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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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馬山東城 (群馬県下仁田町馬山)  

◆境目の城「城館セット第二弾」 その1◆

先週修理したばかりのスマホのガラスを本日再び破損・・・(涙) 仕事柄、休日だろうが何だろうが、常に持ち歩く悲しい習性に悲嘆。

学習能力の無さもさることながら、「最近の俺、ついてない事ばかり多すぎる・・・」と愚痴ってみても仕方ないが、「人生山あり谷あり・・・」というものの、山は登れても谷底ばかりの人生も如何なものかと・・・(笑)

今回ご案内するのは、下仁田町の城館セット第二弾「馬山東城」(まやまひがしじょう)。

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お寺の山門の東脇にある石碑。こぶりながらも中々立派です。


【立地】

下仁田町の中心街の東側で、鏑川が北側にL字で張り出し横瀬川と合流する河岸段丘の台地上に位置し、背後には比高約80mほどの山体が控えている。(この山が馬山西城)
西へ向かえば信濃との国境の内山峠、余地峠に通じ、東の富岡との中間地点にあたり、交通の要衝である。
最近出来た「道の駅しもにた」の東側の台地なので、迷う事は無いと思う。

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馬山東城の主郭は米山寺のある場所と推定されている。

馬山東城見取図東側を流れる横瀬川を天然の水堀とした要害の地である。

【城主・城歴】

国峰城主の小幡孫七郎憲重の城と伝わる。400m後方の山に馬山西城があり、城館一体型であった。馬山東用はその居住区にあたり、馬山西城は詰め城、要害城として機能していたと思われる。
この場所は、信濃に通じる内山峠、余地峠を抑える境目の要衝として戦国時代には重視された。小幡氏はもちろん、関東管領上杉氏に味方した高田氏、市川氏、長野氏そして彼らと西上野の覇権を争った信玄にも重要視されたと推測される。

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米山寺の一段北側の畑から見た主郭。舌状台地に築かれた居館である事がよくわかる。

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米山寺の東側。畑が霊園なる日も近いのだろうか・・・?

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まあね、北側の郭は墓地ばっかりで興ざめってか・・・。

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米山寺の本殿。

【城跡】

米山寺の建っている辺りが主郭で、その北へ延びる舌状台地が城域である。米山寺の南側に堀切があったと思われるが、耕作地化されたときに埋められてしまったようでハッキリしない。
城の西側の鏑川手前に「堀之内」という地名があるが、この城館と関係する場所なのかは不明だという。

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南側から見た主郭。堀形を探したが見つからず・・。

たまたま駐車場にいらした米山寺の奥様に見学の許可を頂くと、「先日も埼玉から親子で見学にお越しいただきましたよ。最近、ブームなのでしょうかねえ。」と言ってペットボトルのお茶まで頂戴してしまい、恐縮しきり・・・。信州上田から来たと告げると、「数年前、上田にお邪魔しました。真田で盛り上がってましたね。馬山西城も行かれるのですか、お気をつけて。」とご丁寧なお言葉までいただく。

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米山寺から見た馬山西城。

≪馬山東城≫ (まやまひがしじょう)

標高:276m 比高42m(道の駅しもにたより) 
築城年代:不明
築城・居住者:小幡氏
場所:群馬県下仁田町馬山
攻城日:2019年5月5日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-
駐車場:米山寺の駐車場を借用
参考文献:「境目の山城と館 上野編」(2015年 宮坂武男著 戎光祥出版) 
その他:耕作地には許可なく入らない事。



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城跡より見た北西方面。鏑川に突き出た舌状台地で要害の地であることが分かる。
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Posted on 2019/06/23 Sun. 07:37 [edit]

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