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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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横川関所 ・堂峯番所(安中市松井田町横川)  

◆信濃国と坂東を分け隔てる峠にして古来よりの最大の難所◆

某国営放送局の大河ドラマで草刈正雄が演じる「真田パパ幸」の黒さは限度を超えている・・・・(汗)

「そこまで描いていいのか?」と史実を知る中世城郭ヲタの我々が危惧するぐらいに放送事故寸前の際どさがある。

脚本を手掛けた三谷幸喜なる人物こそ、「表裏比興の者」であろう・・・(笑)

今回ご案内するのは、天正壬午の乱で北条氏政・氏直を見限り、甲斐で北条軍と対峙し窮地に陥っていた徳川家康の調略に応じて徳川に臣従した「真田パパ幸」が北条方の兵站補給路となっていた碓氷峠の封鎖に成功した上野国側の起点の横川。

横川関所 (4)
横川の碓氷関所跡の碑

天正十年十月、徳川方の依田信蕃、真田昌幸は北条方となっていた国衆の調略を行い切り崩しに成功。また、上野から碓氷峠経由で甲斐前線の北条本隊に送られていた荷駄隊を襲いこれを封じた。これにより佐久での足場を失い兵站補給すら不可能となった北条氏直は、圧倒的な大軍を擁しながら徳川家康との和睦に応じるほかなかったのである。

横川関所 (1)
横川関所は元和九年(1623)に江戸幕府により設置されたが、それ以前にも見張小屋が置かれていたのかもしれない。

【碓氷横川関所の立地】

碓氷峠の東麓、坂本宿の東、旧JR信越本線横川駅の西側になり、霧積川と碓氷川が合流する所に接する位置になる。付近は信越本線の廃線に伴い大きく改変されたが、旧街道の県道沿いには、東側に諏訪神社、茶屋本陣があり、街道より一段高い場所に関所跡が残っており、復元された東門から往時の面影が偲ばれる。

碓氷峠の変遷
碓氷峠における交通の変遷(※ウィキペディアの「碓氷峠」の補助資料を引用添付しています)

戦国時代の碓氷峠越えは、最も北側の中山道ルートの旧碓氷峠とほぼ同じだったらしく、江戸時代に整備されたという。

横川関所 (3)
旅人はどんな思いで通行手形を出したのだろうか・・

【碓氷関所の沿革】

東海道箱根関所と並び称される中山道碓氷関所が、現在地に設置されたのは元和九年(1623)でした。横川は碓氷峠山麓の三つの川が合流し、険しい山が迫って狭間となり、関東の境を守る関所要害としては最適の場所でした。

寛永十二年(1635)に参勤交代が行われるようになると、徳川幕府は関所で「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まりました。関所手形を提出させ、鉄砲などの武器が江戸に持ち込まれることや、人質として江戸に住まわせておいた大名の妻子が国元国え元h逃げ帰るのを防いだのです。

しかし十八世紀後半以降になると、街道交通の増大に対応を迫られ、関所改めも緩やかになります。享和三年(1803)以後は「女改め」が簡略化え、ついに徳川幕府が倒れると、新政府は明治二年(1869)二月に関所を廃止しました。

碓氷関所の構えは、中山道を西門(幕府管理)と東門(安中藩管理)で区切り、あいだの五十二間二尺(約95m)を関所内として木柵などで囲い、碓氷峠の登り口に堂峯番所を置いて二重に監視しました。
※碓氷関所保存会の現地説明版より引用

碓氷関所見取図
碓氷関所絵図(現地説明版より引用添付)

天正十八年(1590)、秀吉による小田原征伐が始まると、東山道方面からは前田・上杉・真田を中心とした約35,000の軍勢が碓氷峠を越え、小田原城を目指した。

そんな歴史的背景も思い浮かべながら峠道を歩くのもなかなかいいものですw

【堂峯番所】

復元された横川碓氷関所の東門だけ見ても実感のわかない方は、ここから旧国道18号線を3kmほど北西に辿ると「堂峯番所(遠見番所)」があるので、訪ねることをお勧めします。

横川関所 (10)
坂本宿を過ぎ、旧国道18号線の脇の東屋から中山道を10分ほど歩くと堂峯番所跡がある。

横川関所 (7)

実はこの堂峯番所の東側には武田が築き北条が改修したと伝わる愛宕山城があり、見学予定だったが日没が迫り泣く泣く断念・・(汗)

まあ、お楽しみは欲張らずに残しておきましょう・・・(笑)

横川関所 (8)
堂峯番所の石垣跡。


≪横川関所≫ (よこかわせきしょ)

標高:405m 比高:-
建築年代:元和年間(1615~1623)
管理者:江戸幕府
場所:安中市松井田町横川
訪問日:2016年3月2日 
お勧め度:★☆☆☆☆ 
館跡までの所要時間:- 駐車場:無し 路駐
見どころ:往時の木材を一部使用して復元された東門
注意事項:特になし
参考文献:現地説明板
付近の城址:松井田城、松井田西城など




≪堂峯番所≫ (どうみねばんしょ)

標高:570m 比高:-
建築年代:元和年間(1615~1623)
管理者:江戸幕府
場所:安中市松井田町横川
訪問日:2016年3月2日 
お勧め度:★☆☆☆☆ 
館跡までの所要時間:- 駐車場:無し(東屋の脇に路駐)
見どころ:石積み跡
注意事項:特になし
参考文献:現地説明板
付近の城址:愛宕山城、坂本城、虚空蔵山狼煙台、刎石堀切など





Posted on 2016/03/05 Sat. 09:06 [edit]

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箕輪城 1 (高崎市箕郷町西明屋)  

◆百戦錬磨の「土の城」の最終進化形・・・只今整備中です◆

我が師匠の「あおれんじゃあ」殿も「いつでも行けるからイイや、と思っている城には中々行かない」とおっしゃていた。

そう、小生にとって上野国の名城「箕輪城」は常に素通り。

真田丸に出ちゃったし、武田の郡代も置かれた重要なお城だし、こりゃー行っておかねば笑いものになること必死かと・・(笑)

箕輪城2016(高崎市) (1)
箕輪長野氏時代はこちら側が大手口だったらしい。

後発組のよそ者の小生が「日本百名城」であることすら知らない箕輪城を語るのは恐れ多いので、今回は城歴について何の知識も持たない素人目線で書いてみたいと思う。

【立地】

箕輪城は、群馬県高崎市箕郷町にあり、榛名白川によって削られた河岸段丘に梯郭式に曲輪が配された平山城である。城の西には榛名白川、南には榛名沼があり、両者が天然の堀を形成していた。
その地形は正に要害の地であり、長野氏全盛時代を築いた長野業正は、武田信玄の幾度かの侵攻を防ぎきり難攻不落の名城を誇っていたという。

箕輪城縄張図① 001
高崎市役所の整備箇所が記された秀逸なパンフレット。これさえあれば、余計な能書きは不要だ。

まず驚くのは城域の広大さでろう。城地は東西約500メートル、南北約1,100メートル、面積約47ヘクタールにおよぶ広大なもので、全ての詳細を踏査するには丸一日かけても難しいと思われる。

今回、小生は三時間弱で一回りしたが、時間が許せばもう一度トライして詳細を確認したいというのが本音である・・(汗)

箕輪城2016(高崎市) (7)
北条時代の角馬出の名残りであろうか。

箕輪城2016(高崎市) (15)
搦手馬出と稲荷郭との間の水堀跡(本丸の側)。鉄砲を意識した広い堀。

箕輪城2016(高崎市) (24)
本丸北の御前曲輪(ごぜんくるわ)とは高低差70mの稲荷曲輪(いなりくるわ)

箕輪城2016(高崎市) (30)
稲荷曲輪と新曲輪の間の堀跡。新曲輪(しんくるわ)の中に「丸馬出」が置かれている状況から考えると、新曲輪は北条あるいは徳川(井伊直政)時代の普請と考えられる。

箕輪城2016(高崎市) (32)
箕輪城の最北端の新曲輪。北の守りを強化した事が伺える。

箕輪城2016(高崎市) (46)
うっかり通り過ぎてしまいそうな丸馬出。規模から見ると武田時代の遺構のように思えるがどうであろう。


【長野業正の死】

関東管領である山内上杉氏家に従い、山内上杉家没落しても義理立てし北条氏につくことも無く、武田信玄ですら退けた「孤高の戦士」であり名君の誉れ高き長野業正であったが、永禄四年(1561)に死去。享年71歳だったという。
業正は死去する前、嫡男の業盛を枕元に呼び寄せて、「私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。我が法要は無用。敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。運が尽きたなら潔く討死せよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない」と遺言したという(関八州古戦録)

また、「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と武田信玄が嘆くほど長野業正は信玄をてこずらせたという。

箕輪城2016(高崎市) (55)
稲荷曲輪と本郭の間の巨大な水堀跡。

【その後の箕輪城は?】

まあ、上野国を語るには「黙れ、こわっぱ!!」と上野国衆よりお叱りを受けそうなので、ちゃんと調べてそのうち掲載します・・・(笑)

なので、箕輪城の写真オンパレードでも・・・・

箕輪城2016(高崎市) (64)
井伊時代の石垣。(御前郭の西側の堀底にあり、土留めも兼用していた。

箕輪城2016(高崎市) (75)
この辺の堀の普請は徳川時代であろう。

箕輪城2016(高崎市) (97)
三の丸付近に残る井伊時代の石垣跡。ここに三の丸門があり、西側に下ると大手門(追手門)があった。

箕輪城2016(高崎市) (194)
郭馬出(二の丸の南の出郭)に建設中の二階建て櫓門。無理に再現するのはどうかと老婆心(笑)

箕輪城2016(高崎市) (202)
発掘調査も行われている事を示すトレンチ。(二の丸)


【城跡を隅々まで見たいなら2時間~3時間は必要】

平成23年度から始められた整備事業は平成26年度で終了予定だったらしいが、まだ終わらない・・・(汗)
高崎市が主体となり2億5000万円をかけて整備事業を継続中である。

郭だった平坦地は伐木し、切岸などの傾斜地は間伐することで全体の遺構がハッキリしてきている。
トイレや東屋が本当に城跡の中に必要な施設なのかは疑問に思うが、戦国末期まで使用され江戸時代の最初まで現役だった中世の山城は全国的に見てもそう例が無い。

箕輪城2016(高崎市) (204)
二の丸南側の堀底から見た二の丸と郭馬出を繋ぐ土橋。

城への入口は、「搦め手口」、「榛名口」、「観音様口」、「大手尾根口」、「大堀切口」、「大手虎韜口」、「霊置山口」の七か所がある。その全てを制覇し城の遺構を堪能するには、最低3時間は必要だろう。
弁当持参で来ても後悔しないだけの価値はあると思いますw

箕輪城2016(高崎市) (123)
城域の南端の大手門と丸戸張付近。

箕輪城2016(高崎市) (189)
広大な城域を分断する通称「大堀切」

箕輪城2016(高崎市) (237)
本丸跡の碑

箕輪城2016(高崎市) (251)
広大な本丸は北条時代の普請と拡張によるものだという。

箕輪城2016(高崎市) (275)
本丸の北に隣接する御前郭。

偉大な戦国時代の名将長野業正の後は14歳の業盛が継いだ。箕輪衆を率いて信玄の侵攻を一度は喰い止めたが、永禄九年(1566)に二万の大軍を率いて上野国に侵攻してきた武田軍に攻められて落城。上杉謙信に応援を請うも援軍は現れず9月29日に本丸北側の御前曲輪において父業正の位牌の前で一族郎党自害して果て、長野氏は滅亡。(業盛の享年24歳)

箕輪城2016(高崎市) (260)
御前曲輪に建つ箕輪城将士慰霊碑。

関東管領の謙信さん、国内の反乱分子も鎮圧出来ず、まして武田と北条退治も同時進行ではチョッとキツイか・・・(汗)

それにしても、素晴らしい名城である「箕輪城」

久しく行っていない方、整備がもうすぐ終わるので再訪お勧め。もちろん初回の方も大歓迎!

≪箕輪城≫ (みのわじょう)

標高:280m 比高:60m
築城年代:永正九年?
築城・居住者:長野氏、武田氏、北条氏、井伊氏
場所:高崎市箕郷町
訪問日:2016年2月27日 
お勧め度:★★★★★ (満点) 
城跡までの所要時間:- 駐車場:三ヶ所
見どころ:全て
注意事項:特になし
参考文献:適当
付近の城址:いっぱいあります(笑)

箕輪城2016(高崎市) (213)
長野氏時代の復元予想図なんかもありました。せっかくなのでこの看板もリニューアルして欲しいものですw




















Posted on 2016/03/01 Tue. 07:33 [edit]

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大戸関所跡 (東吾妻吾町大戸)  

◆関所破りは重罪です◆

大河ドラマ「真田丸」では、「真田の郷」と「沼田城」や「岩櫃城」が近いような錯覚に陥るが、実のところ真田氏居館跡のある上田市真田町から岩櫃城のある群馬県吾妻郡東吾妻町郷原までは車で約1時間30分(しかも新しく開通したバイパス経由)、沼田城のある沼田市までなら2時間20分(徒歩なら17時間)。移動時間もさることながら、文明の利器など無い時代の情報伝達なのに、武将や国衆の情報収集が意外と早いのに驚く。

沼田城・名胡桃城 008
沼田城の天主閣の石垣跡。

弱小な地方の国衆に過ぎない真田家が、織田、北条、徳川、上杉などの並み居る戦国大名の大海の荒海を溺れずに生き残れたのは、情報収集の早さとその正確性であり、昌幸の類い稀なる決断のスピードも大きな大きな要因であろう。

CIMG2738.jpg
真田丸効果もあり、例年にない数の観光客が訪れているらしい岩櫃城。

ドラマの中では「シブサワ・コウ」の率いる百戦錬磨の地図部隊が的確な勢力図を提供しているが、ご自身で地図を開いてみるのも大事である。

今回ご案内するのは、上野国における北条との争奪戦で昌幸も重要視したであろう「大戸関所」。関所そのものは江戸時代の設置だが、戦国時代には街道の交わる要所であり、大戸浦野氏が手子丸城(別名:大戸城)を築城し周辺を支配している。

大戸関所跡 (1)

【立地】

大戸地区の温川(ぬるかわ)右岸、見城川が合流する所の交通の要衝に大戸の関所がある。往古は吾妻川沿いの道は吾妻峡の難所があり、これが通れないので、長野原から須賀尾須峠を越えて温川沿いの道が高崎への本道として使われていたために、この大戸の関所が重視された。

大戸関所跡 (2)

【関所の経歴】

現地の説明版には以下の記述が記されている。

大戸関所は信州街道街の要点をおさえる重要な関所で、近世初頭の寛永十八年(1632)に設置された。吾妻~北信濃の三候の廻米や武家商人の荷物、各地の産物の輸送路として、中山道を凌ぐ程の活気を呈したとも云われ、江戸と信濃を結ぶ最短距離距として重要な街道であった。別名信州道、草津道、善光寺道大戸廻りとも呼ばれていた。

大戸関所は、元和九年(1623)五月、将軍秀忠上洛の時に、要害の此の地を守護したのが始まりといわれる。その後寛永七年に幕府目付によって関所見立ての巡検があり翌八年に正式に関所が設けられた。中山道の脇往還で碓氷関所の裏固めの意味を持っている。以後二百三十有余年の間、幕府代官の管理下の下に運営され、明治元年九月に廃止された。

関所は通行手形によって往来の旅人を厳重に取締り、関所破りは重罪として処刑された記録がある。(関所破りとは、関所を避けて山越しなどをした者)通行の門限は「鬨六つ(午前6時)から暮六つ(午後6時)」までと定められていた。また、要害地域を守る関所付きの村として大戸、萩生、本宿の三ヵ村は、関所番人を出し警備に当たったり、関所破りを監視するなどの負担を義務付けられた。近隣の十一ヶ村は関所普請村に充てられていた。

嘉永三年(1850)十二月、関所破りの罪を受け、侠客国定忠治はこの地で処刑された。映画、演劇や講談浪曲等でも知られる處である。

大戸関所跡 (4)
近所の方の駐車場というのはどうなんでしょう・・・・(笑)

大戸関所跡 (5)
どこの関所も似たような作りでございますw

国定忠治という名は聞いた事がありますが、どのような生涯を送った方なのかは存じません・・・(汗)

「赤城の山も今宵限り・・かわいい子分のてめえ達とも離れ離れになる門出だ・・・」(?)というセリフだけは知っております。

関所破りが極刑というのも凄い時代ですネ。


≪大戸関所≫ (おおどせきしょ)

標高:503m 比高:-
建築年代:寛永十八年
管理者:江戸幕府
場所:東吾妻町大字大戸
訪問日:2016年2月21日 
お勧め度:★☆☆☆☆ 
館跡までの所要時間:- 駐車場:無し 路駐
見どころ:特になし
注意事項:特になし
参考文献:現地説明板
付近の城址:手子丸城、仙人窟、羽田城など

大戸関所跡 (6)
大戸関所の東側に聳える手子丸城は、巨大な「一城別郭」で、真田VS北条の最前線であったと伝わる。全て見るなら三時間は覚悟すべし・・(汗)



Posted on 2016/02/24 Wed. 22:33 [edit]

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大笹関所 (吾妻郡嬬恋村)  

◆信州街道における信州口への関門◆

ようやくお盆休みとなった。

山城攻めに「オンシーズン」も「オフシーズン」も無いという豪傑の方々には頭が下がる。

蜘蛛の巣、ホーネットの襲撃、時々落下傘攻撃を仕掛ける蛇、藪蚊の逆襲・・・・そんな思いをして「藪茫々」「草茫々」なんて(笑)

小生は、夏場は「整備された史跡公園」「平地の居館跡」の探索が一番と思っているヘタレでございますw

今回ご案内するのは関所シリーズ第一弾の「大笹関所」(おおざさせきしょ)。

大笹関所跡 (1)

【立地】

長野原町から続く信州街道(長野街道)は、長野県境の鳥居峠を越えて上州街道と名前が変わるが、群馬県側の最終宿場町である大笹宿の東端に位置する。ここは吾妻川へ鹿之籠川(しかのろうがわ)が合流する所で、鹿之籠川が10m余の深い峡谷を造っている所を利用した立地で、信州口への関門である。

大笹関所跡 (6)
昨年移転されて元々あった場所に整備復元されている。

【関所の歴史と現在】

江戸時代、中山道高崎宿から、烏川沿いに遡って吾妻郡に入り、浅間山北麓を通って鳥居峠を越えて須坂方面(別名:大笹街道)、または上田方面に通じる街道を信州街道といった。信州街道は関東と北信濃を結ぶ重要な街道で、各所に関所が設けられた。大笹関所はその一つで、寛文二年(1662)幕府から許可され、沼田藩主真田伊賀守により建設された。
その後天和元年(1681)沼田藩は改易、明治の廃関まで幕府の所轄となる。

大笹関所跡 (3)
鹿之籠川に架かる刎橋(はねばし)は有事の際には切落とす仕掛けだったという。(図面は現地説明板を掲載)

大笹関所は、一反五畝八歩(約450坪)とされ、中央に白洲を、それに向かって改所(取調所)など設置され、周囲は土塀や木柵で限られ、それぞれに北門(正門)、東門が設けられた。
現在再現された門は、昭和三十一年、廃関後土屋源三郎氏の先祖が払下げ所蔵していたものを別の所に復元していたが、御関所橋の架け替え工事に伴い現地に移転・再現したものである。
※現地説明板より

大笹関所跡 (9)
正門だけじゃ淋しいですね。

≪大笹関所≫ (おおざさせきしょ) 
標高:945m 比高:-
場所:群馬県吾妻郡嬬恋村大笹
訪問日:2015年7月12日
お勧め度:★☆☆☆☆ 
城跡までの所要時間:-
駐車場有り
見どころ:門
参考文献:「信濃をめぐる境目の山城と館」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版) 
注意事項:道路脇なので通過して「あれっ?」と思ったら引き返そう。
付近の城跡:鎌原城、金毘羅山砦、西窪城など

【沼田真田藩改易後の家臣達の再就職として】

天和元年(1681)に沼田藩が改易されると、沼田真田家の家老鎌原縫殿(五千五百石余)は一転して二十俵二人扶持の大笹関所番となり、代々伝えて明治に至り現在も子孫が続いているという。
他に西窪氏、湯本氏、横谷氏等の家臣も交代で大笹関所番を務めたという。

藩主真田伊賀守信利の暴走を止められなかった家臣たちの支払った代償は高いものとなった訳で・・・・(汗)

大笹関所跡 (10)




Posted on 2015/08/13 Thu. 09:46 [edit]

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潜龍院館 (吾妻郡東吾妻町郷原)  

◆真田昌幸の描いた壮大な夢の跡◆

「いきなり群馬へ飛ぶの? んで、潜龍院館(せんりゅういんやかた)って何処さ? 上野に飛ぶほどの価値があるの?」

お叱りはご尤もである・・・(笑)

7月10日に某国営放送の大河ドラマ「真田丸」のキャストが発表され、武田勝頼(配役:平岳大)も登場するのでひょっとしてこの場所も出るかもしれないので12日にちょっと遊びに行って来たと言う訳。
※俳優の平岳大(ひらたけひろ)さんは、各方面でご活躍だが、映画「のぼうの城」の長束正家役といえばおわかりだろう。

潜龍院跡 (2)
国道145号線や居館までの通路には六文銭の幟が林立しているので驚いた。

「信濃をめぐる境目の山城と館」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)では古屋館(こややかた)として掲載されているが、地元では「潜龍院跡」(せんりゅういんあと)と呼ばれている。場所は武田の三堅城のひとつ岩櫃城の西側で岩櫃山(803m)の南300mにある。

実はこの場所、小生も噂には聞いていたが、普段お世話になっている「武蔵の五遁、あっちへこっちへ」の記事で初めて見て行く気になったのだ。

潜龍院跡 (3)
古屋集落から見た岩櫃山。手軽に登れる山らしいのですが、午前中に似たような近くの嵩山城を攻めたので遠慮します(汗)

真田丸の予習として訪問希望の方もいらっしゃるかと思いますので以下にざっくりと行き方を書いておきます。

【行き方】

国道145号線からJR吾妻線「郷原駅」の東側の交差点(岩櫃山登山口の看板有り)を北へ入る。(駅の西側のT字路は狭いので軽自動車以外は不可) 突き当りを左に進み酒屋と最初の写真の幟のあるY字路を右へ登る。(潜龍院跡への標柱もあり)
約500mで古屋集会所があり無料駐車場がある。そこに車を止めて歩いて10分。※軽自動車なら居館跡まで入れるが住民の生活道路なので避けるべし。

潜龍院跡 (6)
駐車場から歩いて突き当りに案内板。ここを右へ。

潜龍院跡 (7)
案内板に沿って進めば大丈夫。

潜龍院跡 (10)
薄暗い山道の先に目を疑うような広い台地が広がります。


【立地】

岩櫃山の大岩峰を背後に背負う吾妻川の左岸の河から120mの高い位置に信じられないような広大な平坦地がある。郷原地区古屋集落の背後になり、集落から赤岩通りの道がある。ここから山腹を東に辿れば岩櫃城に通じ、往古は連絡路があったものと思われる。

潜龍院跡 (11)
岩櫃山登山道の「赤岩通り」の登り口の東側が潜龍院跡。石垣の痕跡が残り説明板がある。

潜龍院跡 (46)
幟旗が「これでもか!」と林立している場所が潜龍院跡である。

古屋館見取図①

【城主・城歴】

天正十年(1582)三月、甲斐の武田勝頼は織田・徳川の連合軍に攻められ存亡の危機に瀕していた。上原城での軍議の席上、真田昌幸は武田領の三堅城の一つである岩櫃城に勝頼を迎え入れ武田家の再挙を図る事を提案して許された。
2月28日の早朝に昌幸は諏訪をたってその日のうちに岩櫃に到着。直ちに浦野大戸、鎌原、植栗、湯本、池田等の諸士を集め、日夜工事を急いだので3日には、岩櫃城の搦め手の古谷に御座敷付書院が出来上がった。

ところが、甲州からの注進で勝頼は小山田の策を入れて郡内の岩殿城へ向かったとの報告があった。昌幸は驚いて兵2500騎を率いてその夜のうちに上田に着陣したが、勝頼は天目山で自刃してしまい献策は叶う事無く終わった。

その後この地は昌幸の一族の祢津潜龍斎昌月に払い下げられ、昌月はこの御殿跡に山伏寺として潜龍院を建立した。この寺は天和二年(1616)び炎上したが再建される。明治に入り潜龍院は廃寺となるが、護摩堂は原町顕徳寺に移されたという。

潜龍院跡 (18)
潜龍院跡の南側の広大な削平地。

潜龍院跡 (17)
往時のものかは判別が難しいが、敷地の南側には土塁痕が認められる。

潜龍院跡 (25)
櫓台を彷彿とさせる土塁。

【館跡】

東西400mにも及ぶ広大な平坦地の北側山寄りに高さ2mの石垣が残っている。ここが潜龍院の跡地で、ここに勝頼を迎える為の御殿が突貫工事で進められ建てられたという。
岩櫃城へ東へ約1kmの位置にあり、古谷集落からの登路には巨岩が城門のように立ち並び正に天然の要害城である。

付近は耕作されて、細部は伺い知るべきも無いが、未完成に終わった館跡として最近石垣が補修されている。

潜龍院跡 (24)
東側から見た潜龍院。

潜龍院跡 (19)
こんな山塊にこのよな広大な土地があるとは驚きである。

歴史に「IF」」は無い。

がしかし、武田勝頼が真田昌幸の献策を聴きいれて上野国にて武田家の再挙を図ったとしたらどうであろうか。

武田家家中からは小信玄と呼ばれ、信玄からも「我が目である」と賞された昌幸率いる武田軍VS織田徳川連合の上野国の戦いは想像以上に壮絶な戦いになったと思われる。

まあ、そんな夢物語を語っても仕方の無い事はじゅうじゅう承知なのだが・・・(汗)

潜龍院跡 (22)
石垣跡に昌幸の野望を感じる・・・(笑)

潜龍院跡 (23)
天下争乱の地が上野国になっていたかもしれない・・・という妄想が頭をよぎる「隠れた秘密基地」である。

武田家滅亡の原因を作った当事者として、小山田信茂の裏切りに対する批判は今も辛辣であるが、事実はどうであろうか。

岩殿城に勝頼を郡内に招致することで、小山田領の領民は間違いなく戦禍に巻き込まれ多大な犠牲を強いられる。
小山田氏は直前になって「良き領主でありたい」という思いに負けたのかもしれない。

一方で昌幸の思いも複雑であったと推察される。武田家の外様では終われないという決意がそこにあるものの、坂道を転がり出した今の武田では勝算を見いだせない苦悩もそこにあったと思われる・・。

潜龍院跡 (36)
潜龍院跡の内部。

一説には勝頼が岩櫃城への退避を寸前で翻した理由として、「お坊ちゃま育ち」の勝頼が岩櫃での不便な山城暮らしに不安を抱き小山田信繁直前での進言を採り入れた」といわれるが、果たしてそうであろうか?

最期まで武田氏発祥の地で本国である甲斐を維持したかった・・・それだけのような気がする。

武田フリーク、真田フリークには是非とも訪れて頂きたい「夢の跡」には違いない・・・


≪古谷館≫ (ふるややかた 潜龍院館 郷原城) 
標高:515m 比高:120m (国道より) 
築城年代:天正十年(1582)
築城・居住者:真田昌幸
場所:群馬県東吾妻町郷原
攻城日:2015年7月12日
お勧め度:★★★☆☆ 
城跡までの所要時間:10分 (古谷集会所より)
駐車場:古谷集会所駐車場
見どころ:石積みなど
参考文献:「信濃をめぐる境目の山城と館」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版) 
注意事項:特に無し
付近の城跡:岩櫃城、岩下城、三島根小屋城など

潜龍院跡 (44)
近年稀に見る「自画自賛のベストショット」である・・・(笑)











Posted on 2015/08/09 Sun. 22:14 [edit]

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