らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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鳴雷城 (塩尻市宗賀床尾)  

◆木曽へ通じる境目の烽火台として利用された砦◆

ブログを始めてから来月で8周年を迎えようとしている・・・・。

飽き性の小生が、「継続は力なり!」などと偉そうに言うつもりは全く無くて、明日更新が止まっても不思議ではない・・・(笑)

全く読者もいない状態から始めたブログが、今では毎日300を超える皆様に見て頂ける日が来るなんて夢にも思わなかった・・(汗)

この場を借りてご来城頂いた皆様には厚く御礼申し上げますともに、どこかの総選挙のようなまさかの「結婚宣言」は今のところありません(重婚は日本国内では認められておりません・・・・笑)。
が、いつか来るかもしれない「離婚宣言」(三行半)には恐れ慄いております・・・・・(爆)

鳴雷城 (59)
砦の東尾根に立つお地蔵様。ここの山道が嘗ては生活道路だったことを物語る証人である。

今回ご案内するのは、塩尻市にある「鳴雷城(なるかみじょう)」(読み仮名をふらないと読めませんよネ)

鳴雷城 (2)
塩尻市宗賀の床尾(とこお)集落にある床尾神社に車を止めさせていただき5分ほど南に向かうと登山口の看板がある。

【立地】

塩尻市の桔梗ヶ原から奈良井川沿いの木曽路の洗馬宿に入る手前の西側の独立峰が鳴雷山である。山頂からの眺望に優れ、後世には鳴雷神社が勧進されて雨乞いの場所となる。毎年八月のお盆明けに雨乞いの火祭りが行われ、地元の床尾神社から松明の灯が夜通しで山頂の鳴雷神社まで連なる。
隣接する霧訪山(きりとうやま 1305.7m)、大芝山(1210m)との間には尾根伝いに山道が網の目のように通じており、小野と洗馬、床尾や平出を結ぶ生活道路だった事が伺える。また、奈良井川を挟んだ西の対岸には、三村氏の居城だった妙義山城がある。

鳴雷城 (61)
登山口より約200mほど登ると二股の分岐(比高850m付近)になるので左へ。大門先は通行困難とあるが・・従来の大手か?

鳴雷城 (4)
毎年とは限らないようだが、火祭りで松明が登るらしいので登山道はキチンと整備されている。

鳴雷城 (6)
登り口の分岐点が再び合流する地点の道標。(1030m) 大横手?大手口を横に進む道の呼び名か?初めて聞いた・・(笑)

【城主・城歴】

史料・伝承等不明だという。山麓の宗賀地区は「長野県町村誌」によれば、古来は嶋立氏、水上氏の所領とあり、後に小笠原氏、武田氏、武田氏滅亡後は再び小笠原氏と領主が目まぐるしく変転している。戦国期には府中と木曽の境目の烽火台の中継地点としてその役割を果たしていたのであろう。

鳴雷城 (7)
大手口は道がハッキリしないので、大横手方面に向かい東尾根の堀切㋐を目指す。(ピンボケごめんなさい・・笑)

鳴雷城見取図①
何年縄張図を描こうと、二番煎じはテキトー故に本物を越えられない・・・(汗)

鳴雷城 (8)
大横手道から見上げた堀切㋐。ようやく城域に入ったという実感を感じるひと時です。

鳴雷城 (14)
東尾根に堀切3本。こちらを警戒していたらしい。

鳴雷城 (23)
西尾根から見た堀切㋐とその先のお地蔵さん。

【城主・城歴】

史料・伝承等なく不明だという。麓からは目立つ独立峰の山なので、雨乞いの儀式に適していたのかもしれない。松本平の最南端に位置し、桔梗ヶ原が木曽路に通じる洗馬や本山との境目に当たるので、戦国時代には府中や木曽方面からの烽火の中継地点として活用されたと思われる。

鳴雷城 (28)
東尾根を進むと堀切㋒(上巾7m)。

鳴雷城 (29)
東尾根からは三段の削平地を辿り本郭へ。

鳴雷城 (32)
簡単な烽火台ではあるが、円郭をさ重ねる縄張。

【城跡】

現在「通行困難」となっている床尾からの直線登山道が大手道だったようである。現在、舞台のある場所から北側の参道は使われていないようで、道も消えかけている。舞台の一段下の段郭は両サイドに竪堀を備えているがほとんど埋まっている。
三方の尾根を持つ独立峰の烽火台は、北側を大手とし南を搦め手としていたようだが、東尾根は緩い鞍部に生活道としての山道が走っていたせいか、二重の堀切を穿っている。

鳴雷城 (33)
やっとの思いで主郭に辿り着く。松明を持って毎年登るという地元の小学生に笑われそうである・・・(汗)

鳴雷城 (35)
主郭に建つ鳴雷神社の本殿。

鳴雷城 (37)
北側の大手から見るとこんな感じです・・・(笑)

鳴雷城 (36)
本郭の南側の堀切㋓。藪に埋もれていて探すのに難儀した。

現代では考えられないが、この時代は山道が最も安全で最短の交通の主要手段であったようだ。
川沿いは氾濫の危険があるし、平地では危険に対して身を隠すことが出来ない。明治時代に鉄道が敷設されたことにより、それまでの交通路は劇的に変化し、生活道路だった山道は次第に廃れていく運命を辿った。

鳴雷城 (44)
堀切㋓を西側より撮影。

鳴雷城 (38)
舞台の一段下の腰郭(5×18) 両サイドに竪堀の跡がみられる。

≪鳴雷城≫ (なるがみじょう)

標高:1093.5m 比高:310m
築城年代:不明
城主;不明
場所:塩尻市宗賀床尾
攻城日:2016年11月6日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:45分
見どころ:堀切、段郭など
注意事項:9月~10月末は松茸山として止め山になるのでこの期間は避ける事。
駐車場:床尾神社借用
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:霧訪山狼煙台、川鳥城、上田城、妙義山城、本山城など



鳴雷城 (64)
床尾地区から見た鳴雷城。

Posted on 2017/06/26 Mon. 21:57 [edit]

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中山砦と鍬形原烽火台 (松本市中山)  

◆巨大霊園に眠る遺構も伝承も不確かな砦跡◆

取材したまま眠る約300城に及ぶ過去の在庫をどうしたものかと思案中である・・・(汗)

城名と写真2~3枚と場所を提示するだけなら、毎日更新すれば来年の今頃にはスッキリするだろう。(それも大変な労力だが・・)

んーん、それはそれで姑息な手段と誹りを受けそうなので、精一杯、そして少し手を抜きながらペースアップするという結論・・(笑)

なので、今回手を抜いて(ってか、遺構が無いので)ご紹介するのは「中山砦と鍬形原烽火台」

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松本市街地の南東に位置する巨大な中山霊園。北端には桜の名所として有名な弘法山古墳がある。(県道63号の南側より撮影)

【立地】

松本市街地の南南東で、市営の巨大な霊園の墓地が山塊を埋め尽くす中山の頂部に中山砦と鍬形原烽火台が存在したと考えられている。背後の鉢伏山の山稜からは独立した峰であるため、頂上からは松本盆地の眺望は素晴らしく要害地形であるが、山頂部は開発等により広範囲で平坦地化されてしまい往時の遺構は消滅している。

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山頂に残る鍬形社跡の鳥居。全山霊園になっているが、頂部は公園で運動場やマレットゴルフ場がある。

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中山砦跡に残る鍬形社の石碑。ここの参道に近年まで堀形が存在していたようだが、殆んど消滅している。

【城主・城歴】

「信府統記」や「長野県町村誌」にも記載が無く、史料・伝承等もはっきりしない。ただ、「松本市史第二巻」に「鍬形原烽火台(中山)」について発掘調査の結果が記載されている。また「東筑摩郡・松本市・塩尻市誌 第二巻」にも小笠原氏の砦群として地図に四つの矢印があり、その一つとして(あるいは二つ)該当する可能性があるという。※「信濃山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年戎光祥出版)より一部引用。

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鍬形社と烽火台跡(三角点のある場所)の間はマレットゴルフ場に改変され段差(切岸)も消滅したらしい。

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おお、堀形or古墳の石室と思いきや、マレットゴルフの池跡らしい(紛らわしいわい!!・・・怒)

【砦跡】

宮坂武男氏の調査記録が平成6年なので、それから23年経過し、さらに状況は酷くなっている。宮坂氏の報告では三角点の北方の尾根には堀切が認められ、三角点の廻りも辛うじて円形の土壇が残り狼煙台跡の痕跡を残していたようだが、その後改変されたようで三角点以外は何も確認出来なかった。

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三角点は生垣に囲まれていたが、周囲の段差は何もなかった。

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ここの生垣が三角点。鍬形原烽火台はこの場所だったらしい。

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三角点の先の北尾根遊歩道にはかすかに堀形が確認出来る。唯一の遺構であろう。

山全体が霊園になっているので、非常に珍しい。何度も付近を通過していたが、この霊園に立ち入るのは初めてである。
あの世に行ったからといってこの景色がみえるのだろうか?

天邪鬼と言われようが、生きて見るからこそ価値があるように思う。

皆さんも生きているうちに、色々なところに出掛けて、沢山の素敵な風景を心にその目に焼き付けてくださいネ・・・。

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砦跡付近の霊園から見た南松本・塩尻市方面。

≪中山砦と鍬形原烽火台≫ (なかやまとりでとくわがたはらのろしだい)

標高:836m 比高:215m
築城年代:不明
城主;不明
場所:松本市中山
攻城日:2016年11月6日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-
見どころ:景色のみ
注意事項:近くにサッカー用の運動場がありプライバシーに注意
駐車場:公園用の駐車場有り
参考書籍:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:小池砦、馬場家屋敷、赤木北城、赤木南城、八間長者城、埴原城など。



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全景。


Posted on 2017/06/20 Tue. 22:41 [edit]

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小池砦 (松本市寿小池)  

◆三日月形の水堀の残る貴重な砦跡◆

基本的に登山は好きではない。山城がどうしても険しい山の上にあるケースが多いので、仕方なく登っているというのが現状だ。

でも、登山用品は大好きなのだ。装備が良ければ本気で北アルプスに行けそうな妄想をしている・・・(笑)

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日帰り登山~山小屋一泊用のザックなら35Lクラスで十分。ショルダーハーネスが身体にフィットしているかがポイント。

最近の流行は「North Face」らしいので、家人からの贈呈品で、小生も帽子と登山靴下はバッチリ・・(笑)

でもね、ザックはフランスのミレーがお気に入りで、ユーザーでもあります。。ここはこだわりですw その話はいずれまた・・。

今回ご案内するのは松本市の市街地にありながら、その三日月の水堀遺構がキレイに残る小池砦。

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ここは松本市寿にある「小池堤(灌漑用の池)」を目印に向かうと分かり易い。

【立地】

塩尻北インターから西へ1.2km、塩尻市との境に近い松本市寿小赤の小池集落の北、塩沢川に面した台地上に砦がある。一帯は構造改善で原地形はほとんど失われているが、この場所だけは、よく旧態を残していて、砦の面影を知る事が出来る。

小池砦 (1)
弧を描く西側の水堀。

小池砦 (2)
稲荷社のある北側は道路に面して空堀で残る。

小池砦見取図①
砦の中は民間地なので、土地所有者の許可の無い侵入は厳に謹んでください。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」に「塞(とりで)」として、「本村(豊丘村)の東南小池にある。武田氏これを築して、要害の便と為す。方今民有に属す」とあり、武田氏の築城を伝えている。そして、砦跡居住の百瀬氏の伝承では、武田逍遥軒信綱の砦で、百瀬氏は武田氏を名乗っていたのを百瀬に改名したといい、「百瀬家累代墓」には武田の紋をつけている。

小池砦 (3)
湧水により今も水を湛える三日月形の堀。(北側より撮影)

小池砦 (4)
武田とは断定出来ないものの、牧野島城とここでしか見られない水堀仕様の三日月堀。

一方、「寿地区景観整備委員会」が平成三年七月に建てた案内板では、「天文年間に小笠原氏が出城を築いた所で、のちに小池郷地頭頭小池との左馬亮信道の屋敷となった・・・・」とある。この小池氏は赤木氏と同族の者であるかどうかは不明であるが、関係はありそうである。この城の発生を、逍遥軒の築城はとにかく、武田氏に関連した砦の可能性はある。
※「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」P31「小池砦」の記事より引用

小池砦 (5)
500年を越えて存在する美しい水堀。

小池砦 (7)
南側より撮影。

【城跡】

西側の崖下には半円形、つまり三日月堀が残り、北と南にも堀跡があり、土塁も残る。土塁状には稲荷社(白山社とも)が残る。(今回は未確認)東の道辺り(五千石街道)に堀があり、三日月堀の東が主郭で、五千石街道の東が付属の郭と思われる。
往時は郭を土塁が周回し、堀切も周囲を巡っていたと思われる。
※「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」P31「小池砦」の記事より引用

小池砦 (9)
南側から見た小池砦。

小池砦 (10)
西側より見た小池砦。

小池砦 (14)
北側より見た砦(主郭)跡。

≪小池砦≫ (こいけとりで とりで)

標高:654m 比高:5m
築城年代:不明
城主;不明
場所:松本市寿小池
攻城日:2015年12月5日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-
見どころ:三日月の水堀、土塁など
注意事項:許可なく住宅地への立ち入りは厳禁。プライバシーに注意。
駐車場:小池堤の北側にスペースあり。
参考書籍:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:馬場家屋敷、赤木北城、赤木南城、八間長者城など。



小池砦 (11)
この先も残して欲しい遺構である。

Posted on 2017/06/14 Wed. 23:21 [edit]

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中の小屋 (松本市中川矢久)  

◆身を隠して敵をやり過ごした舟窪形の逃げ込み砦◆

この時期は山城巡りがオフになるので、ブログ記事の掲載も若干ペースアップするのだが、増え続ける膨大な在庫を裁き切るには毎日更新して・・・無理だ・・・・しかも過去の写真を見て縄張図と場所を一致させるだけでもすごい労力・・・(汗)

誰も行かないであろうマイナーな城をアップし続ける地道な作業は、修行そのものであろうか・・・(笑)

今回ご紹介するのは、二度目のトライで辿り着けた「中の小屋」。地元ならではの執念の燃やし方にイラっとする方も多いかと・・(爆)

【中の小屋へのルート】 ※それでも行ってみたいという人の為の虎の巻・・(笑)

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松本市中川の大沢浄水場まで車が登る。(途中に害獣除けのフェンスあり)ここに車を捨てて歩いて大沢の河川敷に入る。※写真は登って来た道を振り返って見ています。

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沢筋が途中で二股に分かれるので手前の沢へ折れて進む。

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沢の左側に鉄塔保安道用の階段があるのでそこをよじ登る。

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信濃の山城探訪は鉄塔の保安道を利用するケースが多いので、電力会社には感謝感謝ですw

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沢から比高100mなので、急坂を20分ぐらいでしょうか。直登すると思えば有難い保安道です。

【立地】

矢久の谷の奥、ダムの上の大沢と中の沢が合流する所の山尾根上の鉄塔の場所が中の小屋という。大沢の奥に「猿ノ小屋」があるというが、その場所は特定できていないという。

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砦跡の鉄塔広場の手前を登る「ていぴす殿」。鉄塔建設時の改変と思われる削平地と石の散乱が見られる。

中の小屋見取図①
生坂村の猿ヶ城物見に似た窪地で、若干の手が加えられた程度であろうか。

【城主・城歴】

伝承では召田城の詰めの城と言われるが、矢久の谷の奥には、中の小屋以外にも橋ノ小屋、猿ノ小屋、あるいは鳥の城物見等の伝承があり、これらは上田小県地方への間道に接していて、戦乱を避けて隠れる逃げ込み場所であったり、間道筋の物見であったりするものである。中の小屋には「おんまや」の地名があるが、この地域には地滑りによって出来た舟形の窪地にその名を付ける慣習があり、山中に馬を隠した場所などとして山城に関連した名が残っている。ここにもそれと類似する地形があり、天水溜と思われる穴がある。

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鉄塔のある場所の旧態は不明である。削平前は堡塁があったのだろうか。

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北西の巨大な土塁状の尾根。堀形の内側を居住地と想定した場合に北風の風防としては申し分ない。

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北東の沢に続く堀形。

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舟窪(ふなくぼ)と呼ばれる窪地。隠れ家としては申し分ない。

天正十年、会田岩下氏が小笠原貞慶の報復を避けられないとして、矢久に砦を構えて上杉の援軍を頼んだ時に、万が一の場合は矢久の谷は退路として想定していたに違いなく、中の小屋あたりも一時的に逃げ込む場所として考えていたと思われる。

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土塁状の尾根から見下ろした舟窪の底部。天水溜の穴らしきものが確認出来る。

【城跡】

鉄塔のある場所は改変により往時の状況は不明。往時は堡塁があり物見だったのかもしれない。鉄塔の東側には土塁状の尾根との間に囲まれるように長大な窪地があり、堀形を形成している。かなりの人数を収容でき、底部には天水溜も確認出来るので、敵の襲来を避けて数日間逃げ込むには格好の場所である。

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北東に竪堀となる舟窪を踏査するていぴす殿。巨大な堀形である事がおわかりいただけるであろうか。

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舟窪の底から北西方面を見上げる。縄張図では表現できない高低差のある地形だ。

【鳥の城物見への訪問を今回は断念】

ある程度目星はつけておいたので、中の小屋の鉄塔付近から鳥の城物見を見出すことは容易であったが、実際にアタックするかどうかは別の話である。ここから林道を経由してさらに比高300m・・・道無き直登の険しき岩場の上に鳥の城物見がある。
最期の一か所を目前にして撤退するのは勇気がいるが、無理せずに万全の装備をして晩秋か来春のアタックという結論に達した。

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林道が途中まで登るらしいが、宮坂武男氏以外は誰も行っていない秘境にある鳥の城物見。

≪中の小屋≫ (なかのこや)

標高:1070m 比高:120m(大沢と中沢の合流点より)
築城年代:不明
城主;不明
場所:松本市中川矢久
攻城日:2017年4月2日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:大沢浄水場より30分
見どころ:土塁状尾根、舟窪、堀形など
注意事項:単独訪問はお勧めしない。靴はスパイクピン付きのゴム長を推奨。スマホは場所によっては圏外となる。
駐車場:大沢浄水場付近に路駐。
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:岩渕城、召田城、橋ノ小屋、鳥の城物見など
Special Thanks to ていぴす殿

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矢久の谷の砦群の位置関係。



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大沢浄水場付近から望遠5倍で撮影した中の小屋。鉄塔が刺さっているので場所を認識するのは易しい・・(笑)

Posted on 2017/06/08 Thu. 22:30 [edit]

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橋ノ小屋 (松本市中川矢久)  

◆生き延びるための逃走経路の中継地点か?◆

天正十年十一月、小笠原軍の三度目の攻撃で召田城の城将の堀内越前守が討死し、召田城は落城、幼少の会田小次郎は僅かな侍従に付き添われ小県郡青木を目指し落ち延びていったという。

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標柱はあるものの、人工的な加工跡など全く無い平坦な土地。

会田領の召田城から東に隣接する小県郡青木村田沢にかけては「橋ノ小屋」「中ノ小屋(猿ノ小屋)」「鳥ノ城」があったと伝わる。
召田城から辛うじて落ち延びた会田小次郎が、山奥深いこれらの砦を経由して青木村に向かったと思われるが、その足取りは不明である。

昨年4月に探索にこれらの砦群を出掛けたが、「橋ノ小屋」へ通じる林道が通行止めだったり、「中ノ小屋では登る沢を間違えたりして中断を余儀なくされたが、今回、ていぴす殿の援軍を得て、一年越しでこの二つの砦の比定地に何とか辿り着いた次第である・・(汗)

橋ノ小屋見取図
旧四賀村教育委員会ではこの場所を城跡と認定している。

【立地】

矢久地区、矢久川の上流大沢の左岸の送電線の鉄塔のある山が橋ノ小屋で、その奥の鉄塔のある山が中ノ小屋になる。ここはキャンプ場のある場所(現在は廃墟)の続きになり、登路は小胡桃の方から林道があり、キャンプ場手前まで軽のオフロード車なら登れる。現在は落石等でかなり林道が荒れているので通行は自己責任で慎重にお願いしたい。

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鉄塔付近で分岐となるので、北に進む。(この日は予想以上の残雪の為、手前でジムニーを乗り捨てて徒歩で向かった)

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ログハウスの横の炊事場施設。ここを利用したのは数十年前で終わったらしい。

廃墟と化したキャンプ場をていぴす殿と歩いていると、「サイレントヒル」というゲームを思い出した。
かつては、キャンプファイヤーと家族連れの歓声で賑わったこの場所は「忘れ去られたアウトドア施設」なのであろう・・・。

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辛うじて原形の残る洗い場。水道が引けないので貯水タンクが置かれている。水の補給も大変な作業だったようだ。

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展望塔は崩壊してしまった。往時の見晴らしはどうだったのであろうか?

我々は廃墟マニアでは無いが、時として廃村、廃集落、そしてこのような忘れ去られた高度成長期の娯楽施設の残骸を目にする。
少子高齢化が進めば、「限界集落」は増え、このような光景は更にふえるのだろうか・・・残念な気持ちで一杯となる。

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キャンプ場の北側に広がる広大な平場。ここが「橋ノ小屋」と推定される城跡である。

【城主・城歴】

史料・伝承等もなく、位置についてもはっきりしていないが、旧四賀村の教育委員会はこの場所を比定している。「猿ノ小屋」も「中ノ小屋」の奥というだけで位置は特定出来ていない。
会田岩下氏は小笠原貞慶の侵攻に対して召田城(覆盆子城)を急造しているが、ここはそれよりも更に奥になり、会田岩下氏やその家臣の家族を避難させた場所とも考えられるし、この場所の領民が戦乱を避けて逃げ込む場所であったとも考えられている。

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橋ノ小屋の中心部。この辺に小屋掛けでもしたのであろうか。

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橋ノ小屋の北側。この先の尾根を下れば大沢。

【城跡】

恐ろしく広い平場であり、人工的な加工は見当たらない。沢を挟んだ東側の尾根先にある中ノ小屋も、逃げ込み場所として指定され、女子供や老人の為に簡単な小屋掛けがなされたのであろう。
また、青木方面への連絡のための詰め所か一時的な待機場所として、会田岩下氏の逃避行の際にも立ち寄ったのかもしれない。

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標柱付近から南側。キャンプ場のテントを建てる平場としては申し分ない立地だが、今となっては不気味である。

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相方がいなければとても一人で探訪出来る場所では無かった・・・(汗) 廃墟の建物にクーさんが潜んでいるかも・・・(汗)

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鉄塔付近はまだ残雪が多く歩くのも難儀した。

数年前に読んだ「青木村誌」には、四賀村との境に連なる入山(1626.5m)⇒御鷹山(1623m)⇒十観山(1284.6m)には修験者の山道としての古道があり城跡と伝わる場所もあると書かれていた事を思い出した。

会田小次郎は小笠原軍の執拗な追撃により逃げるのを諦め、十観山(じっかんざん)で頂上より故郷の会田領を臨み生害したという。自害した会田氏の甲冑や刀剣、持ち出した財宝は侍従が十観山のどこかに埋めたという伝説が残るという。

十観山 017
十観山の山頂から見た会田虚空蔵山城と会田領。最後の瞬間に会田小次郎は何を思ったのであろうか。


≪橋ノ小屋≫ (はしのこや)

標高:1145m 比高:200m
築城年代:不明
城主;不明
場所:松本市中川矢久
攻城日:2017年4月2日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:召田集落より林道経由で車で20分
見どころ:標柱、平場、廃墟のキャンプ場
注意事項:林道は自己責任で。途中の落石には注意。
駐車場:キャンプ場跡
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:岩渕城、召田城、中の小屋、鳥の城物見など
Special Thanks to ていぴす殿



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Posted on 2017/06/06 Tue. 21:54 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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