FC2ブログ

らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0117

北ノ城 (小諸市耳取)  

◆耳取城の北の防衛ライン◆

このところ、毎年冬になると乾燥肌に悩まされている。

その昔は「水も滴るイイ男」を自称していたが、最近は「老人の枯山水」になったようである・・(笑)

ともすればミイラになりそうな勢いなので、そろそろ保湿クリームの御厄介になるとしようか・・(爆)

岡崎酒造①
上田の北国街道シリーズ「岡崎酒造」。確か現役の杜氏&美人社長のマネジメントで全国区の人気の蔵元だとか。


んで、「小諸なる古城シリーズ」の校了を模索しているのですが、終わりそうもないし・・・。

ここ数年、冬になるとハマっている軽井沢・御代田・佐久のドツボから抜け出せるのはイツになるのやら・・・(汗)

今回ご紹介するのは耳取城関連の「北ノ城」(きたのじょう)

北ノ城(小諸市)見取図①

【立地】

耳取城の北で繰矢川の右岸の台地上にあり、左岸は塩川城、南に硲城が隣接している。
千曲川の流域を佐久から小諸に抜ける古道の要衝をおさえる位置にある。

北ノ城(小諸市) (32)

城域の区分として堀切はあったと見るべきであろうか。想像の域を出ないのは確かだ。

北ノ城(小諸市) (2)
県道からあぜ道を登ると城跡。現在は広大な果樹園で郭1は竹藪となり原野に戻りつつある。

【城歴】

全く詳細不明の城で、「定本 佐久の城」の記述では「耳取城の北の見張りと推定される古い形式の城」としている。
隣接する塩川城(しおがわじょう)は特殊な縄張りなので同時期の築城とするのは難しいが、硲城(はざまじょう)と共に耳取地区の北側からの侵入に備えた砦だったことは想像に難くない。

北ノ城(小諸市) (9)
見取図における郭3。独立した郭で小屋掛けが可能な場所である。が、北向きで日当たりの問題が残る。

北ノ城(小諸市) (8)
北側の斜面を切岸と見るかは微妙だ・・(汗)

【城跡】

宮坂武男氏の描いた縄張りを城域として踏査してみたが、小生が郭2と記載した場所は削平されたと考えるには無理がある。往時の物見としては郭1を中心とした丘と小屋掛けらしき郭3の構成だったと考えても良さそうである。
硲城を置く事で見張りとしての北ノ城の存在価値は薄れ、籠城戦を想定した塩川城が新たに縄張りされたような気がする。(あくまでも推定の話であるが・・)

北ノ城(小諸市) (11)
郭1の西側。

北ノ城(小諸市) (12)
郭2を宿城として見るのも無理がある。

北ノ城(小諸市) (23)
城域の東側の県道78号線から見た北ノ城と硲城の位置関係。

これといった遺構がある訳でもないし標柱があるわけでもない。

見張り用の目ぼしい高台が無ければ、小さな丘でもロケーションがあれば良い訳である。

耳取大井氏の当面の敵は宗家を滅亡に追い込んだ村上さんだった訳で、北方面の監視が厳重なのは致し方ないであろう。

その後、武田さんの侵入に際して抵抗しなかったのは、志賀城の見せしめの強烈な効果が影響していると思われる。

北ノ城(小諸市) (26)
南から見た北ノ城遠景。田切地形を利用した城館はこの地域に多い。

≪北ノ城≫ (きたのじょう)

標高:676m 比高:-m  
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:小諸市耳取
攻城日:2014年1月12日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:適当に路駐。
見どころ:堀切跡、田切地形など
注意事項:農耕地なので注意。
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」「定本 佐久の城」
付近の城址:耳取城、森山城、塩川城など

「北ノ城」があれば「東ノ城」がありそうだが・・その通り、実はあるのです(笑)



Posted on 2014/01/17 Fri. 07:21 [edit]

CM: 0
TB: 0

0114

森山城 (小諸市森山)  

◆森山のお殿様はいったい何処に住んでいたのか?◆

連休の最後ぐらいは比高差のある山城に登りたかったが、明け方の降雪で万事休す・・(汗)

増え続ける在庫(踏査済みの城跡)の処理でもすりゃあいいのだが、テキトーな記事とはいえ労力と根気がいる(笑)

それに真面目に書こうと資料を読み始めてしまうと、面白くて最後まで読んじゃうのでいっこうに進まないし・・(爆)

柳町の看板①
粋な看板みっけ!「与三郎 発芽そば 喰らう」(上田市の旧北国街道沿いにある そば屋 おお西)

今回ご紹介するのは城主がハッキリしているのに城跡がグダグダで良くわかんない小諸の「森山城」(もりやまじょう)

【立地】

現在森山集落のある台地で、南北を深い田切地形に囲まれて、これが自然の堀となっている。
西隣には硲城(はざまじょう)があり、北ノ城、塩川城と連なる。南西700mには耳取城がある。

森山城見取図①

ここを訪れたのは昨年のお盆前で、地図を片手に集落をウロウロ。

ハタから見れば絶対怪しいので、不動産鑑定士のような身振り手振りで徘徊する(余計ヤバイってか・・笑)

森山城(小諸市) (2)
森山公民館に隣接する薬師堂。基礎がずれて左に傾いているんだけど大丈夫かしら?(汗)

【城主・城歴】

「定本 佐久の城」(1997年発刊 郷土出版社)では森山城と西城は分けて記載されているので引用してみた。

●西城
文献によれば、寛元の頃(1243~47)大井庄庄官大井光長(岩村田の大井宗家)の五男宗光が森山を分治したといわれるが、その城館跡ではないだろうか。
この宗光は三兄行光が宗家を相続した事に不満を持ちその代官を殺害した。よって鎌倉幕府の祭壇により佐渡へ流刑に処せられたと云われる。
その後を受けて戦国時代に森山氏が入居。これを修復して再利用したものであろう。東西67.5m、南北40.5m、北面は田切の断崖東西南に土手を巡らせたというが今はない。古いかたちの掻き上げ城である。

森山城(小諸市) (11)
北から見た西城。田切の段差を防御としている。

森山城(小諸市) (12)
現在の田切地形は水田になっているが、往時は泥沼か湿地帯だったのだろう。

森山城(小諸市) (14)
森山大井家の居館があったとされる西城跡。


●森山城(定本佐久の城では公民館の敷地を森山城の跡地として断定している)
公民館の一隅には「信州森山故城碑」の石碑が立っている。碑面によれば時の森山城主豊後守俊盛(ぶんごのかみとしもり)が天正年中に構築した旨が記され、その事績を顕彰している。
俊盛は近江守山から入村して当地を支配したとあるが、その来歴は不明である。あるいは耳取大井氏との従属関係によるものであろうか。

森山城(小諸市) (1)
薬師堂の脇の石碑。この裏面に顕彰事跡が記載されている。

この俊盛は傑出した武人で、初め武田信玄に仕え、川中島の合戦など各戦に活躍、天正十年(1582)勝頼の最後まで随順し、同年信長の死による佐久争乱の際に俊盛は耳取大井氏とともに芦田信蕃(依田信蕃)に属して徳川家康の旗下に参じ、北条勢の進行を阻んで軍功を挙げ、家康から与良氏の遺領を含む恩賞、朱印状を賜っている。
そののち、小田原の役にも信蕃が戦死した岩尾城の攻撃にも参陣したが、文禄二年(1593)に死んだ。その嗣子兵部丞盛房(ひょうぶのじょうもりふさ)は、慶長八年(1603)、江戸開府ののち、信蕃の次子康真(康勝)が上州藤岡に移封の際これに従って森山城を去った。このとき森山城は、その支城西古城とともに廃絶となった。
(定本佐久の城~阿部照雄氏記述より引用)

森山城(小諸市) (5)
森山公民館の西側の通路は堀跡だろう。(見取図では郭1と2の間の堀)

森山城(小諸市) (7)
郭2と3との間の通路も元々堀だったようだ。

「森山故城碑」は森山俊盛(守山⇒森山に改姓したと思われる)の十一世の子孫で当時幕府の旗本であった森山孝盛が寛政四年(1792)六月に俊盛没後二百年を記念して此処に建碑したもので、森山氏の出自、俊盛の偉業などを顕彰している。

森山城(小諸市) (6)
城域の北側の田切地形。天然の堀を形成している事が分かる。

森山城(小諸市) (18)
何処までが往時の遺構なのか分からん(汗)

戦国時代の城は城主不明なケースがほとんどで、このように城主の経歴の分かるケースは稀である。

しかし、これとて、小生の尊敬する西股氏に云わせると「江戸時代に先祖探しが流行した事例である」とするようだ(笑)

森山城(小諸市) (23)
郭2の南側の空堀に連結する場所。立派な石垣は何か意味があるように思えるのだが。

森山城(小諸市) (24)
どことなく城下町の風情が残る森山集落。L字クランクの名残もある。

森山城(小諸市) (26)
郭5手前の空堀。夏は藪茫々なのでご勘弁願いたい(笑)

さて、森山氏の居館(政務を司る役所)は公民館敷地にあったとしても、軍事施設としての森山城の全体の縄張りはどうだったのだろうか?

実のところ「軍事的な城など作る暇など無かった」のではないかと思う。

信玄の信濃先方衆の酷使は現在のブラック企業に匹敵していたように思えるが、どうであろうか・・(汗)

真田幸隆ですら自分の居城など整備している余裕は無く、乗っ取った戸石城も本格的な整備が為されたのは昌幸の代になってからのことである。

信玄が亡くなると真田幸隆も後を追うように死んだと云うが、本当は過労死だったのではなかろうか・・(笑)

森山城(小諸市) (30)
南側の縄張りに関しては解明の余地があるように思えるが。

≪森山城≫ (もりやまじょう)

標高:681m 比高:7m  
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:小諸市森山
攻城日:2013年8月12日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:森山公民館借用。(集落内は狭いので路駐不可)
見どころ:堀切跡、田切地形など
注意事項:プライバシーに注意
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」「定本 佐久の城」
付近の城址:耳取城、北ノ城、塩川城など

信濃先方衆のそのほとんどが最後まで武田家を見捨てる事無く忠誠を尽くした。

その忠誠心が家名を存続させた最大の要因だと小生は信じて疑わないのである。

森山城(小諸市) (9)
中途半端な堀切よりは効果絶大な田切地形。





Posted on 2014/01/14 Tue. 08:00 [edit]

CM: 2
TB: 0

0113

塩川城 (小諸市甲)  

◆自然地形を最大限に活用した巨大な崖淵城◆

昨日は我が家の次男坊が成人式らしいので、会場まで送って行った。

30年も前の自分の成人式は今でも覚えている。

小生を含めた就職組が少数派だった事も有り、ノーテンキな同窓生のお気楽極楽バカ大学生の自慢話には辟易した。

そんな奴らでもバブルが弾ける前だったので、とりあえずは就職出来た良き時代であった。

なので、バブル崩壊後の就職氷河期~アベノミクス前夜までの就職前線で辛辣を舐めてきた成人の皆さんには申し訳無く思っている・・(汗)

荒神宮①
木曽義仲は依田城で挙兵すると今井四郎兼平の子に命じ荒神宮(上田市)で平家追討の戦勝を祈願させたという。

就職祈願も神頼みだったと思われるが、これからの日本経済の再生に期待したい・・

で、今回紹介するのは木曽義仲とは全く関係の無い小諸市の塩川城(しおがわじょう)

塩川城2(小諸市) (66)
土石採集の為に消滅した硲城(はざまじょう)から見た塩川城。

【立地】

浅間山の裾野を流れる繰矢川(くりやがわ)が小諸に入り蛇行しながら深い渓谷を刻み、いよいよ千曲川と合流する崖淵に立地している。城域を分割している巨大な堀切㋐は繰矢川の支流または氾濫原として形成されたものだろうか。
繰矢川の渓谷を挟んだ南の対岸には北ノ城(きたのじょう)、隣接して硲城(現在は消滅)、更に森山城と続いている。

塩川城(小諸市)見取図①

【城歴】

伝承等全く不明の城で越後堀や城の内という地名が残るのみである。小生のこの地域におけるバイブル「定本佐久の城」(1997年発行 郷土出版社)にも記載が見当たらない。
宮坂武男氏も南に突き出た台地上の1・2・3は逃げ込み城らしく、越後堀と称する5・6は成立時期が違うのではないか?と推測している。古いタイプの館城であまり手を加えた形跡は見られない。

塩川城2(小諸市) (3)
城の内(郭1・2・3)へ通じる唯一の土橋。

塩川城2(小諸市) (7)
土橋の東側はL字になる天然の堀切㋐

塩川城2(小諸市) (13)
土橋を渡り郭4。

塩川城2(小諸市) (15)
堀切㋑で切断し城内への侵入を阻止。

【城跡】

城の主要部は大堀切㋐より南で、通路は土橋のみとなる。四方は険しい断崖なのでまさに逃げ込み城であり、攻め込まれたら全滅しかない。
高城(郭1)と呼ばれる部分は恐らく千曲川方面の物見で、低い小山(郭2)は館主の小屋でもあったのだろうか。最大の面積を誇る郭3だが、遮蔽物も水の手も無いので籠城にも厳しい。

塩川城2(小諸市) (20)
主要部はこんな感じ。

塩川城2(小諸市) (24)
水と兵糧さえあればかなりの人数が籠城出来そうだ(南に広がる郭3)

塩川城2(小諸市) (31)
郭2の崖淵からみた小諸大橋(千曲川ビューライン)。正面の崖の上が御牧ヶ原の台地。

塩川城2(小諸市) (34)
城域西側は土石採集で削られたが、現在は中止されたようだ。それにしても結構な高所である(汗)

塩川城2(小諸市) (39)
高城(郭1)。何の変哲も無いただの物見の小山だった。

越後堀と呼ばれる郭5と6は耕作地となり、堀切と郭の輪郭が僅かに確認できるのみである。

塩川城2(小諸市) (47)
堀切㋒

塩川城2(小諸市) (49)
堀切㋐と堀切㋒の連結部分。

塩川城2(小諸市) (50)
越後堀と呼ばれる郭6.何の形跡も無い。

塩川城2(小諸市) (51)
郭5.ここまで削平されると見事だ(笑)

塩川城2(小諸市) (56)
大堀切㋐の西側入り口。繰矢川の氾濫原または嘗ての水路だったようだ。

小諸周辺は田切地形や崖淵を利用したデカイ館城が多い。しかも意味不明、デカ過ぎて守れねえし・・(笑)
農耕地を含めた集落ごと取り込んで築城されたような感じですね。
隣の「北ノ城」も調査してみましたが、訳わかんないし・・(汗)

地形的にも歴史背景からも耳取大井氏の北からの侵入に対する防衛拠点の一つだったように思えます。

幸いな事に、ここの領主だった耳取城の大井氏、森山城の守山氏はともに早い時期に信玄に降り、武田滅亡後は依田信蕃の配下として徳川氏に臣従したので、この地域が戦禍に遭う事は避けられたようです。

塩川城2(小諸市) (58)
辛うじて破壊が中断された城域の西側(郭2と3周辺)

≪塩川城≫ (しおがわじょう)

標高:671m 比高:85m(千曲川より)  
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:小諸市甲
攻城日:2014年1月4日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:千曲川ビューラインの路側帯に駐車。(集落内は狭いので路駐不可)
見どころ:堀切など
注意事項:耕作地につき注意。
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」
付近の城址:耳取城、森山城、北ノ城、五霊城など

硲城 (6)
硲城から見た塩川城遠景(2013.8月撮影)

そういえば肝心の耳取城、森山城・・未だ掲載してませんでしたネ・・・・(汗)

Posted on 2014/01/13 Mon. 10:51 [edit]

CM: 2
TB: 0

0112

御馬寄城 (佐久市御馬寄)  

◆千曲川の渡河地点の監視小屋か?◆

某国営放送局の大河ドラマ「軍師官兵衛」が始まった。

映画マトリクスのような冒頭のシーンには苦笑し、キアヌリーブスが主演した「47RONIN」が苦戦を強いられているので、国営放送にしては趣味が悪いなあーと思った次第・・・(爆)

だいたいねえ、戦国時代に「軍師」なんて職業も地位もありませんよ。才能があれば自分で天下を取るにきまってます(笑)

北国街道街並み①
北国街道上田の柳町(旧町名)。奥の山は市民の山として親しまれている太郎山(たろうやま)

なので敢えて軍師を解説するとしたら軍隊で云うところの「作戦参謀」であり、軍事行動における戦略を具体化して戦術に落とし込む役割を担った方です。

最終決裁者は戦国武将なのですが、それにしても竹中直人の老害「秀吉」には閉口した・・・(怒)。

ボヤっキーはそれぐらいにして、今回紹介するのは千曲川沿いにある「御馬寄城(みまよせじょう)」

御馬寄城(佐久市) (11)
南西方面から撮影。道路の開通により千曲川に接する部分が消滅したようだ。

【立地】

千曲川左岸の川渕の台地上にある。対岸1kmの東側に駒形城、北1kmに耳取城、南へ2kmで岩尾城がある。
南側を中仙道が整備されたのは江戸時代に入ってからの事だが、中世時代も交通の要衝であったと思われる。

御馬寄城(佐久市) (2)
城跡は民家になっていて遺構らしいものは無い。

【城歴】

長野県町村誌の御馬寄村のところに記載されている「古城址」がこれで、東西に堀もあったようだ。牧監居館址ならんか?と推定されているので、地名からも牧場絡みとみてもよさそうだ。
望月の牧の東出口にあたるので、望月氏関連の一族が監視小屋を置いていた可能性もあろうか。

御馬寄城(佐久市) (4)
西側の通路は堀切だったと思われる。(もちろん石垣は最近の造作)

それにしても「村史跡」である。民家なので説明板等を立てるのは無理だとしてもこんなに改変して良いのだろうか?
旧浅科村(あさしなむら)が佐久市に合併したので関係無くなったの?(汗)

御馬寄城(佐久市) (9)
消滅した東側部分。恐らく堀切も存在していたと思われる。

この場所に監視砦を置く意味はいつの時代を指しているのだろうか。

場所は耳取大井氏との境目であり、高台から見える景色は北~東側に向けられている。往時の千曲川の様子は分からないが、渡河地点だった可能性もある。
滋野系望月氏の最大版図がこのあたりまで及んでいたと考えると、佐久方面に侵入を繰り返していた武田軍に対しての監視砦としてみるべきであろうか。
その場合、八幡(浅科)の矢嶋氏との関連も考慮すべき点になるがハッキリしない。

御馬寄城(佐久市) (10)
生活道路は仕方ないが、事前に発掘調査出来なかったのだろうか。

≪御馬寄城≫ (みまよせじょう)

標高:635m 比高:25m(千曲川より)  
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:佐久市御馬寄
攻城日:2014年1月4日 
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:適当に路駐。
見どころ:堀跡?
注意事項:私有地につき内部への無断立ち入りは不可
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」
付近の城址:駒形城、矢嶋城、岩尾城、五霊城、耳取城など

御馬寄城(佐久市) (7)
城址の北を新幹線が通る。東方面への見張り場所としては文句ない立地。

しかし、正月早々、取るに足らない遺構も無い砦付近を調査している小生・・今年も大丈夫か?(笑)

Posted on 2014/01/12 Sun. 09:38 [edit]

CM: 0
TB: 0

0107

式部の館 (佐久市布施)  

◆円形館では何故ダメなんだろう?◆

泣く子と地頭には勝てないと言うが、歯痛にはもっと勝てない・・(汗)

長年連れ添った奥歯と本日やむを得ず惜別の別れをしたのだが、半日も出血が止まらず難儀した。

それは「失って気がつく親の有難み」と同じかもしれない・・(ってかまだ両親元気だし・・・笑)

式部城(佐久市) (121)
集落の東を流れる布施川。対岸の尾根を越えれば広大な佐久平だ。

今回ご紹介するのは式部集落の中心にある「式部の館」(しきぶのやかた)

式部城見取図①(佐久市)

式部城(佐久市) (106)
南の式部城方面から見た居館推定地。

【現地説明板より】

南方に築城されている式部城跡の麓にある居館跡は、方形に設計されているのを基本とし、かつて四方に土塁が巡っていたものと推定されるが現在は東北部に見事な土塁が残存している。また西側には幅の広い空掘が構築されており防御を考慮した構造になっている。中央部にはかつての井戸が水をたたえて存在しており、そこから移動したと思われる丸く刳り抜いた方形の井戸框が残っている。本居館跡の構築年代は定かではないが、式部城跡の居館跡と見るむきがあり、室町時代と云われている。しかし構造上さらに古く位置づける説もある(望月教育委員会)

式部城(佐久市) (109)
居館西側

式部城(佐久市) (112)
祠が三つ並ぶ北東の残存土塁。

式部城(佐久市) (115)
北側より撮影。L字なのが分かる。奥に式部城が見える。

最近の定説として「方形館=鎌倉時代」なのだというが、根拠に乏しいように思う。

シロウトが何を証拠にノタマウか?と笑われそうだが、平安時代末期に貴族から凶暴な番犬呼ばわりされていた武士がわざわざ自分の屋敷を武装化するのであろうか?

集落や自分の屋敷を戦場(砦)にして戦う必要もなかったし、都でもなければ緊迫した情勢では無かったように思える。

居館を武装化する必要が生じたのは、説明板の推測する通り室町時代からだと思う。

幕府の権威が衰退し地方の統治が崩れ、地場で力のあるヤクザ(土豪や地侍)が集落の防衛と称して多額のミカジメ料を住民から徴収している訳だから、勢力拡大するなら、そのヤクザの屋敷を襲撃して無き者にするのが手っ取り早い。

式部城(佐久市) (118)
北側の土塁。

「自分の身は自分で守る」

屋敷を武装化したものが館となり、館城に進歩し、純粋な軍事施設としての必要性が要害を生み出したのだろう。
(小生の勝手な推測であるが)

式部城(佐久市) (116)
居館跡に建つ民家の脇には説明板があり、ここが史跡である事を示している。

城館と山城のセットを否定するような学説を唱える方もいらっしゃるが、どうであろうか。

隣村から数人のチンピラが襲撃してくる程度なら、平地の館で迎撃すればよいし、隣の国の大親分が手下をたくさん連れて乗り込んできたら山の要害へお誘いすればよかろう(笑)

≪式部の館≫ (しきぶのやかた 布施式部館・坪ノ内)

標高:728m 比高:2m  
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:佐久市布施式部
攻城日:2013年11月23日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:県道脇に適当に路駐。(集落内は狭いので駐車は止めましょう)
見どころ:土塁
注意事項:私有地につき内部への無断立ち入りは不可
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」
付近の城址:春日城、布施城、天神城、望月城、小倉城など

式部城(佐久市) (111)
北東の土塁の上の「祠三兄弟」(笑) 遷りゆく郷土の歴史を見ていたのであろうか・・・

Posted on 2014/01/07 Tue. 22:38 [edit]

CM: 2
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top