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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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芝生田館 (小諸市滋野甲)  

◆在りし日のビニールハウスが居館跡だった◆

正月気分も早々に辞してマイナーな城館跡のご紹介に移ろうかと・・・(笑)。

今回ご紹介するのは、地元でも知っている人などいないであろう芝生田館(しぼうだやかた)。読み方も難しい(汗)。

【立地】

国道18号線を東京方面に向かうと、東御市と小諸市の境の辺りに「芝生田」(「しぼうだ)と呼ばれる集落があり、ここに在地土豪の館があったという。東漸寺の南の田んぼの中にある。

芝生田館 (2)
2013年7.月。真夏の田んぼの農道。モノトーンの冬になると当然のように夏が恋しくなります。

「はてさて、このような平地に居館を建てるとは、緊張感の無い田舎侍だったのか?」

【館主・館歴】

「長野県町村誌」には「柴生田氏城跡」として「芝生田組北の田間三町になり。本郭東西二十間(36m)、南北三十間(54m)、三方に堀あり・・・・城の中に一碑石あり、三面に文字あれども磨滅して読み難し・・・。」とあり、江戸中期、芝生田村民の志により建立された碑について述べている。「小笠原外記長武之碑」と言われるもので、その内容については不明な点が多い。

芝生田館 (6)
北側から見た居館跡。要害の地では無い。

芝生田館①
縄張り図よりはyahooの航空地図で見てみましょう。

芝生田館 (7)
周囲には確かに堀跡のような水路が巡っているが・・・。

【館跡】

長野県町村誌に記載されているように居館跡の三方は確かに水路が巡り堀跡と言われれば、そのような気にもなるが、中世の初めに防御性の低いこのような場所に居館を作るのだろうか?外からは丸見えだし、水掘だとしても焼き討ちされれば即全焼であろう。

芝生田館 (10)
ビニールハウスの横の樹木脇に残る石碑。確かに文字は消えていて読めない。

芝生田館 (13)
館の北東350mに宇賀山砦(うがさんとりで)があるが、物見か逃げ込み城程度の作りである。

文献によれば、芝生田城は室町幕府の反体制派であった芦田下野守に同調した祢津氏の支城として別府城とともにその名が見え、将軍足利義教の命により守護の小笠原政康の攻略を受け落城したという。

芝生田館 (14)
まあ、確かに水路が堀と云われればそうかもしれませんが・・(汗)

芝生田館 (17)
とりあえず後世の石積みが城館跡を引き立たせてくれてます(笑)

この居館跡は、国道18号線からも良く見える二棟のビニールハウスがシンボルだったのですが、残念ながら昨年2月の大雪で倒壊してしまったようで、現在は新しいビニールハウス一棟のみに建て替えられたようです。

待望の正月第一弾の城館がこれ?とがっかりする方もいらっしゃるでしょうか?(笑)

地味な脇役を固めてあげるのが地元の使命なんだと心得ておりますので、ご容赦のほど・・・。



≪芝生田館≫ (しぼうだやかた 柴生田城)

標高:637m 比高-m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:小諸市滋野甲
攻城日:2013年7月23日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:5分(東漸寺より徒歩)
駐車場:東漸寺の駐車場借用。
見どころ:石碑、水路など
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編」(2013年 宮坂武男著) 
注意事項:耕作地なので注意。無断侵入禁止。

芝生田館 (18)
城域南側。今は無きビニールハウス。





Posted on 2015/01/07 Wed. 22:07 [edit]

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楽巌寺城2 (小諸市大久保 リテイク)  

◆釈尊寺への不法侵入を拒む長大な仁王門◆

先日の連休は「妙高サンシャインランド」なる遊園地へ遠征し不慣れな家族サービスに終始する。

あの辺りにも山城跡がいくつかあるのだが、こういう時は雑念を捨て、目一杯楽しむ事にしましょう・・。

しかし、この歳でメリーゴーランドやゴーカートに乗るとは夢にも思わなんだが、せっかくなので童心に返り楽しむ・・(笑)

今回ご紹介するのは、とってもテキトーな解説だった5年前の楽巌寺城の記事のリテイクでございます。相変わらずのテキトーさに更に磨きをかけたいと思います。

楽巌城・布引城201409 (2)
ネーミングが良くない「血の池」。喰い違い土塁があるので、枡形虎口があったと思われるが破壊され謎のままだ。

【立地】

御牧ヶ原台地(みまきがはらだいち)の東端に位置し、千曲川を眼下に望む場所にある。ここは釈尊寺(布引観音)の僧坊の一つである楽巌寺(がくがんじ)があったと思われる場所で、釈尊寺の参道の入り口でもある。
西には、不通沢(とおらずのさわ)を隔てて堀之内城があり、布引城砦群の一つである。
西、北、東の三面は急崖で、南だけが御牧ヶ原の台地に接している。従ってここを押えれば釈尊寺は完全に守られることになる。

楽巌寺城縄張図①

この縄張図を見てピンと来た方は素晴らしい。
そう、前回ご紹介した堀之内城の二重三日月堀を持つ郭部分と基本設計は同じなのである。

【東側の抑え】

「お歯黒池」と呼ばれる堀切㋐と三日月堀形の堀切㋑の間に長方形の郭1を置いている。堀切㋑から尾根を下がるように郭2が置かれているが、平削も適当。おまけで作られたような感じがする。

楽巌城・布引城201409 (1)
血の池側から見た堀切㋐

楽巌城・布引城201409 (4)
郭1を西側から撮影。さほど広くない。

楽巌城・布引城201409 (7)
三日月型の堀切㋑は接続の方法が変則的になっているので後付けっぽい感じがする。

楽巌城・布引城201409 (12)
郭2.ここから尾根が急激に下がっていくので重要性は感じられない。

【西側の構え】

見取図における郭3と郭4の三角形部分は、元々は釈尊寺の六坊として楽巌寺があり、釈尊寺の入口を抑える場所として戦国時代には武装化して砦としての機能があったと思われる。
天文十七年に武田軍に攻め込まれ、楽巌寺を含む六坊はことごとく兵火により落城、焼失。本坊である釈尊寺も焼き討ちされ、灰燼に帰したという。(その10年後に武田方に降った望月城主の望月信雅により再建される)

現在残る遺構は、堀之内城と同様に大勢力により改修されたと見るべき大掛かりなものであり、楽巌寺氏や望月氏のような土着の豪族の手に負えるものではない。

楽巌城・布引城201409 (18)
林道と並行するように続く高土塁の壁。そう云われなければなんの違和感も無い林道の風景である(笑)

楽巌城・布引城201409 (20)
林道側から見た堀切㋓。ここも三日月堀だったら素敵だったのだが、直線の横堀だった・・・(汗)

楽巌城・布引城201409 (31)
ブーメラン形の郭4。

楽巌城・布引城201409 (30)
郭4側の土塁から見下ろす堀切㋓とその周辺(西側より撮影)

この山の中で、戦国時代の凄まじい土木工事の跡を見ることが出来る。ところどころお化け屋敷のような別荘の廃墟が林立しているが、開発が中途半端なせいで結構遺構が残っているのは不幸中の幸いであった。

楽巌城・布引城201409 (32)
何故か堀切の向こうに別荘の屋根が見える不思議な光景。ってか、普通に考えてもそんな場所に建てるか?

楽巌城・布引城201409 (35)
郭4の西端からみた堀切㋓と郭3方面。

郭3の南側は長大な横堀㋒だったが、南側の土塁が崩されてその上に別荘が並んでいる。それでも堀そのものは破壊を免れたので、不幸中の幸いだったと思われる。

楽巌城・布引城201409 (41)
数件の別荘は売り物件の看板が立っていたが、需要はあるのだろうか・・(汗)

楽巌城・布引城201409 (49)
クランクに折れる横堀と郭3の外枡形。

楽巌城・布引城201409 (52)
横堀㋒のクランクを東側の堀底から見る。写真中央の段差が「外枡形」である。


【征服地における武田流築城の貴重な遺構】

高度成長期における日本人一億総白痴化の原動力となった「ディスカバージャパン」の合言葉。そして残念ながらその犠牲となった布引城とその城砦群。破壊前の状態は今となっては記録も残っていないようだが、それでもある程度の遺構が残っているのは奇跡であり、これ以上の損壊は許されない。

長野県の史跡や遺跡の保存に対する取り組みは全国でも下位レベルで、小諸市においては更に酷い。この自治体において消滅した中世の城跡は数知れずという有り様で、情けないを通りこして泣きたくなる・・(汗)

楽巌城・布引城201409 (58)
横堀㋒の東端は痕跡のみ残り、血の池までの間は破壊により不明である。

大室城が指定史跡になるのであれば、堀之内城も楽巌寺城も市の指定席として認定し、これ以上の破壊が進まないように小諸市に望みたい。
この城跡は、戦国時代の武田軍(と確定した訳ではないが・・)によって大改修されたと思われる貴重な史跡で、他に類を見ない独創的な縄張りを持つ城である。

布引観音の景観・歴史と共に布引城の景観と歴史も後世に伝えなければならないと切に思う次第である。

楽巌城・布引城201409 (56)
三日月堀にはなれなかった「お歯黒池」。惜しいゾ!!(笑)

≪楽巌寺城≫ (がくがんじじょう)

標高:768m 比高230m(北山下より)
築城年代:不明
築城・居住者:楽巌寺氏、武田氏
場所:小諸市大久保
攻城日:2014年9月3日 (再訪)
見どころ:土塁、郭、血の池、お歯黒池、三日月堀跡など
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:-
駐車場:無し(邪魔にならないように路駐)、道路が狭いので注意。
その他:別荘の敷地内への無断侵入は厳禁。人里であっても確実に熊・猿の生息地なので単独行動は控える事。
参考文献:「信濃の山城と館①」(宮坂武男著 2013年)、「戦国武田の城」(中田正光 2010年)

楽巌城・布引城201409 (57)
血の池周辺。武田の被征服地の城跡は物騒な地名が多い。武田を嫌った住民のせめてもの抵抗であろうか・・・。








Posted on 2014/09/19 Fri. 07:22 [edit]

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堀之内城 (布引城 小諸市大久保 リテイク)  

◆謎多き布引城の巨大な二重(三重?)三日月型堀切◆

そのうちブログタイトルが「らんまるVS行政機関の仁義なき戦い~三日市場城編」になりそうな勢いである・・・

んで、未掲載の城のバックオーダーが100以上あるのに、また過去記事のリテイクなんぞしてて大丈夫かしら・・・(笑)

まあね、脇毛の左若気の至りといえども、間違った認識や誤った情報は正さなくちゃいけないし、そもそも地元のヤツが掲載する信濃の城は見どころをキチンと押えて皆さまにご紹介しないといけません・・(汗)

という訳で東信濃の「三日月堀シリーズ第三弾!」は堀之内城。(5年前のブログ記事では布引城としているが、楽巌寺城と堀之内城を含めた一帯が布引城とも)

この城の大手の馬出しと三日月型堀切こそが武田による布引城の大改修の証しとされているのだ。今回はそこをピンポイントでご案内したい。

楽巌城・布引城201409 (63)
何の変哲もない神社とその周辺こそが、この城の最大の見どころなのである。


【立地】

佐久平を北に流れる千曲川が小諸城付近で大きく西へ流域を変更する左岸の御牧原台地の北端に位置する。「牛に引かれて善光寺参り」の伝説で有名な布引観音(釈尊寺)から西600mにあり、城域の西・北・東は断崖絶壁で、南のみ細尾根が御牧原台地に接するまさに要害の地である。

大室城201409 (27)
対岸の大室城(小諸高原美術館)から見た布引城一帯。東信濃における武田軍の最前線基地として構築された。

こんな写真を掲載すると、お尻がムズムズして「いざ、信濃へ出撃!!」と思う方もいるだろう・・お出掛け下され・・(笑)

先日この城跡を調査中に大型のエテ公(竹中秀吉か?・・笑)に遭遇し、かなりビックリ・・(汗)。これからの時期はエテ公とクーさん対策は必須であろう。


【城跡】

高白斉記には「天文十七年(1548)五月十七日 信州布引ノ城鍬立」とあり、望月方に属して楽巌寺城の楽巌寺氏と共に最期まで武田に抵抗していた布下氏の詰め城の堀之内城が落城後に改修され布引城と呼ばれたらしい。
南東400mには楽巌寺城があり、縄張りや構造が堀之内城に良く似ていることや、釈尊寺を取り囲むように防御ラインが設営され大規模な軍隊の駐留地としてリニューアルされた部分も含めた総称として「布引城」と呼ばれたと思われる。

布引城二重堀

【武田城郭マニア垂涎の隠れた名城である所以】

前述したように「高白斉記」ではたった一行の記載なので、楽巌寺城と堀之内城が布引城だったとは断定出来ない。
がしかし、両城とも大掛かりな土木工事が施された痕跡の残る城であり、小豪族だった楽巌寺氏や布下氏が投下出来る土木工事量では無い事は、現地を見れば分かる。
そしてそこには、三日月堀の原形と断定されている二重(三重とも?)三日月堀と馬出しがあるのだ。

楽巌城・布引城201409 (67)
諏訪神社が祀られた郭6。背後の土塁は後世のものではなく、城の大手郭時代の土塁跡である。

楽巌城・布引城201409 (69)
神社の勧進と道路工事で改変されたものの、何とか西半分の郭と土塁は残っている。

楽巌城・布引城201409 (71)
堀之内城の大手(追手)の馬出しで、ここを落とさないと先には絶対に進めない関門である。

●堀切㋑

・郭3との間の取り付け道路の開通により一部破壊されているが、諏訪神社(郭6)の外側の三日月堀で遺構も比較的良く残っている。上巾6mだが、かなりの深さがある。

楽巌城・布引城201409 (73)
神社の南側には結構立派な堀切跡が残っているので驚いた。小豪族の加工レベルでは無い。

楽巌城・布引城201409 (66)
堀は東側に向けて神社の勧進により埋め立てられたと思われる。

●郭7(堀切㋑と㋐の中間地点)

「戦国武田の城」の著者である中田正光氏は縄張図における「郭7」を堀切として三重の三日月堀として見ているが、宮坂武男氏は中間に位置する郭として二重の堀切だったとしている。

楽巌城・布引城201409 (76)
郭7。

郭7は堀切㋐に対して高土塁を巡らすが、高低差を考慮すれば堀では無く郭としての作りであろう。馬出しという防御構造の試行錯誤段階での措置のように思えるがどうであろうか。


●巨大で鋭利な刃物を想像させる三日月堀㋐◆

現在残る堀之内城の遺構も楽巌寺城(らくがんじじょう)の遺構も元々の領主であった小豪族の土木工事では無い事は確かである。こんな手の込んだ技巧や縄張り技術などあろうはずもなかろう。

いわゆる「大勢力」と呼ばれる戦国大名の普請である。

楽巌城・布引城201409 (79)
鋭角に削られた堀切㋐の北側の斜面。

楽巌城・布引城201409 (82)
上巾11mもある巨大な三日月堀㋐。

楽巌城・布引城201409 (83)
往時の堀底は更に深かったと思われる。素晴らしい遺構である。

武田軍の信濃侵攻とともに丸馬出し+三日月堀を備えた独自のスタイルの縄張りを持つ城が「鍬立て」されていくのだが、堀之内城と隣にある楽巌寺城はその途中過程を知る貴重な遺構が残されていると見るべきであろう。

楽巌城・布引城201409 (85)
東の道路側から見た堀切㋐。


【壊滅的な打撃から辛うじて逃れた城跡】

昭和の高度成長期における別荘開発に伴い、堀之内城も楽巌寺城もかなりの打撃を受けたようである。なかでも楽巌寺城の破壊は酷いもので、土塁を破壊して道路を開け、堀底に別荘をおっ建てる有り様だった(次号で触れたい)

楽巌城・布引城201409 (90)
城の主要部へ続く痩せ尾根。道路の西側斜面にはウサギ小屋のような別荘のゴーストタウンがある。

楽巌城・布引城201409 (93)
郭3手前の堀切㋓

楽巌城・布引城201409 (98)
周囲に土塁を残す郭③。

ここから先の郭2、郭1は割愛させていただく。千曲川を眼下に望む崖の上に、まさかお思うぐらいの広さの台地があり、三ヶ所の溜池がコンコンと水を湛えている。千人ぐらいの兵隊は楽に収容出来る。
※私有地なので見学の際には必ず一言断ってから見せて頂く事。

楽巌城・布引城201409 (104)
城跡には2軒の民家があり、代々の城守(しろもり)だという。

布引3
北側の溜池。この奥には周囲を土塁で囲まれた長方形の郭が存在し、楽巌寺城の作りと共通している遺構がある。

布引1
堀之内城の見張り台(郭5)から北方面。(2009年5月撮影)信玄がここを拠点とした理由が分かるような気がする。


≪堀之内城≫ (ほりのうちじょう 布引城)

標高:765m 比高225m(北山下より)
築城年代:不明
築城・居住者:布下氏、武田氏
場所:小諸市大久保
攻城日:2014年9月3日 (再訪)
見どころ:土塁、郭、二重の三日月堀跡など
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:-
駐車場:無し(邪魔にならないように路駐)、道路が狭いので注意。
その他:メインの城域は私有地であり耕作地等があるので、立ち入りは許可を取りましょう。郭3、6、7は問題ない。
参考文献:「信濃の山城と館①」(宮坂武男著 2013年)、「戦国武田の城」(中田正光 2010年)

大室城201409 (40)
武田により改修されネットワーク化された城砦群(大室城より撮影)


地図は三日月堀の位置。











Posted on 2014/09/13 Sat. 07:25 [edit]

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野火附城 (小諸市御影新田)  

◆平原城の南の監視砦か?◆

ネタも尽きてきたので、舞台は南信濃から北佐久地方へ移る・・(笑)

小生のブログをお読みいただいている方は動物の「キツネ」あるいは「狐」はたまた「きつね」に対してどういう印象をお持ちなのでしょうか?

小生にとっての「きつね」は、小学生の時に読んで号泣した新美南吉の童話「ごんぎつね」そして「てぶくろを買いに」がマストである・・。

ごんぎつね絵本①てぶくろを買いに①


「かあさん、あの時の純真な心は、何処へ捨ててきたんでしょうか・・・・」(笑)

そう思って大人になって読み返すと、泣けて仕方ないのである。成長してないのかなあー(爆)

今回ご案内する野火附城の別名は「狐っ原」(きつねっぱら)。

その昔、キツネという言葉は冠者(間者=スパイのこと)の隠語であり、諜報活動を行う人々の拠点には「きつね」の名がつけられていたという。

野火附城(小諸市) (26)
「狐っ原」と呼ばれる城跡への入口。(東側)

【立地】

御影集落の南東の御影神社の南に続く沢の南の台地が、俗称「狐っ原」(きつねっぱら)になる。台地の南は鎌田の沢の田切で、二つの田切の沢は、西で合流するが、その間の三角形の台地の先端部を使って砦が築かれている。

現在は中部横断自動車道の「佐久小諸JCT」の建設及び料金ゲートの建設により城跡の1/3が破壊されたものの田切地形であったことは推測出来る。

野火附城見取図①

野火附城(小諸市) (1)
城域北側は田切地形で崖下を用水が流れている。

【城歴】

鎌田の沢は御影用水が造られる前から、湧水を集めたり、水路があって、田作りが行われていて、古い集落がひらけていたようである。御影新田村の前身の曽根村に属する集落である。
城主・城歴は不明であるが、「狐」(見張・監視の士卒の隠語)が居た場所で、平原城の南の物見砦と考えられる。

野火附城(小諸市) (2)
狐原(きつねっぱら)と呼ばれる城域の内部。

野火附城(小諸市) (4)
入口から80mほど進むと一条の堀切に遭遇する。城域を南北に貫通していたようだ。

【城跡】

数年前に中部自動車横断道の拡張」工事に伴い、城の南側に高速道路の料金所が建設され1/3が破壊された。周辺が耕地整理化された中で辛うじて山林として残ってきただけに残念な仕打ちだが、なんとか壊滅は逃れ遺構も僅かに残ったのは不幸中の幸いであった。

野火附城(小諸市) (7)
北側から撮影した堀切。右側が土手付きになっているのが確認出来る。

東台地の基部の道から80mほど入ったあたりに、藪で見落としてしまいそうな、羽場8m深さ最深1m弱の浅い堀が、北の田切りから鎌田の沢まで通っていたと思われる。砦の決め手はこれだけで、土塁の付いている方が内側になるから、堀より西側の台地の先端部が砦になる。

土木工事も簡素で、堀一条、しかも直線で、あとは台地周辺の田切りの崖が守りとなっている古式の物見の類に属する。

野火附城(小諸市) (6)
堀切から見た北側の田切り地形。僅か15m程度の比高も結構な高さに感じる。

野火附城(小諸市) (8)
堀切から西側。物見用の掘立建物があったのだろうか?

野火附城(小諸市) (10)
北の崖淵にかつての砦のイメージがある。

地形から見ると、平原大井氏と耳取大井氏の境目の場所にあたる。
監視砦にしては広すぎると思うが、この辺の砦は何処も似たような造りなので案外と大雑把だったのかもしれない(笑)

野火附城(小諸市) (18)
南西の砦の先端部。往時は険しい崖淵だったと思われる。

旧明科町(現在の安曇野市)にも「狐ん城」(きつねんじょう)という砦があり、やはり監視用の小屋があったと伝えられている。

タヌキもキツネも人を誑(たぶら)かしたり騙(だま)したりする動物の代表とされて気の毒なのだが、信州には「タヌキ」の名称に関連する城跡は無かったように思う。

野火附城(小諸市) (20)
高速道路の一部となった南側。

個人的な憶測とすれば、キツネのイメージがタヌキよりもシャープな感じがする・・それだけの事だったと思う(爆)

小生の近所の道路でもひき逃げされて轢死したタヌキの死体を数多く見かけるが、俊敏さに欠けるが故であろうか。
おっと、死者に鞭打つ言動は慎まないといけませんネ・・(笑)

≪野火附城≫ (のびつけじょう、狐っ原)

標高:750m 比高:17m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:佐久市岩村田
攻城日:2014年1月12日 
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し
見どころ:堀切
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」
付近の城址:小田井城、平原城、平尾城など

野火附城(小諸市) (23)
城跡から見える平尾富士(1156m)

Posted on 2014/03/05 Wed. 20:59 [edit]

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東城 (小諸市和田)  

◆耳取城の東の見張り砦◆

毎日大勢の方が貴重な時間を割いて閲覧して下さっているのに、このような無名の砦ばかり記載してよいものか?(汗)

というような自責の念は全くありません(笑)

次回は「南城か?」という声も聞こえそうですが、南の砦は既に五霊城(五領城とも)で記載してあるのでご心配なく・・(爆)

東城(小諸市) (29)
城跡近くには武田信玄ゆかりの「和田の湧水」についての説明板がある。

西上の軍を起こし病に倒れた武田信玄は、信州駒場で息絶える直前に「和田の水」を所望したという伝説がある。

それがこの「和田の湧水」だと云い伝えられている。

残念ながら、河川改修で往時の水源は枯れてしまったようだが、少し離れたこの場所には今も水が湧き出ている。
(場所は信州名鉄佐久支店の南側にある)

東城(小諸市) (30)
湧水の池には何故か錦鯉が泳いでいるが、信玄の化身だろうか?


で、お約束通り本日ご紹介するのは「東城」(ひがしじょう)

【立地】

中部自動車横断道の建設に伴い小諸市の御影新田(みかげしんでん)に新しく出来た佐久小諸JCT付近を源流とする湧玉川によって削られた河岸段丘が東へ突き出る半島状の地形の先端にある。
現在は工業団地になっているが、元々の和田集落があった場所で古屋敷の地名も残る。(岩村田道、古東山道の要衝であったらしい)
また、湧玉川を挟んだ対岸400mの南西には武田軍の平原城攻略の前線基地となった鷺林城がある。
平原城はここから北3kmにある。

東城(小諸市) (4)
湧玉川の河川敷の南側から見た東城全景。

【城歴】

「佐久 定本の城」(1997年 郷土出版社)には耳取城の支城として「北の城・東城は本城の北と東に位置し、最も古い時代の出城であろう」とのみ記載があるだけで史料・伝承が全く無い。
地元では郭1の場所を城山と呼んでいるので、何らかしかの構築物があったのであろう。

東城(小諸市)見取図①

実はこの場所、三年前の鷺林城調査の時には全く知らなかった砦なので、目と鼻の先にあるとは驚きだった。
北ノ城と硲城が隣接するように、東城と鷺林城も相互補完の意味を持たせたのだろうか?

東城(小諸市) (27)
湧玉川を隔てた南西にある鷺林城。堀切がくっきりと確認出来る。

【城跡】

鉄塔の南側の小高い方形は堀形㋐を介して独立した郭と認識出来る。耕作による周辺の改変はあるが、見張り台を置くならこの場所であろう。
また、湧玉川の河川敷から農道を登った場所は隣接する和田浄化センターの拡張工事で先端を失ったが、堀切㋑の区分があるので、鷺林城が出来る前の詰所跡の可能性もあるが旧式な感じは否めない。

東城(小諸市) (24)
城域西側の農道を進む。

東城(小諸市) (9)
東の沢に落ちる堀切㋑。

東城(小諸市) (11)
埋まりかけている堀切㋐。この堀は途中で埋まり西側への接続がハッキリしない。

東城(小諸市) (13)
削平された跡が確認出来る郭1.時代が古いためか堀切の他の防御構築など何も無い。

二本の堀形と河川敷に突き出る形の岡状の小山以外に遺構を発見する事は出来なかったが、東からの敵に備えた構えのように思えた。

東城(小諸市) (16)
小生の唱える「鉄塔の刺さる場所=城跡」という公式は当てはまらないようだ・・(汗)

東城(小諸市) (17)
郭1。掘立小屋で寝ずの番でもしたのだろうか?

耳取城の東の見張り台として「東城・鷺林城」が置かれたようだが、武田軍への電撃侵攻の目には役立つ事も無く武田に接収されたと思われる。

鷺林城は高白斉記にも記載されているが、東城は鷺林城の一部として再利用されたのかは定かではない。

≪東城≫ (ひがしじょう 城山)

標高:700m 比高:7m  
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:小諸市和田
攻城日:2014年1月12日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:5分 駐車場:小諸市和田浄化センター入口に駐車。
見どころ:堀切跡など
注意事項:特に無し。
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」「定本 佐久の城」
付近の城址:鷺林城、耳取城、森山城、塩川城など

東城(小諸市) (19)
北側から見る郭1の切岸。

東城(小諸市) (34)
和田浄化センターから見た東城遠景。







Posted on 2014/01/18 Sat. 23:08 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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