らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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中の小屋 (松本市中川矢久)  

◆身を隠して敵をやり過ごした舟窪形の逃げ込み砦◆

この時期は山城巡りがオフになるので、ブログ記事の掲載も若干ペースアップするのだが、増え続ける膨大な在庫を裁き切るには毎日更新して・・・無理だ・・・・しかも過去の写真を見て縄張図と場所を一致させるだけでもすごい労力・・・(汗)

誰も行かないであろうマイナーな城をアップし続ける地道な作業は、修行そのものであろうか・・・(笑)

今回ご紹介するのは、二度目のトライで辿り着けた「中の小屋」。地元ならではの執念の燃やし方にイラっとする方も多いかと・・(爆)

【中の小屋へのルート】 ※それでも行ってみたいという人の為の虎の巻・・(笑)

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松本市中川の大沢浄水場まで車が登る。(途中に害獣除けのフェンスあり)ここに車を捨てて歩いて大沢の河川敷に入る。※写真は登って来た道を振り返って見ています。

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沢筋が途中で二股に分かれるので手前の沢へ折れて進む。

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沢の左側に鉄塔保安道用の階段があるのでそこをよじ登る。

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信濃の山城探訪は鉄塔の保安道を利用するケースが多いので、電力会社には感謝感謝ですw

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沢から比高100mなので、急坂を20分ぐらいでしょうか。直登すると思えば有難い保安道です。

【立地】

矢久の谷の奥、ダムの上の大沢と中の沢が合流する所の山尾根上の鉄塔の場所が中の小屋という。大沢の奥に「猿ノ小屋」があるというが、その場所は特定できていないという。

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砦跡の鉄塔広場の手前を登る「ていぴす殿」。鉄塔建設時の改変と思われる削平地と石の散乱が見られる。

中の小屋見取図①
生坂村の猿ヶ城物見に似た窪地で、若干の手が加えられた程度であろうか。

【城主・城歴】

伝承では召田城の詰めの城と言われるが、矢久の谷の奥には、中の小屋以外にも橋ノ小屋、猿ノ小屋、あるいは鳥の城物見等の伝承があり、これらは上田小県地方への間道に接していて、戦乱を避けて隠れる逃げ込み場所であったり、間道筋の物見であったりするものである。中の小屋には「おんまや」の地名があるが、この地域には地滑りによって出来た舟形の窪地にその名を付ける慣習があり、山中に馬を隠した場所などとして山城に関連した名が残っている。ここにもそれと類似する地形があり、天水溜と思われる穴がある。

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鉄塔のある場所の旧態は不明である。削平前は堡塁があったのだろうか。

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北西の巨大な土塁状の尾根。堀形の内側を居住地と想定した場合に北風の風防としては申し分ない。

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北東の沢に続く堀形。

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舟窪(ふなくぼ)と呼ばれる窪地。隠れ家としては申し分ない。

天正十年、会田岩下氏が小笠原貞慶の報復を避けられないとして、矢久に砦を構えて上杉の援軍を頼んだ時に、万が一の場合は矢久の谷は退路として想定していたに違いなく、中の小屋あたりも一時的に逃げ込む場所として考えていたと思われる。

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土塁状の尾根から見下ろした舟窪の底部。天水溜の穴らしきものが確認出来る。

【城跡】

鉄塔のある場所は改変により往時の状況は不明。往時は堡塁があり物見だったのかもしれない。鉄塔の東側には土塁状の尾根との間に囲まれるように長大な窪地があり、堀形を形成している。かなりの人数を収容でき、底部には天水溜も確認出来るので、敵の襲来を避けて数日間逃げ込むには格好の場所である。

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北東に竪堀となる舟窪を踏査するていぴす殿。巨大な堀形である事がおわかりいただけるであろうか。

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舟窪の底から北西方面を見上げる。縄張図では表現できない高低差のある地形だ。

【鳥の城物見への訪問を今回は断念】

ある程度目星はつけておいたので、中の小屋の鉄塔付近から鳥の城物見を見出すことは容易であったが、実際にアタックするかどうかは別の話である。ここから林道を経由してさらに比高300m・・・道無き直登の険しき岩場の上に鳥の城物見がある。
最期の一か所を目前にして撤退するのは勇気がいるが、無理せずに万全の装備をして晩秋か来春のアタックという結論に達した。

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林道が途中まで登るらしいが、宮坂武男氏以外は誰も行っていない秘境にある鳥の城物見。

≪中の小屋≫ (なかのこや)

標高:1070m 比高:120m(大沢と中沢の合流点より)
築城年代:不明
城主;不明
場所:松本市中川矢久
攻城日:2017年4月2日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:大沢浄水場より30分
見どころ:土塁状尾根、舟窪、堀形など
注意事項:単独訪問はお勧めしない。靴はスパイクピン付きのゴム長を推奨。スマホは場所によっては圏外となる。
駐車場:大沢浄水場付近に路駐。
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:岩渕城、召田城、橋ノ小屋、鳥の城物見など
Special Thanks to ていぴす殿

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矢久の谷の砦群の位置関係。



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大沢浄水場付近から望遠5倍で撮影した中の小屋。鉄塔が刺さっているので場所を認識するのは易しい・・(笑)

Posted on 2017/06/08 Thu. 22:30 [edit]

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橋ノ小屋 (松本市中川矢久)  

◆生き延びるための逃走経路の中継地点か?◆

天正十年十一月、小笠原軍の三度目の攻撃で召田城の城将の堀内越前守が討死し、召田城は落城、幼少の会田小次郎は僅かな侍従に付き添われ小県郡青木を目指し落ち延びていったという。

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標柱はあるものの、人工的な加工跡など全く無い平坦な土地。

会田領の召田城から東に隣接する小県郡青木村田沢にかけては「橋ノ小屋」「中ノ小屋(猿ノ小屋)」「鳥ノ城」があったと伝わる。
召田城から辛うじて落ち延びた会田小次郎が、山奥深いこれらの砦を経由して青木村に向かったと思われるが、その足取りは不明である。

昨年4月に探索にこれらの砦群を出掛けたが、「橋ノ小屋」へ通じる林道が通行止めだったり、「中ノ小屋では登る沢を間違えたりして中断を余儀なくされたが、今回、ていぴす殿の援軍を得て、一年越しでこの二つの砦の比定地に何とか辿り着いた次第である・・(汗)

橋ノ小屋見取図
旧四賀村教育委員会ではこの場所を城跡と認定している。

【立地】

矢久地区、矢久川の上流大沢の左岸の送電線の鉄塔のある山が橋ノ小屋で、その奥の鉄塔のある山が中ノ小屋になる。ここはキャンプ場のある場所(現在は廃墟)の続きになり、登路は小胡桃の方から林道があり、キャンプ場手前まで軽のオフロード車なら登れる。現在は落石等でかなり林道が荒れているので通行は自己責任で慎重にお願いしたい。

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鉄塔付近で分岐となるので、北に進む。(この日は予想以上の残雪の為、手前でジムニーを乗り捨てて徒歩で向かった)

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ログハウスの横の炊事場施設。ここを利用したのは数十年前で終わったらしい。

廃墟と化したキャンプ場をていぴす殿と歩いていると、「サイレントヒル」というゲームを思い出した。
かつては、キャンプファイヤーと家族連れの歓声で賑わったこの場所は「忘れ去られたアウトドア施設」なのであろう・・・。

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辛うじて原形の残る洗い場。水道が引けないので貯水タンクが置かれている。水の補給も大変な作業だったようだ。

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展望塔は崩壊してしまった。往時の見晴らしはどうだったのであろうか?

我々は廃墟マニアでは無いが、時として廃村、廃集落、そしてこのような忘れ去られた高度成長期の娯楽施設の残骸を目にする。
少子高齢化が進めば、「限界集落」は増え、このような光景は更にふえるのだろうか・・・残念な気持ちで一杯となる。

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キャンプ場の北側に広がる広大な平場。ここが「橋ノ小屋」と推定される城跡である。

【城主・城歴】

史料・伝承等もなく、位置についてもはっきりしていないが、旧四賀村の教育委員会はこの場所を比定している。「猿ノ小屋」も「中ノ小屋」の奥というだけで位置は特定出来ていない。
会田岩下氏は小笠原貞慶の侵攻に対して召田城(覆盆子城)を急造しているが、ここはそれよりも更に奥になり、会田岩下氏やその家臣の家族を避難させた場所とも考えられるし、この場所の領民が戦乱を避けて逃げ込む場所であったとも考えられている。

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橋ノ小屋の中心部。この辺に小屋掛けでもしたのであろうか。

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橋ノ小屋の北側。この先の尾根を下れば大沢。

【城跡】

恐ろしく広い平場であり、人工的な加工は見当たらない。沢を挟んだ東側の尾根先にある中ノ小屋も、逃げ込み場所として指定され、女子供や老人の為に簡単な小屋掛けがなされたのであろう。
また、青木方面への連絡のための詰め所か一時的な待機場所として、会田岩下氏の逃避行の際にも立ち寄ったのかもしれない。

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標柱付近から南側。キャンプ場のテントを建てる平場としては申し分ない立地だが、今となっては不気味である。

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相方がいなければとても一人で探訪出来る場所では無かった・・・(汗) 廃墟の建物にクーさんが潜んでいるかも・・・(汗)

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鉄塔付近はまだ残雪が多く歩くのも難儀した。

数年前に読んだ「青木村誌」には、四賀村との境に連なる入山(1626.5m)⇒御鷹山(1623m)⇒十観山(1284.6m)には修験者の山道としての古道があり城跡と伝わる場所もあると書かれていた事を思い出した。

会田小次郎は小笠原軍の執拗な追撃により逃げるのを諦め、十観山(じっかんざん)で頂上より故郷の会田領を臨み生害したという。自害した会田氏の甲冑や刀剣、持ち出した財宝は侍従が十観山のどこかに埋めたという伝説が残るという。

十観山 017
十観山の山頂から見た会田虚空蔵山城と会田領。最後の瞬間に会田小次郎は何を思ったのであろうか。


≪橋ノ小屋≫ (はしのこや)

標高:1145m 比高:200m
築城年代:不明
城主;不明
場所:松本市中川矢久
攻城日:2017年4月2日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:召田集落より林道経由で車で20分
見どころ:標柱、平場、廃墟のキャンプ場
注意事項:林道は自己責任で。途中の落石には注意。
駐車場:キャンプ場跡
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:岩渕城、召田城、中の小屋、鳥の城物見など
Special Thanks to ていぴす殿



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Posted on 2017/06/06 Tue. 21:54 [edit]

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岩渕城 (松本市中川藤池)  

◆会田氏本拠地「殿村」の東の守りを担った城館◆

季節に関係なくオールシーズンで城巡りを敢行しているツアラーの皆様には敬意を表したい。

小生も山城探訪駆け出しの頃は、とにかく一城でも多く巡りたいという欲求だけでスタンプラリー状態に陥っていたが、ここ数年は遺構が見易く写真映えのする晩秋~冬~春先がメインとなっている。

岩渕城(松本市会田) (1)
岩渕城の南側の「堀畑」という地名の堀形の脇に立つ言成地蔵。

オールシーズンの山城ツアラーの皆様の活動を否定するつもりは全くないのだが、過去には10月中旬~5月末まで見ごろだった信濃の山城は、現在11月初旬~4月末ぐらいまでと地球温暖化の影響をモロに受けている・・・(汗)。この先どんどん短くなるのかしら・・・。

今回ご案内するのは、そんな山城オフシーズンの欲求不満を解消する(?)かは疑問だが、平地の城館の岩渕城である。

岩渕城(松本市会田) (8)
国道143号線から脇に入った藤池集落の公民館と火の見櫓付近が城館跡になるので、公民館に車を止めさせていただく。

【立地】

会田地区の東側に位置し、入川の左岸の段丘上で北側は断崖になり、西から南へかけて自然の沢が堀となっている。入川の対岸の右岸には虚空蔵山城(峰の城、中ノ陣、秋吉城)が見え、東方の後背の山上には召田城(覆盆子城)があり、小県に通じる地蔵峠・青木峠への道筋を抑える要衝の地である。

岩淵城見取図①
入川から派生した自然の沢が堀切㋐となって河岸段丘を形成し、その台地を城館として縄張したのであろう。

岩渕城(松本市会田) (7)
堀切㋐から公民館の北側は国道143号線に分断されてしまったが、狐屋敷と呼ばれている。※狐は見張や物見を表す隠語

【城主・城歴】

「東筑摩郡誌」(大正八年)に「岩渕城址」として「本城の平、南北三十四間にして、東西北の三面に堀切ありて、南中川の流に臨めり。会田広政の部将、岩渕豊後守の居城なりしが、本城と同時に陥落せり。子孫其の地に留まり、今猶は民間にありといへり。」とある。

岩渕城(松本市会田) (9)
郭2の南側の国道143号線沿いの建物の脇に四賀村時代に建てた岩渕城の標柱が残るが、文字がほとんど消えかけている。

岩渕城(松本市会田) (11)
郭3との間の堀切㋒。私有地なのでこれ以上は探索出来ずフェンス越しに撮影のみ。

【城跡】

国道143号線が城域を分断してしまっているので全体像は掴みづらい上に、宮坂武男氏の示す縄張図の郭1、2、3を調査することも叶わず外からの撮影のみだったので消化不良気味だった。
宮坂武男氏の説によれば、往時は堀切㋐と堀切㋓が合流し外周を自然の堀が囲む要害の地であったようだ。

この城館が天正10年十一月における小笠原軍の召田城への攻撃に際して、防御陣地となったのは間違いないと思われるが、残念ながらそれを裏付ける資料は存在しない。

岩渕城(松本市会田) (12)
城域を分断する国道143号線(西側より撮影)

岩渕城(松本市会田) (13)
国道の脇からは自然の沢を利用した堀切㋐が確認出来る。

岩渕城(松本市会田) (4)
堀切㋐は途中の竹藪を抜けると堀形として城域の南に残り、「堀畑」という地名で残る。

岩渕城(松本市会田) (5)
堀畑(堀切㋐)の東側の最終部分。往時は堀切㋓と接続して屋敷地を周回する天然の沢だったようだ。

また、近くには堀畑の地名の他に、狐屋敷、堀尻、ねずみ原、狐山などもあるという。「長野県町村誌によると岩渕氏は浪々の後当所に戻り、城址へ観音寺を建てたが正保二年に他へ移したとある。

岩渕城(松本市会田) (17)
寺屋敷と呼ばれる主郭跡。岩渕氏はここに観音寺を建てたと伝わる。

≪岩渕城≫ (いわぶちじょう 藤池館)

標高:670m 比高:40m(入沢より)
築城年代:不明
城主;岩渕氏
場所:松本市中川藤池
攻城日:2016年4月10日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-
見どころ:堀跡など
注意事項:集落なのでプライバシーに注意、無断での私有地立ち入りは厳禁
駐車場:公民館の駐車場借用
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:召田城、橋ノ小屋、中の小屋、鳥の城物見など

岩渕城(松本市会田) (20)
城域東側の郭3。向こうに虚空蔵山城が見える。



召田城 (59)
入川の対岸から見た召田城、岩渕城。岩淵城は河岸段丘を利用した城館であることがわかる。

Posted on 2017/06/04 Sun. 08:16 [edit]

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召田城 (松本市中川召田)  

◆上杉景勝の後詰めを待ち続け、小笠原貞慶に抗った会田岩下氏最期の砦◆

舞台は生坂村から旧四賀村会田(現在の松本市中川)に移る。

2010年9月に「会田塚」のブログ記事のラストに「いつの日か覆盆子城(いちごじょう)を訪れて、会田一族の鎮魂をしたい」と書いた。

2016年4月、とうとうその約束を果たすべく、覆盆子城(別名:召田城・矢久城)を訪ねてみたのである。

召田城 (68)
廣田寺の会田塚も6年ぶりに訪れてみた。周辺はすっかり整備され、嘗てのような鬱蒼とした雰囲気は無かった・・。

召田城 (59)
会田川を挟んだ北西の小岩井方面から撮影。登り口と書いたが目印など何もなく、城へは北の尾根伝いにひたすら登るのである。

【立地】

傘山(1124.8m)から北へ延びる山尾根の末端部にある山で、北麓の会田川流域からは目立つ山である。会田川の支流の矢久川の谷を少し入った所の左峯の山で、後背の尾根上には四阿神社がある。矢久の谷の支流、小胡桃沢からは傘山の傍の傘峠を越えると保福寺町に通じ、矢久の谷を詰めると、中ノ小屋、鳥の城物見を経て御鷹山(1623m)を越えれば、そこは小県郡の奈良本で、ここからは地蔵峠、青木峠の街道へも近い。つまり、小県地方への連絡路がいくつも考えられるところである。

召田城 (7)
緩い北尾根が急坂となり、しばらく登ると埋もれかけた堀切㋐に遭遇する。

召田城 (1)
北東方面に落ちる堀切㋐。急造の為に規模も小さく深さも足りなかったと思われる。

【歴史資料における召田城の記録】 ※「矢久のカヤ」歴史研究会の資料より引用(2015年3月)

●旧四賀村誌(昭和53年)
会田城の会田岩下氏の家人召田監物の居城。会田城(虚空蔵山)の支城、召田地区、矢久川沿いに突き出た尾根に位置する。標高890m、比高190mの山城(召田山)
安土桃山時代の天正十年(1582)11月、松本深志城の小笠原氏の侵攻に対して、会田岩下氏が最後まで籠って抵抗した砦。後に、一期の城、矢久城、覆盆子(いちご)城。(注1)

●信府統記
召田山覆盆子古城地、召田村ヨリ午ノ方四丁三十八間、本城ノ平東西十一間、南北六間、会田小次郎領主ノ時、家人召田監物(昭和53年に岩下監物のことと判明)ト云フ者ヲ置キテ守ラシム(注2)

●古小笠原分限録
城主召田監物(昭和53年に岩下監物のことと判明※)、村ヨリ午ノ方四丁三十八間、東西十一間、南北六間。

(注1)城跡は城山(じょうやま)、城平(じょうだいら)、矢塚(やづか)、馬乗(うまのり)などとも称された。
(注2)会田本城の城主会田小次郎(海野族会田岩下殿)の一門である岩下監物が支城召田城の召田の監物で同一人物。召田城の落城時の城主は召田(岩下)監物政重。

召田城見取図②
こんな防御の欠片すら無いに等しい縄張の山城で、小笠原相手に勝負したのか??

【城主・城歴】

長野県立歴史館の「信濃史料 巻十五」に以下の記述がある。

「天正一〇年一一月五日(1582) 筑摩郡会田衆等、上杉景勝の援を得て同郡矢久城に篭る、是日、小笠原貞慶、諸将を遣はして、之を攻む、尋いで、城将堀内越前守討死し、落城す、 (後略)」

天正十年11月、会田岩下(海野)が上杉方に内通し、矢久砦を構築して上杉勢を引き入れ籠城。当主の会田小次郎が幼年だったため、会田衆の指揮は家臣の堀内越前守が執っていたという。小笠原貞慶は直ちに犬甘、二木、征矢野らの重臣を会田に攻め込ませ、三日から始まり三度の合戦を経て五日頃に城将の堀内は討死、矢久城は落城。会田小次郎は僅かな侍従を従え、小県郡青木に逃れて五輪の尾根で自害し会田岩下氏は滅亡する。

召田城 (16)
ほとんど消えかけている堀切㋑。北尾根が緩いので二重堀切を穿ったのはセオリーであろう。

【弱小国衆の悲哀】

武田氏が滅亡し、本能寺の変で織田信長が斃れ「天正壬午の乱」が勃発すると、上杉景勝は信濃に侵入し川中島四郡を占領し、深志城の木曽義昌を追い出して安曇郡・筑摩郡も支配下とし、青柳や会田も一時的ながら上杉領となった。
徳川家康の後ろ盾で深志城に復帰した小笠原貞慶は、天正壬午の乱のどさくさに紛れ、景勝が越後に撤退し影響力が低下した安曇郡と筑摩郡の旧領回復を着実に進め、7月には会田岩下氏を調略しこれを帰属させている。

会田岩下氏が再び上杉氏に内通したとされる「心変わり」については、真田昌幸の調略によるものと「岩岡記」(小笠原貞慶の家臣)には記されているが、真田昌幸はこの時期には北条氏に手切れを宣告し徳川方に転じているので、徳川方の貞慶に不利となる調略はあり得ないと思われる。

召田城 (20)
主郭へ向かって数段の段郭を刻む。

会田岩下氏が上杉方に内通した時に矢久城の籠城の援軍として赴いたのは、小県郡の青木に在住する氏族だったという。
真田昌幸もこの時は小県を制圧するには至っていないので、会田岩下氏の縁者で青木に住む海野一族であった可能性がある。
※これは小生個人の推定であり、あくまでも想像の域を出ない

召田城 (21)
下から三段目が最も広い段郭(3×12)

当主の会田小次郎が幼少であるため、後見として会田一族を率いていた堀ノ内越前守は貞慶の本質を見抜いていたのだろう。
貞慶の父であり信濃守護の長時を裏切り武田晴信に降った滋野一族は、小笠原氏から見れば決して赦される事は無いのだと・・。

召田城 (25)
ようやく辿り着いた主郭(19×9)

【城跡】

多くの先人の研究者が指摘する通り、何故会田岩下氏の最後の砦がこの矢久城なのか疑問である。
急ごしらえの砦だったとはいえ、頂部に数人がやっと籠れる郭、背後には浅い一条の堀切、敵が殺到すると思われる北の尾根に何とか急造した二重堀切。物見程度の防御で貞慶軍を迎え撃つとは、会田一族の行く末を熟慮した結論とは思えない。

召田城 (28)
朽ち果てて倒れた標柱を起こして主郭を撮影。数人規模の狭い空間である。

召田城 (30)
主郭背後の堀切㋒。

召田城 (64)
これでいいのか、堀切㋒・・もっと深く掘れなかったのか・・・(汗)

会田氏の領地には、虚空蔵山の全体を要塞化した会田城があり、その他にも防御の優れた支城としての山城は多々あるのに、何故この場所を決戦の地として取り立てたのか謎は解けない。

立峠を境とする北側の青柳氏が貞慶の調略により小笠原方に転じた事を会田岩下氏が事前に知っていたとすれば、、虚空蔵山の会田城に籠城するのは挟み撃ちにあう可能性があるので、それを避けたとすれば得心がゆくし、同じ滋野一族である明科の塔ノ原氏が小笠原氏に従っているとすれば、小県郡の青木に向けた退路を確保するしか策が無かったのであろう。

召田城 (34)
主郭の南側の尾根には削平地が続く。ここから尾根伝いに四阿神社に抜け、青木を目指したのか?

召田城 (37)
本郭から南へ約100m下った先の鞍部にある削平地は後世の伐木作業車の駐車場跡。ここまで車で入る事は不可能。

堀之内越前守は、上杉本隊の援軍を待ち焦がれて青木よりの援軍と共に必死に三度の攻撃に耐えたのであろう。そして落城後の小県郡青木までの脱出ルートを確保していたのだが、残念ながら小笠原軍の執拗な追撃に耐えきれず、会田小次郎は青木で自刃し滅びた。

召田城 (47)
本郭より見た会田川沿いの集落。殺到する小笠原軍がここからも見えたはず。

頼みの上杉軍は各方面への対処で多忙を極め、信濃の片田舎の国衆会田一族の救援などは二の次として捨て置かれたと思われる。会田小次郎とともに小県郡の青木に落ち延びた召田氏も、のちに集落に戻り帰農したと記録に見られるので、貞慶の復讐が一段落した時に故郷に戻った一族もあったのかもしれない。

江戸時代になってこの城は「一期の城」と呼ばれ、のちに「覆盆子の城」と俗字に転化したもので、本来は召田城あるいは矢久城と呼ばれていたようである。

≪召田城≫ (めすだじょう 覆盆子城、矢久城)

標高:890m 比高:190m
築城年代:不明
城主;召田監物
場所:松本市中川召田
攻城日:2016年4月10日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:30分
見どころ:堀切、段郭など
注意事項:9月~10月末は松茸山として止め山になるのでこの期間は避ける事。
駐車場:無し
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:岩淵城、橋ノ小屋、中の小屋、鳥の城物見など

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虚空蔵山城の峯の城から見た召田城(覆盆子城)全景



召田城 (69)
城の北側正面より見た城跡

Posted on 2017/06/01 Thu. 07:35 [edit]

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猿が城物見 (東筑摩郡生坂村下生坂)  

◆眠峠・雲根峠を監視する物見砦◆

山城巡りがだいぶ市民権を得たとはいえ、「趣味は山城あるいは中世城郭です」なんて言ってみても世間的にはまだまだ通用しない・・・(汗)

なので、こんなブログを書いているヤツは一見フツーの市民のように見えるが、実態は「???」であろうか・・・(笑)
この趣味が家族に理解を得られるケースは滅多にない。ヲタクに昇格することは無く、未だに奇人・変人の領域に留まる・・(汗)

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猿が城物見から見下ろした「城が原・こやしき」(拡大5倍)

そんな事を書くと、真面目に取り組む山城ツアラーを自称する諸氏からはお叱りを受けそうだが、実態とはそんなものである。
そして我々のような山城ブロガーが目指すのは「ハツモノ・レアモノ・キワモノ・ゲテモノ」。この表記もかなり反感を買うと思うが、SNSの世界とはそんなものだと自覚している。

「一番槍」 「初掲載」 「SNS初公開」 「ネット初披露」・・・・

どこかの政党の予算の仕分け作業ではないが、「二番じゃダメなの・・・?」  敢えて言おう、「ダメなのである」・・(笑)

猿が城物見見取図①

だいたい信濃の山城をとことんSNSでアップしている方は少ないので、敢えて書かずとも殆んどがハツモノ・レアモノとなる・・(笑)

今回ご案内するのは生坂村シリーズ「猿が城物見」。猿とか鬼とか名の付く城は人を寄せ付けないが、ここは車で近くまで行ける。

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下生坂地区から林道を北へ登ると途中に眠峠(ねむりとうげ)への登り口がある。「眠」とは「多くの曲がり坂」の意味だという。

【立地】

犀川の右岸、日岐大城に続く生坂さんちの北端に近い山の上に立地する。猿が城と呼ばれる範囲は広く、宮坂武男氏が特定したのは、周辺の各城が見通せる雲根峠の小山とその北80mの小山で、物見としては最も適しているという。我ら信濃先方衆ももちろん異論などない。

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雲根峠の北側80mのA地点。ここが物見の中心らしく頂部は削平されている(11×6)

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郭Aと雲根峠の小山Bの尾根の東側の沢状窪地。横堀と称する記録もあるようだが、自然地形の沢であろう。

【城主・城歴】

日岐丸山氏に関連する物見砦と推定され、尾根を通る眠峠や雲根集落の通路の雲根峠を抑え、犀川沿いの動向を探るための物見砦と推定されている。

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窪地は領民の逃げ込み場所としても最適な構造である。

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対岸の土塁状尾根との間の沢状窪地。(郭Aより見下ろしています)

【城跡】

物見砦へは林道を通るのだが、よく整備された林道なので小型乗用車であれば4WDでなくても通行は可能である。ただし、下生坂村から登る途中には害獣除けフェンスがあるので、開けて閉める作業が必要になる。尾根の先端を右に回り込むと道路脇から鉄塔の保安通路が見えるのでそこから鉄塔に向けて入り、鉄塔から西側が崩落した尾根を南に伝って登ると主郭Aに着く。

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物見からの景色はあまり良く見えないので、登り口となる北側の鉄塔から撮影しよう。

「生坂村村誌」によれば、城址には数基の旗塚が絵図に書かれているのだという。恐らくA~Bの間の尾根上に何基か置かれていたのであろう。
土塁状尾根との間に挟まれた窪地を横堀とするには無理がある。これだけの土木工事量が在地土豪に出来るとは思われない。

猿が城物見①
沢状窪地よりみた主郭A。

元々は有事の際に住民が逃げ込む場所だったような気がする。水の手は確認出来なかったが、この場所なら敵をやり過ごす為の緊急避難場所としては最適なような気もする。

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雲根峠の分岐であるBの堡塁。Aよりはかなり狭い(5×3)

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郭A周辺を調査するていぴす殿。

猿とか鬼とかいう名のつく城はかなり険しい場所にあり、人をなかなか寄せ付けない。今回ご案内した「猿が城物見」も、林道が無ければかなりの苦労を要したと思われる。

普段は峠の監視砦として部外者の侵入を見張り、有事の際には、日岐大城の北を守る支城としての任務があったのだろう。

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雲根集落から見上げた険しい尾根の裏側にこのような隠れ家スペースがあるとは思わなかった。

≪猿が城物見≫ (さるがじょうものみ)

標高:830m 比高:330m(雲根集落より)
築城年代:不明
城主;不明
場所:東筑摩郡生坂村下生坂区
攻城日:2017年4月2日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:林道脇から15分
見どころ:雲根峠、沢状窪地、土塁状尾根、鉄塔付近からの景色
注意事項:整備された林道だが、落石には注意し慎重に走行されたし
駐車場:鉄塔保安道の林道脇に数台駐車可能
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:宇留賀城、金戸山城、城が原・こやしき、城平物見など
Special Thanks to ていぴす殿



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雲根峠登り口の城が原・こやしき方面から見た猿が城物見。やはり「猿」の名が付くだけの峻険な地にある事がわかる。

Posted on 2017/05/24 Wed. 22:54 [edit]

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