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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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下畑城 (南佐久郡佐久穂町下畑)  

◆佐久平定戦において武田軍が築いたという巨大な軍事拠点◆

ラーメンの写真が最初に掲載されていると「らんまる食べログ戦記」と勘違いされそうである・・(笑)

そうそう、先週は禁煙を始めて1年目を迎えたお目出度い周でもあった。30年以上も続けた習慣をそう簡単に断ちきるのか?と不安だったが、副作用としてデブ化した事はさておき(爆)、健康にもお財布にも効果は絶大だった。

禁煙カウンター①
禁煙を頑張るためのパソコンのスクリーンセイバー。8760時間が365日であり最初の到達すべき目標でもあった。

別に長生きしたい訳で始めたのではないが、「行動を変えようと思うなら自分を客観的に見て不要な事(楽しくない事)は止めればイイ」という断捨離の思想を根拠としたら、労せず一年が過ぎた。

しかし困った事に仕事が楽しく無いので「辞めようか?」と思っている自分もいる・・・・(汗)そりゃマズイ。

そんな人生の断捨離の談義はさておき、今回ご紹介するのは佐久穂町(旧八千穂村)の下畑城(しもはたじょう)。
隣接する次回紹介予定の下畑下の城(しもはたしものじょう)と併せた城域は直線距離にして約800m。城跡に車を横付け出来るのは嬉しいが、だらだら尾根筋を歩くのは結構しんどい・・(笑)

下畑城(佐久穂町) (2)道路が貫通する堀切㋐に車を乗り捨てる。

ここは二年前に一度攻めたのだが、夏場の藪が背丈まで伸びていて突入を諦めた経緯があり今まで放置していた。
それでも遺構が明確に残る南佐久を代表する山城なので、敬意を表して再戦に及んだという訳である・・(笑)

下畑城見取図①
オーソドックスな連郭式の縄張り。


【立地】

蓼科山の支脈が北東に降り佐口集落を経由し千曲川に注ぐ手前の段丘崖の上に築かれている。東側の下畑集落(しもはたしゅうらく)に対しては比高80mの高さがあり、佐久甲州街道(現在の国道141号線)からは見上げる威容を誇るが、西側の大久保の台地から見ると比高20mの丘でしかない。
それでも上州に通じる余地峠、茅野へ通じる大河原峠、佐久・小諸への進出を抑える交通の要衝として重要な戦略拠点であった。

下畑城(佐久穂町) (5)主郭入り口から見た南方面。厳しい防御構造である。

下畑城(佐久穂町) (4)堀切㋒。箱掘に近い形状なので物資運搬の通路も兼用していたのだろうか。

【城主・城歴】

そもそも城主探しが中世城郭の研究の阻害要因なのだ・・と中世城郭研究の第一人者である西股氏は苦言を呈するが、下畑城は武田信虎(晴信の父)が佐久に攻め入った際に家臣の小山田信有の家来の小林宮内助が築いた城だという。
また一説には、佐久の小宮山丹後守の居城で武田に従い甲州に居を構えたが、信玄の命により下畑城の城主に任じられ、西上作戦の途中の二俣城の戦いで鉄砲に当たって戦死したとの文献もあるようだ。
なので、下畑城は城主の裏付け資料が取れる数少ない城だと云えそうだが・・(汗

下畑城(佐久穂町) (6)本郭は高さ1.5mほどの笹藪が覆う。嘗ては耕作地だったが放棄され原野に戻りつつある。

下畑城(佐久穂町) (9)本郭跡の標柱を発見。笹藪から掘り出して撮影したゾ(汗)

下畑城(佐久穂町) (13)主郭の藪の中に石積みを発見するが、往時のものとは言い難い。

【城跡】

千曲川沿いを通る佐久甲州街道からは見上げる形となり、威容を見せつける城だったようだが、中身は連郭式の単純な縄張りで面白みにも防御的にもイマイチである。
下の城を増設する必要があったのは「宿城」としての複合利用目的の欠点の補完が目的だったように思える。

下畑城(佐久穂町) (14)鉄塔の場所は主郭から見た東側の帯郭。

下畑城(佐久穂町) (18)主郭の北側の帯郭。思わず笹藪を焼き討ちしたくなる・・(笑)

下畑城(佐久穂町) (27)広大な堀切㋓(上巾18m)

さて、大手はどこか?という問題に直面するのだが、縄張り図や地形図を見る限りでは「下の城」を介した北尾根であろうか。
郭3の北側の高土塁が本郭を遮蔽する高さにあり、城の内部を見渡せない工夫があるので間違いないのだろう。

下畑城(佐久穂町) (32)郭2(18×23)。腰の高さまである笹藪をかき分けて進むのは勇気が必要だ。

下畑城(佐久穂町) (33)上巾15mの堀切㋔。既に埋まりつつある。

この城を歩いていて思い出したのは旧望月町にある天神城で、あの城も丘陵地帯をバンバン堀切で刻んだ単純形式の城であった。
尾根伝いに敵が攻めて来るという単一指向の防御構造だが、側面から攻められたら堀切なんぞクソの役にも立たない(汗)
比高80mの断崖の東斜面ならともかく、西側の対処は疑問符である。西からの攻城は想定外というのだろうか。

下畑城(佐久穂町) (35)周囲の計測だけで実地検証は諦めた郭3。過去に蛇を踏んで一目散に逃げたトラウマがある・・(汗)

下畑城(佐久穂町) (37)郭3側の切岸はほぼ垂直な堀切㋕。この堀の処理は、ここから南が城域の主要部であると物語っている厳重さである。

下畑城(佐久穂町) (40)堀切㋕の堀底と西側。

最終の堀切㋕から北に向けて鉄塔の刺さる部分も、曲輪又は武者溜りだったようだがハッキリしない。

下畑城(佐久穂町) (42)堀切㋕とその北側。

下畑城(佐久穂町) (46)鉄塔周辺は怪しいが、なんかしら施設があったのだろうか?

下畑城(佐久穂町) (47)鉄塔の先は痩せ尾根になり下の城へ続いている。

下畑城(佐久穂町) (48)

また例の如く文章力の無さを写真でカバーしようと姑息な手段に出てしまった・・(爆)

ある程度の兵力が収容出来る広さを持つので、宮の上やこの先にある桜井山城(勝間反砦)とともに宿城利用されたようにも思える。
もちろん、その展望の良さから常時見張りが置かれていたのであろう。

≪下畑城≫ (しもはたじょう)

標高:846m 比高:84m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:南佐久郡佐久穂町下畑
攻城日:2013年12月8日 
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:道路脇の堀切に駐車。
見どころ:堀切、土塁、連接する下の城
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」
付近の城址:本間城、大石川烽火台、蟻城など

下畑下の城(佐久穂町) (85)千曲川方面から見た全景。









Posted on 2013/12/20 Fri. 07:22 [edit]

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本間下の城 (南佐久郡小海町千代里)  

◆その存在を主張する単郭の物見砦◆

ラーメン屋の店主も山城も「黙して語らず」がイイ・・(笑)

麺屋たち花麺屋たち花(千曲市戸倉) 「つけ麺大盛り900円」~不器用でスミマセン的な店主も味も好感が持てる。しかし「食券をお買いください」って日本語変だよね(笑)

長男に教えて貰ったのだが、「つけ麺」は大概の店ではボリュームがあるので並みが注文の基本らしい。その辺をわきまえずに大盛りを注文すると厄介な消耗戦(消化戦?)に発展するらしい・・(汗)

ラーメン談義はさておき、今回ご紹介するのは存在価値を主張する「本間下の城」(ほんましものじょう)

場所は国道141号線沿いにある「メモリアルホールみつわ」(葬儀場)の裏山にある。

本間下の城見取図①

【立地】

八ヶ岳から派生する千代里の丘陵が千曲川へ向けて落ちる崖の上に築かれている。対岸には蟻城、その先3kmに花岡城、北へ1kmで大石川烽火台がある。先日紹介した本間城は尾根の陰になり見えない。
広大な佐久平の入り口にあたる場所でもある。

本間下の城 (2)南の沢から取り付いてみたゾ。

正面登城は崖状で厳しいようなので緩い南の沢に入ってそこから急斜面を這い上がる事にした。
立木と岩場を忍者のように登るのだが、転落するとヤバイ・・(汗)

本間下の城 (1)まあ、比高100mの道無き直登は昼飯前?

本間下の城 (5)こんな斜面を登ります(笑)

【城歴】

全く不明。烽火台としての言い伝えが残る程度。

本間下の城 (9)20×23の方形の郭。

【城跡】

千曲川に向かって突き出した尾根の先を削平し、郭の背後を土塁でかさ上げして堀切一条を穿った単純な物見砦である。北の沢に下る途中に削平地(郭2)があるが小屋でもあったのだろうか。
街道の見張り、狼煙台としての機能であり軍事的な機能を持たせたとは思えない。

本間下の城 (10)北側は断崖絶壁。

本間下の城 (18)かなり埋まっている背後の堀切(上巾5m)

本間下の城 (14)南西の尾根。削平されているが往時のものか怪しい。

本間下の城 (15)郭背後の土塁。

「こんな場所にある単郭の物見なんて誰も見に来ないだろうナー」(汗)

それでも皆さまには存在を知っていただきたくアップしました(笑)

本間下の城 (32)対岸に見える蟻城と花岡城。

本間下の城 (24)大石川烽火台もその視野に入る位置である。

本間下の城 (30)郭1全景。猫の額ほどの広さしかない。

位置関係から考慮すれば大石川烽火台のスペアだったのか、またはその逆だったのかは想像の域を出ないが距離的にも密接な関係であったと思われる。


≪本間下の城≫ (ほんましものじょう)

標高:907m 比高:105m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:南佐久郡小海町千代里
攻城日:2013年12月8日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:15分 駐車場:パチンコ店の廃屋に駐車。
見どころ:堀切、土塁
注意事項:どうしても見たい方は沢を詰めるのが安全。
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」
付近の城址:本間城、大石川烽火台、蟻城など

ooisikawa (11)大石川烽火台から見た本間下の城とその周辺(※この写真は2011年7月に撮影したもの)

Posted on 2013/12/11 Wed. 21:26 [edit]

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本間城 (南佐久郡小海町千代里)  

◆武田軍の佐久・上州に通じる軍用道と宿営地の監視砦◆

「ええい馬曳けい!、信州の城攻めは雪が降る前が勝負じゃ!、モノども我に続け!!」(ってか今日は一人だったし・・・・汗)

今回ご紹介するのは南佐久郡小海町にある「本間城」(ほんまじょう)

本間城(小海町) (1)尾根の先端にある東電の鉄塔旧保安道が登り口である。

一昨日は仁科口(大町市)に「ていぴす殿」と遠征し、雪混じりの悪天候をついて木舟城、丹生子城(にゅうのみじょう)に搦め手から攻め込む。返す刀で「城の峰城」に駆け上がるが、肝心の青木湖畔に佇む「猿ヶ城」は吹雪で断念する。

昨日は「年賀状でも書こう」と思ったのだが、同盟諸国のこの時期の怒涛の進軍に焦りを感じ急遽佐久へ進発した次第である・・(笑)

マイナーな砦で取り上げた記事すら無い本間城への登り口だが、宮坂武男氏のバイブルには例の如く「北側の尾根先から登るしかない」とだけある(汗)
国土地理院の地図には神社の記号があったのでそこから登るのだろうか??

たまたま近所を犬の散歩で通りかかったオジサンに神社の場所を聞いたら、「付いて来ナ!」と言われて教えて貰い「実はその上にある城跡に行きたいのですが・・」と事情を話すと「城址だったら、空き家になった工場脇に尾根に登れる東電の保安道があるからそこから尾根伝いに行きな!、車も無人の工場だからそっと駐車すれば問題ないよ。城跡の調査かい、感心だねえ~。」

バッチリそこまで案内してもらい、お礼を述べる。有り難い事です。

本間城(小海町) (5)
10分ほどで城域手前の地山に着く。何の加工もしていない。

本間城は以前に場所の特定が出来ずに小海高校付近を彷徨って断念したので、リベンジ戦である。

本間城見取図①
見張り砦なのだが防御はかなり厳しい。

【立地】

千曲川が険しい渓谷の旅を終えて佐久の平野部に出る場所である。南1kmには武田軍の宿営地であった「宮の上」(現在の小海高校)があり、対岸には高岩、北東1.6kmには蟻城。上州へ抜ける余地峠に向かう武田軍はこの先で渡河したという。

本間城(小海町) (13)城域堀切㋐の手前の平地。

本間城(小海町) (15)綺麗過ぎて堀切としては疑問符のつく㋐と㋑。

城跡は驚くほど整備されていて、正直なところ藪漕ぎを覚悟していたのでビックリした。最近の整備のようだ。

本間城(小海町) (16)堀切から見た千曲川の渡河地点。

本間城(小海町) (25)郭2から見た堀切㋒。

【城歴】

口伝や記録などは残っていない。三沢川に削られた尾根を利用した在地土豪の見張り砦程度だったものが、武田軍の佐久方面・上州方面への軍用道路の整備に伴い改修されたことは想像に難くない。

本間城(小海町) (23)土塁を構築する事で西側の沢(三沢川)に対して用心しているのが分かる。

本間城(小海町) (29)郭1は土塁が全周している。


【城跡】

狭い尾根先に作られた連郭式の物見だが、宮の上の宿営地の前進基地として武田の手が入ったと思われる。
三沢川からの侵入を意識した土塁が物語っている。
堀切㋐と㋑は別としても、四条の堀切はこの砦の重要性を物語っている。対岸には蟻城があり佐久平の情報はここを通して逐次宮の上の武田本隊に伝えられたのだろう。
搦め手と思われる城域から南に繋がる尾根筋には何の遺構も残っていない。

本間城(小海町) (32)土塁が廻るというよりは窪地のような郭1。

本間城(小海町) (34)主郭(郭1)の背後から続く一連の防御構造は密度が高く、在地土豪の設計では無いと思われる。

本間城(小海町) (38)東斜面に竪掘となって落ちる堀切㋓。

本間城(小海町) (39)郭3から見上げる郭1。堀底からは7mある。

本間城の比高は佐久甲州街道から僅か85mである。視界も北方面ぐらいしか見えないので北上する武田軍における前進基地で、場合によっては信濃から甲斐へ下る軍勢も監視の対象としていただろう。

本間城(小海町) (41)堀切㋔。西の沢に対して高さが稼げないのが見て取れる。

本間城(小海町) (44)
尾根最終の堀切㋕。

「信玄さん、ここの街道を通って佐久や小県の平定戦、上州の侵略戦に出向いたのか・・」

宮の上の宿営地の次の場所は桜井山城(勝間反砦とも?)または内山城だったという。

現代の道路からは想像も出来ない戦国時代の山間部の軍用路とは何処にあったのだろうか?その研究だけでもライフワークになるのであろうか。

それにしても、こんな街道筋のゴミのような砦も「溜め息」の出る素敵な軍事工作物なのである。

本間城(小海町) (45)郭4の南側は何も無い。

≪本間城≫ (ほんまじょう)

標高:898m 比高:85m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:南佐久郡小海町千代里
攻城日:2013年12月8日 
お勧め度:★★★☆☆
城跡の周回所要時間:15分 駐車場:付近に路駐
見どころ:郭、堀切、土塁
注意事項:鉄塔の保安道の登り口は私有地なので注意。
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」
付近の城址:本間下の城など

本間城(小海町) (14)城跡から見る佐久平方面。

本間城(小海町) (98)東側の千曲川付近から見た本間城。








Posted on 2013/12/09 Mon. 22:49 [edit]

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日向城 (佐久市根岸)  

◆段郭+長大な六連続堀切を装備する美しき佐久の山城◆

早く掲載しないと賞味期限が切れそうなので、南佐久で未掲載の城をご紹介したい(笑)

城正面に執拗な(ってか病的な)段郭を刻んだ築城方法は、信濃の城の特徴であろうか。

その後、搦め手やウィークポイントに堀切や竪掘りを組み合わせて進化していったのだと思われる。

この城の主郭背後の竪土塁を擁した長大な堀は「溜め息がでるほどの造形美」なのである。

日向城(佐久市) (11)司令塔(主郭)に建つ八幡神社。

佐久の城というと、ドカーンと構えて守れそうも無いデカ過ぎる崖淵城とか、在地土豪のしょーもない砦、武田軍の侵略に抵抗してボロボロになった山城、武田軍の宿城として再利用されたであろう城郭などバリエーションは豊富だが、これといったピカイチのお城なんぞ無いものと思っていた・・(失礼)

小生も最近まで知らなんだが、ツウの中世城郭ヲタクのみぞ知る「日向城」(ひなたじょう)の評判は凄いらしい

その連続堀の美しさは信濃の山城の中でもベスト3に入る絶大な支持を受けているとか・・・。

「百聞は一見にしかず」このことであった。

日向城(佐久市) (12)社殿の後ろが土塁で迫り上げてあるのは毎度おなじみの光景(笑)

【城主・城歴】

城が立地する日向(ひなた)集落は建武元年の大徳寺文書に地頭平賀弥七の荘園として記録があるものの、城の記載は無い。

伝説として長坂釣閑斎(ちょうかんさい)の居城とされている。

日向城見取図①計算された美しさが図面でも見てとれる。

釣閑斎(長閑斎光堅)は、甲州逸見筋(へみすじ)長坂の出自で、信玄、勝頼二代に仕え、天正十年(1582)、武田氏滅亡後、信長に誅殺されている人物である。
「南佐久郡古城址調査」では「釣閑斎の子源五郎昌由でも、此の地方の番衆として遣わされ、此の城に居ったのであるか」としている。
いずれにしても、伝承からすると、甲州の息のかかった城というのが考えられよう。

(信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著より引用)

日向城(佐久市) (22)主郭背後の箱掘㋐。いきなり魅せてくれる上巾20mは圧巻で言葉にならない。

日向城(佐久市) (20)意図的に南側は二重堀切にしていない。

実際の主郭は「郭2」であり、ここから兵士が各防御区域に配置され、必要であれば増員されたと思われる。

箱掘㋐は武者溜り或いは伏兵を置いた塹壕と考えれば、北側のみ二重堀切とした工夫は面白い。

日向城(佐久市) (25)北側へ薬研堀となる堀切㋐。

堀切に土手(または土塁)を伴うのは、排出される残土の処理を合理化する試みであったようだ。

なのでこの日向城の堀は、バンバンと岩でも石でも豪快に断ち割る村上時代の堀切作業とは一線を画している。

日向城(佐久市) (27)どこがどうちがうのか写真ではハッキリしないが、北斜面に落ちる堀切㋑。

まあ、伝説なので、甲州流の築城技術が誓われたのかはハッキリしないが、他の佐久地域の城とは明らかに一線を画した縄張りと土木技術は在地土豪にはない洗練されたものを感じる。

日向城(佐久市) (28)土手に土塁を伴う堀切㋑は優雅な曲線美を描いて南へ続く。

武田の息のかかる山城であれば、さぞかし重要な街道の要衝とか戦略的に外せない場所と考えてしまうのだが、どうでもいいような山間の尾根先に築かれている。

これは仙当城の立地にも共通するのだが、戦術上も戦略上も全く困らない場所なのである(汗)

日向城(佐久市) (31)郭5の削平地。堀切と堀切の間に郭を置く発想はかなり斬新なものと見てとれる。

日向城(佐久市) (41)郭6。堀切の前後に防護壁付きの陣地とは画期的な造りであろう。

武田軍の築城技術の最先端を披露する場所がここで良かったのかは疑問である・・(笑)

しかしながら、この堀の技術は「柔よく剛を制す」の基本であり、見とれてしまう美しさがある。

日向城(佐久市) (42)最も巾のある堀切㋓。

毎回思うのだが、写真では堀の長大さとか深さや巾を伝えるのは難しい。

同行者を堀切に建たせる手法は簡単みたいだが、単独訪問では無理だしね(笑)

日向城(佐久市) (46)南に向けた堀切㋓。途中から二重堀切を形成する手の込んだ仕様である。

長坂さんちの息子の居城だったかは別としても、圧巻の技術と美しさである。

500年以上無傷で残してくれた地元の方々に感謝感激雨あられですね(笑)

確か隣の自治体はデストロイヤーなのに・・(爆)

日向城(佐久市) (58)最終の堀切。

隠れキリシタンならぬ隠れ名城は何時でも大歓迎です・・・(笑)

堀ばっか記載しましたが、郭も載せておかねば・・

日向城(佐久市) (1)馬出しと伝わる郭4

日向城(佐久市) (10)V字型の郭2

地図を眺めると「なんでここなんだろう?」と思う。

眺望や交通の要衝ということだけを考えれば虚空蔵山烽火台で充分だと思うが、何故この場所なのか?

前山城の緊急避難用の砦として機能させる目的があったのだろうか?

疑問は尽きない・・・

謎の城は美しいのであった・・(笑)

日向城(佐久市) (65)北方面にしか視界のない立地。


≪日向城≫ (ひなたじょう 長坂城)

標高:808.0m 比高:100m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:佐久市根岸
攻城日:2012年11月11日 
お勧め度:★★★★★ (久々の満点)
城跡までの所要時間:10分 駐車場:公民館付近に路駐
見どころ:土手付き圧巻の六連堀
注意事項:間違えて日向神社のある峰に登る人が多いが、城址は南側の尾根です。(小生も迷った・・)
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」
付近の城址:前山城、虚空蔵山砦、宝生寺砦など

日向城(佐久市) (69)日向集落から西へ抜け民家が途切れたら林道を左に入る。(集落の途中を右に入ると日向神社)

日向城(佐久市) (73)日向集落から見た遠景。




















Posted on 2013/08/25 Sun. 07:22 [edit]

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楯六郎親忠の舘 (南佐久郡佐久穂町海瀬)  

◆木曾義仲の四天王の一人といわれ屋敷跡にもその名を残す佐久の荒武者◆

武将の名を冠した居館跡がそのまま後世まで語り継がれるのは極めて珍しいと思う。

木曾義仲に仕えた四天王で、根井幸親(行親とも)とその子の楯六郎親忠(たてろくろうちかただ)の親子は、その名を冠した屋敷跡が後世にキチンと伝えられた例であり、いずれも佐久にある。
(県史跡の根井氏居館は前回述べたとおり裏付け根拠が怪しいが、道本城とセットで考慮するべきであろう)

今回ご紹介するのは2年前に取材しながらデットストックになってボツにした「楯六郎親忠の舘」。

再訪問したのは良いのだが、到着した途端に凄い雷とゲリラ豪雨の洗礼。真面目にやれって事らしい・・(汗)

楯六郎2 (13)居館の手前には月見石がある。(文字の彫られた石版では無く上部が平らな石を指す)

北相木村との境にある茂来山の北西の支脈が抜井川に削られた河岸段丘の上に居館跡がある。

集落名は「館(たて)」。元々の地名らしく、根井行親の六男親忠がこの地に居を構えて館氏を名乗ったという。居館を意味する「館(たて)」とたまたま一致したようだ。

館⇒楯にしたのは字を変えただけらしいが、武勇に見合う名字としたのは「流石の猿飛び」で凡人では考えも及ばない領域であろうか。

楯六郎2 (1)えっ?しつこい?この石は単にお月見石ではないのだ。

実はこの「月見石」、楯六郎親忠が毎年旧暦一月十五日早朝に月見石から西方にある添田神社のご神木に入る月を見てその年の陽気を占ったという伝承が残っている。

以下、のこ居館跡については「定本佐久の城」(1997年 郷土出版社)の島田恵子氏の記事を引用掲載し、写真を織り交ぜて解説としたい。

楯六郎親忠の館見取図①

絵被暗示台後期、根井氏は館の地に私牧を経営し、郡場を飼育するために、その子親忠に館を建て、その任にあたらせた。茂来山麓の牧沢は広く、馬の飼育には最適地であった。(中略)

やがて治承五年(1181)木曽義仲が平家討伐の旗揚げをした横田河原の合戦には、根井小弥太・楯六郎親忠は親子そろって馳せ参じ、以後義仲の四天王のひとりとして義仲を援け、戦いに臨めばいつも先頭に立って勇敢に闘った。
特に越前水津の戦いでは、根井行親が先陣となって活躍した。

楯六郎2 (3)月見石から居館方面(道路が極端に狭くなる場所から北側が城館跡)

義仲軍が最も勢いづいたのはなんといっても倶利伽羅の戦いであった。寿永二年(1183)五月、平家の大軍十万余騎を倶利伽羅の谷底に追い落としてしまったのである。

義仲軍はこれを契機に京都へ攻め入ったが、一足先に平家の軍を追って備中国に赴いた海野幸広・矢田義清(大崖城主)は水島の戦で戦死してしまった。

※矢田義清が城主だった大崖城の詳細は、北緯37度付近の中世城郭を参照願います。(取材しましたが藪だらけでアップも面倒?笑)

楯六郎2 (4)推定二重堀(現在は何の痕跡も無い)の北側に祀られる稲荷神社。

その後、木曾義仲は敗北の道を辿る事となり、根井行親・楯と苦労親忠も京都で討死してしまうのである。

これらの闘いの物語は、「源平盛衰記」「平家物語」に登場する。楯六郎親忠・矢田義清が私牧を経営し、館や大日方で飼育した軍馬がこれらの闘いで活躍した事を思うと、歴史へのロマンがかきたてられる。

楯六郎2 (14)主郭(郭1)の北側の二重堀跡。水田の開発により遺構は消滅した。

楯六郎2 (10)東側からみた主郭。2年前には無かった新築住宅が出現した。

昭和六十年に実施した発掘調査では、野馬除けの堀跡、繋飼場(牧場)跡からは、調教用の簡素な「はみ」(馬のクツワ)が出た。これによって今まで伝承とされていた牧場の一部が、現実の姿となって私たちの目前によみがえったのである。

楯六郎2 (8)性格が捻じれているのでどうしても斜めに拘りたかった・・(笑)標柱の東側は郭2。

楯六郎2 (18)

楯六郎2 (21)この切岸は往時のものを利用したのであろうか?(後ろの山は勝見城)

また、これら牧場で働いた人々が生活に使った土師器坏(はじきつき)・須恵器甕などが、添田地区からまとまって出土している。

館の集落全体が縄文中期後半から後晩期、弥生時代黎明期、平安時代の遺跡である。館集落はこうした文化の発祥地として注目されてきた。

(以上、定本佐久の城より引用)

楯六郎2 (23)城域の東端。

義仲が突破口を開き、天才的な戦略家であった義経の渾身の努力を褒めちぎり、真打として登場した頼朝。

頼朝ばかりが悪口を言われるが、義仲も義経も「いくさ馬鹿」で文武官のブレーンがいなかったのが致命傷になったようである。

しかしながら、佐久の武士と佐久で育てられた駒が武家政権樹立に深く関わった事は、消える事の無い真実であり、信濃の誇りでもある。


≪楯六郎親忠の舘≫ (たてろくろうちかただのやかた 館)

標高:827.0m 比高:40m (抜井川より)
築城年代:平安時代末期
築城・居住者:楯六郎親忠
場所:南佐久郡佐久穂町海瀬
攻城日:2013年7月28日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:路上駐車
見どころ:標柱、月見石、番屋跡、月見公園
注意事項:特に無し
参考文献:「定本 佐久の城」(1997年 郷土出版社)
付近の城址:大崖城、勝見城など

楯六郎2 (27)抜井川の河岸段丘を利用した崖淵城であることが分かる。(東側より撮影)









Posted on 2013/08/05 Mon. 22:10 [edit]

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