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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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内山城 (佐久市内山)  

◆抗う佐久の土豪どもを徹底殲滅した武田方が新たに経営拠点として整備した宿城◆

更新されないブログに「死亡フラグか?」と思った方もいらっしゃるだろうか。いつもの事である・・・(爆)

13日の土曜日、悪天候の隙を付いて南佐久の蟻城(ありじょう)と勝見城に進駐する。
案の定、蟻城の南城では恐れていた鉄砲隊と遭遇するという危機に面したが、何とか無事に帰還・・・(汗)

いつから「城巡り=サバゲー」となったのだろうか・・・このことである・・・(笑)

それにしても近年稀に見る異常気象による降雪で、年内の攻城戦は「おしまい」。呆気ない幕切れとなった・・・・。

内山城2 (2)
内山城の城下町が形成されていた内山集落と出城の内堀城、佐久進出当初の宿城だった前山城方面。(園城寺より)

今回ご案内するのは、佐久地方における武田の拠点城として整備された内山城。(うちやまじょう)

「この期に及んで初掲載とは片腹痛いわ!! 首でも洗って おととい来やがれ!」

と諸先輩方にはお叱りを受けそうだが、初参戦の「トーシロ戦士らんまる」が考察する内山城とは果たしていかに・・・

内山城2 (112)
山麓の園城寺。

【立地】

佐久から群馬県の下仁田町に通じる通称「内山街道」(または富岡街道)の内山渓谷の入口の右岸に位置し、断崖上の岩山に立地する。東方の尾根続きには内山城があり、北側600mには五本松城がある。
往時は信濃と上州を繋ぐ重要な古道で、旧碓氷峠と共に関東方面への出入り口であった。

内山城2 (3)
内山城の居館跡と伝わる衣笠神社。大手の南西尾根の付け根の平場に位置し水の手(現在は池)も備えている。

今さら目新しい遺構や記述の発見など無いが、訪れる人も激減し城跡への大手道も藪に覆われ道も消えかけている。

織豊期の近世城郭ばかりが注目される最近の城郭ブームの風潮を残念に思う戦国の城のフリーク諸氏もいらっしゃるとお察し申し上げるが、嘆く暇があるなら「土の城について、思うままを発信せよ!!」

と、偉そうにノタマウ小生も一週間に一度の更新ペースじゃ「ダメよ~、ダメダメ」 このことである・・(笑)

内山城見取図①
集落を覆うようにそれぞれの尾根にも防御構造が施されているのが分かる縄張り。

【城主・城歴】

中世初期の内山は平賀郷の平賀氏の支配下にあったが、平賀氏の衰退後は大井庄地頭大井氏の手に移ったという。
内山城の初見は天文十五年(1546)五月で高白斉記には下記の記述が残る。

・五月小三己未卯刻、内山(現佐久市)に向け御門出の陣。巳刻御立。海野口まで。
・五月六日壬戌、前山(用佐久市)へ御着城。
・五月八日甲子巳刻先衆立つ。九日乙丑辰刻前山のワウツ立つ。
・五月十日、水の手取らせられる。雷雨。
・五月十四日庚午責敗。内山本城ばかり残りて小笠原(貞忠)と金吾(不詳)両人参る。
・五月二十日丁丑、内山の城主左衛門尉(大井貞清)城を明けて野沢(佐久市)へ下る。

内山城2 (7)
大手の南西尾根(衣笠神社の裏側)には五ヶ所の削平された郭が連続する。

内山城を奪取した武田晴信(信玄)は、七月に上原伊賀守昌辰(後の小山田備中守)を城将に命じ、志賀城で抵抗を続ける笠原氏や、内山峠を越えて笠原氏への援軍を出して来る上杉憲政に備えた。
内山城の拡張整備と城下の形成はこの時武田によって行われたと考えられるが、どうであろうか。

内山城2 (8)
南西尾根突き当りの郭。この裏が城の主要部になるが、巨石がそそり立つ岩崖が天然の防御となっている。

翌年志賀城が落城し佐久一円が武田の支配下となるも、翌々年(天文十七年)二月、上田原の合戦で武田が敗戦。四月に村上義清は佐久へ侵入し「四月二十五日敵内山宿城に動く、過半火を放つ。」(高白斉記)

「宿城」(根小屋)と記載されているので、城下が形成されていたのであろう。
上田原合戦での武田軍の敗戦は反武田の佐久衆の蜂起に繋がったものの、内山城の城将上原伊賀守は良く持ちこたえた。しかし武田軍の守る前山城を村上に支援された佐久衆が攻め落とし伴野氏が反旗を翻すに及び、晴信は九月に自ら佐久へ出陣し前山城に立て篭もる反乱軍を退け、伴野氏を降す。(この直後に前山城は武田により改修された)

内山城201411 (17)
宗吾神社の置かれた主郭。

高白斉記によれば、天文二十年三月に前内山城主だった大井貞清が上原伊賀守と交代し内山城将に任ぜられるが、九月には罷免され上原から名字を替えた小山田備中守に再び戻されている。※一説によれば村上方への内通を疑われていたと言われる。

内山城201411 (4)
郭1の切岸と郭2。

内山城201411 (3)
土留めの石積みが周回する。実に丁寧な普請だ。

その後、飯富兵部虎昌(おぶひょうぶとらまさ)など武田の重臣らが城将を勤めているので、諏訪の上原城同様に武田の佐久における経営拠点として重要な宿城だったことが伺える。

内山城201411 (8)
主郭の一段下の郭4から見た郭5.

武田氏滅亡後の内山城は、天正壬午の乱で北条氏が佐久へ侵攻し内山城を奪取。城代として猪俣能登守(のちの名胡桃城奪取の首謀者として北条氏を滅亡に追い込み全国区の有名人となる)を入れる。
しかし、徳川方の依田信蕃の佐久平定作戦で陥落し以後廃城となった。

内山城201411 (9)
郭5から望む内山街道。

内山城201411 (11)
城跡から見る内山の城下。

【城跡】

主郭とその周囲を囲む4つの郭のある山頂は周囲を峻険な岩崖に囲まれ容易には近づけない。
また、南の尾根には「馬場の平」と称する広大な郭があり、東側を防塁となる土手が遮断している。城の背後の東尾根は、内山古城へ続く鞍部を一条の大堀切㋓で遮断し、水の手のある北の沢を竪堀㋒で制限し石塁を斜面に構築する事で厳重に警戒している。
城下の背後を守るような西尾根はガレの痩せ尾根のため、二条の堀切と堡塁を置いているがそれだけで十分だろう。

内山城201411 (19)
東尾根に対して扇型の郭3。

内山城201411 (20)
急こう配の尾根には四段の段郭を置いて鞍部に堀切㋓。下手な二重堀切よりも防御力は高い。(鞍部を見下ろす)

内山城201411 (37)
鞍部の堀切㋓。左の尾根伝いで内山古城へ。

●水の手(井戸)及び周辺の石塁

この城へ来たら絶対に見て欲しいのが石組の井戸である。素掘り井戸とか天水溜めなら珍しくないが、この山中でこれほどの遺構はそうはお目にかかれないと思う。塩田城、伊那大島城、岩殿山城ぐらいだろうか。
また、斜面には謎の石塁がある。往時のものかは断定出来ないが、水の手防衛の執念を感じる遺構である。

内山城201411 (23)
竪掘㋒。(急斜面なので別になくてもイイと思うが・・・)この先を下って水の手になる。

内山城201411 (26)
斜面の石塁。石の組み方が主郭周辺の石積みに似ている感じがした。

内山城201411 (25)
こんな急斜面を下る。なので見学後は登るんです(汗)。命令とはいえ、水汲みも大変だったんでしょうねえ。

内山城201411 (31)
ありましたよ、石組みの井戸。堀切から比高差70mぐらいでしょうか。

内山城201411 (33)
枯れちゃってましたが、この石組の井戸は体力勝負してでも見る価値はありますネ。

●西尾根 ※撮影は9月末

内山城2 (88)
痩せ尾根を削っただけです。

内山城2 (94)
岩を削って穿った堀切㋑。

内山城2 (96)
急な尾根を下った先の尾根は円城寺の裏手になり、城下が良く見渡せます。

内山城2 (100)
堀切㋐。かなり埋まってます。

内山城2 (111)
郭8.単なる堡塁かと思いきや、真面目に削平してありました。

●馬場の平(郭6)

馬の放牧や飼育ぐらいは出来る広さはありますが、さすがに馬を連れて登るのは無理でしょう(笑)
兵隊さんの宿営地としては最適ですね。

内山城3 (6)
北側から見下ろした「馬場の平」遠景。

内山城3 (7)
結構な土木工事量かと。

内山城3 (9)
東側の防塁。登り石垣のように尾根伝いに加工されている。見どころのひとつです。

内山城3 (12)
南端の段郭。

さて、ツラアツラと例の如く写真で誤魔化して参りましたが(笑)、武田氏の佐久経営拠点として幾多の戦火に見舞われながら歴史を刻み続けた内山城。
武田さんちの宿城とはこういうものか、という学習にはイチオシの山城でございます。

これだけの史実と素晴らし遺構を現代に残しているのに、指定史跡じゃないんですネ(汗)
岩尾城や平賀城が県指定史跡なのに、何ででしょう?
指定史跡にすればイイという単純な問題ではありませんが、少なくとも志賀城と内山城は指定史跡にして欲しいものです。

内山城201411 (35)
晩秋の山城は、城が土の芸術作品であるという事を教えてくれる短いシーズンでもあります。(堀切㋓)

≪内山城≫ (うちやまじょう)

標高:913m 比高193m
築城年代:不明
築城・居住者:大井氏、武田氏、北条氏
場所:佐久市内山
攻城日:2014年11月8日 (最終訪問日)
お勧め度:★★★★★(満点)
城跡までの所要時間:円城寺より15分
駐車場:園城寺の駐車場借用
見どころ:堀切、土塁、石積み、石組井戸、石塁、登り石垣
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編」(2013年 宮坂武男著)
注意事項:岩場が続くガレ山なので転落、落石注意。途中の足場が悪いので靴はしっかりしたものを履く事。

内山城2 (115)
内山街道(コスモス街道)から見た内山城遠景。佐久を代表する「ゴッツイ」宿城だ。










Posted on 2014/12/21 Sun. 12:45 [edit]

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五本松城 (佐久市志賀)  

◆「赤羽記」に記載のある「上の山」とは五本松城の事なのか?◆

これだけハッキリとした遺構が残る城なのだが、伝承は何もない。

武田を嫌う土地柄は仕方ないにしても、反逆者への見せしめとして凄惨な殺戮が敢行された志賀城の戦いなど、記憶から消し去りたいというのが民意であろう。

志賀城(佐久市) (145)
志賀城の麓にある雲興寺から見た五本松城全景。志賀城よりも標高・比高は高い位置にある。

近世になって城跡に五本の松が生い茂っていた事からその名が付けられただけだという。全国に三万以上存在した戦国の城で名の付く城などはホンの僅かで、「城(じょう)」とか「堀の内(ほりのうち)」、「たて(館)」、「要害(ようがい)」「根古屋(ねごや)」などと呼ばれていたらしい。そんな伝承や口伝すら残らない城もある・・。

【立地】

志賀城の南麓の志賀集落を流れる志賀川を挟んで800m南の山塊の尾根上に築かれた全長約300mの山城で、城域の西側部分は五本松城西城と呼ばれている。南東500mには内山古城そしてその先には内山城がある。
城域の北側の斜面は急で人を寄せ付けない。大手は内山集落の香坂入から西城の先端をたどる道だったと思われる。

五本松城 (5)
城域東端を遮断する堀切㋗。(南側の斜面より撮影)

五本松城 (4)
北の沢へ落ちる堀切㋗。北側は急斜面なので竪掘にすることなく終わっている。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」では志賀城の物見とされているが、縄張やその規模を観察すれば単なる物見ではなく戦国時代に改修を重ねた城であることが見て取れる。
笠原氏と隣接する対抗勢力であった内山氏の内山城の支城として築かれた五本松城だが、笠原氏の台頭と勢力拡大に伴い接収され志賀城の支城の一つになったという見方も出来る。

五本松城見取図①
西城は後から増築されたのであろうか。防御の指向性が内山方面の南になっている。

城主・城歴が不詳なのだが、高遠城主保科氏の家臣赤羽俊房が主家保科家と赤羽一族の功績を記録した「赤羽記」に、志賀城の戦いの前哨戦が記載されており、その一説にある「上の山」が五本松城を指しているのではないか?という推察がある。以下は「定本 佐久の城」(1997年7月 郷土出版社)の「志賀城・笠原城」の解説文(木内寛氏記述)における赤羽記の引用である。

晴信に志賀の案内を命じられて出陣した高遠城主保科筑前守が、家来の北原彦右衛門をつれて志賀の城下に入り、「角屋の蔀(しとみ)の陰」に隠れていると、数人を引き連れた(笠原)新三郎の家臣志賀平六左衛門が鹿毛の馬に乗って巡回してきた。
そこへ彦左衛門が走り出して平六左衛門の馬の太腹を太刀で突き倒し、落馬した平六左衛門の大鬚(おおひげ)の首を筑前守が打ち落とした。こうして前哨戦は「志賀の町」で始まったのである。
これを「上の山」(志賀川の対岸に構築された五本松城か)から「委しくご覧」になっていた晴信(信玄)は、保科筑前守に褒美として太刀を与え、これを「鬚切りの太刀」と呼び、保科家代々の家宝とせよと命じた。

五本松城 (51)
五本松城から見た志賀城大手口の雲興寺と志賀集落。(ズーム5倍)なるほど城下の動きは良く見える位置だ。

武田軍を迎え撃つなら、志賀城よりも五本松城に籠城したほうが有利な展開に持ち込めたはずだが、武田の先制攻撃で奪取されてしまったのかもしれない。
「上の山」が五本松城を指すかは不明だが、晴信が内山城に本陣を置き志賀城攻めを指揮しているのであれば、五本松城から敵陣視察を行う事は充分に考えられる事である。

五本松城 (52)
五本松城の主郭から見下ろす位置にある志賀城。

笠原城を踏査していないので何とも言えないが、武田軍が接収した五本松城から、城内全て丸見えの志賀城を捨てて、笠原城(または高棚城)で籠城戦に及んだと言う地元の伝承の説は否定されるケースが多いが、意外と真実なのかもしれないと思えた。

【城跡】

連続する二つの尾根のピークを利用した全長約350mの連郭式の山城である。南北の斜面は傾斜が急で人を寄せ付けない。近隣の山城同様、岩場やガレの露出が多く攻城ルートも制限されるまさに天然の要害である。

●郭1(主郭 55×25)

五本松城 (61)
佐久市教育委員会が調査してキチンと標柱を立てて欲しいものです。

結構な人数の部隊を収容出来る広さで、北へ向けて一段下に段郭を設置している。

五本松城 (48)
丁寧に削平された主郭。

五本松城 (54)
北に向けて二段構えの段郭。志賀城に向けて構築されたものであろうか。

●郭2(副郭43×21) 郭3(19×24)

主郭背後の堀切を経て二段の郭が連続する。郭2と郭3の間の北の斜面に三連の「竪掘りが置かれるが短い。傾斜の厳しい北斜面に残る遺構は武田時代のものであろうか。

五本松城 (20)
二重堀切になるはずだった堀切㋖と堀切㋗の関係。

五本松城 (26)
郭3。

五本松城 (22)
郭3には北側の沢に向けて三条の竪堀が入る。

五本松城 (29)
郭2。

郭1と郭2の間は巨大な堀切㋔で切断されている。薬研掘だが、かなり埋まっている。東西の斜面は岩崖なので竪掘としては落とす必要は無い(堀切㋒も同様)

五本松城 (32)
郭2から見た堀切㋔

五本松城 (44)
郭1側の切岸から見下ろすとこんな感じ。結構な落差があります。

●変則的な堀切㋓は工事途中で放棄されたらしい??

いわゆる「大勢力」(もち武田であろう)が短期間で改修したと思われる五本松城は、小田井原の戦いで関東管領の上杉が敗れ、笠原氏が討死するとその戦略的意義を失い、武田方の佐久経営の中心が内山城と定められると放棄されたようだ。中途半端な立地と比高も原因だったと思われる。

五本松城 (72)
主郭の南の段郭bに残る石積み。志賀城の主郭と全く同じ積み方である。

五本松城 (74)
二重堀切になるはずだったらしい平場㋓。西城の防衛ラインが崩れた場合に一条の堀切では心もとない。

五本松城 (77)
北斜面に向かう堀切㋒。

●西城とその周辺

痩せ尾根とその周囲を囲む天然の岩場で構成され、最西端の郭6は南に対しての防御指向を持つ。南側の入香坂からの敵襲に備えた作りで防御技術レベルとしては低い。

五本松城 (88)
本城との連結部分の尾根。

五本松城 (94)
堀切㋐

西城は古いタイプの作りで、西に張り出した尾根を連郭で繋ぎ、城域の南側については竪掘を一条穿っただけの単純構造である。
立地は申し分ないが、城への登城や水の手の確保を考慮すると「いらない」分類に区別される・・・(笑)

五本松城 (102)
郭4の内部。

五本松城 (108)
最終の郭6。

籠城戦用としてはとても良く出来た縄張の山城なのだが、通常における使い勝手は不便そのものである。
そんな訳で、志賀城陥落後は出番もなく廃城になったのかもしれない。

天正壬午の乱で内山城・志賀城は、後北条さんも兵を進駐させたようだが、五本松城は使用された形跡が無い。
兵站補給もままならない要害の地すぎるのが原因かもしれない・・・。

≪五本松城≫ (ごほんまつじょう)

標高:941m 比高215m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:佐久市内山香坂入
攻城日:2014年11月8日 
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:内山城より尾根伝い内山古城経由で約30分
駐車場:園城寺の駐車場借用
見どころ:堀切、土塁、石積みなど
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編」(2013年 宮坂武男著)
注意事項:冬は鉄砲隊(ハンター)に注意。

志賀城(佐久市) (148)
このシルエットを見てしまうと、行かざるを得ない気持ちになる・・(笑)













Posted on 2014/12/13 Sat. 22:03 [edit]

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内山古城 (佐久市内山)  

◆精度の高すぎる縄張図におけるトラップとは◆

戦国の城巡りの楽しさは、縄張図があると倍増する。

縄張図は軍事施設としての城の図面であり、郭、堀、切岸、土塁などの防御パーツの位置が地形図に上書きされた平面図に記されたものである。

戦国時代、最高の軍事機密であるが故に築城時の設計図は焼却され、築城に駆り出された人夫の中には、中枢部の工事に関わったものは口封じで人柱にされた者もいたのかもしれないし、人質を出させて機密の漏えいを防いだのかもしれない。

宮坂武男氏作成 証城縄張図
小生が参照する信濃の山城の縄張図は、宮坂武男氏の作図を常に参照している。(千曲市の証城)

なので、全国に三万~五万ぐらい築城されたであろう戦国の城の縄張図など伝わるはずも無く、現在残る遺構から表面観察をして最終形の縄張図を作成し再現する作業が必要となる。

縄張図の作成における図面の共通ルールはあっても、五百年経過した遺構の状態における表面観察は人それぞれ千差万別である。ここに縄張図の捉え方の難しさが存在する・・(汗)

が、極端に縄張図が変わるはずはない。細部の捉え方だけであろうか・・。

以下は宮坂武男氏の縄張図を見ずに小生が独自で作成した証城の縄張図です。

恥を忍んで比較の為に掲載してみたg、見方はそうそう変わる者では無いことがお分かりいただけるでしょうか。

らんまる証城縄張図①
2012年5月に作図した恥ずかしい縄張図・・・モロ素人って感じ・・(笑)

今回ご案内するのは、中世城郭研究の先駆者である余湖さんが、宮坂武男氏の縄張図に期待し過ぎてしまい、さぞかしご立腹だったという内山古城(うちやまふるじょう)。

内山古城見取図①
縄張図における黒い部分が土塁を示している。山の中に高土塁が山盛りの甲賀の城が出現したと勘違いしてもおかしくない縄張図ではありますが・・・(汗)

【立地】

内山峡谷の入口を抑える内山城の尾根伝いに約500m東にあり、奥まった場所にあるため沢や街道筋から直接見る事は出来ない。この城への行き方は、内山城の東尾根を縦走するか、内山集落から内山城の北側の沢(香坂入)沿いを進み、突き当たり手前の北側の小山が城跡である。

内山古城 (4)
内山城から縦走した信濃先方衆は途中で???となって沢に下りて北の小山へ。これが正解でした・・(笑)

内山古城 (6)
城域の南西は整地された窪地で小屋掛け出来そうだ。また住民の緊急避難場所としても使えそうだ。

【城主・城歴】

天文十五年(1546)五月に武田軍の攻撃を受けて降伏した時の内山城(城主:大井貞清)はここだという地元の説もあるようだが、籠城して戦えるような城では無い。内山城の詰め城あるいは逃げ込み城部類であろうか。

内山古城 (13)
掻き上げた土を尾根上にかさ上げしのであろうか。

内山古城 (14)
蟻地獄でも作りたかったのかしら?

【城跡】

余湖さんが縄張図を見て「巨大な土塁」を期待したのは無理からぬ事である(汗)。我々は宮坂縄張図ばかり見て慣れているので、神の少し大げさな誇張表示(デフォルメ)には驚かないのだ・・(笑)

「ああ、なるほど、立派な土塁だよね」(爆)

内山古城 (16)
郭1から撮影した巨大な土塁立派な土塁。結構太いのだが、余湖さんの期待値を下回ったらしい。

自然地形を生かして尾根を加工したらしい。堀切こそ無いが、段郭も数段刻み、切岸を付ける事で防御力を持たせている。が、どうみても籠城出来るシロモノでは無い。

内山古城 (17)
南東の尾根から見た郭1。尾根を削って窪地にしたものだ。

内山古城 (19)
北西の尾根沿いに下って行く土塁。

防御の指向性は北なので、志賀川の沢からの敵襲に備えたものであろうか。郭3から北の尾根に向かえば五本松城に繋がるので五本松城との連携も考えられる。

内山古城 (20)
尾根の西側斜面の段郭。

郭3が最終で、我々はその先の五本松城を目指した。余湖さんの記述の通り、ここから先は恐ろしい数の倒木が道を遮り急斜面に散乱していた。

我々の尊敬して止まない余湖さんが、五本松城の遺構を見た後にこの城を見て失望を禁じ得なかったのは、「せっかくきたのにこれかよ!!」という思いであり、無理からぬ事である・・・・(涙)

ってか、小生、内山城を記事にしていないのである。てっきり書いてあるものだと信じていた。何という失態・・・(笑)

内山古城 (33)
郭3付近を調べる「ていぴす殿」出演料は特にありませぬ(笑)

≪内山古城≫ (うちやまふるじょう 長沢城)

標高:950m 比高220m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:佐久市内山香坂入
攻城日:2014年11月8日 
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:内山城より尾根伝いで約10分
駐車場:園城寺の駐車場借用
見どころ:おおきな土塁、切岸など
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編」(2013年 宮坂武男著)
注意事項:冬は鉄砲隊(ハンター)に注意。

志賀城2 (47)
志賀城の東端の尾根先から辛うじて見える内山古城。








Posted on 2014/12/07 Sun. 17:43 [edit]

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曽根城 (佐久市小田井)  

◆城歴不明な田切地形の崖淵城◆

「信州人の一つ残し」という言葉がある。

これについて、小生は以下のような解釈をしているが、異論は無いと思うがどうであろうか?

ご馳走というのは失礼の無いように余す事無く全て食すのが礼儀であるが、取り皿形式の食事で、遠慮して次の人の為に皿に一つだけ品を残す風習を指す。
いっけんすれば慎み深いように思えるが、最後にその一品を食べたヤツは「食い意地の張った意地汚いヤツ」というレッテルが張られてしまうので、実に厄介な風習である・・(笑)

毘沙門天①
典厩寺の閻魔堂に描かれた「みんな大好き毘沙門天!」

今回ご案内するのは、田切地形を取り入れた方形城館の「曽根城」(そねじょう)

曽根城 (1)
城域の北側を遮断する天然の田切地形。嘗ては濁川の氾濫原だったと思われる。

【立地】

岩村田の北端、御代田町(みよたまち)との境界線になり、濁川(にごりがわ)によって形成された田切地形の段上に形成された崖淵城である。北東500mに小田井城の支城の戸谷城があり、同じ濁川の田切に立地している。

曽根城見取図①
全体的には菱形だが中心は方形居館である。

曽根城 (4)
上巾21mの巨大な横堀㋐。

【城主・城歴】

文献上の記録もほとんど無いようだが、遺構からは古代末期の様式とみられ、根々井の道本城落合城の縄張りによく似ている。

曽根城 (5)
堀切㋐方面から見た南側。広大な城域である。

曽根城 (9)
郭2の東側。段差が付けられているが、往時の遺構かは不明。

【城跡】

濁川の田切地形を利用し回字形の縄張りを持つその様式は、場所は違えども道本城と良く似ている。同じ時代の築城であろうか。
主郭1には民家が建つが、東側には堀形が残り、広大な郭2も耕作地に変形しているものの、濁川によって出来た田切地形を天然の外堀として構えていた状況が把握出来る遺構が良く残っている。
残念ながら道路の貫通により主郭を囲む横堀の一部が壊滅してしまい、西側の状況が不明朗になったが、全体的には往時の雰囲気が残る。

曽根城 (10)
北側から見た堀切㋑。上巾10mで良好に遺構が残る。

曽根城 (13)
濁川の渓谷のような深い田切地形が天然の巨大な堀切となって城域南側を防御している。

曽根城 (16)
南側から見た堀切㋑。

畑で作業していたご夫婦に撮影許可を求めてお話を伺うと、このあたりの地名は昔から「城(じょう)」と言われているという。城館の址だとは知らなかったようだ。

曽根城 (17)
西側から見た主郭方面。

曽根城 (18)
主郭北側の堀は埋め立てられてしまい、消滅している。

戦国末期の松平康国(天正壬午の乱で徳川方として佐久平定に功績を残し岩尾城攻めで討死した依田信蕃の息子)の統治時代に、一揆鎮圧の為の詰所が置かれたという言い伝えもあるが、それは曽根新城(そねあらじろ 佐久IC工事で消滅)ではないかとも云われている。

源平合戦と回字形の居館・・・何か楽しいと思うのは小生だけであろうか?
防御の指向性は東なので、小田井さんちとの抗争拠点だったようにも思えるのだが・・・・。

曽根城 (24)
浅間山は歴史の生き証人であるが、黙して語る事は無い・・・・

≪曽根城≫ (そねじょう)

標高:756m 比高:15m  
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:佐久市小田井
攻城日:2014年10月19日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:無し (路駐不可)
見どころ:堀切
注意事項:耕作地なので田畑への無断侵入不可。
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編」(2013年 宮坂武男著) 「定本 佐久の城」(1997年 郷土出版社)
付近の城址:小田井城、平尾城、大井城、藤ヶ城、金井城など

曽根城 (27)
道路の反対側から見た郭1.






Posted on 2014/11/06 Thu. 21:52 [edit]

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閼伽流山城 (佐久市香坂)  

◆南北朝時代の香坂氏発祥の地に眠る山頂城◆

建武中興から南北朝時代にかけては、信濃の国も例外無く北朝側、南朝側に分かれた。
南朝方に与した佐久地方の武士団には、落合氏、志賀氏、そして香坂氏の名前が出てくるが、落合氏の活動拠点は善光寺平に移り、香坂氏は牧野島(信州新町)⇒伊那谷の大河原へと舞台を移している。

閼伽流山城(あかるさんじょう)が香坂氏の築城なのかは不明であるが、志賀氏の高棚城(たかだなじょう)とともに断崖絶壁上に築かれた古い形式の山城で、ベースは千早城や赤坂城などの峻険な山頂城だと伝わる。

閼伽流山城 (2)
閼伽流山城へは山麓の明泉寺から観音堂への参道が整備されていて、観音堂の手前を山頂へ分け入る。

【閼伽流山の由来】

フリガナが無ければ全く読めない地名だが、「あか」をPCやスマホで漢字変換するとこの難解な文字がイトも簡単に候補で表示されるのには驚く。(汗)
「閼伽」(あか)とは本来は仏教用語で仏前や墓前に供えられる水を指す言葉だという。

閼伽流山城 (3)
参道の7合目までは四駆の軽トラか軽のハコバンなら登れるかもしれない。歩いて楽しむのが良かろう。

明泉寺の入口の説明板には以下の記載があるが、地名の由来には全く触れていない・・(汗)

「平安朝の初期、天台宗慈覚大師が諸国を巡錫した頃、香坂一帯は湖だったという。その風光が比叡山から琵琶湖周辺の景色に似ていたので、この地に閼伽流山明泉寺を建立したと伝えられている。」

閼伽流山城 (5)
「何が楽しくてあんな山の上を目指すのか?」自問自答が始まる瞬間である・・・(笑)

【立地】

佐久市岩村田から東へ約5kmの場所に香坂集落がある。その北側に屏風のように岩肌を垂直に露出した閼伽流山があり、その山頂に砦がある。断崖の直下には明泉寺の千手観音堂があり、古来より霊山として信仰を集めている。
城跡は観音堂の手前から沢筋に岩壁の間の沢を登った場所にある。これが嘗ての大手道と伝わる。

閼伽流山城 (7)
7合目の歌碑。ここまでは軽自動車の四輪駆動なら上がれるが、麓から自然と対話しながら登るのが風流であろう。

閼伽流山城 (10)
観音堂の手前のカーブに城跡の標柱がある。

閼伽流山城 (11)
標柱はあってもその先に明確な登山道など何も無い。まっ、道無き登山などいつもの事なので気にしない・・(笑)

【城主・城歴】

信濃の中世の豪族である香坂氏発祥の地だとされる。

「文応年間(1260~1261)更級郡南内・北内の二牧を賜り、牧監として移住し、きたうちの牧ノ島に館した。高棟の父小太郎心覚は建武三年(1336)正月公家方に応じて牧城に義兵を挙げたが、守護司小笠原経義・村上信貞・高梨経頼等の鋭鋒を塞ぐ能わず、城を捨てて伊那郡大河原の山中に逃ぐ」(「信濃閼伽流山」)と伝えられているので、閼伽流山城も香坂氏の築いたものと考えられようか。
史料・文献等も無く不明である。

閼伽流山城 (13)
こんな「そそり立つ」岩壁の間を這うように沢を登って行く。

閼伽流山城 (14)
「止めときゃよかった・・・」人生とはいつも後悔の連続である・・・(笑)

閼伽流山城見取図①
単郭の逃げ込み城に近い古い形式の城のようだ。

【城跡】

水の手と思われる沢を適当に北に登り尾根に辿り着く。東側に「登り土塁」があり、その先に50m×13mの低い土塁が周回する楕円の郭が出現する。
切岸の下方に平削された腰郭が確認出来るが、途中で放棄されたような中途半端な作りである。作成途中で放棄されたようだ。

閼伽流山城 (22)
沢筋へ直線で落ちる竪土塁。

閼伽流山城 (28)
低い土塁の周回する本郭(北側)

閼伽流山城 (29)
大手に対する南側の土塁は北よりも若干高く盛土されている。

閼伽流山城 (34)
軍事施設というよりは避難施設と言うべき単純さ。

苦労して登って単郭一つである。「続・山城紀行」(2008年 中央プリント出版部)を執筆された清水長久氏はこの閼伽流山城の記事で、「遺構が少ない城跡びのうえに、辛苦の思いで荒れ果てた登路を往復することを思うと、山城探訪をする方々に推奨出来る山城ではなかった」と記述している。

果たしてそうであろうか?

古い形式の山城を知る事は、縄張りの変化を学ぶ上で貴重なのだと思う。武器や戦術の変化に対して、山城がどのように変化していったのかを教えてくれるのだから、堀切一本しかなくても、土塁しか無くても学ぶべきことはあると思うのだが、生意気な中年男の反抗期の戯言だろうか(笑)

閼伽流山城 (35)
南にあいている虎口。

閼伽流山城 (40)
北側の帯郭。割と丁寧に平削されているので驚いた。

主郭の鞍部を挟んだ東側には防塁のような土塁と平削地があると宮坂氏の縄張図に示されているが、それを南北朝時代の遺構と取るのか、近年の炭焼き窯の址と捉えるのかは判断が難しい。今回の掲載は割愛させて頂く事とする。

閼伽流山城 (68)
登り口の沢には水の手がある。

≪閼伽流山城≫ (あかるさんじょう)

標高:1008m 比高:260m  
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:佐久市香坂西地
攻城日:2014年10月25日 
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:40分 駐車場:明泉寺駐車場借用
見どころ:土塁
注意事項:登山道は消えかかっているので注意。
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編」(2013年 宮坂武男著) 「続山城紀行」(2008年 清水長久著)「定本 佐久の城」(1997年 郷土出版社)
付近の城址:ねぶた城、高棚城、翼城、志賀城、笠原城など

閼伽流山城 (77)
明泉寺の観音堂。城跡探訪の後には是非訪れて頂きたい風光明美なお寺である。



閼伽流山城 (82)
街道から見上げた閼伽流山城と昭和天皇が登られたという仙人ヶ岳。

Posted on 2014/11/04 Tue. 23:03 [edit]

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地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

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在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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