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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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式部城(佐久市布施)  

◆主郭背後の堀切が魅力的な監視砦◆

佐久方面は既に85の山城と館城を掲載しているが終点が見えない。

既に踏査済みの在庫も22城抱えているがアップの目処も立っていない・・・・・・(汗)

もっとも宮坂武男氏の「佐久編」は総数232城なので、半分にも到達していないから当たり前なのだが・・(笑)

ゾロメーター①
攻城数も大事だが、我が?代目の営業車がゾロ目に到達した記念すべき瞬間(ってかメーターパネル磨けよ!・・笑)

今回ご紹介するのは、マニア推奨の隠れた佐久の名城として浸透しつつある「式部城」(しきぶじょう)とその居館。

【立地】

蓼科山の山塊が北に伸びる裾野で鹿曲川(かくまがわ)と布施川(ふせがわ)に浸食された台地上の尾根を利用している。北2.5kmに望月城、北西2kmに天神城、南西2kmに春日城があり、佐久臼田からの望月へ抜ける裏街道の途中に位置している。

式部城(佐久市) (4)
道路脇から尾根の墓地の参道を適当に登ると横堀㋐が出現するが、この堀の意味の無いテキトーさに空しさを覚えた(笑)

実はこの式部城、最近注目されていて関係者(ヲタク)の間では「赤丸急上昇」らしい(表現がちと古いかのお・・笑)

小生は敢えて前張り前知識無しでトライして見た。

先に記事を掲載している武蔵の五遁さんは現地で地主さんのアテンドを受けてしまったようだ。麓の墓場付近に人影を発見したので、避けるように「ホフクゼンシン」・・(爆)

式部城見取図①(佐久市)

堀切㋐を越えてだらだらと坂を登ると、戦中・戦後に耕作された痕跡が残る。

綺麗に削平され整地された土地が、耕作地なのか中世城館の帯郭の7遺構なのか全く区別が出来ない。

式部城(佐久市) (5)
墓地の上から城域になると思われるが、往時の削平技術とは思えない土木施工。

式部城(佐久市) (7)
郭3周囲の切岸。戸石城の本城の曲輪群に匹敵する加工度の高い処理だが、往時のものとは断定し難いのも事実だ。

ケチをつける訳ではないが、この先ご覧頂く郭1(主郭)周辺の切岸と、郭2以下の番数の郭の切岸の加工度合いが違うのである。

「やっちまったのかなあー??」 

専門家の指導に基づく整備保存であれば問題ないが、これ以上の疑念を避けるためにも佐久市は発掘調査すべきであろう。

式部城(佐久市) (8)
郭3(奥に見えるのは郭2の切岸)

式部城(佐久市) (11)
郭2の切岸。完成度の高さには違和感を覚えるが・・。


【城歴】

全く不明で、山麓に居館を構えていたとされる式部氏の城または北500mにある布施城の詰めの城と推定する説もあるが、そもそも式部氏自体が何者か不明であり、布施氏と同一と見るのが最近の定説のようだ。
武田時代には北東2km先の天神城と共に北2.5kmに位置する望月城の支城として臼田方面からの裏街道を監視したのだろうか。
至近距離の南東2kmに日向城があり、縄張りも似ているので年代も近いように思われる。
戦国末期まで機能していたように思えるが確証は無い。

式部城(佐久市) (16)
郭2はコの字型で本郭を囲んでいるが、削平が3.4.5に比べると雑で往時のままの姿だと思われる。

式部城(佐久市) (18)
郭2の西側L字部分。本郭の周囲の上部には土留めの石積みが全周していたらしく石が崩落している。城域の土は柔らかいので加工し易い反面崩れやすかったのだろう。

式部城(佐久市) (29)
郭1(30×15)。背後を巨大な土塁で守られている。


【城跡】

大手に横堀を置き、城正面の尾根を段郭で重ね背後を堀切で断ち切る縄張りはオーソドックスな手法だが、この城の特徴は主郭背後の土手付き四重堀切の処理の独自さであろうか。
見取図の㋑・㋒・㋓・㋔の四本の主郭背後の堀切は東側の尾根に対して3本に集約され、その後は傾斜の緩さに対する防衛として1本の長い竪掘りへ集約されている。
この高度な技術をこんな小さな規模の城に採用しているのには驚く。

式部城(佐久市) (36)
主郭の土手から東方面の堀切撮影

式部城(佐久市) (38)
城域主要部を遮断するように東斜面に作られた土手(土塁)

式部城(佐久市) (41)
主郭の土手から西方面の堀切㋑。奥に堀切㋒用の土手が見える。

式部城(佐久市) (45)
上巾14mの長大な堀切㋑は竪掘となって西斜面に落ちている。

式部城(佐久市) (46)
西斜面から見た尾根部分の堀切㋑(左側が郭1方面)

式部城(佐久市) (48)
堀切㋒(上巾9m)

式部城(佐久市) (50)
堀切㋓(上巾7m)

堀切の雰囲気を写真で表現するのは難しい。

どれも同じに見えてしまうからだ。谷底にわざわざ下りて下からのアングルで撮影したり、木に登ったり、堀底に同行者を立たせてその規模を表現したりするが、どれもイマイチで永遠のテーマである(笑)

式部城(佐久市) (51)
補助線を使って三連続堀切を表現してみた(汗)

式部城(佐久市) (61)
西斜面に落ちる最終の堀切㋓(上巾10m)

式部城(佐久市) (67)
三本の堀切を一本に収斂(しゅうれん)させる東斜面の処理(落書きご容赦)

式部城(佐久市) (79)
集約後、東斜面に竪掘となって傾斜の緩い斜面を防御している。

式部城(佐久市) (88)
尾根東側の三連の堀切を撮影


「ええい、ツラツラと写真ばかり連ねおって!!」

お叱りの声が聞こえそうだが、この城のメインはこの四連続の痺れる堀切とその魔術なのである・・(笑)

堀切マニア必見の城である。


≪式部城≫ (しきぶじょう)

標高:805m 比高:80m  
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:佐久市布施式部
攻城日:2013年11月23日 
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:10分 駐車場:県道脇に適当に路駐。(集落内は狭いので駐車は止めましょう)
見どころ:四重の堀切、土塁、石積み、切岸
注意事項:墓地は荒らさないように
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」
付近の城址:春日城、布施城、天神城、望月城、小倉城など

式部屋敷は次回ということで・・(汗)

式部城(佐久市) (113)
県道から見た式部城遠景。

Posted on 2014/01/05 Sun. 11:20 [edit]

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針木沢城  

◆十石城と連結する謎の崖淵城◆

全く関係無いのだが、何故か信州上田周辺はラーメン店が多く戦国時代の様相を呈している。

味覚は人により千差万別なので批評は控えるが、小生が食べてみたお店のラーメン達を時々掲載するのでご容赦願いたい。(ってか、小生の尊敬する城郭専門HPの城と古戦場のトップページのパクリであります・・汗)

信州麵屋 泰 本店
「信州麵屋 泰(ゆたか) 本店」(上田市)特製鶏白湯・塩 (900円)


さて、食べログではないので、本題を戻そう・・(笑)

今回ご紹介するのは前回掲載した十石城と何故か連結している「針木沢城」(はりきさわじょう)

針木沢城見取図①Yahooの地形図に書いてみた。何と今回は色付きです

【立地】

県道134号線の御代田町馬瀬口(ませぐち)から乗瀬地籍へ向かう途中の平原用水と針木沢(はりきざわ)に挟まれた崖淵台地上にあり、十石城と隣接している。北方には塩野牧(馬の牧場)がありその入り口に位置する。
馬瀬口城と混同されるケースが多いようだが全く別の城だという。(馬瀬口城は後日ご紹介します)

針木沢城 (8)北側から見た郭1。

針木沢城 (12)十石城との境になる巨大な沢を利用した堀切㋐。

【城歴】

築城年代も城歴も全く不明の城である。馬瀬口城にも近いので、塩野牧の入り口を防衛する砦が在地土豪により拡張と改修されたもの想定されるが、十石城同様に城域がデカイ。領民も交錯しながら居住していたのだろうか。想像の域を出ない。

針木沢城 (7)西側の堀である平原用水に接続していた堀切㋑は埋まっているが、針木沢側に堀の痕跡が残っている。

針木沢城 (3)デカイので歩くのも難儀する(汗)

【城跡】

十石城との境は「信濃の山城と城館➊佐久編」の宮坂武男氏の図を参照しているが、宮坂武男氏もハッキリしたことは分からないと述べている。県道の東側にもかつては堀切が2本あったようだが、耕作地による改変で不明となったらしい。
十石城と同じく平原用水という天然の外堀で西側を守り、東は針木沢が繰矢川(くりやがわ)合流するまでの深い天然の沢なので攻めるのは難しい。
戦国時代は平原城の依田氏の支城として機能したのであろうか。

針木沢城 (2)郭3の北隅には民家。

針木沢城 (23)城内を通過する県道と北側の郭群。農地の整地により堀も消滅したという。

東信濃は全国有数の「牧」があり古代から平安時代まで良質な馬を朝廷に献上している。

牧場経営で財をなした豪族も多く、滋野一族はその筆頭格であろうか。御代田町の塩野牧にも有力な土豪が存在した可能性は否定出来ない。

針木沢城や十石城の構築時代を平安末期から鎌倉、南北朝に求めるのはとても無理だが、在地土豪で築城者のルーツは牧であると見ても間違いなかろう。

針木沢城 (25)改変されたのが惜しまれる。

≪針木沢城≫ (はりきさわじょう)

標高:799m 比高:25m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:御代田町塩野
攻城日:2013年8月18日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡の周回所要時間:40分(十石城含む) 駐車場:県道脇に路駐
見どころ:郭、堀切
注意事項:耕作地には入らない事
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」
付近の城址:十石城、上三田原城、宮崎城、塩野城、馬瀬口城など

十石城 (4)国道18号線から針木沢を挟んだ対岸が城跡。(工場のある場所の右奥の崖淵台地)



Posted on 2013/12/07 Sat. 18:54 [edit]

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十石城 (小諸市平原)  

◆城館+農耕地という発想◆

少子高齢化という言語に慣れてしまったが、日本の人口が1億人を突破したのは昭和四十二年(1967)なので、つい最近の事である。

明治五年(1982)の日本の総人口は3480万人で、江戸時代の最初は約2000万人だったらしい(汗)

僅か100年間で人口三倍というのは世界的にも珍しい事例で、平成十五年(2005)にはピークの12,760万人。
それがいいか悪いかは人口の増減では語れないにしても、均衡のとれたバランスを考えると「あるべき姿」に回帰しつつあるというのが事実の認識であろう。

さりとて「死にたくとも死ねない医療の進歩」は弊害であり「長生きのリスク」という弊害を生み出している。
皮肉なものである(汗)

十石城 (7)国道18号線の十石坂付近にある城跡への入口。

冒頭で日本の人口の話をしたのは、戦国時代における「戦い」(合戦)における動員兵力の推察の為である。

川中島の戦いも長篠設楽ヶ原の合戦も、関ヶ原の戦いも大阪の陣も、語り継がれた人数の凡そ1/10と思えば合点がいくのは小生だけであろうか・(笑)

余計な話はそれぐらいにして、今回ご紹介するのは中世城郭のメジャーブログやHPでは絶対掲載しないであろう「十石城」(じっこくじょう)

十石城見取図①

「え~っ、また小諸なる古城のほとりの続編になるの?」

苦情はイチイチご尤もなのだが、信玄公も信濃のゴミのような山城を各個撃破しているので、それをお手本に頑張ります・・(汗)

十石城 (12)郭1から撮影した堀切㋐。

【立地】

往時はともかく現代における小諸市と御代田町の国道18号線の境目の城である(笑)。
北側を平原用水、南を繰矢川に挟まれたこの地域特有の田切地形でかなり広い城域だ。今でこそ国道18号線が城に隣接するように走っているが、戦国時代の北国街道~碓氷峠へは城域より北側の浅間山の山麓を通っていたので、平原城の支城として上州からの侵入者の見張りも担っていたのであろうか。

十石城 (11)郭1。農耕地といえどもかなり広い。

十石城 (15)主郭北側の堀切㋑。平原用水に接続しているので堀切㋐と共に水堀だった可能性もある。

【城歴】

詳細は全く不明で平原城の平原氏(依田系)関連の支城とされるがそれも確証は無い。

十石城 (40)城域の西を流れる平原用水を外堀として1・23の郭が中枢部だったようだ。

【城跡】

佐久や小諸地域に多く見られる崖淵地形を利用したデカイ砦。そんなに兵士がいる訳ないならコンパクトに作れば良さそうだが、城内に農耕地を取り込んでいたのだろうか?
険しい山城は辿り着くまでに疲れるが、遺構を見ると疲れが吹き飛ぶ。しかし田切地形の城は歩きまわるだけでくたびれてしまい、達成感が感じられないのが難点かもしれない・・(笑)

十石城 (18)郭3。整地され過ぎているようにも見える。

十石城 (23)埋没した堀切㋓。

十石城 (31)東隣りの郭5から見下ろした郭4.小学校の校庭ぐらいの広さがある。

カンカン照りの炎天下の中を歩きながら思ったのは「こんなデカイ城、戦争を想定して作った訳が無いだろう」

用水を引きこんだ肥沃の地として領主の特権を生かして農作物を栽培していたとしか思えない・・(汗)夜盗や隣接する豪族からの襲撃に備えて申し訳程度に掘りを穿ったのであろう。

十石城 (33)郭4から一段上がった鉄塔の刺さった場所に郭5がある。藪茫々で詳細は不明。サイロ跡が櫓跡のような高土塁になっている。

針木沢城 (17)郭5と郭6の間の堀切㋔。

針木沢城 (18)堀切㋕を最終として針木沢城に続く。

実は十石城は針木沢(はりきさわじょう)と連結する複合城で境目もハッキリしていない。

一粒で二度美味しいグリコなら大歓迎だが、デカイだけが取り柄の城域は歩きまわるのが大変でロクな遺構もないので「くたびれ損の骨折り儲け」のみであろう(汗)

針木沢城 (14)郭6.鉄塔付近は郭5.

十石城 (36)右側は十石城の城域で、正面は浅間山。

国土地理院の地図を片手にカメラを片手に持ち田畑のあぜ道を徘徊している姿は、まさに不審者そのものだ(笑)

≪十石城≫ (じっこくじょう)

標高:793m 比高:30m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:小諸市平原十石(御代田町)
攻城日:2013年8月18日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡の周回所要時間:40分 駐車場:国道18号線道路脇空き地に路駐
見どころ:郭、堀など
注意事項:耕作地には入らない事
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」
付近の城址:針木沢城、上三田原城、宮崎城

十石城 (2)南を通る国道18号線道路脇から見た遠景。





Posted on 2013/12/04 Wed. 21:41 [edit]

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加増城 (小諸市加増)  

◆伝承も城跡も消えゆく田切地形の城館◆

信州の小学生たちの短い夏休みは終わったようだ。

小学生の頃の自由研究、皆さんは何を課題に発表したか覚えてますか?

小生は5年生の時に「後三条天皇の延久の善政と摂関政治の終焉」をテーマに発表した。

今思えばとても異常である・・・(笑) 担任の先生も小生の扱いに困っていたのを覚えている・・(爆)

で、今回ご紹介するのは、加増城。後三条天皇とは何の関係も無い・・・・・・・・・(汗)

加増城 (2)北から見るとチョー城っぽい(笑)

「こんなゴミみたいな城の掲載を何故するの?」と思われる方も多いかもしれない。

歴史に登場するような有名な城だったら、必ず誰かが書いてるでしょ。クドイぐらいにネ(笑)

でも、そんなのありきたりでつまらない。

マイナーどころか3Aにも登録されていない城砦って、誰かが書いてあげないと日が当たらないし、そのうち忘れられちゃうでしょ。

加増城古図長野県町村誌に掲載されている加増城の絵図。

地元のヤツラが紹介しなくちゃ誰が語るの?

それって「今でしょ」(爆)

加増城見取図

かなり古い田切地形の崖淵城で、長野県町村誌の加増村に城歴が書いてあるが、イマイチ的を得ない。

以仁王の令旨を受けた朝皇が打倒平家を画策してこの城に籠ったらしいが、そもそも朝皇とは何者なのか分からない。

挙句の果てには病に罹り、平家との戦の前に没したという。

加増城 (3)城域へは通路があるが後世の加工であろう。

朝皇の没した後は朝皇社として本郭跡に祠があったようだが、現在は加増稲荷神社に移されていると云う。

南北朝時代や室町時代に、比高10m程度の丘の上の居館がどのような使われ方をしたのかは甚だ疑問ではあるが、その後移転してきた小諸大井氏の砦の一つとして兵が置かれたのかもしれない。

加増城 (5)郭に登り東方面を撮影。

長野県中世城郭跡の昭和54年に行われた調査時には東側の郭が残っていたようで略図に記載されていたが、現在は土石採集の為に破壊され消滅してしまった。

この地域の遺跡に対する悲劇は連鎖のように続いているのであろうか。

加増城 (14)無残に破壊された東端の郭跡。

加増城 (10)耕作地だったようだが、居館跡の削平地をそのまま利用したのであろう。

戦時の城館というよりは、普段の生活も営まれていたと思われる。

加増城 (6)郭の北側は円形の土塁の跡がある。写真を撮っても無駄だった。

この城の物見が北500m先にある乙女城(大遠見城)だったという説もある。

まあ確かにこの場所からでは周囲の動きは見えないので、あながち誤りでもなかろう。

小諸周辺の城跡は早めに見ておかなければ、マジでこの世から抹殺されそうだ・・・(汗)


≪加増城≫ (かますじょう 古城)

標高:700.0m 比高:10m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:小諸市加増
攻城日:2013年7月15日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:路駐
見どころ:郭跡
注意事項:特に無し
参考文献:「定本佐久の城 1997年」「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」
付近の城址:乙女城など


加増城 (16)国道18号線のコンビニから見た加増城全景。



Posted on 2013/08/23 Fri. 12:41 [edit]

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菱形城 (小諸市菱野)  

◆在地土豪の古い中世城館◆

連続更新記録が途絶えた。

一昨日は強烈な目まいに見舞われてしまい、午後八時には就寝。まさか展開のであった・・(汗)

昨日は送別会で酔ってしまい記事を更新する気力も無く・・・

ぬるま湯生活に刺激的な荒行を求めるのは所詮無謀だったようである・・(笑)

菱形城(小諸市) (10)城域後部を貫通する県道80号線。(通称:浅間サンライン東部広域農道)

今回ご紹介するのは、発掘調査により南北朝時代の遺構であろうと推定された菱形城(ひしがたじょう)。

千曲川ビューラインの道路工事により硲城はろくな調査もせずに破壊されてしまったが、菱形城は道路工事部分のみ緊急発掘調査されたという。

菱形城(小諸市) (16)削り取られた場所には橋が架かっている。

この城跡が菱形城として認識されているのは、この橋の名前から見てとれる。

菱形城(小諸市) (34)
↑「ええいっ、この表札が目に入らぬか!」(笑)

城域は東を大木沢、西を大久保沢に守られた菱形の舌状台地上にある。

城歴は不明だが、その立地からは在地土豪が集落の住民の為に築いた逃げ込み城の要素も多分に伺える。

菱形城見取図①

菱形城跡は先に述べたとおり、広域農道新設工事の為に昭和五十四年(1979)小諸市教育委員会による発掘調査が行われた。

報告書によると出土遺物としては壊れた石臼八点、古銭一点、鉄製品三点(うち轡が一点)、青銅製金具などである。青銅製の金具は鞐(こはぜ 鎧を装着する際の止め金具)で、鑑定結果は南北朝時代のものであり、この事から、菱形城の時代を特定する要素になっている。

菱形城(小諸市) (5)橋の北側の遺構。耕作地とゲートボール場に改変されている。

菱形城(小諸市) (20)橋を渡った南側。戦闘用というよりは居館を兼ねた広域避難広場と云う感じ。

菱野平付近は「菱野の牧」として吾妻鏡の文献にも登場する。

佐久平とともに良質な馬の産地として牧場が営まれていた事は想像に難くない。

菱形城(小諸市) (24)城域北西も巨大な郭跡がある。

畑の持ち主の方にお話を伺ってみたが、「城跡はここじゃなくて、菱野温泉だよ」と教えていただいた。

おそらく露天風呂のある雲之助城を指していたのでしょう。

ここが城跡だなんて、橋の名前を説明したところで信じてはもらえないでしょうね・・(汗)

菱形城(小諸市) (27)南に続く広大な台地。

菱形城(小諸市) (31)城跡破壊の代償として南端に公園が作られたらしい。既に訪れる人も無き廃墟となっていた。

木曾義仲の時代まで遡るのかは不明だが、城歴は古いようである。

雲之助城との関連も考えられるが、戦国時代を迎える前には使われなくなっていたと考えるのが普通かもしれない。

城域全体の発掘調査を行う事で、さらに年代の絞り込みが出来ると思うのだが、小諸市にその気はあるかしら?

菱形城(小諸市) (4)城跡の入り口に建つ新海三社神社。

≪菱形城≫ (ひしがたじょう 城)

標高:844.0m 比高:20m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:小諸市菱平
攻城日:2013年7月15日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:5分 駐車場:菱野公民館借用
見どころ:郭跡
注意事項:特に無し
参考文献:「定本佐久の城 1997年」「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」
付近の城址:富士見城、高津屋城など

菱形城(小諸市) (39)城域西側から見た菱形城遠景。







Posted on 2013/08/21 Wed. 21:16 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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