らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0813

大笹関所 (吾妻郡嬬恋村)  

◆信州街道における信州口への関門◆

ようやくお盆休みとなった。

山城攻めに「オンシーズン」も「オフシーズン」も無いという豪傑の方々には頭が下がる。

蜘蛛の巣、ホーネットの襲撃、時々落下傘攻撃を仕掛ける蛇、藪蚊の逆襲・・・・そんな思いをして「藪茫々」「草茫々」なんて(笑)

小生は、夏場は「整備された史跡公園」「平地の居館跡」の探索が一番と思っているヘタレでございますw

今回ご案内するのは関所シリーズ第一弾の「大笹関所」(おおざさせきしょ)。

大笹関所跡 (1)

【立地】

長野原町から続く信州街道(長野街道)は、長野県境の鳥居峠を越えて上州街道と名前が変わるが、群馬県側の最終宿場町である大笹宿の東端に位置する。ここは吾妻川へ鹿之籠川(しかのろうがわ)が合流する所で、鹿之籠川が10m余の深い峡谷を造っている所を利用した立地で、信州口への関門である。

大笹関所跡 (6)
昨年移転されて元々あった場所に整備復元されている。

【関所の歴史と現在】

江戸時代、中山道高崎宿から、烏川沿いに遡って吾妻郡に入り、浅間山北麓を通って鳥居峠を越えて須坂方面(別名:大笹街道)、または上田方面に通じる街道を信州街道といった。信州街道は関東と北信濃を結ぶ重要な街道で、各所に関所が設けられた。大笹関所はその一つで、寛文二年(1662)幕府から許可され、沼田藩主真田伊賀守により建設された。
その後天和元年(1681)沼田藩は改易、明治の廃関まで幕府の所轄となる。

大笹関所跡 (3)
鹿之籠川に架かる刎橋(はねばし)は有事の際には切落とす仕掛けだったという。(図面は現地説明板を掲載)

大笹関所は、一反五畝八歩(約450坪)とされ、中央に白洲を、それに向かって改所(取調所)など設置され、周囲は土塀や木柵で限られ、それぞれに北門(正門)、東門が設けられた。
現在再現された門は、昭和三十一年、廃関後土屋源三郎氏の先祖が払下げ所蔵していたものを別の所に復元していたが、御関所橋の架け替え工事に伴い現地に移転・再現したものである。
※現地説明板より

大笹関所跡 (9)
正門だけじゃ淋しいですね。

≪大笹関所≫ (おおざさせきしょ) 
標高:945m 比高:-
場所:群馬県吾妻郡嬬恋村大笹
訪問日:2015年7月12日
お勧め度:★☆☆☆☆ 
城跡までの所要時間:-
駐車場有り
見どころ:門
参考文献:「信濃をめぐる境目の山城と館」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版) 
注意事項:道路脇なので通過して「あれっ?」と思ったら引き返そう。
付近の城跡:鎌原城、金毘羅山砦、西窪城など

【沼田真田藩改易後の家臣達の再就職として】

天和元年(1681)に沼田藩が改易されると、沼田真田家の家老鎌原縫殿(五千五百石余)は一転して二十俵二人扶持の大笹関所番となり、代々伝えて明治に至り現在も子孫が続いているという。
他に西窪氏、湯本氏、横谷氏等の家臣も交代で大笹関所番を務めたという。

藩主真田伊賀守信利の暴走を止められなかった家臣たちの支払った代償は高いものとなった訳で・・・・(汗)

大笹関所跡 (10)




Posted on 2015/08/13 Thu. 09:46 [edit]

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0809

潜龍院館 (吾妻郡東吾妻町郷原)  

◆真田昌幸の描いた壮大な夢の跡◆

「いきなり群馬へ飛ぶの? んで、潜龍院館(せんりゅういんやかた)って何処さ? 上野に飛ぶほどの価値があるの?」

お叱りはご尤もである・・・(笑)

7月10日に某国営放送の大河ドラマ「真田丸」のキャストが発表され、武田勝頼(配役:平岳大)も登場するのでひょっとしてこの場所も出るかもしれないので12日にちょっと遊びに行って来たと言う訳。
※俳優の平岳大(ひらたけひろ)さんは、各方面でご活躍だが、映画「のぼうの城」の長束正家役といえばおわかりだろう。

潜龍院跡 (2)
国道145号線や居館までの通路には六文銭の幟が林立しているので驚いた。

「信濃をめぐる境目の山城と館」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)では古屋館(こややかた)として掲載されているが、地元では「潜龍院跡」(せんりゅういんあと)と呼ばれている。場所は武田の三堅城のひとつ岩櫃城の西側で岩櫃山(803m)の南300mにある。

実はこの場所、小生も噂には聞いていたが、普段お世話になっている「武蔵の五遁、あっちへこっちへ」の記事で初めて見て行く気になったのだ。

潜龍院跡 (3)
古屋集落から見た岩櫃山。手軽に登れる山らしいのですが、午前中に似たような近くの嵩山城を攻めたので遠慮します(汗)

真田丸の予習として訪問希望の方もいらっしゃるかと思いますので以下にざっくりと行き方を書いておきます。

【行き方】

国道145号線からJR吾妻線「郷原駅」の東側の交差点(岩櫃山登山口の看板有り)を北へ入る。(駅の西側のT字路は狭いので軽自動車以外は不可) 突き当りを左に進み酒屋と最初の写真の幟のあるY字路を右へ登る。(潜龍院跡への標柱もあり)
約500mで古屋集会所があり無料駐車場がある。そこに車を止めて歩いて10分。※軽自動車なら居館跡まで入れるが住民の生活道路なので避けるべし。

潜龍院跡 (6)
駐車場から歩いて突き当りに案内板。ここを右へ。

潜龍院跡 (7)
案内板に沿って進めば大丈夫。

潜龍院跡 (10)
薄暗い山道の先に目を疑うような広い台地が広がります。


【立地】

岩櫃山の大岩峰を背後に背負う吾妻川の左岸の河から120mの高い位置に信じられないような広大な平坦地がある。郷原地区古屋集落の背後になり、集落から赤岩通りの道がある。ここから山腹を東に辿れば岩櫃城に通じ、往古は連絡路があったものと思われる。

潜龍院跡 (11)
岩櫃山登山道の「赤岩通り」の登り口の東側が潜龍院跡。石垣の痕跡が残り説明板がある。

潜龍院跡 (46)
幟旗が「これでもか!」と林立している場所が潜龍院跡である。

古屋館見取図①

【城主・城歴】

天正十年(1582)三月、甲斐の武田勝頼は織田・徳川の連合軍に攻められ存亡の危機に瀕していた。上原城での軍議の席上、真田昌幸は武田領の三堅城の一つである岩櫃城に勝頼を迎え入れ武田家の再挙を図る事を提案して許された。
2月28日の早朝に昌幸は諏訪をたってその日のうちに岩櫃に到着。直ちに浦野大戸、鎌原、植栗、湯本、池田等の諸士を集め、日夜工事を急いだので3日には、岩櫃城の搦め手の古谷に御座敷付書院が出来上がった。

ところが、甲州からの注進で勝頼は小山田の策を入れて郡内の岩殿城へ向かったとの報告があった。昌幸は驚いて兵2500騎を率いてその夜のうちに上田に着陣したが、勝頼は天目山で自刃してしまい献策は叶う事無く終わった。

その後この地は昌幸の一族の祢津潜龍斎昌月に払い下げられ、昌月はこの御殿跡に山伏寺として潜龍院を建立した。この寺は天和二年(1616)び炎上したが再建される。明治に入り潜龍院は廃寺となるが、護摩堂は原町顕徳寺に移されたという。

潜龍院跡 (18)
潜龍院跡の南側の広大な削平地。

潜龍院跡 (17)
往時のものかは判別が難しいが、敷地の南側には土塁痕が認められる。

潜龍院跡 (25)
櫓台を彷彿とさせる土塁。

【館跡】

東西400mにも及ぶ広大な平坦地の北側山寄りに高さ2mの石垣が残っている。ここが潜龍院の跡地で、ここに勝頼を迎える為の御殿が突貫工事で進められ建てられたという。
岩櫃城へ東へ約1kmの位置にあり、古谷集落からの登路には巨岩が城門のように立ち並び正に天然の要害城である。

付近は耕作されて、細部は伺い知るべきも無いが、未完成に終わった館跡として最近石垣が補修されている。

潜龍院跡 (24)
東側から見た潜龍院。

潜龍院跡 (19)
こんな山塊にこのよな広大な土地があるとは驚きである。

歴史に「IF」」は無い。

がしかし、武田勝頼が真田昌幸の献策を聴きいれて上野国にて武田家の再挙を図ったとしたらどうであろうか。

武田家家中からは小信玄と呼ばれ、信玄からも「我が目である」と賞された昌幸率いる武田軍VS織田徳川連合の上野国の戦いは想像以上に壮絶な戦いになったと思われる。

まあ、そんな夢物語を語っても仕方の無い事はじゅうじゅう承知なのだが・・・(汗)

潜龍院跡 (22)
石垣跡に昌幸の野望を感じる・・・(笑)

潜龍院跡 (23)
天下争乱の地が上野国になっていたかもしれない・・・という妄想が頭をよぎる「隠れた秘密基地」である。

武田家滅亡の原因を作った当事者として、小山田信茂の裏切りに対する批判は今も辛辣であるが、事実はどうであろうか。

岩殿城に勝頼を郡内に招致することで、小山田領の領民は間違いなく戦禍に巻き込まれ多大な犠牲を強いられる。
小山田氏は直前になって「良き領主でありたい」という思いに負けたのかもしれない。

一方で昌幸の思いも複雑であったと推察される。武田家の外様では終われないという決意がそこにあるものの、坂道を転がり出した今の武田では勝算を見いだせない苦悩もそこにあったと思われる・・。

潜龍院跡 (36)
潜龍院跡の内部。

一説には勝頼が岩櫃城への退避を寸前で翻した理由として、「お坊ちゃま育ち」の勝頼が岩櫃での不便な山城暮らしに不安を抱き小山田信繁直前での進言を採り入れた」といわれるが、果たしてそうであろうか?

最期まで武田氏発祥の地で本国である甲斐を維持したかった・・・それだけのような気がする。

武田フリーク、真田フリークには是非とも訪れて頂きたい「夢の跡」には違いない・・・


≪古谷館≫ (ふるややかた 潜龍院館 郷原城) 
標高:515m 比高:120m (国道より) 
築城年代:天正十年(1582)
築城・居住者:真田昌幸
場所:群馬県東吾妻町郷原
攻城日:2015年7月12日
お勧め度:★★★☆☆ 
城跡までの所要時間:10分 (古谷集会所より)
駐車場:古谷集会所駐車場
見どころ:石積みなど
参考文献:「信濃をめぐる境目の山城と館」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版) 
注意事項:特に無し
付近の城跡:岩櫃城、岩下城、三島根小屋城など

潜龍院跡 (44)
近年稀に見る「自画自賛のベストショット」である・・・(笑)











Posted on 2015/08/09 Sun. 22:14 [edit]

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0824

前橋城 (群馬県前橋市大手町)  

◆「辿り着いたらいつも雨降り」第二弾◆

「そうだ、後閑城へ行こう!!」

8月16日、お盆のUターンラッシュの事など気にもせず高速道路に乗って安中榛名ICへ向かった。

下調べなどせず、アウェーの群馬県に鉄砲玉のように飛び出したが、それはそれで結構楽しかった。余計な前知識を入れずに純粋に城跡を隅々まで見て歩くことは、想像力と妄想力の鍛錬になるのだ。(まあ、場所だけは事前に調べないと・・)

今回ご案内するのは、前回の高崎城と同様に仕方なくオマケで訪問した前橋城。
近世城郭は大嫌いだが、幕末に不死鳥の如く甦った廃城というストーリーを聞けば、どーしても見たくなった・・(笑)

前橋城(群馬県) (1)
前橋公園の西側に残る高土塁。

【立地】

越後山脈を源流とする日本最大の流域面積を誇る利根川が、渋川で吾妻川と合流した10km先の平野部の河岸沿いにあり、榛名山の北麓の沼田経由で三国峠を越えて越後へ、榛名山の南麓を西へ進めば箕輪城の監視に晒され碓氷峠を越えて信濃に通じる交通の要衝で、関東方面への入口を抑える重要な場所でもある。

前橋城(群馬県) (2)
城域の西側は親水ステージの公園になっているが、元々は利根川が外堀として流れていたと云う。(遠方の建物はグリーンドーム前橋)

【中世時代の城主・城歴】

前橋城の前身は厩橋城(うまやばしじょう⇒まやばしじょうへ変化?)で、15世紀末に固山宗賢(こざんそうけん)が築城したと伝わるが、笠間明玄や太田道灌という説もあり、ハッキリしていない。
永禄三年(1560)、上杉謙信が小田原の北条氏を攻め厩橋城を奪取。箕輪城の支城として長野賢忠を城代とし、厩橋城にて越年。永禄六年(1563)には、謙信の配下であった北条高広(きたじょうたかひろ)が城代に任命され、関東方面の軍事・行政を一任される。がしかし、この男、謙信も認めたその才覚ゆえにあっちゃこっちゃ策を練り過ぎて最終的には自爆する・・(汗)その辺のお話は、また今度・・(笑)

前橋城(群馬県) (4)
本丸跡に建つ偉そうな県庁(笑)。土塁の外側は水堀址だろうか。

その後紆余曲折を経て甲州征伐で武田氏が滅亡すると、織田信長の家臣である滝川一益が上野国を与えられ厩橋城に入るも、本能寺の変が起こり、上野国に侵攻してきた後北条氏と神流川で戦うも滝川軍は敗れ、後北条方の城となる。

【近世の城歴】

天正十八年(1590)、後北条氏の滅亡後に関東に移封された徳川家康は、厩橋城に譜代の平岩親吉を入封する。
慶長六年(1601)、平岩親吉の甲府への移封に伴い、川越藩から徳川家重臣の酒井重忠が入封となる。

この時家康は初代前橋藩主となる酒井重忠に「なんじに関東の華(はな)をとらせる。」と云ったのは有名な話で、関東北部における厩橋城の地位の高さが伺える。

前橋城(群馬県) (6)
土塁の上の遊歩道。近世城郭とはいえ、高崎城も前橋城も基本「土の城」なので好感が持てる。

前橋城(群馬県) (7)
三の丸の北に隣接する「柳原口内」と呼ばれた郭(現在の前橋公園敷地)

元和三年(1613)、酒井忠世の代に近世城郭として整備され三層三階の天守を造ったという。その後、慶安二年(1649)に藩主忠清の時に厩橋城⇒前橋城に改称したという。

その後は、「坂東太郎」とまであだ名がつくほどの利根川は、度重なる洪水や河川の氾濫により前橋城とその付近の住民に莫大な損害を繰り返しもたらした。

前橋城(群馬県) (8)
いかに巨大な土塁だったかが分かる写真。

寛延二年(1749)、酒井忠恭が播磨の姫路へ転封となり、代わって姫路より松平朝矩しが入封。
(この転封は、財政が破綻寸前の姫路藩松平家の仕組んだ罠とも伝わるが、はっきりしたことは分からないという)

利根川の大規模な氾濫が数年おきに続き、揚げ句の果てに城下で大火まで発生して前橋城はもはや修復不能の状態となる。明和四年(1767)、松平家は武蔵国川越城への移転を申請し許可され、前橋城は廃城となった。
前橋藩は川越藩となり、前橋には陣屋が置かれたのである。

前橋城(群馬県) (16)
前橋東照宮は松平家とともに変遷し1871年に川越から現在の場所に移転した。

【日本最期の築城となった幻の前橋城】

廃城から約100年経過した文久三年(1863)、前橋藩の復活と藩主の復帰を願う地元領民の強い想いと生糸景気による豊潤な経済力に後押しされた川越藩第十六代当主の松平直克は、幕府に築城許可を嘆願しようやく許可を得る。
許可の背景には、万が一外国による江戸城攻撃が始まった場合の幕府の移転先として考えられていた事があるという。

また、この年は江戸時代最期の築城ブームでもあり、七年がかりで工事を進めていた函館の五稜郭が完成。萩から山口に城を移した毛利氏もこの年に山口城を築いている。

また、小生の住む信州佐久地方でも田野口藩(竜岡藩)がミニ五稜郭と呼ばれる竜岡城の築城にとりかかり、岩村田藩も藤ヶ城を築城している。(築城術は前橋城によく似ている)

前橋城見取図①
新・前橋城の縄張図(前橋市の観光案内パンフレットより転載)。何と丸馬出しが二つある。

再建された前橋城は旧前橋城の三の丸を本丸とした近代城郭としての縄張りに改められ、全ての郭は外周を高土塁と堀で囲まれ、要所には砲台が置かれ稜堡式として十字砲火が掛けられる仕様になっている。
ヨーロッパにおける火砲の発達による築城術の情報を取り入れた重火砲にも耐えうる設計で、標的となってしまう櫓すら建てない防御構造は、軍事学的にも時代の最先端であったと思われる。

慶応三年(1867)、三年八カ月の歳月と77,673両の費用をかけた新・前橋城が完成し、松平直克は川越藩から前橋藩に移った。

前橋城(群馬県) (18)
「るなぱあく」という遊園地のある場所は前橋城の北側の空堀跡である。

前橋城(群馬県) (19)
臨江閣の庭園付近も空堀跡。

明治維新を迎え、明治二年(1869)の版籍奉還で直克は前橋藩知事に就任。
明治四年(1871)廃藩置県により前橋城は再び廃城となり、明治政府は真っ先に前橋城を取り壊した。再築城から僅か四年の幻の城であった。

前橋城(群馬県) (20)
群馬県警察本部の脇に建つ城碑入口の標柱。この時間帯から土砂降りの雨になる・・(汗)

前橋城(群馬県) (25)
城碑のある場所は前橋城三の丸東南隅の土塁で、砲台が置かれたところだという。

降りしきる雨の中、ビショビショになりながら見学しているのは自分だけ・・もはや意地だけの世界・・(笑)

しかもお隣は警察署なので、不審者として職質される恐れもあるし・・(汗)

前橋城(群馬県) (29)
立派な土塁でございます。隣は群馬県警です。くわばらくわばら。

前橋城(群馬県) (31)
雨の中の土塁散策も風情でございます。

強固な縄張りとして生まれ変わった前橋城に反政府軍が立て篭もったら厄介ですもの。
明治政府が危険視したのも無理からぬ事。それにしても、後世の研究材料として半分くらいは現物を残しておいても良かったんじゃないかしら・・(笑)


≪前橋城≫ (まえばしじょう 厩橋城)

標高:107.1m 比高:- 
築城年代:不明
築城・居住者:長野氏、北条氏、後北条氏、酒井氏、松平氏
場所:群馬県前橋市大手町
攻城日:2014年8月16日 
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:0分 駐車場:有り(県庁有料駐車場)
見どころ:高土塁、堀址
注意事項:特に無し
参考文献:城跡の説明看板、前橋市の観光案内など
付近の城址:色々

前橋城(群馬県) (33)
県庁北側駐車場に残る土塁跡。










Posted on 2014/08/24 Sun. 08:18 [edit]

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高崎城 (群馬県高崎市高松町 市指定史跡)  

◆上野国じゃ毎度毎度の雨男に変身だあ!◆

今さら何を?と思うかもしれないが、昨日とうとう慣れ親しんだガラケーを捨ててスマホに乗り換えた。

古き良き昭和世代の最後のガラケー戦士として最期の一兵となっても闘う所存であったが、商売上スマホが使えないと窓際族に追いやられてしまうのである・・・(汗)
 
かといって老人向け(?)の「らくらくスマホ」では、マッキントッシュ時代を知る武士の意地が廃るというもの・・(笑)

5S

幸い、ipodは操作出来るし、仕事ではipadを使いこなしてる?(ってか、使われてる・・・汗)のでiphoneならなんとかなるかもしれない。
(もうすぐ「6」が出るんだからそれまで待てば・・という意見もあったが新製品はとかく欠陥があるので5Sとしたが・・)

「習うより、慣れよ」  その通りであった・・・が、使いこなすというよりは、Siri様にコキ使われている一兵卒であった。

今回ご紹介するのは、「辿り着いたら、いつも雨降り」の上野国の高崎城。近世城郭には興味が無いので適当な解説になるが、ご容赦下さい・・・(笑)

高崎城(群馬県) (8)
三の郭の外土塁と水堀。これが残っただけでも「良し」としなければ・・・。

【立地】

鳥川と碓氷川の合流地点の南東河岸を利用した平城で、箕輪城から約9km南東に位置する。

高崎城(群馬県) (3)
しっかりした高土塁の上は遊歩道になっている。基本「土の城」のコンセプトを踏襲しているのは嬉しい。

【城主】

初代の城主は徳川四天王と呼ばれ、「井伊の赤備え」の元祖である井伊直政(いいなおまさ 1561~1602)で、のちの近江国佐和山藩主(彦根藩)の初代藩主でもある。
家康の命により、武田軍の猛将山県昌景の赤備えを徳川軍で復活させ「井伊の赤備え」として戦場ではその勇猛果敢な戦闘ぶりで名を馳せた。秀吉の信任も厚く、天正十四年十月、家康の上洛の際に豊臣姓を賜る。
天正十八年(1590)、小田原の役では、小田原城内に切り込んだ唯一の武将として名を刻み、北条氏滅亡後の慶長3年(1598)、家康の関東移封とともに上野国箕輪城12万石の城主となった。その後、家康の命により箕輪城を廃城とし、新たに高崎城を築城する。

また、謀略においても家康の懐刀として秀吉亡き後の反石田派の黒田如水(官兵衛)・長政父子を徳川方に引き入れ、関ヶ原合戦では東軍指揮の中心となり島津軍の追撃戦を敢行し島津豊久を討ち取った。(しかし、この時の傷が原因で二年後に死去してしまう)
戦後処理で真田信之の助命嘆願を聞き入れ、身を呈して昌幸・幸村父子を高野山配流としたのも彼である。

この戦功により近江国佐和山18万石(旧石田三成の所領)を家康より拝領し、徳川の譜代大名では最高禄となった。

この人がいなければ、某国営放送局の「軍師 官兵衛」も2年後の大河ドラマの「真田丸」も違うストーリーになっていただろうか・・・(笑)

高崎城(群馬県) (6)
土塁脇に建つ標柱と説明板。

【城歴・城跡】

箕輪城主井伊直政が徳川家康の命により、この地に城を築き箕輪より移転したのは慶長3年(1598)のことであった。築城にあたって直政は、当時和田と呼ばれていたこの地の地名を松ヶ崎と改めようとし、竜広寺の住持白菴に相談した。白菴は、諸木には栄枯があることを説き、「成功高大」の意味から高崎と名づけるよう進言し、これが採用
された。高崎の地名はこうして誕生したと云われる。(川野辺浩「高崎志」)

高崎城(群馬県) (12)
公園側からみた土塁。

この地にはかつて和田氏により和田城が築かれていた。直政により新たに築かれた高崎城は、和田城址を取り込む形で築かれたと云われており、坪数51,613坪に及ぶ広大な城郭となった(土屋老平「更正高崎旧事記」)。築城にあわせ、城下町の整備も開始され箕輪城下から多くの寺院や町が移された。連雀町や田町はこのとき箕輪より移転した町である。また、城下町を囲む形で遠構と呼ばれる土塁と堀も築かれた。

高崎城(群馬県) (13)
三の丸の一部は城址公園として整備されている。外側へ「コの字型」で突き出る折れの部分も残っている。

命じ四年(1871)の廃藩置県後、高崎城の敷地は兵部省、次いで陸軍省の管轄となり、乾櫓をはじめとする多くの建物が払下げとなった。さらに、兵営や練兵場を建設するために城内は整地された。このため本丸や二の丸の土塁や堀は現存しておらず、三の丸の堀と土塁がわずかに昔の面影を止めている。

高崎城(群馬県) (14)
土砂降りの雨の公園もオツなものです・・・(笑)

高崎城(群馬県) (19)
「土塁は立派な文化財です。大事にしましょう」と看板にあったが、その通りである。

しかし、上野国出陣は「辿り着いたらいつも雨降り」というケースが多い・・・・(汗)

岩櫃城なんか二度とも雨の攻城戦・・参った。

信濃ではピーカン男(決してノーテンキ男ではありません・・笑)だったし、三河・遠江・駿河の旅でも良いお天気だったのだが、どうも群馬県とは縁が無いらしい。

高崎城(群馬県) (25)
群馬県指定重要文化財の乾櫓。キレイ過ぎたので復元かと思っちゃいました(笑)

高崎城(群馬県) (31)

この城は本来「土の城」なのに、「なんちゃって石垣」を作る偽装工作には頭が下がる思いです。。。。。。(悲)

無骨ものの井伊直政だからこそ、土の城じゃないとダメなんです。しっかりしてくれ、高崎市!!


≪高崎城≫ (たかさきじょう)

標高:93.0m 比高:- 
築城年代:慶長三年(1598)
築城・居住者:井伊氏、その他
場所:群馬県高崎市高松町
攻城日:2014年8月16日 
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:0分 駐車場:有り(市営有料駐車場)
見どころ:石垣、高土塁、堀、櫓
注意事項:特に無し
参考文献:城跡の説明看板、他
付近の城址:色々

高崎城(群馬県) (38)
乾櫓は土塁の櫓台の上に建てられてたのに、この組み合わせが常識になるのは時間の問題でしょう・・(汗)

Posted on 2014/08/19 Tue. 07:55 [edit]

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羽根尾城(長野原町)  

◆上州吾妻に覇を唱えた滋野一族 羽根尾氏の悲哀◆

羽根尾城は群馬県吾妻郡長野原大字羽尾の城峰山にあります。
この城の築城時期については不明ですが、歴代の城主である羽根尾氏は信州小県の海野の豪族滋野氏の一族として三原荘(嬬恋)の鎌原氏、草津の湯本氏とともに勢力を振っていました。

羽根尾城・鎌原城 016

滋野氏の宗家である海野棟網・幸隆(のちの真田幸隆)は、関東管領上杉憲政を後ろ盾としていたため、1541年 武田信虎・村上義清・諏訪頼重の連合軍に攻められ海野平の合戦で敗退し上州へ逃れる。

この時彼らを庇護したのが、この時の城主羽根尾幸全入道でした。
(羽根尾氏は幸隆の最初の妻の実家とも云われる)

羽根尾城・鎌原城 011
吾妻西病院駐車場より城跡へ通じる林道

その後、海野棟網と幸隆は上杉憲政の家臣の箕輪城の長野業正の元へ赴き関東管領上杉氏に旧領回復を願うが、その才覚の無さに失望した真田幸隆は、板垣信方の誘いもあり武田晴信に仕官することを決意する。
(海野棟網は沼田城付近で病没したとの言い伝えがある)

羽根尾城・鎌原城 012
↑本郭脇にある堀切

真田幸隆が武田軍の信濃先方衆として目ざましい活躍で武田信玄の信任を得て信濃征服をほぼ完了すると、西上野攻略を命ぜられる。
そんな中、羽根尾幸全は意図的に鎌原氏と領土境界線を巡り争いを起こし、幸隆は一族の調停役となるが、羽根尾氏はドサクサに紛れて鎌原城を乗っ取る。(幸隆が巧妙に仕組んだ軍事介入でしょうネ)
姑息な手段に怒った鎌原氏は武田氏に臣従し旧領を回復、羽根尾氏は岩櫃城の斎藤氏を通して関東管領となった上杉謙信に支援を求める。

羽根尾城・鎌原城 017
城の西側には腰郭が連続する

岩櫃城攻略の足がかりを求めていた真田幸隆は、この機を利用して長野原で合戦に及び鎌原氏と共に羽根尾氏を攻めて敗走させます。

この時、羽根尾幸全は討死したとも越後へ逃亡したとも云われています。

「まずは恩情を捨てる事から始めなければ 真田の明日は来ない」

武田に仕官を決めた時、自分を匿ってくれた羽根尾氏や長野氏という恩人に刃を向けなければならない宿命を、幸隆はどう感じていたのでしょうか。

羽根尾城・鎌原城 024
JR吾妻線の羽根尾駅から望む城址

その後、岩櫃城の攻防戦では羽根尾幸全の子だった海野長門守幸光と海野能登守輝幸の兄弟が斎藤氏を見限り、真田方に内応して勝利に貢献し、岩櫃城代となる。
昌幸の代となっても真田の信任は変わらず吾妻地方を統治していたが、天正九年(1581年)北条方への密通の嫌疑をかけられ 幸光は岩櫃城を急襲されて自刃。沼田城代だった輝幸は真田軍と沼田城外で戦闘となり女坂で討死する。(一説には地侍の妬みによる逆恨みと云われるが、昌幸らしい謀殺のやり方だと僕は思う)

羽根尾城・鎌原城 030

羽根尾城の登り口の山麓には海野長門守の墓がある。羽根尾氏の旧領の領民が亡骸を運び埋葬したと伝えられる。

滋野一族もまた生き残りをかけた同族争いの例外ではなかった。

場所:群馬県吾妻郡長野原町大字羽根尾城峯山(標高774m 比高差約140m)
攻城日:2009年9月6日
お勧め度:★★★☆☆
行き方:国道145号線の大津交差点を草津方面へ。途中で西吾妻福祉病院入り口で左折。病院駐車場より徒歩10分
※またはJR羽根尾駅北側の宗泉寺脇の「海野長門守の墓」からのルートもある(結構急峻な坂)
見どころ:土塁、堀切、腰郭 ※見晴らしは良くない

Posted on 2010/08/08 Sun. 16:50 [edit]

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