らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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塩田館 (木曾義仲史跡関連 上田市五加)  

◆義仲の臣「塩田八郎高光」が本拠としたと伝わる居館跡◆

最近、スマホで猫を飼い始めて(というか集めて・・というのが正しいと思う)ハマっている・・(笑)

いかにお金を使わず(課金ともいう)楽しく遊べるか?が課題なのだが案外楽しめるのだ。

ねこあつめ①

ピンきりの猫の中で、いかに戦闘能力の高い猫に士官してもらえるか・・(笑) まさに戦国ゲ―と良く似ている・・・(爆)

謙信公並みの高い戦闘能力を持つ猫がいるらしいので、昌幸公なみの謀略を巡らせている最中ですが・・(笑)

今回ご案内するのは、義仲の臣の中では知名度がイマイチの塩田氏の館跡である。

塩田館見取図①
Yahoo地図の航空写真に縄張り図を描き込んでみる。

【立地】

塩田平の中央部に位置し、独鈷山の中腹にある沢山湖(人造湖)を水源とする産川の左岸にある。
地形から河床の跡地だったようにも思える場所が残る。

塩田館 (1)
中屋敷から見た北東方面。古い時代の産川の広大な河床跡のようだ。

【館主・館歴】

里傳によれば、塩田八郎高光の居館と伝わるが裏付ける資料は見つかっていない。小県郡史にも長野県町村誌の五加村の項にも記述は見当たらない。
伝承の居館跡の中心部に「内堀」「中屋敷」「城村」という古い地名が残っているので、鎌倉時代の塩田氏の居館跡ではないかと推定されている。

塩田館 (2)
東側からみた中屋敷。

「参考源平盛衰記」に「木曾は落合五郎兼行・塩田八郎高光・望月太郎・同次郎・八島四郎行忠・今井四郎兼平・樋口次郎兼光・館六郎親忠・根井・大室・小室を先として、指南・上野両国の勢催集め二千騎を相具して白鳥河原に陣をとる・・・・・・」とあり、義仲挙兵に関係した人物とされる。

しかし、その後の義仲軍において塩田氏の名前は出てこない。義仲の上洛軍には参加せず、頼朝の信濃侵攻に備え守備部隊として残ったというのも的を得ているような気もする。

塩田館 (3)
中屋敷跡の北側には土塁のようなものがあるが、宮沢氏に確認したら、後世の造作物だという。

【館跡】

五加に残る館跡は三つの地域に分かれていて、これらは同一館主に関わるものと考えられているという。

1.内堀(うちぼり)

・産川の流れに近く、南北200m、東西10mの台地で、現在は団地が建っている。西側の低地は水田になっているが、往時は産川の河床で堀を形成したと思われる。

塩田館の内堀地籍①
団地の立ち並ぶ内堀地区。道祖神以外に往時を偲ぶものは何も無い。

2.中屋敷

・たまたま農作業をしていた宮沢氏にお話しを伺う事が出来た。周囲には堀形があったといい、西側の墓地周辺には土塁があったという。「中屋敷」という地名は「妾さんの屋敷」の通称だという。道路を挟んだ南側の上沢邸あたりが「城村」という名が残るので、館主の屋敷跡ではないか?との事でした。

塩田館 (6)
中屋敷北側

3.城村

中屋敷の道路を挟んだ南側が「城村」という地籍なのだが、全くの住宅地であり遺構のカケラも見出す事が出来なかった。
※個人情報保護に配慮し写真も撮影していません。

塩田館 (8)
城村からみた北に位置する中屋敷。

なんせ800年以上も前の話なので、伝承を辿るのも極めて難しい状態なのですが、現地に立つと「そうかもしれない」という思いに駆られるのでしたあ・・・(笑)

≪塩田館≫ (しおだやかた 五加の内堀・中屋敷・城村)

標高:464m 比高:-m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市五加
攻城日:2015年5月17日
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:-分 
駐車場:無し
見どころ:-
参考文献:「信濃の山城と館③上田・小県編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版)
注意事項:私有地なので無断侵入不可
付近の城跡:塩田城、女神山城、手塚館、馬伏城など、

塩田館 (10)
中屋敷の北側。



Posted on 2015/06/24 Wed. 22:51 [edit]

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0621

手塚館 (木曾義仲史跡関連 上田市手塚)  

◆篠原の戦いで義仲の恩人である斉藤実盛を討ち取ったという義仲の忠臣手塚太郎光盛の居館跡◆

木曾の山猿。京に入っては狼藉の限りを尽くし、ついには従兄弟頼朝とその命を享けた義経によって都から排除された田舎者。残念ながらいくら義仲を支持しても、平家物語で語られる人物像はそんなところであろうか。

歴史学において何を基準に「敗者」と称し、何の権利があって「勝者」と呼ばれる人々が事実を歪曲するのか全く理解できないが、少なくとも消そうとすればするほど鮮やかに後世に伝わっているのである。
もし、神様がいるのだとしたら、「勝者」とよばれる方々の数多くの偽証をさぞかし苦々しくお思いの事であろう。

今回ご案内するのは、平家物語の木曾殿の忠臣として登場する手塚太郎の居館跡「手塚館」である。

手塚館(大城) (16)
城館を西側より撮影。背後には塩田城が見える。

【立地】

独鈷山(とっこさん)の北麓、産川の左岸の台地上に手塚集落があり、その北端に「大城」(おおしろ)と呼ばれる手塚氏の館跡がある。塩田城の西側に位置し、「信州の学会」と呼ばれた塩田平における要衝の地でもある。

手塚館(大城) (2)
手塚館跡(現:倉沢邸)の門。倉沢家は代々この地の庄屋だという。

【館主・館歴】

長野県町村誌の手塚村の古跡「手塚氏邸跡」として、「村の北の方、字立石、堰口に跨る字大城 手塚氏代々の邸跡なり」と記載がある。

手塚氏は、木曾義仲挙兵がした時、中南信から随従してきた武士団の中に、樋口、今井、木曾、諏訪、手塚、千野氏がおり、手塚氏は諏訪下社の手塚太郎光盛とされ、叔父(または父とも)の手塚別当とともにその名がみえる。(平家物語、源平盛衰記)
手塚氏の本貫の地が手塚郷と考えられ、唐糸観音堂、手塚屋敷跡、伝手塚太郎五輪塔、光盛寺跡など手塚氏ゆかりの遺跡がある。手塚太郎光盛は、諏訪下社の大祝金刺諏訪大夫盛澄の弟で、義仲軍の中で活躍し、粟津ヶ原で義仲とともに討死している。

手塚館見取図①

手塚館(大城) (15)
大城と呼ばれている倉沢氏の屋敷。

【館跡】

隣家の方に話を伺う事が出来た。それによれば代々倉沢家の屋敷として継がれたが、上田市の市街地に転居し、一時期保育園として利用された時期もあったという。その後、再度この屋敷地に戻られたが、先日高齢の為お亡くなりになり東京に在住のご子息の管理地になっているという。
敷地は東西m、南北mほどの方形居館で、北側には用水路が通るが土塁や堀などの遺構は見当たらない。

手塚館(大城) (9)
保育園として使用された建物はその後民家として使用されたという。

【唐糸観音堂】

個人の邸宅なのだが、義仲にまつわる観音堂が建てられている。以前は屋敷地の南東の隅にあり、そこへの小路を「堂坂」と読んでいたという。
唐糸観音堂の「手塚の唐糸と万寿姫の物語」については、『太田和親、「和親記: s09手塚の唐糸と万寿姫の物語 、http://www13.ueda.ne.jp/~ko525l7/s09.htm、2015年6月21日」』のHPより以下を引用させていただく。

手塚館(大城) (6)
唐糸観音堂。

(唐糸の物語)

 その頃の日本は、平氏、義仲、頼朝の三者でほぼ三分割されていた。しかし、頼朝は同じ源氏の従兄弟の義仲が先に京に入ったことを快く思わず、鎌倉から義仲殺害の指示を出した。その頃、手塚太郎金刺光盛の娘唐糸は頼朝の下で働いていた。唐糸はこれは父手塚太郎の主君義仲の一大事と、京にいる父に手紙で知らせた。「頼朝のすきを見て唐糸が頼朝の寝首を掻くので、首尾よく成功のあかつきには父手塚太郎に信濃と越後の二国を下さい。義仲様の了解のあかしに代々伝わる家宝の短剣を唐糸に下されば、それで頼朝を討って見せましょう。」父手塚太郎光盛はこの手紙を主君義仲に見せた。義仲は、唐糸の忠義を大いに喜び、家宝の名刀の短剣とともに手紙に「この度の唐糸の注進、誠にありがたい。御褒美に父の手塚に信濃と越後二国を与えよう。さらに首尾よく成功したら関東八ヶ国をもさずける。このこと人に知られるな。」と書いて鎌倉の唐糸の元へ送った。唐糸はこの短剣を肌身離さず、また、義仲の手紙は部屋に隠した。頼朝のすきをうかがうがなかなかよい機会が巡って来ない。そうこうしていると、頼朝とその妻政子のお風呂のお供を仰せつかった。脱いだ着物の下に隠しておいた短剣を、風呂奉行の土屋三郎に見つかってしまった。問い詰められ木曽殿に仕えている時に形見にと頂いたと言い訳するが、木曽殿の代々伝わる名短刀を女の持つ形見にしてはあまりに不釣り合いと、いよいよ疑いを深められ松が岡の尼寺に暫く預けられた。風呂奉行の土屋はさらに唐糸の部屋を捜索して木曽義仲の手紙を発見し頼朝暗殺計画を暴いた。そこで唐糸は石の牢屋に入れられてしまった。

手塚館(大城) (7)

 信濃国手塚の唐糸の娘万寿姫は母の入牢を伝え聞き、名を隠し鎌倉に上って母を救い出す決心をした。万寿姫はお祖母さんの反対を押し切って、乳母の更級とともに鎌倉に上り名前や出自を偽り頼朝の屋敷で働いた。母の入れられた石牢を見つけ出したがどうすることも出来ない。そうこうしていると頼朝の屋敷で不思議なことが起こった。何と屋敷の中の畳のへりから松が六本生えてきたのだ。凶か吉かを占わせるために陰陽博士を呼んだ。松は千年の命ゆえ、六本も生えたのは頼朝の子孫が六千年も栄えることを意味する、吉兆であると占いが出た。そこで、祝賀の宴を開くことになった。十二人の美しい舞姫の舞いを鶴岡八幡宮の神前に奉納することとなった。舞姫は十一人まで集まったが、あと一人だけ足りなかった。そこで人にすぐれて美しい万寿姫がその舞姫になることを、乳母の更級が勧めて舞うことになった。美人の万寿姫が今様を上手に華麗に舞うと、感動の余り頼朝も途中から万寿姫と一緒に今様を舞った。

手塚館(大城) (8)
唐糸観音堂の正面。ご本尊が再び見られる日は来るのでしょうか?

翌日、頼朝は万寿姫を館に呼び出し「なんじは今様の名人だ。国は何処だ。親は誰だ。褒美に如何なる望みのものも取らせる。」と告げた。万寿姫はこの時を逃せば母を助けることは出来まい、我が命を奪われても構わないと心に言い聞かし、「実は、石牢に捕らわれの唐糸の子で、万寿姫と申します。母の代わりに私が石牢に入りますので、母を助けて下さい。」と助命を涙ながらに申し出た。その母を思う娘の孝行な心根に、頼朝をはじめ同席の全ての者が心打たれてもらい泣きした。そして、頼朝から母唐糸ばかりか娘の万寿姫も信濃に一緒に帰ることを許された。その上、頼朝からも他の多くの武士からも二人に沢山のみやげが贈られた。
 信濃国手塚ではお祖母さんが娘の唐糸と孫の万寿姫の二人のことを毎日心配し、その心労の余り病の床に着いていた。二人が帰国して無事な姿を見せると、お祖母さんは元気になったという。誠に唐糸の忠義、万寿姫の親孝行のめでたい話である。

手塚館(大城) (11)
主の途絶えたこの居館、ある日突然更地にされても文句は言えないが、上田市は何らかのアプローチが必要かと・・。

【明治二年(1869)の百姓一揆の標的】

隣家のご主人も郷土の歴史を学んだ方らしく、明治二年に上田藩で青木村に端を発した百姓一揆が発生し、庄屋だった倉沢家も標的にされ、その時の一揆勢による焼き討ちの跡が正門の屋根裏にあることを教えて頂いた。

手塚館(大城) (12)
門の屋根裏に残る放火の跡。

【駒の足形橋】

手塚太郎光盛に関する史跡として、近所には「駒の足形橋」がある。

安徳天皇の寿永元年(1182)に、木曾義仲は横田河原で城助長の三万の軍勢と戦う。
義仲軍団の中枢となった手塚太郎光盛は、戦の当日に妻や娘の唐糸、乳母の更科と別れの杯を交わし、馬に乗り、館の前の石橋に馬を進めて武運長久を祈った。

石橋の上で軍神に祈願をこめたそのとき、武運長久・幸運のきざしがみえたものか、光盛の乗る騎馬の蹄の跡が石橋に残ったという。これが「駒の足形橋」の由来である。

手塚館(大城) (21)
せっかく修復したのに、近所のガキどもが落書きをして「訳が分からなくなった」駒形橋。

手塚館(大城) (20)
馬の蹄鉄など無かった時代に、このような蹄の跡が残るのかは疑問だが、そこは「伝承」という事で・・・・。

手塚太郎光盛といえば、篠原合戦で義仲の恩人である斉藤実盛を討ち取った「首洗い池」の史話で有名である。

彼の人生もまた波乱万丈ではあったが、一点の曇りも無かったと思われるのである。

≪手塚館≫ (てづかやかた 大城)

標高:511m 比高:-m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市手塚
攻城日:2015年5月17日
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:-分 
駐車場:無し
見どころ:-
参考文献:「信濃の山城と館③上田・小県編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版)「長野県町村誌」など
注意事項:私有地なので無断侵入不可
付近の城跡:塩田城、女神山城、塩田館、馬伏城など、

手塚館(大城) (17)
手塚館遠景。









Posted on 2015/06/21 Sun. 22:09 [edit]

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開戸城 (木曾義仲史跡関連 上田市中丸子)  

◆木曾義仲の築城伝説の残る居館跡◆

戦国時代ばかりに没頭するのも悪くは無いが、気分転換に武家政権樹立に至る過程をおさらいすると結構ハマる。

松山ケンイチ清盛の大河ドラマはイマイチパッとしない国民の大多数の評判であったが、歴史をかじった者からすれば、公家社会の番犬として虐げられてきた武士がその存在感を増して、公家から政権を奪取していく過程を描いた秀作であった。

残念ながらその前の大河ドラマ「タッキー義経」ではキチンと脇役として登場していた小澤義仲が、松山ケンイチ清盛では全く登場しなかった(汗) まあ、清盛は義仲の存在など全く無視していたらしいので、仕方ないか・・・(笑)

今回ご案内するのは、義仲による築城伝説の残る開戸城(かいどじょう)。

開戸城(上田市中丸子) (12)
丸子稲荷社のある場所が開戸城の伝承地である。

【立地】

大門峠に向かう国道152号線の東側に並行して旧丸子町の市街地を走る「県道 上田・茅野線」の中丸子地区の段丘上で、現在は長泉寺、中丸子公民館のある場所が城跡。付近は高台になっているので往時の見晴らしは良かったと思われる。

開戸城(上田市中丸子) (13)
石垣は後世のものであるが、右側の一段高い部分が開戸城の跡地。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」の中丸子村の項に「古城址」(里俗傳に依田城と云う) として以下の記載がある。

「村の辰巳の方字開戸になり。西一丈許低地なり。三方へ開け、平地にして今畑となる。源平盛衰記、平家物語に、養和元年九月、木曾義仲以仁王の令旨を奉じ、依田城に苑旗を揚げ、信上の諸将來属すとあり。」

義仲古城絵図①
長野県町村誌に掲載されている古城図。

また、城跡に建つ丸子稲荷縁起を記した石碑(昭和42年2月)には、正一位丸子稲荷奉賛会として、

「治承四年九月 源義仲以仁王の令旨を奉じて木曾宮之越しに平家討伐の兵を挙ぐ。次いで同月十五日 今井・樋口・落合・巴を初め一族郎党を率い余戸郡鞠子表に出陣して開土城を築き 流旗を殿城山上に樹つ 斯て真言の幕僧太夫坊覚明をして城の四方固の守護神の一として稲荷明神を勧進し護摩を焚き怨敵調伏を厳修する風邪を臨み参ずるもの三千余騎 大いに振い横田河原北陸に転戦大捷し遂に平家を京師頼追放す・・・(後略)」とある。

開戸城見取図①
県道から入った部分。

開戸城(上田市中丸子) (9)
長泉寺は稲荷社の一段下に位置するので帯郭の跡かもしれない。

【城跡】

800年以上も前の城館なので場所の特定はかなり厳しいが、北側に八幡社が現存しているので「長野県町村誌」の古城図は誤りではないようだ。周囲を水路が囲んでいるので、要害性というよりも居住地として屋敷等があったと思われる。

開戸城(上田市中丸子) (16)
館の北側を流れる水路。

開戸城(上田市中丸子) (19)
北西隅の八幡社。源氏の氏神である。

開戸城(上田市中丸子) (23)
主郭付近。旧中丸子公民館は解体されたので駐車場になっている。

この館城を義仲が築城したかどうかは記録がないので不明だ。養和元年(1181)に越後より進軍してきた城助職を横田河原(長野市)で破った義仲は、飢饉発生の為に二年間に上洛出来ずに信濃に留まっているので、その時に整備された居館の一つかもしれない。

開戸城(上田市中丸子) (8)
立派な「お稲荷さん」でございますw

開戸城(上田市中丸子) (22)
正一位のお稲荷さんは居館の西側にありますw

開戸城(上田市中丸子) (1)
お稲荷さんの東側に説明板と史跡の看板があります。

説明板には、義仲の家臣だった円子小忠太(まるここちゅうた)の屋敷跡ではないかと推定しているが、案外そうかもしれない。

源氏の総大将として京へ攻め登る方の屋敷としては狭すぎるような気がする。

開戸城(上田市中丸子) (3)
城跡の看板。

≪開戸城≫ (かいどじょう 義仲古城・依田城)

標高:527m 比高:5m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市中丸子
攻城日:2015年6月14日(再訪)
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:-分 
駐車場:有り ※中丸子公民館の駐車場借用
見どころ:-
参考文献:「信濃の山城と館③上田・小県編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版)「長野県町村誌」など
注意事項:住宅地もあるので見学や撮影には注意が必要。
付近の城跡:御岳堂館、依田城、丸子城、依田常憲屋敷、尾野山城など









Posted on 2015/06/17 Wed. 06:11 [edit]

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御岳堂館 (木曾義仲史跡関連 上田市御岳堂)  

◆木曾を出立し府中経由で東信濃に活動拠点を移した義仲の居館跡◆

治承四年(1180)、以仁王の令旨を拝し木曾の宮ノ腰で挙兵した木曾義仲は、南信濃の平家方の笠原頼直と対峙していた北信濃の源氏救援に向かい(市原の戦い)、笠原氏は戦わずして越後の城助職(じょうすけもと)の許に逃れた。

義仲は、その足で父の源義賢の領国であった上野国多胡庄に赴く。旧主の嫡子の挙兵を知り上野や武蔵より馳せ参じる土豪に嬉しさを隠せない義仲であったが、関東で着実に勢力を広げつつあった源頼朝と衝突する危険とも隣合わせだった。

この時代、源平合戦と称して「源氏VS平氏」がクローズアップされるが、源氏同士の戦いも至極当たり前であったのだ。

御岳堂館 (6)
義仲居館跡の一つとされる「御岳堂館」(みたけどうやかた)に立つ説明板。地元愛好会の義仲への愛情が感じられる。

実際のところ、源氏同士の消耗戦は平氏一門の「思う壺」であったに違いない。

義仲は熟慮の結果、源氏の基盤であった関東の支配を頼朝に任せ、途中で合流した根井父子を従え信濃へ急遽凱旋した。
もうひとつの要因は、笠原氏を庇護した越後の城助職が義仲軍の基盤である信濃への侵攻を準備しているとの情報が入った為でもあった。

義仲はひとまず東信濃の土豪である依田氏の勧めで小県郡の依田窪(現在の上田市御岳堂)に居館を構え、平家討伐に同調する土豪を募り軍団を再編成すると同時に、城助職や北陸方面の平家勢力に関する情報収集に努めた。

今回ご案内するのは、丸子地区に伝承のある三つの義仲の居館跡(御岳堂館、宗龍寺舘、開戸城)のうちの「御岳堂館」(みたけどうやかた)である。

御岳堂館 (21)
御岳神社の手前100m付近が居館跡で案内板もあるが、道が狭いので軽自動車以外での訪問は難しいので注意。

【立地】

依田城のある金鳳山(きんほうざん)の北麓になり、北側には唐沢の谷が天然の堀を形成し、北向きの傾斜地を階段状に平削している。西には御岳神社への参道があり、唐沢の北側には高築地と呼ばれる依田氏の居館があった。北信濃へ通じる塩田平と佐久・諏訪へ向かう依田窪を結ぶ要衝の地である。

御岳堂館見取図①
北向きですが、日当たり良好の物件ですw

御岳堂館 (2)
郭4の入口には冠木門が復元されている。

【館主・館歴】

「長野県町村誌」の御嶽堂村には「高築地」と呼ばれた場所を「依田氏居館址」として記載されているが、御岳堂館については表記がない。

「小県郡史」には「依田城址」として宗龍寺館の説明の後に「・・・・又本郭の西北、金鳳山の山腰に、依田氏邸宅の址と傳ふる地あり。邸址は東西四十間、南北十八間あり。北に接して削平地二階あり、上なるは東西六十間、南北二十間、下なるは東西六十間、南北七間あり。更に下れば一河谷の東流するありて、自然の濠をなせr。南に城を負ひ、西方山脊によりて之に通ずるを得、邸址というもの當れるが如し。・・・・(後略)・」この部分の記載が御岳堂館を指している。
依田氏は上野より凱旋した義仲にこの居館を譲り、唐沢の北側になる高築地に移ったとされる。(高築地は後日記載予定)

御岳堂館 (3)
屋敷の中心と思われる郭4より北方面。

御岳堂館 (7)
屋敷跡は「門」、砦跡は「物見」という発想はいただけないが、具体的なイメージを思い描くには仕方が無いかと・・・(汗)

【館跡】

現在残る耕作地としての削平された数段の段郭が800年前の遺構を残しているとはとても思えない。
さりとて、義仲滅亡後は頼朝政権による東信濃に対する厳しい落ち武者狩りが行われた事は間違いない事であろう。

居館群と思しき数段の郭のうち、中枢に位置したのは冠木門のある郭4という推定は、小県郡史の記述を照合してもあながち間違いではないだろう。

御岳堂館 (9)
西側から見た郭4.

御岳堂館 (13)
防御のかけらも感じられない屋敷跡。

確かにロケーションの素晴らしさをと立地条件は申し分ないが、源氏の大将たる義仲の居館としてはいささか無防備である。のちほどご案内する宗龍寺も義仲の館と伝わるのが、そちらだった可能性の方が高いと思う。

御岳堂館 (24)
城域で最も広い郭1。家臣団の屋敷が並んだのであろうか?

御岳堂館 (22)
堀も土塁も無い屋敷地。周囲から攻め込まれる可能性が仮に「0」だとしてもあり得ない縄張りである。

養和元年(1181)二月、平家の総帥であった清盛が死んだ。彼の心残りは頼朝を成敗出来なかった事だけであって、義仲の存在など気にも止めていない。
なので某国営放送の大河ドラマでも松山ケンイチ清盛の存命中に木曾義仲は登場しなかったのだ・・(笑)

御岳堂館 (26)
ここに義仲の居館があったのかどうかは「タイムマシンにお願い」しないと分からないのである・・(笑)

この年の六月、横田河原(長野市)で平家方の城助職(越後)の大軍を寡兵で破るが、養和の飢饉が発生し義仲の上洛作戦は2年間の中断を余儀なくされた。(この辺の事情をご存知の方は少ない・・)
頼朝との軍事衝突の危機に瀕したのもこの時で、義仲の英断により嫡子義高を鎌倉へ人質として送る事で回避に成功した。

御岳堂館 (15)

家臣の献身的な支えによって結束力を高めた義仲軍団。しかし寿永二年(1183)のたった1年間で天国と地獄を体験する事となる。
もう一度見たいと思った木曾の宮ノ腰、そしてここ依田城の眼下の風景。その思いは叶う事が無かったのである。

御岳神社①
居館の西側にある御岳神社。

≪御岳堂館≫ (みたけどうかた)
標高:594m 比高:- m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市御岳堂
攻城日:2015年6月13日(再訪)
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:5分 
駐車場:無し ※軽自動車なら突き当りの御岳神社へ駐車可
見どころ:居館址地
参考文献:「信濃の山城と館③上田・小県編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版) 「小縣郡史」「7長野県町村誌」など
注意事項:私有地・耕作地なので見学には注意が必要
付近の城跡:市の町砦、陣場砦、芝宮砦、尾野山城など

依田城② (3)
依田城から見た北方面。

















Posted on 2015/06/13 Sat. 23:58 [edit]

CM: 10
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古城館 (木曾義仲史跡関連 上田市長瀬)  

◆木曾義仲の従弟「長瀬判官代義員」の館城と伝わる単郭の居館◆

前回の記事で述べた通り、武士が政治の表舞台に台等する平安末期は約800年前の出来ごとであり、今に伝えられる往時の史跡については伝説や伝承の域を出ないケースが多い。

それを承知で掲載するのは、「戦国の城とは趣を異にする」とお叱りを受けそうだが、戦国時代まで改修を受けて使われたであろう山城・城館はリストに加え、信憑性に乏しい史跡は「義仲ゆかりの推定史跡」として区別していきたいと思う。
基準は極めて曖昧なのだが、小生の直感ということで平にお赦しいただきたい・・・(笑)

今回ご案内するのは、依田氏と共に義仲を東信濃に招聘した豪族「長瀬氏」の居城跡。

古城館跡(丸子町) (1)
南側を流れる練合沢からみた堀切。

【立地】

依田川が千曲川に合流する手前約3kmの右岸の段丘上に位置する。依田川を挟んだ対岸の尾根先には尾野山城があり、依田川流域を南下すれば義仲の居館と依田城を経由して大門峠・和田峠を越えて中信濃へ。そして東へは芦田・望月に通じる要衝の地である。

古城館見取図①
極めてオーソドックスな単郭なんですが、それがイイんですw

古城館跡(丸子町) (2)
居館の南側。道路が作られる前は川(練合沢)に面していたのであろう。


【城主・城歴】

この城館には治承四年(1180)九月に木曾義仲が依田城で挙兵した時に、この地に義仲を迎え入れた中心人物の一人と考えられる長瀬氏がいたのではないかと言われている。

古城館跡(丸子町) (4)
空堀に残る祠。今でも地元の方々に大切にされているようだ。

小県郡史(大正十一年)には「古城址」として以下の記載がある。

「古城は長瀬村古城にある平城にして、西と北とは依田川河段丘に沿ひ、南方に空堀の跡残れり。其の他開墾して田園とんる。里傳に武田の幕下海野民部の臣春原六左衛門の居城といふ。其他に元和元年五月の南無阿弥陀仏の石碑あり、裏面に春原六左衛門尉と刻す。城址の地系は飯沼氏の中城に似たり。
源平盛衰記に見ゆる所の長瀬判官代義員(ながせほうがんだいよしかず)が若し此の地の武士たらんには、或いは此処に拠りたらんか。飯沼氏長瀬氏何れも木曾義仲の従士たり、又信濃細石は曰く長瀬城は平賀武蔵守源朝雅の持ち城にして、永正十七年に至るまで家臣交代して之を守る、平賀源心に至り本城を退去す、之を以て大井美作守玄岑の持ち城となる、天文十二年武田氏のために本城内山落城せるを以て此の城を破却せしむと。

古城館跡(丸子町) (7)
堀形がハッキリ残っているのには驚いた。

古城館跡(丸子町) (8)
南西に突き出る河岸段丘を平削した主郭(44×54)

【城跡】

当初は単郭の方形居館だったようだが、時代の変遷とともに周囲へ拡張していったものと考えられるが、現状を見る限りでは、主郭以外の郭については耕作地・住宅建設による改変が進み城域を確定する事は難しい。

古城館跡(丸子町) (16)
画面中央右の白壁のお堂は春原氏石碑址で長瀬氏の後にこの居館へ入ったと伝わる。


古城館跡(丸子町) (24)
「木曾義仲 信州丸子会」の皆様の説明文。(居館西側のT字路入口に立つ)

長瀬氏の経歴ははっきりしないが、義仲の従士として依田次郎、円子小中太とともにその名が見える。源平盛衰記には「宇治川の戦い」で信濃国住人長瀬判官代義員としてその奮戦の様子が描かれている。

古城館跡(丸子町) (29)
城域の北側から撮影。

古城館跡(丸子町) (33)
西側に二段の郭があったと思われる。

西に隣接する延命寺あたりも防御施設等があったと思われるが、推定に過ぎない。

いずれにしても古い形式の居館城に属するもので、義仲とどの程度の絡みがあったのかは不明だ。

≪古城館≫ (こじょうやかた)
標高:521m 比高:13m (西下道路より) 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市長瀬
攻城日:2015年5月17日
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:5分 
駐車場:無し ※集落内の道路は狭いので、路駐厳禁。
見どころ:堀切跡
参考文献:「信濃の山城と館③上田・小県編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版) 「小縣郡史」など
注意事項:私有地・耕作地なので見学には注意が必要
付近の城跡:市の町砦、陣場砦、芝宮砦、尾野山城など

尾野山城② (4)
対岸の尾野山城からみた古城館の位置。



Posted on 2015/06/10 Wed. 21:51 [edit]

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