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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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松平城 (下伊那郡大鹿村大河原文満)  

◆大河原城の北の関門を守る支城◆

上田城跡公園には、桜の木は実は千本も無いのだが、何故か「上田城千本桜祭り」の名称で4月23日まで絶賛開催中である・・・(笑)

先週8日(土)に、例年より10日ほど遅い桜の開花宣言が出されたが、本日は冬に逆戻りしそうな雨交じりの最高気温8℃・・・(汗)

雪国の住人は、この時期冬タイヤ➡夏タイヤへの交換のタイミングに悩むが、愛馬は4WD(最近はAWDの表記)という事もあり、過信は禁物なのだが、先日タイヤを履き替えて久々の洗車・ワックス掛け。過酷な山城探訪へのお礼も込めて・・・。

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17歳のジムニーくんですが、小生とのお付き合いは未だ2年弱。野山を駆け巡る事約17,000kmで、これからもよろしく・・(笑)

今回ご案内するのは、大鹿村古城探訪シリーズ第三弾の「松平城」。

【立地】

小渋川の右岸、小渋川と青木川の合流する地点より北へ500m寄った小高い位置に松平城がある。現在は松平神社の社地で、本殿、拝殿、舞台が立ち並ぶ。古くは、北の塩原から河合、中尾、文満と通じる道路が主要路であったというので、この場所は大河原城の北の関門である。

大河原周辺の城
大河原城とその周辺の城との位置関係。青木城と松平城が大河原城の関門であった事が理解できる。

【城主・城歴】

松平城に関しては「下伊那郡史 第六巻」(下伊那誌編纂会刊行)によれば、以下の記述がある。

「大河原の中心地市場より、西方五五〇米のところ、字文満(ぶんまん)の道路の北一段高い山の中腹にある。小渋峡口の山砦で、現在、平安時代の神像を安置する松平神社がある。高宗の子香坂高重の居城と伝えられる。大河原城の関門というべき位置にある。」

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室町時代に松平右馬允(うまのじょう)が創建したとされる松平神社。現在の建物は寛政十一年(1799)に建てられたという。

また、宮坂武男氏の調査には以下の記述がある。

「香坂高宗の第ニ子松平二郎の居城と考えられ、元中の初年、足利氏満が大河原に迫った時に二郎は奮戦してこれを退けたことがあるという。また高宗の長子もここに住んだという。

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神社の西側に土塁が残る。神社建立の際に改変されてしまい往時の砦の様子は分からない。

【城跡】

小生がバイブルとしている「定本伊那の城」(1997年 郷土出版社)には以下の記述がある。

「本郭は現在南北約35m・東西約33mで二段になっている。上段に神社あり、祭神の八幡像は平安時代の作という。下段の境内には江戸時代に建てられた直会館(なおらいでん)がある。第二郭は更に低く僅かな平地で矢場が設けられていた。城は大河原城の西約2km程のところにあり西口防備に当たったのである。城主は高宗の長子高重であり、のちに第ニ子松平二郎が居城したと伝えられている。」

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主郭はメインとサブの二段だったのだろうか。

「定本伊那の城」で記述されている郭2というのは、恐らく麓の大鹿保育所から神社に通じる参道の途中の平場を指すようだ。
神社の社地と途中の平場だけで砦が構成されていたとは考えづらいので、尾根全体をある程度加工して、その中心が松平神社の社地にあったと考えられるがどうであろうか。

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郭2の平場(8×7)

≪松平城≫ (まつだいらじょう)

標高:730m 比高:22m(国道より)
築城年代:不明
城主;不明
場所:下伊那郡大鹿村大河原文満
攻城日:2017年3月19日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-
見どころ:土塁など
注意事項:特になし
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編 宮坂武男著」 「定本 伊那谷の城」「下伊那郡史」
付近の城址:大河原城、青木城、堀田城、大島城など
Special Thanks to ていぴす殿

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青木城より見た松平城とその奥に位置する堀田城。



Posted on 2017/04/12 Wed. 22:36 [edit]

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青木城 (下伊那郡大鹿村下青木)  

◆大河原城の南を守る支城◆

目まぐるしく変わる春の天気に翻弄されながら、毎週末は山城巡りのラストスパートに勤しんでおります。

GWを過ぎると、新緑によって遺構は覆われてしまい藪化も進み何が何だか・・・だから今月は生き急ぐのです・・(笑)

山城探訪は熱心なのに、ブログ更新は怠慢・・・(汗)  今回ご案内するのは秋葉古道の南よりの侵入を監視した「青木城」。

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青木城より1.5km北の松平城より撮影。

【立地】

小渋川と青木川が合流する大河原地籍の青木川の谷口に位置する。青木川に突き出した岬のように張り出した尾根の上に築かれていて三方を急崖に囲まれた要害の地である。
城址へは、国道152号線から途中を左折し城域の南側を通る道路があるのでそれを上り、尾根の付け根あたりで車を降りる。それから秋葉古道の遊歩道伝いに下り尾根との分岐の稜線を5分ほど北へ進むと辿り着く。

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大鹿村でも秋葉古道トレッキングコースでは「城の腰」として認知されているらしい。(堀切㋐の手前の分岐点の表示板)

【城主・城歴】

大河原城防衛のための支城として南の守りを担った砦と考えられているが、城主や城歴については不明である。

青木城見取図①

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秋葉古道の分岐からちょっぴりスリリングな尾根先を下ると堀切㋐がお出迎え。

【城跡】

青木川に突き出た三角形の尾根先の先端に二段の郭を持ち、その付け根を二条の堀切で穿った砦である。近世に耕作地となっていたようで、どこまでが往時の遺構か判断は厳しい。郭1と郭2は元々緩い一つの削平地だった事も考えられ、後世に分離されたようにも見えるが何とも言えない。堀切㋐と㋑は往時の遺構であろう。

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南北朝の普請らしいが、尾根の処理は結構しっかり造り込んでいる。

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尾根の西側を削りだしたような郭2.

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耕作地であったらしい郭2.

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郭2から南の堡塁を撮影。結構な斜面である。

城址の南側を秋葉古道が通過しているので、往時は街道を監視するための番所が置かれていたのかもしれない。

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郭2から一段下がった場所の郭1。南北70mの長大な三角形である。

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綺麗すぎる削平地(郭1)

郭1を囲むように緩やかな段郭が形成されているが、往時の遺構とは断定できない。
尾根先の先端の郭3は、見張り番所として兵士が詰めていたものであろうか・・?。

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尾根の北端の郭3。

宗良親王が香坂高宗の招きに応じて南朝方の征東府を大鹿村に置いたのは、防御の優位性を重んじての判断だったのかもしれない。

北朝方の信濃守護の小笠原氏が危険を冒してまで大河原に攻め込まなかったのは、こうした天然の地形を理解し、無駄に兵を損なう事が無いように配慮したものであろう。
それ故、戦が長引き、南北朝時代の終焉が先延ばしになったのも事実である。

≪青木城≫ (あおきじょう)

標高:800m 比高:70m(国道より)
築城年代:不明
城主;不明
場所:下伊那郡大鹿村下青木
攻城日:2017年3月19日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:背後の市道より秋葉古道を歩いて10分程度
見どころ:堀切、堡塁など
注意事項:特になし
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編 宮坂武男著」 「定本 伊那谷の城」
付近の城址:大河原城、松平城、堀田城、大島城など
Special Thanks to ていぴす殿

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城址付近から見た大河原城の北の砦群。

Posted on 2017/04/10 Mon. 23:18 [edit]

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香坂高宗の墓所  

◆宗良親王を護り続けた南朝の忠臣◆

今年の3月は全国的に天候不順が続き、信濃では下旬に降雪があり山城の残雪が消えずに難儀している。

我ら信濃先方衆の北上作戦にも影響が出てしまい、予定していた須坂周辺の山城踏査は深い残雪と想定外の険しい岩壁に阻まれて断念する有様・・・(汗)

「そうだ、大鹿村へ行こう!!」

この日の午前中、あても無く下伊那の豊丘村の城址を調査していた我らは午後の予定を大鹿村の城址のスタンプラリーに切替えた。豊丘村から狭くて険しい県道22号線で約18km、時間にして30分。

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大鹿村の上蔵(わぞ)集落に入ると、長野県最古の木造建築と伝わる福徳寺。(鎌倉時代の作という)

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前回紹介した大河原城。宗良親王の息遣いが聞こえそうな居館跡である。

今回ご紹介するのは、宗良親王を信濃大河原に迎え入れた香坂高宗の墓所。

地元のゆるい(大雑把とも)案内板では分かりづらくて、あっちゃこっちゃと迷いながら何とか「到達」・・・(笑)

上蔵説明板
福徳寺にある説明板。50mも歩けば墓所がありそうな描き方だが、実際は500mぐらい歩かないと辿り着けない・・(汗)

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ようやく見つけた香坂高宗の墓所。民家の脇を通り抜けてチョットした耕作地の奥に位置する。

香坂氏は佐久の香坂(閼伽流山城)の出自で滋野氏の傍流と伝わる。承久の乱(1221)で功績があり、幕府より犀川流域の牧野島を拝領し地頭として移ったと伝わる。
※詳細は⇒牧城(信州新町)を参照願います。

南信濃の香坂氏は牧野島の香坂氏の分流という説があるが、唯一文献に登場する牧城の香坂心覚との関連については裏付けが無い。ともに北条残党で南朝方として戦っているので繋がりはあったものと推定される。

南北朝時代については門外漢なので、香坂高宗の生涯については、以下Wikipediaから引用してみた。

高宗は、興国4年/康永2年(1343年)の冬(1344年とする資料もある)に居城の大河原城に後醍醐帝の皇子宗良親王を迎え、更に奥地の内ノ倉(現在の御所平)に仮御所を設け、諏訪神党に連なる知久氏や桃井氏など周辺の南朝方諸族らと共に宗良親王を庇護し続けた。

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正面から。刻んである文字はほとんど判読出来ない。

高宗自身の戦功は伝わっていないが、宗良親王に従って各地を転戦したと思われる。また親王を奉じた大河原の地は、信濃のみならず東国・北陸道の各地で戦う南朝方の策源地となったとされる。宗良親王は正平10年/文和4年(1355年)に、越後・信濃などの南朝勢力を結集して北朝方の信濃守護家小笠原氏との決戦(桔梗ヶ原の戦い)に及ぶが、敗北を喫する。そして正平24年/応安2年(1369年)には関東管領で信濃守護職の上杉朝房が大河原に攻め寄せるが、高宗は大河原の地を守り抜いている。

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側面から撮影。石碑の背後にも何やら文字が彫られているようだがよくわからない。

文中3年/応安7年(1374年)、失意のうちに宗良親王は吉野に去るが、その後も度々大河原の地を訪れていたとされ、親王終焉の地の有力候補となっている。高宗は応永14年(1407年)に大河原城にて死去したとされ、大正4年(1915年)大正天皇即位大典の日、宗良親王への忠節に対して特旨をもって従四位が贈られた。

※以上、Wikipedia「香坂高宗」のページの引用終了。

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墓所の横には社殿が置かれているので、地元の住民がこの地を信仰の地として守り続けたのであろう。

あとで知ったのだが、ここから林道を奥に約5kmほど進むと古くて立派な宝篋印塔があり、その場所が宗良親王の墓所と伝わっているようだ。宗良親王の墓所は大河ドラマ「おんな城主直虎」の舞台である井伊谷城(いいのやじょう)にもあるが、大河原で没した可能性が高いという。

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最近は訪れる人も少ないのであろうか・・・。福徳寺から矢印看板でも立てればかなり違うと思うが。

牧野島の牧城の香坂心覚は南朝として守護の小笠原氏と激戦を繰り広げたが、敵対していた信濃守護の小笠原長朝が同族の争いに巻き込まれた際には庇護しその危機を救ったという。

大河原城の香坂高宗は、南朝が没落し失意のうちに吉野に去った宗良親王に対して終始変わらぬ忠誠を誓い、南朝の再興への希望を捨てる事は無かったという。

高宗亡き後、しばらくして香坂氏は本拠地を天龍川の東の河岸段丘にある大草城に移したという。戦国時代になり、信玄が伊那に侵入するとしばらくは武田軍に抵抗していたが、馬場信房に攻められ落城。南信濃の香坂氏の足取りはその後ハッキリしない。

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墓所のある高台から見た大河原城方面。遠く南アルプスが望める桃源郷である。

≪香坂高宗の墓所≫ (こうさかたかむねのぼしょ)

標高:870m 比高:30m(大河原城より)
築城年代:不明
被埋葬者:香坂高宗
場所:下伊那郡大鹿村上蔵
攻城日:2017年3月19日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:福徳寺より歩いて10分、軽自動車なら5分 駐車場:無し(墓所手前の空き地を借用)
見どころ:墓所のある高台からの景色
注意事項:民家の軒先で耕作地(私有地)なので注意
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編 宮坂武男著」 「定本 伊那谷の城」
付近の城址:大河原城、松平城、堀田城、大島城など
Special Thanks to ていぴす殿

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スマホアプリ「山ログ」はシンプルで使いやすく山城探訪初心者にもお勧めの無料アプリだ。

Posted on 2017/04/06 Thu. 21:34 [edit]

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大河原城 (下伊那郡大鹿村上蔵)  

◆南北朝の動乱の際、香坂高宗が南朝方の宗良親王を招いた館城◆

鎌倉幕府を倒し建武の新政(1333~)に着手した後醍醐天皇は、倒幕の中心を為した河内源氏である足利尊氏らの武士団の懐柔に失敗し、お膝元であった公家衆の反感まで買ってしまった。
更に中先代の乱(1335)が勃発し、鎮圧に功のあった足利尊氏が政権より離反すると、僅か二年半で政権が崩壊。

光明天皇を擁護する足利尊氏の北朝(京都)と、吉野に遷宮し皇位に執着する後醍醐天皇が南朝として抗争を繰り広げた56年間を南北朝時代と呼ぶ。

上蔵2
長野県に生まれながら、唯一未訪の地であった大鹿村にようやく辿り着くことが出来た・・。

今回よりご案内するのは、後醍醐天皇の第八皇子として南朝方の東国平定の任務を負った宗良親王(むねながしんのう・むねよししんのう)が、南信濃の国衆である大河原城の香坂高宗に招かれ、此処に征東府を置き、三十有余年を過ごしたという大鹿村の城址の数々。

まずは最も有名でありながら、その遺構がいつか消滅するであろうと云われている大河原城。

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【立地】

上蔵(わぞ)の集落の南端で、小渋川の断崖に面した場所に位置するが、僅かばかりの平地と巨大な堀の一部が残っているだけの現状である。
かつては周囲を堀に囲まれた50m四方の方形居館が存在したようだが、現状を見ても往時の館城は想像しにくい。

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城址に立つ説明板。

【香坂氏について】

その出自は北佐久郡の香坂とされ、前後ははっきりしないが、南北朝の頃に大河原に香坂高宗があり、宗良親王を迎え入れ、釜沢の奥の御所平に親王を置き、大河原城により親王の警護に当たり、伊那の各地にもその防衛網を敷いていたという。

※佐久の香坂氏については ⇒閼伽流山城を参照ねがいます。
※牧城の香坂氏については ⇒牧城を参照願います。

高宗の晩年は不明の点が多く、その死については多くの説があるが、墓は上蔵(わぞ)の弾正林にある。高宗の長子高重は松平城主、子孫はしばらく大河原城に拠ったと思われ、天文末に武田氏により攻められ家名が滅ぶ。松平城にいた高宗の子松平二郎は、後に上蔵に土着して郷士となり、江戸時代に松下に改姓して、今の松下氏がその末裔であるという。また、日曽利(ひっそり)の香坂家が高宗の正系との伝承があるが確証はないという。

大河原城見取図①

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東側の沢に落ちる堀跡。上巾22mにも及ぶ堀は圧巻だが、館全体のイメージの想像は現状からでは困難を極める。


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11×14×6の三角形の郭。近年崩落防止工事が施されたが、明治時代からの計測でもかなり崩落が進んでいるという。

今では伊那谷の交通における主要ルートは天竜川沿いであるが、往古は高遠町~分杭峠~大鹿村~南信濃和田~青崩峠の通称「秋葉街道」が主要道であった。

信玄が元亀三年(1553)10月、西上の軍を挙げた際に二万二千の本隊が秋葉街道を進み青崩峠を越えたのは周知の事実である。

【城跡】

小渋川に突き出した高台の断崖を利用した方形居館があったと思われる。規模は50m×80m程度で巨大な箱堀は北側を頂点とするL字で、南半分は崖なので不要であろう。

一時的に香坂氏が宗良親王を自分の居館である大河原城に招き、その後は親王専用の屋敷(御所平)を上蔵に建て、親王と共に各地を転戦したと思われる。

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小渋川の崖に突き出すように残っている郭の一部。辛うじて残っている。

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大河原城から見下ろす小渋川。比高60mの高さである。

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西側の崖に落ちる堀切。

大鹿村には、約七百年前に宗良親王を防衛するために築かれたという南北朝時代の山城が上蔵(」わぞ)を取り囲むように何ヵ所か点在している。そのうちの幾つかは戦国時代に改修を受けたような跡も見られるが、果たしてどうであろあうか。

≪大河原城≫ (おおがわらじょう 城の平)

標高:840m 比高:60m(小渋川より)
築城年代:不明
築城・居住者:香坂氏
場所:下伊那郡大鹿村上蔵
攻城日:2017年3月19日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:福徳寺より歩いて5分 駐車場:無し(福徳寺付近に駐車場あり)
見どころ:堀切、郭、石碑
注意事項:途中耕作地があるので注意。
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編 宮坂武男著」 「定本 伊那谷の城」
付近の城址:香坂高宗の墓所、松平城、堀田城、大島城など
Special Thanks to ていぴす殿

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福徳寺付近から見た大河原城。城跡までの道は分かりづらいので注意。

Posted on 2017/04/04 Tue. 22:00 [edit]

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新野八幡城 (下伊那郡阿南町新野)  

◆関氏四代目の春仲の後見人 関右馬允の居館跡◆

気分転換と思い、5年ぶりとなる模様替えをしていたら、せっかくの平日休みが終了してしまった・・・(汗)

先日買った平山優氏の「武田氏滅亡」も未だ「108/751」で先に進まないのに・・・「春眠暁を覚えず」である・・・(笑)

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戎光祥出版には10万円以上の散財をしているので上得意様であろうか。それにしても「武田氏滅亡」の本の厚さは凄い。

今回ご案内するのは、新興勢力として下伊那に覇を唱え、次々と築城を繰り返して領民の怨嗟を買い滅亡した関氏の三代目春清の弟の居館跡と伝わる新野八幡城(にいのはちまんじょう)である。

戦国時代の初期、奥三河と下伊那の境の新野盆地から下伊那に覇を唱えた関氏五代については下記を参照願えれば幸いです。

日差城
八幡城
矢草城
上田城
権現城

新野八幡城(阿南町) (2)
館跡と伝わる曹洞宗祥雲山瑞光禅院の山門。

【立地】

下伊那郡阿南町(あなんちょう)の新野盆地の西北の寺山の麓。東と西に尾根が延び、その間の南斜面の台地上に瑞光院があり、その前身が居館跡だという。

【城主・城歴】

関氏の三代目当主の清治の弟の関右馬允春光(せきうまのじょうはるみつ)は、下条氏と争って下伊那に覇を唱えた四代目春仲の幼少期の後見人として関氏を支え、新野城の北東の鬼門に館を構えたので八幡殿と称せられたという。
その館跡が瑞光院で八幡城と呼ばれるが、関氏の八幡城は上記の案内の通り他にも存在するので、新野八幡城と仮称する。

関右馬允春光は、永正十七年(1520)三月に、北方にあった瑞光庵を館の傍に移し、享禄元年(1528)長子義玉(越前守と称す)が28歳で早世すると、その菩提を弔うために、三河国二連木全久院二世光国舜玉和尚(武田信虎の弟)を招いて開山として、境内、伽藍を改め、瑞光院とする。この時に寄進されたのが日差城の隣の仏具田という。享禄三年(1530)、右馬允が大村に分知し、居館を瑞光院に寄進し、自分は日差城に住む。天文十三年(1544)、関氏が滅びた後も、下条氏、徳川氏の保護を受けて、信濃南端の一大伽藍を誇っていたが、近年火災で焼失。現在は再建されている。

新野八幡城(阿南町) (4)
瑞光院(居館跡)からみた南西の傾斜地。嘗ては家臣の屋敷が並んでいたという。

新野八幡城(阿南町) (5)
最近再建されたという社殿。

【城跡】

館城時代よりも寺院境内として長年使用され、また近年の罹災による再建で削平がやり直しされているので、旧態ははっきりしない点が多いが、東西80m、南北40めほどの所が主要部分になる。沢水も豊かで、国道までの100mの傾斜地には、家下等の屋敷があったものと思われる。南面した山塊に抱かれているために、要害性も考えている。

日差城跡は、水田化の上、跡形もなくなっているが、この八幡城は寺となっていたために旧態をある程度残すことが出来た。
日差城は南西約1km弱の位置にある。

(以上、「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」P381を引用)

新野八幡城(阿南町) (7)
こんな南信濃の片田舎のお寺にしては、壮大な伽藍の寺院なので驚いた。

新野八幡城(阿南町) (8)
お寺の西側。

関氏三代は、伊勢崎町にある瑞光庵に葬られ、その後の享禄元年(1528)、関右馬允春光がその供養の為に古鐘を鋳造し寄進したという。その鐘がこの瑞光院に伝わる。

新野八幡城(阿南町) (6)
瑞光院に伝わる関右馬允の古鐘。

一説には、日差城の鬼門除けの場所なので、関右馬允春光が館と寺院を築き自らが住んだのだとも伝わる。
確かに日差城(現在の道の駅 信州千石平)からは北東約1kmの位置である。

関氏四代目の当主の春仲は、叔父の春光の後見により経営基盤の安定を得ることが出来、そのおかげで成人したのちも堅実な成長路線を続ける事が出来た。
しかし、嫡子の盛永が五代目当主となるに及び、慢心による無益な戦への兵役と度重なる築城に対する労役負担で領民の我慢は限界となり、そこに付け入った下条氏の奇襲により関一族は権現城で滅亡する。

新野八幡城(阿南町) (10)
瑞光院の参道は嘗ての館の堀跡であろう。

新野八幡城(阿南町) (12)
参道を南から撮影。

20160206092050862[1]
関氏一族の興亡をまとめた解説もご確認ください。(我ながら秀作、自画自賛・・・笑)

≪新野八幡城≫ (にいのはちまんじょう)

標高:812m 比高:22m
築城年代:永正十七年
築城・居住者:関氏
場所:下伊那郡阿南町新野寺山
攻城日:2014年3月23日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:5分 駐車場:瑞光院の駐車場借用
見どころ:古鐘
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編 宮坂武男著」「定本 伊那の城」
付近の城址:八幡城、矢草城、砦山城、権現城など
Special Thanks to ていぴす殿

新野八幡城(阿南町) (13)
参道腋の水路。東側にも同じように水路が巡っているので、館城時代の堀の跡と思われる。

Posted on 2017/03/08 Wed. 22:40 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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