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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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鷹の巣出丸 (群馬県安中市板鼻)  

◆背丈を越えて荒れ狂う大藪に突入を断念した砦跡◆

日本で最高地点にある楡沢城の藪漕ぎで心が折れ進退窮まる経験をした小生なので、大抵の藪には動じないが、グンマー帝国の山城に蔓延る藪や竹林は格が違うというか、そこまで原野に戻してよいものかと思うくらい異次元である・・・(汗)

なので、今回ご案内する鷹の巣出丸は途中で撤退するのでご容赦願いたい・・・(笑)

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県道171号線の脇から鷹巣神社への参道を意気揚々と登るのだが・・。

【立地】

碓氷川の左岸の崖状の鷹ノ山と呼ばれる山頂にあり、蟹沢を挟んだ対岸には板鼻城が目と鼻の先にある。嘗ては鷹巣神社の社殿が山頂に勧進されていたようだが、現在は朽ち果てて何もなく入口の古い門だけが残っている。

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参道を登った先には小屋掛け出来そうな平場がある。

【城主・城歴】

その名の示す通り、対岸の板鼻城の出丸で碓氷川に衝立のように聳える要害の地である。鷹巣神社が朽ちてしまったためか、入口の門のところ(上杉家の墓地)に石祠と神社の石碑が建てられている。痩せ尾根で駐留出来る人数も限られるため、板鼻城の物見か烽火台として機能していたと思われる。

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一段上の水源池も郭跡のようである。

【城跡】

県道脇の取り付け道路を歩いて登った先には水源池や墓地を含めて三段の削平地がある。ここに小屋掛けして交代で兵士が寝泊まりしていたか、休息していたと思われる。墓地には古い門が建ち、ここから山頂の郭に向けて通路があったようだが、大藪に阻まれて立ち入る事さえ不可能なほど荒れ果てて原野に戻りつつある。
宮坂武男氏の10年前の調査によれば、神社跡の石垣の囲いは頂部まで数段あるものの砦としての遺構は不明で堀切などは見当たらなかったと記述している。

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「何で墓地に神社の石祠があるの?そしてその背後の門は何なのさ?」

意気揚々とここまで登ってきたので、この門の先を登れば砦の中心に行けるものと信じてやまなかった・・・・・

そして、その門の先へはどう考えても進めないという絶望感を味わうのであった・・・・(笑)

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門を塞ぐように立ち憚る大藪。この先に痩せ尾根沿いに神社本殿に続く道があったのだ。

鉄塔側から北へ迂回して入れないものかとトライするが、グンマー帝国の大藪の前に無力さを痛感するのみであった。

「撤収!!」  こうして鷹の巣出丸の探訪は終了したのであった・・・・・(汗)

≪鷹の巣出丸≫ (たかのすでまる)

標高:174.4mm 比高:51m(碓氷川より) 
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:群馬県安中市板鼻
攻城日:2018年11月3日
お勧め度:- (興味があれば)
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し(邪魔にならないように路駐)
見どころ:-
付近の城跡:板鼻城、安中城、板鼻古城など
注意事項:藪に立ち向かう道具と勇気があっても止めましょう(笑)
参考書籍:「信濃をめぐる境目の山城と館・上野編」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)

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碓氷川の直下から出丸の頂部を見る。さすがにこの壁は登れませんネ。


「S」は登り口。鷹巣神社まで道があるように描かれているが到達は現時点では到達不可能。

Posted on 2019/01/08 Tue. 21:26 [edit]

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板鼻城 (鷹巣城 群馬県安中市板鼻)  

◆武田によって築かれた箕輪城攻略後の兵站補給基地か?◆

グンマー帝国の城砦群はとても魅力的なのだが、如何せん藪や竹林に覆われて踏み入る事すら敵わない場所が多く難儀する。

信濃の山城のように晩秋~冬~春先にかけてスッキリ遺構が見えるなら良いのだが、年中あまり変わり映えしない・・(汗)

今回ご案内するのは、主郭の周辺以外が全山藪に埋もれてしまって、まともに観察できない板鼻城。

板鼻城 (1)
以前は耕作地だったようだが、城址は一部住宅地となるも荒れ放題の藪ボーボー状態。

【立地】 ※「信濃をめぐる境目の山城と館 上野編」(宮坂武男著 戎光祥出版) P228より引用

碓氷川の左岸、天神山から南東へ延びる丘陵の先端部の台地上に位置する。板鼻城の南西には蟹沢川を挟んで、碓氷川との間に鷹ノ山があり、ここに鷹の巣出丸があり、北西には板鼻古城が隣接し、東には小丸田曲輪が続き要害地域を形成している。

板鼻城 (2)
ここは幅約10mの堀跡なのだが、とてもここに飛び込む勇気などある訳ない・・・(汗)

【城主・城歴】

宮坂武男氏の調査記述によれば、長野業政が女婿の後閑城主依田光慶に懇望して築城させ天文七年に光慶自身が板鼻に移ったという伝承は疑問視されているという。「上州古城累記」には長野業政と武田信玄が板鼻で三度合戦を行うがこの時には塁(城)は無かったとして、箕輪城落城後に西上州が手に入った時に武田軍が築城し、信玄の家臣の依田六郎が入城したのではないかとして、この説が有力だという。

板鼻城 (5)
郭2は現在も耕作地となっているので往時の面影が残る。

天正十八年(1590)の小田原の役の時には、北条支配の板鼻城は上杉景勝軍に攻められて落城、その後廃城となった。
慶長年間になると、安房国の戦国大名里見忠義の子の里見讃岐守忠重が上野板鼻藩1万石を与えられて小丸田曲輪に陣屋を建てたというが、慶長十八年に改易されたという。

板鼻城 (6)
堀を介して隣接する郭3は調査不可能なほど大藪に覆われている。

【城跡】

丘陵の最上部(三角点及び鉄塔付近)の住宅及び周辺が主郭で周囲が堀により区画されているのが観察できる。主郭の西隣は堀切を介して果樹園と畑になっているのが郭2で、それ以外の郭は藪に覆われてしまい調査不能である。宮坂武男氏の縄張図によれば丘陵全体を堀切で区画し大きく六つの郭があるらしいが、徹底的に藪を駆り払わない限り全容を見るのは無理であろう。

板鼻城 (7)
堀形、主郭の切岸が唯一観察できる場所。

板鼻城 (10)
現在民家となっている主郭には土塁が残っているようだ。

【小丸田曲輪】

城域の東端には独立したような形で小丸田曲輪があり現在跡地は老人福祉センターと児童公園として利用されている。
陣屋だけなら、見晴らしも良いし比高も高くないので絶好の立地でsる。

板鼻城 (18)
現在は老人福祉センターの建つ小丸田曲輪。

板鼻城 (16)
小丸田曲輪からの風景。端に鷹の巣出丸がかすかに見える。

要害の地ではあるが、戦闘用の城というよりは地域経営の拠点としての城及び上野攻略の兵站補給地として機能したと思われる。

≪板鼻城≫ (いたはなじょう 鷹ノ巣城)

標高:169m 比高:50m 
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:群馬県安中市板鼻
攻城日:2018年11月3日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し(邪魔にならないように路駐、或いは老人福祉センター借用)
見どころ:土塁、堀切など
付近の城跡:鷹の巣出丸、安中城、板鼻古城など
注意事項:特に無いが、ガレ山なので足元や頭上に注意
参考書籍:「信濃をめぐる境目の山城と館・上野編」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)

板鼻城 (1)
国土地理院にもデカく載っていたので少し期待したが、見事に裏切られました・・・(笑)

Posted on 2019/01/05 Sat. 11:33 [edit]

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平井城 (群馬県藤岡市東平井)  

◆関東管領山内上杉氏の居城◆

最近は碓氷バイパス経由で群馬の山城を適当に巡って、内山トンネル経由で佐久を通って帰還するルートを多用している。

今回掲載した平井城は、関東管領の居城として有名なので小生が記事にするまでもないのだが、たまたま通ったら看板があってそこが平井城だったというだけの事です・・・(笑)

平井城 (33)
これだけ旗指物が林立していれば、チョッと寄ってみようかって気になりますよネ。

平井城 (9)
史跡公園として整備されていて、解説版も読み易いので有難い。

【城主・城歴】

平井城は永享十年(1438)に永享の乱に際し、時の関東管領上杉憲実が、総社の長尾忠房に命じて築城したとされる説と、応永元年(1467)に上杉顕定が築城したとされる説がある。いずれにしても、天文二十一年(1552)の後北条氏の平井城攻めで落城するまでの約百年間、関東管領山内上杉氏の居城としての役割を果たしていたという。

【城の縄張り】

城の構造は、「庚申堀」と称される堀をめぐらし西平井の村落を取り込んだ「総構え(そうがまえ)」と呼ばれる構造で、城域の南端部の鮎川左岸の切り立った崖の上に、土塁及び堀により区画された通称「本丸」(主郭)があり、その西側に通称「二の丸」「笹曲輪」(副郭)などが配されている。
なお、平井城の背後には有事の際の要害城である金山城を「詰めの城」として配置し、周辺は帰属する国人や配下の部将が築いた、御嶽城、東日野金井城、一郷山城、東平井の砦、飛石(とんびいし)の砦など多くの城や砦により守られていた。

平井城 (7)
現地解説図より引用転載。

平井城 (2)主郭から見た残存する土塁。後方には詰め城の金山城が見える。

平井城 (3)
駐車場の生垣に土塁跡の標柱があってもピンとこないのは何故?

平井城 (8)
んーん、この地図を見ても往時の遺構が蘇らない不自然さは何故なんでしょうか・・・(汗)

平井城の第一期の整備事業は平成9年にほぼ完成し、発掘調査で判明した土塁や堀などが一部復元されたようです。それが現在の史跡公園の姿ですが、第二期計画は方形居館(正確には変則五角形の居館)と周囲の堀を復元する予定となっているようです。
現実としては、城跡の中心部を所有している地権者がこの土地で生計を立てているので、残念ながら実現はまだまだ先の話になるでしょうね。それでも、第一期整備事業に際して地権者がかなり協力したものと思われるので、とてもありがたい事です。

平井城 見取図①
白い部分は個人の所有地なので立入禁止。無理に復元し公園化する必要があったのかは疑問が残る。

グンマー帝国の城を語るには、どうも関東管領さんを避けては通れないらしい・・・(汗) 坂東武者もしかりかと・・・(笑)

平井城 (1)
まあ、確かに関東管領の居城としては、せめて本郭とその周辺が復元できれば実感出来そうですが・・・。

平井城 (16)
本丸南側には色々と並ぶ。関東管領の名と権力に執着した謙信公。この城址に執着したというのは本当だろうか・・・。

平井城 (21)
復原された堀と橋は少し離れた場所にある。

平井城 (32)
往時の遺構だと思い込んでいたが、復元された土塁だったんですねえ。

平井城 (30)
土塁の上部。今回の最初の目的地だった高山城が遠く見える。

グンマーは広いのだが、関東管領さんの居城は何故ここだったのか・・・謎は尽き無い・・・・(笑)


≪平井城≫ (ひらいじょう)

標高:144m 比高:-
築城時期:永享十年(1438)または応永元年(1552)
築城・居住者:関東管領山内上杉氏
場所:群馬県藤岡市東平井
攻城日:2018年12月1日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り
見どころ:土塁、堀切
付近の城跡:藤岡城、平井金山城、高山城など
注意事項:隣接する養豚場には入らない事。
参考文献:現地説明板

平井城 (28)
土塁の上から見た本郭内部。

Posted on 2018/12/23 Sun. 22:22 [edit]

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藤岡城 (芦田城 藤岡市藤岡)  

◆初代藤岡藩主にして最後の藤岡藩主「松平康真」の居城◆

「この人、いったい誰?」 「徳川の譜代大名?」 

本人もかなり数奇な人生を歩んだのだが、康真の父は「依田信蕃(よだのぶしげ)」という信濃国佐久の国衆で、天正壬午の乱(1582)で徳川家康の配下の部将として信濃侵略を目論む北条方と戦い、佐久平定に大きな功績を残した人物とされている。

藤岡城 (2)
藤岡第一小学校の北側に残る藤岡城(芦田城)の巨大な土塁跡。


【松平康真】 (まつだいらやすざね) ※別名:加藤康寛(やすひろ) 加藤宗月(草月) 天正二年~承応二年

松平康真は兄康国と共に武田・織田等の人質となり流浪し、父の依田信蕃が徳川家康の配下となるとその身は徳川家に預けられる事になった。天正十四年四月に家康自ら康真の髪を整え、諱字・松平の称号・腰物・髭道具等を下賜して元服させたと「諸士先祖之記」「寛政重修諸家請」の記述にある。

天正十八年、康真は兄康国と共に小田原攻めに参戦している。この戦いの陣中で兄康国が殺害され、康真自身も負傷しつつも兄の仇を討ったことを家康に報告したところ、家康の命によりその跡目(小諸城主六万石)を継承することになった。
その後も康真は徳川家家臣として、家康の関東移封に伴い、拠点を信濃国小諸城から上野国藤岡城に移し、三万石を拝領、天下普請命じられる等、城持ち大名としての地位を着実に築きつつあった。

藤岡城 (1)
学校に隣接する史跡としては珍しく緑地公園として一般開放されているが、史跡の説明板などは何もない。

しかし、慶長五年城に(1600)正月、康真は大坂で小栗某という家康配下の者を口論の末に殺害するという刃傷事件を起こしてしまう。高野山に出奔し蟄居したとされるが、改易されて徳川配下の大名としての地位は失われた。

しかし同年、康真は姓名を加藤康寛と改め、徳川家康次男の結城秀康に仕える事になる。「諸士先祖之記」によれば、この時秀康は家康の命で上杉景勝と対陣しており、下野国宇都宮において康真を召し出したという。
慶長十二年、結城秀康の逝去により剃髪して名を宗月と改め、承応二年、その数奇な人生の幕を閉じる。享年八十才であった。

福井松平藩内での家格は、筆頭家老本多家(本多富正を祖とする家)に次ぐ十六家を示す上位の「高知席」(家老五人と家老次席の城代一人を選出する家柄)であった。

藤岡城 (3)
土塁の上の遊歩道。前橋城もこんな頑丈な「叩き土塁」だったよなあー。

【康真が編纂した依田家の由緒書き「依田記」が検証不十分なまま信憑性の高い史料として存在する危うさ】

実は小生も「依田記」を元に記載されたと思われる「依田信蕃ーもうひとつの真田」(市河武治著 郷土出版社 1988年)を読み、いたく感動して佐久地方の春日城、芦田城、岩尾城、田口城、前山城はもとより、彼の勝頼時代の田中城、二俣城まで遠征して彼の足取りを辿った次第である。

「長野県史」や「佐久史誌」ですら、基本的に依田信蕃の父は下野守信守とし、武田氏滅亡後、「佐久の統一をすすめたのは依田信蕃である」とい歴史像を描きだしてきた。しかし信蕃の父信守が真田氏に次ぐ信濃国衆であった」ことや「天正二年頃から佐久全域に及ぶ領主層の盟主的立場にあった」事を裏付けする史料はなにも存在していないという7年前の史料批判を先日読み、茫然自失の日々を過ごしています。
※依田信蕃の隠れファンは意外と多いと思われます。小生もその過去記事でかなり熱い記事を書いてしまいどうしたものかと・・。

藤岡城 (5)
井元たい女史の顕彰記念碑と立像。彼女の芦田城の寄付行為には賛否両論あるが、遺構が残ったのは不幸中の幸いである。


【信濃佐久平定のヒーロー依田信蕃は虚像なのか?】

天正壬午の乱が勃発した時に、佐久地方で徳川方に味方した在地土豪は平尾城の平尾氏、耳取城の大井氏、森山城の森山氏、そして春日城(芦田城)の依田氏などのごく少数で、有力な在地土豪の前山城の伴野氏、相木城の相木氏(阿江木氏)、岩尾城の大井氏、与良城の与良氏、平原城の平原氏など多くの地侍は北条方として徳川軍に抵抗していたという。

従って、佐久仕置の主力は徳川軍が大久保忠世・菅沼定利・柴田康忠を派兵し自力で軍事行動に出ざるをえなかったという。
徳川軍が佐久方面で苦戦するに及び家康は天正十年七月、依田信蕃に対して与力を付けた上で更に「諏方・佐久両郡事」を宛がうとして同姓依田一門や親類を家臣化し望み通りの給恩地も宛てがうと約束している。
裏返せば依田信蕃らの佐久国衆は組織化がかなり遅れていたというのが実情のようである。
前山城の攻防戦も依田信蕃の指揮ではなく、柴田康忠の指揮下であり、この時に一族同門の庶流依田信守は家康より感状を賜っている。

これは北条方についていた真田昌幸の寝返り工作においても「諏方郡を宛がう」と家康は約束している。(この空手形がのちに災いになるとは家康も想定していなかったようだが・・・)
最終的には真田と北条の手切れにより北条VS徳川の天正壬午の乱は終息にむかうのだが、岩尾城の攻防戦で信繁は弟の信幸とともに戦死してしまう。

藤岡城 (8)
藤岡城は方形居館の周囲に二重堀を巡らせ南には馬出(枡形虎口)を備えていたと伝わる。

佐久平定がほぼ終わり岩尾城の無理攻めによって依田信蕃・信幸兄弟が鉄炮により戦死したと依田記には書かれているが、「家忠日記」の天正十一年二月二十日条には柴田康忠が甲州の軍勢を率いて佐久郡に軍を発し小諸・岩尾両城を攻撃したとある。
「廿二日 依田信蕃、其弟依田伊賀守信幸、善九郎信春・・・岩尾ノ城ヲ抜カント広言ヲ吐テ・・・・依田兄弟三人各矢ニ中テ死ス」とある。徳川家忠の武家日記では、信蕃・信幸・信春の三兄弟が鉄炮ではなく、矢で死去したとする。史実は同時代史料の信憑性によるべきとすれば、依田記は史実をかなり脚色しているようである。

三兄弟戦死で依田家存続の危機に陥ったとき、家康は人質の総領竹福を松平康国として家督を継がせた。このとき、依田肥前守信守(依田家庶流)は合計四十九騎を同心として康国に預けて家臣に組み込まれた。彼には継子がいなかった為に、故信幸の二男信政が跡を継いで依田源三と称した。(藤岡藩改易後は籏本となりお家存続)

まあ「依田記」では、依田家創業者の信蕃については家の由緒を語る為にかなり誇張や過大評価があり、佐久統一が依田信蕃によるものという旧来の評価は再検討が必要だろうし、徳川軍の軍事行動における信蕃の役割についても再評価が待たれる。

松平康国以降の事績についての「依田記」は正確に記載され依田家資料の裏付けもなされているという。

藤岡城 (10)
土塁の北西のR部分。ここに「芦田城」の銘板が確認出来る。

結局のところ何を言いたいのか支離滅裂な文章の構成になってしまったが、裏付けの史料を欠く由緒書きや家系図、伝記は話半分程度の理解に留めておく、というのが今回の結論である。

もっとも、戦国時代の武将の生涯など、都合のいいように誇大誇張され尾ひれはひれ付いているので、そいつの人生を知っているのはそいつだけという事になる・・・(笑)
真田氏だって幸隆の先代は現時点では不明と言わざるを得ないのは暗黙の了解事項だし・・・(汗)

≪藤岡城≫ (ふじおかじょう 別名:芦田城)

標高:95.2m 比高:-
築城時期:天正十八年(1590)
築城・居住者:松平康真
場所:藤岡市藤岡
攻城日:2018年12月1日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:藤岡第一小学校を借用
見どころ:土塁
付近の城跡:平井城、平井金山城、高山城など
注意事項:特に無いが、小学校なのでプライバシーに留意
参考書籍「平成23年度 長野県立歴史館 春季展 武士の家宝~かたりつがれた御家の由緒~」図録寄港P34「徳川家康と依田信繁・康国-佐久郡の戦国・織豊期について-」(井原今朝男著)より一部引用。

藤岡城 (11)

大道寺政繁を相手に依田信蕃が勝利したという「芦田小屋の戦」の三沢小屋は未訪問なのだが、今回の件で気持ちが萎えてしまった。家康から金子四百両と援軍千人を派遣されているなら、ゲリラ戦というのも怪しい・・・なんもかんも怪しい・・(笑)


Posted on 2018/12/08 Sat. 20:49 [edit]

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大明神山の砦 (高崎市倉渕町)  

◆VS北条の最前線に新たに築城された技巧的な監視砦◆

10月20日から山城シーズンのオープン戦として群馬県富岡市周辺の山城群を踏査したのだが、最後に攻め込んだ宇田城でチャドクガの幼虫群(毛虫)の衣類を貫通する猛毒毛のステルス攻撃に晒され腹部周辺が被弾、皮膚科で全治二週間の診断となった・・・(汗)

今回ご案内するのは、そんな一筋縄ではいかないグンマ帝国で「Powerd by 真田昌幸」と伝わる対北条軍向けの小さな要塞である。

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登り口は麓にある浅間神社なので迷う事はない。


【立地】

烏川の右岸、浅間神社の裏山の大岩壁の上に造られている。浅間神社の裏側より遊歩道があり、岩山の間を縫うように10分ほど登ると虎口がありそこから堀底道に入り、砦の中心まで遊歩道が整備されている。
チョッとやり過ぎの感はあるが、遺構を大きく改変してはいないので許容範囲かと・・・(笑)

大明神山の砦見取図①
小さいながら洗練されたそのフォルム(縄張)は一切の無駄がない。

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堀切㋑に入る部分は虎口となっている。

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かなり埋まってはいる堀切㋑。掻き上げた土で土塁を作りかさ上げしているのが分かる。

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西側の斜面に竪堀となる堀切㋑。

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堀切㋒。上巾8mぐらいか。

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南尾根の最終堀切㋓。この先は尾根伝いに登ると平場になる。城の搦め手と推定される。


【城主・城歴】

この城についての史料・伝承は不明。立地や縄張から戦国末期の姿を残していることから、この地域が緊張状態にあった天正十年頃、北条氏が吾妻侵入を進めたのに対して真田昌幸が気空いたのではないか、と推定されている。
天正十年、北条氏政は厩橋城に着陣し、岩櫃城攻めを始めるが、真田方の城代矢沢頼綱が諸将を要所へ配備してこれに備えている。大戸口へ続く権田・川浦は最も侵入になり易い地であるために大いに強化されたと思われる。

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削平された場所は郭2。三日月堀のような形状の堀切㋑に対して馬出のように張り出している。

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堀切㋐。郭1への切岸はかなり厳しい傾斜であることが分かる。

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主郭に通じる遊歩道。往時は縄梯子で出入りしたものと推定される。

【城跡】

主郭は山頂にあり、周囲にところどころ土塁が残るが全周せず東側には見当たらない。北から東方面の斜面は岩崖に囲まれていいるのでその必要はなかったようだ。
一段下は横堀㋐が取り巻き、郭2が横堀㋑に突き出る形となり、武田氏の三日月掘と馬出によく似た防御ラインを構成している。
このあたりの巧みな縄張は真田昌幸が武田流を引き継いでいるようにも思えるがどうであろうか。

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北側から見た主郭。

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主郭から烏川を挟んだ対岸の権田城を臨む。北条の侵入に備えた立地であることがよく分かる。

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主郭の北側は数段の段郭が残る。

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横堀㋐の北側の処理。かなり曖昧になっている。

力で押し寄せる北条軍にはゲリラ戦で対抗するのが効果的だということは、信州における依田信蕃との共同戦線で実証済みの昌幸である。敵の動きをいち早く察知し、先手を打つためにはこのような砦をいくつも臨時に築き出鼻を挫く作戦が功を奏したのであろう。

お手軽に登れて、made in Sanada の技巧がしっかりと味わえるお勧めの砦である。


≪大明神山の砦≫ (だいみょうじんやまのとりで 駒形砦)

標高:570m 比高:90m 
築城時期:戦国末期
築城・居住者:真田氏
場所:高崎市倉渕町川浦
攻城日:2017年12月23日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:10分 駐車場:浅間神社の駐車場
見どころ:土塁、二重横堀など
付近の城跡:木戸沢番所、刀工権田屋敷、権田城、天狗山の砦、観音山小栗邸址など
注意事項:特に無いが、ガレ山なので足元や頭上に注意
参考書籍:「境目の山城と館・上野編」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)



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Posted on 2018/11/02 Fri. 21:26 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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