らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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召田城 (松本市中川召田)  

◆上杉景勝の後詰めを待ち続け、小笠原貞慶に抗った会田岩下氏最期の砦◆

舞台は生坂村から旧四賀村会田(現在の松本市中川)に移る。

2010年9月に「会田塚」のブログ記事のラストに「いつの日か覆盆子城(いちごじょう)を訪れて、会田一族の鎮魂をしたい」と書いた。

2016年4月、とうとうその約束を果たすべく、覆盆子城(別名:召田城・矢久城)を訪ねてみたのである。

召田城 (68)
廣田寺の会田塚も6年ぶりに訪れてみた。周辺はすっかり整備され、嘗てのような鬱蒼とした雰囲気は無かった・・。

召田城 (59)
会田川を挟んだ北西の小岩井方面から撮影。登り口と書いたが目印など何もなく、城へは北の尾根伝いにひたすら登るのである。

【立地】

傘山(1124.8m)から北へ延びる山尾根の末端部にある山で、北麓の会田川流域からは目立つ山である。会田川の支流の矢久川の谷を少し入った所の左峯の山で、後背の尾根上には四阿神社がある。矢久の谷の支流、小胡桃沢からは傘山の傍の傘峠を越えると保福寺町に通じ、矢久の谷を詰めると、中ノ小屋、鳥の城物見を経て御鷹山(1623m)を越えれば、そこは小県郡の奈良本で、ここからは地蔵峠、青木峠の街道へも近い。つまり、小県地方への連絡路がいくつも考えられるところである。

召田城 (7)
緩い北尾根が急坂となり、しばらく登ると埋もれかけた堀切㋐に遭遇する。

召田城 (1)
北東方面に落ちる堀切㋐。急造の為に規模も小さく深さも足りなかったと思われる。

【歴史資料における召田城の記録】 ※「矢久のカヤ」歴史研究会の資料より引用(2015年3月)

●旧四賀村誌(昭和53年)
会田城の会田岩下氏の家人召田監物の居城。会田城(虚空蔵山)の支城、召田地区、矢久川沿いに突き出た尾根に位置する。標高890m、比高190mの山城(召田山)
安土桃山時代の天正十年(1582)11月、松本深志城の小笠原氏の侵攻に対して、会田岩下氏が最後まで籠って抵抗した砦。後に、一期の城、矢久城、覆盆子(いちご)城。(注1)

●信府統記
召田山覆盆子古城地、召田村ヨリ午ノ方四丁三十八間、本城ノ平東西十一間、南北六間、会田小次郎領主ノ時、家人召田監物(昭和53年に岩下監物のことと判明)ト云フ者ヲ置キテ守ラシム(注2)

●古小笠原分限録
城主召田監物(昭和53年に岩下監物のことと判明※)、村ヨリ午ノ方四丁三十八間、東西十一間、南北六間。

(注1)城跡は城山(じょうやま)、城平(じょうだいら)、矢塚(やづか)、馬乗(うまのり)などとも称された。
(注2)会田本城の城主会田小次郎(海野族会田岩下殿)の一門である岩下監物が支城召田城の召田の監物で同一人物。召田城の落城時の城主は召田(岩下)監物政重。

召田城見取図②
こんな防御の欠片すら無いに等しい縄張の山城で、小笠原相手に勝負したのか??

【城主・城歴】

長野県立歴史館の「信濃史料 巻十五」に以下の記述がある。

「天正一〇年一一月五日(1582) 筑摩郡会田衆等、上杉景勝の援を得て同郡矢久城に篭る、是日、小笠原貞慶、諸将を遣はして、之を攻む、尋いで、城将堀内越前守討死し、落城す、 (後略)」

天正十年11月、会田岩下(海野)が上杉方に内通し、矢久砦を構築して上杉勢を引き入れ籠城。当主の会田小次郎が幼年だったため、会田衆の指揮は家臣の堀内越前守が執っていたという。小笠原貞慶は直ちに犬甘、二木、征矢野らの重臣を会田に攻め込ませ、三日から始まり三度の合戦を経て五日頃に城将の堀内は討死、矢久城は落城。会田小次郎は僅かな侍従を従え、小県郡青木に逃れて五輪の尾根で自害し会田岩下氏は滅亡する。

召田城 (16)
ほとんど消えかけている堀切㋑。北尾根が緩いので二重堀切を穿ったのはセオリーであろう。

【弱小国衆の悲哀】

武田氏が滅亡し、本能寺の変で織田信長が斃れ「天正壬午の乱」が勃発すると、上杉景勝は信濃に侵入し川中島四郡を占領し、深志城の木曽義昌を追い出して安曇郡・筑摩郡も支配下とし、青柳や会田も一時的ながら上杉領となった。
徳川家康の後ろ盾で深志城に復帰した小笠原貞慶は、天正壬午の乱のどさくさに紛れ、景勝が越後に撤退し影響力が低下した安曇郡と筑摩郡の旧領回復を着実に進め、7月には会田岩下氏を調略しこれを帰属させている。

会田岩下氏が再び上杉氏に内通したとされる「心変わり」については、真田昌幸の調略によるものと「岩岡記」(小笠原貞慶の家臣)には記されているが、真田昌幸はこの時期には北条氏に手切れを宣告し徳川方に転じているので、徳川方の貞慶に不利となる調略はあり得ないと思われる。

召田城 (20)
主郭へ向かって数段の段郭を刻む。

会田岩下氏が上杉方に内通した時に矢久城の籠城の援軍として赴いたのは、小県郡の青木に在住する氏族だったという。
真田昌幸もこの時は小県を制圧するには至っていないので、会田岩下氏の縁者で青木に住む海野一族であった可能性がある。
※これは小生個人の推定であり、あくまでも想像の域を出ない

召田城 (21)
下から三段目が最も広い段郭(3×12)

当主の会田小次郎が幼少であるため、後見として会田一族を率いていた堀ノ内越前守は貞慶の本質を見抜いていたのだろう。
貞慶の父であり信濃守護の長時を裏切り武田晴信に降った滋野一族は、小笠原氏から見れば決して赦される事は無いのだと・・。

召田城 (25)
ようやく辿り着いた主郭(19×9)

【城跡】

多くの先人の研究者が指摘する通り、何故会田岩下氏の最後の砦がこの矢久城なのか疑問である。
急ごしらえの砦だったとはいえ、頂部に数人がやっと籠れる郭、背後には浅い一条の堀切、敵が殺到すると思われる北の尾根に何とか急造した二重堀切。物見程度の防御で貞慶軍を迎え撃つとは、会田一族の行く末を熟慮した結論とは思えない。

召田城 (28)
朽ち果てて倒れた標柱を起こして主郭を撮影。数人規模の狭い空間である。

召田城 (30)
主郭背後の堀切㋒。

召田城 (64)
これでいいのか、堀切㋒・・もっと深く掘れなかったのか・・・(汗)

会田氏の領地には、虚空蔵山の全体を要塞化した会田城があり、その他にも防御の優れた支城としての山城は多々あるのに、何故この場所を決戦の地として取り立てたのか謎は解けない。

立峠を境とする北側の青柳氏が貞慶の調略により小笠原方に転じた事を会田岩下氏が事前に知っていたとすれば、、虚空蔵山の会田城に籠城するのは挟み撃ちにあう可能性があるので、それを避けたとすれば得心がゆくし、同じ滋野一族である明科の塔ノ原氏が小笠原氏に従っているとすれば、小県郡の青木に向けた退路を確保するしか策が無かったのであろう。

召田城 (34)
主郭の南側の尾根には削平地が続く。ここから尾根伝いに四阿神社に抜け、青木を目指したのか?

召田城 (37)
本郭から南へ約100m下った先の鞍部にある削平地は後世の伐木作業車の駐車場跡。ここまで車で入る事は不可能。

堀之内越前守は、上杉本隊の援軍を待ち焦がれて青木よりの援軍と共に必死に三度の攻撃に耐えたのであろう。そして落城後の小県郡青木までの脱出ルートを確保していたのだが、残念ながら小笠原軍の執拗な追撃に耐えきれず、会田小次郎は青木で自刃し滅びた。

召田城 (47)
本郭より見た会田川沿いの集落。殺到する小笠原軍がここからも見えたはず。

頼みの上杉軍は各方面への対処で多忙を極め、信濃の片田舎の国衆会田一族の救援などは二の次として捨て置かれたと思われる。会田小次郎とともに小県郡の青木に落ち延びた召田氏も、のちに集落に戻り帰農したと記録に見られるので、貞慶の復讐が一段落した時に故郷に戻った一族もあったのかもしれない。

江戸時代になってこの城は「一期の城」と呼ばれ、のちに「覆盆子の城」と俗字に転化したもので、本来は召田城あるいは矢久城と呼ばれていたようである。

≪召田城≫ (めすだじょう 覆盆子城、矢久城)

標高:890m 比高:190m
築城年代:不明
城主;召田監物
場所:松本市中川召田
攻城日:2016年4月10日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:30分
見どころ:堀切、段郭など
注意事項:9月~10月末は松茸山として止め山になるのでこの期間は避ける事。
駐車場:無し
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:岩淵城、橋ノ小屋、中の小屋、鳥の城物見など

IMG_2144.jpg
虚空蔵山城の峯の城から見た召田城(覆盆子城)全景



召田城 (69)
城の北側正面より見た城跡
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Posted on 2017/06/01 Thu. 07:35 [edit]

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コメント

こんにちは
天正壬午の乱後に信濃府中を制圧した小笠原氏と、このお城に籠った国衆の会田岩下氏との間で合戦もあり、また落城後の悲しい歴史もあったようですね

近くの虚空蔵山城には何度か訪れましたが(遺構と景色も素晴らしい)、当時はまだ、さほどの普請もされておらず?また後退ルートを考慮して召田城を利用したのでしょうか.....

yama #mQop/nM. | URL | 2017/06/01 19:56 * edit *

Re: yama様へ

こんばんは。

会田虚空蔵山城は、幾度となく実施された発掘調査から「山岳信仰」の発展型としての宗教空間であった可能性が高く、その空間を守るための普請であったと推定されています。
上田市の塩田城も縄張の経緯は類似していて共通点を見出せるようです。小諸の釈尊寺布引観音も楽巌寺城と堀之内城が周囲を固めるように縄張されているので、宗教勢力の取り込みは必須だったと思われます。

天正壬午の乱が勃発した当時の会田岩下氏の兵力は、単独で小笠原軍を迎え撃つほどの兵数も無く、広大な会田虚空蔵山城や峰の城で籠城戦が維持できる規模ではなかったと推定されます。
なので召田城は青木方面へ逃げる為の時間稼ぎの急ごしらえの砦だったんでしょうネ。

らんまる #- | URL | 2017/06/01 20:38 * edit *

懐かしの会田氏

らんまるさま、ご無沙汰しています。

覆盆子城のご記事、大変楽しく拝見しました。

小生がこの地域を訪問したのは、もう7,8年前でしょうか?
町の中心で居酒屋を探しましたが何もなく、町内のセブンイレブンで酒を買って車中泊した思い出があります。

覆盆子城は、会田城の後でヘロヘロで登りませんでした・・・。

そういえば、私の本拠地の埼玉県越谷市には「会田」さんが多く、出自は信州会田氏とのことです。
そういう意味でも会田郷は感慨深い地域だったりします(^^

まさはれ #iXQNhkLY | URL | 2017/06/01 21:48 * edit *

Re: まさはれ様へ

いつもtwitterのつぶやきに「いいね」を押していただき、ありがとうございますw

貴殿が登れなかった無念をいつか代わりに晴らそうと思いつつ、毎年素通りしておりました・・(笑)
さっさと記事にして掲載すれば良さそうなものでしたが、気が付けばすでに1年が過ぎていました・・(汗)
朽ち果てた標柱1本、堀切三条、郭一個の城址でしたが、会田氏の無念を感じ取った次第であります。

以前に「会田塚」の記事を書いた時に何名かの埼玉県越谷市在住の會田さんからコメントを貰った事を覚えています。
信玄に降るを良しとしなかった四十騎が会田を離れ、武州に移り住んだのだと・・・。

いつの日か貴殿と飲んで語りたいものですネ。

らんまる #- | URL | 2017/06/01 22:34 * edit *
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