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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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余地峠 (長野県南佐久郡佐久穂町/群馬県甘楽郡南牧村)  

◆武田軍の上野国遠征で使われた信玄道(棒道)の残る峠◆

この季節、B‘Zの「いつかのメリークリスマス」や「クリスマスキャロルが流れるころには」が聞こえてしまうと、頭の中ヘビーローテーションで始まってしまう・・(汗)

クリスマスというと、なんだかバレンタインデーの前座みたいだよネ。それと、小生にとってはバタークリームのクリスマスケーキしか思い出せなくて・・・なんか切ない・・・(笑)

バターケーキ①
貧しかった幼少時代はこれが年一回しか食べられない最高の御馳走だったんだ・・・・・

さて、センチメンタルジャーニーはこれぐらいにして、気を取り直してブログを再開しますか・・・(笑)

今回ご案内するのは信濃国佐久と上野国の南牧村を繋いだ余地峠(よじとうげ)の取材記事。例の如く、「そうだ、余地峠が俺を呼んでる!!」と思い付きで出掛けてしまい、ここに砦跡があるのを知ったのだが後の祭りでした・・・(汗)

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武田遠征軍も見たであろう余地峠への風景。

【余地ダム】

基本的にダムがあるとついつい寄り道してしまう。平成2年製の重力式コンクリートダム。

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建設から30年近くも経つと自然の風景に溶け込んでいて違和感がない。

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そういえば、どなたかのブログで人の顔に見えるとか言っていたなあー。ホントだネ(笑)

【余地峠へ】

余地ダムの少し先に登り口がある。峠の頂上まで対面通行さえ出来そうな林道が通じているが、ゲートが固く閉じられているので、悪路走破自慢のジムニー君も出番なし。孤独を噛みしめながらひたすら歩くしかない・・・。

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オフロードバイクがすり抜けた跡がある。ルールは守らにゃいけません!

余地峠信玄道①
この地図を持って出かければ良かったと後悔したが、この季節は藪漕ぎ三昧だったであろと思ったのも事実である。

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後で分かったのだが、この辺りから尾根通しに信玄道があったらしい。

余地峠の古道は余地川沿いを通るの為、急崖や難所も多くあり軍隊の通行には不向きだったらしい。その為わざわざ尾根に棒道を開けて峠よりも高い地点を通過し峠に下りたと伝わる。

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中間地点の中の峠から余地ダムを振り返ると管理事務所が見える(写真はズーム拡大)

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整備された林道をひたすら歩くのはいつもの事で慣れてます。でも、時々虚しい気持ちになります・・(笑)

余地ダムから40分ほど歩いてようやく余地峠の頂上に着いた。

この辺りの県境の峠としては、熊倉峠、内山峠、田口峠、余地峠、十石峠、ぶどう峠などがある。

南佐久地方は、昔からこれらの峠を介して上野国の下仁田、南牧、上野などとの物資や人的交流が盛んで、明治j時代に鉄道が物流の主役になるまでは生活物資運搬の為の重要な街道でもあった。

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牛や馬が物資輸送の中心だった時代に賑わった余地峠だが、手書きの標柱とは寂しい。

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馬頭観音が辛うじて往時の面影を伝えるのみである。

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峠の頂上はこんな感じ。

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それでも峠の北側は大部隊が駐留出来る充分な平場がある。

【信玄の棒道】

峠の北側の平場の脇に棒道があった。恐らくこれが信玄の棒道であろう。ここを辿れば「余地峠の烽火台」に行かれたのに、事前の下調べもせずに突撃したので惜しい事をしてしまった・・・(汗)

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信玄の棒道と思われる通路。北の尾根側に続いていました。

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南牧村(なんもくむら)の熊倉へ続く峠道。

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麓の熊倉の集落が見えるかと思ったが、この季節じゃ無理でしたネ。

余地峠は信玄の「飛脚かがり」の西毛線として上野国の状況を知らせるために烽火台が置かれたという。

今回は若気の至りで烽火台跡と想定される1331mの峰を調査出来なかったが、いつの日かリベンジして棒道とともにその謎に迫ってみたいと思った次第である。

≪余地峠≫ (よじとうげ)

標高:1269mm 比高:211m (余地ダムより)
場所:南佐久郡佐久穂町/群馬県北甘楽郡南牧村
攻城日:2017年5月21日
お勧め度:★☆☆☆☆ 
峠頂上までの所要時間:40分 
駐車場:余地ダム
見どころ:棒道
注意事項:余地ダムから先はスマホ、携帯は圏外になりGPSも使用不可。冬は鉄砲隊に注意
参考文献:「信濃の山城と館① 佐久編 宮坂武男著」 「定本佐久の城」(1997年 郷土出版社)
付近の城址:勝見城、松山砦、大崖城、灰立山烽火台など

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中の峠から見た余地峠(中央の低い場所)

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スマホのアプリも中峠からGPSがフリーズしてしまい役に立たなかった・・・。
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Posted on 2017/12/24 Sun. 13:48 [edit]

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高棚城 (佐久市志賀)  

◆周囲を断崖絶壁に囲まれた古い形式の山頂城◆

このところはツイッターでついつい遊んでしまい、更新をおろそかにしている・・・(汗)

遠出も出来ず、周辺の山城へ散歩がてら出掛けるのだが、残雪が結構あるので靴底にスパイクピンのついた長靴が手放せない(笑)

今回ご案内するのは志賀城の支城と伝わる高棚城(たかたなじょう)。

高棚城 (1)
志賀上宿にある高棚大天社の麓の山門。この参道をヒタスラ登れば城跡に行けるらしい。

【立地】

香坂の谷と志賀の谷の間の岩山の上に立地している。周囲を断崖絶壁で囲まれ、人を寄せつけない険しい山だ。ここから北東1.5km先にある閼伽流山城とよく似た立地で同じような時期の築城であろうか。

高棚城 (3)
参道の周囲は大規模な開墾の跡があり石垣で区画整理されている。(信濃先方衆の同胞のていぴす殿が写ってる)

高棚城 (4)
途中で参道が消えてしまい已む無く尾根筋へ直登。これが結構しんどかった。

直登して尾根に入ったまでは何とかなったが、高棚城は周囲を垂直な崖で覆われているので神社の参道ルートを外れた我々が城跡に辿りつけるのかは非常に微妙だった・・・・(汗)

高棚城 (6)
こんな岩場が連続する斜面をトラバースして崖を這い上り入口を探す。

高棚城 (7)
何とか郭2に通じる斜面を発見し安堵する。ここまで来て引き返せと云われても困るのだ(笑)

【城主・城歴】

「千曲之真砂」に、高棚城には天文三年に志賀肥前守がいて、後に武田に降ったといい、その後は志賀与三右衛門が天正十一年に依田信蕃に降参したとある。
地元では、高白斉記における「シカトノノシロ」とは高棚城をさしていて、笠原新三郎清繁はこの城に籠城したとされていが、どうであろうか。

高棚城見取図①
ほぼ岩壁が全周している峻険な天然の要害。ここを攻めるのは大変だ。

高棚城 (12)
ようやく辿り着いた郭2。

高棚城 (14)
こんな痩せ尾根をよく削平したもんだ。

【城跡】

いわゆる「人里離れた険しい山頂に築かれた砦」で、楠木正成の千早城に類するような古式の山城のようである。
高棚大天社から通じる平場4の先には堀切が認められるので、緊急時の逃げ込み城だったかもしれない。
主郭の平削も適当で、続く東の尾根筋に堡塁のような郭6・7・8を置いた簡単な縄張りである。

ここに志賀殿(笠原氏)が籠城し、武田軍と壮絶な戦に及んだとするには無理があるような気がする。小田井合戦で討死した援軍の上杉方の将兵の首を山麓に並べても見えないし、こんな断崖絶壁で水も確保出来ない城に逃げ込んでも生還は期待できない。

高棚城 (24)
主郭。南側に一部土塁の高まりが確認出来る。

高棚城 (30)
尾根の平場5。

高棚城 (35)
いわゆる堡塁6。

高棚城 (39)
削平された跡の残る郭7。

東の尾根は痩せ尾根で郭といっても簡単な堡塁程度しか設置する事が出来ない。尤もこの方面は切り立ったような岩崖なので敵の侵入はあり得ないので安心だ。

現地に立って分かる事なのだが、ここからは閼伽流山城が良く見え、麓の集落も一望出来る。この街道を見張るにも好都合である。武田の占領地時代にも何らかしかの監視小屋程度の機能は持たせたのであろうか。

高棚城 (48)
高棚城からは、上野国と隣接する香坂の東地集落を監視出来る。

高棚城 (52)
東端の郭8から対岸の尾根先を撮影。高所恐怖症なので、身の毛もよだつ恐怖(汗)

高棚城 (60)
西へ転じて堡塁3。

【鉄砲隊の恐怖】

実は、東側の尾根を踏査している時に、かなりの至近距離での銃声が聞こえていて、相方のていぴす殿と「やばくねえ?」
って思い、ハンターの話し声も間近に聞こえたので大声でこちらの居場所を叫ぶも通じない・・(汗)

こんなところで熊とか猪に間違られて死んで良いはずもなく、西へ移動開始。主郭北側の下の郭9は未踏査で断念せざるを得ない状況となった。

高棚城 (65)
郭4の東側の堀切。

高棚城 (72)
郭4。不完全な平削地である。

苦労して登城して、鉄砲隊の脅威に駆逐されるのは残念である。がしかし、彼らにしてみたら12月から2/15までの僅か三ヶ月間という短い狩猟期間しか鉄砲が撃てないので何処かで妥協するしか無い。

高棚城 (44)
閼伽流山城は香坂の谷を挟んで正面である。

高棚城 (82)
どうしても制覇出来ない笠原城が見える・・・(笑) 今年こそガンバだ(爆)


【高棚大天社】 ※おまけ

「限界性集落」という言葉は大嫌いなのだが、受け入らざるを得ない現実をここで見る事になる。
高棚大天社は志賀上宿の集落は無論の事、、区域外の方々の信仰も集めかなりの隆盛を誇ったが、徐々に訪れる人も減少し、現在は廃墟となり、神社も崩落の危機に瀕している。

高棚城 (90)
断崖の壁を利用した神社。

高棚城 (97)
神社内部は10年前で時間が止まったままである。崩落の危険があるのでこれ以上は近づけない。

高棚城 (104)
嘗てはひっきりなしに信者が訪れたであろう神社も廃墟である。嘆かわしい・・・・。

鉄砲隊に追われるように下山したのだが、神社の参道を伝って下りる事にした。

それでも参道は消えていて、下りるにも一苦労だった・・・(汗)

鉄砲隊への怒りよりも、こんな立派な神社の衰退のが悲しく思えた・・・・

高棚城 (103)
鳥居の修繕すらままならない現状のようである。


≪高棚城≫ (たかだなじょう)

標高:1015.8m 比高245m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:佐久市志賀
攻城日:2014年11月30日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:50分
駐車場:山門脇に路駐。
見どころ:全般
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編」(2013年 宮坂武男著) 
注意事項:参道は消えかけている。麓からの途中の分岐は左へ進む事。そこから尾根伝いに参道が続いている。単独行動は危険。

高棚城② (1)
香坂の東地遊楽から見た高棚城。

Posted on 2015/02/01 Sun. 21:35 [edit]

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蟻城3 (リテイク 南佐久郡佐久穂町穴原・崎田)  

◆二重横堀を巡らす居館城の北城◆

ツイッターを利用し始めたのは良かったのだが、怒涛の如く押し寄せる情報量に振り回される有り様だ・・・(汗)

ブログが地方のローカル線とすれば、ツイッターの世界は首都圏を全速力で走る走る満員の快速電車であろうか。
年の瀬にやっかいな道具に手を出したと後悔する半面、新たな出逢いもあるので両刃の剣かもしれない(笑)

今回ご案内するのは蟻城の謎の城館の「北城」。

蟻城2 (115)
南城から見た臼田町方面。ここから烽火を上げればリアルタイムに情報が伝達出来る。

【立地】

蟻城の南城の北尾根が950m地点で分岐した北東の尾根先に突如として現れる。山城と言うよりは、尾根の先端を加工して城館の縄張りとしているので、時代も用途や目的も西城や南城とは全く異なる。

蟻城見取図①

【城主・城歴】

詳細は全く不明の城館である。崎田・花岡の集落を統治する土豪の居館にしては規模は大きいし、防御構造も戦国末期に通じる比較的新しい手法を用いているので、武田または北条が普請した可能性も今後は考えてみる必要があるかもしれない。

蟻城2 (120)
北東尾根を下り切る手前で突如出現する堀切㋙。

蟻城2 (123)
中央を仕切る土手。

蟻城2 (126)
主郭の外周を囲む堀切㋚。堀底は広いが、箱掘ではなく薬研堀だ。

【城跡】

南城から伸びる尾根を完全に遮断する意図の横堀㋙と㋚があり、その中心の最高位に主郭がある。城域の東側は全くの無防備なので、この城の防御の指向性は南尾根である。つまり、南城を奪取された場合に備えているのである。

蟻城2 (130)
横堀㋙の堀底西側から見た郭1と手前の堀切。土手も何故か寸断しているので通路も兼用していたのかもしれない。

●主郭

南側のみ土塁がある。郭内を見えないように盛ったか単純に堀切工事で排出された土を積んだのかは不明。

蟻城2 (136)
主郭。全体的にやや傾斜が残っている。

蟻城2 (138)
南辺に残る土塁跡。

蟻城2 (146)
郭1と郭2の間の処理。

●郭2

郭1との間に堀切㋚を介して台形。

蟻城2 (147)

蟻城2 (157)
郭2の全景。

●城域西側

二重堀切に連結するように沢から竪掘が上がるが、堀と言うよりは通路または物資の運搬路であろうか。

蟻城2 (155)
郭3と連結するような竪掘。

●郭3

城内で最大の広さのある郭で、周囲に対しては窪地のような場所にある。実際の生活に供する居館や掘立小屋はここにあったのだろう。

蟻城2 (167)

蟻城2 (169)
郭2と郭3の間には明らかに堀形(堀の跡)が認められるのだが、宮坂武男氏は認定していない。何故だ?

蟻城2 (170)
郭3から見上げた郭2。手を加えた切岸であることが分かる。

佐久地方でこのような居館城の遺構は珍しい。

甲州街道から北上する敵を想定して南城が奪取される最悪のリスクに対して真面目に縄張りしてます。
北条さんって考えよりも、徳川方の依田信蕃が対北条の備えとして武田仕様の城館を置いたとみれるような気がしてますが、どうでしょうかねえ・・(笑)

蟻城2 (172)
トゲトゲの植物に刺されまくって城域を脱出した北側の道路から撮影した北城の郭1と2.

≪蟻城 北城≫ (ありじょう きたじょう)

標高:900m 比高40m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:南佐久郡佐久穂町穴原・崎田
攻城日:2014年12月13日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:45分(西城~南城経由北城まで)
駐車場:無し。適当に路駐。
見どころ:圧巻の二重横堀、土塁など
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編」(2013年 宮坂武男著) 「定本佐久の城」(1991年 郷土出版社)
注意事項:夏場の攻城は藪だらけになので止めましょう。棘科の植物があるので手袋はめましょう。


蟻城2 (190)
こんな適当な看板に騙されてはいけません(笑)

Posted on 2014/12/27 Sat. 23:12 [edit]

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蟻城2 (リテイク 南佐久郡佐久穂町穴原・崎田)  

◆甲信を結ぶ烽火台としての西城・南城、そして謎多き山麓の北城◆

最近はSNSの進化が著しい。その昔はHP(ホームページ)、日常の出来事をより簡単に記録してくブログ、最近はツイッター(Twitter)、はたまたスマホのLINEでの情報共有。山城マニアの先駆者は既にその領域に積極的に入り活躍している。
小生もツイッターのアカウント(@galm2fox2)は所持しているがイマイチ良く分からず化石状態である・・・(笑)
「習うより慣れよ」の精神で何とか発信していきたいので、ツイッターご利用の方はフォロー頼みます・・・(爆)
※残念ながらフェイスブックは繋がる相手のレベルによっては個人情報ダダ漏れの可能性が否定出来ないので、小生は登録していない。

今回ご紹介するのは2011年8月に未踏査のまま掲載した「蟻城」(ありじょう)のリテイク。(西城・南城)

蟻城2 (192)
蟻城の西山麓の東電の調整池付近は、嘗て「信玄道」と呼ばれ武田軍の余地峠越えの上野国への軍道だったという。
※登り口じゃない場所に説明板を立てるのはオカシイと思うが・・・(写真は南城遠景)

さてさて、前回は「妖怪のせい」にして(笑)、敵前逃亡(本来なら銃殺刑か?)したが、今回は性根を据えていつもの縦走プラン。地図を見ながら「西城⇒南城⇒北城」の順番なら無理せず回れると思い実行。西城には神社があるので参道を探したが見つからず、やはり「直登」がお似合いだったとか・・(汗)

蟻城とその周辺図
国土地理院1/25000に落書き。色々な見解があるが三ヶ所回るならこのルートがコスパに優れている(引越しは日通?)

【立地】

蟻城(南城)は南佐久郡の中央部穂積地籍の河岸段丘上の高峰1047mの山頂にある。ここは千曲川が西方へ弓状に張り出した湾曲部へ、茂来山(もらいさん)の支脈がのびてきており、山頂の本郭からは南北に通じる千曲川の谷筋を、北は佐久平から南は野辺山まで一望にとらえられ、佐久郡第一の眺望を持つと言っても過言ではない。

蟻城2 (188)
地図に記載のある始点場所。ここから尾根伝いに登っても西城には辿りつける。

【城主・城歴】

この城に関しては全く記述や史料が無い。甲州街道から進むと佐久平への眺望が開ける最初の場所になるので、海ノ口方面との連携において烽火台が置かれた可能性があると言う。近くに武田軍の初期の宿城である「宮の上」(みやのうえ 現在の小海高校付近の台地)が見渡せる位置にもあり、」また、余地峠を越えて上野国への進軍する信玄道が東電の調整池付近を通過しているので、勝見城と共に武田による手が加えられてと考察される。

最高地点にある南城と西の支脈にある西城は同一時期の使用と想定され本城と砦の関係にありそうだ。しかし、北東尾根の先の北城は全く別物の居館城で築城時期や目的は異なっている。

蟻城2 (1)
へそ曲がりなので、畜産団地の脇の池から強引に西城の東斜面を直登する(笑)

【城跡】

俗に云う所の「一城別郭」(いちじょうべっかく 同じ城域でありながら独立した主郭を持つ城が二つある様)に見えるが、南城と西城は連携した一連の縄張りであり、北城は全く別物でしかも築城時期は戦国後期で新しいようだ。北城の二重横堀は明らかに南城が奪取された場合の攻撃に備えている。
蟻城見取図①
西城と北城。縄張り図をみれば築城時代や防御技術が全く違う事が見て取れる。

●西城(半僧防山)

中心の主郭の前後に副郭を置き西斜面に対して段郭を重ね、尾根を堀切で遮断したオーソドックスな手法の砦。
主郭は神社の社が祀られているが西側に土塁が盛られている。南城との尾根の中間地点には堡塁がある。

蟻城2 (6)
主郭と手前の副郭(灯篭のある場所)

蟻城2 (11)
北尾根を遮断する堀切㋐。宮坂武男氏は堀としているが、塁壁または切岸と見る方が良いのかもしれない。

蟻城2 (16)
旧八千穂村(やちほむら)時代に村指定史跡に指定されている。

蟻城2 (17)
主郭の西側の土塁。段郭も置かれているので防御指向は西斜面に対して敷かれている。

蟻城2 (22)
南側から見た主郭。

蟻城2 (28)
土手付きの堀切㋑。南城と共通の仕様である。

蟻城2 (30)
西城へ続く尾根。途中に埋まりかけた堀切㋒があり西城としてはここまでだろう。その先には標高967.5mの堡塁がある。

蟻城2 (34)
人工的な手が加えられたか不明な堡塁。

●南城 ※狩猟シーズンは鉄砲隊に注意!

テレビ塔建設時の作業道として林道が頂上まで通じている。四駆なら乗用車でも南城へ登れるが、遺構を見るなら疲れるけれども西城経由で登ろう・・(笑)

独立峯のピークに土塁で囲まれた主郭、三方の尾根に段郭を置きそれぞれの尾根を堀切で遮断している。テレビ塔の建設と作業道の開通で南尾根が不明瞭になってしまったが、最低限の損壊で済ませたのは行政の配慮であろうか。
物見砦としては最高のロケーションで、この位置に武田軍が烽火台を置き常駐させた意味が良く理解出来る。

蟻城見取図②
烽火台としても電波塔としても最高の立地場所だったのだ。

蟻城2 (42)
分かっていても車道が出現すると「がっかり」するものである(汗)

蟻城2 (44)
南尾根の郭跡。さすがにここから海ノ口城へ烽火で一発で伝達するのは難しいと思われ、少なくとも宮の上、松原湖を経由したと思われる。

その昔は烽火台としての通信場所。文明の利器が発達したといえども、テレビの電波も障害物があっては先にすすめません。通信伝達の要衝の地であった訳ですね・・。

蟻城2 (45)
南郭から見た主郭方面。遺構を壊さないように最大限の配慮があったようだ。

蟻城2 (47)
周囲を土手で囲まれた南尾根郭。

蟻城2 (61)
主郭の一段下の「コの字型」段郭。

蟻城2 (62)
東尾根の堀切㋖。

蟻城2 (67)
続く東尾根に三条の堀があるというが、「あれ」であろうか?

蟻城2 (77)
標高1047mの最高地点にある南城の主郭。かすかに土塁の跡が確認出来る。

蟻城2 (79)
東尾根の副郭は平削も甘い。

蟻城2 (81)
その昔は標柱写真は大将首と同じ価値があると信じていたが・・・(爆)

蟻城2 (92)
大石川烽火台は目と鼻の先にある。

蟻城2 (86)
佐久穂町の中心部を見下ろす。

蟻城2 (95)
主郭の西側を外周する段郭。

蟻城2 (104)
蓼科山の裾野の「通(とおり)」「馬越(まごえ)」集落のある台地も武田軍の軍用道だったという。

蟻城2 (100)
北尾根の堀切㋕。

蟻城2 (107)
北尾根の平削された尾根。

蟻城2 (109)
北尾根最終の堀切㋔。北尾根が大手だった可能性は否定出来ない。

ご覧頂いたように、南城を本城として支城(または出城)として西城が機能していたというのが普通の見方であろうか。
独立峰の上の烽火台としては規模も大きく、武田軍がいかに重要視していたかを物語る縄張りである。

北城については、全く違う城館なので、次回の記載としたい。

≪蟻城 西城・南城≫ (ありじょう にしじょう・みなみじょう)

西城 標高:930m 比高90m  南城 標高:1047.7m 比高200m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:南佐久郡佐久穂町穴原・崎田
攻城日:2014年12月13日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:30分(南城まで)
駐車場:無し。適当に路駐。
見どころ:堀切、土塁、ロケーション
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編」(2013年 宮坂武男著) 「定本佐久の城」(1991年 郷土出版社)
注意事項:冬は鉄砲隊に注意。

蟻城2 (193)
対岸の大石川烽火台より見た蟻城全景。









Posted on 2014/12/25 Thu. 22:49 [edit]

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勝見城 (南佐久郡佐久穂町海瀬余地)  

◆余地峠・十石峠を抑える要衝の地に築かれた監視砦◆

信濃における山城巡りの醍醐味といえば、どうしても甲越紛争の主戦場となった北信濃に偏ってしまうが、若き日の武田晴信(のちの信玄)が苦心して攻略した佐久は凄惨な城攻めの記述があるせいかどうしても敬遠されがちである。

花岡城①
蟻城(佐久穂町)の麓より見た花岡城。この城は住民の緊急避難用の地下横穴が発見されている。単なる烽火台ではなかったようだ。

侵略者である武田に対して「叛く佐久衆」、そして武田領となった佐久の経営において武田方によって改修された山城をつぶさに見て歩く事は、ある意味で北信濃よりも深い洞察と感慨が得られるのかもしれない。(あくまで一個人の感想である)

今回ご案内するのは、武田軍の佐久経由の武州・上野攻めの軍道を監視したと伝わる勝見城。(佐久穂町)

勝見城 (1)
登り口が不明なので、とりあえず尾根伝いに登ると神社と貯水タンク。往時は物見台だったようだが水の手に変貌(笑)

【立地】

甲斐から野辺山高原を越え、千曲川流域を北上すると蟻城や花岡城の位置する八千穂周辺から盆地が開ける。そこから約2km北の海瀬は武州(埼玉)、上野(埼玉)へ通じる交通の要衝であり、勝見城は二つの街道の分かれ目の険しい尾根を利用して築城されている。

勝見城 (2)
巨大な水の手(笑)。平時はこの場所に兵士が常駐したのであろう。

勝見城 (111)
貯水タンクが面倒な方は右へ迂回して尾根に入ると良かろう。

【城主・城歴】

建武二年(1335)山城国大徳寺文書には「伴野庄郷々村々御年貢存知分事」として、「余地村六〇貫文」とある。鎌倉時代には余地村は伴野庄に属していた事がわかる。
勝見城を築いたのは「嫡男忠常殿代に至り城内水乏しく相成り候に付き、関東の通路を兼ね、依路(よじ)という所へ左近中将自成引き移り住居仕り候」と下海瀬村の土屋忠右衛門が「鳥渡聞覚書」に書き綴っている。
花岡城が水で苦労したので余地(よじ)へ移ったらしい。

勝見城 (5)
どんなに嫌でもこの道を登らねば目的地には着けません・・

また、余地の古寺自成寺い伝わる「自成寺記」には、永正三年(1506)に寺を開くため訪れた俊庵和尚を、村の長である郷士伴野左近自成が迎え、また開基に尽力した旨が記されている。
これらのことから、勝見城は15世紀末期から16世紀初期に築かれた事が推測されるという。

勝見城縄張図①
尾根上の二つのピークを縄張りとした全長約1kmの城域。

武田の佐久占領下における勝見城がどのような使われ方をしていたのかは史料が無いので何とも言えないが、余地峠を越えて上野国へ何度か進軍しているので、甲州街道から余地峠への分岐点を抑える位置に立地する勝見城は、兵站基地あるいは烽火台として重要な役目を背負っていたと思われる。

勝見城 (7)
堡塁1.

勝見城 (14)
堡塁2。何を血迷ったか、岩崖を迂回したら郭4まで通り過ぎてしまうという失態を犯してしまう(笑)

●城跡

細長い痩せ尾根を利用して二つのピークが主な城域となる。長野県の「中世城館跡」の報告書では、最初のピークである郭4の烽火台とその周辺を主郭跡として、その先400mの城域については触れていない。
南方の大日方側の斜面は断崖で人を寄せ付けず、北側の余地側の斜面もなかなか急傾斜でまさしく要害の地である。水の手は余地の勝見沢の湧き水を汲みあげたのであろう。(現在は湿地帯だが嘗ては池だったようだ)

勝見城 (17)
堡塁3。まだ歩くの??

勝見城 (18)
いーかげん歩き疲れて堡塁4へ。アプローチの長い城域に閉口する。

勝見城 (24)
堡塁4からの風景。武州街道沿いに大崖城が見える。

大崖城~木曽義仲の父である源義賢の従兄弟で上野国多胡庄矢田を本拠とする矢田判官代義清の私牧経営拠点の一つで、義賢が討たれた際に武州より十石峠を越えて逃れてきた義仲が匿われた居館との伝説が残る。

●郭3(50×13)

城内最大の郭で長方形。郭2とは土手付きの堀切㋐で遮断されている。

勝見城 (29)
入口付近。

勝見城 (32)
東半分。

勝見城 (33)
堀切㋐(上巾5m)

●郭2

北側に二段の腰郭を備える城の中心部。東側に天水溜め(井戸)があるので、両サイドを堀切で仕切られ防御もなかなか厳しい仕様である。

勝見城 (40)
北の斜面に備えた段郭。

勝見城 (41)
天水溜めは石積みで周囲が囲われていたと思われる。

勝見城 (43)
郭2の中心部。

●主郭とその周辺

城域の最高地点にあり、北斜面に向けて「コの字」で土塁が囲んでいた形跡が残る。搦め手側に一条の堀切㋓を穿ち、その先に緩衝用の郭を置いているがあとは断崖絶壁である。辛うじて通路があるようだが東尾根からの攻撃は不可能に近いと思われる。

勝見城 (44)
土塁を伴う二重堀切。

勝見城 (54)
主郭(25×8)

勝見城 (55)
奥の山は松山砦。うっすらと盛り上がっている土塁がお分かりになるだろうか。(ビミョーですね)

勝見城 (63)
搦め手方面から見た郭1と堀切㋓

●要衝を抑える抜群のロケーション

武州街道そして十石峠を抑えるには最適の場所である事はこの城跡に立つと理解出来る。

勝見城 (73)
余地集落を見下ろす(余地峠を越えて上野国へ)

勝見城 (53)
木曽義仲四天王の一人だった館六郎親忠(根井幸親の子)の居館跡も手に取るように見える。

勝見城 (59)
尾根先は深い断崖で人を寄せ付けない。

●郭4(烽火台)とその周辺

国土地理院の地図上922m地点が郭4になる。中心部は土塁が全周し、周囲を円状の平削地が囲み東西の尾根に平場の段郭がある。北斜面に対して放射状に腰郭が五重程度取り巻く中々面白い縄張りである。

勝見城 (98)
郭4の中心部。

勝見城 (93)
外周を土塁が回る(薄く補助線を引いてみた)。切岸を形成して一段高くしてある事がお分かりだろうか。

勝見城 (91)
中心部を囲むように半円形の郭が巡る。

勝見城 (96)
東の段郭。その先は岩場。

勝見城 (86)
北側の斜面に放射状に段郭がある。所々寸断されているが、かつては繋がっていたようだ。

特筆すべきはここにも天水溜め(井戸)があることだ。花岡城の水不足に対する教訓からだろうか・・。

勝見城 (103)
立派な天水溜めでございます。

勝見城 (108)
こんな巨石の裏側に烽火台があるとは思いませんよね(笑)

さて、ツラツラと例の如く写真ばかりをならべておりますが、如何でしたでしょうか?

南佐久で覇を唱えようとした伴野さんですが、この城の遺構は伴野時代のものではなく、武田さんちの土木工事による改修の跡でしょうネ。
信玄さんもここから余地峠を越えて上野に攻めに行く将兵を見送った事かと思われます。


≪勝見城≫ (かつみじょう)

標高:990m 比高190m
築城年代:不明
築城・居住者:大井氏、武田氏(推定)
場所:南佐久郡佐久穂町余地
攻城日:2014年12月13日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:45分
駐車場:無し。適当に路駐。
見どころ:堀切、土塁、天水溜め、ロケーション
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編」(2013年 宮坂武男著) 「定本佐久の城」(1991年 郷土出版社)
注意事項:岩場が続くガレ山なので転落、落石注意。途中の足場が悪いので靴はしっかりしたものを履く事。体力勝負。また、松茸シーズンは止め山になるので9月から10月末の訪問は避けたほうが良いでしょう。

勝見城 (112)
南の大日方方面からみた勝見城主郭付近。

勝見城 (114)
全長約1kmなので2分割しないと写真に収まりません・・(汗)




Posted on 2014/12/23 Tue. 12:44 [edit]

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