らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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笹洞城 (リテイク 上田市上室賀)  

◆「だまれ、小童!」 もう聞けなくなる室賀正武のセリフに敬意を表して・・◆

真田丸のキャストが発表されたとき、ローカルな室賀正武の配役があるのには正直驚いた。天正壬午の乱は避けて通れないので、せめて依田信蕃とか、屋代秀正あたりが順当かと思いきやとんだ番狂わせであった。

だが、回を追うごとに大勢力に振り回される小県の国衆故の苦悩を、西村雅彦演じる室賀氏が絶妙に演じ真田パパ幸の狡猾さを薄めている事に気が付く。そう、彼もまた出浦氏同様にパパ幸に惹かれているのであるが、家康に唆されてあっけない最期となる。

原畑公民館②
室賀氏の居館(原畑城)があったとされる原組公民館付近。

室賀城は、平時の居館のあった原畑城(はらはたじょう)とその背後の詰めの城である笹洞城(ささほらじょう)の一帯を指すものと思われる。
今回、城主・城歴等は割愛し、笹洞城について写真を中心にご案内してみたいと思います。

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原畑城からは詰めの城の笹洞城の主郭がハッキリ見える。

【城跡の様子】

ここは二度ほど訪問している。

最初は2010年5月。この時は温泉施設の背後の東尾根伝いに登ったのだが、道は途中で消え藪漕ぎ。郭2の手前で足が痙攣して悶絶する有様・・(笑) 浅学故に本郭と石積み、背後の大堀切を見て撤収・・・もったいない・・・(爆)

笹洞城2010
2010年に挑んだときの郭2の切岸。

二度目は真田丸の放映決定後の昨年三月。この時は楽に登れそうな北尾根の室賀水上神社の裏手からアタック開始。
その一年後の今年の二月に訪問すると、なんと笹洞城への登り口が整備されているではないか・・・(驚)

笹洞城2015 (125)
2015年3月の室賀水上神社。

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2016年2月の室賀水上神社。例の如く「真田丸」の旗が林立している。

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城跡への表示。

この時は登らなかったが、麓から見た笹洞城の本郭には真田丸の赤い旗が何本か確認出来たので、恐らく地元の方が登りやすいように整備されてしまったのだろう。改変されていなければ良いのだが・・・・(汗)

以下は整備されていない2015年3月の時の現地の様子である。

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城跡からは、室賀の里への侵入者を見張る物見砦の跡部城、そして遠くに小泉氏の城が見える。

笹洞城見取図① 001
縄張図。傾斜の緩い北側斜面に対して竪堀を多用して防御を強化したようだ。

【東尾根】

現在は北の尾根筋にあたる室賀水上神社から登山道が整備されたようだが、本来の登城口は東尾根または原畑城の居館に最も近い南尾根だと思われるがハッキリしない。東尾根は段郭を重ね何条かの竪堀を穿ちかなり厳重なガードが施されている。

笹洞城2015 (6)
段郭と鋭い切岸。

笹洞城2015 (11)
北斜面に落ちる竪堀。

段郭の先の急斜面を登ると堀切㋐が郭2の全面を大きく遮断している。岩盤が固く段郭を重ねるよりも堀切という判断のようだ。

笹洞城2015 (22)
せっかくの大堀切を倒木が邪魔してしまい、迫力に欠ける。

笹洞城2015 (32)
郭2(16×15)

笹洞城2015 (31)
北の尾根筋から主郭への横移動を阻止する為の堀切㋑。

【主郭とその周辺】

郭2から主郭へは南側の犬走のような帯郭を介して主郭より一段低い三角形の張り出しを経て入るようだ。虎口は見当たらないが、入口周辺は二段~三段の石積みを施し厳重に警戒している。

笹洞城2015 (36)
郭2から南へ抜けると祠のある帯郭へ。

笹洞城2015 (50)
主郭の一段下に南側に張り出している郭。

笹洞城2015 (83)

笹洞城2015 (77)

笹洞城2015 (86)

石積みはだいぶ崩落が進んでいるが、観光客の増加が崩落に拍車をかけないで欲しいというのは余計な心配だろうか。
「黙れ、小童!!」とお叱りを受けそうである・・・(笑)

笹洞城2015 (109)
主郭。南側の縁には土塁跡が残る。

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南側より見た主郭。

【主郭背後の三連の堀切】

主郭の背後の西尾根は、堀底まで深さ10、最大幅14mの圧巻の大堀切㋒から連続して上幅10mの㋓と㋔を三連続させて断ち切っている。オーソドックスだが高低差があるので守りは固い。

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大堀切㋒

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堀切㋒は北斜面に深い竪堀となって落ちていく。

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堀底から主郭を見上げる。まさに「壁」(へき)そのものであろう。

笹洞城2015 (62)
かなり埋まっちゃった堀切㋓と㋔

笹洞城2015 (66)
それでも最終の堀切㋔はなんとか体裁を保ってましたが。

【南尾根】

居館のある原畑城から最短のルートはこの尾根であり、大手道はここからと思われるのだが道ははっきりしないし、結構な急斜面なので、ある時期に東尾根に変更された可能性は否定できない。段郭を重ねただけだが、途中に等高線に沿うように列石が置かれている。

笹洞城2015 (87)
主郭の周囲の鋭い切岸を下りると南へ向けた尾根が続く。

笹洞城2015 (93)
南尾根の段郭。

笹洞城2015 (97)
六段~七段の段郭を重ねるオーソドックスな防御方法である。

笹洞城2015 (99)
斜面の中腹には等高線に沿うような石が並列に続いていた。何だろうか?

さて、悩める小県の国衆の室賀氏の室賀城、如何でしたでしょうか?

残念ながら「だまれ、こわっぱ!」は流行語大賞にノミネートされるかは微妙ですが、西村雅彦さん、素晴らしい演技でした。
雑誌のインタビューでは、近々室賀の里を訪れ、室賀城(笹洞城)にも登ってみたいとお話しされていました。
もしかしたら、笹洞城に登って「ささらの湯」に浸かれば、西村さんに偶然出会えるかもしれませんよ。

そしたら、本家本元の「黙れ、小童!!!!!」と叱ってもらおうと思ってます・・・・・・(笑)

笹洞城2015 (91)
途切れ途切れの古びた石積みの似合う山城ですネ。(主郭東端の切岸と石積み)


≪笹洞城≫ (ささほらじょう 室賀城)

標高:692.6m 比高:130m
築城年代:不明
築城者・城主:室賀氏
場所:上田市上室賀
訪問日:2010年5月、2015年3月
お勧め度:★★★★☆ 
所要時間:20分
見どころ:石積み、堀切など
周辺の城跡:原畑城、伊勢崎城、跡部城、三水城、狐落城、浦野城、岡城など
注意事項:登山道は整備されたようですがトレッキング仕様で。
参考文献:「信濃をめぐる境目の山城と館③上田小県編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)



笹洞城2015 (128)
室賀城遠景。







Posted on 2016/03/20 Sun. 17:50 [edit]

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村松殿館跡 (小県郡青木村村松)  

◆日当たり良好の高台にある真田信繁の長姉「村松殿」の屋敷跡◆

某国営放送局の大河ドラマ「真田丸」の6/50が放映された。

我々のような中世城郭ヲタや戦国時代ヲタ、武将ヲタを巻き込んでの全国区の関心の高さは凄い・・・(汗)

twitterの世界では無名な小生でも「♯真田丸」でつぶやくとRTでの反応が即座に為されるのには驚く。

せっかく真田の郷の近くに住んでいるので、地元ならではの「真田丸」関連の史跡をご紹介しましょう。

今回ご案内するのは「村松殿館跡」(むらまつどのやかたあと)。
ドラマでは木村佳乃が演じる大泉信幸と堺信繁兄弟の長姉である「松」殿の居館跡と伝わる場所である。

村松殿館跡 (15)
最近新設された案内看板。県宝の宝筐院塔と抱き合わせだが、明らかに真田丸効果を期待して作られたようだ・・(笑)

【立地】

現在の国道143号線の村松は嘗ての東山道の浦野駅(うらののうまや)に隣接する場所で、古くからの交通の要衝であった。戦国時代には保福寺峠や青木峠(地蔵峠)を介して筑摩郡と境を接する場所ということもあり、街道筋を抑えるために黒丸城が築城され、居館の背後には特異な山の嶺に築かれた子檀嶺城が聳えている。
上田市より松本市へ向かう国道143号線を走り、青木村役場入口の看板を右折して進むと誘導看板が立っている。

村松殿館跡 (1)
T字路の角に「村松の宝篋印塔」(長野県宝指定)の東屋があるので、その上の地籍が「村松殿居館跡」になるという。

村松殿館跡 (7)
年代物の標柱。「この上が真田幸村公義兄小山田壱岐守茂誠公館跡」とある。

【館主・館歴】

面倒なので、ウィキペディアに記載されている「村松殿」を引用転載させていただくことにする。

村松殿(むらまつどの、永禄8年(1565年) - 寛永7年6月20日(1630年7月29日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての女性。小山田茂誠の正室。真田昌幸の長女。子に小山田之知。

永禄8年(1565年)、真田昌幸の長女として誕生。母は山手殿(遠山氏とも)。名は於国。弟に信之(信幸)・信繁(幸村)らがいる。

天正10年(1582年)前後に甲斐国都留郡の国衆・小山田氏の一門である小山田有誠の子・茂誠に嫁いだ。この婚姻が縁で茂誠は後に昌幸の家臣となり、信之の家老となった。また、夫・茂誠が昌幸から小県郡村松(現在の青木村)を領地として与えられ、そこに住んでいたため、村松殿と呼ばれた。なお、1582年に武田家が滅亡した後、織田信長に臣従した際に、真田昌幸は娘を人質として安土城へ送っているが、村松殿であった可能性もある。

長姉として、信之や信繁に敬愛されていたらしく、信繁が彼女宛てに書いた手紙が残されている。

寛永7年(1630年)6月、死去。法名は宝寿院殿残窓庭夢大姉。

村松殿館跡 (17)
最近新設された居館跡の説明板。

小山田茂誠が真田昌幸よりこの地を与えられたのが天正十八年(1590)とされているので、少なくとも天正壬午の乱の時の村松殿の呼び名は違っていたと思われる。
ドラマでは琵琶湖で身投げして船頭(または漁師)に助けられ二年間記憶喪失となった筋書きを採用している。これは江戸時代後期に真田氏の軍記ものとして書かれた「加沢記」が出典元であろうが、加沢記も甲陽軍鑑と同じく信憑性に疑問があるらしい。

村松殿館跡 (19)
南北朝時代の宝篋印塔は大変価値のあるものだが、それよりも松殿の居館跡のが人気らしい・・(汗)


【館跡】

説明板の地図を頼りに歩いてみると、居館跡と推定される現地は南向きの高台で、中心部には石垣を施した立派な民家が立っている。小山田家は関ヶ原の合戦後、信幸の松代移封に伴いこの地を離れている。
往時を偲ぶ遺構は無いが、日当たりの良い高台の一等地で、昌幸が小山田茂誠夫妻に知行地として与えたのは合点のゆく話である。

村松殿館跡 (6)
巨石の石積みは近代のものであろう。

村松殿館跡 (9)
東側から見た居館跡地。

村松殿館跡 (22)
北側から見た居館跡。

加沢記によれば、琵琶湖に身投げした松殿は、二年後に記憶が戻り真田家に復したという。
小山田茂誠はその後真田信之の家臣となり、大阪夏の陣では病に臥した信之の名代として出陣した信吉、信政兄弟に従い従軍。(その際、親交のあった信繁からの最後の手紙を受け取った事は有名) その後松代藩においては代々次席家老の家柄となった。

さて、真田丸では、どのように描かれるのか楽しみですね。


≪村松殿館≫ (むらまつどのやかた)

標高:635m 比高:5m
築城年代:不明
築城・居住者:小山田氏(村松殿)
場所:小県郡青木村村松
訪問日:2016年2月214日 
お勧め度:★☆☆☆☆ 
館跡までの所要時間:- 駐車場:無し
見どころ:特になし
注意事項:私有地なので無断侵入厳禁、プライバシーにも注意
参考文献:
付近の城址:子檀嶺城、西城、東城、黒丸城など

松代ウォーク2015 (1)
松代町に残る小山田茂誠の屋敷跡。






Posted on 2016/02/16 Tue. 23:04 [edit]

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小泉上の城2 (リテイク 上田市小泉)  

◆郭は最低限でも堀切は厳重に重ねる村上スタイルの物見砦◆

2016年の最初に掲載するのは、2011年に一度記事にした「小泉上の城」(こいずみかみのじょう)の改訂版である。

いつか再踏査して真面目に書かねばと思いつつ、城の真下まで通じている林道を四駆で上って楽したい・・・。
ようやく念願かなってリニューアル編をお届けしたい・・・(笑)

小泉上の城201601 (103)
林道入口。城山(933.1m)の西側の下室賀より沢沿いに林道「神宮寺線」を終点まで上る。(四駆なら軽トラでも大丈夫)

【城跡への行き方】

●正攻法:小泉の日向地区の大日堂から小泉下の城を経由して尾根伝いに登る。かつての大手道だが比高は400mもあり斜面もかなり急だ。体を鍛えるにはいいかも。

●邪道:下室賀地区から神宮寺組集落に入り、その先の林道「神宮寺線」を終点まで上る。道路は荒れていないがオフロードバイクか四駆が条件。終点に車を駐車して鉄塔No128の表示の保安道を登る。ここからなら比高は葯100m。

小泉上の城201601 (101)
終点は整地されており駐車可。

小泉上の城201601 (95)
鉄塔No128への標識に沿ってひたすら沢を詰めると、稜線に出るための保安道の階段があり登った先が城域となる。

【城主・城歴】

小泉氏及び城については「小泉下の城」をご参照ください。


【城跡】

城山(933.1m)のピークではなく南に派生した尾根先の第2ピークが城跡で、楕円形の単郭の背後を何重もの厳重な堀切で断ち切った物見砦である。残念な事に鉄塔の設置に伴い城域で最も大きく深かったであろう二重堀切の一部が大きく改変を受けてしまっているが、その他の遺構は良好に残存している。

小泉上の城見取図① 001

では、北側の鞍部から城の遺構を見ていこう。

小泉上の城2015 (8)
搦め手の最終の堀切㋖。ここから登った先が城内となる。

尾根を登った先には現在残る堀切では最も上巾の広い堀切㋕が出現する。(上巾13m)

小泉上の城201601 (9)
保安道の為に道形が付いているが往時はもちろん無かったはずだ。(北側より撮影)

小泉上の城201601 (10)
堀切㋕の西斜面への処理。(北側より撮影)

さて、問題の鉄塔改変部分である。鉄塔が建てられた部分は整地されてしまい堀は埋められたようだが、宮坂武男氏は東斜面に残るW型の二重竪堀がそのまま尾根を遮断し分岐して西側の斜面に落ちていたのではないかと推測している。
小生も藪に埋まるW型の竪堀を探しつつ心の目で見るのだが、どうも想像できない・・(汗)

小泉上の城2015 (75)
南側より見た鉄塔とその東のW竪堀との連結想像図。

鉄塔の辺りは案外と副郭があり、両袖もしくは片袖の堀切だったのかもしれない。単郭に六連の堀切は考えられない・・・。

小泉上の城201601 (31)
東側斜面のW型竪堀の探索。枯れ草が邪魔して写真映えしない・・(汗)

小泉上の城201601 (33)
鉄塔からは室賀城、子檀嶺城(青木村)が一望出来る。

小泉上の城201601 (34)
物見砦としては当然ながら上田盆地が一望できるロケーション。

他の堀切が尾根を遮断するだけの機能で竪堀となる事は無いのに、堀切㋔だけは急峻な斜面に対して竪堀としている。
二重堀切の㋔と㋓はこの砦の末期の改修だろうと思うが、どうであろうか。

小泉上の城201601 (39)
初見の判断が分かれる二重堀切㋓。元々は郭があって、改修して堀切としたような感じが残る。色々な角度から観察する必要あり

さて、主郭背後の堀切㋒と㋑は村上連珠砦群に見られるオーソドックスな堀切である。落差を付けた二連の堀切で、東西の斜面はかなり急斜面なので竪堀にはしていない。東側の斜面を大きく削ったのは、堀切㋔と同時期の改修であろうか。

小泉上の城201601 (45)
堀切㋒(東斜面より撮影)

小泉上の城201601 (48)
北側から撮影した堀切㋒の壁(へき)と重なる堀切㋑。意識的に段差が付けられている。

小泉上の城201601 (47)
堀切㋒の東斜面は崖状に削られている。堀切㋔との相乗効果を狙ったようだ。

小泉上の城201601 (58)
主郭手前の堀切㋑(上巾8m)

小泉上の城201601 (54)
堀切㋑の堀底から見た主郭背後の壁。

よくもまあ、これだけの堀を並べて普請したものだと感心する。段付きの小さな主郭に対して異常な防御体制である。でもね、この縄張とよく似た砦があるんです。
それが村上連珠砦群の「ケムリの城」と「物見城
堀の長さは短いものの、縄張がよく似ていますよね。

小泉上の城201601 (62)
祠のある場所が一段高くなっている主郭。櫓台が置かれたのであろうか。

小泉上の城201601 (69)
14×14の楕円形の主郭(南側より撮影)。

普段は物見砦だが、万が一の際は「小泉下の城」あるいは「須々貴城」の詰めの城として想定されていたのだろう。

小泉上の城201601 (71)
主郭の一段下の段郭。

小泉上の城201601 (77)
土留めの石積みも確認出来る。

小泉上の城201601 (73)
城域最終の堀切㋐。

小泉上の城201601 (79)
南尾根の急斜面をひたすら下ると「下の城」に至る。

思えば6年前、山城探訪初心者が原付バイクを廃車にしてまで上った林道・・なのに遺構なんかまともに見ていない・・(笑)

経験とはそういうものです。それから800を超える城跡を訪問しても青二才ですもの・・・(爆)

小泉上の城201601 (90)
真田丸で大忙しの上田城。実はここに小泉氏の古城の跡があり「小泉曲輪」と命名されているのを知る人は少ない。


≪小泉上の城≫ (こいずみかみのじょう)

標高:912m 比高:410m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市小泉
攻城日:2015年11月29日、2016年1月3日
お勧め度:★★★☆☆  
城跡までの所要時間:15分(神宮寺林道終点より) 駐車場:林道の終点にあり。
見どころ:竪堀、堀切など
注意事項:秋は松茸山になるので9月~11月10日頃まで入山禁止、その後は狩猟シーズンなので鉄砲隊に注意。
参考文献:「信濃の山城と館③上田・小県編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版) 
付近の城址:小泉下の城、笹洞城、跡部城、須々貴城など

小泉上の城2015 (95)
正攻法では楽して登れる距離と比高ではありません・・・・(汗)





















Posted on 2016/01/03 Sun. 21:35 [edit]

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祢津上の城 (東御市祢津)  

◆有名すぎる「下の城」の陰に埋没したオーソドックスな「上の城」◆

東信濃の上田を含む小県郡(ちいさがたぐん)を代表する山城としては、塩田城岡城砥石城丸子城尾引城あたりが筆頭になるようで、その中でも戦国時代の山城としてマニアの間で話題となる魅力的な城が祢津下の城である。

「祢津下の城(ねつしものじょう)」は通称「祢津城」として紹介されるケースが多いが、その正式名からお気づきの通り、「上の城(かみのじょう)」が存在するのである・・・。

祢津下の城201511 (2)
下の城の背後霊のように映り込む上の城。標高は下の城より100m高いのだが、山容の峻険さで下の城のが高く見える。

下の城と比較すると見映えのしない戦国初期の縄張りという話だったので今までパスしてきたが、この城をどうしても訪城したいという物好きな方にアテンドを依頼されたので仕方なく下見にきた・・という諸事情・・(笑)

【立地】

烏帽子岳(2066m)から南へ延びる支脈の途中に位置する大室山(1147m)の南2kmの独立峰の上にある。ここから800mの南西に下の城がある。
城への行き方は、県道4号線(旧菅平有料道路)を姫子沢集落へ入り、集落を抜けて北へ向かう農道を走り途中から東に通じる林道「鳩峰線」を走り城の裏手で道路わきに止める。(農道は狭いので軽自動車のみ。林道は荒れていないが四駆が無難)ここから南に向かって5分も歩けば城跡にたどり着く。(踏み後は途中から消えるので注意)

祢津上の城 (1)
林道脇の杉林の植林地あたりに踏み後があるのでそこから入る。

祢津上の城 (2)
チョッと不安になるがそのまま南へ進むと緩い登り斜面になるので大丈夫。その先が城域である。

【城主・城歴】

祢津氏は、鷹匠・新張牧(みはりまき)の実質経営者として古くから祢津地区を中心に勢力を張っていたとされている。室町時代に入ると、「大塔物語」に祢津遠光の名が見える。
戦国時代になると、天文十年(1541)海野平の戦いで武田信虎・村上義清・諏訪頼重の連合軍により海野棟綱・祢津元信・矢沢頼綱らは撃破された。祢津元信は頼重の斡旋により諏訪神氏(すわみわし)の出自である事から詫び言を入れて赦された。
その後祢津氏は武田晴信の側室として娘を差し出し。以後は信濃先方衆として北信濃、上野を転戦している。

祢津上の城① 001
極めてオーソドックスな手法の縄張である。

天正十年六月、武田が滅亡し織田信長が斃れ天正壬午の乱が勃発すると、、徳川⇒北条⇒上杉⇒徳川⇒上杉と目まぐるしく主家を変えており、真田昌幸同様に家名存続を賭けて遁走している。

祢津上の城 (7)
最初に到達した帯郭。上部の帯郭との段差は明らかに人工的に削られた切岸なのが分かる。

天正十一年九月に徳川家に臣従した際に祢津家は分派したらしく、その後主家は上杉家に臣従しその後は真田昌幸の家臣団として組み入れられ、分家は徳川に従って関東へ移ったという。

祢津上の城 (8)
三段目の削平された帯郭。二段目に上がる通路らしき入口が確認出来る。

祢津上の城 (11)
北側に段郭を三段設置しているが、形式は古いようだ。

祢津上の城 (15)
唯一残る竪堀跡。


【城跡】

「上の城」と「下の城」などと表記すると、相互が補完しているような印象を受けるが(もちろん、そういう城も存在するが)、この祢津上の城に関しては下の城との相関関係は乏しく、風雲急を告げる戦国時代にあって旧態然としていた上の城の改修を諦め、下の城を新たに築城したものと思われる。(あくまでも想像である・・)

祢津上の城 (20)
主郭下の段郭。三段目に比較すると削平はまじめに実施されている。

祢津上の城 (19)
二段目の段郭の西側先端部。土塁付きというが、藪で詳細確認できず・・・。

祢津上の城 (22)
主郭北側部分。削平も中途半端で終了したような印象を持つ。

祢津上の城 (25)
主郭の中央部分。

祢津上の城 (35)
城跡の巨石。

そうそう、こんな古めかしい縄張の城って、何処かでみたような・・・・

思い出した。

佐久市高坂にある「閼伽流山城」である。あの城も険しい山頂に築城された南北朝時代の山城とされている。
恐らく祢津上の城も時代は同じ頃であり、逃げ込み城の部類に分類される城だと思われる。

祢津上の城 (29)
城域の三段目の帯郭の削平地の下段にある空間。作りかけで放棄されたようである。

戦乱の世を生き残り大名となった真田氏ばかりがもてはやされるが、祢津氏だって戦国時代に生き残った諏訪系の豪族である。そして祢津氏の本城となった祢津下の城は真田昌幸が攻めても落ちなかった難攻不落の名城である・・・。
(まあ、天正壬午の乱の時の話なので、昌幸が家康に対してパフォーマンスを演じたという説もある・・笑)

そんな訳で、上の城は見ても見なくても良いが、下の城は何が何でも見て欲しい東信濃を代表する名城である・・・。

祢津上の城 (38)
段郭で構成されたオーソドックスな中世初期の山城ってことで・・・

≪祢津上の城≫ (ねつかみのじょう) 

標高:926m 比高:185m 
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:東御市祢津
攻城日:2015年11月1日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:5分
駐車場:林道脇の空き地に路駐
見どころ:土塁など
参考文献・書籍:「信濃の山城と館③ 上田・小県編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:周囲は似たような景色なので方向感覚が麻痺します。来た道を戻る事。
付近の城跡:祢津下の城、矢立城、祢津支城など

祢津上の城 (34)
林道入口から見た上の城。
















Posted on 2015/11/03 Tue. 22:00 [edit]

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丸子良存館 (上田市腰越)  

◆戦地に赴いた息子の無事を願い神社に寄進状を託した戦国時代の武士の親心◆

ここも木曾義仲ゆかりの伝承の地である。

昭和二十年頃に無住の為廃寺となった蓮乗寺(れんじょうじ)は往時の参道跡と御堂の一部が残るだけだが、義仲が開基と伝わる。

義仲時代の蓮乗寺がどの程度の規模かは不明だが、戦国時代には依田氏の一族である丸子氏の居館跡とされ、寺院も取り込んだ縄張りだったのかもしれない。

丸子良存館 (4)
居館跡の南側は依田川の深い渓谷が刻まれ「大淵」「中淵」と呼ばれる景勝地でもある。

【立地】

大門峠、和田峠に通じる国道152号線沿いの旧丸子町腰越地区で、依田川の左岸の段丘上にある。居館跡から裏山への道は丸子城の搦め手の尾根筋に至る険しい道がある。(現在は遊歩道が作られるも崩落危険の為通行禁止)南側は依田川の淵に接しており要害の地である。現在は「腰越文化伝承館」という建物の建つ付近が屋敷跡と伝わる。

丸子良存館 (6)
蓮乗寺の参道跡。嘗ては居館の冠木門があったのかもしれない。

丸子良存館見取図①
現状の改変された地形から往時の縄張りを読み取るのは難しい。

【館主・館歴】

国の重要文化財に指定されている武田信玄の起請文が納められている生島足島神社には、その他にも真田昌幸や信幸の朱印状などがあるのですが、「丸子良存寄進状」なる珍しい書状が残っている。
この寄進状を納めた人物である「丸子良存」がこの館の主と考えられている。

丸子良存館 (7)
屋敷地の南側は道路の開通により改変されているが、下段の畑に石積みの跡が確認出来る。

丸子良存館 (8)
現在はコンクリートの護岸壁だが、往時は石積み仕様だったと思われる。

●「丸子良存寄進状」(国重要文化財 生島足島神社所蔵)について

以下、「国重要文化財 生島足島神社神社文書 起請文に見る信玄武将」(発行:生島足島神社)より引用転載。

(引用はじめ)
「この文書は丸子良存という武将が、戦に出ている息子の無事を願って、下之郷の生島足島神社の神官に「五百文の広さの土地から取れた本年の作毛(さくげ、収穫物の事)を寄進しますので民部少輔(みんぶのしょう)の無事をお祈りして下さい。」と頼んだときの寄進状です。

この文書は用紙を横に二つに折った、折紙の形式になっています。

今度民部少輔為祈念

五百文之所

當毛寄進可申侯

仍而寄進之状如件

丸子(依田)

良存(花押)
   七月三日
      下郷祢宜殿


年号が書かれていないので、何時いつごろのものか、はっきりしませんが紀州(和歌山県)高野山の蓮華定院というお寺にも、良存が息子の身体堅固を祈って下さいと頼んだ書状が残っていて、書状の中に「当国(信濃国)はことごとく甲越の取合に候。(下略)」と書かれていることから、甲斐(山梨県)の武田信玄と越後(新潟県)の上杉謙信が、天文二十二年(1553)から、永禄年間(1558-70)にかけて、幾度も戦った川中島合戦ごろの文書と考えられています。

また丸子良存(依田良存)は蓮華定院の、戒名や死亡年月日などを書き記した過去帳に「腰越丸子良存」と書かれています。また、依田大和守春賢という武将が、武田信玄から中丸子・下丸子(いずれも丸子町)などの土地を与えられているので、この一族であろうと考えられていることなどから、腰越(丸子町)一帯を領有していた、武田氏配下の武将と考えられています。なお良存の館は、腰越集落西側の山麓に、昭和二十年(1945)ごろまであった、蓮乗寺跡一帯と推定されています。

戦国時代に小県地方の一武将が、戦争に出た息子の無事を願って、神社にお祈りを頼み、寄心状を出していることは、戦うことについてのみ多く残っている文書の中で、当地方の武将の心情を知る上で、興味を引く貴重な文書です。」(引用終わり)

丸子良存館 (10)
旧蓮乗寺の御堂跡。

丸子良存館 (11)
古い五輪塔の欠損、石仏等が往時の伝統を語る。

丸子良存館 (13)
昭和28年~昭和53年までは旧丸子町の養護老人ホームがあり、平成12年に現在の「腰越文化伝承館」が建てられた。

【館跡】

蓮乗寺のあった場所で、現在「腰越文化伝承館」の建つ場所が居館跡と推定されている。一段低い南側も家来や使用人の建物があったかもしれない。
丸子城の居館跡は四つあり、その一つと推定されている。(他は辰ノ口館、安良居神社館、おたや館)

丸子良存館 (17)
丸子城の搦め手に通じる道は現在通行が禁止されている。

丸子良存館 (20)
現在駐車場となっている居館跡の西側。左奥に見えるのが搦め手への登城口。

戦国時代の武将の起請文は勇ましいものが多いが、丸子良存の寄進状のように、戦地に赴いた息子の無事を祈り捧げた文書は極めて異例である。

戦国の世にあって、戦う事が商売稼業の武士といえども、身内の心配は尽きなかったのであろう。子を思う親心はいつの時代も変わりないということが思い知らされるのである。

丸子良存館 (9)
良存屋敷跡から見た腰越橋と「ウモさんにお願いされても、もう二度と行く事の無いだろう鳥羽城」・・(笑)

≪丸子良存館≫ (まるこりょうぞんやかた 東町館・お屋敷)

標高:560m 比高:13m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市腰越
攻城日:2015年6月14日
お勧め度:★★☆☆☆ 
館跡までの所要時間:-分 
駐車場:有り
見どころ:-
参考文献:「信濃の山城と館③上田・小県編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版)
注意事項:特に無し
付近の城跡:丸子城、根羽城、中山城、鳥屋城、鳥羽城(はお勧めしません)
その他:道路狭いので注意

丸子良存館 (2)
腰越橋から見た丸子良存館遠景。


Posted on 2015/06/30 Tue. 22:21 [edit]

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