らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
0919
苗木城 ② (岐阜県中津川市苗木) 
さて、お待ちかね?(
小学生の遠足の作文のような拙い記事と写真に今しばらくお付き合いくださいませ・・・(笑)

木曽物見の手前の南端に突き出した巨岩の上には物置小屋があった。この石垣は「切込石整層積み」です。覚えまして?(笑)
では、また見取図の拡大図で場所を確認しながら進みましょうか。

【木曽物見~小屋仕切門~的場~本丸口門】
清水門から南東部分の帯郭には「木曽物見」と呼ばれる監視小屋があり、木曽口からの侵入を常に警戒していたと思われる。
、また、二の丸へ侵入した敵が本丸へ突入する最後の防御地であるため、帯郭を階段状の石垣で囲み更に小屋仕切門を置き厳重な警戒態勢を敷いている。

木曽物見から木曽川を挟んだ対岸。

雨に煙る中津川市街地方面。(左の建物は中津商高)

帯郭を石垣で階段状にして大軍の通行を不可能にしている。ここの石垣は「打込石乱層積み」だ。
●「打込石乱層積み」って?
積石の形が不規則で、他の石垣と比べて大きい積石を使用しています。積石の表面を平らにして、積み上げてあります。

拡大するとこんな感じ。

でもね、最終の帯郭の石垣は「ノミ伐り加工整層積み」だったりする・・(笑)
●小屋仕切門
城の二の丸から南側の通路は崖沿いに石垣が築かえr塀が建てられていた。この仕切門の「仕切」の意味は、二の丸と本丸との境を意味しこの先は本丸となる。
門は屋根付きの二間×四間半の建物で、門の右側は小屋(物置)として利用されていた。

仕切門のあった場所から南側の通路を見る。ここで攻城兵を遮断するには理想の場所です。

小屋仕切門の物置小屋の跡。
【的場~千石井戸~具足~武器蔵】
小屋仕切門を越えるとようやく城の中枢部に入るのだが、螺旋階段のようになかなか本丸には辿り着けない構造と防御が待ち構えている。
●的場とその周辺
的場~千石井戸に向かうと、本丸を取り囲む高石垣に圧倒される。ここは作りこそコンパクトでも近世城郭なのだという事を改めて思い知らされるのだった・・・(汗)

本丸を囲む城壁ともいえる石垣に固唾を飲む一瞬である。

千石井戸を撮影するていぴす殿。本丸口門の背後の石垣は下部が「野面石乱層積み」と上部の「切込石整層積み」の組合せ。

的場跡には突き当りに標的の盛り土も残存している。

的場から見た千石井戸・本丸口門方面。

城内の最高所にある千石井戸。どんな日照りでも枯れる事はなかったといい、今も満面の水を湛えている。

余談だが、ここから見下ろす三の丸の大矢倉の石積みは美しい。

本丸口門を登った先に「具足蔵」「武器蔵」が並列に並ぶ。

武器蔵の通路から見上げた天主台の懸造(かけつくり)。京都の清水寺の舞台の構造と同じ建築手法。あの柱の上に建物があった。

往時の懸造を再現したというが、巨石とのコントラストが絶妙である。ちなみに壁面を構成する石垣は「野面石乱層積み」である。
【笠置矢倉~玄関口門~馬洗岩】
武器蔵の東の突き当りの高台には笠置矢倉(かさぎやぐら)があった。常時は何も置かれていなかったらしいが、懸造で三層の建物だったらしい。名前の由来は、正面に笠置山が見えることからついたのだという。

笠置矢倉から見た西方面。

笠置矢倉方面から見た天主台周辺。

本丸への最終の門の「玄関口門」があった場所。左下に武器蔵が見える。

天守台の南側にある「馬洗岩」。まさかこの上で馬を洗うのは無理だが、白米伝説の実演場だったかもしれない。
通常は玄関口を通らないと天守建物には入れないが、馬洗岩のある南側は勝手口として機能していたようである。城主の滞在する居間と従者が控える次の間に台所が接続しているので、平時の使用人の出入り口だった可能性はある。ここの石積みも見事なので、裏口見学者には必見であろう。

馬洗岩から本丸天守への通路。石垣の種類は「切込石整層積み」・・(しつこい・・笑)

一瞬、迷路が突き当りとなる錯覚を起こす石垣。
●「切込石整層積み」とは?
石の形を調整して積み上げて作られています。積石の面はあまり加工されておらず、他のタイプの石垣と比べて積石が小さいものを使用しています。

天守の台所から見た馬洗岩。この上に馬を乗せるのは至難の技であろう。

裏口入学と言われようと、天守のてっぺんに登り詰めるこの一瞬がたまらないのである・・(笑)
●天守台
幕末まで存続した城持ち大名で、1万石クラスは遠山氏だけだったという。石高の多い大名でさえ、城の維持管理には多額の修繕費用が伴い、城が荒れ放題というのも珍しくなかった。松平氏時代の上田城なんて藩主屋敷以外は「烏の寝ぐら」とまで言われ、鬱蒼とした雑木林に変わり果てていたと伝わる。
遠山氏の苗木城は、明治維新まで建物も石垣もベストな状態に保たれていたというから、驚きである・・・(汗)

高森山の頂上の巨岩でさえ、遠山氏の魔術にかかればご覧のとおりである。

「お山の大将」の瞬間にトキメク・・・(笑)

天守台の東端。何故か「千畳敷」の名前。名前だけでも広くあって欲しいという願いから?

千畳敷にある景色の解説板。ここからも見えるが、天守台に登る前にこの解説版を理解してからお山の大将になろう(笑)

この懸造(かけづくり)の上に天守建物があったというが、秘密基地じゃあるまいし、チョッとスリリング。(正面は城山大橋)

天守台から見た東方面。遠山のお殿様が毎日眺めたであろう景色です

天守台から南方面。「晴れじゃなくて残念かって?」 いやいや、小雨降る苗木城も風情があります・・(負け惜しみ・・・笑)

本丸の居間部分。お山のてっぺんなので、城内も隅々まで見渡せます・・・といっても往時は建物の屋根ばっかりかもしれません。

通常天守台へは、玄関口門から北→東へ廻り、本丸玄関から千畳敷に入り次の間に登るという念の入ったルートである。

通常の見学コースは本丸玄関→千畳敷跡→木製階段→次ノ間→天守台。

天守台の北側の本丸空間。ここの端には小屋が建っていてその直下には千石井戸と本丸口門がある。

本丸広場から東下の的場を見下ろす。

本丸広場より天守台方面。攻城兵がここまで辿り着ける確率はかなり低いと思われるが、どうであろうか。

玄関口門跡。武器蔵から侵入した攻城兵は、ここを突破しないと本丸広場に入れない。
さあ、今宵も飽きてしまったので、ここまでにしたいと思います・・(笑)
あと何回分割すれば最終回になるのでしょうか・・・(汗)
秋の夜長は、気合が足りませぬ。

本丸天守台の懸造(かけつくり)も凄いのだが、三の丸の大矢倉の孤高の迫力に魅せられている・・・(爆)
次回は三の丸との接続部分と嘗ての大手門と思われる駈門などをご紹介したいと思いますが、いつになるかしら・・・。
Posted on 2017/09/19 Tue. 21:37 [edit]
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苗木城ブーム到来!
こんにちわ、素晴しい内容の記事に空いた口がふさがりません。
こんな作文内容が書ける小学生などいようはずもございません!
読みながら、「うん、うん、」と頷いている来城済の方、たくさん見えるのではないでしょうか?私もその中の一人でした。
いまやどこもかしくも苗木城でお腹いっぱいになってしまいます。
それほどこの城が皆さんの城魂に響く存在であることを改めて国人衆の一人として誇りにも思う次第です。(むしろ一人取り残されたような錯覚をくらっておりますね。)
私もいつかこの苗木城を記事として書いてみたい、と思っておりますが
後発になればなるほど書きづらくなりそうです。来年ぐらい?、いや、再来年?・・。いつになったところで、皆さんのような御慧眼には追いつけませぬが(笑)。
Re: 久太郎様へ
そんなにお褒め戴いても、何のお返しも出来ぬらんまる家の台所事情でございますw
小生、恵那地方は岩村城と明智城ぐらいしか知らず、苗木城?何それ・・・完全に昭和の人でした・・(汗)
今回の東美濃弾丸ツアーで、相方も推挙していたのでチョッと寄ってみましょうか、のノリで着いてビックリ見てビックリ(笑)
たかだか1万石のお殿様が「狭いながらも楽しい我が家」「敵が攻めようとも遠山家は永遠に不滅です」「我ら勤勉日本人魂」
その想いが縄張、全6種類の石積み様式、懸造に込められていて、訪れる者たちを魅了して止まないのでしょうネ。
来年とは言わず、貴殿の楽しい文章で是非地元の名城「苗木城」の記事をお願いします!
よそ者が見た苗木城よりも地元愛が詰まっていると確信しておりますw
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