らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0830

岩尾城2 (佐久市鳴瀬 リテイク)  

◆佐久地方の武田方の拠点として改修された三日月堀を持つ堅城◆

佐久市鳴瀬にある岩尾城といえば、天正壬午の乱で徳川家康の命に従い信濃佐久地方を平定する直前で依田信蕃が討死した城として有名である。
その死を悼んだ家康が信蕃の幼少の長子に松平姓を与え、小諸城と周辺の所領を与え、更に自分の一字を与えて康国と名乗らせ大久保忠世を後見とする破格の待遇を与えている。

iwao079 (11)
岩尾城から見た南東方面。依田信蕃の最後の居城である田口城は前山城から東へ7km先にある。

後北条氏を翻弄した依田信蕃の捨て身の活躍が無ければ、天正壬午の乱において兵力差では圧倒的に不利だった徳川が優位な条件で和睦など出来るはずも無かった・・。まさに信濃国佐久平定戦の最大の功労者である。

武田勝頼配下の有能な武将として二俣城田中城の城代を勤めた依田信蕃は、殺到する徳川軍相手に一歩も引く事は無かったという。

そんな歴戦の勇士だった信蕃さん、難攻不落の岩尾城の攻撃で焦り鉄砲に撃たれて敢え無く討死。その後、岩尾城主の大井行吉は徳川軍に城を明け渡した。依田信蕃の死と引き換えに佐久は徳川により平定された。

iwao079 (5)
県指定史跡だったとは不覚であった・・(笑)。駐車場も無いし西ノ郭は藪茫々だし縄張図もありゃしないお粗末さ。

【武田時代の岩尾城】

佐久地方の大井庄の地頭であった大井一族の大井行俊により岩尾城が築城されたのは文明十年(1478)と伝わる。
岩尾城の記載が高白斉記に初めて登場するのは、天文二十年(1551)で、戸石崩れの翌年である。

その年の五月に真田幸隆が戸石城を奇襲し乗っ取ると、信玄は翌月に佐久平定の仕上げとして甲府を出陣し若神子へ着陣する。これに先立ち、一門である栗原左衛門が佐久に入り未だ降伏しない土豪の懐柔工作を行っていたらしい。

以下は岩尾城に関わる高白斉記の引用である。

・七月二十日丙午、岩尾弾正(大井弾正行真)初めて若神子まで出仕。

・七月二十五日幸亥、若神子より御馬納めらる。

・七月二十六日壬子、孫六(晴信の弟)御前迎えに出て駿府に着く。未刻、小田原の使者遠山方に御対面。烏帽子落し之由聞き候。

・七月二十八日節。晦日丙辰巳刻、重ねて御出馬。

・八月小朔日丁巳、桜井山へ御着城。 ※桜井山とは勝間反砦であろうと推定されている。

・八月九日乙丑天晴地霧。辰巳の刻より酉の刻まで。

・八月二十二日己卯、御曹司様の西の御坐立ち始む。

・八月二十八日甲申午刻、未の方に向い岩尾の城の鍬立七五三(くわだてしめかけ)同岩村の鍬立、申の刻未の方に向い七五九。栗原左ヱ門仰せ付けられ侯て相勤むる。

※七五三とは「しめかけ」と読む。千歳飴の「しちごさん」では無い(笑)。注連縄(しめなわ 七五三縄とも書く)の事を指していると思われ、新たな武田の城を縄張りするにあたり地鎮祭のような神事が執り行われたのであろう。

iwao079 (4)
三島神社の鳥居と道路建設により三日月堀付近は改変を余儀なくされたらしい。

この時信玄は大門峠ではなく佐久甲州街道を通り臼田の桜井山城に入り宿営しているのがわかる。
岩尾城主の大井弾正(行吉か?)は信玄が佐久に入る前に若神子に出向き武田に降ったとみられる。

その後の大井氏の動向は不明で、岩尾城が新たに鍬立てされたと記載されているので、武田直轄の城として作りなおされ、大井氏は代替え所領を与えられたのだろうか。眞田幸隆が城を預かっていたとも云われているので、内山城と共に佐久における重要な拠点であったのは間違いないと思われる。

【三日月堀は実在したのか?】

どうしても武田の城=三日月堀+馬丸出し丸馬出しという公式が付いて回る・・(笑)

岩尾城の古絵図にも三日月堀が描かれているし、発掘調査でも三日月型の堀が確認出来たらしいが、現在は標柱が建つのみで壊滅している。

iwaoIMG.jpg

縄張図だけ見ると、郭の中間地点に三日月堀を備えているのが分かる。大抵の場合、三日月堀と丸馬出しは外郭の虎口に設置されるのだが、この位置は珍しい。類似するのは遠江の小山城ぐらいだろうか?まあ、小山城のスケールには遠く及ばないが・・・(汗)

最も、現在の大手台郭や大手郭が当初の城域から拡大されて後付けされたとすれば納得は出来る。

岩尾城② (8)
見学者の誰もが戸惑う道路脇の「三日月堀跡」の標柱。三角形は何処?教えてくれ!!(怒)

岩尾城と三日月堀①
こんな感じの説明板があると、「なるほど」とイメージしやすい。

岩尾城② (9)
盛り上がっているので道路が堀で土塁が馬出しの土手に見えるが、土手が堀の部分。

岩尾城② (7)
まあね、強引に落書きするとこんな感じかしら・・・(汗)

ものの本によれば、勝頼の時代にも改修が施されたというが、真の程は定かではない。
武田氏の滅亡とともに大井行吉は再び岩尾城主として故郷に戻り、北条氏を頼ったという。

岩尾城② (10)
三日月堀の標柱付近から見た三の郭。

家柄から云えば、格下の依田信蕃の降伏勧告に従う事などプライドが許さなかった。

がしかし、その憎き依田信繁が討死した以上、徳川に抗う理由は無くなった。だから開城したのである。

iwao079 (3)
雪の部分が丸馬出しであろうか。

iwao079 (28)
この大手台郭から見た三日月堀跡と三の丸。(鳥居の右側が三日月堀跡)

天正十一年(1583)2月25日、攻城戦も三日目に入り焦燥していた依田信蕃は弟の信幸と共に自ら城へ攻め込み、敵弾に斃れた。信幸はほぼ即死、信蕃は翌日亡くなったという。享年三十六才。

iwao079 (26)
三の丸手前の空堀(三日月堀と連結)には祠がある。信蕃が撃たれた場所なのだろうか?

信蕃が敵弾に斃れたのは大手台郭の空堀とも三の丸手前の三日月堀付近とも云われるが定かではない。

勝頼時代には二俣城、田中城の城将として名を馳せた依田信蕃が、武田の縄張りと伝わる岩尾城の三日月堀付近で生涯を終えたとは皮肉なものである。

iwao079 (29)
城域北側からの岩尾城遠景。

岩尾城の大手の東側には、岩尾城の城主だった大井氏の菩提寺である桃源院があり、歴代の城主の墓がある。

iwao079 (33)
大井氏の墓。

それにしても、県指定史跡なのだから、もう少しキチンと整備して欲しいと思うのは小生だけであろうか?
とかく行政とは新しい施設の建設や指定史跡になるまでの整備については熱心だが、作ってしまえば、指定してしまえば、それで終わり!というのが多過ぎる。

中世の城館に関しても、今一度見直しと整備を進めて欲しいものである。

iwao079 (34)
南側の千曲川から見た岩尾城。まさに「所堅固の城」であろう。

夏バテで更新のペースも下降気味だが、もうすぐ攻城戦再開の季節になるので、なんとなく嬉しいこの頃です・・(笑)





Posted on 2014/08/30 Sat. 07:19 [edit]

CM: 6
TB: 0

0214

藤ヶ城 (佐久市岩村田)  

◆幕末に築城着手するも未完で終わった内藤氏の居城◆

しかし毎週毎週こうも正確に天気予報が当たると腹が立つ。雪はスキー場だけ降るように調整して欲しい・・(汗)

松岡氏の城砦群ツアーもあと3箇所で一応終わるのだが、飽きてしまったので今回は佐久に一度戻る事にした(笑)

全国的に調べても珍しいと思われるのだが、何故か佐久地方には幕末に新たな築城申請が幕府に出されて許可されている城が二つもあるのだ。

一つは信州の五稜郭として有名な田野口藩の竜岡城(佐久市臼田)であり、もう一つは岩村田藩(佐久市岩村田)の藤ヶ城である。

taguti (6)
田口城から見下ろした竜岡城(ズーム5倍)。函館の五稜郭のミニチュア版だが、星形稜堡として西洋式の防御構造を持つ美しい城である。

竜岡城はほぼ完成と同時に明治維新を迎えたので辛うじてその姿を現代に残せたが、藤ヶ城は上棟時点で廃藩となり未完のままで放棄され、僅かな痕跡が残るだけである。

奇妙な事に、それぞれの城跡には小学校が建てられ今日に至っている。

母校が城跡だなんて羨ましい限りだが、そんなこと考えている小学生はいないだろう・・(笑)

藤ヶ城(佐久市) (2)
本丸(岩村田小学校)の北側にある招魂神社は独立した曲輪で防御の要であったようだ。


【立地】

佐久市の岩村田地区の南、湯川の段丘崖を利用して築城されている。湯川からの比高は20mほどあり、北・東・南にかけては断崖となっていて、いわゆる「後ろ堅固」の要害の地である。
北500mには中世大井氏の居城だった王城(大井城)がある。

藤ヶ城見取図(佐久市)
「岩村田御新城分間縮図」(元治元年 1864)を現在の地図の航空写真に当てはめるとこんな感じになる。

【城主・城歴】

岩村田藩一万六千石の内藤氏が幕末に築城を開始し、途中で明治維新を迎えた為に、未完成に終わった城として田口城とともに特異な例として注目すべき城と言えよう。

「長野県町村誌」の「藤ヶ城墟」に「黒岩城より南へ距る事四町余、往昔より上ノ城と唱ふ。大井氏累世居館の古跡にして、南北三町余、東西四町余、東西四町余、堀形橋台僅かに残れり。東南崖高く湯川を帯び、西北は平坦なり。後内藤氏這地を用いて居城新築す。尚地の狭隘なるを以て、旧幕府の税地を買い上げ内藤氏へ附す。故に又士卒の邸坊を設く。元治元年(1864)甲子四月移て此に居住す。明治四年七月正誠東京へ移住す。同五年二月正誠の旧住居を以て、長野県支庁と成す。其他郭孵(かくふ・くるわ)の門、砲台等統て廃し、耕地、宅地に復せしむ。今士族の住宅のみ存在す。」とあり口絵がのっている。

藤ヶ城(佐久市) (4)
招魂社の境内入口には「上の城跡」として説明板が残る。

藤ヶ城(佐久市) (1)
西側から見た本丸北側。本丸の四隅に隅櫓を建築し天守閣も設置する予定だったらしい。

岩村田は、中世大井氏の居住地として栄えた所で、近世に入ってからは初頭から小諸領内の中山道の一宿駅となっていた。後に幕府領となり、更に元禄十六年(1703)より内藤正友がここを領するようになって初めて岩村田陣屋が置かれた。この陣屋は領内六ヶ村(岩村田・長土呂・赤岩・猿久保・上平尾・小田井)から木材や労力を徴して造ったという。

藤ヶ城(佐久市) (7)
唯一往時の曲輪の面影を残す招魂社とその周辺。現在は公園になっている。

藤ヶ城(佐久市) (15)
招魂社の裏側に残る土塁跡。幕末の新規築城でありながら石垣ではなく土塁というのは予算の問題だろうか。

藤ヶ城(佐久市) (16)
城の面影が残る城域の西側。

岩村田の陣屋は皆に取り巻かれていたために拡張もままならず、藩士たちの居住に事欠いていたために、早くから上ノ城地籍に藩士の住居が構えられていたようである。
元治元年(1864)の「岩村田御新城分間縮図」のような築城計画が藩主内藤正誠によって進められたが、事半ばで廃藩となり、ついに落成を見ないで終わった城である。

藤ヶ城(佐久市) (18)
岩村田小学校の正門が本丸の虎口と重なっている。現在は正門の東側のみに土塁が残る。

藤ヶ城(佐久市) (24)
藤城神社も曲輪跡だろうか。岩村田城の石碑も置かれている。

藤ヶ城(佐久市) (27)
北側には嘗て大井宗家が城館を置いた王城があり、その先に浅間山の雄大な景色が見える。

江戸幕府の統制力も無くなった幕末においては、武家諸法度による築城制限など有名無実となり、その中で進められた築城計画であったようだ。

藤ヶ城(佐久市) (36)
城域の南東方面。耕作地の向こうは湯川の断崖。

藤ヶ城(佐久市) (38)
城域の南端に残る土塁跡。

竜岡城が西洋かぶれの洒落たミニチュア砦だったのに対して、藤ヶ城は「後ろ堅固」の極めてオーソドックスな土塁の城というコンセプトで設計された城であった。

藤ヶ城(佐久市) (29)
藤城神社から西側の城域境界線。河岸段丘を利用した縄張りであることが分かる。

太平の世に「もはや城など無用の長物・・・」

そう言われても「城持ち大名」は陣屋暮らしの諸候にとってはやはり憧れだったに違いない。

アパート暮らしから思い切って35年ローンを組んで一国一城の主となる現代の男性諸氏と変わりないと思うが(笑)

≪藤ヶ城≫ (ふじがじょう、岩村田城・上ノ城)

標高:710m 比高:20m
築城年代:1864年
築城・居住者:内藤正誠
場所:佐久市岩村田
攻城日:2014年2月9日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:児童会館の駐車場等利用
見どころ:土塁、堀切など
注意事項:周辺は耕作地、民間の住宅地なので注意。小学校は立ち入り禁止、撮影にも充分注意。
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」
付近の城址:王城など

藤ヶ城遠景①
王城から見た藤ヶ城とその周辺。





Posted on 2014/02/14 Fri. 22:44 [edit]

CM: 8
TB: 0

0103

志賀城 (佐久市志賀)  

◆叛く佐久に対して徹底殲滅という答えを出された笠原氏の城◆

年末年始は「肝臓・消化器系耐久レース」である(笑)

さすがに年齢を重ねると、夜更かしや暴飲暴食などという愚かな行為はしなくなったものの、生活のリズムが乱れた現状で来週から「社会復帰出来るのか?」心配になる・・・(汗)

jiji1.jpg
食っちゃ寝ばかりでは、飼い猫にも劣る(アタシと比べるなってサ・・笑)

2014年のスタートは佐久地方を代表する志賀城(しがじょう)。

「何で今さら?」といぶかしがる読者もいらっしゃると思う。

実は過去何回か攻めようとしたのだが、城の近くに近づくだけで気が重くなり撤収を余儀なくされていたのである(汗)

まあ、この城についての城主・城歴はゴサマンと出まわっているので、小生のブログでは純粋に城跡見学とした。

志賀城見取図①

あ、それと念のために追記しておくのだがが、天文十六年(1547)閏七月に笠原新三郎清繁(かさはらしんざぶろうきよしげ)父子と上杉憲政より援軍として派遣された高田右衛門佑(たかだうえもんのすけ)父子が武田軍に攻められて落城・討死した「志賀の城」は特定に至っていない。志賀城の他に以下の二つの城が推定されている。

●笠原城(志賀城の南東1.5km) 長野県町村誌ではここを指しているが、遺構がほとんど見当たらないという
●高棚城(志賀城の北東1.1km) 千曲之真砂の説

いずれも笠原氏の持ち城で、宮坂武男氏は「笠原氏の要害城が志賀城にあり、詰め城が高棚城・笠原城であったというのが素直な見解」としている。

志賀城(佐久市) (1)
城の大手口に位置する雲興寺は笠原氏の居館の候補地であるという。

比高は160mとそれほど高い場所にある訳ではないが、南北を沢に挟まれた両側は険しい斜面で所々岩場の露出する峻険な尾根上に築かれている。

志賀城(佐久市) (9)
比高60m(約10分)ぐらいで城域に入る。

そのまま岩場に設置された複数の段郭を縫うように登ると堀切㋒と堀切㋓間の鞍部に出る。

志賀城(佐久市) (86)
黄色の↑の部分は堀切だったような痕跡がある。(現在は通路)

志賀城(佐久市) (134)
帰り道で気が付いたのだが、本来の大手は南尾根を直上した部分の虎口だったようである。

志賀城(佐久市) (87)
北の斜面に落ちる堀切㋓。

笠原父子と援軍の高田父子が籠った城は不明だが、以下「志賀の戦い」について復習しておこう。

【志賀城の戦い】

以下は高白斉記の記載。(年号は天文十六年)

●閏七月九日戊子、大井三州(未詳)其外御先衆出陣す。(前年に降伏・出仕した長窪城の大井父子か?)

●閏七月十二日、御出馬。

●閏七月二十日、桜井山(現臼田町)まで御着。

●閏七月二十四日、卯刻より午刻まで志賀の城を取詰なされ侯。

●閏七月二十五日未刻、水の手取りなされる。小笠原・金吾・山家参陣する。

●八月大己酉細雨。敵城の雲布のごとくなり。

●八月六日甲寅卯刻、板駿(板垣駿河守信方)其外動く。関東衆数多討ち捕られ申刻一戦。(笛吹峠の合戦)

●八月十日午刻、外曲輸焼く。子丑刻二の曲輸焼く。

●八月十一日己未午刻、志賀父子、高田父子討ち捕らる。

●八月十三日、城へ御登り持鎗進上。

志賀城(佐久市) (21)
郭2の西端は堀切を入れずに土塁でかさ上げしている。

志賀城(佐久市) (24)
志賀城で最大の面積を誇る郭2(52×6)

一方、志賀城の戦いについては妙法寺記にも書かれていて、以下の記載がある(年号は天文十五年とあるが誤りだろう)

「・・・・此の首ヲシカ城(志賀城)の廻りに悉く御懸候 是ヲ見テ要害ノ人数モ力(ちから)ヲ失ヒ申候 去ル程ニ水ニツマリ申候・・(中略)・・シカノ要害ハ八月十一日「ニ依田一門高田一族シカ殿御内ヲバカロウ平六左衛門尉兄弟八人去間以上討死三百計リ  シカ殿ノヲカミヲハ小山田羽州給テ駒橋へ御間心御申候ニ去程男女ヲイケトリニ被成候テ 悉甲州ヘ引越申候 去程二貫三貫五貫十貫ニテモ親類アル人ハ承ケ申候」

笠原三郎清繁の要請を受けて志賀城救援に向かった関東管領上杉憲政の援軍約二万は、碓氷峠を越えて小田井原(御代田町)に布陣するも、志賀城を包囲していた板垣信方らの武田軍の急襲を受け惨敗する。(笛吹峠合戦あるいは小田井原合戦とも)
その時に討ち取った兵士の首約三千を城の回りに懸け戦意を喪失させ、更に水の手を絶ったので城は落城し三百の討死となった。捕虜は全員甲州に連れ去られて笠原夫人は小山田信有の側室として宛がわれ、親戚縁者のある者は引き取られ、その他の者は人身売買されたという内容である。

志賀城(佐久市) (25)
郭2の背後の堀切㋔(上巾10m)

志賀城(佐久市) (33)
郭1までの間には数段の帯郭が通路を挟撃するような形で置かれている。

志賀城(佐久市) (38)
この石段は後世のものだろうか?

さすがに首を三千個も運んで城の周囲に晒したとは思えないが、城内から良く見える場所に何十個か置いたか、直接城内へ投げ込んだのであろう。(重たいのでボールのようにはいかないがパチンコの原理で飛ばす事ぐらいは出来たであろう)

それにしても凄まじい仕打ちである。死者に鞭打ち、捕虜は奴隷として売却。恐らく一時的に志賀城下は廃村になったかもしれない。

志賀城(佐久市) (42)
郭1の入口の石積み。土留めであろう。

志賀城(佐久市) (48)
郭1の南半分は笹藪に覆われていて内部がよく分からない。

志賀城(佐久市) (52)
主郭背後の堀切㋕。尾根を貫通させていないので堀というよりは大きな穴のようだ。

武田晴信(信玄)は、佐久平定を進めるが「降ってはまた反乱」を繰り返す佐久の土豪や地侍にしびれを切らせていた。

まして上野国の平井城でなお影響力を持つ関東管領上杉憲政、北信濃の村上義清との境目の地域でもある。

佐久平定戦を邪魔するヤツは徹底して殲滅する・・・志賀城は「みせしめ」となった。

上杉の援軍ごと叩き潰して彼の強烈な意思表示をしたのである。

志賀城(佐久市) (54)
郭5.主郭周辺はオーソドックスな作り。

志賀城(佐久市) (58)
岩盤を削った堀切㋖

志賀城(佐久市) (60)
東尾根の搦め手方面は痩せ尾根が続く。

志賀城(佐久市) (62)
最終の堀切㋗を上から覗き込んで撮影。降りれない事は無いであろうが、チョッと危険すぎなのでパス・・(汗)


【その後の佐久平定戦に与えた影響】

あまりにも凄惨な志賀城の戦いは瞬く間に周辺に広がり、対立する村上・小笠原にも深刻な動揺をもたらした。

しかし翌天文十七年(1548)二月、上田原合戦で武田軍が村上軍に敗れると反武田勢力は盛り返し、佐久においても村上の支援を受けた佐久衆が内山城や前山城を一時的に奪還している。

が、同年七月に塩尻峠の戦いで小笠原長時が敗れると、武田晴信は攻勢を強めて同時侵攻で佐久の平定を進め、九月には臼田の田口城、前山城を攻め落とす。他に十三の城が自落したという。

翌年には望月の春日城、小諸の平原城を攻め降して佐久の統一が完成する。

志賀城(佐久市) (77)
主郭の南側にも見事な石積みが残っているので必見だ。

さて、ツラツラと取り留めの無い解説と写真を掲示してきたが、その後の志賀城はどうなったのだろうか?

【西尾根に対する防御施設の増築】

武田統治下の志賀城は、戦線が川中島以北へ移ると利用価値も無く捨て置かれていたように思える。

武田滅亡後の天正壬午の乱で、旧武田領の信濃が北条・徳川・上杉の草刈り場となると、立地の重要性から再び注目され改修を受けたようだ。(根拠資料などないのであくまでも推定)

志賀城(佐久市) (88)
郭3の東端は重厚な石垣が施された堀切㋒。L字に曲げている。

志賀城(佐久市) (94)
郭3から見た堀切㋒。土留めの石積みなのでこの堀の東西で時代が違うのが分かる。

志賀城(佐久市) (96)
郭3の西方面。削平が荒っぽいので急いで造成したようだ。

志賀城(佐久市) (125)
西側正面から見た石塁㋑。

志賀城(佐久市) (127)
石塁㋑は郭3の側面に対して石垣として連結している。

志賀城(佐久市) (123)
武者走りのような郭4

志賀城(佐久市) (104)
西側城域最終の堀切㋐。

いかん、ツラツラとまた写真ばかり・・・(笑)

郭3から西側は全く別の構築物だということがご理解いただければ・・ハイ。

笠原さんの最後の地が何処なのかは不明だが、最後まで改修された城である事は間違いないであろう。

防御構造のしっかりした志賀城を捨てて敢えて小屋がけも出来ない笠原城で籠城戦を展開したという説が多いが、どうであろうか。少しでも標高が高くて上杉の援軍が来るまで持ちこたえられて、関東管領の住む上野国の国境に近いから・・・。其の説明が笠原城を最後の城とする根拠ならば納得できないのである(汗)

志賀城(佐久市) (151)
山麓より見た志賀城。

≪志賀城≫ (しがじょう)

標高:880m 比高:160m  
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:佐久市志賀
攻城日:2013年11月23日 
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:15分 駐車場:雲興寺の駐車場借用
見どころ:堀切、土塁、石積み、石垣
注意事項:痩せ尾根なので転落注意。
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」「探訪 信州の古城」
付近の城址:五本松城、高棚城、笠原城、内山城、内山古城など

志賀城(佐久市) (148)
正面南には志賀城の支城と伝わる「五本松城」のシルエットがくっきり映る。






Posted on 2014/01/03 Fri. 16:50 [edit]

CM: 12
TB: 0

1221

下畑下の城 (南佐久郡佐久穂町下畑)  

◆改修されつつ使用されたであろう「元祖・下畑城」◆

昨日、上田市周辺の里山は真っ白の雪景色なのだが、市街地は雨という変な天気。

午前中は長野市に仕事で向かうが「ボタン雪」に見舞われ幹線道路は大渋滞・・(汗)

年内は根雪になりそうなので、この三連休で個人の山城納め(仕事納め)を敢行するつもりが微妙な感じとなる。

んで、今回ご紹介するのは下畑城に隣接する「下畑下の城」(しもはたしものじょう)

下畑下の城見取図①
隣接している尾根なので縄張りも似ているが、城域は尾根先端の唐沢川の急崖で終わっているし小ぶりな作りである。

【立地】

下畑城の隣150mに隣接しているので、そちらを参照願いたい。尾根の先が唐沢川なので築城は下畑城より古いように思える。

下畑下の城(佐久穂町) (3)
堀切㋐。下畑城では搦め手の最終堀切として記載している。

下畑下の城(佐久穂町) (6)
郭6。削平の不完全な地山だが、搦め手の防御には捨て置く事も出来なかったようだ。

【城歴】

下畑城の城主は何となく特定できそうだが、似て非なる下の城は砦として先に築城されていた事が考えられるので、下畑城の城歴とイコールとは考えないのがよさそうである。
「在地土豪の築いた城であろう」と書くと西股氏に叱られそうなので「城主は不明」としておく(笑)

下畑下の城(佐久穂町) (13)
郭6の背後の処理。二段の切岸+二重堀切という縄張りは下畑城と共に受けた最終の改修と考えても良さそうである。

下畑下の城(佐久穂町) (15)
二重堀切の南側の堀切㋒(上巾10m、東方向)

下畑下の城(佐久穂町) (32)
主郭背後の土塁から見た堀切㋓と土塁と堀切㋒。二重堀切に見えるように補助線を挿入してみた。

【城跡】

広大な下畑城に比べると小さな砦で、3つの郭と馬出し(郭4)を備えた連郭式である。
唐沢川に落ちる尾根を利用しているので、当初はこの城だけが存在し、武田が制圧するに及んで連続する南尾根の高台に新たに築城したと見たいがどうでしょうか?
下の城も放棄される事無く本城の出丸として整備され緊急時に備えたように思える。

下畑下の城(佐久穂町) (34)
郭1と背後の土塁。

下畑下の城(佐久穂町) (41)
郭1をL字で囲む腰郭。

下畑下の城(佐久穂町) (44)
削平の甘い郭2。

下畑下の城(佐久穂町) (50)
緩い傾斜のついた郭3。

郭を並べて堀切を穿つオーソドックスな縄張りで防御の工夫などあまり感じられない。
主郭背後の防御システムは明らかに武田統治時代のものであり、その前の時代は郭を並べただけの物見だったらしい。

下畑下の城(佐久穂町) (55)
埋もれつつある堀切㋔。

下畑下の城(佐久穂町) (57)
鉄塔とその先の削平地(4)は城内でも広く馬出しだったようだ。

下畑下の城(佐久穂町) (66)
結構な広さのある郭4(馬出しか?)

城を二つも接続するほど重要な場所だったのか?と疑う方もいると思う。

現在の国道141号線(佐久甲州街道)と国道299号線(武州街道)が交差する佐久穂町海瀬は、信濃から関東方面へ通じる交通の要衝であり、戦国時代においては余地峠(よじとうげ)越えが一般的で、武田軍の上野侵攻も甲斐から佐久に入りこのルートを使用していた。(現在の武州街道は十石峠を越えるルートである)

海瀬付近分布図
城が密集しているのは重要な街道が通っているという証なのだ。

下畑下の城(佐久穂町) (74)
下の城から見た余地峠方面。

さて、話を縄張りに戻そう。

郭4の先端は方堀らしき址(堀切㋕)で終わり、その先の岩場は地山であろう。嘗ての大手はこの間の斜面にあったようで、下畑の集落に繋がっている。

下畑下の城(佐久穂町) (69)
堀切㋕。斜面を抉った程度のもの。

下畑下の城(佐久穂町) (71)
郭5方面。この途中を右に折れる道が大手か?

武田信玄は佐久を平定しその後信濃一国をほぼ手中にすると、ここから上野へ進軍していったのであろうか。

そしてその百戦錬磨の後ろ姿を、このちっぽけな小城も見たのであろうか。

≪下畑下の城≫ (しもはたしものじょう)

標高:828m 比高:65m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:南佐久郡佐久穂町下畑
攻城日:2013年12月8日 
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:10分 駐車場:道路脇の下畑城の堀切に駐車。
見どころ:堀切、土塁、連接する下畑城とセットで。
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」
付近の城址:沢山ありますよ

下畑下の城(佐久穂町) (83)
千曲川に架かる下畑橋から見た下の城遠景。



Posted on 2013/12/21 Sat. 11:05 [edit]

CM: 0
TB: 0

1220

下畑城 (南佐久郡佐久穂町下畑)  

◆佐久平定戦において武田軍が築いたという巨大な軍事拠点◆

ラーメンの写真が最初に掲載されていると「らんまる食べログ戦記」と勘違いされそうである・・(笑)

そうそう、先週は禁煙を始めて1年目を迎えたお目出度い周でもあった。30年以上も続けた習慣をそう簡単に断ちきるのか?と不安だったが、副作用としてデブ化した事はさておき(爆)、健康にもお財布にも効果は絶大だった。

禁煙カウンター①
禁煙を頑張るためのパソコンのスクリーンセイバー。8760時間が365日であり最初の到達すべき目標でもあった。

別に長生きしたい訳で始めたのではないが、「行動を変えようと思うなら自分を客観的に見て不要な事(楽しくない事)は止めればイイ」という断捨離の思想を根拠としたら、労せず一年が過ぎた。

しかし困った事に仕事が楽しく無いので「辞めようか?」と思っている自分もいる・・・・(汗)そりゃマズイ。

そんな人生の断捨離の談義はさておき、今回ご紹介するのは佐久穂町(旧八千穂村)の下畑城(しもはたじょう)。
隣接する次回紹介予定の下畑下の城(しもはたしものじょう)と併せた城域は直線距離にして約800m。城跡に車を横付け出来るのは嬉しいが、だらだら尾根筋を歩くのは結構しんどい・・(笑)

下畑城(佐久穂町) (2)道路が貫通する堀切㋐に車を乗り捨てる。

ここは二年前に一度攻めたのだが、夏場の藪が背丈まで伸びていて突入を諦めた経緯があり今まで放置していた。
それでも遺構が明確に残る南佐久を代表する山城なので、敬意を表して再戦に及んだという訳である・・(笑)

下畑城見取図①
オーソドックスな連郭式の縄張り。


【立地】

蓼科山の支脈が北東に降り佐口集落を経由し千曲川に注ぐ手前の段丘崖の上に築かれている。東側の下畑集落(しもはたしゅうらく)に対しては比高80mの高さがあり、佐久甲州街道(現在の国道141号線)からは見上げる威容を誇るが、西側の大久保の台地から見ると比高20mの丘でしかない。
それでも上州に通じる余地峠、茅野へ通じる大河原峠、佐久・小諸への進出を抑える交通の要衝として重要な戦略拠点であった。

下畑城(佐久穂町) (5)主郭入り口から見た南方面。厳しい防御構造である。

下畑城(佐久穂町) (4)堀切㋒。箱掘に近い形状なので物資運搬の通路も兼用していたのだろうか。

【城主・城歴】

そもそも城主探しが中世城郭の研究の阻害要因なのだ・・と中世城郭研究の第一人者である西股氏は苦言を呈するが、下畑城は武田信虎(晴信の父)が佐久に攻め入った際に家臣の小山田信有の家来の小林宮内助が築いた城だという。
また一説には、佐久の小宮山丹後守の居城で武田に従い甲州に居を構えたが、信玄の命により下畑城の城主に任じられ、西上作戦の途中の二俣城の戦いで鉄砲に当たって戦死したとの文献もあるようだ。
なので、下畑城は城主の裏付け資料が取れる数少ない城だと云えそうだが・・(汗

下畑城(佐久穂町) (6)本郭は高さ1.5mほどの笹藪が覆う。嘗ては耕作地だったが放棄され原野に戻りつつある。

下畑城(佐久穂町) (9)本郭跡の標柱を発見。笹藪から掘り出して撮影したゾ(汗)

下畑城(佐久穂町) (13)主郭の藪の中に石積みを発見するが、往時のものとは言い難い。

【城跡】

千曲川沿いを通る佐久甲州街道からは見上げる形となり、威容を見せつける城だったようだが、中身は連郭式の単純な縄張りで面白みにも防御的にもイマイチである。
下の城を増設する必要があったのは「宿城」としての複合利用目的の欠点の補完が目的だったように思える。

下畑城(佐久穂町) (14)鉄塔の場所は主郭から見た東側の帯郭。

下畑城(佐久穂町) (18)主郭の北側の帯郭。思わず笹藪を焼き討ちしたくなる・・(笑)

下畑城(佐久穂町) (27)広大な堀切㋓(上巾18m)

さて、大手はどこか?という問題に直面するのだが、縄張り図や地形図を見る限りでは「下の城」を介した北尾根であろうか。
郭3の北側の高土塁が本郭を遮蔽する高さにあり、城の内部を見渡せない工夫があるので間違いないのだろう。

下畑城(佐久穂町) (32)郭2(18×23)。腰の高さまである笹藪をかき分けて進むのは勇気が必要だ。

下畑城(佐久穂町) (33)上巾15mの堀切㋔。既に埋まりつつある。

この城を歩いていて思い出したのは旧望月町にある天神城で、あの城も丘陵地帯をバンバン堀切で刻んだ単純形式の城であった。
尾根伝いに敵が攻めて来るという単一指向の防御構造だが、側面から攻められたら堀切なんぞクソの役にも立たない(汗)
比高80mの断崖の東斜面ならともかく、西側の対処は疑問符である。西からの攻城は想定外というのだろうか。

下畑城(佐久穂町) (35)周囲の計測だけで実地検証は諦めた郭3。過去に蛇を踏んで一目散に逃げたトラウマがある・・(汗)

下畑城(佐久穂町) (37)郭3側の切岸はほぼ垂直な堀切㋕。この堀の処理は、ここから南が城域の主要部であると物語っている厳重さである。

下畑城(佐久穂町) (40)堀切㋕の堀底と西側。

最終の堀切㋕から北に向けて鉄塔の刺さる部分も、曲輪又は武者溜りだったようだがハッキリしない。

下畑城(佐久穂町) (42)堀切㋕とその北側。

下畑城(佐久穂町) (46)鉄塔周辺は怪しいが、なんかしら施設があったのだろうか?

下畑城(佐久穂町) (47)鉄塔の先は痩せ尾根になり下の城へ続いている。

下畑城(佐久穂町) (48)

また例の如く文章力の無さを写真でカバーしようと姑息な手段に出てしまった・・(爆)

ある程度の兵力が収容出来る広さを持つので、宮の上やこの先にある桜井山城(勝間反砦)とともに宿城利用されたようにも思える。
もちろん、その展望の良さから常時見張りが置かれていたのであろう。

≪下畑城≫ (しもはたじょう)

標高:846m 比高:84m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:南佐久郡佐久穂町下畑
攻城日:2013年12月8日 
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:道路脇の堀切に駐車。
見どころ:堀切、土塁、連接する下の城
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」
付近の城址:本間城、大石川烽火台、蟻城など

下畑下の城(佐久穂町) (85)千曲川方面から見た全景。









Posted on 2013/12/20 Fri. 07:22 [edit]

CM: 2
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top