FC2ブログ

らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0704

三才山砦 (松本市浅間温泉三才山)  

◆稲倉城の東の防衛拠点◆

次回と書いてしまったので、楡沢山城のレポートを期待した諸氏には申し訳ありません。物事には順序がありまして・・(汗)

それに、最近の我ら信濃先方衆は、「あぶない刑事」の再来ではないか・・・はたまた「川口探検隊」張りの特攻野郎Aチームか?(笑)つまらない世間の評判を気にしつつ、「良い子はマネをしてはいけません」。遭難者が出たら洒落になりませんもの。

今回ご案内するのは、その道無き直登の険しさ故に敬遠されている「三才山砦」(みさやまとりで)。残念ながら単独訪問です(笑)

三才山砦 (101)
松本市と上田市を結ぶ国道254号線の松本市浅間温泉地籍の小日向集落の脇に聳える目立つ山の山頂に砦がある。

【立地】

筑摩郡と小県郡を結ぶ街道沿いにあり、群の境は武石峠または三才山峠で結ばれる。また、ここから西へ進めば府中(深志)または安曇野郡に容易に出れる位置であり、三才山の谷筋を見張る要衝の地である。

三才山砦 (2)
登り口が分からず集落に入ってみる。メインストリートは狭い!

三才山砦 (3)
結構昔からある由緒正しき集落のようで、あちらこちらに史跡と説明板がある。

三才山砦 (7)
三才山砦の説明板を見つけて喜ぶのもつかの間、途中で道は消える。地元の方に聞いたらすでに道は消滅していると聞き落胆。

三才山砦 (96)
休耕地の間の農道を登りながら、比高310mはチョッチねえ~ヤバくね?なんて思いながら今さら引き返せない・・・(汗)

三才山砦 (106)
農道の終点からテキトーに西尾根先へ向けて比高150mほど傾斜40度の斜面を息絶え絶えになりながら直登する。

三才山砦 (1)
写真の場所は地形図で見るとこの辺り。尾根はもうすぐですね。

三才山砦 (8)
尾根に出て楽できるかと思いきや、登り坂は続きますw

三才山砦 (2)
上記の場所はこの辺り。残りの比高役00mで城域。最後の踏ん張りが結構キツイんです。

時々、「こんな淋しい山奥で何をしているのだろう?」 と自問自答しますが、すぐに忘れます・・・(笑)

【城主・城歴】

「信府統記」には「三才山古城地として「三才山村より丑寅(北東ノ方)、本城ノ平、戌ヨリ辰(西北西から東南東)ノ二十四間、未ヨリ丑(南南西より東北東)ノ七間、此所一説御射山ト云フ、是、諏方御射山ヲ勧進セリ、当地モ赤沢氏の領ナレハ彼要害ニヤ」とあり、赤沢氏の砦であろうと言っている。
「長野県町村誌」には記載がないが、位置から推察すると赤沢氏の本城である稲倉城(しなくらじょう)の東口を守る支城で、南口の早落城と共に守りを固めていたと思われる。また、「松本市史」の2巻では赤沢氏の詰め城と書かれているようで、結構な高所にありながら加工度は高いのでその可能性は充分考えられる。

三才山砦見取図①
南に張り出した尾根上にも遺構が残るらしいが、今回はパスした。

三才山砦 (13)
尾根の急坂を登ると堀切㋐が現れ、城域に辿り着いたんだなあーと実感する。

三才山砦 (15)
南側から撮影した堀切㋐の断面。前後の縁を掻き上げた堀の土を盛り上げて土塁で深さを稼いでいる。

三才山砦 (20)
堀切㋐からストレートに主郭の平小口が開いているが、これは秋葉社を勧進した時のものであり、往時は北を迂回させ東から入ったのであろう。

【城跡】

南側の一部を除き、ほぼ全周する土塁に囲まれた主郭を犬走のような細い段郭が巡り、その前後を堀切で穿っている。西側の堀切㋐は前後を土手で盛り上げた長大な堀切でかなり埋まっているが南側の沢に落ちて斜面の横移動を制限している。主郭背後は段差を付けた堀切㋑とその手前の小さな堀の組合せで二重堀切として堡塁を接続しその背後を堀切㋒で断ち切る。さらにその先の鉄塔の立つ鞍部の手前を長めの堀切㋓で区切り、搦め手を確保しているようだ。

三才山砦 (22)
主郭と堀切㋐との間の帯郭。主郭を囲むように全周している。

三才山砦 (37)
西側からみた主郭の東半分。堀切㋐から南側の帯郭を通して入ったであろう虎口が確認出来る。

三才山砦 (43)
東側より見た主郭の西半分。秋葉社が勧進されたいたようだが、現在はその欠片も無い。

三才山砦 (49)
主郭背後の堀切。宮坂氏は二連としているが、手前の堀切は微妙である。

三才山砦 (53)
堀切㋑の尾根の断面。

三才山砦 (56)
南斜面に落ちる堀切㋑。約30mほどの長さがあるようだ。

高所にある支城ながら、結構手が入れてあり驚く。稲倉城の赤沢氏は武田氏の信濃侵略において武田方につくものと、長時に従って越後の上杉氏を頼って落ち延びたものと分かれたという。武田氏に降った赤沢氏は、後丁氏に奪われた支城の早落城の攻略で武田氏を手引きし落城させ忠誠心を示したという。
深志から上田小県への要衝にあたるこの地は、武田軍も重視したと思われ引き続き改修されたのではないかと推察する。

三才山砦 (62)
堀切㋒と接続する平場。

三才山砦 (80)
堀切㋒に接続する平場から主郭方面を振り返る。結構な落差(比高差)があることが感じて頂けるでしょうか。

三才山砦 (71)
城域最終の堀切㋓。西側の縁は土塁でかさ上げしている。

三才山砦 (70)
堀切㋓で城域は終わる。鉄塔の先は西の沢から登る品庄沢(ひんしょうさわ)からの山道が入っている。

三才山砦の秋葉様には、その昔、祭りの為に子供たちも登ったのだという。もはやその声を聴くことは出来ないと思うと、寂しい限りである。

≪三才山砦≫ (みさやまとりで 秋葉様)

標高:1,111m 比高:310m
築城年代:不明
城主;不明
場所:松本市浅間温泉三才山
攻城日:2016年4月10日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:60分
見どころ:土塁、堀切、段郭など
注意事項:途中から道無き直登となるのでそれなりの装備と体力が必要。
駐車場:集落手前の空き地に路駐。(集落内は駐車厳禁)
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:稲倉城、早落城、伊深城、横谷入城、茶臼城など

三才山砦 (100)
本城の稲倉城は指呼の間である。(大日方集落の入口から撮影)

三才山砦 (102)
麓には御屋敷館跡(小日方公民館の周辺だという)がある。

Posted on 2017/07/04 Tue. 22:09 [edit]

CM: 0
TB: 0

0626

鳴雷城 (塩尻市宗賀床尾)  

◆木曽へ通じる境目の烽火台として利用された砦◆

ブログを始めてから来月で8周年を迎えようとしている・・・・。

飽き性の小生が、「継続は力なり!」などと偉そうに言うつもりは全く無くて、明日更新が止まっても不思議ではない・・・(笑)

全く読者もいない状態から始めたブログが、今では毎日300を超える皆様に見て頂ける日が来るなんて夢にも思わなかった・・(汗)

この場を借りてご来城頂いた皆様には厚く御礼申し上げますともに、どこかの総選挙のようなまさかの「結婚宣言」は今のところありません(重婚は日本国内では認められておりません・・・・笑)。
が、いつか来るかもしれない「離婚宣言」(三行半)には恐れ慄いております・・・・・(爆)

鳴雷城 (59)
砦の東尾根に立つお地蔵様。ここの山道が嘗ては生活道路だったことを物語る証人である。

今回ご案内するのは、塩尻市にある「鳴雷城(なるかみじょう)」(読み仮名をふらないと読めませんよネ)

鳴雷城 (2)
塩尻市宗賀の床尾(とこお)集落にある床尾神社に車を止めさせていただき5分ほど南に向かうと登山口の看板がある。

【立地】

塩尻市の桔梗ヶ原から奈良井川沿いの木曽路の洗馬宿に入る手前の西側の独立峰が鳴雷山である。山頂からの眺望に優れ、後世には鳴雷神社が勧進されて雨乞いの場所となる。毎年八月のお盆明けに雨乞いの火祭りが行われ、地元の床尾神社から松明の灯が夜通しで山頂の鳴雷神社まで連なる。
隣接する霧訪山(きりとうやま 1305.7m)、大芝山(1210m)との間には尾根伝いに山道が網の目のように通じており、小野と洗馬、床尾や平出を結ぶ生活道路だった事が伺える。また、奈良井川を挟んだ西の対岸には、三村氏の居城だった妙義山城がある。

鳴雷城 (61)
登山口より約200mほど登ると二股の分岐(比高850m付近)になるので左へ。大門先は通行困難とあるが・・従来の大手か?

鳴雷城 (4)
毎年とは限らないようだが、火祭りで松明が登るらしいので登山道はキチンと整備されている。

鳴雷城 (6)
登り口の分岐点が再び合流する地点の道標。(1030m) 大横手?大手口を横に進む道の呼び名か?初めて聞いた・・(笑)

【城主・城歴】

史料・伝承等不明だという。山麓の宗賀地区は「長野県町村誌」によれば、古来は嶋立氏、水上氏の所領とあり、後に小笠原氏、武田氏、武田氏滅亡後は再び小笠原氏と領主が目まぐるしく変転している。戦国期には府中と木曽の境目の烽火台の中継地点としてその役割を果たしていたのであろう。

鳴雷城 (7)
大手口は道がハッキリしないので、大横手方面に向かい東尾根の堀切㋐を目指す。(ピンボケごめんなさい・・笑)

鳴雷城見取図①
何年縄張図を描こうと、二番煎じはテキトー故に本物を越えられない・・・(汗)

鳴雷城 (8)
大横手道から見上げた堀切㋐。ようやく城域に入ったという実感を感じるひと時です。

鳴雷城 (14)
東尾根に堀切3本。こちらを警戒していたらしい。

鳴雷城 (23)
西尾根から見た堀切㋐とその先のお地蔵さん。

【城主・城歴】

史料・伝承等なく不明だという。麓からは目立つ独立峰の山なので、雨乞いの儀式に適していたのかもしれない。松本平の最南端に位置し、桔梗ヶ原が木曽路に通じる洗馬や本山との境目に当たるので、戦国時代には府中や木曽方面からの烽火の中継地点として活用されたと思われる。

鳴雷城 (28)
東尾根を進むと堀切㋒(上巾7m)。

鳴雷城 (29)
東尾根からは三段の削平地を辿り本郭へ。

鳴雷城 (32)
簡単な烽火台ではあるが、円郭をさ重ねる縄張。

【城跡】

現在「通行困難」となっている床尾からの直線登山道が大手道だったようである。現在、舞台のある場所から北側の参道は使われていないようで、道も消えかけている。舞台の一段下の段郭は両サイドに竪堀を備えているがほとんど埋まっている。
三方の尾根を持つ独立峰の烽火台は、北側を大手とし南を搦め手としていたようだが、東尾根は緩い鞍部に生活道としての山道が走っていたせいか、二重の堀切を穿っている。

鳴雷城 (33)
やっとの思いで主郭に辿り着く。松明を持って毎年登るという地元の小学生に笑われそうである・・・(汗)

鳴雷城 (35)
主郭に建つ鳴雷神社の本殿。

鳴雷城 (37)
北側の大手から見るとこんな感じです・・・(笑)

鳴雷城 (36)
本郭の南側の堀切㋓。藪に埋もれていて探すのに難儀した。

現代では考えられないが、この時代は山道が最も安全で最短の交通の主要手段であったようだ。
川沿いは氾濫の危険があるし、平地では危険に対して身を隠すことが出来ない。明治時代に鉄道が敷設されたことにより、それまでの交通路は劇的に変化し、生活道路だった山道は次第に廃れていく運命を辿った。

鳴雷城 (44)
堀切㋓を西側より撮影。

鳴雷城 (38)
舞台の一段下の腰郭(5×18) 両サイドに竪堀の跡がみられる。

≪鳴雷城≫ (なるがみじょう)

標高:1093.5m 比高:310m
築城年代:不明
城主;不明
場所:塩尻市宗賀床尾
攻城日:2016年11月6日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:45分
見どころ:堀切、段郭など
注意事項:9月~10月末は松茸山として止め山になるのでこの期間は避ける事。
駐車場:床尾神社借用
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:霧訪山狼煙台、川鳥城、上田城、妙義山城、本山城など



鳴雷城 (64)
床尾地区から見た鳴雷城。

Posted on 2017/06/26 Mon. 21:57 [edit]

CM: 4
TB: 0

0620

中山砦と鍬形原烽火台 (松本市中山)  

◆巨大霊園に眠る遺構も伝承も不確かな砦跡◆

取材したまま眠る約300城に及ぶ過去の在庫をどうしたものかと思案中である・・・(汗)

城名と写真2~3枚と場所を提示するだけなら、毎日更新すれば来年の今頃にはスッキリするだろう。(それも大変な労力だが・・)

んーん、それはそれで姑息な手段と誹りを受けそうなので、精一杯、そして少し手を抜きながらペースアップするという結論・・(笑)

なので、今回手を抜いて(ってか、遺構が無いので)ご紹介するのは「中山砦と鍬形原烽火台」

DSCF2619.jpg
松本市街地の南東に位置する巨大な中山霊園。北端には桜の名所として有名な弘法山古墳がある。(県道63号の南側より撮影)

【立地】

松本市街地の南南東で、市営の巨大な霊園の墓地が山塊を埋め尽くす中山の頂部に中山砦と鍬形原烽火台が存在したと考えられている。背後の鉢伏山の山稜からは独立した峰であるため、頂上からは松本盆地の眺望は素晴らしく要害地形であるが、山頂部は開発等により広範囲で平坦地化されてしまい往時の遺構は消滅している。

DSCF2621.jpg
山頂に残る鍬形社跡の鳥居。全山霊園になっているが、頂部は公園で運動場やマレットゴルフ場がある。

DSCF2622.jpg
中山砦跡に残る鍬形社の石碑。ここの参道に近年まで堀形が存在していたようだが、殆んど消滅している。

【城主・城歴】

「信府統記」や「長野県町村誌」にも記載が無く、史料・伝承等もはっきりしない。ただ、「松本市史第二巻」に「鍬形原烽火台(中山)」について発掘調査の結果が記載されている。また「東筑摩郡・松本市・塩尻市誌 第二巻」にも小笠原氏の砦群として地図に四つの矢印があり、その一つとして(あるいは二つ)該当する可能性があるという。※「信濃山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年戎光祥出版)より一部引用。

DSCF2623.jpg
鍬形社と烽火台跡(三角点のある場所)の間はマレットゴルフ場に改変され段差(切岸)も消滅したらしい。

DSCF2624.jpg
おお、堀形or古墳の石室と思いきや、マレットゴルフの池跡らしい(紛らわしいわい!!・・・怒)

【砦跡】

宮坂武男氏の調査記録が平成6年なので、それから23年経過し、さらに状況は酷くなっている。宮坂氏の報告では三角点の北方の尾根には堀切が認められ、三角点の廻りも辛うじて円形の土壇が残り狼煙台跡の痕跡を残していたようだが、その後改変されたようで三角点以外は何も確認出来なかった。

DSCF2625.jpg
三角点は生垣に囲まれていたが、周囲の段差は何もなかった。

DSCF2626.jpg
ここの生垣が三角点。鍬形原烽火台はこの場所だったらしい。

DSCF2628.jpg
三角点の先の北尾根遊歩道にはかすかに堀形が確認出来る。唯一の遺構であろう。

山全体が霊園になっているので、非常に珍しい。何度も付近を通過していたが、この霊園に立ち入るのは初めてである。
あの世に行ったからといってこの景色がみえるのだろうか?

天邪鬼と言われようが、生きて見るからこそ価値があるように思う。

皆さんも生きているうちに、色々なところに出掛けて、沢山の素敵な風景を心にその目に焼き付けてくださいネ・・・。

IMG_6631.jpg
砦跡付近の霊園から見た南松本・塩尻市方面。

≪中山砦と鍬形原烽火台≫ (なかやまとりでとくわがたはらのろしだい)

標高:836m 比高:215m
築城年代:不明
城主;不明
場所:松本市中山
攻城日:2016年11月6日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-
見どころ:景色のみ
注意事項:近くにサッカー用の運動場がありプライバシーに注意
駐車場:公園用の駐車場有り
参考書籍:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:小池砦、馬場家屋敷、赤木北城、赤木南城、八間長者城、埴原城など。



DSCF2620.jpg
全景。


Posted on 2017/06/20 Tue. 22:41 [edit]

CM: 4
TB: 0

0614

小池砦 (松本市寿小池)  

◆三日月形の水堀の残る貴重な砦跡◆

基本的に登山は好きではない。山城がどうしても険しい山の上にあるケースが多いので、仕方なく登っているというのが現状だ。

でも、登山用品は大好きなのだ。装備が良ければ本気で北アルプスに行けそうな妄想をしている・・・(笑)

IMG_1841.jpg
日帰り登山~山小屋一泊用のザックなら35Lクラスで十分。ショルダーハーネスが身体にフィットしているかがポイント。

最近の流行は「North Face」らしいので、家人からの贈呈品で、小生も帽子と登山靴下はバッチリ・・(笑)

でもね、ザックはフランスのミレーがお気に入りで、ユーザーでもあります。。ここはこだわりですw その話はいずれまた・・。

今回ご案内するのは松本市の市街地にありながら、その三日月の水堀遺構がキレイに残る小池砦。

DSCF2738.jpg
ここは松本市寿にある「小池堤(灌漑用の池)」を目印に向かうと分かり易い。

【立地】

塩尻北インターから西へ1.2km、塩尻市との境に近い松本市寿小赤の小池集落の北、塩沢川に面した台地上に砦がある。一帯は構造改善で原地形はほとんど失われているが、この場所だけは、よく旧態を残していて、砦の面影を知る事が出来る。

小池砦 (1)
弧を描く西側の水堀。

小池砦 (2)
稲荷社のある北側は道路に面して空堀で残る。

小池砦見取図①
砦の中は民間地なので、土地所有者の許可の無い侵入は厳に謹んでください。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」に「塞(とりで)」として、「本村(豊丘村)の東南小池にある。武田氏これを築して、要害の便と為す。方今民有に属す」とあり、武田氏の築城を伝えている。そして、砦跡居住の百瀬氏の伝承では、武田逍遥軒信綱の砦で、百瀬氏は武田氏を名乗っていたのを百瀬に改名したといい、「百瀬家累代墓」には武田の紋をつけている。

小池砦 (3)
湧水により今も水を湛える三日月形の堀。(北側より撮影)

小池砦 (4)
武田とは断定出来ないものの、牧野島城とここでしか見られない水堀仕様の三日月堀。

一方、「寿地区景観整備委員会」が平成三年七月に建てた案内板では、「天文年間に小笠原氏が出城を築いた所で、のちに小池郷地頭頭小池との左馬亮信道の屋敷となった・・・・」とある。この小池氏は赤木氏と同族の者であるかどうかは不明であるが、関係はありそうである。この城の発生を、逍遥軒の築城はとにかく、武田氏に関連した砦の可能性はある。
※「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」P31「小池砦」の記事より引用

小池砦 (5)
500年を越えて存在する美しい水堀。

小池砦 (7)
南側より撮影。

【城跡】

西側の崖下には半円形、つまり三日月堀が残り、北と南にも堀跡があり、土塁も残る。土塁状には稲荷社(白山社とも)が残る。(今回は未確認)東の道辺り(五千石街道)に堀があり、三日月堀の東が主郭で、五千石街道の東が付属の郭と思われる。
往時は郭を土塁が周回し、堀切も周囲を巡っていたと思われる。
※「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」P31「小池砦」の記事より引用

小池砦 (9)
南側から見た小池砦。

小池砦 (10)
西側より見た小池砦。

小池砦 (14)
北側より見た砦(主郭)跡。

≪小池砦≫ (こいけとりで とりで)

標高:654m 比高:5m
築城年代:不明
城主;不明
場所:松本市寿小池
攻城日:2015年12月5日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-
見どころ:三日月の水堀、土塁など
注意事項:許可なく住宅地への立ち入りは厳禁。プライバシーに注意。
駐車場:小池堤の北側にスペースあり。
参考書籍:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:馬場家屋敷、赤木北城、赤木南城、八間長者城など。



小池砦 (11)
この先も残して欲しい遺構である。

Posted on 2017/06/14 Wed. 23:21 [edit]

CM: 6
TB: 0

0608

中の小屋 (松本市中川矢久)  

◆身を隠して敵をやり過ごした舟窪形の逃げ込み砦◆

この時期は山城巡りがオフになるので、ブログ記事の掲載も若干ペースアップするのだが、増え続ける膨大な在庫を裁き切るには毎日更新して・・・無理だ・・・・しかも過去の写真を見て縄張図と場所を一致させるだけでもすごい労力・・・(汗)

誰も行かないであろうマイナーな城をアップし続ける地道な作業は、修行そのものであろうか・・・(笑)

今回ご紹介するのは、二度目のトライで辿り着けた「中の小屋」。地元ならではの執念の燃やし方にイラっとする方も多いかと・・(爆)

【中の小屋へのルート】 ※それでも行ってみたいという人の為の虎の巻・・(笑)

DSCF8130.jpg
松本市中川の大沢浄水場まで車が登る。(途中に害獣除けのフェンスあり)ここに車を捨てて歩いて大沢の河川敷に入る。※写真は登って来た道を振り返って見ています。

DSCF4164.jpg
沢筋が途中で二股に分かれるので手前の沢へ折れて進む。

DSCF4163.jpg
沢の左側に鉄塔保安道用の階段があるのでそこをよじ登る。

DSCF4162.jpg
信濃の山城探訪は鉄塔の保安道を利用するケースが多いので、電力会社には感謝感謝ですw

DSCF4133.jpg
沢から比高100mなので、急坂を20分ぐらいでしょうか。直登すると思えば有難い保安道です。

【立地】

矢久の谷の奥、ダムの上の大沢と中の沢が合流する所の山尾根上の鉄塔の場所が中の小屋という。大沢の奥に「猿ノ小屋」があるというが、その場所は特定できていないという。

DSCF4134.jpg
砦跡の鉄塔広場の手前を登る「ていぴす殿」。鉄塔建設時の改変と思われる削平地と石の散乱が見られる。

中の小屋見取図①
生坂村の猿ヶ城物見に似た窪地で、若干の手が加えられた程度であろうか。

【城主・城歴】

伝承では召田城の詰めの城と言われるが、矢久の谷の奥には、中の小屋以外にも橋ノ小屋、猿ノ小屋、あるいは鳥の城物見等の伝承があり、これらは上田小県地方への間道に接していて、戦乱を避けて隠れる逃げ込み場所であったり、間道筋の物見であったりするものである。中の小屋には「おんまや」の地名があるが、この地域には地滑りによって出来た舟形の窪地にその名を付ける慣習があり、山中に馬を隠した場所などとして山城に関連した名が残っている。ここにもそれと類似する地形があり、天水溜と思われる穴がある。

DSCF4161.jpg
鉄塔のある場所の旧態は不明である。削平前は堡塁があったのだろうか。

DSCF4157.jpg
北西の巨大な土塁状の尾根。堀形の内側を居住地と想定した場合に北風の風防としては申し分ない。

DSCF4146.jpg
北東の沢に続く堀形。

DSCF4150.jpg
舟窪(ふなくぼ)と呼ばれる窪地。隠れ家としては申し分ない。

天正十年、会田岩下氏が小笠原貞慶の報復を避けられないとして、矢久に砦を構えて上杉の援軍を頼んだ時に、万が一の場合は矢久の谷は退路として想定していたに違いなく、中の小屋あたりも一時的に逃げ込む場所として考えていたと思われる。

DSCF4143.jpg
土塁状の尾根から見下ろした舟窪の底部。天水溜の穴らしきものが確認出来る。

【城跡】

鉄塔のある場所は改変により往時の状況は不明。往時は堡塁があり物見だったのかもしれない。鉄塔の東側には土塁状の尾根との間に囲まれるように長大な窪地があり、堀形を形成している。かなりの人数を収容でき、底部には天水溜も確認出来るので、敵の襲来を避けて数日間逃げ込むには格好の場所である。

IMG_0826.jpg
北東に竪堀となる舟窪を踏査するていぴす殿。巨大な堀形である事がおわかりいただけるであろうか。

IMG_0827.jpg
舟窪の底から北西方面を見上げる。縄張図では表現できない高低差のある地形だ。

【鳥の城物見への訪問を今回は断念】

ある程度目星はつけておいたので、中の小屋の鉄塔付近から鳥の城物見を見出すことは容易であったが、実際にアタックするかどうかは別の話である。ここから林道を経由してさらに比高300m・・・道無き直登の険しき岩場の上に鳥の城物見がある。
最期の一か所を目前にして撤退するのは勇気がいるが、無理せずに万全の装備をして晩秋か来春のアタックという結論に達した。

DSCF4141.jpg
林道が途中まで登るらしいが、宮坂武男氏以外は誰も行っていない秘境にある鳥の城物見。

≪中の小屋≫ (なかのこや)

標高:1070m 比高:120m(大沢と中沢の合流点より)
築城年代:不明
城主;不明
場所:松本市中川矢久
攻城日:2017年4月2日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:大沢浄水場より30分
見どころ:土塁状尾根、舟窪、堀形など
注意事項:単独訪問はお勧めしない。靴はスパイクピン付きのゴム長を推奨。スマホは場所によっては圏外となる。
駐車場:大沢浄水場付近に路駐。
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:岩渕城、召田城、橋ノ小屋、鳥の城物見など
Special Thanks to ていぴす殿

IMG_0832.png
矢久の谷の砦群の位置関係。



DSCF4172.jpg
大沢浄水場付近から望遠5倍で撮影した中の小屋。鉄塔が刺さっているので場所を認識するのは易しい・・(笑)

Posted on 2017/06/08 Thu. 22:30 [edit]

CM: 4
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top