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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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前橋城 (群馬県前橋市大手町)  

◆「辿り着いたらいつも雨降り」第二弾◆

「そうだ、後閑城へ行こう!!」

8月16日、お盆のUターンラッシュの事など気にもせず高速道路に乗って安中榛名ICへ向かった。

下調べなどせず、アウェーの群馬県に鉄砲玉のように飛び出したが、それはそれで結構楽しかった。余計な前知識を入れずに純粋に城跡を隅々まで見て歩くことは、想像力と妄想力の鍛錬になるのだ。(まあ、場所だけは事前に調べないと・・)

今回ご案内するのは、前回の高崎城と同様に仕方なくオマケで訪問した前橋城。
近世城郭は大嫌いだが、幕末に不死鳥の如く甦った廃城というストーリーを聞けば、どーしても見たくなった・・(笑)

前橋城(群馬県) (1)
前橋公園の西側に残る高土塁。

【立地】

越後山脈を源流とする日本最大の流域面積を誇る利根川が、渋川で吾妻川と合流した10km先の平野部の河岸沿いにあり、榛名山の北麓の沼田経由で三国峠を越えて越後へ、榛名山の南麓を西へ進めば箕輪城の監視に晒され碓氷峠を越えて信濃に通じる交通の要衝で、関東方面への入口を抑える重要な場所でもある。

前橋城(群馬県) (2)
城域の西側は親水ステージの公園になっているが、元々は利根川が外堀として流れていたと云う。(遠方の建物はグリーンドーム前橋)

【中世時代の城主・城歴】

前橋城の前身は厩橋城(うまやばしじょう⇒まやばしじょうへ変化?)で、15世紀末に固山宗賢(こざんそうけん)が築城したと伝わるが、笠間明玄や太田道灌という説もあり、ハッキリしていない。
永禄三年(1560)、上杉謙信が小田原の北条氏を攻め厩橋城を奪取。箕輪城の支城として長野賢忠を城代とし、厩橋城にて越年。永禄六年(1563)には、謙信の配下であった北条高広(きたじょうたかひろ)が城代に任命され、関東方面の軍事・行政を一任される。がしかし、この男、謙信も認めたその才覚ゆえにあっちゃこっちゃ策を練り過ぎて最終的には自爆する・・(汗)その辺のお話は、また今度・・(笑)

前橋城(群馬県) (4)
本丸跡に建つ偉そうな県庁(笑)。土塁の外側は水堀址だろうか。

その後紆余曲折を経て甲州征伐で武田氏が滅亡すると、織田信長の家臣である滝川一益が上野国を与えられ厩橋城に入るも、本能寺の変が起こり、上野国に侵攻してきた後北条氏と神流川で戦うも滝川軍は敗れ、後北条方の城となる。

【近世の城歴】

天正十八年(1590)、後北条氏の滅亡後に関東に移封された徳川家康は、厩橋城に譜代の平岩親吉を入封する。
慶長六年(1601)、平岩親吉の甲府への移封に伴い、川越藩から徳川家重臣の酒井重忠が入封となる。

この時家康は初代前橋藩主となる酒井重忠に「なんじに関東の華(はな)をとらせる。」と云ったのは有名な話で、関東北部における厩橋城の地位の高さが伺える。

前橋城(群馬県) (6)
土塁の上の遊歩道。近世城郭とはいえ、高崎城も前橋城も基本「土の城」なので好感が持てる。

前橋城(群馬県) (7)
三の丸の北に隣接する「柳原口内」と呼ばれた郭(現在の前橋公園敷地)

元和三年(1613)、酒井忠世の代に近世城郭として整備され三層三階の天守を造ったという。その後、慶安二年(1649)に藩主忠清の時に厩橋城⇒前橋城に改称したという。

その後は、「坂東太郎」とまであだ名がつくほどの利根川は、度重なる洪水や河川の氾濫により前橋城とその付近の住民に莫大な損害を繰り返しもたらした。

前橋城(群馬県) (8)
いかに巨大な土塁だったかが分かる写真。

寛延二年(1749)、酒井忠恭が播磨の姫路へ転封となり、代わって姫路より松平朝矩しが入封。
(この転封は、財政が破綻寸前の姫路藩松平家の仕組んだ罠とも伝わるが、はっきりしたことは分からないという)

利根川の大規模な氾濫が数年おきに続き、揚げ句の果てに城下で大火まで発生して前橋城はもはや修復不能の状態となる。明和四年(1767)、松平家は武蔵国川越城への移転を申請し許可され、前橋城は廃城となった。
前橋藩は川越藩となり、前橋には陣屋が置かれたのである。

前橋城(群馬県) (16)
前橋東照宮は松平家とともに変遷し1871年に川越から現在の場所に移転した。

【日本最期の築城となった幻の前橋城】

廃城から約100年経過した文久三年(1863)、前橋藩の復活と藩主の復帰を願う地元領民の強い想いと生糸景気による豊潤な経済力に後押しされた川越藩第十六代当主の松平直克は、幕府に築城許可を嘆願しようやく許可を得る。
許可の背景には、万が一外国による江戸城攻撃が始まった場合の幕府の移転先として考えられていた事があるという。

また、この年は江戸時代最期の築城ブームでもあり、七年がかりで工事を進めていた函館の五稜郭が完成。萩から山口に城を移した毛利氏もこの年に山口城を築いている。

また、小生の住む信州佐久地方でも田野口藩(竜岡藩)がミニ五稜郭と呼ばれる竜岡城の築城にとりかかり、岩村田藩も藤ヶ城を築城している。(築城術は前橋城によく似ている)

前橋城見取図①
新・前橋城の縄張図(前橋市の観光案内パンフレットより転載)。何と丸馬出しが二つある。

再建された前橋城は旧前橋城の三の丸を本丸とした近代城郭としての縄張りに改められ、全ての郭は外周を高土塁と堀で囲まれ、要所には砲台が置かれ稜堡式として十字砲火が掛けられる仕様になっている。
ヨーロッパにおける火砲の発達による築城術の情報を取り入れた重火砲にも耐えうる設計で、標的となってしまう櫓すら建てない防御構造は、軍事学的にも時代の最先端であったと思われる。

慶応三年(1867)、三年八カ月の歳月と77,673両の費用をかけた新・前橋城が完成し、松平直克は川越藩から前橋藩に移った。

前橋城(群馬県) (18)
「るなぱあく」という遊園地のある場所は前橋城の北側の空堀跡である。

前橋城(群馬県) (19)
臨江閣の庭園付近も空堀跡。

明治維新を迎え、明治二年(1869)の版籍奉還で直克は前橋藩知事に就任。
明治四年(1871)廃藩置県により前橋城は再び廃城となり、明治政府は真っ先に前橋城を取り壊した。再築城から僅か四年の幻の城であった。

前橋城(群馬県) (20)
群馬県警察本部の脇に建つ城碑入口の標柱。この時間帯から土砂降りの雨になる・・(汗)

前橋城(群馬県) (25)
城碑のある場所は前橋城三の丸東南隅の土塁で、砲台が置かれたところだという。

降りしきる雨の中、ビショビショになりながら見学しているのは自分だけ・・もはや意地だけの世界・・(笑)

しかもお隣は警察署なので、不審者として職質される恐れもあるし・・(汗)

前橋城(群馬県) (29)
立派な土塁でございます。隣は群馬県警です。くわばらくわばら。

前橋城(群馬県) (31)
雨の中の土塁散策も風情でございます。

強固な縄張りとして生まれ変わった前橋城に反政府軍が立て篭もったら厄介ですもの。
明治政府が危険視したのも無理からぬ事。それにしても、後世の研究材料として半分くらいは現物を残しておいても良かったんじゃないかしら・・(笑)


≪前橋城≫ (まえばしじょう 厩橋城)

標高:107.1m 比高:- 
築城年代:不明
築城・居住者:長野氏、北条氏、後北条氏、酒井氏、松平氏
場所:群馬県前橋市大手町
攻城日:2014年8月16日 
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:0分 駐車場:有り(県庁有料駐車場)
見どころ:高土塁、堀址
注意事項:特に無し
参考文献:城跡の説明看板、前橋市の観光案内など
付近の城址:色々

前橋城(群馬県) (33)
県庁北側駐車場に残る土塁跡。










Posted on 2014/08/24 Sun. 08:18 [edit]

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高崎城 (群馬県高崎市高松町 市指定史跡)  

◆上野国じゃ毎度毎度の雨男に変身だあ!◆

今さら何を?と思うかもしれないが、昨日とうとう慣れ親しんだガラケーを捨ててスマホに乗り換えた。

古き良き昭和世代の最後のガラケー戦士として最期の一兵となっても闘う所存であったが、商売上スマホが使えないと窓際族に追いやられてしまうのである・・・(汗)
 
かといって老人向け(?)の「らくらくスマホ」では、マッキントッシュ時代を知る武士の意地が廃るというもの・・(笑)

5S

幸い、ipodは操作出来るし、仕事ではipadを使いこなしてる?(ってか、使われてる・・・汗)のでiphoneならなんとかなるかもしれない。
(もうすぐ「6」が出るんだからそれまで待てば・・という意見もあったが新製品はとかく欠陥があるので5Sとしたが・・)

「習うより、慣れよ」  その通りであった・・・が、使いこなすというよりは、Siri様にコキ使われている一兵卒であった。

今回ご紹介するのは、「辿り着いたら、いつも雨降り」の上野国の高崎城。近世城郭には興味が無いので適当な解説になるが、ご容赦下さい・・・(笑)

高崎城(群馬県) (8)
三の郭の外土塁と水堀。これが残っただけでも「良し」としなければ・・・。

【立地】

鳥川と碓氷川の合流地点の南東河岸を利用した平城で、箕輪城から約9km南東に位置する。

高崎城(群馬県) (3)
しっかりした高土塁の上は遊歩道になっている。基本「土の城」のコンセプトを踏襲しているのは嬉しい。

【城主】

初代の城主は徳川四天王と呼ばれ、「井伊の赤備え」の元祖である井伊直政(いいなおまさ 1561~1602)で、のちの近江国佐和山藩主(彦根藩)の初代藩主でもある。
家康の命により、武田軍の猛将山県昌景の赤備えを徳川軍で復活させ「井伊の赤備え」として戦場ではその勇猛果敢な戦闘ぶりで名を馳せた。秀吉の信任も厚く、天正十四年十月、家康の上洛の際に豊臣姓を賜る。
天正十八年(1590)、小田原の役では、小田原城内に切り込んだ唯一の武将として名を刻み、北条氏滅亡後の慶長3年(1598)、家康の関東移封とともに上野国箕輪城12万石の城主となった。その後、家康の命により箕輪城を廃城とし、新たに高崎城を築城する。

また、謀略においても家康の懐刀として秀吉亡き後の反石田派の黒田如水(官兵衛)・長政父子を徳川方に引き入れ、関ヶ原合戦では東軍指揮の中心となり島津軍の追撃戦を敢行し島津豊久を討ち取った。(しかし、この時の傷が原因で二年後に死去してしまう)
戦後処理で真田信之の助命嘆願を聞き入れ、身を呈して昌幸・幸村父子を高野山配流としたのも彼である。

この戦功により近江国佐和山18万石(旧石田三成の所領)を家康より拝領し、徳川の譜代大名では最高禄となった。

この人がいなければ、某国営放送局の「軍師 官兵衛」も2年後の大河ドラマの「真田丸」も違うストーリーになっていただろうか・・・(笑)

高崎城(群馬県) (6)
土塁脇に建つ標柱と説明板。

【城歴・城跡】

箕輪城主井伊直政が徳川家康の命により、この地に城を築き箕輪より移転したのは慶長3年(1598)のことであった。築城にあたって直政は、当時和田と呼ばれていたこの地の地名を松ヶ崎と改めようとし、竜広寺の住持白菴に相談した。白菴は、諸木には栄枯があることを説き、「成功高大」の意味から高崎と名づけるよう進言し、これが採用
された。高崎の地名はこうして誕生したと云われる。(川野辺浩「高崎志」)

高崎城(群馬県) (12)
公園側からみた土塁。

この地にはかつて和田氏により和田城が築かれていた。直政により新たに築かれた高崎城は、和田城址を取り込む形で築かれたと云われており、坪数51,613坪に及ぶ広大な城郭となった(土屋老平「更正高崎旧事記」)。築城にあわせ、城下町の整備も開始され箕輪城下から多くの寺院や町が移された。連雀町や田町はこのとき箕輪より移転した町である。また、城下町を囲む形で遠構と呼ばれる土塁と堀も築かれた。

高崎城(群馬県) (13)
三の丸の一部は城址公園として整備されている。外側へ「コの字型」で突き出る折れの部分も残っている。

命じ四年(1871)の廃藩置県後、高崎城の敷地は兵部省、次いで陸軍省の管轄となり、乾櫓をはじめとする多くの建物が払下げとなった。さらに、兵営や練兵場を建設するために城内は整地された。このため本丸や二の丸の土塁や堀は現存しておらず、三の丸の堀と土塁がわずかに昔の面影を止めている。

高崎城(群馬県) (14)
土砂降りの雨の公園もオツなものです・・・(笑)

高崎城(群馬県) (19)
「土塁は立派な文化財です。大事にしましょう」と看板にあったが、その通りである。

しかし、上野国出陣は「辿り着いたらいつも雨降り」というケースが多い・・・・(汗)

岩櫃城なんか二度とも雨の攻城戦・・参った。

信濃ではピーカン男(決してノーテンキ男ではありません・・笑)だったし、三河・遠江・駿河の旅でも良いお天気だったのだが、どうも群馬県とは縁が無いらしい。

高崎城(群馬県) (25)
群馬県指定重要文化財の乾櫓。キレイ過ぎたので復元かと思っちゃいました(笑)

高崎城(群馬県) (31)

この城は本来「土の城」なのに、「なんちゃって石垣」を作る偽装工作には頭が下がる思いです。。。。。。(悲)

無骨ものの井伊直政だからこそ、土の城じゃないとダメなんです。しっかりしてくれ、高崎市!!


≪高崎城≫ (たかさきじょう)

標高:93.0m 比高:- 
築城年代:慶長三年(1598)
築城・居住者:井伊氏、その他
場所:群馬県高崎市高松町
攻城日:2014年8月16日 
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:0分 駐車場:有り(市営有料駐車場)
見どころ:石垣、高土塁、堀、櫓
注意事項:特に無し
参考文献:城跡の説明看板、他
付近の城址:色々

高崎城(群馬県) (38)
乾櫓は土塁の櫓台の上に建てられてたのに、この組み合わせが常識になるのは時間の問題でしょう・・(汗)

Posted on 2014/08/19 Tue. 07:55 [edit]

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羽根尾城(長野原町)  

◆上州吾妻に覇を唱えた滋野一族 羽根尾氏の悲哀◆

羽根尾城は群馬県吾妻郡長野原大字羽尾の城峰山にあります。
この城の築城時期については不明ですが、歴代の城主である羽根尾氏は信州小県の海野の豪族滋野氏の一族として三原荘(嬬恋)の鎌原氏、草津の湯本氏とともに勢力を振っていました。

羽根尾城・鎌原城 016

滋野氏の宗家である海野棟網・幸隆(のちの真田幸隆)は、関東管領上杉憲政を後ろ盾としていたため、1541年 武田信虎・村上義清・諏訪頼重の連合軍に攻められ海野平の合戦で敗退し上州へ逃れる。

この時彼らを庇護したのが、この時の城主羽根尾幸全入道でした。
(羽根尾氏は幸隆の最初の妻の実家とも云われる)

羽根尾城・鎌原城 011
吾妻西病院駐車場より城跡へ通じる林道

その後、海野棟網と幸隆は上杉憲政の家臣の箕輪城の長野業正の元へ赴き関東管領上杉氏に旧領回復を願うが、その才覚の無さに失望した真田幸隆は、板垣信方の誘いもあり武田晴信に仕官することを決意する。
(海野棟網は沼田城付近で病没したとの言い伝えがある)

羽根尾城・鎌原城 012
↑本郭脇にある堀切

真田幸隆が武田軍の信濃先方衆として目ざましい活躍で武田信玄の信任を得て信濃征服をほぼ完了すると、西上野攻略を命ぜられる。
そんな中、羽根尾幸全は意図的に鎌原氏と領土境界線を巡り争いを起こし、幸隆は一族の調停役となるが、羽根尾氏はドサクサに紛れて鎌原城を乗っ取る。(幸隆が巧妙に仕組んだ軍事介入でしょうネ)
姑息な手段に怒った鎌原氏は武田氏に臣従し旧領を回復、羽根尾氏は岩櫃城の斎藤氏を通して関東管領となった上杉謙信に支援を求める。

羽根尾城・鎌原城 017
城の西側には腰郭が連続する

岩櫃城攻略の足がかりを求めていた真田幸隆は、この機を利用して長野原で合戦に及び鎌原氏と共に羽根尾氏を攻めて敗走させます。

この時、羽根尾幸全は討死したとも越後へ逃亡したとも云われています。

「まずは恩情を捨てる事から始めなければ 真田の明日は来ない」

武田に仕官を決めた時、自分を匿ってくれた羽根尾氏や長野氏という恩人に刃を向けなければならない宿命を、幸隆はどう感じていたのでしょうか。

羽根尾城・鎌原城 024
JR吾妻線の羽根尾駅から望む城址

その後、岩櫃城の攻防戦では羽根尾幸全の子だった海野長門守幸光と海野能登守輝幸の兄弟が斎藤氏を見限り、真田方に内応して勝利に貢献し、岩櫃城代となる。
昌幸の代となっても真田の信任は変わらず吾妻地方を統治していたが、天正九年(1581年)北条方への密通の嫌疑をかけられ 幸光は岩櫃城を急襲されて自刃。沼田城代だった輝幸は真田軍と沼田城外で戦闘となり女坂で討死する。(一説には地侍の妬みによる逆恨みと云われるが、昌幸らしい謀殺のやり方だと僕は思う)

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羽根尾城の登り口の山麓には海野長門守の墓がある。羽根尾氏の旧領の領民が亡骸を運び埋葬したと伝えられる。

滋野一族もまた生き残りをかけた同族争いの例外ではなかった。

場所:群馬県吾妻郡長野原町大字羽根尾城峯山(標高774m 比高差約140m)
攻城日:2009年9月6日
お勧め度:★★★☆☆
行き方:国道145号線の大津交差点を草津方面へ。途中で西吾妻福祉病院入り口で左折。病院駐車場より徒歩10分
※またはJR羽根尾駅北側の宗泉寺脇の「海野長門守の墓」からのルートもある(結構急峻な坂)
見どころ:土塁、堀切、腰郭 ※見晴らしは良くない

Posted on 2010/08/08 Sun. 16:50 [edit]

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沼田城(沼田市)  

★徳川家に嫌われ破壊された、もう一つの真田の城★

全然関係ないのですが、最近TBSの日曜劇場「JINー仁ー」にハマってます。
現代から突然幕末にタイムスリップした脳外科医のドラマなんですが、結構面白い。
坂本竜馬や勝海舟、緒方洪庵・・といった幕末の有名人が絡むんですがリアルでイイです、ハイ。
日曜劇場JIN-仁-

真田昌幸が築城した上田城は、関ヶ原合戦後に徳川軍によって徹底的に破却され田畑になりました。東軍に味方し、父の領土を引き継いだ長男の真田信之が幕府に再興を願い出ても許可されることはありませんでした。

現在の上田城は、真田信之が松代に移封されたあとに隣の小諸より転封してきた仙石忠政が幕府に許可されて再興したものです。

実は松代藩真田家より分家した上州沼田藩真田家の沼田城も改易後に徹底して破却されました。

numata01.jpg
三代将軍家光時代の正保城絵図に描かれた沼田城の縄張り。五層の天守閣が存在します

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Posted on 2009/11/03 Tue. 16:18 [edit]

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鎌原城(嬬恋村)  

★キャベツ畑に埋もれた城★

こんばんは。

らんまる家では10年以上仕えてきた犬が失踪してしまいました。捜索願いを出すも行方知れず。
新しい仕官先で元気に暮らしている事を願うばかりです。

長男は相模の国、長女は善光平で独立系武将として頑張っているみたいです。

先日、新参者が当家に仕官を願い出て許可されました。

ファーストネームは「JIJI」(●●の宅急便にも出演)、当家では「お江」・・・って真田太平記かい!
jiji 036
忍者の素質充分な目つきとカラーリングですが、生後一カ月の♀でござりまする、御贔屓に・・・
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Posted on 2009/09/09 Wed. 21:52 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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