らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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新府城(韮崎市)  

★武田氏最後の城で我がデジカメも最後を迎えるとは・・★

こんにちは。

この取材で愛機のデジカメを落下させてしまい、液晶画面に痛恨の一撃!(悲)

CASIO EXILM ex-z1050の遺作となってしまった新府城です。(享年2年8ヵ月)

c002.jpg
電源ONで御覧の通り・・・世の中真っ白
◆真田昌幸が縄張りした堅城◆

正式名称は「新府中韮崎城」
武田勝頼が天正九年(1571年)の春に真田昌幸に命じて築城した平山城。

織田信長の甲斐侵攻に備え、歴代の武田氏の居館のある府中の躑躅ヶ崎館(現在の甲府市)から町ごと移転させる計画で着工し、8ヵ月の突貫工事で完成する。

新府城跡 041

その年の12月に甲府よりここに移り対織田軍への防御態勢を固めるが、戦況が悪化してく中でこの地での迎撃を諦め、城に火を放つ。(在城期間は僅か2ヶ月だった)
勝頼は武田家の御家人である小山田信茂の進言を受け入れ、彼の居城である岩殿山城へ逃れようとするが、小山田の裏切りにあい天目山で自害する。

新府城跡 042
釜無川の脇にある七里岩の台地を利用した天然要害の立地。現在の城跡は藤武神社になってます

新府城跡 046
本郭跡に建つ武田勝頼公霊社。武田氏滅亡後に領民が勝頼公の心霊を祀り神社とした

【徳川家康が新府城の堅城ぶりを証明する】
武田氏が滅亡し織田信長が本能寺で倒れると、旧武田領は北条氏と徳川氏との壮絶な陣取り合戦になります。(天正壬午の乱)
いち早く甲斐の国を掌握した徳川家康は、打ち捨てられた新府城を修復し敵対する北条氏直への本陣とします。
圧倒的な兵力を持つ北条軍を翻弄した新府城は甲州流築城法が有効であることを証明しました。

新府城跡 051

新府城の特徴は「出構え」と呼ばれる鉄砲隊専用の防御陣地を外堀内側に設置し、さらに本郭と馬出しの間にも「しとみの構え」を置くことで防御機能を高めていることです。
鉄砲が武器のスタンダードになっていた事が築城法にも影響を与えた事がわかります。

さすが、真田昌幸。でも彼の築城した上田城がシンプルだったのは何故なんでしょ?(笑)

新府城跡 038
東出構え跡。ここから敵を鉄砲で狙う

新府城跡 054
しとみの構え。いわゆる塹壕みたいな構造。

歴史に「もしも」は無いけど、新府城で織田軍を迎え撃ち籠城戦をやってたらどうだったんでしょう?
少なくとも1ヶ月以上は持ちこたえたかもしれない。
その上で、真田昌幸の上州にある岩櫃城へ退却するのも「あり」だったかもしれない。

勝頼を裏切った小山田信茂はその後織田信長に「主家裏切り」で処刑されます。
最後まで勝頼を支えた真田昌幸は信長にその忠義を褒められて所領を安堵されます。

「義を貫く」 この時代の武士(もののふ)の「生き様」なんですね。

新府城跡 048
本郭跡より小淵沢方面(現在の北杜市)勝頼には信長の足音が聞こえる恐怖の2ヶ月だったのか・・

分類:平山城(比高差50メートル)
見どころ:土塁、空堀、丸馬出し、三日月堀、出構えなど
お勧め度:★★★★
その他:駐車場より歩いて10分。軽装で十分楽しめます。
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Posted on 2009/08/16 Sun. 17:02 [edit]

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コメント

こんばんは。
私のブログも同盟国に加えていただき、面映ゆい思いでござりまする <(_ _)>

私の父は甲斐の国出身。
生前、二言目には 「郡内の岩殿城にいた小山田信茂が勝頼を裏切り、武田は滅びたんだ」 と言っていました。
そのせいか、信長公が好きではあるのですが、勝頼公にとても深い思い入れがあります。
新府城、大昔に訪れましたが、当時は攻城のやり方が分からないまま見てきただけだったので、この記事を興味深く読ませていただきました。

万見仙千代 #YR4Ixzf2 | URL | 2013/11/01 20:59 * edit *

Re:万見仙千代様へ

いえいえ、色々な方が楽市楽座のように集うのが本望でございます。

そうでしたか、父君は甲斐の方でしたか。
先日、読売新聞の記事に触発され、思い余って岩殿山城に攻め入りました。(未だ記事にはしていませんが)
小山田信茂は最後に勝頼を裏切った不忠者として不名誉な名を後世に残しましたが、史実に疑念を持つ説が浮上しています。
岩殿山城は武田家直轄の城で、小山田は管理人に過ぎず勝頼の入城に際しては文句が言えない立場だったそうです。それでも勝頼が岩殿に逃げ込めば、織田徳川連合軍が岩殿城下に攻め込むのは避けられず、小山田氏の領地が戦場になるのを避けるために敢えて勝頼に弓を引いたのではないか?との説です。
武田勝頼が立派だったのは、裏切った小山田の申し立てもいちいち尤もだとして領民に危害が加わるのを危惧して天目山へ逃避先を変更した事でしょうか。
滅びの美学と武士道の潔さの接点を持つ稀有な武将だと思っております。

らんまる #- | URL | 2013/11/01 21:44 * edit *
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