らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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城が原・こやしき (東筑摩郡生坂村下生坂)  

◆犀川沿い集落と雲根峠の沿道の監視で築かれた居館跡◆

先日の碓氷峠の陣城の記事は全国区の皆様にとって、かなり刺激的だったらしい・・・(笑)

グンマー県の教育委員会様が登録し忘れた城跡について、「再登録したほうがいいですよ」と、軽井沢町役場の職員が忠告した事が現実となり、今回の発表まで斎藤慎一先生の手助けも借りて足掛け三年の長旅だったらしい・・・(汗)

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それよりも熊野皇大神社のこまいぬの価値のが上かも知れない・・・(笑)

今回ご案内するのは、生坂村の領主であった日岐丸山氏と深く関りがあったであろうとされる「城が原・こやしき」。

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国道19号線から入ると上り坂に堀状の沢が見える。天然の防御構造である。

【立地】

国道19号線の東、犀川の第二河岸段丘上に城が原(城の原とも)・こやしきがある。雲根集落の白山神社の北の台地上で、ここから犀川右岸の道は、山清路の岩山で通れなくなるために後背の山越えの道、雲根峠を通って込路(こみじ)へ出るのが往古の道である。雲根はその峠道の起点となる。

城が原・こやしき見取図①
天然の沢を堀と見做した河岸段丘上の屋敷地であろうか。

【城主・城歴】

史料・伝承等不明。立地からみて、犀川べりの監視と、雲根峠の備えで、その監視・警備にあたった番士の居住したところではないかと考えられている。また、猿が城の直下にあたるために、その根小屋ではないかとの説もあるが、雲根集落そのものが、雲根峠の要地で、大岡、麻績、坂北、入山、丸山地区への交通と深く関り、戦略上も重要なところであったと思われる。

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推定居館跡から猿が城物見、雲根峠を臨む。

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犀川を挟んだ北側の対岸には城平物見が見える。

【館跡】

耕作地化と道路の開通により細部は失われたようで詳細は不明。明治六年の切り図には、こやしき、城の原、上ノ原、下原道上、墓地などが記されている。民家の裏手に西から入る幅30mの沢が自然の堀となり、それを利用して造られたと思われる。付近には、馬セバ、カマ田の地名がある。

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標柱のある場所が「城が原(こやしき)」と呼ばれているようだ。

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城が原から見た天然の沢。ここが堀の役割となり段丘上の居館の防御の要になっている。

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城が原の北側の郭。耕作地となり往時の面影は見ることが出来ない。

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城が原の中心部。猿が城物見を命令された番兵の掘立小屋があったのだろうか。

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辺境の地とはいえ、正面の小山を経由した雲根峠を目指して、猿が城に行けというのは酷な話でございます・・(汗)

≪城が原・こやしき≫ (じょうがはら・こやしき)

標高:500m 比高:15m(国道より)
築城年代:不明
城主;不明
場所:東筑摩郡生坂村下生坂
攻城日:2017年4月2日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:国道19号線の道路脇から10分
見どころ:自然沢の堀、標柱
注意事項:農道は狭いので、国道19号線のパーキングエリアに車を止めて歩いていくこと。
駐車場:国道19号線北側にパーキングアリアあり。
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:宇留賀城、金戸山城、猿が城物見、城平物見など
Special Thanks to ていぴす殿



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猿が城物見より見下ろした「城がはら・こやしき」と対岸の城平物見。

Posted on 2017/05/21 Sun. 21:38 [edit]

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城平物見 (東筑摩郡生坂村東広津)  

◆宇留賀城の物見砦か?◆

小生のブログでは毎度お馴染みとなった信濃先方衆の同胞である「長野県の歴史を探し求めて」の管理人の「ていぴす」殿がブログの更新を停止して約1年経った。

彼曰く「山城や城館のブログって現地調査だけでなく、城歴など背景の下調べも結構大変なので疲れます・・」

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城平物見の主郭を調査する「ていぴす」殿。早くブログ再開しろよ!と願う声は多いようだ。

なるほどその通りで、小生も一時期は市町村誌を片っ端から借りて熟読してという作業が続き閉口したものである。
ていぴす殿の気持ちが分からない訳ではないが、小生のポンコツブログとは違って写真にもこだわりがあるし、城歴もかなり詳しいので、そのうち復活していただくことを心から願うばかりである・・・。

今回紹介するのは、信濃先方衆の槍働きで、何とか生坂村の山城と居館跡を全て制覇しマイスターとなるために奮戦した「ていぴす」殿のラスト2城のうちの「城平物見」(じょうっぴらものみ)の探訪記である。あたしゃまだまだその域には程遠い・・・(汗)

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ジムニーなら林道で城域に横付けなのでとっても助かりますw

【立地】

生坂村の犀川の左岸の東広津と売るがの両地区の間にある山の尾根上にある。その昔は会の広瀬橋から通学路の山道がこの尾根に入っていたという。広津と犀川沿いの集落を結ぶ重要な道の乗り越しに位置するので、犀川沿いの周辺の動向を監視するためにこの場所に物見が置かれたのであろうと推察する。

城平物見見取図①
尾根を何ヵ所か削っただけの物見である。ここで敵を迎え撃つ意図は無いようだ。

【城主・城歴】

この砦についての資料はなく伝承も不明だという。城平(じょうっぴら)の地名から砦があったのだろうと推定されるだけで詳しい事は分からない。ここの尾根上からは、宇留賀城、金戸山(かなとこやま)、雲根峠の猿が城物見、日岐大城などが見え、犀川流域もつぶさに観察が可能である。こうした立地条件から、金戸山とともに宇留賀城の物見だったのではないか?という推測が成り立つ。

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郭の西端には石祠がある。

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尾根の最高部の東端。段差を含めて約70mという広さだが、後世は道としての機能が優先されたようである。

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何となく続いている尾根の平坦地。

【城跡】

697.3mの三角点のある場所まで含めると概ね三段の平場が城域であろうと思われる。三角点の東側にも一段高いコブがあるが、地山のままで加工の跡は無い。雑木が無ければ遠くまで見渡せる。

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真北方面には宇留賀城。

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南には犀川沿いに屋敷群、遠く日岐城まで見渡せる。

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15mほど下がった場所にも平場。

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三角点のある場所も城域に含まれるのかもしれない。

在と土豪の境目を見張る砦としては、このようなもので充分であっただろう。
山道が生活道路だった往時は、ここまで登るのには訳もなく来れたと思われる。

≪城平物見≫ (じょうっぴらものみ)

標高:723m 比高:240m(犀川端より)
築城年代:不明
城主;不明
場所:東筑摩郡生坂村広津
攻城日:2017年4月2日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:林道脇から5分
見どころ:尾根の削平
注意事項:軽自動車の四駆なら林道で横付け
駐車場:無し
参考文献:「信濃の山城と館②松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:宇留賀城、金戸山城、猿が城物見、城が原・こやしきなど
Special Thanks to ていぴす殿



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南の犀川沿いから見た遠景。

Posted on 2017/05/20 Sat. 08:10 [edit]

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かぎかけ山物見・つり鐘久保 (松本市波田竜島)  

◆深志領の西の境目「飛騨口」・「木曽口」を抑える要衝◆

2009年7月に始めたこのブログ、今月で7年を超える事になる。

熱し易く冷めやすい性格を自負する小生が7年も続けているなんて、信じられない暴挙であろう・・(笑)

今回ご案内するのは波田シリーズ第六段「かぎかけ山物見・つり鐘久保」。(・・・しつこい?)

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (44)
梓川に架かる雑炊橋(ぞうすいばし)。夏道と冬道(野麦街道)が合流する「かぎかけ山」と島々を結ぶ地点にある。

【立地】

●かぎかけ山物見

旧安曇村と旧波田町の境界に近く、梓川へ黒川が合流する所にある岩山が「かぎかけ山」である。南面は黒川に、西面と東面は梓川に削り取られているために、下部は岩盤が露出して絶壁となり、ごく限られた所に危うげな道が通っている。(現在は岩盤の崩落による落石が酷く通行禁止になっている)足下は梓川の渕になっているような道が100mほど続く。
夏道の西端の出口にあたる「かぎかけ山」は、島々集落の対岸にあり、ここからは島々谷や梓川の谷筋と、小嵩沢山(こたけさわやま)を通って徳本峠(とくごうとうげ)へ向かう峯道を見通すことが出来る。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (47)
雑炊橋から見た「かぎかけ山物見」の登り口。岩盤の崩落が酷く登山道も欠落して危険な状態。現在は立ち入り禁止。落石=即死

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (52)
崩落した「かぎかけ山物見」の登り口。百戦錬磨の「ていぴす殿」は強引に登ったが足場が脆く生命の危機に遭遇し辛うじて引き返したという。

●つり鐘久保(波田の撞鐘久保とも)

「鐘撞き」(かねつき)という言葉は狼煙台の跡地に伝わる言葉である。
天候不良で狼煙リレーが使えない場合は、鐘や太鼓を叩いて次の中継地の狼煙台に伝えていたのだという。
宮坂武男氏は「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」の「68.波田の撞鐘久保」として「かねつき」と「つきかね」は同意語であろうと推察している。そしてその場所はかぎかけ山の一段上にある日向岩あたりではないか?としている。

「波田町誌 歴史現代編」(昭和六十二年発刊)では以下のような記載があるが、狼煙台としての考察はしていない。
カギカケ峠(日向岩辺りのことか?)から夏道の山道を四十八曲がりをたどり、山を越し黒川の二ノ沢に出る山路がある。二ノ沢には「つり鐘久保・堂平・法伝寺窪・まや」などの地名があり、堂平には昔「法伝寺」があったと伝えられている。

小生が勝手に推測するには、二ノ沢は黒川の上流の奥まった場所で、日向岩よりも上部の黒川山に近いので、黒川山付近の杣人(そまびと 林業を生業とする人々)の山岳信仰における宗教施設の跡地であった可能性は否定できない。
「つり鐘」はそのままの意味だと思うが、どうであろうか。

かぎかけ山物見
こんなザックリした概略図で良いのだろうか?ご理解いただけるのでしょうか・・・(汗)

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (50)
東の黒川橋から見た雑炊橋。往時の梓川はダムなど無いので、春先から夏は北アルプスの雪解け水で暴れ川だったと思われる。

【城主・城歴】

●かぎかけ山

「かぎかけ山の物見」は夏道の砦と連携して夏道を抑えるための物見として機能していたと思われる。
もちろん、平時にあっては深志領の西端の境目を守る物見砦として、地元の領民が交代で見張りを命じられていたのであろう。
飛騨口、木曽口からの侵入に備えるには格好の立地であり、万が一ここを破られても夏道の砦で迎撃出来る守備体制が敷かれていたと思われる。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (1)
雑炊橋からは崩落が酷く登れないので、東側から夏道経由でトライ。登り口は新渕橋の手前を左斜めに入り黒川林道沿いに進む。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (53)
出遭わなければ、お互い幸せに暮らせるのですw

●つり鐘久保(波田の撞鐘久保)

前述の通り、波田町誌に記載があるのは二ノ沢の「つり鐘久保・堂平・法伝寺窪・まや」である。
二ノ沢にあった「つり鐘」と軍事要素の「鐘撞」(つきかね)が同一であるかは断定する証拠がない。黒沢山に何か施設があったらしいのだが、場所も位置も確定できないので推測でしかないが・・。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (54)
夏道の途中から見た大野田・上波田方面。(東方面)

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (55)
西方面には島々の集落が見える。島々から徳本峠(とくごうとうげ)を越え上高地に至る道も鎌倉街道と云われたようだ。

林道のゲートから歩いて15分ほどで大きくカーブする場所がある。ここがかぎかけ山の一段上の日向岩(ひなたいわ)と呼ばれるところで、宮坂武男氏が「ここが波田の撞鐘ではないか?」として推定している。
通常の夏道は黒沢林道を進んだ竜島の発電所のあたりから一段下に入り、そのままかぎかけ山の「鍵懸大明神」の神社を経由し雑炊橋に下りていくが、林道が突っ切るこの道も裏道として存在していたように思えるがどうであろうか。

夏道と冬道
往時は稲核口の番所を通らない「夜盗道」(やとうみち)もあったようだが、はっきりしなくなっている。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (57)
日向岩のある場所には何故か鳥獣慰霊碑があり、カーブミラーの脇に石仏。

このまま下に下りれば夏道と合流し「かぎかけ山物見」に辿り着くようだが、信濃先方衆の日向岩探索は必須課題・・(笑)

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (10)
痩せ尾根を辿った先を「日向岩」というのであろう。かぎかけ山物見より50m高い場所なので狼煙台があったかもしれない。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (11)
黒川を挟んだ西側の対岸の峰。稲核を経由し角ヶ平~祠峠に向かう鎌倉街道はこの峰の裏側の山腹を通っている。


【城跡】

波田の撞鐘久保については写真で見ていただいた通りで、遺構らしきものはなく自然地形を利用したものであろうか。
かぎかけ山物見についても、鍵懸神社(かぎかけじんじゃ)の辺りを削平し番兵を交代で置いた程度のものであり、冬道にしても夏道にしても雑炊橋の直上のこの山を押さえられたら行軍は極めて難しくなる。
狼煙台も平時は神社辺りに置かれていたと思われる。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (18)
日向砦と鍵懸大明神の間にある石碑。周囲は広大な削平地になっているが、明治時代にこの辺りも養蚕が盛んであったらしく後世の耕作地の址らしいが断定は出来ない。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (32)
神社の削平地を調べる「ていぴす殿」

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (29)
社殿の周囲は土塁が囲む。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (30)
夏道沿いを威嚇するように伸びる土塁の全長は50m近くある。これは往時のものであろう。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (20)
鳥居は朽ち果ててしまったが、神社自体は大事にされてきたようだ。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (36)
神社から雑炊橋へ下る斜面。この先は崩落が酷いようなので調査は中止した。

【所感】

「夏草の砦」とは、木曽口・飛騨口に通じる街道を取り込んだ広域の城塞であるが、自然地形を利用した簡単なものである。
昔の旅人ヨロシク「弥次喜多道中」をていぴす殿と楽しんだ訳で、極端な緊張感は感じられなかった。

梓川の水位の少ない、楽な冬道を通過すればよいようなイメージを持たれると思うが、厳冬期の北アルプス越えが現代の防寒装備でも困難を極めるのに、四百年前は想像を絶する。そもそも通行人など皆無であったと思われる。

「夏道を押さえよ」  このことであろう。

ここから飛騨へ通じる鎌倉道は古来よりの往還であったというが、次回は三木秀綱伝説と共にその謎にチャレンジしてみたい。

●雑炊橋(雑司橋)の新旧

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江戸時代の雑炊橋(復元模型 安曇資料館展示品) 「はね橋」と呼ばれる構造で12年に一度架け替えが行われたと伝わる。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (43)
斜張橋と呼ばれる現在の雑炊橋。昭和62年に完成している。


≪かぎかけ山物見・つり鐘久保≫ (かぎかけやまものみ つりかねくぼ)

標高:831m・875m 比高:110m・150m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:松本市波田竜島
攻城日:2016年6月12日、2016年7月2日
お勧め度:★★☆☆☆ 
所要時間:20分
駐車場:路駐
見どころ:土塁など
参考文献:「波田町誌 歴史現代編」(昭和六十二年) 「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:黒川林道は波田のセブンイレブンに申し出るとゲートの鍵をかしてもらえるので、日向岩まで車で進入出来る。
付近の城跡:夏道の砦、殿様小屋、隠れ小屋、池尻砦など
Special Thanks:ていぴす殿

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (46)
雑炊橋付近からみた「かぎかけ山物見」の全景。

Posted on 2016/07/11 Mon. 22:25 [edit]

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夏道の砦 (松本市波田赤道)  

◆天正壬午の乱のさなか、深志領から逃げ出す木曽義昌から人質奪回作戦が敢行された砦◆

「境目の城や砦は緊張感MAXで実に興味深い・・・」 

そんな事を書くと不謹慎のようであるが、飛騨領、木曽領との境だった波田地区は中世の遺構や伝承が数多く残り楽しい。

今回ご案内するのは「夏道の砦」(なつみちのとりで)。砦といっても遺構などほとんど残っていないのだが・・・(汗)

しかし、こんな超マイナーな砦を扱う物好きは、小生と「ていぴす殿」の信濃先方衆ぐらいで、まさに信濃大好きの真骨頂である(笑)

夏道の砦(松本市波田) (22)
入口は国道158号線の新渕橋の手前を左折し黒川林道に入り途中から鷲沢に入った鷲沢砂防堰堤の手前.。

林道を上るのだが、軽自動車なら4WDじゃなくてもOK。砂防ダムの脇に適当に止めよう。

夏道の砦(松本市波田) (23)
道形がしっかり残っているので迷うことはありません。5分も歩けば砦に入ります。

【立地】

梓川の右岸、鷺沢と前俣沢の間にある段丘上に夏道が通っていて、そこに夏道の砦がある。対岸が旧安曇村大野田になり「大野田小屋」ともいわれる。

中世から近世の木曽および飛騨への道は、冬は松本から上波田あたりで梓川左岸に渡って八景山(やけやま)を通り、日当たりのよい大野田島々から左岸通り、または雑炊橋を渡って橋場に出て稲核に向かう道を利用した。
夏は傍から大野田夏道を通り、かぎかけ山から橋場へ下り、番所を通って右岸を通り稲核へ出た。
夏道の砦はその名の通り、夏道に沿って作られた砦である。

夏道と冬道
夏道と冬道(推定) ※国土地理院の地図に加筆しています


【砦の経歴】

小笠原家の家臣であった岩岡家が記した「岩岡家記」には「夏道の砦」について以下の記載がある。

「一、天正九年(1581)十一月 木曽義昌、信長公と内談にて、勝頼公へ逆心仕りなされ候につき、甲州より木曽の抑えとして、御人数遣わされ、奈良井にえ川(贄川)に陣取り申し候 
いねこき口へは古畑伊賀・西牧又兵衛仰せ付けなされ候こと

一、天正十年尋午の二月二十六日に、右の古畑伊賀・西牧又兵衛、木曽へ内通仕り、甲州型深志を引き切り、近辺郷中の者苅り立てて、大ぬた夏道に取りこもり候こと」
(「いねこき口とは旧安曇村橋場のことで、「大ぬた夏道」は波田町前渕上段の小平地で砦が作られていた⇒夏道砦のこと)

夏道の砦(松本市波田) (2)
上の夏道と呼ばれた道を登っていく。

木曽義昌の謀反を知った武田勝頼は、深志城の城代であった馬場民部に命じて、波田郷の古畑伊賀(伯耆)と畑五郎座衛門を稲核口の橋場と夏道砦へ入れ、梓川の対岸の西牧郷の西牧又兵衛を大野田城と焼山(八景山)の城日影砦(じょうひかげとりで)などへ派遣してその戦力で、木曽氏の侵入に備えさせたのである。

しかし時勢をを見るに敏で、しかも木曽義昌とは長く隣接して唇歯の間柄にあった古畑・西牧・畑氏らは武田を見限って、織田信長と通じた木曽方へ加わり、急遽波田や西牧の住民や郷士をかり集めて、深志の馬場民部らの攻撃に備え、大野田城と夏道砦に立てこもり、木曽方の旗を立てた。

夏道の砦(松本市波田) (19)
台地(平場)に上がる手前には木戸があったと思われる痕跡が残る。

武田氏の凋落が現実となると、それまで武田氏に帰順していた小笠原氏の旧臣の二木氏や岩波氏・岩岡織部などは時機到来とばかりに武田から離反していった。

天正十年(1582)三月、織田・徳川連合軍による甲州征伐で武田氏が滅亡すると、信長は木曽義昌に武功の恩賞として安曇郡と筑摩郡を加増した。

夏道の砦(松本市波田) (16)
夏道砦の入口。ここを横堀と見なす説もあるようだが、どうみても道形。

●天正壬午の乱勃発による小笠原洞雪の深志入城と木曽義昌の安曇・筑摩からの撤退

武田滅亡後の天正十年(1582)六月、信長が本能寺で斃れると、武田氏の旧領は上杉・北条・徳川の奪い合いとなる(天正壬午の乱)
小笠原家旧臣の二木・岩岡・岩波らはこの機会を利用し小笠原家の復興を画策し、長時の嫡男の貞慶を探すも連絡が取れず、やむを得ず上杉景勝の元に寄寓していた長時の弟の洞雪を深志城に迎え入れるべく景勝に申し入れた。景勝も安曇・筑摩の実質的な支配者となるためこれを受け入れ、大軍に守らせ洞雪を深志に向かわせた。

夏道の砦(松本市波田) (15)
砦の内側から見た入口。ここから唯一「横矢」が掛けられる。

この動きを察知した木曽義昌は形勢不利を悟り、本拠地である木曽福島に引き上げた。
だが木曽義昌は木曽へ引き上げる際に、安曇・筑摩の土豪より本領安堵と引き換えに差し出されていた「人質」を同行させ、それを木曽の家臣となった古幡放棄(伊賀)と西牧又兵衛らに預け、大野田・夏道砦に閉じ込めて木曽口からの攻撃を封鎖せしめた。

夏道砦の見取図①
砦というよりは街道を引き込んで段丘を利用した簡単な陣地だったらしい。

小笠原長時の旧臣らは、木曽義昌を追い出し上杉方の力を借りて洞説を深志城主として迎え入れた。
二木一族・岩岡織部・岩波平左衛門・青木加賀之助・飯田左馬之助らは、木曽方についた古幡伯耆(伊賀)らが人質を入れて立て籠もっていた大野田・夏道砦を攻め立てて、「人質」の父や子を猛攻撃の上に奪い取り返した。

「拙者(岩岡織部)乗り付け、父佐渡をうばい取り申し候、その上雑仕橋(雑炊橋)にて木曽の者一人討取り申し候事」(岩岡家記)

夏道の砦(松本市波田) (14)
砦の内部。石塁の址と道を挟んだ反対側に一段高い削平地が確認出来る。

【大野田・夏道砦】 ※波田町誌より引用転載

大野田・夏道砦(入小屋)とは、安曇村大野田とその対岸の波田町前渕と竜島の中間で両集落より一段上にある山腹の小台地を指す。
この夏道は上・下があり「下夏道原」は東となりの「なろ原」とは、鷺沢(さぎさわ)の深い谷によって区分されている。その段丘の先端に立つと眼下東方に波田・梓川村をのぞみ、対岸に安曇村の大野田や島々の集落が見える。また、遠景は松本平の一部をのぞむ三ヘクタールの小平地で、梓川の河床からは500mほどの断崖上の切所である。

大野田風景①
長ったらしい説明文よりも一発で理解できる風景がこれだ(笑)

夏道原には矢竹が群生し、古銭も出土したことがあるので、かつては人が住んでいたと思われる。普通砦に見られるような、土塁・曲輪などの人工的地形は見られないが、鷺沢から下道原へ登る道には、かなりの人口の跡がみられ、その入口は深く窪地を作り、敵に備えた様子がみられる。

夏道の砦(松本市波田) (13)
唯一遺構の残る砦入口を西側から撮影。


【所感】

街道を取り込んだ陣城で、これといった遺構もない。耕作地化に伴う改変と鉄塔建設により往時の姿がどうであったかを辿るのは厳しい。なんでここから木曽口?と思う方もいるかもしれないが、藪原から鳥居峠を越えて奈良井⇒深志よりも藪原から奈川経由で波田⇒深志に入るのが距離的には長いものの少数の軍事行動では楽だったと思われる。
実際に夏道を歩くと、往時の飛騨越えの旅人の苦労が少しだけ分かったような気がしました。

夏道の砦(松本市波田) (10)
鉄塔付近も砦に含まれているようですが、獣の気配を感じて撤収・・・(汗)

夏道の砦(松本市波田) (8)
鉄塔手前の削平地と空間。掘立小屋に人質を収容していたのはこの辺りであろうか?


≪夏道の砦≫ (なつみちのとりで 大野田小屋・大ぬた小屋・入小屋)

標高:830m 比高:115m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:松本市波田赤松
攻城日:2016年6月12日
お勧め度:★☆☆☆☆ 
所要時間:5分
駐車場:路駐
見どころ:石塁、道形
参考文献:「波田町誌 歴史現代編」(昭和六十二年) 「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:周辺に熊の気配あり。熊除け対策を万全にするか、単独訪問は避ける。
付近の城跡:若澤寺跡、波田山城跡、櫛木城、波田の撞鐘久保、かぎかけ山物見など
Special Thanks:ていぴす殿

夏道の砦(松本市波田) (6)
西側に続く夏道。江戸時代もここを通り飛騨や木曽へ向かう人々の重要な間道であったという。



夏道の砦遠景①
対岸の冬道沿い(大野田)から見た「夏道の砦」の遠景。

Posted on 2016/07/06 Wed. 23:00 [edit]

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淡路城 (松本市波田上波田)  

◆外様ながら小笠原家中で立身出世し、秀政の重臣となった春日淡路守の屋敷址◆

昨日は二か月ぶりの信濃先方衆の合同遠征。

初夏の城巡りは異例中の異例であるが、長年の課題である小笠原領の「木曽口」「飛騨口」の謎解きに迫ってみた次第・・。

その様子については近日中にアップしたいと思うておりますが、例の如くお約束は出来かねます・・・(笑)

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白骨温泉の入口に築かれた池尻砦も今回の目的地。馬場美濃守の「ため息」が聞こえそうな飛騨攻めの最前線の砦ですw

今回ご案内するのは松本市波田シリーズ(旧波田町)の「淡路城」(あわじじょう)。

いまでは史跡碑のみが残る屋敷址なのですが、盛者必衰の戦国哀史はここにも伝わるのです・・・(涙)

淡路城 (1)
気が付かないで通り過ぎてしまった史跡碑・・(汗)

【立地】

前回ご案内した櫛木城から東へ600mの段丘上に作られた屋敷址とされ、木曽口・飛騨口に通じる野麦街道は眼下に抑える立地である。

淡路城 (2)


【城主・城歴】

石碑には「慶長十九年(1614)築城」とある。

淡路城址については、「波田町誌」で以下の記載があるので引用転載してみます。

「春日淡路守道次(又は信次)は『笠系体系』によれば、天正十二年(1584)に川中島に攻め込んだ小笠原貞慶に、大日方源太左衛門と共に降参している。

春日氏は七二会村(長野市七二会)の戸屋城萩野城笹平城の城主であったが、小笠原家に降ってからは頭角を現し、慶長十二年には秀政に属し、その重臣となり、慶長十八年(1613)に小笠原氏が信州松本へ八万石で移封したときは、1,000石(あるいは1,300石)の家老となっている。

昭和九年発行の『波田村誌史料』には、「本村西波多官林西南隅に城址あり。東西一丁三十七間・南北五十三間、老松生い茂り四周の土手高さ三尺あまり存せりと、(明治九年頃)東南隅に三十間余隔たり馬場跡あり、東西三間・南北五十間、今は畑なり西の方出丸と唱へ七十間離れ、東西四十間・南北三十一間、慶応年間まで形を存せり。同年開墾、畑になる。(中略)天正の初め春日淡路といふ人之に居る。」

淡路守は小笠原秀政の家老にして、慶長の検地を監督し、元和元年小笠原忠真に従い、大坂の役に従軍せしも、終る所を知らず。という。

淡路城見取図①
波田町誌P188の見取図を引用。東に堀切が貫通しているが、現在は北側に一部痕跡を残すのみである。

春日淡路守は大坂夏の陣にも小笠原秀政父子に従い出撃している。激戦を極めた大坂夏の陣で小笠原秀政・忠脩(ただなが)は父子は戦死してしまい、戦後処理は春日淡路守が一人で取り計らっている。

春日淡路守が波田に住んだらしいことは「淡路屋敷」によってもほぼ間違いないとみられるが、波田町内には史料は少ない。

淡路城 (3)
屋敷跡地。

●謎の父子自害

淡路屋敷は天正十二年(1584)ごろに春日氏が松本へ出てきてから屋敷として作られ、天正十八年(1590)に小笠原氏が古河に転封して二十三年後の慶長十八年(1613)に再封までは空屋敷となっていたのか、石川氏時代に留守居の者が置かれていたのかは明らかではない。

元和三年(1617)に小笠原忠政は播州播磨10万石の地を将軍秀忠より与えられて転封しているが、なぜか明石に移ったのちになって春日淡路(1,300石)とその子春日蔵人(300石)の父子は「生害滅す」とされている。

淡路城 (4)
耕作地が広がるばかりで、遺構は何もない。

春日淡路ほどの人物にしては、明石において生害滅すというのは、寵姫(妾)が禁制の切支丹になっていて処刑された「十三経塚」の伝説と関係がありはしまいか。

●「十三経塚の話」

戦国時代の終わりから安土桃山時代に、松本城主の小笠原貞慶と秀政の二代に仕えた家老に、春日淡路守道次という侍があった。この淡路守は小笠原家中では千三百石取りで、天正十三年ごろから波田に住み、段丘上に「淡路屋敷」をかまえていたが、元和三年大坂夏の陣の後に、難波の遊女津由と共に行方不明になったとも伝えられている。

この春日淡路が全盛のころ、奥女中で「カナザシ姫」という寵姫(かこいひめ=妾)を「御殿場」の別邸に住まわせていた。姫は十二人の侍女にかしづかれ暮らしていた。
ところがこのカナザシ姫は、下波田の「三日市場」へ毎年特産の麻を買いにやってくる、近江商人によってキリシタン宗門に入信を薦められてキリシタンとなっていたのである。

徳川氏が江戸幕府を開くころからは、きびしい禁教令が出されて、改宗しないキリシタン宗徒には容赦ない極刑が待っていた。
しかし女性ながら深く信仰を持ったカナザシ姫と十二人の侍女たちは、最後まで教えを捨てようとしなかったため、御殿場の南にある磔松原という所で処刑されたと伝えられる。

淡路城 (5)
元和三年(1617)には明石への転封に伴い廃城になったのであろうか。

大久保長安事件に松本藩主の石川数正の後継である康長が連座して改易となっている。小笠原氏の後任の石川氏はキリシタンを保護していたので、春日淡路守の妾がキリシタン信者となった可能性は高く、石川氏の改易の責任が春日氏に及んだ可能性は否定できないという。

【館跡】

現場は改変が進み遺構は全く確認出来ない。東西に二ヶ所堀形の址があるというが、屋敷址のものかは断定出来ない。
江戸時代初期の屋敷址で、居住年数も僅かだったらしいので仕方ない。
馬出も想像するしかない・・(笑)

七二会の春日さんが貞慶の配下としてこのような場所で活躍されていたとは知りませんでした・・・(汗)

まだまだ勉強が足りないようでございますw



≪淡路城≫ (あわじじょう)

標高:722m 比高:35m
築城年代:慶長18年
築城・居住者:春日淡路守道次
場所:松本市波田上波田
攻城日:2015年6月21日、2016年7月2日
お勧め度:★☆☆☆☆ 
所要時間:-
駐車場:無し
見どころ:史跡碑のみ
参考文献:「波田町誌 歴史現代編」(昭和六十二年)
注意事項:耕作地につき無断侵入禁止。
付近の城跡:若澤寺跡、波田山城跡、櫛木城、夏道の砦、かぎかけ山物見など
Special Thanks:ていぴす殿

淡路城 (7)
東側に残る「一の堀跡」

Posted on 2016/07/03 Sun. 22:47 [edit]

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