らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
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葛山城の連続堀切 (長野市鑪葛山) 
城郭専門用語では、中世城郭の防御構造の種類の一つとして連続する空堀を「畝状阻塞(うねじょうそさい)」というらしい。
「連続空堀」でも「連続畝状(うねじょう)堀切群」でも、呼び名なんぞはどうでもよいと思うのだが、世の中にはその道のプロを自称する方々がおり、一言一句の間違いも赦さないという重箱の隅をつつくような輩も世の中にはいるらしい・・・(汗)。
その狭い了見が、山城入門者にとっては最大の阻害要因であることを自覚している方がどのくらいいるのでしょうか・・?(笑)
専門用語でしか語れぬ排他的な趣味の世界など栄えたためしはないし、滅びるしかないのが定めであろう。
中世の山城探訪がそういう世界観になるのであれば、小生は潔く山城巡りの趣味を捨ててブログも閉鎖しますよ・・・(爆)

何度訪問してもその全貌が明らかになることは無いと思われる葛山城。(写真は主郭の説明板)
今回ご案内するのは、善光寺平における甲越紛争(武田VS上杉)において、武田方の旭山城に対峙するべく上杉方が築城した葛山城の東尾根の主要部。
ここの尾根を切り刻んだ7連続の堀切は全国的にも有名なのだが、現地は笹薮が酷くて突入すら出来ない状態であった。
最近、ここの強靭な笹藪が刈り払い機によって刈り取られ、その雄姿を拝めるという情報があり、残雪の城址に挑んだ次第である。

宮坂武男氏はこの縄張図を描くために笹薮に突入したのであろうか。小心者の小には無理な相談である・・・。

2014年4月に撮影した二重堀切㋐(W底堀切)。堀底の土塁上には石祠が祀られている。

今回(2017年3月12日)に撮影した二重堀切㋐。二年前に比べてかなりスッキリしているのがお分かりだろうか・・。
※甲越紛争時における葛山城と旭山城の城歴は下記の過去記事を参照願います。
⇒旭山城
⇒頼朝山砦
【謎の多い葛山城】
幾度となく調査が実施されている葛山城だが、背丈ほどに生い茂る笹薮に阻れてその全貌の解明は未だに進んでいない。甲越紛争時の上杉方による改修と拡張を指摘する方を多くお見受けするが、果たしてそうであろうか?
当初は在地土豪の簡単な物見砦であったようだが、四方の尾根を含めた山全体がコツコツと手間暇かけて拡張され、上杉によって更に要塞化され一応の完成をしてその後武田による改修が続けられたとみてもよさそうである。

主郭の西側の二重堀切。ここの三連の堀切は毎年訪れても藪などほとんど無く快適に観察することが出来る。
【七連の連続堀切に感動】
ここに連続堀切があるのは周知の事実であったが、実際に笹薮に突入して堀切の数を数えて縄張図に記入したのは宮坂武男氏が最初であろうか。笹薮に突入する勇気は余ほどの覚悟がないと無理なのだが、今回は笹薮が刈り払われているので、偉そうに入ってみた・・・(笑)
某TVの「ビフォー・アフター」ではないが、2014年の4月と今回の2017年3月で比較してみましょうか。

2014年4月に南側より撮影した堀切㋑。突入する意欲も無くなる笹薮。

2014年4月に南側より撮影した堀切㋑と㋒。

2014年4月に南側より撮影した堀切㋓。ここに突入するには蛇への対策が必要である・・・(汗)

2014年4月に南側より撮影した堀切㋔。

2014年4月に南側より撮影した堀切㋕。藪に突入しない限り北側からの写真など撮れるはずもない・・・。

2014年4月に南側より撮影した堀切㋖。違いの分かる男でもさっぱり分からん・・・(笑)

ラストの三連㋖・㋗・㋘。もはやどうでもいい・・・(汗)
ところがどうであろうか。
笹薮を取り払い、雪のコントラストを加えると、ここが殺戮を想定した軍事施設であった記憶が鮮やかに蘇るのである。












堀の大きさがイマイチ分からないという方の為に「ていぴす」殿に登場願った・・・(笑)
記号も言葉も要らない8連続の堀切を順不同でご覧いただいたのだが、宮坂武男氏の縄張図における堀切㋘と郭4の接続状況が今回明らかになっていたのは特筆すべき事項であろう。

堀切㋗から見下ろした堀切㋘と郭4。

郭4から見た南側。
更に感動したのは、笹薮が酷くて絶対に入れなかった郭4に入れた事により、何度来ても絶対に見る事が出来なかった東尾根の堀切㋙と東尾根の竪土塁が拝めた事である。

ここの遺構が見れたのは奇跡に近い快挙であろう。
葛山城の全体の遺構については、また筆を改めたいと思いますが、ほとんど見る事の出来ない東尾根の連続堀切についてレポートさせていただきました。
4月中旬までは何とか見れそうなので、見学したい方はお急ぎください・・・。
≪葛山城≫ (かつらやまじょう)
標高:810.6m 比高:411m(裾花川より)
築城年代:不明
築城・居住者:落合氏、上杉氏、武田氏
場所:長野市鑪葛山
攻城日:2014年4月5日、2017年3月12日
お勧め度:★★★★★ (満点)
城跡までの所要時間:葛山神社より30分 駐車場:無し(神社の先に路肩駐車)
見どころ:W型堀切、8連続堀切、東尾根の竪土塁など
注意事項:8連続堀切の北側は急峻な崖なので転落注意
参考文献:「信濃の山城と館②更埴・長野編 宮坂武男著」
付近の城址:頼朝山砦、旭山城、大峰城、枡形城など
Special Thanks to ていぴす殿、笹薮を執念で刈り取ってくださった方・・感謝感謝!

敵対する旭山城は目と鼻の先である。その緊張感にどう耐えてきたのか・・・。
Posted on 2017/03/21 Tue. 22:53 [edit]
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信州の山城
らんまるさま
ご無沙汰しております。
「城郭専門用語では、中世城郭の防御構造の種類の一つとして連続する空堀を「畝状阻塞(うねじょうそさい)」というらしい。
*中略*
その狭い了見が、山城入門者にとっては最大の阻害要因であることを自覚している方がどのくらいいるのでしょうか・・?(笑)」
まさにそのとおりだと思います。
そもそも「畝」って何?
「阻塞」なんて意味不明だし・・・
難解な言葉を使って学問の深度を匂わすのはアカデミック界一部の悪癖だと思います。
それはともかく、信州の城砦館研究については、神を除いて、らんまる様がトップバッターだと思います。らんまる様の平素な文言で記された『長野県の中世城館跡』が出版されないか、本気で期待しております!
Re: まさはれ様へ
こちらこそ、ご無沙汰しております。
そんなにヨイショしていただいても、お茶の一杯も出せずに心苦しく思うておりまする・・・(笑)
訪問した城跡は1,000ヶ所を越えたとおもいますが、「城は尽きない」ので、毎回新鮮な発見があります。
「常に初心者の心で遺構に向き合いたい・・・」
恥ずかしながら、小生も相方の「ていぴす」殿も城跡に辿り着くと感動の言葉とため息の連鎖ですw
「こいつら、とうとう気がふれたのか?」 そんな感じの表現が多いです・・・(笑)
「鬼の城」とか「猿の城」とか、比高が異常に高い山城以外は、基本的に皆さんにも訪れて頂きたいと心底願っております。
「ようこそ、中世の城館の世界へ・・・」
本は出すことが無くとも、フランシスコ・ザビエルのように山城の伝道師でありたいと思うこの頃ではあります・・・(笑)
どこかの文献で呼んだのですが、
和睦の条件で
旭山城の破却と同時に破却した際に
重要な郭が使えないように
イ~クの空堀を掘ったのでは?
との説もあり、このお城のなぞの部分ですよね。
お寺の方にある放射状竪堀は
武田さんの手が入っている感じがしますね。
凄い...
笹藪がなくなり遺構がとてもわかり易くなったようですね 連続堀は驚きます
この葛山城と近くの旭山城は訪れてみたいと思ってるのですが...
落城の悲劇もあったようですが川中島の戦いを知るうえでも重要な場所なのかなと思いました
Re: 丸馬出様へ
さすがでございますネ。
現地で構造をよく見ると、この連続堀のある場所は説明板の立つ「推定主郭」よりも高い位置にあり、広さも「推定主郭」より広いので、ここに主郭があり破城の際に段々畑が掘られたという説も成り立つような気がします。
でも、旭山城の破城方法と共通する裏付けが見いだせないのが難点でしょうか。
また、頼朝山側から武田軍が攻め落としたという教訓から、武田が接収した後に東尾根に対する防御を強化した、とも取れる縄張ですネ。中条、戸隠、鬼無里、小川方面への進出の拠点として武田軍が改修しことは充分に考えられる山城です。
Re:yama様へ
久方ぶりでございますw
第二次甲越紛争の舞台となった善光寺平周辺の旭山城、葛山城、大峰城、枡形城の訪問はマストだと思われます。
旭山城は峻険な山の頂上にありコンパクトな造りでありながら、往時の最先端の築城技術を駆使した石積みを多用した素晴らしい遺構で必見です。200日間対陣しても謙信が落とせなかった堅固な山城です。
葛山城は、旭山城に対抗する付城として在地土豪の城を上杉軍が大改修を加えたものと考えられていますが、派生する全ての尾根に郭や堀切、竪土塁等の遺構が確認出来る事から、旭山城よりも長期間現役の城として長きに渡り改修が続けられたものと想定されています。
是非ともその目でご確認いただきたい北信濃を代表する山城です。
旭山のほうは
歴史群像の記事だったと思うのですが
破城といっても全てを壊すのではなく
象徴的な部分や隅のの石垣を壊したり
松を切ったりすることだったようです。
天草一揆の後は、徹底的に壊したらしいですが・・・。
旭山城の場合は
本丸虎口周辺の石垣が大規模に崩れているので
この辺が破城の跡かと推測していますが、
どうなんですかね
Re: 丸馬出様へ
葛山城の連続堀切の場所は従来の本郭があった場所で、防御システム構築の為に大きく改修されたと勝手に想像してます。
旭山城は怒れる謙信が一時期再興したらしいのですが、どこをどうしたのかよくわかりません。
前線基地が長沼城まで押し上げられたら葛山城と違ってここを利用する価値は無かったと思われます。
そうすると
いまのの本郭には
高い櫓があったと考えられているのですね
そう考えると
きょうみぶかいなわばりですねえ
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