らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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堀之内城 (布引城 小諸市大久保 リテイク)  

◆謎多き布引城の巨大な二重(三重?)三日月型堀切◆

そのうちブログタイトルが「らんまるVS行政機関の仁義なき戦い~三日市場城編」になりそうな勢いである・・・

んで、未掲載の城のバックオーダーが100以上あるのに、また過去記事のリテイクなんぞしてて大丈夫かしら・・・(笑)

まあね、脇毛の左若気の至りといえども、間違った認識や誤った情報は正さなくちゃいけないし、そもそも地元のヤツが掲載する信濃の城は見どころをキチンと押えて皆さまにご紹介しないといけません・・(汗)

という訳で東信濃の「三日月堀シリーズ第三弾!」は堀之内城。(5年前のブログ記事では布引城としているが、楽巌寺城と堀之内城を含めた一帯が布引城とも)

この城の大手の馬出しと三日月型堀切こそが武田による布引城の大改修の証しとされているのだ。今回はそこをピンポイントでご案内したい。

楽巌城・布引城201409 (63)
何の変哲もない神社とその周辺こそが、この城の最大の見どころなのである。


【立地】

佐久平を北に流れる千曲川が小諸城付近で大きく西へ流域を変更する左岸の御牧原台地の北端に位置する。「牛に引かれて善光寺参り」の伝説で有名な布引観音(釈尊寺)から西600mにあり、城域の西・北・東は断崖絶壁で、南のみ細尾根が御牧原台地に接するまさに要害の地である。

大室城201409 (27)
対岸の大室城(小諸高原美術館)から見た布引城一帯。東信濃における武田軍の最前線基地として構築された。

こんな写真を掲載すると、お尻がムズムズして「いざ、信濃へ出撃!!」と思う方もいるだろう・・お出掛け下され・・(笑)

先日この城跡を調査中に大型のエテ公(竹中秀吉か?・・笑)に遭遇し、かなりビックリ・・(汗)。これからの時期はエテ公とクーさん対策は必須であろう。


【城跡】

高白斉記には「天文十七年(1548)五月十七日 信州布引ノ城鍬立」とあり、望月方に属して楽巌寺城の楽巌寺氏と共に最期まで武田に抵抗していた布下氏の詰め城の堀之内城が落城後に改修され布引城と呼ばれたらしい。
南東400mには楽巌寺城があり、縄張りや構造が堀之内城に良く似ていることや、釈尊寺を取り囲むように防御ラインが設営され大規模な軍隊の駐留地としてリニューアルされた部分も含めた総称として「布引城」と呼ばれたと思われる。

布引城二重堀

【武田城郭マニア垂涎の隠れた名城である所以】

前述したように「高白斉記」ではたった一行の記載なので、楽巌寺城と堀之内城が布引城だったとは断定出来ない。
がしかし、両城とも大掛かりな土木工事が施された痕跡の残る城であり、小豪族だった楽巌寺氏や布下氏が投下出来る土木工事量では無い事は、現地を見れば分かる。
そしてそこには、三日月堀の原形と断定されている二重(三重とも?)三日月堀と馬出しがあるのだ。

楽巌城・布引城201409 (67)
諏訪神社が祀られた郭6。背後の土塁は後世のものではなく、城の大手郭時代の土塁跡である。

楽巌城・布引城201409 (69)
神社の勧進と道路工事で改変されたものの、何とか西半分の郭と土塁は残っている。

楽巌城・布引城201409 (71)
堀之内城の大手(追手)の馬出しで、ここを落とさないと先には絶対に進めない関門である。

●堀切㋑

・郭3との間の取り付け道路の開通により一部破壊されているが、諏訪神社(郭6)の外側の三日月堀で遺構も比較的良く残っている。上巾6mだが、かなりの深さがある。

楽巌城・布引城201409 (73)
神社の南側には結構立派な堀切跡が残っているので驚いた。小豪族の加工レベルでは無い。

楽巌城・布引城201409 (66)
堀は東側に向けて神社の勧進により埋め立てられたと思われる。

●郭7(堀切㋑と㋐の中間地点)

「戦国武田の城」の著者である中田正光氏は縄張図における「郭7」を堀切として三重の三日月堀として見ているが、宮坂武男氏は中間に位置する郭として二重の堀切だったとしている。

楽巌城・布引城201409 (76)
郭7。

郭7は堀切㋐に対して高土塁を巡らすが、高低差を考慮すれば堀では無く郭としての作りであろう。馬出しという防御構造の試行錯誤段階での措置のように思えるがどうであろうか。


●巨大で鋭利な刃物を想像させる三日月堀㋐◆

現在残る堀之内城の遺構も楽巌寺城(らくがんじじょう)の遺構も元々の領主であった小豪族の土木工事では無い事は確かである。こんな手の込んだ技巧や縄張り技術などあろうはずもなかろう。

いわゆる「大勢力」と呼ばれる戦国大名の普請である。

楽巌城・布引城201409 (79)
鋭角に削られた堀切㋐の北側の斜面。

楽巌城・布引城201409 (82)
上巾11mもある巨大な三日月堀㋐。

楽巌城・布引城201409 (83)
往時の堀底は更に深かったと思われる。素晴らしい遺構である。

武田軍の信濃侵攻とともに丸馬出し+三日月堀を備えた独自のスタイルの縄張りを持つ城が「鍬立て」されていくのだが、堀之内城と隣にある楽巌寺城はその途中過程を知る貴重な遺構が残されていると見るべきであろう。

楽巌城・布引城201409 (85)
東の道路側から見た堀切㋐。


【壊滅的な打撃から辛うじて逃れた城跡】

昭和の高度成長期における別荘開発に伴い、堀之内城も楽巌寺城もかなりの打撃を受けたようである。なかでも楽巌寺城の破壊は酷いもので、土塁を破壊して道路を開け、堀底に別荘をおっ建てる有り様だった(次号で触れたい)

楽巌城・布引城201409 (90)
城の主要部へ続く痩せ尾根。道路の西側斜面にはウサギ小屋のような別荘のゴーストタウンがある。

楽巌城・布引城201409 (93)
郭3手前の堀切㋓

楽巌城・布引城201409 (98)
周囲に土塁を残す郭③。

ここから先の郭2、郭1は割愛させていただく。千曲川を眼下に望む崖の上に、まさかお思うぐらいの広さの台地があり、三ヶ所の溜池がコンコンと水を湛えている。千人ぐらいの兵隊は楽に収容出来る。
※私有地なので見学の際には必ず一言断ってから見せて頂く事。

楽巌城・布引城201409 (104)
城跡には2軒の民家があり、代々の城守(しろもり)だという。

布引3
北側の溜池。この奥には周囲を土塁で囲まれた長方形の郭が存在し、楽巌寺城の作りと共通している遺構がある。

布引1
堀之内城の見張り台(郭5)から北方面。(2009年5月撮影)信玄がここを拠点とした理由が分かるような気がする。


≪堀之内城≫ (ほりのうちじょう 布引城)

標高:765m 比高225m(北山下より)
築城年代:不明
築城・居住者:布下氏、武田氏
場所:小諸市大久保
攻城日:2014年9月3日 (再訪)
見どころ:土塁、郭、二重の三日月堀跡など
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:-
駐車場:無し(邪魔にならないように路駐)、道路が狭いので注意。
その他:メインの城域は私有地であり耕作地等があるので、立ち入りは許可を取りましょう。郭3、6、7は問題ない。
参考文献:「信濃の山城と館①」(宮坂武男著 2013年)、「戦国武田の城」(中田正光 2010年)

大室城201409 (40)
武田により改修されネットワーク化された城砦群(大室城より撮影)


地図は三日月堀の位置。











Posted on 2014/09/13 Sat. 07:25 [edit]

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野火附城 (小諸市御影新田)  

◆平原城の南の監視砦か?◆

ネタも尽きてきたので、舞台は南信濃から北佐久地方へ移る・・(笑)

小生のブログをお読みいただいている方は動物の「キツネ」あるいは「狐」はたまた「きつね」に対してどういう印象をお持ちなのでしょうか?

小生にとっての「きつね」は、小学生の時に読んで号泣した新美南吉の童話「ごんぎつね」そして「てぶくろを買いに」がマストである・・。

ごんぎつね絵本①てぶくろを買いに①


「かあさん、あの時の純真な心は、何処へ捨ててきたんでしょうか・・・・」(笑)

そう思って大人になって読み返すと、泣けて仕方ないのである。成長してないのかなあー(爆)

今回ご案内する野火附城の別名は「狐っ原」(きつねっぱら)。

その昔、キツネという言葉は冠者(間者=スパイのこと)の隠語であり、諜報活動を行う人々の拠点には「きつね」の名がつけられていたという。

野火附城(小諸市) (26)
「狐っ原」と呼ばれる城跡への入口。(東側)

【立地】

御影集落の南東の御影神社の南に続く沢の南の台地が、俗称「狐っ原」(きつねっぱら)になる。台地の南は鎌田の沢の田切で、二つの田切の沢は、西で合流するが、その間の三角形の台地の先端部を使って砦が築かれている。

現在は中部横断自動車道の「佐久小諸JCT」の建設及び料金ゲートの建設により城跡の1/3が破壊されたものの田切地形であったことは推測出来る。

野火附城見取図①

野火附城(小諸市) (1)
城域北側は田切地形で崖下を用水が流れている。

【城歴】

鎌田の沢は御影用水が造られる前から、湧水を集めたり、水路があって、田作りが行われていて、古い集落がひらけていたようである。御影新田村の前身の曽根村に属する集落である。
城主・城歴は不明であるが、「狐」(見張・監視の士卒の隠語)が居た場所で、平原城の南の物見砦と考えられる。

野火附城(小諸市) (2)
狐原(きつねっぱら)と呼ばれる城域の内部。

野火附城(小諸市) (4)
入口から80mほど進むと一条の堀切に遭遇する。城域を南北に貫通していたようだ。

【城跡】

数年前に中部自動車横断道の拡張」工事に伴い、城の南側に高速道路の料金所が建設され1/3が破壊された。周辺が耕地整理化された中で辛うじて山林として残ってきただけに残念な仕打ちだが、なんとか壊滅は逃れ遺構も僅かに残ったのは不幸中の幸いであった。

野火附城(小諸市) (7)
北側から撮影した堀切。右側が土手付きになっているのが確認出来る。

東台地の基部の道から80mほど入ったあたりに、藪で見落としてしまいそうな、羽場8m深さ最深1m弱の浅い堀が、北の田切りから鎌田の沢まで通っていたと思われる。砦の決め手はこれだけで、土塁の付いている方が内側になるから、堀より西側の台地の先端部が砦になる。

土木工事も簡素で、堀一条、しかも直線で、あとは台地周辺の田切りの崖が守りとなっている古式の物見の類に属する。

野火附城(小諸市) (6)
堀切から見た北側の田切り地形。僅か15m程度の比高も結構な高さに感じる。

野火附城(小諸市) (8)
堀切から西側。物見用の掘立建物があったのだろうか?

野火附城(小諸市) (10)
北の崖淵にかつての砦のイメージがある。

地形から見ると、平原大井氏と耳取大井氏の境目の場所にあたる。
監視砦にしては広すぎると思うが、この辺の砦は何処も似たような造りなので案外と大雑把だったのかもしれない(笑)

野火附城(小諸市) (18)
南西の砦の先端部。往時は険しい崖淵だったと思われる。

旧明科町(現在の安曇野市)にも「狐ん城」(きつねんじょう)という砦があり、やはり監視用の小屋があったと伝えられている。

タヌキもキツネも人を誑(たぶら)かしたり騙(だま)したりする動物の代表とされて気の毒なのだが、信州には「タヌキ」の名称に関連する城跡は無かったように思う。

野火附城(小諸市) (20)
高速道路の一部となった南側。

個人的な憶測とすれば、キツネのイメージがタヌキよりもシャープな感じがする・・それだけの事だったと思う(爆)

小生の近所の道路でもひき逃げされて轢死したタヌキの死体を数多く見かけるが、俊敏さに欠けるが故であろうか。
おっと、死者に鞭打つ言動は慎まないといけませんネ・・(笑)

≪野火附城≫ (のびつけじょう、狐っ原)

標高:750m 比高:17m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:佐久市岩村田
攻城日:2014年1月12日 
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し
見どころ:堀切
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」
付近の城址:小田井城、平原城、平尾城など

野火附城(小諸市) (23)
城跡から見える平尾富士(1156m)

Posted on 2014/03/05 Wed. 20:59 [edit]

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東城 (小諸市和田)  

◆耳取城の東の見張り砦◆

毎日大勢の方が貴重な時間を割いて閲覧して下さっているのに、このような無名の砦ばかり記載してよいものか?(汗)

というような自責の念は全くありません(笑)

次回は「南城か?」という声も聞こえそうですが、南の砦は既に五霊城(五領城とも)で記載してあるのでご心配なく・・(爆)

東城(小諸市) (29)
城跡近くには武田信玄ゆかりの「和田の湧水」についての説明板がある。

西上の軍を起こし病に倒れた武田信玄は、信州駒場で息絶える直前に「和田の水」を所望したという伝説がある。

それがこの「和田の湧水」だと云い伝えられている。

残念ながら、河川改修で往時の水源は枯れてしまったようだが、少し離れたこの場所には今も水が湧き出ている。
(場所は信州名鉄佐久支店の南側にある)

東城(小諸市) (30)
湧水の池には何故か錦鯉が泳いでいるが、信玄の化身だろうか?


で、お約束通り本日ご紹介するのは「東城」(ひがしじょう)

【立地】

中部自動車横断道の建設に伴い小諸市の御影新田(みかげしんでん)に新しく出来た佐久小諸JCT付近を源流とする湧玉川によって削られた河岸段丘が東へ突き出る半島状の地形の先端にある。
現在は工業団地になっているが、元々の和田集落があった場所で古屋敷の地名も残る。(岩村田道、古東山道の要衝であったらしい)
また、湧玉川を挟んだ対岸400mの南西には武田軍の平原城攻略の前線基地となった鷺林城がある。
平原城はここから北3kmにある。

東城(小諸市) (4)
湧玉川の河川敷の南側から見た東城全景。

【城歴】

「佐久 定本の城」(1997年 郷土出版社)には耳取城の支城として「北の城・東城は本城の北と東に位置し、最も古い時代の出城であろう」とのみ記載があるだけで史料・伝承が全く無い。
地元では郭1の場所を城山と呼んでいるので、何らかしかの構築物があったのであろう。

東城(小諸市)見取図①

実はこの場所、三年前の鷺林城調査の時には全く知らなかった砦なので、目と鼻の先にあるとは驚きだった。
北ノ城と硲城が隣接するように、東城と鷺林城も相互補完の意味を持たせたのだろうか?

東城(小諸市) (27)
湧玉川を隔てた南西にある鷺林城。堀切がくっきりと確認出来る。

【城跡】

鉄塔の南側の小高い方形は堀形㋐を介して独立した郭と認識出来る。耕作による周辺の改変はあるが、見張り台を置くならこの場所であろう。
また、湧玉川の河川敷から農道を登った場所は隣接する和田浄化センターの拡張工事で先端を失ったが、堀切㋑の区分があるので、鷺林城が出来る前の詰所跡の可能性もあるが旧式な感じは否めない。

東城(小諸市) (24)
城域西側の農道を進む。

東城(小諸市) (9)
東の沢に落ちる堀切㋑。

東城(小諸市) (11)
埋まりかけている堀切㋐。この堀は途中で埋まり西側への接続がハッキリしない。

東城(小諸市) (13)
削平された跡が確認出来る郭1.時代が古いためか堀切の他の防御構築など何も無い。

二本の堀形と河川敷に突き出る形の岡状の小山以外に遺構を発見する事は出来なかったが、東からの敵に備えた構えのように思えた。

東城(小諸市) (16)
小生の唱える「鉄塔の刺さる場所=城跡」という公式は当てはまらないようだ・・(汗)

東城(小諸市) (17)
郭1。掘立小屋で寝ずの番でもしたのだろうか?

耳取城の東の見張り台として「東城・鷺林城」が置かれたようだが、武田軍への電撃侵攻の目には役立つ事も無く武田に接収されたと思われる。

鷺林城は高白斉記にも記載されているが、東城は鷺林城の一部として再利用されたのかは定かではない。

≪東城≫ (ひがしじょう 城山)

標高:700m 比高:7m  
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:小諸市和田
攻城日:2014年1月12日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:5分 駐車場:小諸市和田浄化センター入口に駐車。
見どころ:堀切跡など
注意事項:特に無し。
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」「定本 佐久の城」
付近の城址:鷺林城、耳取城、森山城、塩川城など

東城(小諸市) (19)
北側から見る郭1の切岸。

東城(小諸市) (34)
和田浄化センターから見た東城遠景。







Posted on 2014/01/18 Sat. 23:08 [edit]

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北ノ城 (小諸市耳取)  

◆耳取城の北の防衛ライン◆

このところ、毎年冬になると乾燥肌に悩まされている。

その昔は「水も滴るイイ男」を自称していたが、最近は「老人の枯山水」になったようである・・(笑)

ともすればミイラになりそうな勢いなので、そろそろ保湿クリームの御厄介になるとしようか・・(爆)

岡崎酒造①
上田の北国街道シリーズ「岡崎酒造」。確か現役の杜氏&美人社長のマネジメントで全国区の人気の蔵元だとか。


んで、「小諸なる古城シリーズ」の校了を模索しているのですが、終わりそうもないし・・・。

ここ数年、冬になるとハマっている軽井沢・御代田・佐久のドツボから抜け出せるのはイツになるのやら・・・(汗)

今回ご紹介するのは耳取城関連の「北ノ城」(きたのじょう)

北ノ城(小諸市)見取図①

【立地】

耳取城の北で繰矢川の右岸の台地上にあり、左岸は塩川城、南に硲城が隣接している。
千曲川の流域を佐久から小諸に抜ける古道の要衝をおさえる位置にある。

北ノ城(小諸市) (32)

城域の区分として堀切はあったと見るべきであろうか。想像の域を出ないのは確かだ。

北ノ城(小諸市) (2)
県道からあぜ道を登ると城跡。現在は広大な果樹園で郭1は竹藪となり原野に戻りつつある。

【城歴】

全く詳細不明の城で、「定本 佐久の城」の記述では「耳取城の北の見張りと推定される古い形式の城」としている。
隣接する塩川城(しおがわじょう)は特殊な縄張りなので同時期の築城とするのは難しいが、硲城(はざまじょう)と共に耳取地区の北側からの侵入に備えた砦だったことは想像に難くない。

北ノ城(小諸市) (9)
見取図における郭3。独立した郭で小屋掛けが可能な場所である。が、北向きで日当たりの問題が残る。

北ノ城(小諸市) (8)
北側の斜面を切岸と見るかは微妙だ・・(汗)

【城跡】

宮坂武男氏の描いた縄張りを城域として踏査してみたが、小生が郭2と記載した場所は削平されたと考えるには無理がある。往時の物見としては郭1を中心とした丘と小屋掛けらしき郭3の構成だったと考えても良さそうである。
硲城を置く事で見張りとしての北ノ城の存在価値は薄れ、籠城戦を想定した塩川城が新たに縄張りされたような気がする。(あくまでも推定の話であるが・・)

北ノ城(小諸市) (11)
郭1の西側。

北ノ城(小諸市) (12)
郭2を宿城として見るのも無理がある。

北ノ城(小諸市) (23)
城域の東側の県道78号線から見た北ノ城と硲城の位置関係。

これといった遺構がある訳でもないし標柱があるわけでもない。

見張り用の目ぼしい高台が無ければ、小さな丘でもロケーションがあれば良い訳である。

耳取大井氏の当面の敵は宗家を滅亡に追い込んだ村上さんだった訳で、北方面の監視が厳重なのは致し方ないであろう。

その後、武田さんの侵入に際して抵抗しなかったのは、志賀城の見せしめの強烈な効果が影響していると思われる。

北ノ城(小諸市) (26)
南から見た北ノ城遠景。田切地形を利用した城館はこの地域に多い。

≪北ノ城≫ (きたのじょう)

標高:676m 比高:-m  
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:小諸市耳取
攻城日:2014年1月12日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:適当に路駐。
見どころ:堀切跡、田切地形など
注意事項:農耕地なので注意。
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」「定本 佐久の城」
付近の城址:耳取城、森山城、塩川城など

「北ノ城」があれば「東ノ城」がありそうだが・・その通り、実はあるのです(笑)



Posted on 2014/01/17 Fri. 07:21 [edit]

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森山城 (小諸市森山)  

◆森山のお殿様はいったい何処に住んでいたのか?◆

連休の最後ぐらいは比高差のある山城に登りたかったが、明け方の降雪で万事休す・・(汗)

増え続ける在庫(踏査済みの城跡)の処理でもすりゃあいいのだが、テキトーな記事とはいえ労力と根気がいる(笑)

それに真面目に書こうと資料を読み始めてしまうと、面白くて最後まで読んじゃうのでいっこうに進まないし・・(爆)

柳町の看板①
粋な看板みっけ!「与三郎 発芽そば 喰らう」(上田市の旧北国街道沿いにある そば屋 おお西)

今回ご紹介するのは城主がハッキリしているのに城跡がグダグダで良くわかんない小諸の「森山城」(もりやまじょう)

【立地】

現在森山集落のある台地で、南北を深い田切地形に囲まれて、これが自然の堀となっている。
西隣には硲城(はざまじょう)があり、北ノ城、塩川城と連なる。南西700mには耳取城がある。

森山城見取図①

ここを訪れたのは昨年のお盆前で、地図を片手に集落をウロウロ。

ハタから見れば絶対怪しいので、不動産鑑定士のような身振り手振りで徘徊する(余計ヤバイってか・・笑)

森山城(小諸市) (2)
森山公民館に隣接する薬師堂。基礎がずれて左に傾いているんだけど大丈夫かしら?(汗)

【城主・城歴】

「定本 佐久の城」(1997年発刊 郷土出版社)では森山城と西城は分けて記載されているので引用してみた。

●西城
文献によれば、寛元の頃(1243~47)大井庄庄官大井光長(岩村田の大井宗家)の五男宗光が森山を分治したといわれるが、その城館跡ではないだろうか。
この宗光は三兄行光が宗家を相続した事に不満を持ちその代官を殺害した。よって鎌倉幕府の祭壇により佐渡へ流刑に処せられたと云われる。
その後を受けて戦国時代に森山氏が入居。これを修復して再利用したものであろう。東西67.5m、南北40.5m、北面は田切の断崖東西南に土手を巡らせたというが今はない。古いかたちの掻き上げ城である。

森山城(小諸市) (11)
北から見た西城。田切の段差を防御としている。

森山城(小諸市) (12)
現在の田切地形は水田になっているが、往時は泥沼か湿地帯だったのだろう。

森山城(小諸市) (14)
森山大井家の居館があったとされる西城跡。


●森山城(定本佐久の城では公民館の敷地を森山城の跡地として断定している)
公民館の一隅には「信州森山故城碑」の石碑が立っている。碑面によれば時の森山城主豊後守俊盛(ぶんごのかみとしもり)が天正年中に構築した旨が記され、その事績を顕彰している。
俊盛は近江守山から入村して当地を支配したとあるが、その来歴は不明である。あるいは耳取大井氏との従属関係によるものであろうか。

森山城(小諸市) (1)
薬師堂の脇の石碑。この裏面に顕彰事跡が記載されている。

この俊盛は傑出した武人で、初め武田信玄に仕え、川中島の合戦など各戦に活躍、天正十年(1582)勝頼の最後まで随順し、同年信長の死による佐久争乱の際に俊盛は耳取大井氏とともに芦田信蕃(依田信蕃)に属して徳川家康の旗下に参じ、北条勢の進行を阻んで軍功を挙げ、家康から与良氏の遺領を含む恩賞、朱印状を賜っている。
そののち、小田原の役にも信蕃が戦死した岩尾城の攻撃にも参陣したが、文禄二年(1593)に死んだ。その嗣子兵部丞盛房(ひょうぶのじょうもりふさ)は、慶長八年(1603)、江戸開府ののち、信蕃の次子康真(康勝)が上州藤岡に移封の際これに従って森山城を去った。このとき森山城は、その支城西古城とともに廃絶となった。
(定本佐久の城~阿部照雄氏記述より引用)

森山城(小諸市) (5)
森山公民館の西側の通路は堀跡だろう。(見取図では郭1と2の間の堀)

森山城(小諸市) (7)
郭2と3との間の通路も元々堀だったようだ。

「森山故城碑」は森山俊盛(守山⇒森山に改姓したと思われる)の十一世の子孫で当時幕府の旗本であった森山孝盛が寛政四年(1792)六月に俊盛没後二百年を記念して此処に建碑したもので、森山氏の出自、俊盛の偉業などを顕彰している。

森山城(小諸市) (6)
城域の北側の田切地形。天然の堀を形成している事が分かる。

森山城(小諸市) (18)
何処までが往時の遺構なのか分からん(汗)

戦国時代の城は城主不明なケースがほとんどで、このように城主の経歴の分かるケースは稀である。

しかし、これとて、小生の尊敬する西股氏に云わせると「江戸時代に先祖探しが流行した事例である」とするようだ(笑)

森山城(小諸市) (23)
郭2の南側の空堀に連結する場所。立派な石垣は何か意味があるように思えるのだが。

森山城(小諸市) (24)
どことなく城下町の風情が残る森山集落。L字クランクの名残もある。

森山城(小諸市) (26)
郭5手前の空堀。夏は藪茫々なのでご勘弁願いたい(笑)

さて、森山氏の居館(政務を司る役所)は公民館敷地にあったとしても、軍事施設としての森山城の全体の縄張りはどうだったのだろうか?

実のところ「軍事的な城など作る暇など無かった」のではないかと思う。

信玄の信濃先方衆の酷使は現在のブラック企業に匹敵していたように思えるが、どうであろうか・・(汗)

真田幸隆ですら自分の居城など整備している余裕は無く、乗っ取った戸石城も本格的な整備が為されたのは昌幸の代になってからのことである。

信玄が亡くなると真田幸隆も後を追うように死んだと云うが、本当は過労死だったのではなかろうか・・(笑)

森山城(小諸市) (30)
南側の縄張りに関しては解明の余地があるように思えるが。

≪森山城≫ (もりやまじょう)

標高:681m 比高:7m  
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:小諸市森山
攻城日:2013年8月12日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:森山公民館借用。(集落内は狭いので路駐不可)
見どころ:堀切跡、田切地形など
注意事項:プライバシーに注意
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」「定本 佐久の城」
付近の城址:耳取城、北ノ城、塩川城など

信濃先方衆のそのほとんどが最後まで武田家を見捨てる事無く忠誠を尽くした。

その忠誠心が家名を存続させた最大の要因だと小生は信じて疑わないのである。

森山城(小諸市) (9)
中途半端な堀切よりは効果絶大な田切地形。





Posted on 2014/01/14 Tue. 08:00 [edit]

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