らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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鳥屋城(上田市武石鳥屋)の史跡整備の近況について  

◆城跡の整備事業は、地域住民の愛情が無ければ成就しないのです◆

2016年の元旦から城跡に登るのもどうか?とは思ったが、上田市武石鳥屋(うえだしたけしとや)の近くを通りかかったので、散歩がてらに鳥屋城を何年かぶりに登ってみた。

武石鳥屋地区からの城の大手の登城口の道路脇に新しい看板が立っているのを発見し車を止めて観察。以前は手作りのものだったが、最近どうやら立派な看板を制作されたようである・・・。

鳥屋城201601 (1)
二年前に看板を新調されたようです。

実は、鳥屋城保存会の皆様とはご縁があって、小生のヘッポコブログで鳥屋城の記事を掲載したときから「影のスポンサー」となっていただいておりました。(もちろん精神的な支援と声援だけでございます・・・笑)

大手の登り口には、新調された縄張図、宮坂先生の「信濃の山城と館③」の紹介、そして何故かまだ採用されている小生の縄張図が手作り感満載で掲示されております・・(汗)

鳥屋城201601 (11)
鳥屋城の大手の登り口。害獣除けのフェンスに手作り説明チラシが掲示してあります。

鳥屋城201601 (9)
宮坂武男氏の縄張図が新調した説明版に何故採用されなかったのかチョッと疑問を持っております・・・

鳥屋城201601 (10)
そろそろ「お役御免」となりたい小生の恥ずかしい縄張図。

「鳥屋城保存会」の皆様は、自治体の補助金を申請利用するにあたり名称を「鳥屋史跡保存会」に変更されたようです。中世の山城の整備事業だけでなく、地元に残る史跡や遺跡を保存し後世に伝え残していきたいという趣旨なんでしょうネ。

首長の某市長は観光事業の充実と称し架空の人物である「真田十勇士」に我ら市民の税金をつぎ込み費用対効果の怪しい政策を実行してる。それよりはよっぽど地元の皆さんの活動のが実利があるように思えるがどうであろうか。

鳥屋城201601 (2)
西尾根の鞍部にも新しい看板発見。ここから鳥屋山砦は確かに尾根続きだが、道は整備したのだろうか?

以前、鳥屋城保存会の方が「鞍部手前まで四駆なら登れますよ」とおっしゃっていたが、現在はかなり凸凹が酷く害獣フェンスからは歩いて鞍部に登るのが良いと思う。ゆっくり15分も歩けば森林浴にもなるだろう(笑)

さて、嘗ての大手筋の西尾根の途中からは三才山トンネル有料道路を経由して松本に通じる国道254号線が眼下に見え、対岸には街道を抑えた「水の手城」が見える。

鳥屋城201601 (4)
昨年リベンジに成功した水の手城。しかし険しい攻城戦の途中で足を負傷してしまい再びリタイヤを覚悟したが何とか制覇した。

鳥屋城は今回で4回目だ。一番最初は小屋坂峠からの険しい尾根を登り、二回目は大手から単独。三回目は馬念さんのアテンドで再度大手から。
以前はキツイと思ったが、回を重ねたせいか藪漕ぎ体験を重ねた成果か楽な山城となりました・・・。

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主郭に新設された縄張図の看板。物見台は階段が腐食し割れていて危ないので登らない方がよいと思われる。

鳥屋城201601 (6)
宮坂氏の縄張図と鳥瞰図を採用する城跡保存会が多いのに、なぜ??宮坂氏が拒絶したとは思えないし・・・

まあ、余計な詮索はやめて、この城の北側の尾根の四連堀切と南尾根の二重堀切は相変わらず凄い。
近世城郭ヲタクが鬼の金棒で殴られる瞬間があるとしたら、この堀切であろう・・・(笑)

鳥屋城201601 (7)
この四連の堀切は結構インパクトが強い。

鳥屋城201601 (8)
南尾根の二重堀切は結構古めかしいオーソドックスな作りである。

国指定を除けば、県指定だろうが市指定史跡、町や村の指定史跡にされても破壊を免れただけで本当の意味の史跡整備には程遠いというのが現状であろう。

でも、史跡保存会とか、山城保存会ってのは地元住民の直属部隊なのでこれは強力な助っ人であり、山城にとってはよき理解者ですよね。鳥屋城も地元の皆さんの継続した絶え間ない整備活動が実に素晴らしい。
定期的に地元の皆さんが講師を招いて故郷の歴史をみんなで勉強するなんてすごい事です。小生の地元を含めて地域の皆さんには是非見習って欲しいものですw

鳥屋城201601 (12)

ようやく市民権を得つつある中世の山城ですが、皆さんの啓蒙活動を継続していかないと、一過性のブームで終わってしまいます。

全国に情報発信すると共に、地元の保存整備事業にも積極的に関わって行こうではありませんか!!







Posted on 2016/01/05 Tue. 22:36 [edit]

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2015年のご愛顧ありがとうございました  

◆振り返れば「迷走と出逢い」の1年間でした◆

12月31日が山城納めのらんまるでございますw

午前中、村上連珠砦の最大の要塞である「ケムリの城」と境目の天空の山城「和合城」で遊んでおりました。

お城の近くまで林道が通じているので、「いざ四駆で参ろう!」 苦労して登った昔が懐かしい・・(笑)

2015山城納め (14)
いつ見ても凄まじいケムリの城の「岩盤叩き割ったぞ!大堀切」

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まさしく天空の山城にふさわしい和合城の勇姿。この季節に拝める貴重なショットです。

【お仲間が増えるのは楽しいものです】

4月、いつかご一緒したいと思うておりました城郭探訪のスペシャリスト「埋もれた古城」の管理人ウモ殿ご夫妻、そしてヤブレンジャーの五郎さんと一泊二日の楽しい山城巡りをさせていただきました。

葛尾城2015(ウモ殿アテンド) (29)
葛尾城の大堀切を踏査するウモ殿ご夫妻。(肖像権の許可をとっておりませんのでこの程度で限界)

また、同じく4月下旬には「儀一の城館旅」の管理人である儀一さん主催の小諸オフ会に参加しいろいろな方と知り合いになれました。
また、団体行動の難しさも勉強になりました・・。

2015小諸オフ会 (65)
小諸オフ会で訪問した祢津下の城。

【焦点が定まらず迷走した山城探訪】

山梨へ進軍したものの日帰りの困難さに直面。

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未だに記事に出来ない要害山城と熊城。

課題だった木曽方面も点在する城と城との移動時間に難儀して中途半端のまま。

妻籠城 (104)
境目の妻籠城は遠かった・・・。

ならば戸隠・白馬・小谷へ進軍するが険しい山城と立ち憚る藪に閉口し予定数も訪問出来ない有様・・(汗)

追通の栗田屋敷 (26)
戸隠の栗田屋敷(追通)

上野国へも進軍し返す刀で飯山、そして一泊二日で南信濃へ・・・もはや支離滅裂。もはや誰も止められない・・(笑)

丸岩城 (44)
丸岩城から見た長野原町(群馬県)。

沼ノ入城(中野市) (15)
沼ノ入城(中野市)では「えいきの修学旅行」の管理人のえいきさんと同行。

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南信濃遠征では、ていぴす殿、u-naomochi様と根羽村まで進軍(写真は松尾城)

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平沢城(木島平村)には圧倒され、北信濃の城の魔力にやられた・・・(汗)

【木曽義仲への執着】

山城オフシーズンの夏は熱病の如く木曽義仲にまつわる地元を巡りました・・・病気ですね・・(笑)

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らんまる発症の地(爆)


さて、1年間ご愛読ありがとうございました。

2016年が皆様にとっても幸せな年となるように草葉の陰から祈っております・・・(笑)

来年も相変わらずドタバタとした1年になりそうですが、引き続きご愛顧の程お願い申し上げますw

御坂城① (11)
山梨県の御坂峠からの富士山。皆様のご健康をご多幸をお祈りします。






Posted on 2015/12/31 Thu. 16:09 [edit]

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2015北信濃の山城納め  

◆冬将軍がお出ましの前に抜け駆けしてみましたぁー◆

明日から週末にかけて天気予報もやっと雪マーク・・(笑)

北信濃の山城も3月末まで店じまいです。ならば閉店前の迷惑な駆け込み客になってみようと挑んだ城をチョッとだけご紹介。


【平沢城】 (下高井郡木島平村)

「よくぞ残ってくれました!!」と現地で思わず叫んだ管理人絶賛の山城。(ってかどこも絶賛してたような・・汗)

まあ、そのうち書きますんで、西側の馬曲温泉の野天風呂から見える景色をご堪能ください(笑)

平沢城(木島平村) (178)
馬曲温泉「望郷の湯」から見た平沢城。日帰り入浴は大人510円と良心的だし、景色最高!!

えっ、どこが城跡かわかんない方は次の説明版を参考にしてね。

平沢城(木島平村) (174)
何故か野天風呂の脇にある解説版。(※温泉施設内にあるので撮影のみは必ず受付で許可をとってください)

拡大してみましょうか。

平沢城(木島平村) (172)

堀切を拡大してカタカナ表記でこんな感じ。

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攻城後に温泉入りながらこの雄大な景色を見れたら最高でしたが、休んでいる暇はありませんでした・・・(汗)

志久見郷から撤収を余儀なくされ、武田信玄からの支援を受けながら千曲川右岸の毛見郷を中心に上杉と直接対峙した市河氏の改修となる山城と思われ、武田の築城術が見られます。

北信濃の城まだまだ未攻略が沢山あるのですが、春までお休みです・・・残念・・・・でも常に藪漕ぎ状態で通常の攻城の2倍の労力が必要な城ばかりで、体力的にキツいのでチョッとホッとして充電することにします・・・(笑)




Posted on 2015/12/16 Wed. 21:33 [edit]

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南信濃の山城紀行②  

◆家康に忠誠を誓いながらも使い捨てにされ滅びた下伊那の国人衆の怨嗟が聞こえる城跡◆

伊那谷地方は天文二十二年頃より本格化した武田晴信(信玄)の侵略に対して部分的な抵抗はあったものの、領民を巻き込む大規模な合戦も無く済んだのは、古くからの国人衆の賢明な判断によるところが大きいと思われる。

しかし本領安堵と引き換えに「信濃先方衆」として武田軍団の最前線部隊としての過酷な軍役を命じられ、各地を転戦させられている事を知る人は少ない。これは南信濃だけの話ではなく、甲斐本国以外の被征服地では当たり前の事実であった・・・。

そんな前置きはさて置き、南信濃攻城戦は早朝6:00に出発するという過酷さであった・・・(汗)

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平谷村の滝之沢城に着いたのは6:40。飯田市からの距離は約30kmである。


【滝之沢城】 (下伊那郡平谷村)

まあね、平谷村の位置が長野県のどのあたりなのかを知る長野県人は少ない・・・(汗)
信濃の国の南西端にあって、西の山を越えれば美濃国岩村城だし、隣接する根羽村の先は奥三河の設楽町である。ここは通称「伊那街道」(最近では飯田街道)と呼ばれ、信玄の三河攻略の軍用道となり「とつばせ関所」と周辺を守る要害(滝之沢城)が武田軍により置かれたという。

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看板の拡大。滝之沢城が歴史上に出てくるのは天正十年の織田信長による甲州征伐の時らしい。

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平谷村指定史跡であるが、あくまで推定地らしい。

ここは信玄の娘を娶った吉岡城の下条信氏の領地であり、美濃・三河よりの信濃への出入り口として重要視され関所と共に要害が築かれていた。
天正十年(1582)二月、織田信忠軍が美濃口より攻め入ると、下条信氏父子は弟の氏長や家臣らと滝之沢の要害に布陣しこれを迎え撃ち、寡兵ながらよく防でいた。ところが、宗家乗っ取りを画策していた弟の氏長が織田に内応し、あっけなく要害は陥落。
下条信氏・信正父子は奥三河の黒瀬へ落ち延びた。(その後、父子は失意のうちに亡くなるが、家康の庇護により天正壬午の乱で信氏の次男頼安・信正の嫡男牛千代が宗家として復帰する)

ま、その辺の話はおいおいに。

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標柱の立つ本陣比定地。土塁も巡っている。城というよりは関所を守る陣城であろうか。


【根羽城ヶ峯】(下伊那郡根羽村)

美濃国・三河国と国境を接するかつての根羽宿(根羽村の中心部)の北東にある独立峰に築かれた城で、別名:根羽男城(ねばおじょう)とも云われ、武田統治時代は狼煙台として使われたという。

朝早くから比高300mはいかがなもの?と思いつつ道なきいつもの直登を敢行・・・結構大変だった・・・(汗)

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ヘロヘロになって辿り着いた本郭は笹薮だらけで意気消沈・・・

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主郭背後の三連の堀切を眺めてエネルギー回復!(笑)

まあ、何でもかんでも狼煙台で片づけてしまわれる信濃の山城が多いが、この城は街道を監視する役割も担っていたのだろうと推測されるが、いかがであろう・・。

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堀切も結構真面目に作ってます・・・ってか不真面目な堀切ってあるの?


【根羽女城】(下伊那郡根羽村)

根羽村役場の裏山にあり、根羽男城からは小川川を挟んで1kmの至近距離で対をなしているのでそのネーミングであろうか。
男城によく似た縄張りで街道の物見砦としてはこれで充分だったと思われる。

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円形の主郭。神社が勧進されている。

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主郭と副郭の間の堀切と「あれ」

役場からの比高は150mと緩い部類だが、その前の男城で体力を消耗していたので、思いのほかきつかった・・・(汗)

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堀切よりみた郭2(副郭)


【信玄塚】(下伊那郡根羽村横旗)

今回の南信濃遠征の目的の二つ目は信玄塚であった。
以前に記事で書いた「武田信玄終焉地考」(一之瀬義法著 1987年教育書籍)の訪問である。
信玄終焉の地の候補として五箇所あるうちの一つだが、一之瀬先生が推定される根羽説が案外的を得ているような気がした次第です。

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根羽村の観光名所として「ネバーランド」と共に推進しているようですが、知名度はいまいちのようだ。

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国道の改修工事によって元々の墓地は道路の下に埋没したらしい。信玄公の祟りは無かったのか?

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大名クラスの宝篋印塔とされるが、比較対象する史料が無い・・・(汗)

まあ、念願かなって見れただけでも良しとしますか。


【松尾城・鈴岡城】(飯田市)

今さら小生が申し述べるまでもないが、南信濃の巨大城郭シリーズ「因縁の隣家バトル仁義なき戦い小笠原編」の舞台となった城である。
毛賀沢川の深い渓谷を挟んで隣接する松尾城と鈴岡城の立地にも改めて驚くが、引っ越し出来ない隣近所が骨肉の争いを演じると、どうしようもない結果しか残らない事が証明されてしまった。

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松尾城跡の碑。紆余曲折を経て戦国時代の下伊那で生き残ったのは高遠の保科家と松尾小笠原家だけだった。

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鈴岡城の郭3の解説版には血塗られた鈴岡城の城歴が書かれているので必見だ。

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鈴岡城から見た松尾城。中央の削平された場所が本郭である。

この城の血に塗られたおぞましい史実は、またそのうちに書きますので、あまり期待しないでお待ちいただきたい・・・(笑)

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近世城郭でも通用する巨大な空堀(鈴岡城)

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松尾城の追手口付近の空堀。



【上野南本城】(飯田市座光寺)

最近長野県史跡に指定された山城である。近隣の多くが天竜川の河岸段丘を利用した巨大な崖渕城であるが、この城は土塁と堀切を多用した正統派の山城で、隣の上野北本城の詰めの城ともいわれるが、そんな軟な城ではなく、その縄張は紛れもなく戦国末期の第一級品である。

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麻績神社からの登り口に立つ説明版

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土塁を伴う長大な堀切を多用する独特の縄張りは、この周辺には見られない高度な設計だ。

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本郭。西側のみ巨大な土塁が覆っている。

縄張りを見ると西側に対する防御指向を持っているので、飯田方面からの侵入に備えているようだ。松岡氏の一族の座光寺氏の領地であったが、松岡氏や座光寺氏が単独で出来る土木工事量ではないので、大勢力が関わったとみるべきだが、その勢力を特定するには至っていない。

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北の出曲輪と呼ばれる部分と本郭との接続箇所。

さあ、南信濃二日間の遠征紀行、いかがでしたでしょうか? 最後は疲れ果ててしまい、どうでもいいや・・(爆)

いつ記事にするかはお約束できません・・・(汗)

書かなきゃ男が廃る・・・そうかもしれません・・・・(笑) またそのうちということで。



































Posted on 2015/11/29 Sun. 10:08 [edit]

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南信濃の山城紀行①  

◆信濃国の広さを今更ながらに実感した次第であった◆

今回の本格的な南信濃ツアーは葯1年半ぶりで一泊二日、いつもの「ていぴす様」そして八王子より「ナワバリスト」の「naomochi-u様」をお迎えしての攻城戦だったが、移動距離の過酷さは同じ長野県とは思えず遠征後に体調を崩す・・・(汗)

常々申し上げるのだが、疲労は移動時間で蓄積されるのではなく、移動距離に比例するのだ。これは実体験上断言できる。

まあ、そんな話はどうでも、記事になるのが何時になるのか不明なので行った先を記しておこうか・・・(笑)


【吉岡城】 (下伊那郡下条村)

naomochi-u様のリクエストで訪問。甲斐武田氏の同族で下伊那の有力国人として勢力を拡大してきた下条氏の居城。
詳細は以前の記事の「吉岡城」を参照願います。

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悲しい事に国道151号線が貫通しているが、伊那谷の城では珍しくない・・・(汗)

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主郭西側の大堀切。

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主郭の西側の郭は「後郭」と呼ばれ神社がある。その西側は上巾13mの落差を伴う鋭い堀切が残る。


【大沢城】 (下伊那郡阿南町)

ここもnaomochi-u様のリクエストで訪問。吉岡城に本拠を移す前の下条氏の本城と屋敷跡だ。
詳細は以前の記事の「大沢城」を参照願います。

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現在は古城八幡神社として国指定の重要文化財である。

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主郭跡に建つ八幡社。

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北側の堀切。小山の単郭ながら、斜面全体に切岸の加工跡があり中々険しく攻め手を寄せ付けない仕様だ。


【権現城】 (下伊那郡阿南町)

三河国との国境に近い新野千石平より身を興し、下伊那に覇を唱え下条氏と仁義なき戦いを繰り広げた関一族の最後の城である。井上靖の短編時代小説「犬坊狂乱」は、関一族の下条氏との抗争とこの城の落城にまつわる言い伝えをもとに書かれたという。領民の離反、家臣の裏切りで春の宴の最中に下条軍の奇襲によって惨殺された関一族の墓碑が今も城跡に残る。

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城跡に祀られた関三社八幡宮。その名の通り領民がその祟りを恐れ、殺された城主一族三名を祀った社である。

そう、1年半前にここを訪れるはずだったのだが、土砂崩れによる通行止めで断念。
今回は念願が叶って無事に訪城。途中、道を間違えるというハプニングがあったが・・・(汗)
これで「南信濃に覇を唱え、夢破れた関一族の山城シリーズ」が完成するのである。

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右から関盛永(権現城の城主・春仲の息子)、関安芸守春仲(元上田城主で盛永の父)、春仲の正室の墓碑

関一族シリーズについて興味のある方は、以前の記事の八幡城矢草城上田城をご参照ください。

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城域背後の尾根先を断つ深さ12mの大堀切。堀切の向こうの郭には奥社が祀られている。


【十原城】(飯田市南信濃村十原)

ここは当初の訪城リストには無くて、てっきり対岸の長山城(名古山城)と思い込んで辿り着いたら遠山景広の弟の景忠の居館跡だったという笑い話である。
いい年した大人が三人も揃いながら地図も読めないとは恥ずかしい・・・(笑)

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地元の方に聞いたら、「ここは十原館(とっぱらやかた)だよ」と真実を知り顔面蒼白・・(汗)

気を取り直して探索するも縄張図が無いので想像してみるしかない。
それにしても両側を遠山川の深い渓谷に囲まれた要害の地で、秋葉街道を監視するには絶好の立地である。
当主遠山景広の長山城と共に重要な役割を果たしたのであろう。

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神社の立つ場所は櫓台が置かれていたのであろう。

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土橋付近から見た遠山川の渓谷。

この後、対岸の長山城は日没が近く泣く泣く諦めた。南信濃和田の日没は結構早く、登っても写真が撮影出来ない悲劇となる。


【和田城】(飯田市南信濃和田)

まあね、何も無いのはわかっているんですが、日没とは言えせっかくここまで来たので和田城にチョッと寄ってみた。
当時の雰囲気が味わえる風景はそのままなんでしょうか・・・。

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城跡に立つ郷土資料館。既に閉館しておりました・・・・

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有名な「徳川家康と遠山土佐守 対面の場」

家康との夕食晩餐会で、遠山土佐守は自分のお膳の中身が見えぬよう袖で隠して食べたという。それを不思議に思った家康が土佐守に問いただすと「稗や粟しか実らぬやせた土地の穀物を食べております。そのような貧しい食事を家康公にお見せするのも見苦しいのでかくして食しました」と答えたという。
不憫に思った家康は遠山土佐守に伊那の地で1000石を更に加増したという。遠山さん、一枚上手、したたかでございますw

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長野県というよりも静岡県が似合いそうな和田集落。

日も暮れてしまい、我々はひたすら今夜の宿泊先である飯田市に急ぎ戻ったのであった・・・・

続きは②で。





Posted on 2015/11/26 Thu. 09:02 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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