らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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岩渕城 (松本市中川藤池)  

◆会田氏本拠地「殿村」の東の守りを担った城館◆

季節に関係なくオールシーズンで城巡りを敢行しているツアラーの皆様には敬意を表したい。

小生も山城探訪駆け出しの頃は、とにかく一城でも多く巡りたいという欲求だけでスタンプラリー状態に陥っていたが、ここ数年は遺構が見易く写真映えのする晩秋~冬~春先がメインとなっている。

岩渕城(松本市会田) (1)
岩渕城の南側の「堀畑」という地名の堀形の脇に立つ言成地蔵。

オールシーズンの山城ツアラーの皆様の活動を否定するつもりは全くないのだが、過去には10月中旬~5月末まで見ごろだった信濃の山城は、現在11月初旬~4月末ぐらいまでと地球温暖化の影響をモロに受けている・・・(汗)。この先どんどん短くなるのかしら・・・。

今回ご案内するのは、そんな山城オフシーズンの欲求不満を解消する(?)かは疑問だが、平地の城館の岩渕城である。

岩渕城(松本市会田) (8)
国道143号線から脇に入った藤池集落の公民館と火の見櫓付近が城館跡になるので、公民館に車を止めさせていただく。

【立地】

会田地区の東側に位置し、入川の左岸の段丘上で北側は断崖になり、西から南へかけて自然の沢が堀となっている。入川の対岸の右岸には虚空蔵山城(峰の城、中ノ陣、秋吉城)が見え、東方の後背の山上には召田城(覆盆子城)があり、小県に通じる地蔵峠・青木峠への道筋を抑える要衝の地である。

岩淵城見取図①
入川から派生した自然の沢が堀切㋐となって河岸段丘を形成し、その台地を城館として縄張したのであろう。

岩渕城(松本市会田) (7)
堀切㋐から公民館の北側は国道143号線に分断されてしまったが、狐屋敷と呼ばれている。※狐は見張や物見を表す隠語

【城主・城歴】

「東筑摩郡誌」(大正八年)に「岩渕城址」として「本城の平、南北三十四間にして、東西北の三面に堀切ありて、南中川の流に臨めり。会田広政の部将、岩渕豊後守の居城なりしが、本城と同時に陥落せり。子孫其の地に留まり、今猶は民間にありといへり。」とある。

岩渕城(松本市会田) (9)
郭2の南側の国道143号線沿いの建物の脇に四賀村時代に建てた岩渕城の標柱が残るが、文字がほとんど消えかけている。

岩渕城(松本市会田) (11)
郭3との間の堀切㋒。私有地なのでこれ以上は探索出来ずフェンス越しに撮影のみ。

【城跡】

国道143号線が城域を分断してしまっているので全体像は掴みづらい上に、宮坂武男氏の示す縄張図の郭1、2、3を調査することも叶わず外からの撮影のみだったので消化不良気味だった。
宮坂武男氏の説によれば、往時は堀切㋐と堀切㋓が合流し外周を自然の堀が囲む要害の地であったようだ。

この城館が天正10年十一月における小笠原軍の召田城への攻撃に際して、防御陣地となったのは間違いないと思われるが、残念ながらそれを裏付ける資料は存在しない。

岩渕城(松本市会田) (12)
城域を分断する国道143号線(西側より撮影)

岩渕城(松本市会田) (13)
国道の脇からは自然の沢を利用した堀切㋐が確認出来る。

岩渕城(松本市会田) (4)
堀切㋐は途中の竹藪を抜けると堀形として城域の南に残り、「堀畑」という地名で残る。

岩渕城(松本市会田) (5)
堀畑(堀切㋐)の東側の最終部分。往時は堀切㋓と接続して屋敷地を周回する天然の沢だったようだ。

また、近くには堀畑の地名の他に、狐屋敷、堀尻、ねずみ原、狐山などもあるという。「長野県町村誌によると岩渕氏は浪々の後当所に戻り、城址へ観音寺を建てたが正保二年に他へ移したとある。

岩渕城(松本市会田) (17)
寺屋敷と呼ばれる主郭跡。岩渕氏はここに観音寺を建てたと伝わる。

≪岩渕城≫ (いわぶちじょう 藤池館)

標高:670m 比高:40m(入沢より)
築城年代:不明
城主;岩渕氏
場所:松本市中川藤池
攻城日:2016年4月10日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-
見どころ:堀跡など
注意事項:集落なのでプライバシーに注意、無断での私有地立ち入りは厳禁
駐車場:公民館の駐車場借用
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:召田城、橋ノ小屋、中の小屋、鳥の城物見など

岩渕城(松本市会田) (20)
城域東側の郭3。向こうに虚空蔵山城が見える。



召田城 (59)
入川の対岸から見た召田城、岩渕城。岩淵城は河岸段丘を利用した城館であることがわかる。

Posted on 2017/06/04 Sun. 08:16 [edit]

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召田城 (松本市中川召田)  

◆上杉景勝の後詰めを待ち続け、小笠原貞慶に抗った会田岩下氏最期の砦◆

舞台は生坂村から旧四賀村会田(現在の松本市中川)に移る。

2010年9月に「会田塚」のブログ記事のラストに「いつの日か覆盆子城(いちごじょう)を訪れて、会田一族の鎮魂をしたい」と書いた。

2016年4月、とうとうその約束を果たすべく、覆盆子城(別名:召田城・矢久城)を訪ねてみたのである。

召田城 (68)
廣田寺の会田塚も6年ぶりに訪れてみた。周辺はすっかり整備され、嘗てのような鬱蒼とした雰囲気は無かった・・。

召田城 (59)
会田川を挟んだ北西の小岩井方面から撮影。登り口と書いたが目印など何もなく、城へは北の尾根伝いにひたすら登るのである。

【立地】

傘山(1124.8m)から北へ延びる山尾根の末端部にある山で、北麓の会田川流域からは目立つ山である。会田川の支流の矢久川の谷を少し入った所の左峯の山で、後背の尾根上には四阿神社がある。矢久の谷の支流、小胡桃沢からは傘山の傍の傘峠を越えると保福寺町に通じ、矢久の谷を詰めると、中ノ小屋、鳥の城物見を経て御鷹山(1623m)を越えれば、そこは小県郡の奈良本で、ここからは地蔵峠、青木峠の街道へも近い。つまり、小県地方への連絡路がいくつも考えられるところである。

召田城 (7)
緩い北尾根が急坂となり、しばらく登ると埋もれかけた堀切㋐に遭遇する。

召田城 (1)
北東方面に落ちる堀切㋐。急造の為に規模も小さく深さも足りなかったと思われる。

【歴史資料における召田城の記録】 ※「矢久のカヤ」歴史研究会の資料より引用(2015年3月)

●旧四賀村誌(昭和53年)
会田城の会田岩下氏の家人召田監物の居城。会田城(虚空蔵山)の支城、召田地区、矢久川沿いに突き出た尾根に位置する。標高890m、比高190mの山城(召田山)
安土桃山時代の天正十年(1582)11月、松本深志城の小笠原氏の侵攻に対して、会田岩下氏が最後まで籠って抵抗した砦。後に、一期の城、矢久城、覆盆子(いちご)城。(注1)

●信府統記
召田山覆盆子古城地、召田村ヨリ午ノ方四丁三十八間、本城ノ平東西十一間、南北六間、会田小次郎領主ノ時、家人召田監物(昭和53年に岩下監物のことと判明)ト云フ者ヲ置キテ守ラシム(注2)

●古小笠原分限録
城主召田監物(昭和53年に岩下監物のことと判明※)、村ヨリ午ノ方四丁三十八間、東西十一間、南北六間。

(注1)城跡は城山(じょうやま)、城平(じょうだいら)、矢塚(やづか)、馬乗(うまのり)などとも称された。
(注2)会田本城の城主会田小次郎(海野族会田岩下殿)の一門である岩下監物が支城召田城の召田の監物で同一人物。召田城の落城時の城主は召田(岩下)監物政重。

召田城見取図②
こんな防御の欠片すら無いに等しい縄張の山城で、小笠原相手に勝負したのか??

【城主・城歴】

長野県立歴史館の「信濃史料 巻十五」に以下の記述がある。

「天正一〇年一一月五日(1582) 筑摩郡会田衆等、上杉景勝の援を得て同郡矢久城に篭る、是日、小笠原貞慶、諸将を遣はして、之を攻む、尋いで、城将堀内越前守討死し、落城す、 (後略)」

天正十年11月、会田岩下(海野)が上杉方に内通し、矢久砦を構築して上杉勢を引き入れ籠城。当主の会田小次郎が幼年だったため、会田衆の指揮は家臣の堀内越前守が執っていたという。小笠原貞慶は直ちに犬甘、二木、征矢野らの重臣を会田に攻め込ませ、三日から始まり三度の合戦を経て五日頃に城将の堀内は討死、矢久城は落城。会田小次郎は僅かな侍従を従え、小県郡青木に逃れて五輪の尾根で自害し会田岩下氏は滅亡する。

召田城 (16)
ほとんど消えかけている堀切㋑。北尾根が緩いので二重堀切を穿ったのはセオリーであろう。

【弱小国衆の悲哀】

武田氏が滅亡し、本能寺の変で織田信長が斃れ「天正壬午の乱」が勃発すると、上杉景勝は信濃に侵入し川中島四郡を占領し、深志城の木曽義昌を追い出して安曇郡・筑摩郡も支配下とし、青柳や会田も一時的ながら上杉領となった。
徳川家康の後ろ盾で深志城に復帰した小笠原貞慶は、天正壬午の乱のどさくさに紛れ、景勝が越後に撤退し影響力が低下した安曇郡と筑摩郡の旧領回復を着実に進め、7月には会田岩下氏を調略しこれを帰属させている。

会田岩下氏が再び上杉氏に内通したとされる「心変わり」については、真田昌幸の調略によるものと「岩岡記」(小笠原貞慶の家臣)には記されているが、真田昌幸はこの時期には北条氏に手切れを宣告し徳川方に転じているので、徳川方の貞慶に不利となる調略はあり得ないと思われる。

召田城 (20)
主郭へ向かって数段の段郭を刻む。

会田岩下氏が上杉方に内通した時に矢久城の籠城の援軍として赴いたのは、小県郡の青木に在住する氏族だったという。
真田昌幸もこの時は小県を制圧するには至っていないので、会田岩下氏の縁者で青木に住む海野一族であった可能性がある。
※これは小生個人の推定であり、あくまでも想像の域を出ない

召田城 (21)
下から三段目が最も広い段郭(3×12)

当主の会田小次郎が幼少であるため、後見として会田一族を率いていた堀ノ内越前守は貞慶の本質を見抜いていたのだろう。
貞慶の父であり信濃守護の長時を裏切り武田晴信に降った滋野一族は、小笠原氏から見れば決して赦される事は無いのだと・・。

召田城 (25)
ようやく辿り着いた主郭(19×9)

【城跡】

多くの先人の研究者が指摘する通り、何故会田岩下氏の最後の砦がこの矢久城なのか疑問である。
急ごしらえの砦だったとはいえ、頂部に数人がやっと籠れる郭、背後には浅い一条の堀切、敵が殺到すると思われる北の尾根に何とか急造した二重堀切。物見程度の防御で貞慶軍を迎え撃つとは、会田一族の行く末を熟慮した結論とは思えない。

召田城 (28)
朽ち果てて倒れた標柱を起こして主郭を撮影。数人規模の狭い空間である。

召田城 (30)
主郭背後の堀切㋒。

召田城 (64)
これでいいのか、堀切㋒・・もっと深く掘れなかったのか・・・(汗)

会田氏の領地には、虚空蔵山の全体を要塞化した会田城があり、その他にも防御の優れた支城としての山城は多々あるのに、何故この場所を決戦の地として取り立てたのか謎は解けない。

立峠を境とする北側の青柳氏が貞慶の調略により小笠原方に転じた事を会田岩下氏が事前に知っていたとすれば、、虚空蔵山の会田城に籠城するのは挟み撃ちにあう可能性があるので、それを避けたとすれば得心がゆくし、同じ滋野一族である明科の塔ノ原氏が小笠原氏に従っているとすれば、小県郡の青木に向けた退路を確保するしか策が無かったのであろう。

召田城 (34)
主郭の南側の尾根には削平地が続く。ここから尾根伝いに四阿神社に抜け、青木を目指したのか?

召田城 (37)
本郭から南へ約100m下った先の鞍部にある削平地は後世の伐木作業車の駐車場跡。ここまで車で入る事は不可能。

堀之内越前守は、上杉本隊の援軍を待ち焦がれて青木よりの援軍と共に必死に三度の攻撃に耐えたのであろう。そして落城後の小県郡青木までの脱出ルートを確保していたのだが、残念ながら小笠原軍の執拗な追撃に耐えきれず、会田小次郎は青木で自刃し滅びた。

召田城 (47)
本郭より見た会田川沿いの集落。殺到する小笠原軍がここからも見えたはず。

頼みの上杉軍は各方面への対処で多忙を極め、信濃の片田舎の国衆会田一族の救援などは二の次として捨て置かれたと思われる。会田小次郎とともに小県郡の青木に落ち延びた召田氏も、のちに集落に戻り帰農したと記録に見られるので、貞慶の復讐が一段落した時に故郷に戻った一族もあったのかもしれない。

江戸時代になってこの城は「一期の城」と呼ばれ、のちに「覆盆子の城」と俗字に転化したもので、本来は召田城あるいは矢久城と呼ばれていたようである。

≪召田城≫ (めすだじょう 覆盆子城、矢久城)

標高:890m 比高:190m
築城年代:不明
城主;召田監物
場所:松本市中川召田
攻城日:2016年4月10日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:30分
見どころ:堀切、段郭など
注意事項:9月~10月末は松茸山として止め山になるのでこの期間は避ける事。
駐車場:無し
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:岩淵城、橋ノ小屋、中の小屋、鳥の城物見など

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虚空蔵山城の峯の城から見た召田城(覆盆子城)全景



召田城 (69)
城の北側正面より見た城跡

Posted on 2017/06/01 Thu. 07:35 [edit]

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猿が城物見 (東筑摩郡生坂村下生坂)  

◆眠峠・雲根峠を監視する物見砦◆

山城巡りがだいぶ市民権を得たとはいえ、「趣味は山城あるいは中世城郭です」なんて言ってみても世間的にはまだまだ通用しない・・・(汗)

なので、こんなブログを書いているヤツは一見フツーの市民のように見えるが、実態は「???」であろうか・・・(笑)
この趣味が家族に理解を得られるケースは滅多にない。ヲタクに昇格することは無く、未だに奇人・変人の領域に留まる・・(汗)

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猿が城物見から見下ろした「城が原・こやしき」(拡大5倍)

そんな事を書くと、真面目に取り組む山城ツアラーを自称する諸氏からはお叱りを受けそうだが、実態とはそんなものである。
そして我々のような山城ブロガーが目指すのは「ハツモノ・レアモノ・キワモノ・ゲテモノ」。この表記もかなり反感を買うと思うが、SNSの世界とはそんなものだと自覚している。

「一番槍」 「初掲載」 「SNS初公開」 「ネット初披露」・・・・

どこかの政党の予算の仕分け作業ではないが、「二番じゃダメなの・・・?」  敢えて言おう、「ダメなのである」・・(笑)

猿が城物見見取図①

だいたい信濃の山城をとことんSNSでアップしている方は少ないので、敢えて書かずとも殆んどがハツモノ・レアモノとなる・・(笑)

今回ご案内するのは生坂村シリーズ「猿が城物見」。猿とか鬼とか名の付く城は人を寄せ付けないが、ここは車で近くまで行ける。

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下生坂地区から林道を北へ登ると途中に眠峠(ねむりとうげ)への登り口がある。「眠」とは「多くの曲がり坂」の意味だという。

【立地】

犀川の右岸、日岐大城に続く生坂さんちの北端に近い山の上に立地する。猿が城と呼ばれる範囲は広く、宮坂武男氏が特定したのは、周辺の各城が見通せる雲根峠の小山とその北80mの小山で、物見としては最も適しているという。我ら信濃先方衆ももちろん異論などない。

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雲根峠の北側80mのA地点。ここが物見の中心らしく頂部は削平されている(11×6)

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郭Aと雲根峠の小山Bの尾根の東側の沢状窪地。横堀と称する記録もあるようだが、自然地形の沢であろう。

【城主・城歴】

日岐丸山氏に関連する物見砦と推定され、尾根を通る眠峠や雲根集落の通路の雲根峠を抑え、犀川沿いの動向を探るための物見砦と推定されている。

DSCF4106.jpg
窪地は領民の逃げ込み場所としても最適な構造である。

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対岸の土塁状尾根との間の沢状窪地。(郭Aより見下ろしています)

【城跡】

物見砦へは林道を通るのだが、よく整備された林道なので小型乗用車であれば4WDでなくても通行は可能である。ただし、下生坂村から登る途中には害獣除けフェンスがあるので、開けて閉める作業が必要になる。尾根の先端を右に回り込むと道路脇から鉄塔の保安通路が見えるのでそこから鉄塔に向けて入り、鉄塔から西側が崩落した尾根を南に伝って登ると主郭Aに着く。

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物見からの景色はあまり良く見えないので、登り口となる北側の鉄塔から撮影しよう。

「生坂村村誌」によれば、城址には数基の旗塚が絵図に書かれているのだという。恐らくA~Bの間の尾根上に何基か置かれていたのであろう。
土塁状尾根との間に挟まれた窪地を横堀とするには無理がある。これだけの土木工事量が在地土豪に出来るとは思われない。

猿が城物見①
沢状窪地よりみた主郭A。

元々は有事の際に住民が逃げ込む場所だったような気がする。水の手は確認出来なかったが、この場所なら敵をやり過ごす為の緊急避難場所としては最適なような気もする。

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雲根峠の分岐であるBの堡塁。Aよりはかなり狭い(5×3)

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郭A周辺を調査するていぴす殿。

猿とか鬼とかいう名のつく城はかなり険しい場所にあり、人をなかなか寄せ付けない。今回ご案内した「猿が城物見」も、林道が無ければかなりの苦労を要したと思われる。

普段は峠の監視砦として部外者の侵入を見張り、有事の際には、日岐大城の北を守る支城としての任務があったのだろう。

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雲根集落から見上げた険しい尾根の裏側にこのような隠れ家スペースがあるとは思わなかった。

≪猿が城物見≫ (さるがじょうものみ)

標高:830m 比高:330m(雲根集落より)
築城年代:不明
城主;不明
場所:東筑摩郡生坂村下生坂区
攻城日:2017年4月2日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:林道脇から15分
見どころ:雲根峠、沢状窪地、土塁状尾根、鉄塔付近からの景色
注意事項:整備された林道だが、落石には注意し慎重に走行されたし
駐車場:鉄塔保安道の林道脇に数台駐車可能
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:宇留賀城、金戸山城、城が原・こやしき、城平物見など
Special Thanks to ていぴす殿



DSCF4086[1]
雲根峠登り口の城が原・こやしき方面から見た猿が城物見。やはり「猿」の名が付くだけの峻険な地にある事がわかる。

Posted on 2017/05/24 Wed. 22:54 [edit]

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城が原・こやしき (東筑摩郡生坂村下生坂)  

◆犀川沿い集落と雲根峠の沿道の監視で築かれた居館跡◆

先日の碓氷峠の陣城の記事は全国区の皆様にとって、かなり刺激的だったらしい・・・(笑)

グンマー県の教育委員会様が登録し忘れた城跡について、「再登録したほうがいいですよ」と、軽井沢町役場の職員が忠告した事が現実となり、今回の発表まで斎藤慎一先生の手助けも借りて足掛け三年の長旅だったらしい・・・(汗)

IMG_1471.jpg
それよりも熊野皇大神社のこまいぬの価値のが上かも知れない・・・(笑)

今回ご案内するのは、生坂村の領主であった日岐丸山氏と深く関りがあったであろうとされる「城が原・こやしき」。

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国道19号線から入ると上り坂に堀状の沢が見える。天然の防御構造である。

【立地】

国道19号線の東、犀川の第二河岸段丘上に城が原(城の原とも)・こやしきがある。雲根集落の白山神社の北の台地上で、ここから犀川右岸の道は、山清路の岩山で通れなくなるために後背の山越えの道、雲根峠を通って込路(こみじ)へ出るのが往古の道である。雲根はその峠道の起点となる。

城が原・こやしき見取図①
天然の沢を堀と見做した河岸段丘上の屋敷地であろうか。

【城主・城歴】

史料・伝承等不明。立地からみて、犀川べりの監視と、雲根峠の備えで、その監視・警備にあたった番士の居住したところではないかと考えられている。また、猿が城の直下にあたるために、その根小屋ではないかとの説もあるが、雲根集落そのものが、雲根峠の要地で、大岡、麻績、坂北、入山、丸山地区への交通と深く関り、戦略上も重要なところであったと思われる。

DSCF4086.jpg
推定居館跡から猿が城物見、雲根峠を臨む。

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犀川を挟んだ北側の対岸には城平物見が見える。

【館跡】

耕作地化と道路の開通により細部は失われたようで詳細は不明。明治六年の切り図には、こやしき、城の原、上ノ原、下原道上、墓地などが記されている。民家の裏手に西から入る幅30mの沢が自然の堀となり、それを利用して造られたと思われる。付近には、馬セバ、カマ田の地名がある。

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標柱のある場所が「城が原(こやしき)」と呼ばれているようだ。

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城が原から見た天然の沢。ここが堀の役割となり段丘上の居館の防御の要になっている。

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城が原の北側の郭。耕作地となり往時の面影は見ることが出来ない。

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城が原の中心部。猿が城物見を命令された番兵の掘立小屋があったのだろうか。

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辺境の地とはいえ、正面の小山を経由した雲根峠を目指して、猿が城に行けというのは酷な話でございます・・(汗)

≪城が原・こやしき≫ (じょうがはら・こやしき)

標高:500m 比高:15m(国道より)
築城年代:不明
城主;不明
場所:東筑摩郡生坂村下生坂
攻城日:2017年4月2日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:国道19号線の道路脇から10分
見どころ:自然沢の堀、標柱
注意事項:農道は狭いので、国道19号線のパーキングエリアに車を止めて歩いていくこと。
駐車場:国道19号線北側にパーキングアリアあり。
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:宇留賀城、金戸山城、猿が城物見、城平物見など
Special Thanks to ていぴす殿



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猿が城物見より見下ろした「城がはら・こやしき」と対岸の城平物見。

Posted on 2017/05/21 Sun. 21:38 [edit]

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城平物見 (東筑摩郡生坂村東広津)  

◆宇留賀城の物見砦か?◆

小生のブログでは毎度お馴染みとなった信濃先方衆の同胞である「長野県の歴史を探し求めて」の管理人の「ていぴす」殿がブログの更新を停止して約1年経った。

彼曰く「山城や城館のブログって現地調査だけでなく、城歴など背景の下調べも結構大変なので疲れます・・」

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城平物見の主郭を調査する「ていぴす」殿。早くブログ再開しろよ!と願う声は多いようだ。

なるほどその通りで、小生も一時期は市町村誌を片っ端から借りて熟読してという作業が続き閉口したものである。
ていぴす殿の気持ちが分からない訳ではないが、小生のポンコツブログとは違って写真にもこだわりがあるし、城歴もかなり詳しいので、そのうち復活していただくことを心から願うばかりである・・・。

今回紹介するのは、信濃先方衆の槍働きで、何とか生坂村の山城と居館跡を全て制覇しマイスターとなるために奮戦した「ていぴす」殿のラスト2城のうちの「城平物見」(じょうっぴらものみ)の探訪記である。あたしゃまだまだその域には程遠い・・・(汗)

IMG_0815.jpg
ジムニーなら林道で城域に横付けなのでとっても助かりますw

【立地】

生坂村の犀川の左岸の東広津と売るがの両地区の間にある山の尾根上にある。その昔は会の広瀬橋から通学路の山道がこの尾根に入っていたという。広津と犀川沿いの集落を結ぶ重要な道の乗り越しに位置するので、犀川沿いの周辺の動向を監視するためにこの場所に物見が置かれたのであろうと推察する。

城平物見見取図①
尾根を何ヵ所か削っただけの物見である。ここで敵を迎え撃つ意図は無いようだ。

【城主・城歴】

この砦についての資料はなく伝承も不明だという。城平(じょうっぴら)の地名から砦があったのだろうと推定されるだけで詳しい事は分からない。ここの尾根上からは、宇留賀城、金戸山(かなとこやま)、雲根峠の猿が城物見、日岐大城などが見え、犀川流域もつぶさに観察が可能である。こうした立地条件から、金戸山とともに宇留賀城の物見だったのではないか?という推測が成り立つ。

IMG_0812.jpg
郭の西端には石祠がある。

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尾根の最高部の東端。段差を含めて約70mという広さだが、後世は道としての機能が優先されたようである。

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何となく続いている尾根の平坦地。

【城跡】

697.3mの三角点のある場所まで含めると概ね三段の平場が城域であろうと思われる。三角点の東側にも一段高いコブがあるが、地山のままで加工の跡は無い。雑木が無ければ遠くまで見渡せる。

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真北方面には宇留賀城。

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南には犀川沿いに屋敷群、遠く日岐城まで見渡せる。

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15mほど下がった場所にも平場。

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三角点のある場所も城域に含まれるのかもしれない。

在と土豪の境目を見張る砦としては、このようなもので充分であっただろう。
山道が生活道路だった往時は、ここまで登るのには訳もなく来れたと思われる。

≪城平物見≫ (じょうっぴらものみ)

標高:723m 比高:240m(犀川端より)
築城年代:不明
城主;不明
場所:東筑摩郡生坂村広津
攻城日:2017年4月2日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:林道脇から5分
見どころ:尾根の削平
注意事項:軽自動車の四駆なら林道で横付け
駐車場:無し
参考文献:「信濃の山城と館②松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:宇留賀城、金戸山城、猿が城物見、城が原・こやしきなど
Special Thanks to ていぴす殿



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南の犀川沿いから見た遠景。

Posted on 2017/05/20 Sat. 08:10 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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