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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0913

大井城 (佐久市岩村田)  

◆佐久一円に覇を唱えた大井氏の居城◆

詳細なスケジュールはまた改めて告知したいと思いますが、11月2日(土)の「全国山城プレサミット上田大会」では分科会の講師を実名で務めさせていただく事となりました。 ⇐ビジュアル終わってんのに大丈夫なのか?・・・(汗)

もち、翌週の可児市で開催される「全国山城サミット」には来年の実行委員の研修隊の一員として、一泊二日でお邪魔しますので、「管理人の素顔を見たいゾ!!」という方は迷わずお出掛けください!⇐ きっとブログの読者数が激減するだろうなあー(笑)

果たして、「こんな何処の馬の骨ともわからんヤツに中世城郭を語らせていいのだろうか?」という上田市教育委員会の和根崎氏の疑念には激しく同意します・・・(笑)

さて、今回ご歩案内するのは、今から6年前に取材した佐久市にある大井城(王城)である。(放置プレイには今更驚かない・・・汗)

大井城見取図
航空写真に落書き出来るイイ時代になったなあーと思う方は「いいね」を押してくれ!!

王城② (3)
大井城の真ん中に位置する王城は「王城公園」として整備されました。


【立地】

佐久市の岩村田市街地の東北部の湯川の断崖上に、北から「石並城(いせならびじょう)、王城(おうじょう)、黒岩城(くろいわじょう)の三城が並んでいて、この三城を合わせて大井城、あるいは岩村田館と呼んでいる。湯川側は断崖で、西側には、円満寺の西側に田切りがあり、それも利用して、市街地との間に堀を設けている。
ここは道のあつまる所で、交通の要衝に立地していて、北佐久の雄大井氏にふさわしい占地と言える。

※「信濃の山城と館①佐久編」(宮坂武男氏著 P224引用)

王城② (5)
ここが県史跡ならば、何故に下伊那の大島城が県史跡に指定されない理由を長野県教育委員会にお聞きしたい・・・

【城跡】

公園に改変された王城は、一辺100mの不等辺四角形で、周囲を土塁で囲まれていたことは何となく推察できそうだ。
オオケヤキのあるあたりは一段高くなっているので、櫓台があったようである。

王城② (11)
公園化された王城跡。

王城② (14)
長野県指定天然記念物の「王城のケヤキ」。ここが一段高い場所で湯川に面しているので櫓台があったかもしれない。

王城② (18)
王城跡より西側の堀形を見下ろす。かつては湯川の氾濫原として沼地か泥田だったと推測される。

【城主・城歴】

「石並城」「王城」「黒岩城」の三つの城の中で最も古いのは石並城と考えられている。

鎌倉幕府に仕え、北佐久に所領を持つ小笠原系大井氏は次第に勢力範囲を広げ、中先代の乱では小笠原貞宗と共に足利尊氏に味方したため、朝廷軍の攻撃を受け、建武二年(1335)12月に落城している。(信州大井城合戦 当主は大井朝行)この時の城は石並城と推定されている。

その後、南朝方の衰退により勢力を盛り返した大井氏は、文明年間に佐久盆地の北部で勢力を拡大し全盛期を迎えたが、南部の覇権を狙う小笠原系伴野氏と度々衝突を繰り返した。この頃の居城は王城へ移ったものと考えられている。
※大井氏は甲斐源氏武田氏の加賀美遠光の七男朝光、伴野氏は六男時長が土着した家柄である。

文明十一年(1479)の8月、大井氏と伴野氏は合戦となり、当主の大井政朝は伴野氏に捕らえられて大井氏の執事であった阿江木入道は討死し、伴野方の勝利で終わった。

王城② (19)
王城西側の堀形から見た王城の切岸。自然地形を利用しただけで手を加えてはいなかったと思われるが。

王城② (21)
王城と石並城の間の巨大な天然堀切。

伴野氏が大井氏の詫びを受け入れ、当主の大井政朝が文明十五年六月に死去。弟の安房丸が大井城主となる。
以前より佐久方面への勢力拡大を画策していた北信濃の豪族村上氏が、この代替わりのタイミングを狙い翌十六年二月に大井領に侵入し、大井城(王城)を攻め落とし城下の岩村田集落を火攻めして焦土と化した。
ここに大井宗家は滅亡したが、岩尾・耳取・芦田・相木(阿江木)などの各地に居住する大井一門・家臣の所領はそのまま残った。

その後、依田系大井氏が黒岩城に入り、武田氏滅亡後は後北条氏に従うも依田信蕃に攻められ落城したようだが明確な史料は無い。

王城② (25)
石並城の主郭跡。

大井宗家が滅んだ事により、南佐久の伴野氏は村上氏と直接対峙するという想定外の苦境に立たされてしまった。
軍事力では到底敵わない村上氏に対抗する為、伴野氏は隣接する甲斐国の武田信虎に援助を求めた。
この事が、のちに武田氏に信濃侵略の口実を与える事になるとは、伴野氏も思っていなかったであろう。武田に蹂躙される佐久の悲劇はここから始まったのである。

王城② (32)
石並城より西へ150mの場所にある巨大な堀形。往古の湯川の氾濫原と思われ、巨大な湿地は天然の防御として利用されたらしい。

【城跡】 ※「信濃の山城と館①佐久編」のP224の宮坂武男氏の記述を引用

●石並城 (いしならびじょう)

荒宿の東側に堀が現存し、その範囲は相当に広かった事を伺わせる円満寺の墓地と畑の中に堀が残っていて、ここから南の地域の東西80m、南北200mの細長い部分がまとまりのある形となる。
それより北の墓地の部分の道が崖下へ下る辺りまでが一部にまとまりそうに見えるが、はっきりした堀形が見えない。

王城② (27)
円満寺の東側の墓地の堀形。

●王城 (おうじょう)

※文中の記事参照

●黒岩城 (くろいわじょう)

王城の南に続く台地上で、広さは王城より幾分広くなる。南の部分が失われているが、これが大井城の末期の中心になった所とされる。ここで問題になるのは、何故時代と共に中心を移したかということである。
一度落城したところを外して、その隣接地へ拡張して行った為に次第に大きな城となっていったようで、時代的な推移が問題として残る。

王城② (36)
黒岩城の中心部分。

王城② (7)
王城から道路を隔てて見た黒岩城。

湯川の断崖とかつての氾濫原を利用した崖渕城で、技巧さには欠けるものの中々の規模である。
昭和61年・62年の王城周辺の発掘調査では、多量の焼土が検出されているので、文明16年の村上氏による焼き討ちによるものと推定されている。

≪大井城≫ (岩村田館/石並城+王城+黒岩城)

場所:佐久市岩村田荒宿 (標高709m 比高19m)
攻城日:2013年7月8日
お勧め度:★★☆☆☆
時間:-
見どころ;堀跡、郭跡など
注意:耕作地は無断侵入禁止
参考文献:「信濃の山城と館①上田・小県編」(宮坂武男著)、「信州の古城」



王城② (40)
湯川の対岸よりの遠景。
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Posted on 2019/09/13 Fri. 07:39 [edit]

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コメント

全国山城プレサミット 上田分科会で講師を務められるのですね!!
日本の山城のハートランド信濃から全国の隅々にらんまる様のお教えが轟くのですね。なんと嬉しい!!

もひとつ嬉しいのは・・・有賀城を次回の記事にしてくださるとか・・・
最近私のコンピューターの具合のせいかこちらのサイトに繋がりにくく、らんまる様のツイッターからのリンクで来ていました。
そのおかげで一足先に有賀城のお知らせに接した次第です。
有賀城、思い入れのある城なんです。

講演会のご準備も含めてご多忙と存じますが、どうぞお身体大切になさってください、まだまだ残暑厳しそうですから・・・




じろう #6G1pQkbg | URL | 2019/09/18 22:58 * edit *

Re: じろう様へ

コメントありがとうございますw

「地元の城は地元のヤツが熱く語れ!」をモットーに約10年山城を巡り細々とブログを書き続けましたが、皆様のお役に立てる事にも積極的に関わろうと思っております。
「太郎山山系を楽しくつくる会」のメンバーにいれていただき、そのご縁で今回の山城サミットプレ大会にもチョイ役で出演させていただく運びとなりました。他の皆さんよりも知名度が低いので、さてどうしたものかと・・・(汗)

例の如く、何の前知識も入れずに銀世界の有賀城を見た時は感動しましたね。諏訪を代表する美しい山城です。
何百年の風雪に耐え、廃城時の姿がそのままに近い状態で見れるとは有り難い事で、地主さんや地元の方に感謝です。

頑張って記事にしようと思いますが、アップはいつになるやら・・・(笑)

らんまる #- | URL | 2019/09/19 07:42 * edit *
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