らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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開戸城 (木曾義仲史跡関連 上田市中丸子)  

◆木曾義仲の築城伝説の残る居館跡◆

戦国時代ばかりに没頭するのも悪くは無いが、気分転換に武家政権樹立に至る過程をおさらいすると結構ハマる。

松山ケンイチ清盛の大河ドラマはイマイチパッとしない国民の大多数の評判であったが、歴史をかじった者からすれば、公家社会の番犬として虐げられてきた武士がその存在感を増して、公家から政権を奪取していく過程を描いた秀作であった。

残念ながらその前の大河ドラマ「タッキー義経」ではキチンと脇役として登場していた小澤義仲が、松山ケンイチ清盛では全く登場しなかった(汗) まあ、清盛は義仲の存在など全く無視していたらしいので、仕方ないか・・・(笑)

今回ご案内するのは、義仲による築城伝説の残る開戸城(かいどじょう)。

開戸城(上田市中丸子) (12)
丸子稲荷社のある場所が開戸城の伝承地である。

【立地】

大門峠に向かう国道152号線の東側に並行して旧丸子町の市街地を走る「県道 上田・茅野線」の中丸子地区の段丘上で、現在は長泉寺、中丸子公民館のある場所が城跡。付近は高台になっているので往時の見晴らしは良かったと思われる。

開戸城(上田市中丸子) (13)
石垣は後世のものであるが、右側の一段高い部分が開戸城の跡地。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」の中丸子村の項に「古城址」(里俗傳に依田城と云う) として以下の記載がある。

「村の辰巳の方字開戸になり。西一丈許低地なり。三方へ開け、平地にして今畑となる。源平盛衰記、平家物語に、養和元年九月、木曾義仲以仁王の令旨を奉じ、依田城に苑旗を揚げ、信上の諸将來属すとあり。」

義仲古城絵図①
長野県町村誌に掲載されている古城図。

また、城跡に建つ丸子稲荷縁起を記した石碑(昭和42年2月)には、正一位丸子稲荷奉賛会として、

「治承四年九月 源義仲以仁王の令旨を奉じて木曾宮之越しに平家討伐の兵を挙ぐ。次いで同月十五日 今井・樋口・落合・巴を初め一族郎党を率い余戸郡鞠子表に出陣して開土城を築き 流旗を殿城山上に樹つ 斯て真言の幕僧太夫坊覚明をして城の四方固の守護神の一として稲荷明神を勧進し護摩を焚き怨敵調伏を厳修する風邪を臨み参ずるもの三千余騎 大いに振い横田河原北陸に転戦大捷し遂に平家を京師頼追放す・・・(後略)」とある。

開戸城見取図①
県道から入った部分。

開戸城(上田市中丸子) (9)
長泉寺は稲荷社の一段下に位置するので帯郭の跡かもしれない。

【城跡】

800年以上も前の城館なので場所の特定はかなり厳しいが、北側に八幡社が現存しているので「長野県町村誌」の古城図は誤りではないようだ。周囲を水路が囲んでいるので、要害性というよりも居住地として屋敷等があったと思われる。

開戸城(上田市中丸子) (16)
館の北側を流れる水路。

開戸城(上田市中丸子) (19)
北西隅の八幡社。源氏の氏神である。

開戸城(上田市中丸子) (23)
主郭付近。旧中丸子公民館は解体されたので駐車場になっている。

この館城を義仲が築城したかどうかは記録がないので不明だ。養和元年(1181)に越後より進軍してきた城助職を横田河原(長野市)で破った義仲は、飢饉発生の為に二年間に上洛出来ずに信濃に留まっているので、その時に整備された居館の一つかもしれない。

開戸城(上田市中丸子) (8)
立派な「お稲荷さん」でございますw

開戸城(上田市中丸子) (22)
正一位のお稲荷さんは居館の西側にありますw

開戸城(上田市中丸子) (1)
お稲荷さんの東側に説明板と史跡の看板があります。

説明板には、義仲の家臣だった円子小忠太(まるここちゅうた)の屋敷跡ではないかと推定しているが、案外そうかもしれない。

源氏の総大将として京へ攻め登る方の屋敷としては狭すぎるような気がする。

開戸城(上田市中丸子) (3)
城跡の看板。

≪開戸城≫ (かいどじょう 義仲古城・依田城)

標高:527m 比高:5m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市中丸子
攻城日:2015年6月14日(再訪)
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:-分 
駐車場:有り ※中丸子公民館の駐車場借用
見どころ:-
参考文献:「信濃の山城と館③上田・小県編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版)「長野県町村誌」など
注意事項:住宅地もあるので見学や撮影には注意が必要。
付近の城跡:御岳堂館、依田城、丸子城、依田常憲屋敷、尾野山城など









Posted on 2015/06/17 Wed. 06:11 [edit]

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0613

御岳堂館 (木曾義仲史跡関連 上田市御岳堂)  

◆木曾を出立し府中経由で東信濃に活動拠点を移した義仲の居館跡◆

治承四年(1180)、以仁王の令旨を拝し木曾の宮ノ腰で挙兵した木曾義仲は、南信濃の平家方の笠原頼直と対峙していた北信濃の源氏救援に向かい(市原の戦い)、笠原氏は戦わずして越後の城助職(じょうすけもと)の許に逃れた。

義仲は、その足で父の源義賢の領国であった上野国多胡庄に赴く。旧主の嫡子の挙兵を知り上野や武蔵より馳せ参じる土豪に嬉しさを隠せない義仲であったが、関東で着実に勢力を広げつつあった源頼朝と衝突する危険とも隣合わせだった。

この時代、源平合戦と称して「源氏VS平氏」がクローズアップされるが、源氏同士の戦いも至極当たり前であったのだ。

御岳堂館 (6)
義仲居館跡の一つとされる「御岳堂館」(みたけどうやかた)に立つ説明板。地元愛好会の義仲への愛情が感じられる。

実際のところ、源氏同士の消耗戦は平氏一門の「思う壺」であったに違いない。

義仲は熟慮の結果、源氏の基盤であった関東の支配を頼朝に任せ、途中で合流した根井父子を従え信濃へ急遽凱旋した。
もうひとつの要因は、笠原氏を庇護した越後の城助職が義仲軍の基盤である信濃への侵攻を準備しているとの情報が入った為でもあった。

義仲はひとまず東信濃の土豪である依田氏の勧めで小県郡の依田窪(現在の上田市御岳堂)に居館を構え、平家討伐に同調する土豪を募り軍団を再編成すると同時に、城助職や北陸方面の平家勢力に関する情報収集に努めた。

今回ご案内するのは、丸子地区に伝承のある三つの義仲の居館跡(御岳堂館、宗龍寺舘、開戸城)のうちの「御岳堂館」(みたけどうやかた)である。

御岳堂館 (21)
御岳神社の手前100m付近が居館跡で案内板もあるが、道が狭いので軽自動車以外での訪問は難しいので注意。

【立地】

依田城のある金鳳山(きんほうざん)の北麓になり、北側には唐沢の谷が天然の堀を形成し、北向きの傾斜地を階段状に平削している。西には御岳神社への参道があり、唐沢の北側には高築地と呼ばれる依田氏の居館があった。北信濃へ通じる塩田平と佐久・諏訪へ向かう依田窪を結ぶ要衝の地である。

御岳堂館見取図①
北向きですが、日当たり良好の物件ですw

御岳堂館 (2)
郭4の入口には冠木門が復元されている。

【館主・館歴】

「長野県町村誌」の御嶽堂村には「高築地」と呼ばれた場所を「依田氏居館址」として記載されているが、御岳堂館については表記がない。

「小県郡史」には「依田城址」として宗龍寺館の説明の後に「・・・・又本郭の西北、金鳳山の山腰に、依田氏邸宅の址と傳ふる地あり。邸址は東西四十間、南北十八間あり。北に接して削平地二階あり、上なるは東西六十間、南北二十間、下なるは東西六十間、南北七間あり。更に下れば一河谷の東流するありて、自然の濠をなせr。南に城を負ひ、西方山脊によりて之に通ずるを得、邸址というもの當れるが如し。・・・・(後略)・」この部分の記載が御岳堂館を指している。
依田氏は上野より凱旋した義仲にこの居館を譲り、唐沢の北側になる高築地に移ったとされる。(高築地は後日記載予定)

御岳堂館 (3)
屋敷の中心と思われる郭4より北方面。

御岳堂館 (7)
屋敷跡は「門」、砦跡は「物見」という発想はいただけないが、具体的なイメージを思い描くには仕方が無いかと・・・(汗)

【館跡】

現在残る耕作地としての削平された数段の段郭が800年前の遺構を残しているとはとても思えない。
さりとて、義仲滅亡後は頼朝政権による東信濃に対する厳しい落ち武者狩りが行われた事は間違いない事であろう。

居館群と思しき数段の郭のうち、中枢に位置したのは冠木門のある郭4という推定は、小県郡史の記述を照合してもあながち間違いではないだろう。

御岳堂館 (9)
西側から見た郭4.

御岳堂館 (13)
防御のかけらも感じられない屋敷跡。

確かにロケーションの素晴らしさをと立地条件は申し分ないが、源氏の大将たる義仲の居館としてはいささか無防備である。のちほどご案内する宗龍寺も義仲の館と伝わるのが、そちらだった可能性の方が高いと思う。

御岳堂館 (24)
城域で最も広い郭1。家臣団の屋敷が並んだのであろうか?

御岳堂館 (22)
堀も土塁も無い屋敷地。周囲から攻め込まれる可能性が仮に「0」だとしてもあり得ない縄張りである。

養和元年(1181)二月、平家の総帥であった清盛が死んだ。彼の心残りは頼朝を成敗出来なかった事だけであって、義仲の存在など気にも止めていない。
なので某国営放送の大河ドラマでも松山ケンイチ清盛の存命中に木曾義仲は登場しなかったのだ・・(笑)

御岳堂館 (26)
ここに義仲の居館があったのかどうかは「タイムマシンにお願い」しないと分からないのである・・(笑)

この年の六月、横田河原(長野市)で平家方の城助職(越後)の大軍を寡兵で破るが、養和の飢饉が発生し義仲の上洛作戦は2年間の中断を余儀なくされた。(この辺の事情をご存知の方は少ない・・)
頼朝との軍事衝突の危機に瀕したのもこの時で、義仲の英断により嫡子義高を鎌倉へ人質として送る事で回避に成功した。

御岳堂館 (15)

家臣の献身的な支えによって結束力を高めた義仲軍団。しかし寿永二年(1183)のたった1年間で天国と地獄を体験する事となる。
もう一度見たいと思った木曾の宮ノ腰、そしてここ依田城の眼下の風景。その思いは叶う事が無かったのである。

御岳神社①
居館の西側にある御岳神社。

≪御岳堂館≫ (みたけどうかた)
標高:594m 比高:- m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市御岳堂
攻城日:2015年6月13日(再訪)
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:5分 
駐車場:無し ※軽自動車なら突き当りの御岳神社へ駐車可
見どころ:居館址地
参考文献:「信濃の山城と館③上田・小県編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版) 「小縣郡史」「7長野県町村誌」など
注意事項:私有地・耕作地なので見学には注意が必要
付近の城跡:市の町砦、陣場砦、芝宮砦、尾野山城など

依田城② (3)
依田城から見た北方面。

















Posted on 2015/06/13 Sat. 23:58 [edit]

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0610

古城館 (木曾義仲史跡関連 上田市長瀬)  

◆木曾義仲の従弟「長瀬判官代義員」の館城と伝わる単郭の居館◆

前回の記事で述べた通り、武士が政治の表舞台に台等する平安末期は約800年前の出来ごとであり、今に伝えられる往時の史跡については伝説や伝承の域を出ないケースが多い。

それを承知で掲載するのは、「戦国の城とは趣を異にする」とお叱りを受けそうだが、戦国時代まで改修を受けて使われたであろう山城・城館はリストに加え、信憑性に乏しい史跡は「義仲ゆかりの推定史跡」として区別していきたいと思う。
基準は極めて曖昧なのだが、小生の直感ということで平にお赦しいただきたい・・・(笑)

今回ご案内するのは、依田氏と共に義仲を東信濃に招聘した豪族「長瀬氏」の居城跡。

古城館跡(丸子町) (1)
南側を流れる練合沢からみた堀切。

【立地】

依田川が千曲川に合流する手前約3kmの右岸の段丘上に位置する。依田川を挟んだ対岸の尾根先には尾野山城があり、依田川流域を南下すれば義仲の居館と依田城を経由して大門峠・和田峠を越えて中信濃へ。そして東へは芦田・望月に通じる要衝の地である。

古城館見取図①
極めてオーソドックスな単郭なんですが、それがイイんですw

古城館跡(丸子町) (2)
居館の南側。道路が作られる前は川(練合沢)に面していたのであろう。


【城主・城歴】

この城館には治承四年(1180)九月に木曾義仲が依田城で挙兵した時に、この地に義仲を迎え入れた中心人物の一人と考えられる長瀬氏がいたのではないかと言われている。

古城館跡(丸子町) (4)
空堀に残る祠。今でも地元の方々に大切にされているようだ。

小県郡史(大正十一年)には「古城址」として以下の記載がある。

「古城は長瀬村古城にある平城にして、西と北とは依田川河段丘に沿ひ、南方に空堀の跡残れり。其の他開墾して田園とんる。里傳に武田の幕下海野民部の臣春原六左衛門の居城といふ。其他に元和元年五月の南無阿弥陀仏の石碑あり、裏面に春原六左衛門尉と刻す。城址の地系は飯沼氏の中城に似たり。
源平盛衰記に見ゆる所の長瀬判官代義員(ながせほうがんだいよしかず)が若し此の地の武士たらんには、或いは此処に拠りたらんか。飯沼氏長瀬氏何れも木曾義仲の従士たり、又信濃細石は曰く長瀬城は平賀武蔵守源朝雅の持ち城にして、永正十七年に至るまで家臣交代して之を守る、平賀源心に至り本城を退去す、之を以て大井美作守玄岑の持ち城となる、天文十二年武田氏のために本城内山落城せるを以て此の城を破却せしむと。

古城館跡(丸子町) (7)
堀形がハッキリ残っているのには驚いた。

古城館跡(丸子町) (8)
南西に突き出る河岸段丘を平削した主郭(44×54)

【城跡】

当初は単郭の方形居館だったようだが、時代の変遷とともに周囲へ拡張していったものと考えられるが、現状を見る限りでは、主郭以外の郭については耕作地・住宅建設による改変が進み城域を確定する事は難しい。

古城館跡(丸子町) (16)
画面中央右の白壁のお堂は春原氏石碑址で長瀬氏の後にこの居館へ入ったと伝わる。


古城館跡(丸子町) (24)
「木曾義仲 信州丸子会」の皆様の説明文。(居館西側のT字路入口に立つ)

長瀬氏の経歴ははっきりしないが、義仲の従士として依田次郎、円子小中太とともにその名が見える。源平盛衰記には「宇治川の戦い」で信濃国住人長瀬判官代義員としてその奮戦の様子が描かれている。

古城館跡(丸子町) (29)
城域の北側から撮影。

古城館跡(丸子町) (33)
西側に二段の郭があったと思われる。

西に隣接する延命寺あたりも防御施設等があったと思われるが、推定に過ぎない。

いずれにしても古い形式の居館城に属するもので、義仲とどの程度の絡みがあったのかは不明だ。

≪古城館≫ (こじょうやかた)
標高:521m 比高:13m (西下道路より) 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市長瀬
攻城日:2015年5月17日
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:5分 
駐車場:無し ※集落内の道路は狭いので、路駐厳禁。
見どころ:堀切跡
参考文献:「信濃の山城と館③上田・小県編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版) 「小縣郡史」など
注意事項:私有地・耕作地なので見学には注意が必要
付近の城跡:市の町砦、陣場砦、芝宮砦、尾野山城など

尾野山城② (4)
対岸の尾野山城からみた古城館の位置。



Posted on 2015/06/10 Wed. 21:51 [edit]

CM: 4
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0405

燕城2 (リテイク 上田市上塩尻)  

◆在地土豪の物見砦か◆

上田城跡公園の桜も咲き始め、山城シーズンの終了は目と鼻の先まで迫っている。

そんな中、4日(土)は天気が良いと聞いて北信濃へ向かった信濃先方衆は、再び深い霧と残雪に行く手を阻まれた。

柏鉢城 (4)
標柱も割れる衝撃と登山禁止の文字。それでも我々は前に進むしか無かった・・・・

一日中ヘロヘロになって「僅かに山城二つと居館跡一つ・・・」これだけの戦果だった・・・(汗)

その聞くも涙、語るも涙の奮戦記はまた今度・・・(笑)

今回ご案内するのは村上連珠砦の中では比較的低い比高(それでも200m)の「燕城」(つばくらじょう)。

燕城遠景①
行き方は上塩尻神社から険しい沢を登るか、上塩尻の屋敷裏から桑畑跡を辿り脇の西平に取り付く。またはケムリの城から尾根伝いに下る。※尾根の分岐(城から約100m)を間違えないように。

【城主・城歴】

「小県郡誌」(大正十一年)には「燕城は塩尻村上塩尻區字原にある山城なり。本郭は東西十三間、南北三十間。里傳に塩尻五郎左衛門の守る所なりという」とある。

燕城(村上連珠砦群) (6)
ケムリの城から100m下り尾根の分岐を更に東へ下りると先端に城が現れる。

【城跡】

楕円形の主郭(22×9)は土塁が回っていて東に一ヶ所切れ口があるので、虎口であろう。前後を堀切で穿つ単純な縄張りで、堀切㋐は岩盤を刳り抜いた堀切なので、物見城、ケムリの城と同時期の補強・改修と思われる。
尾根を遮断する二重堀切は落差があるものの、物見城やケムリの城より簡単だ。

燕城縄張図②

燕城(村上連珠砦群) (9)
西尾根から見た二重堀切と主郭

燕城(村上連珠砦群) (10)
やる気の感じられない二重堀切の拡大(笑)。だいぶ埋まったようだ。

燕城(村上連珠砦群) (16)
土塁が囲む主郭と東端の虎口。

燕城(村上連珠砦群) (29)
岩盤を刳り抜いた堀切㋐。気合が足りなかったようだ。(東側より撮影)

燕城(村上連珠砦群) (23)
東側に突き出た郭は痩せた岩剥き出しの尾根。

燕城(村上連珠砦群) (26)
主郭の北側には武者走り(ってか走れない)のような通路の段差が付けられている。

燕城(村上連珠砦群) (36)
城域の東側と南側は急崖で人を寄せ付けない。(南斜面から城を見上げてみた)

【村上連珠砦ワンポイントガイド】

上田市塩尻地区は江戸時代から養蚕が盛んな地区で、特に大正時代から昭和初期にかけては長野県全体の蚕種生産量の1/4を誇った。そのために虚空蔵山の斜面はかなり標高の高いところまで桑畑となり、千曲川の河原石を積み上げた「ヤックラ」という石積みが山中に広く作られた。
燕城の西側の平削も桑畑として開墾され、山麓まで石積みの段々畑の跡が広大に残る。
隣の東の尾根の持越城(もちこしじょう)周辺も桑畑で開墾されかなり奥まで石積みが見受けられる。

なので、どこまでが戦国時代の石積みでどこからが桑畑の石積みなのか判断に迷うところだが、村上連珠砦は和合城、物見城、ケムリの城などを見ても分かる通り、石積みが使われた事は間違いない。

燕城(村上連珠砦群) (34)
燕城に隣接する西平地籍の桑畑跡と石積み跡。この遺構は城と関係が無いので注意が必要だ。

≪燕城≫ (つばくらじょう)

標高:632m 比高:200m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市下塩尻
攻城日:2015年3月14日
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:ケムリの城から下り10分
駐車場:無し
見どころ:堀切、土塁
参考文献:「信濃の山城と館③ 上田・小県編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版) 
通常ルート:本文記事参照
付近の城跡:村上連珠砦を楽しもう!
その他:

燕城(村上連珠砦群) (32)
雑木林が邪魔でロケーションは良くない。




Posted on 2015/04/05 Sun. 11:56 [edit]

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ケムリの城2 (リテイク 上田市上塩尻)  

◆村上連珠砦の探索に際には必ず訪問して欲しい至極の岩盤要塞◆

桜前線の北上と同時に山城シーズンの終了が近づいている。ヤバイ・・・(汗)

このところの晴天続きと気温の上昇で信濃の木々の芽吹きと雑草の成長がハンパない。

北信濃の諸城巡りもGW前でアウトになる・・・会社休んでもラストスパートしたい・・・(笑)

今回ご紹介するのは、何度来ても飽きない鉄塔No25が突き刺さる「ケムリの城」のリテイク記事である。

虚空蔵山①
正攻法は虚空蔵山縦走ルート。座摩神社~持越城~虚空蔵山城~高津屋城~鉄塔No26⇒鉄塔No25(ケムリの城)

【ケムリの城へのルート】

この城を単独で訪問するのは非常に困難である。が、幸いな事に城跡には鉄塔(No25)が突き刺さっているので、村上連珠砦を縦走するルートの尾根に立つ鉄塔(No26)からの保安道を利用すると快適に到達出来る。

塩尻神社経由で燕城から搦め手の尾根を伝うルートでも行けるが、かなり傾斜がキツイのでお勧め出来ない。

虚空蔵山城②
こんな険しい屏風のような山でゲリラ戦を強いられたら大変。

城郭探訪の全国区のパイオニアである「埋もれた古城」の管理人ウモ殿も昨年に村上連珠砦を制覇されたとか。いやはや恐れ入りまする・・(笑)

【城主・城歴】

前回ご紹介した物見城と同様で全く不明で小県郡誌にも出てこない。名前からすると狼煙台らしいが何とも言えない。

ケムリの城見取図①
鉄塔(No25)の刺さっている場所も郭だったと思われる。破壊が最低限に抑えられた事は幸運だった。

【城跡】

主郭背後の北側に豪快な岩盤製の四条の堀切を穿ち、南に突き出す尾根先に石積みで武装した郭を四つ繋げ、その先を大堀切で絶つ単純さで、隣接する物見城を発展拡大させた縄張りである。

●四連の堀切

ケムリの城(村上連珠砦群) (3)
保安道を進むと最初に見える堀切㋔(上巾5m)

ケムリの城(村上連珠砦群) (5)
岩盤の間を縫うように保安道を進んで城域最大の堀切㋓に進む(転落注意)

ケムリの城(村上連珠砦群) (10)
堀切㋓(上巾15m)。岩盤剥き出しの南側を利用して北尾根を削ったものであろうか。

ケムリの城(村上連珠砦群) (9)
村上連珠砦の特徴ともいえる岩盤堀切のオンパレード。国宝級の荒っぽさがステキ!!(笑)

ケムリの城(村上連珠砦群) (17)
堀切㋓は東斜面を竪掘にして遮断線としている。

ケムリの城(村上連珠砦群) (18)
堀切㋓と北側の尾根の通路。

削岩機も重機もショベルも無い時代に、凄い土木工事の痕跡である。
城域には井戸も水の手も無いので、土木作業員は竹筒に僅かの水を入れて働いたのであろうか。

ケムリの城(村上連珠砦群) (25)
堀切㋒(上巾5m) 岩盤を削る執念。

ケムリの城(村上連珠砦群) (34)
ワニの口じゃありません・・(汗) 堀切㋑を主郭背後の土塁から見下ろした写真です・・・・。

ケムリの城(村上連珠砦群) (38)
西側側面より撮影した堀切㋑。

●郭群
※夏場の郭1と2は棘の植物と藪が支配してしまい、見学も撮影も難しい。(体験談)

ケムリの城(村上連珠砦群) (39)
背後から城内が見えないように土塁が意図的に置かれている。

ケムリの城(村上連珠砦群) (33)
郭1(9×6)。土留めの石積みの土塁が全周していたものと推定される。

ケムリの城(村上連珠砦群) (36)
郭の周辺に確認出来る石積み。

ケムリの城(村上連珠砦群) (43)
100年保存住宅よりも価値のある500年耐久石積み(笑)

ケムリの城(村上連珠砦群) (35)
郭1(主郭)と郭2の接続部分は登り石積みで防御線を構築している。

ケムリの城(村上連珠砦群) (37)
郭2(6×15)。

ケムリの城(村上連珠砦群) (52)
郭2の南側の石積み。北信濃の山城と共通の系譜で美しい。

ケムリの城(村上連珠砦群) (57)
鉄塔脇からみた城域中心部。

ケムリの城(村上連珠砦群) (44)
鉄塔の刺さる部分も郭だった可能性は高い。

ケムリの城(村上連珠砦群) (59)
自然地形を加工したと思われる堀切㋐。

ケムリの城(村上連珠砦群) (67)
西斜面に落ちる堀切㋐

ケムリの城(村上連珠砦群) (62)
鉄塔下の壁の石積みには崩落防止のネットが。電力会社の真摯な姿勢には拍手喝采である。

●ネットワークの中継拠点としての役割

ここからは稜線上に物見城、和合城が視野に入り、対岸には須々貴城、小泉上の城、遠く塩田城、子壇嶺城までも視界に入る。山頂の虚空蔵山城は標高が高すぎて狼煙台としては使い勝手が悪かったとも考えられる。

また、戦闘用の砦としてもかなり重視されたことは、五本の堀切や石積みからも見て取れる。

ケムリの城(村上連珠砦群) (56)
和合城との連携は絶対であろう。

個人的には既に5回訪問している。何度来ても新しい発見がある。

村上連珠砦では和合城の人気が高いが、玄人好みはケムリの城だと思っている・・(笑)

今年の秋にオフ会を主催して、票集めを行い不動のトップを密かに狙っている・・・・・(爆)


≪ケムリの城≫ (けむりのしろ)

標高:795m 比高:375m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市下塩尻
攻城日:2015年3月14日
お勧め度:★★★★★ (個人的には満点)
城跡までの所要時間:物見城経由で90分
駐車場:無し(迷惑がかからないように適当に路駐)
見どころ:堀切、石積み、展望
参考文献:「信濃の山城と館③ 上田・小県編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版) 
通常ルート:虚空蔵山城(または和合城)からの尾根を縦走し鉄塔No26から鉄塔No25への保安道を進む。
付近の城跡:村上連珠砦を楽しもう!
その他:

和合城①
まあね、和合城もとても美しいのです・・・(菖蒲平からの撮影)


Posted on 2015/03/31 Tue. 21:36 [edit]

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地域別攻城戦記

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もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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