FC2ブログ

らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

1208

藤岡城 (芦田城 藤岡市藤岡)  

◆初代藤岡藩主にして最後の藤岡藩主「松平康真」の居城◆

「この人、いったい誰?」 「徳川の譜代大名?」 

本人もかなり数奇な人生を歩んだのだが、康真の父は「依田信蕃(よだのぶしげ)」という信濃国佐久の国衆で、天正壬午の乱(1582)で徳川家康の配下の部将として信濃侵略を目論む北条方と戦い、佐久平定に大きな功績を残した人物とされている。

藤岡城 (2)
藤岡第一小学校の北側に残る藤岡城(芦田城)の巨大な土塁跡。


【松平康真】 (まつだいらやすざね) ※別名:加藤康寛(やすひろ) 加藤宗月(草月) 天正二年~承応二年

松平康真は兄康国と共に武田・織田等の人質となり流浪し、父の依田信蕃が徳川家康の配下となるとその身は徳川家に預けられる事になった。天正十四年四月に家康自ら康真の髪を整え、諱字・松平の称号・腰物・髭道具等を下賜して元服させたと「諸士先祖之記」「寛政重修諸家請」の記述にある。

天正十八年、康真は兄康国と共に小田原攻めに参戦している。この戦いの陣中で兄康国が殺害され、康真自身も負傷しつつも兄の仇を討ったことを家康に報告したところ、家康の命によりその跡目(小諸城主六万石)を継承することになった。
その後も康真は徳川家家臣として、家康の関東移封に伴い、拠点を信濃国小諸城から上野国藤岡城に移し、三万石を拝領、天下普請命じられる等、城持ち大名としての地位を着実に築きつつあった。

藤岡城 (1)
学校に隣接する史跡としては珍しく緑地公園として一般開放されているが、史跡の説明板などは何もない。

しかし、慶長五年城に(1600)正月、康真は大坂で小栗某という家康配下の者を口論の末に殺害するという刃傷事件を起こしてしまう。高野山に出奔し蟄居したとされるが、改易されて徳川配下の大名としての地位は失われた。

しかし同年、康真は姓名を加藤康寛と改め、徳川家康次男の結城秀康に仕える事になる。「諸士先祖之記」によれば、この時秀康は家康の命で上杉景勝と対陣しており、下野国宇都宮において康真を召し出したという。
慶長十二年、結城秀康の逝去により剃髪して名を宗月と改め、承応二年、その数奇な人生の幕を閉じる。享年八十才であった。

福井松平藩内での家格は、筆頭家老本多家(本多富正を祖とする家)に次ぐ十六家を示す上位の「高知席」(家老五人と家老次席の城代一人を選出する家柄)であった。

藤岡城 (3)
土塁の上の遊歩道。前橋城もこんな頑丈な「叩き土塁」だったよなあー。

【康真が編纂した依田家の由緒書き「依田記」が検証不十分なまま信憑性の高い史料として存在する危うさ】

実は小生も「依田記」を元に記載されたと思われる「依田信蕃ーもうひとつの真田」(市河武治著 郷土出版社 1988年)を読み、いたく感動して佐久地方の春日城、芦田城、岩尾城、田口城、前山城はもとより、彼の勝頼時代の田中城、二俣城まで遠征して彼の足取りを辿った次第である。

「長野県史」や「佐久史誌」ですら、基本的に依田信蕃の父は下野守信守とし、武田氏滅亡後、「佐久の統一をすすめたのは依田信蕃である」とい歴史像を描きだしてきた。しかし信蕃の父信守が真田氏に次ぐ信濃国衆であった」ことや「天正二年頃から佐久全域に及ぶ領主層の盟主的立場にあった」事を裏付けする史料はなにも存在していないという7年前の史料批判を先日読み、茫然自失の日々を過ごしています。
※依田信蕃の隠れファンは意外と多いと思われます。小生もその過去記事でかなり熱い記事を書いてしまいどうしたものかと・・。

藤岡城 (5)
井元たい女史の顕彰記念碑と立像。彼女の芦田城の寄付行為には賛否両論あるが、遺構が残ったのは不幸中の幸いである。


【信濃佐久平定のヒーロー依田信蕃は虚像なのか?】

天正壬午の乱が勃発した時に、佐久地方で徳川方に味方した在地土豪は平尾城の平尾氏、耳取城の大井氏、森山城の森山氏、そして春日城(芦田城)の依田氏などのごく少数で、有力な在地土豪の前山城の伴野氏、相木城の相木氏(阿江木氏)、岩尾城の大井氏、与良城の与良氏、平原城の平原氏など多くの地侍は北条方として徳川軍に抵抗していたという。

従って、佐久仕置の主力は徳川軍が大久保忠世・菅沼定利・柴田康忠を派兵し自力で軍事行動に出ざるをえなかったという。
徳川軍が佐久方面で苦戦するに及び家康は天正十年七月、依田信蕃に対して与力を付けた上で更に「諏方・佐久両郡事」を宛がうとして同姓依田一門や親類を家臣化し望み通りの給恩地も宛てがうと約束している。
裏返せば依田信蕃らの佐久国衆は組織化がかなり遅れていたというのが実情のようである。
前山城の攻防戦も依田信蕃の指揮ではなく、柴田康忠の指揮下であり、この時に一族同門の庶流依田信守は家康より感状を賜っている。

これは北条方についていた真田昌幸の寝返り工作においても「諏方郡を宛がう」と家康は約束している。(この空手形がのちに災いになるとは家康も想定していなかったようだが・・・)
最終的には真田と北条の手切れにより北条VS徳川の天正壬午の乱は終息にむかうのだが、岩尾城の攻防戦で信繁は弟の信幸とともに戦死してしまう。

藤岡城 (8)
藤岡城は方形居館の周囲に二重堀を巡らせ南には馬出(枡形虎口)を備えていたと伝わる。

佐久平定がほぼ終わり岩尾城の無理攻めによって依田信蕃・信幸兄弟が鉄炮により戦死したと依田記には書かれているが、「家忠日記」の天正十一年二月二十日条には柴田康忠が甲州の軍勢を率いて佐久郡に軍を発し小諸・岩尾両城を攻撃したとある。
「廿二日 依田信蕃、其弟依田伊賀守信幸、善九郎信春・・・岩尾ノ城ヲ抜カント広言ヲ吐テ・・・・依田兄弟三人各矢ニ中テ死ス」とある。徳川家忠の武家日記では、信蕃・信幸・信春の三兄弟が鉄炮ではなく、矢で死去したとする。史実は同時代史料の信憑性によるべきとすれば、依田記は史実をかなり脚色しているようである。

三兄弟戦死で依田家存続の危機に陥ったとき、家康は人質の総領竹福を松平康国として家督を継がせた。このとき、依田肥前守信守(依田家庶流)は合計四十九騎を同心として康国に預けて家臣に組み込まれた。彼には継子がいなかった為に、故信幸の二男信政が跡を継いで依田源三と称した。(藤岡藩改易後は籏本となりお家存続)

まあ「依田記」では、依田家創業者の信蕃については家の由緒を語る為にかなり誇張や過大評価があり、佐久統一が依田信蕃によるものという旧来の評価は再検討が必要だろうし、徳川軍の軍事行動における信蕃の役割についても再評価が待たれる。

松平康国以降の事績についての「依田記」は正確に記載され依田家資料の裏付けもなされているという。

藤岡城 (10)
土塁の北西のR部分。ここに「芦田城」の銘板が確認出来る。

結局のところ何を言いたいのか支離滅裂な文章の構成になってしまったが、裏付けの史料を欠く由緒書きや家系図、伝記は話半分程度の理解に留めておく、というのが今回の結論である。

もっとも、戦国時代の武将の生涯など、都合のいいように誇大誇張され尾ひれはひれ付いているので、そいつの人生を知っているのはそいつだけという事になる・・・(笑)
真田氏だって幸隆の先代は現時点では不明と言わざるを得ないのは暗黙の了解事項だし・・・(汗)

≪藤岡城≫ (ふじおかじょう 別名:芦田城)

標高:95.2m 比高:-
築城時期:天正十八年(1590)
築城・居住者:松平康真
場所:藤岡市藤岡
攻城日:2018年12月1日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:藤岡第一小学校を借用
見どころ:土塁
付近の城跡:平井城、平井金山城、高山城など
注意事項:特に無いが、小学校なのでプライバシーに留意
参考書籍「平成23年度 長野県立歴史館 春季展 武士の家宝~かたりつがれた御家の由緒~」図録寄港P34「徳川家康と依田信繁・康国-佐久郡の戦国・織豊期について-」(井原今朝男著)より一部引用。

藤岡城 (11)

大道寺政繁を相手に依田信蕃が勝利したという「芦田小屋の戦」の三沢小屋は未訪問なのだが、今回の件で気持ちが萎えてしまった。家康から金子四百両と援軍千人を派遣されているなら、ゲリラ戦というのも怪しい・・・なんもかんも怪しい・・(笑)


スポンサーサイト

Posted on 2018/12/08 Sat. 20:49 [edit]

CM: 0
TB: 0

« 龍岡城の東通用門 (移築 佐久市野沢)  |  安土城を作ろう! »

コメント
コメントの投稿
Secret

トラックバック
トラックバックURL
→http://ranmaru99.blog83.fc2.com/tb.php/951-c22ee3b0
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top