠木門跡は特定できていない。

永禄十一年(1568)、信玄は馬場美濃守信房に命じて長沼城を更に大規模に改修させ、越後攻めの最前線として大部隊が常駐できるようになったという。この時に侍屋敷を含めた総構えが出来たものであろうか。

武田滅亡後も北信濃の重要な戦略上の拠点として随時拡張と増強をされたものと推定される。また、上杉景勝の統治時代には、長沼城下を繁昌させるために北国街道の脇往還は横道でなく長沼の城下を通行するように命じたという。

長沼城跡2017 (45)
本丸内堀跡。積雪で雪の下に水路があるのが分からずトラップに引っかかり落ちました・・・(笑)

長沼城跡2017 (48)
堤防道路(本丸跡)に登って内堀付近を見下ろしてみた。

長沼城跡2017 (54)
堤防道路には新しく復元縄張図と説明板が建てられていました。地元の方の熱意に感謝ですw

長沼城跡2017 (52)
小生がグダグダと語るよりも分かり易く要約された城歴・・・(笑)

長沼城跡2017 (53)
現在千曲川の河川敷にはかつてこのように本丸と馬場があったんだと想像してみた。

いかがでしたでしょうか。「らんまると歩く雪の長沼城址」・・・・(爆)

遺構の跡と思われる場所に、最近流行りのVR(バーチャルリアリティー)を組合わせてスマホ片手に往時を偲ぶってのもありかと思います。是非ご検討いただければ幸いです。

長沼城跡2017 (57)
唯一の遺構として紹介される事の多い南三日月堀の土塁の一部。(堤防側より見下ろして撮影 天王宮がある)

長沼城跡2017 (64)
天王宮が祀られている土塁の一部を西側より撮影。手前の道路と土塁の右側に三日月堀があったのだという。

長沼城跡2017 (62)
せっかくなのでもう一枚。冒頭の写真と見比べていただくと整備されたのが分かるかと思います。

長沼城跡2017 (68)
こんな感じで想像していただけると良いかと思いますw

長沼城跡2017 (70)
城域の南端の貞心寺も周囲を堀に囲まれた屋敷跡だった。

復元縄張図の南端には周囲を堀に囲まれた方形の居館跡が二つ描かれている。東側は貞心寺で、長沼藩二代目藩主佐久間勝友が早世した長兄の嫡男である勝盛に5000石を分知した際に、勝盛が知行所(代官屋敷)を置いた場所である。(長沼知行所)
元々侍屋敷のあった場所を勝盛が譲り受け利用したと思われる。

長沼城跡20171 (1)
ここは佐久間勝盛5000石の知行所が置かれたが23歳で亡くなり嗣子なく断絶となった。

北信濃における重要拠点として海津城とともに武田に築かれた長沼城。廃城と破却によりその姿は謎のベールに包まれていたが、かつての雄姿を見る事は敵わないが、少しずつだが往時の輪郭が見えてきたことは凄い進歩だと思います。

平成29年度には長野市教育員会による試掘も予定されているので、今後の調査に期待が持てます。

≪長沼城≫ (ながぬまじょう)

標高:332m 比高:-m
築城年代:不明
築城・居住者:島津氏、武田氏、上杉氏、森氏、松平氏、佐久間氏
場所:長野市穂保
攻城日:2017年2月11日 
お勧め度:★★☆☆☆ 
館跡までの所要時間:-分 駐車場:長沼りんごホール借用
見どころ:南三日月堀土塁痕、北三日月堀塁線跡など
注意事項:民間住宅への無断侵入禁止、耕作地も通路以外は無断侵入禁止。地元の方とすれ違ったら挨拶を忘れずに。
参考文献:「信濃の山城と館② 更埴・長野編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版 P307参照)、「長沼城復元縄張図」(平成26年 長沼歴史研究会)
付近の城址:西巌寺、佐久間氏館(佐久間長助居館)、大蔵城など

長沼城跡2017 (55)
堤防道路の東屋の横に解説版があります。東屋を下った先に三日月土塁痕があり天王宮が祀られています。

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Posted on 2017/02/20 Mon. 16:56 [edit]

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コメント

こんばんは

地元の方達の熱意が素晴らしいですね。
「おんま通り」なんて、地元の口承で伝わった名前なんでしょうかね。

万見仙千代 #YR4Ixzf2 | URL | 2017/02/24 20:14 * edit *

Re: 万見仙千代様へ

さすがに地元の方も、長沼藩お取り潰しの原因が藩主の仮病だったとは書けないので「故あって改易となった」と濁しています(汗)

武田信玄が新たに信濃に新たに普請した城としては、牧野島城(信州新町)、岡城(上田市)、海津城(長野市)、深志城(松本市)、大島城(松川町)、そして長沼城(長野市)があります。海津城と深志城はその後の近世城郭への改修に伴い往時の縄張りは不明となりました。長沼城も破却されなければ武田流の縄張りを知る生き証人になれたはずですが、佐久間様、つまらない事をしてくれました・・・(笑)

現存する三日月堀は大島城と牧野島城のみ。長沼城、惜しい事しました。

それにしても、貴殿の仰せの通り、地元民の方の熱意には頭が下がります。

らんまる #- | URL | 2017/02/24 22:08 * edit *

すばらしい復元図ですね
さっそく私の過去記事は削除しました(汗

宅地化していないのでしたら
二の丸だけでも復元していただければ
入場料払っても見に行きたいですね

丸馬出 #- | URL | 2017/02/26 16:54 * edit *

はじめまして

初めて書き込みさせて頂きます。

北信住みの「てれ助」と申します。
よろしくお願いします。

最近このブログを見つけまして、ちょくちょく覗かせて頂いてます。

私は歴史にも疎く、城郭という言葉すら最近知った様な状況なのですが、去年辺りから、遺跡、古墳、土器、そして最近は山城に興味を持ちはじめまして。

ただ全く基礎知識が無い上に、普段は子育てなど忙しく、ゆっくり山城巡りも出来てないのですが。

そんな訳で、ブログで勉強させて頂きます。

長沼城なんてあったんですね!驚きました。

てれ助 #- | URL | 2017/02/26 21:41 * edit *

Re: 丸馬出様へ

記事を削除ですかあ? やめましょうよ、そんな浅はかな事・・。

今回、長沼歴史研究会の方々の作成した縄張図が正解とは誰も言っておりませんし、色々な議論や推測があって然るべきだと思いますよ。

「百聞は一見に如かず」

貴殿が実際に復元縄張図と現地を辿って感想を述べる事こそ肝要かと。

らんまる #- | URL | 2017/02/27 20:35 * edit *

Re: てれ助様へ

初コメありがとうございますw

北信濃は甲越紛争の激戦区となったので、かなり緊張感を持った山城が多いのが特徴です。
全国の中世城郭マニア垂涎の山城の宝庫ですが、ほとんどが険しい場所にあるので、本格的な装備と時間と体力的な余裕がないと厳しいのが現実だと思います。

地元の利を生かして、「行きたくても行かれない、でもどんな山城なのか知りたい・・・」その要望に少しでもお役に立ちたい・・そんな思いで立ち上げてみました。

戦国時代は、西国の城と東国の城に分類されるのですが、その中間(境目)に位置した信濃では東西の築城方式や縄張を融合した独自の中世城郭が数多く分布しています。
北信濃・中信濃には独特な石積みの山城があり、これがマニアの憧れでもあります。

武田に侵略され、天正壬午の乱では大勢力の草刈り場となった信濃国。それぞれの時代背景を予習して城跡に辿り着くと、それはそれでまた特別な感慨がこみ上げてきます。

時間に余裕が出来ましたら、是非とも準備万端でお出かけください!!

らんまる #- | URL | 2017/02/27 20:57 * edit *

本日

実は今日、仕事休みだったので、長沼城に行って参りました!

いや〜
感動しました(TOT)

てれ助の家から30分位で辿り着く場所ですし、実際今迄何度も何度も通った場所ですし、しかし改めて訪れると、確かにそこには城跡の形跡と言いますか、感じる物がありました!

この旧道(越後街道)は、昔から車で通る度に「この辺りは何でこんなに古くて雰囲気があるんだろ?」と疑問に感じておりましたが、なるほどそういう訳だったのか!と一人で感動しておりました。

きっと地元民の目には、「この人、なにソワソワして歩いてるんだ?」と思われたに違いありません。

不審者では無いので許して下さい( ;∀;)

てれ助 #- | URL | 2017/02/27 21:43 * edit *

Re: てれ助様へ

早速行ってきましたか、ありがとうございます。

景勝が長沼城下を繁昌させようと越後街道を捻じ曲げてくっつけたので、往時の雰囲気が何となく残ってますよね(笑)
佐久間さん、仮病など使わなければ長沼藩も存続して三日月堀の残る長沼城が見られたかもしれないと思うと残念です・・・。
小生の住む上田市にも岡城がありますが、やはり三日月堀は壊滅し水田の一部にその曲線が残る程度です。

街中の遺構を訪ねる時は不用意にデジカメを構えるのは注意が必要です。仰せの通り不審者扱いされます。
面倒でも地図とか本を片手に持っていると怪しまれることはありません・・・長年の経験から得た知恵です・・(爆)

またのお越しをお待ちしておりますw

らんまる #- | URL | 2017/02/28 07:45 * edit *

雪国

こんにちは、らんまるせんせ。一面の銀世界、お目目がチカチカしそうです。
私は神社で落ち葉に埋もれた水路に膝上までずっぽりと落ちましたが、せんせもお仲間と知り、大変嬉しゅうございます。

幼稚園児にもわかる解説のおかげで、とても興味深く拝見しました。
皆様が追い求める三日月堀が二つもあった(ある?)のですね。

地図で見ると368号線が迂回しているように見えますが、わざわざ避けたのか地形がそうなのか、どちらでしょうか?

素人には「現在地」を示した図面が現地にあるのは、大変ありがたいです。
地元の大切な史跡なんだな、と、訪れる側も背筋を伸ばしてお邪魔する気構えができますわね。

つねまる #pjmS0te2 | URL | 2017/02/28 18:01 * edit *

コメントありがとうございます。

過去記事も時々メンテしたいのですが
残して、改訂版を書いたほうがいいのですかねえ
消してしまうと、元に戻せないですよね

丸馬出 #- | URL | 2017/02/28 19:19 * edit *

Re: つねまる様へ

幸い落ちた用水路は浅かったので助かりましたが、これが深いと春まで発見されなかった可能性があります・・(笑)
一面の雪原を見ると駆けまわりたくなる犬のような性格の方は気を付けないといけません。
神社も意外とトラップが多いのでご用心ください・・・・夏はご用心・・って桜田淳子かい!(爆)

三日月堀と丸馬出を備えた武田流の縄張りを持つ城の誘惑に負けた方は数知れず。
しかし北条方の角馬出はイマイチ。でもワッフルのような障子堀の誘惑に負けた方も数知れず・・・。

368号線は北国街道の脇往還で、景勝さんが長沼城下を繁昌させようろ城の中を無理に通したものなのですが、さすがに鉤の手に折れ曲げています。
「おらが町の長沼城!!シャキッとせんかい!」という心意気が感じられる復元図ですw

らんまる #- | URL | 2017/02/28 19:20 * edit *

Re: 丸馬出様へ

再訪して貴殿の感じたままを記事にしてみてはどうでしょうか。

400年も500年も前の当時の遺構なんて誰も見ていない訳ですから、想像は人それぞれだと思いますヨ。

らんまる #- | URL | 2017/02/28 19:24 * edit *

こんなんでしたか

ここに行ったのは10年以上前、りんご畑と堤防しか印象に残っていません。りんご畑にはなぜか罪悪感が・・、おっと脱線。

名が知られたわりには湮滅状態でしたが、復元すればこんな感じでしたか。
地元の熱意は伝わりますが、こうも遺構が曖昧だと悲しいですね。
千曲川の洪水などで遺構が埋もれてしまったのでしょうか。
海津城と縄張が良く似てますねえ。

あおれんじゃあ #- | URL | 2017/02/28 22:06 * edit *

Re: あおれんじゃあ様へ

佐久間さんも真面目に将軍の側小姓を勤めていたら藩も城も潰されずに済んだのに、惜しい事してくれました。

沼田城もそうですが、この時期、幕府に逆らったヤツの居城は見せしめとして徹底的に破却されたようですね。
おかげで武田流の平城が地上から消えました・・・(汗)
まあ、運よく残ったとしても海津城と同様に千曲川の氾濫に苦しめられて形も変わったと思われますw

らんまる #- | URL | 2017/03/01 07:44 * edit *
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