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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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横谷入城 (松本市浅間温泉)  

◆浅間地区を領有した赤沢氏の物見砦か◆

湯治場として松本藩のお殿様も通ったという浅間温泉。その歴史は古く、天武天皇に仕えた豪族の古墳も周辺にみられるという。

さて、今回ご案内するのは、その浅間温泉を見下ろす尾根上に築かれた横谷入城(よこやいりじょう)。前回ご紹介した茶臼山城とともに浅間地区を見張る赤沢氏の砦と伝わる砦である。

横谷入城 (1)
登り口のふるさと公園駐車場から横谷入城を見上がる。ピークを二つほど越えた奥側になる。

【立地】

浅間温泉の東方、大正山(1050m)から南東に延びる尾根先の大音寺山(887m)に築かれている。以前は西側の上浅間配水池の沢沿いの道を登るルートだけだったようだが、平成18年に尾根の東側からの遊歩道が整備され、二年前には「浅間温泉ふるさと公園」として西側の御殿山も含めて大規模に整備されたので迷わず城跡まで辿り着ける。
しかし遊歩道の整備に伴い城跡の遺構がかなり崩されてしまい、宮坂武男氏が踏査した平成8年の縄張図とはかなり違ってしまっている。

横谷入城 (3)
ふるさとは公園宿泊客のトレッキング用の遊歩道整備が目的のようだが、効果はどうなんだろうか。

横谷入城 (30)
つづら折れの遊歩道を10分ほど登ると最初のピーク。ここは平場で堀切があるらしいのだが・・・。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」では赤沢氏の持ち城で部下に守らせたとあり、「松本市史第二巻」にも「赤沢氏の持城で稲倉城の要砦で物見城とも呼び、天文年間には浅間孫太郎が守っていたが武田氏により落城、破却されたとある。

横谷入城見取図①
宮坂武男氏の縄張図(平成8年)によれば、良好な遺構が残っていたはずなのだが・・・。

赤沢氏の所領は、女鳥羽川上流の稲倉(しなぐら)を中心とした集落と浅間峠を越えた女鳥羽川下流の浅間周辺なので、浅間峠の街道を監視する砦としてはもちろん、烽火台としての機能も併せ持っていたのかもしれない。

横谷入城 (29)
必死に探した堀切㋖。が、土手付きの痕跡すら分からない状態。

横谷入城 (8)
城の中枢部に入る手前の削平地は「アルプス展望台」として新たに標柱とベンチ数台が設置されていた。

横谷入城 (6)
物見としては申し分ないロケーション。

横谷入城 (7)
遠く塩尻市方面まで見渡せる。

【城跡】

頂部に単郭を置き、前後を数条の堀切で防御した簡単な縄張だが、主郭の東側には土留めの石積が確認出来る。
西の沢筋の遊歩道には「空堀」の表示があるが、これは伐木の作業道を兼ねた山道のようであり、竪堀ではなさそうである。
遊歩道の整備に伴い城跡は大規模な伐木が行われた結果、雨水や風雨が地表を削り堀切は崩れてしまったようである。

横谷入城 (9)
城址に立つ新しい標柱。

横谷入城 (10)
22×13の主郭。削平されているだけで土塁で囲まれた痕跡はない。

横谷入城 (25)
主郭の東側には土留めの石積みが散見出来るが西側の斜面には無かった。

宮坂武男氏の縄張図によれば主郭の西側には三条の堀切があったようだが、現在では崩落したか整備過程による改変でその姿がハッキリしない。堀切㋒はほぼ壊滅状態である。

横谷入城 (28)
かすかな堀形を辿るとこんな感じに二重堀切になっていたと思われる。

同じように主郭の東側の鞍部へかけての尾根にも堀切が二条あるがライン、遊歩道整備でエッジラインが欠け、北へ下る竪堀㋑の堀底には切断された倒木が積まれて埋もれていて肉眼での確認も困難な状況に追い込まれている。

横谷入城 (13)
強引に補助線を入れてみたが、チョッと厳しい・・・(汗)

横谷入城 (17)
西斜面から竪堀となっている堀切㋑の僅かな痕跡を探してみた。

横谷入城 (21)
堀切㋐も堀底が歩道となり一部破壊されたようだ。

城域の東側の鞍部は平地になっているので小屋掛けが出来そうだ。現在「堀切」と表示された標柱が立つ場所は一見すると確かに竪堀に見えるが元々は古道で沢筋の作業道として拡幅されたものであろう。だが、途中に水源があることからこの砦の登城口だった可能性もある。

横谷入城 (19)
鞍部に接続する堀切遊歩道。平成18年度の整備事業の際に空堀跡の看板が立てられたが、検証する必要はあると思われる。

横谷入城 (14)
鞍部と城域を遮断していれば堀切と考えられるが、乗り越しにもならずに大正山方面に続いている。

武田信玄の中信濃侵攻の際に、この付近の土豪は悉く小笠原を離反し武田の軍門に降っている。赤沢氏もその一人であり、武田統治時代には既に横谷入城はその役目を終えて使われなくなっていたと思われる。
また、ふるさと公園の案内図には「横谷城」という表示があるが特に遺構は確認できないという。


≪横谷入城≫ (よこやいりじょう)

標高:887mm 比高:160m (ふるさと公園駐車場より)
築城年代:不明
築城・居住者:赤沢氏
場所:松本市浅間温泉
攻城日:2018年3月17日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り(無料)
見どころ:アルプス展望台からの眺望、石積み
注意事項:特にないが、温泉街の道路は狭いので通行に注意。
参考資料:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版)
付近の城址:茶臼山城、伊深城、早落城など

横谷入城 (32)
浅間温泉の西側の女鳥羽川沿いから見た横谷入城遠景。

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Posted on 2018/03/25 Sun. 19:12 [edit]

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茶臼山城 (松本市浅間温泉)  

◆赤沢氏の初期の要害城◆

そろそろ真面目に記事をアップしていかないと過剰な在庫を抱えて倒産しそうである・・・(笑)

写真2~3枚と適当な感想でも書いていけば何のこともないだろうが、地元のヤツがそんな体たらくでは恥ずかしいしネ・・・(汗)

今回ご案内するのは、立入禁止の為に周辺の観察だけで終わった茶臼山城。

IMG_5591.jpg
「一人ぐらい見逃してくれよ~いいじゃねえかよ・・・」と思いつつ、不法侵入してはいけません。

【立地】

浅間温泉の後背の山尾根先端部に築かれている。ここは麓からも良く見える。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」には「本村の卯の方にあり。東西八間、南北十間、赤沢氏の持城たり。籏本姥貝左衛門と云す者に之を守らしむ。武田氏の大軍乱入・・・・・」とある。赤沢氏は小笠原氏に属し、その居館は本郷小学校の校庭あるいは温泉街の枇杷の湯付近にあったらしいが、その後稲倉城の麓の御屋敷平へ移ったという。

茶臼山城見取図

【城跡】

主郭にはかつて古墳があったようだが取り壊されて小屋が建てられている。城の主要部も耕作により改変された上に近年の道路の開通や貯水池の建設で遺構が壊されてしまい、往時の様子は推測するしかない状態。しかも主要部は立入禁止。主郭背後には堀切があったかもしれないがそれすら分からない。説明板には南方に30mの空堀とあるが、城への通路だった可能性もある。

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まあ、踏査出来ないので遠方から見るだけ・・・(笑)

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道路沿いに説明板があるのは有難いのだが、入りたいなあ。

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哀愁を帯びた標柱がイイ!

「信府統記」にも茶臼山城について記載があるが、「次の曲輪等ハ形崩レテ分明ナラズ」とあるので、この時点で既に主郭以外の郭は不明確に改変されていたようである。

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道路側から主要部分を撮影。この土手を登りたい衝動を抑えるのが難しい・・・・(爆)

小笠原長時の配下として稲倉城を本城とした赤沢氏だが、武田信玄の侵略時に武田方に降る。その後武田氏が滅亡すると小笠原貞慶の部将として刈谷原城主を命じられるが、天正十年(1583)に古厩氏・塔ノ原氏とともに謀反を企てるも事前に発覚し翌年松本城内で切腹となり赤沢氏は絶えた。

≪茶臼山城≫ (ちゃうすやまじょう)

標高:720mm 比高:55m 
築城年代:不明
築城・居住者:赤沢氏
場所:松本市浅間温泉
攻城日:2018年3月17日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し (道路が狭いので路駐は広い部分へ)
見どころ:特になし
注意事項:不法侵入禁止。配水池も立入禁止。
参考資料:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」 (宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:横谷入城、伊深城、早落城など

IMG_5593.jpg
東側斜面の堀形。かつての登城通路だった可能性もある。

Posted on 2018/03/21 Wed. 14:58 [edit]

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0113

平瀬南城 (松本市島内下田)  

◆平瀬本城の南を守る竪堀の美しい砦◆

今週初めに遊びに来た娘と孫の置き土産「インフルエンザB」に罹患し絶賛悶絶中である・・・・(笑)

健康の有難味が心に染み入る今日この頃ではある・・・(爆)

さて、今回ご案内するのは「いつでも行ける」と思いつつ今回やっとその気になった「平瀬南城」である。

平瀬南城 (68)
保存会の方の努力で最近見学者用駐車場が整備されました。ありがたい事ですw

【登り口】

ここは信濃先方衆の同僚である「ていぴす殿」が保存会に入っているので、事前に聞いておけばよさそうなものを、例の如く思い付きで攻め込んでしまったので、直登は覚悟したものの「さあて、どう登りますか・・・」(汗)

犀乗沢沿いに本城方面へ向かい登れそうな斜面を探すが結構キツそうだ。北沢と南沢の川が合流する木橋付近に何かあるぞ・・。

平瀬南城 (2)
おお、ここに看板があるではないか。素晴らしい(笑)

が、道らしきものなどない。険しい尾根先が川に落ちる斜面に辛うじて獣道らしき跡が付いているだけ。

「さて行きますか!!」いつもの事である・・・(笑)

先日、盟友ていぴす殿にお聞きしたら、南沢の砂防ダム沿いに遊歩道を設置する計画はあるが教育委員会の許可待ちとの事。いつになるか分からない様なので、「転落注意」の装備で挑む事をお勧めします。
※ちなみに小生はこの時期はスパイクピン付きゴム長が主力装備。抜群の安定感とコスパだが、防寒対策を忘れずに!

平瀬南城 (3)
比高60mほど登ると緩い下りの尾根(郭3)に到達。笹薮が酷いが歩けないほどではない。

【立地】

芥子望主山(けしぼうずやま 891.6m)の支脈が犀川に突き出る手前の尾根に築かれている。同一尾根の東側の山田集落付近には信玄本陣跡の伝説が残るという。南沢を挟んだ対岸の尾根には平瀬本城(714m)、平瀬山北の城がある。

平瀬南城縄張図
今回は「長野県の歴史を探し求めて」の管理人ていぴす殿の縄張図を借用しました。(無断転載禁止)

平瀬南城 (6)
続いて郭2.

【城跡】

尾根先に郭を三個繋げた一見何の変哲もない連郭式の砦なのだが、主郭の東サイドに横堀を加工し、背後を四重の加工度の高い堀切を穿ち、竪堀として斜面に落として最終的に南沢に収斂(しゅうれん)させている。
平瀬本城ほど複雑な処理はしていないが、同時期に加工されたものであり、斜面煮立って眺めると感動する美しさである。

平瀬南城 (10)
主郭(27×16)西側に土塁が盛られている。

【横堀】

傾斜の緩い南沢側に対する備えとして横堀を入れ更にその先を竪堀として落とすことで侵入を制限している。
砦とか支城というレベルではなく独立した一つの城としての防御機能である。

平瀬南城 (12)
主郭の東側に横堀が走る。

平瀬南城 (17)
主郭背後との接続部分(堀切①)

平瀬南城 (14)
横堀は北斜面に竪堀として落ち、途中で郭3に接続している竪堀と合流する。

平瀬南城 (15)
かなり浅くなっているが段郭ではなく横堀である。

【連続堀切と集合堀の処理】

尾根の背後に連続竪堀を数条入れ、更に長大な竪堀として斜面を走らせ最終的に集合掘とさせる技法はこの地域の山城の特徴であり、小笠原氏関連の山城で多く見られる。
平瀬南城も例外では無く、その特色を踏襲している。(もちろん平瀬本城も同じである)
この加工度の高さは戦国末期の改修であろう。

平瀬南城 (18)
尾根を断ち切る堀切②

平瀬南城 (23)
城域最大の堀切②は上巾11m。巨大な竪堀として斜面を下る光景は圧巻である。

平瀬南城 (25)
堀切②は西斜面側にある程度延長している。

平瀬南城 (28)
西側斜面を竪堀として落ちる堀切②

堀切②の先の南尾根を断ち切る堀切③・④・⑤についてはかなり埋もれているが、南沢に向けて竪堀となり集合掘りとなる光景は素晴らしいの一言である。

平瀬南城 (29)


平瀬南城 (31)
南尾根はこんな感じ。

平瀬南城 (34)
水の手方面に落ちる堀切④

平瀬南城 (45)
水の手から見上げた堀切⑤

平瀬南城 (44)
四条の竪堀は水の手付近で合流し1本の集合掘となって南沢に向かう。

平瀬南城 (47)
集合堀の拡大。

平瀬南城 (51)
写真ではそのスケールの大きさをお伝え出来ないのが残念・・・・。

平瀬南城 (50)
このような土の構築物を見て感嘆している姿を人に見られたら「関わらない方がいいよ・・」とか言われそう・・・(笑)

平瀬南城 (53)
集合掘の北側にも一条竪堀を穿って斜面からの侵入を防いでいる。

さて、如何でしたでしょうか?

解説能力の無さを写真で補おうという姑息な手段はいつもの事なのでご勘弁くだされ・・・(笑)

平瀬南城は平瀬本城の支城という位置づけですが、かなり加工度は高く、少数の精鋭が立て籠もれば数日間は敵を引きつけておけるだけの戦闘力があるように思えました。
平瀬城(北城・本城・南城)ですが、武田の改修というよりは、小笠原貞慶が安曇野・小谷方面への軍事拠点として新たに築城したのではないか?という説もあります。色々と想像力を膨らませるのは楽しいですよネ。

平瀬南城 (32)
主郭からみた奈良井川と梓川の合流地点。武田が攻略した平瀬城はあの場所になる平瀬氏居館だというのが最近の定説だとか。

≪平瀬南城≫ (ひらせみなみじょう 平瀬南支城)

標高:677mm 比高:107m (犀川より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:松本市島内下平瀬
攻城日:2018年1月7日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:片道15分 駐車場:有り
見どころ:堀切、長大な竪堀、集合堀、水の手
注意事項:登り口は急なので手袋、滑りにくい靴は必須
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編 宮坂武男著」
付近の城址:平瀬本城、平瀬北の山城、平瀬氏居館跡、光城、田沢城など

Posted on 2018/01/13 Sat. 19:32 [edit]

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0810

楡沢山城③ (別名:木曽義仲の隠れ城 塩尻市楢川楡沢山・辰野町瀬戸沢山)  

◆荒行の果てに見た伝説の城址の景色とは◆

「結界は越えたが、一線は越えておりません・・・・」(らんまる攻城戦記管理人談)

何処かの国の育児放棄したシングルマザーを名乗る元アイドルの一年生議員さんと「やっちゃえ日産」よろしくGT-Rを操る関西方面の市会議員さんの税金を使った火遊びと、我々水曜特集の川口浩探検隊の「一線」の意味は全く違う。とはいえ、前人未踏の地なのにテレビカメラが先回りして撮影し、我ら国民を巧妙に欺いたという点では川口探検隊も立派な詐欺師であろう・・・(笑)

「城跡としてのWEB初公開」・・・この言葉の誘惑には勝てない。「一線」とはこの事を示すのかもしれない・・・(汗)

楡沢山城 (110)
楡沢山城から南西方面の木曽平沢駅の北側の高台より撮影。坊主林道ですら簡単に登れる高さではない。

楡沢山城 (32)
平場と平場を区切る石の列の跡。人工の造作物と見れるかは微妙だ。

烽火台も含めた山城の標高の限界が1000m~1200mといわれるのは、その高さが天候に左右されるギリギリのラインだからである。もちろん、麓からの比高も勘案されるだろうが、狼煙をあげるにも女子供や老人が逃げ込んで敵をかわすにもこの高さが「結界」であり、一つの目安であろうか。

楡沢山城 (45)
ニセピークから熊笹を掻き分けて北へ歩く事5分。とうとう我々は楡沢山城の中心部に辿り着いたのである。

【城の伝承と履歴】

標高1,760mの楡沢山山頂にある事から通常は「楡沢山城」(にれさわやまじょう)と呼ばれているが、楢川村贄川(ならかわむらにえかわ)や平沢においては「木曽義仲の隠れ城」とか「木曽義仲の夏城」と言われている。また、辰野町川島では「瀬戸城址」と呼んでいる。「木曽義仲の隠れ城」(島田安太郎・舟木慎吾著 昭和四十八年刊行)では研究会のメンバーの提案により「朝日ヶ峯城址」と呼称を統一したようだが、浸透しなかったようである。

楡沢山城 (47)
1754mのピークの北側の削平地。主郭であろうか。V字形の二段でかなり広い。

楡沢山城 (46)
腰の高さまで生い茂る熊笹が城跡一面に広がる。何十年かに一度笹が枯れて城跡が鮮明になるようだが、いつになるやら・・。

「長野県町村誌」の贄川村「楡沢山の砦」の項に、「木曽氏砦の其一にして、本村の南にあり。中山道々路に続す。峻山にして其高さ百廿丈余、嶺上に至り四方を眺望すれば、数里外の村落と雖も一目瞭然足り。故に木曽氏茲に砦を築き、常に兵士を置き、之を守らしむ。敵襲来するの時い当り、是を遠見し狼煙を挙げて、鳥井峠の砦に報ず。同所の守兵これを見るや山吹山(日義村にあり)の砦に報ず。於茲再び烽火を挙げ、以って木曽氏の本城福島に報じ、敵兵防御の軍備をなせしと云ふ。嶺上東西三十間南北五十間平坦なる地あり。今に至って尚所々残礎を存す」とある。

楡沢山城見取図①
頂上付近の平坦地を等高線に沿うような形の横堀でガードしたような縄張。

郷土史研究家で、「木曽義仲の隠れ城」の共同著作者である舟木慎吾氏によれば、この城の築城目的は信濃に落ち延びてきた義仲を匿い育てる為であったという。知識も経験も不足している小生は否定も肯定もしないが、そんな思い入れもありかなーと思う。

楡沢山城 (49)
山頂は土塁状の5×50mの痩せ尾根にある。熊笹に覆われて何が潜んでいるのか分からない・・・(汗)

【城跡】

平均して腰の高さ、場所によっては胸までの高さがある大熊笹が城域一面を覆っているので、細部は捉えきれない。が、笹の海の高さの変化=地形を示しているので凡その見当はつく。ハッキリ確認出来るのは横堀と伝承されている見取図における㋐・㋑・㋒などの堀形である。
宮坂武男氏が指摘している通り、この横堀は「線状凹地」(せんじょうおうち)と呼ばれる等高線に生じた山塊の地層のズレや地滑りの跡で、南アルプスの山脈には多く見られる地形らしい。

楡沢山城 (50)
城址ピークの南側の「舟くぼ」と呼ばれる線状凹地(見取図の㋐) 巨大な土塁状の壁が深さを際立たせている。

この巨大な線状凹地(舟くぼ)が源平合戦の頃に構築されたという説が正しいのか、ていぴす殿の被写体で検証してみよう。

IMG_1931.jpg
舟くぼ(堀切㋐)に突撃していく「ていぴす殿」

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長さ50mほどある横堀㋐。ここで彼は得体のしれない巨大なタランチュラに似た生物に遭遇し恐ろしさに声も出なかったという。

楡沢山城 (54)
城域のピークの1754m付近。三角点は元々ないが、この状態では確認など無理である。

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12:30に楡沢山城のピークへ到達。しかし、相変わらず笹薮に覆われたここで昼食や休憩がとれるはずも無い。

ピークから北西の斜面には数段の平坦地が認められる。人工的に手を加えたとしても、この高地ではごく僅かな作業に留まったと思われる。

楡沢山城 (61)
主郭と思われる平場。

楡沢山城 (67)
主郭の北側斜面に展開する段郭。

【舟木慎吾氏の作製した説明板の痕跡】

「木曽義仲の隠れ城」の著者である舟木慎吾氏は楡沢山城の研究・執筆とともに、城址に畳一畳の自作の説明板を背負いあげて立てたという。平成13年の調査時に宮坂武男氏は、朽ち果ててはいたが、その熱く語られた説明板の半分を確認したという。
我々も必死にその痕跡を探した。圧倒的な熊笹の藪に諦めかけたが、見事発見したのである。

飽くなき城への探求心とその情熱。我々も見習いたいものである。

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標柱(説明板)が固定されていたであろう支柱の跡。

【笹薮の海と線状凹地】

それにしても一面の笹薮。岩原古城も酷かったが、ここも似たようなものだ。足下に何が潜んでいるかも確認できない状況はかなり辛いし、ヘタに休息すらできない。外気温の上昇に伴いハエが顔の周囲を飛びイライラしてくる・・・。

楡沢山城 (72)
城域北限の郭。この台地は「神を祀るという台地」という名がついている。

楡沢山城 (76)
見取図における横堀㋑。曖昧だが等高線をなぞるような窪地である。

楡沢山城 (78)
横堀㋑から見上げた城域。こんな標高の高い場所にこれほど広い場所があるとは。

楡沢山城 (81)
城域ラストの横堀㋒。(南側より撮影)

楡沢山城 (83)
巨大な線状凹地の㋒。人工造作物であれば、御坂城の横堀に勝るとも劣らない。

楡沢山城 (84)
㋒の拡大。自然の造形にしては限りなく人工の造作物に近く、我を忘れて撮影する美しさがあった。

当日のルート
さあ、城ヶ平経由で帰りましょうか。

【城ヶ平】

城域を離脱した我々は、城ヶ平に向かった。幸いなことに北へ向かう尾根上には辛うじて道形が残っていたので相変わらず腰まで生い茂る熊笹行軍であったが下りだったので精神的には楽だった。

楡沢山城 (89)
城ヶ平に向かう途中にも線状凹地の堀形が何ヵ所か確認できた。

楡沢山城 (90)
城ヶ平。ここから坊主林道までは道など無い。結構な傾斜地で疲労困憊の足腰にはキツイ下り坂であった。

楡沢山城 (91)
途中の下り斜面で視界が開けるポイントがあったが両足の痙攣で横移動が叶わず望遠撮影。道の駅まで比高600mぐらいか?

楡沢山城 (93)
坊主林道に戻れた時には、正直なところ、嬉しかった・・・(笑)


≪楡沢山城≫ (にれさわやまじょう 瀬戸城 一夜城 木曽義仲隠れ城 要害城 朝日ヶ峯城)

標高:1,754m 比高:865m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:塩尻市楢川楡沢山・辰野町瀬戸沢山
攻城日:2017年6月24日 
お勧め度:☆☆☆☆☆ (遭難の恐れ有り 経験・装備がない限りお勧めしません 自己責任で)
館跡までの所要時間:4時間30分 駐車場:道の駅ひらさわ借用
見どころ:線状凹地
注意事項:遭難の危険あり。単独訪問不可。熊生息。熊笹ラッセル必須。
参考文献:「信濃の山城と館④ 松本・塩尻・筑摩編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版 P249参照) 
付近の城址:奈良井城、本山城など
SpecialThanks:ていぴす殿 (感謝感謝でございますw)

楡沢山城 (5)
さすがに日本最高所のラスボスは、手強かったのである。

楡沢山城 (111)
贄川宿より見た楡沢山城。

楡沢山城 (112)
拡大写真。二度・・・は無いだろうなあー(笑)

Posted on 2017/08/10 Thu. 22:50 [edit]

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楡沢山城② (別名:木曽義仲隠れ城 塩尻市楢川楡沢山・辰野町瀬戸沢山)  

◆果てしなき大熊笹の藪漕ぎに心が折れ、挙句の果てに城址を間違える寸前にまで追い詰められたラスト85分間◆

【山の神の怒りの痕跡の残る林道を歩く】

坊主林道(ぼうずりんどう)と名付けられた道幅の広い林道が、上伊那郡辰野町方面の牛首峠から楡沢山城の近くの標高1500m付近まで続いているのだが、この道を通行するには営林署の許可が必要である。仮に営林署の許可が下りたとしてもあちらこちらで寸断され、廃道に近い状態だというのが、実際に歩いてみて分かった。

楡沢山城 (6)
幅4m以上のしっかりした林道に驚く。高度成長期ならではの土木工事量に驚愕する。

楡沢山城 (10)
そして林道を進むとクーさんの新しい「ウンチ」に驚くのである。まあ、この辺に住んでいてもおかしくはないか・・・。

楡沢山城 (11)
標高1500mの林道にガードレールとは信じがたいがひたすら歩く。

楡沢山城 (12)
山の神の怒りに触れたような土砂崩落で林道が埋まっている。これじゃジムニーも通れないし戦車ででも厳しいか・・(汗)

坊主林道を歩く事35分。平地を延々と歩くのもかなり疲れる。当初は、城ヶ平の真西の直下辺りから坊主林道を離脱する予定でいたが、相方のていぴす殿よりショートカットコース経由での最終トライを提案される。
前人未到のルートに挑むという冒険心と、帰路に備えて体力温存という一石二鳥を狙った我らは、「八甲田山死の彷徨」の夏バージョンを体験する事となったのである・・・(汗)

楡沢山城 (9)
楡沢山城に通じる城ヶ平の真下に辿り着くには、気が遠くなりそうな距離を歩くのである。「悪魔の囁き」に抵抗しながら・・・。

当日のルート
当初ルートを変更した後の行程。どのみち、道など無かろう・・・というのが我々の一致した見解であった。

【人間の侵入を拒み跳ね返す急斜面を覆う一面の大熊笹との死闘】

信濃先方衆のルートの当日変更は時々行われる。地形図が読めるので、合理的なルートを探索する。(なるべくラクしたいだけだが・・・笑)

当初の計画である城ヶ平からの攻城ルートも事前の情報から笹薮漕ぎを覚悟していたので、どこから城跡を目指そうと笹薮は避けて通れないならどこからトライしても一緒ぐらいに思っていた・・・・・。

楡沢山城 (13)
ポイント③地点から見上げた変更ルートの尾根。10分後には地獄の大笹薮のお出迎えに閉口する。

残念ながら、心が折れてしまったので、途中の写真など一切ない。

行けども行けども終わる事のない急斜面の大藪漕ぎに体力的にも精神的に追い詰められていた。正直、もう止めたかった・・(汗)

「進退ここに極まる・・・・」 とはこのことであった。1,000以上の山城を踏破してきたのだが、ここで諦めるのか・・・。

我々は楡沢山城まであと比高150m地点にいた。戻るも地獄、進むも地獄。何が出るか分からない笹薮のラッセルも限界。

「ここまで来たらもう登るしかありません!!もう少しで稜線に出るはずです。」 相方のていぴす殿の声に救われた気がした。

楡沢山城 (16)
見渡す限りの大熊笹。何処にも迂回出来ない。急斜面の向こうに空は見えてもゴールが見えない恐怖との戦い。

楡沢山城 (17)
足が何度か痙攣してしまい小休止。もはや林道に戻る事も困難であった。

1,600ⅿの山岳地帯で藪漕ぎすること1時間。強靭な笹薮に押し戻され斜面に倒れながら、両足が痙攣しても這いつくばって何とか稜線手前に辿り着いた。

すると、傾斜が緩くなり熊笹の背丈もかなり低くなった場所に横堀状の窪地を発見。「ここから城域なのか?」

楡沢山城 (18)
横堀状堀状の窪地。

【到達した喜びも束の間、「ああ勘違い」で冷静さを取り戻し、偽ピークからホンモノの城跡へ】

極限に追い詰められると、そこから脱出したい一心で物事が冷静に見れなくなるらしい。

「横堀状の窪地」「段郭」「尾根筋のピーク」 苦難の末に辿り着いたのは、確かに城跡の条件が揃っていた地形だった・・。

楡沢山城 (20)
段郭らしき遺構。

楡沢山城 (25)
主郭と勘違いしていた平場。

楡沢山城 (33)
ここが城の遺構なのだと信用させるに十分な散乱した石積み跡。

宮坂武男氏の縄張図と、ていぴす殿が持参した「「木曽義仲の隠れ城」(龍門堂)に描かれた朝日ヶ峯城(楡沢山城)の縄張図を確認すると、類似した地形だったので、ここが城跡と思い込み、二人して疲労を忘れて写真撮りまくりだった・・・。

が、「待てよ、この場所の地形、何か違うなあー」  この直感は経験値の為せる第六感であった。

楡沢山城 (42)
ここがピークの1754m・・・??なんか違うよなあ・・・。

楡沢山城 (36)
見方によっては尾根の郭に対する切岸で、一段下は帯郭のようにも見える。

疲労困憊はピークに近かったが、尾根に出てしまえば勇気凛凛で頭は冷静さを取り戻した。(ってか、アンパンマンかい!)

スマホのアプリの国土地理院の現在地は、「城跡の手前」を指している。

「さあ、先を急ごうか・・・・・・・」 この事であった。

楡沢山城 (3)
当日のオンタイムのスクリーンショット。ピークはまだ先なのが認識できると思うが・・この時はクライマーズハイだったようだ・・(笑)

危うく城跡を誤認するところだった我らは、腰まで埋まる笹薮の平原をピーク目指して進み、ようやく城跡に辿り着いたのである。

次回衝撃のラスト、「笹薮は、もうお腹一杯・・・そして伝説へ」を待とう・・・(笑)

楡沢山城 (23)
標高1700mの山岳の連なる高地に築城する必要もないし、横堀も必要ないと思うのだが・・・。





Posted on 2017/08/03 Thu. 22:23 [edit]

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