らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
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松田館2 
千曲市八幡の武水別神社で代々神主を勤める松田氏の屋敷は、知る人ぞ知る戦国時代の方形居館跡であり、巨大な土塁と堀跡が残る貴重な遺構。現在千曲市が保存整備事業を進め平成31年には公開予定(当初は平成26年だったような・・)としているが、その一部が今週限定公開されている。

3月21日~26日まで一部を無料公開中。(10:00~16:00)
見たいけど、遠いし日程も短いので無理・・・という方の為に小生が見学した内容をお伝えしよう。
※ここに関しての過去記事は⇒八幡松田館をご確認ください。
【武水別神社の概要】
長野県千曲市にある武水別神社(たけみずわけじんじゃ)は、平安時代に京都の石清水八幡宮より勧進された延喜式社である。祭神として「武水別大神(たけみずかみのおおかみ)、誉田別命(おんだわけのみこと)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、比咩大神(ひめのおおかみ)など水や農業の神様を祀っている。

社殿(本殿)は江戸時代天保三年(1842)に火災により焼失、嘉永三年(1850)に、諏訪の宮大工立川富昌により再建。

主な祭事として、毎年12月10日~14日まで「大頭祭(だいとうさい)」が執り行われている
【松田家史料保存整備事業の経緯】 ※千曲市教育委員会の説明資料より引用
松田家は、代々武水別神社の神主を勤めてきた家系です。
千曲市では、長野県宝に指定された主屋(おもや)ほか市指定文化財の附属建物を平成16年12月、所有者の松田孝弘様から寄贈を受けたのを機会に、江戸時代~明治時代の建物群、約2,000坪の屋敷内に中世の居館跡を偲ばせる堀や土塁、さらに1万数千点にのぼる古文書、書画、什器等の資・史料の散逸や滅失を防ぎ、その保存と整備を行い広く活用を図る事を目的に、平成17年度から松田家史料保存整備事業を行っています。

綺麗に復元整備された長屋門と水堀。

今回公開されたのは北側の約2/3で、南の斎館は工事中のため未公開。
【松田館の主な文化財】
1.名称:長野県宝「松田家住宅主屋」(まつだけじゅうたくおもや)
指定:平成16年11月22日
概要:主屋の建築年代は不明だが、建築部材の仕上げや建物の特徴から18世紀代の建築と推定される。
19世紀前期に現在のように改造されたものと考えられる

北側から見た主屋。巨大すぎて写真に収まらない・・・(汗)

主屋の内部①

主屋の内部②

主屋南側の庭園
建物の特徴として、間口十二間語釈、奥行四間の細長い木造平屋建、茅葺(かやぶき)の建物で、間口中央から斎館に向かって凸字形に突き出した平面形となっている。
主屋の平面は、前後に五室が並ぶ形式で、土間が表から裏まで通る一般の民家とは異なった間取りとなっている。天井が低く、差鴨居(さしがもい)や長押(なげし)を用いない武家住宅のような趣がある。

主屋の台所

主屋の北側の裏庭
南側の突出部は書斎のような造りで、一画にある湯殿(ゆどの)は、神事の時に潔斎(けっさい)の場に使われていたところで、神主の家としての特徴が表れています。

湯殿。
2.名称:長野県史蹟「武水別神社神主松田家館跡」(まつだけやかたあと)
指定:平成18年4月20日
概要:敷地は東西約70m、南北約90mの方形を成し、中世の居館を構成する典型的な地割りである。
四方に高さ約3mの土塁が廻り、その周囲を取り巻く堀跡が残存する遺構をもっている。
これまでの調査結果から、松田館の土塁は16世紀、室町~戦国期の築造と推測される。
主屋の西側に接続する味噌蔵には、館の整備と並行して実施された発掘調査による遺物や調査当時の写真が飾られている。
また、松田家で使われた品々や松田家に伝わる古文書も一部公開されている。

発掘調査で出土した遺物

松田家で使用していたお重

松田家に伝わる文書

武田晴信(信玄)の朱印状(右)と、上杉景勝の朱印状も展示されている。
今回の一部公開では、北側の土塁、北西隅の御霊屋(おたまや)のL字土塁、裏門から氷室にかけての土塁が内側より見る事が出来た。

北側の土塁。北東隅の土塁は隠居屋建設の際に破壊された事が確認されている。

裏門付近の土塁。脇を地下水路が走っている。

北西のL字土塁の上に立つ御霊屋(おたまや)。江戸時代の天明に建てられた。

氷室のある西側土塁。
3.名称:松長野県宝「田家斎館」(まつだけさいかん)
指定:平成26年2月28日
概要:文久元年(1861)に再建された間口7間、奥行3間半の寄棟造の建物で、神殿が設けられた儀礼を主に行った。
現在も9月14日の仲秋祭や大頭祭の頭殿さんの出達儀式の場として使われている。
※今回は工事中に付き未公開
4.千曲市有形文化財「松田邸」(まつだてい)
指定:平成15年2月28日
概要:江戸時代後期から明治期の主屋はじめ斎館、土蔵など16棟を指定。
※県宝指定に伴い主屋・斎館は除外

西の蔵。

北の蔵。

隠居屋。

裏門(裏長屋)。御霊屋から撮影。
さて、如何でしたでしょうか。
千曲市は、平成17年度から総事業費5億数千万円をかけて平成31年の完成・一般公開に向けて進めていますが、工期は延びるかもしれません。
でも、未来の子供たちに地元の文化財を残して受け継いで欲しい・・・その心意気に拍手喝采です。
完成の暁には、是非皆さんも訪れていただきたいと思います。

Posted on 2017/03/24 Fri. 10:56 [edit]
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武水別神社
この神社、行ったことがあります!
たまたま辿り着いた感じだったんですが、その立派さに驚いたんですよ。
近くにこんな立派なお屋敷があったとは。
今でも、松田氏の末裔の方が神主さんをやっていらっしゃるんでしょうか。
らんまるさまの仰る通り、こんな素晴らしいお屋敷を残そうとしている千曲市の心意気に感謝ですね。
立派な土塁ですなあ
ここに行ったのは10年位前だったかな?
立派な土塁が残っているのに驚きました。
典型的な中世の方形城館をそのまま使っていたのも凄いです。
やはり中の建物もさすがです。
整備し、後世に残して行ってほしいものです。
武田信玄、上杉景勝、戦国の一流ブランド、歴史の彼方の伝説的人物も係るとは並みの城館じゃないですね。
Re: 万見仙千代様へ
天正壬午の乱が勃発すると生坂村の日岐城主は景勝方についたのですが、深志城主に復帰した小笠原貞慶に攻められます。
幾度か小笠原軍を撃退した日岐氏ですがついに落城し景勝を頼り落ち延びます。
景勝は武水別神社の神主の後継として日岐氏を任じ松田氏を名乗らせ社領を与えました。稲荷山城の南の防衛ラインとしての重要な任務で、この時に本格的な居館として改修され今日に至っています。(現在も松田氏が神主です)
数年後の公開の際には是非お越しくださいませ。
Re: あおれんじゃあ様へ
ここも神社やお寺も城や城下町の防衛ラインを担っていたという生き字引ですね。
千曲市もこれだけの遺産を結構な金額を投資して整備している訳ですから、千曲市民はもとよりもっと世間に広く告知するべきでしょう。とはいえ、平成26年の公開予定が5年もずれ込んだのはいただけません・・・(汗)
善光寺西街道の重要拠点として信玄も景勝も一目置いた武水別神社とその居館。その歴史はもっと知られて然るべきだと思います。
こんばんは
千曲市には以前住んでいたのに、山城の宝庫なんですよね。
若い時はそんな事には全く関心がありませんでした、勿体無い。
今日は子供達と中野市の博物館に行きまして、遺跡、古墳、土器、諸々楽しんで来ました。
ま、その分野楽しんでたのは俺だけで、子供達はプラネタリウムが目当てだったんですけどね(笑)
Re: てれ助様へ
ガキの頃から「縄文土器、弥生土器・・どっちが好き?」とか「遠方後円墳の古墳が大好き」なんて子供はビョーキ扱い(笑)
おつむに手を当てられて「こいつ大丈夫か?」なんて憐みの感情で見られてました・・・(笑)
市立博物館ですか、いいですネ。
ここの本当の良さがわかるのも大人になってからでしょうか・・・・(笑)
いつか
いつかロケに使ってほしいなあ
とおもってしまうほど、
古い建物が残っていますね
無知なので実際はわかりませんが
全国的にも珍しいことなんじゃないでしょうか
(陣屋は結構残っているようですが)
Re: 丸馬出様へ
合併特例債や県の文化財保護事業費の補助を受けたとはいえ、5億円超の整備費は凄い事。千曲市の本気度が分かります。
完成した暁には色々な利用方法もありますが、まずは地元の千曲市の方が松田館の歴史を勉強していただきたい。
箱を作ればお終いのお役所仕事に魂を入れるのが本当の文化財保護の取り組みだと思います。
近所です
初めまして。
私も昨日行ってきました。家が近いもので…。
以前の鬱蒼とした敷地がとても綺麗に整備されていましたね。土塁がよく見えて、息子と2人興奮気味に見学してきました(笑)
裏側(西側?)にも堀跡がありそうかな?と見てみましたが、現時点ではよくわかりませんでした。
復元・整備が完了したら、あらためて見学したいですね。
Re: にっしー様へ
初コメありがとうございますw
あれだけの広大な屋敷地とその建物群を松田氏個人で維持管理するには限界があり、やむを得ず当時の更埴市(現在の千曲市)に寄進したのでしょうネ。西側の土塁の脇には堀形が半分ほど確認出来ますが、公民館付近は道路の為に埋め立てられたようです。
松本市の保福寺にも、天正壬午の乱で深志に復帰した小笠原氏の家臣で保福寺口番所の守備を命じられた小沢氏の広大な屋敷が現存していますが、現在は無住となり行く末が心配です。
まずは地元の私たちがこの文化財の重要さについて認識し、その歴史について学ぶことが大切だと思います。
よだれ
こんにちは、らんまるせんせ。
おおおお。神社のそばの長い塀の中の神職さんのお屋敷は、だーっとよだれを垂らしながら眺めているのがせいぜいなので、こちらはもう、ほんとに素晴らしいですねー!!
らんまるせんせ、レポありがとうございます♪
気の遠くなるほど古いお社の神主さんの生活とか、信仰とか、お作法とかを垣間見られるものが、こんなにしっかり現存して見ることが出来るなんて夢みたい。
さらに全体はお城のようで。素敵。
神社の場合はお祭りを行う世襲の宮人が武装する所もありますが、こちらでは誰がそれを担ったのかしら?
神主の松田氏かなぁ?
ごおくえんの整備費。
これは大阪からでも行かなくちゃいけませんねー。
Re: つねまる様へ
そうですね、由緒正しき神社の神主さんのご自宅がどうなっているのか謎ですよね。
ましてや武田・上杉の庇護を受け、土塁で囲まれた館城にお暮しとあれば興味は尽きない。
この神社は景勝が稲荷山に築いた平城の南の位置にあり、有事の際は砦として敵の侵入を阻止する役割も担っていました。
税金を5億も投入する価値は充分あるのですが、行政も市民も関心がイマイチなのが気になります。
地元民がもっともっと理解と親しみを持ち、誇りをもって他の皆さんに紹介して欲しいと思います。
こんにちは、らんまるせんせ。大変ご無沙汰しております。
昨夜ニュースでこちらの火災を知りました。
とても悲しい報道でした。
らんまるせんせのレポを再読して、さらに心が痛みます。
Re: つねまる様へ
ご無事で何よりですw
また一つかけがえのない財産を失いました。言葉になりません・・・。
いても立ってもいられず、思わず現場に向かいました。焼け焦げた臭いが漂い、嘆き悲しむような小雨が降り続いていました。
天災なら諦めもつくでしょうが、あってはならない人災。ハチの巣除去に火を使うとは言語道断。千曲市のアホさ加減に落胆。
せっかくここまで歯を食いしばって維持してきた代々の松田家当主の方々にお詫びのしようもありません。
来年の一般公開を楽しみにしていたのに、残念です。せめて古文書や書画・骨董が無事である事を祈ります・・・。
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