らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0406

香坂高宗の墓所  

◆宗良親王を護り続けた南朝の忠臣◆

今年の3月は全国的に天候不順が続き、信濃では下旬に降雪があり山城の残雪が消えずに難儀している。

我ら信濃先方衆の北上作戦にも影響が出てしまい、予定していた須坂周辺の山城踏査は深い残雪と想定外の険しい岩壁に阻まれて断念する有様・・・(汗)

「そうだ、大鹿村へ行こう!!」

この日の午前中、あても無く下伊那の豊丘村の城址を調査していた我らは午後の予定を大鹿村の城址のスタンプラリーに切替えた。豊丘村から狭くて険しい県道22号線で約18km、時間にして30分。

DSCF4014.jpg
大鹿村の上蔵(わぞ)集落に入ると、長野県最古の木造建築と伝わる福徳寺。(鎌倉時代の作という)

IMG_0560.jpg
前回紹介した大河原城。宗良親王の息遣いが聞こえそうな居館跡である。

今回ご紹介するのは、宗良親王を信濃大河原に迎え入れた香坂高宗の墓所。

地元のゆるい(大雑把とも)案内板では分かりづらくて、あっちゃこっちゃと迷いながら何とか「到達」・・・(笑)

上蔵説明板
福徳寺にある説明板。50mも歩けば墓所がありそうな描き方だが、実際は500mぐらい歩かないと辿り着けない・・(汗)

DSCF4023.jpg
ようやく見つけた香坂高宗の墓所。民家の脇を通り抜けてチョットした耕作地の奥に位置する。

香坂氏は佐久の香坂(閼伽流山城)の出自で滋野氏の傍流と伝わる。承久の乱(1221)で功績があり、幕府より犀川流域の牧野島を拝領し地頭として移ったと伝わる。
※詳細は⇒牧城(信州新町)を参照願います。

南信濃の香坂氏は牧野島の香坂氏の分流という説があるが、唯一文献に登場する牧城の香坂心覚との関連については裏付けが無い。ともに北条残党で南朝方として戦っているので繋がりはあったものと推定される。

南北朝時代については門外漢なので、香坂高宗の生涯については、以下Wikipediaから引用してみた。

高宗は、興国4年/康永2年(1343年)の冬(1344年とする資料もある)に居城の大河原城に後醍醐帝の皇子宗良親王を迎え、更に奥地の内ノ倉(現在の御所平)に仮御所を設け、諏訪神党に連なる知久氏や桃井氏など周辺の南朝方諸族らと共に宗良親王を庇護し続けた。

DSCF4024.jpg
正面から。刻んである文字はほとんど判読出来ない。

高宗自身の戦功は伝わっていないが、宗良親王に従って各地を転戦したと思われる。また親王を奉じた大河原の地は、信濃のみならず東国・北陸道の各地で戦う南朝方の策源地となったとされる。宗良親王は正平10年/文和4年(1355年)に、越後・信濃などの南朝勢力を結集して北朝方の信濃守護家小笠原氏との決戦(桔梗ヶ原の戦い)に及ぶが、敗北を喫する。そして正平24年/応安2年(1369年)には関東管領で信濃守護職の上杉朝房が大河原に攻め寄せるが、高宗は大河原の地を守り抜いている。

DSCF4025.jpg
側面から撮影。石碑の背後にも何やら文字が彫られているようだがよくわからない。

文中3年/応安7年(1374年)、失意のうちに宗良親王は吉野に去るが、その後も度々大河原の地を訪れていたとされ、親王終焉の地の有力候補となっている。高宗は応永14年(1407年)に大河原城にて死去したとされ、大正4年(1915年)大正天皇即位大典の日、宗良親王への忠節に対して特旨をもって従四位が贈られた。

※以上、Wikipedia「香坂高宗」のページの引用終了。

IMG_0564.jpg
墓所の横には社殿が置かれているので、地元の住民がこの地を信仰の地として守り続けたのであろう。

あとで知ったのだが、ここから林道を奥に約5kmほど進むと古くて立派な宝篋印塔があり、その場所が宗良親王の墓所と伝わっているようだ。宗良親王の墓所は大河ドラマ「おんな城主直虎」の舞台である井伊谷城(いいのやじょう)にもあるが、大河原で没した可能性が高いという。

IMG_0566.jpg
最近は訪れる人も少ないのであろうか・・・。福徳寺から矢印看板でも立てればかなり違うと思うが。

牧野島の牧城の香坂心覚は南朝として守護の小笠原氏と激戦を繰り広げたが、敵対していた信濃守護の小笠原長朝が同族の争いに巻き込まれた際には庇護しその危機を救ったという。

大河原城の香坂高宗は、南朝が没落し失意のうちに吉野に去った宗良親王に対して終始変わらぬ忠誠を誓い、南朝の再興への希望を捨てる事は無かったという。

高宗亡き後、しばらくして香坂氏は本拠地を天龍川の東の河岸段丘にある大草城に移したという。戦国時代になり、信玄が伊那に侵入するとしばらくは武田軍に抵抗していたが、馬場信房に攻められ落城。南信濃の香坂氏の足取りはその後ハッキリしない。

IMG_0568.jpg
墓所のある高台から見た大河原城方面。遠く南アルプスが望める桃源郷である。

≪香坂高宗の墓所≫ (こうさかたかむねのぼしょ)

標高:870m 比高:30m(大河原城より)
築城年代:不明
被埋葬者:香坂高宗
場所:下伊那郡大鹿村上蔵
攻城日:2017年3月19日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:福徳寺より歩いて10分、軽自動車なら5分 駐車場:無し(墓所手前の空き地を借用)
見どころ:墓所のある高台からの景色
注意事項:民家の軒先で耕作地(私有地)なので注意
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編 宮坂武男著」 「定本 伊那谷の城」
付近の城址:大河原城、松平城、堀田城、大島城など
Special Thanks to ていぴす殿

IMG_0567.png
スマホアプリ「山ログ」はシンプルで使いやすく山城探訪初心者にもお勧めの無料アプリだ。

Posted on 2017/04/06 Thu. 21:34 [edit]

CM: 2
TB: 0

0404

大河原城 (下伊那郡大鹿村上蔵)  

◆南北朝の動乱の際、香坂高宗が南朝方の宗良親王を招いた館城◆

鎌倉幕府を倒し建武の新政(1333~)に着手した後醍醐天皇は、倒幕の中心を為した河内源氏である足利尊氏らの武士団の懐柔に失敗し、お膝元であった公家衆の反感まで買ってしまった。
更に中先代の乱(1335)が勃発し、鎮圧に功のあった足利尊氏が政権より離反すると、僅か二年半で政権が崩壊。

光明天皇を擁護する足利尊氏の北朝(京都)と、吉野に遷宮し皇位に執着する後醍醐天皇が南朝として抗争を繰り広げた56年間を南北朝時代と呼ぶ。

上蔵2
長野県に生まれながら、唯一未訪の地であった大鹿村にようやく辿り着くことが出来た・・。

今回よりご案内するのは、後醍醐天皇の第八皇子として南朝方の東国平定の任務を負った宗良親王(むねながしんのう・むねよししんのう)が、南信濃の国衆である大河原城の香坂高宗に招かれ、此処に征東府を置き、三十有余年を過ごしたという大鹿村の城址の数々。

まずは最も有名でありながら、その遺構がいつか消滅するであろうと云われている大河原城。

IMG_0554.jpg

【立地】

上蔵(わぞ)の集落の南端で、小渋川の断崖に面した場所に位置するが、僅かばかりの平地と巨大な堀の一部が残っているだけの現状である。
かつては周囲を堀に囲まれた50m四方の方形居館が存在したようだが、現状を見ても往時の館城は想像しにくい。

IMG_0555.jpg
城址に立つ説明板。

【香坂氏について】

その出自は北佐久郡の香坂とされ、前後ははっきりしないが、南北朝の頃に大河原に香坂高宗があり、宗良親王を迎え入れ、釜沢の奥の御所平に親王を置き、大河原城により親王の警護に当たり、伊那の各地にもその防衛網を敷いていたという。

※佐久の香坂氏については ⇒閼伽流山城を参照ねがいます。
※牧城の香坂氏については ⇒牧城を参照願います。

高宗の晩年は不明の点が多く、その死については多くの説があるが、墓は上蔵(わぞ)の弾正林にある。高宗の長子高重は松平城主、子孫はしばらく大河原城に拠ったと思われ、天文末に武田氏により攻められ家名が滅ぶ。松平城にいた高宗の子松平二郎は、後に上蔵に土着して郷士となり、江戸時代に松下に改姓して、今の松下氏がその末裔であるという。また、日曽利(ひっそり)の香坂家が高宗の正系との伝承があるが確証はないという。

大河原城見取図①

DSCF4016.jpg
東側の沢に落ちる堀跡。上巾22mにも及ぶ堀は圧巻だが、館全体のイメージの想像は現状からでは困難を極める。


DSCF4018.jpg
11×14×6の三角形の郭。近年崩落防止工事が施されたが、明治時代からの計測でもかなり崩落が進んでいるという。

今では伊那谷の交通における主要ルートは天竜川沿いであるが、往古は高遠町~分杭峠~大鹿村~南信濃和田~青崩峠の通称「秋葉街道」が主要道であった。

信玄が元亀三年(1553)10月、西上の軍を挙げた際に二万二千の本隊が秋葉街道を進み青崩峠を越えたのは周知の事実である。

【城跡】

小渋川に突き出した高台の断崖を利用した方形居館があったと思われる。規模は50m×80m程度で巨大な箱堀は北側を頂点とするL字で、南半分は崖なので不要であろう。

一時的に香坂氏が宗良親王を自分の居館である大河原城に招き、その後は親王専用の屋敷(御所平)を上蔵に建て、親王と共に各地を転戦したと思われる。

DSCF4019.jpg
小渋川の崖に突き出すように残っている郭の一部。辛うじて残っている。

DSCF4022.jpg
大河原城から見下ろす小渋川。比高60mの高さである。

IMG_0556.jpg
西側の崖に落ちる堀切。

大鹿村には、約七百年前に宗良親王を防衛するために築かれたという南北朝時代の山城が上蔵(」わぞ)を取り囲むように何ヵ所か点在している。そのうちの幾つかは戦国時代に改修を受けたような跡も見られるが、果たしてどうであろあうか。

≪大河原城≫ (おおがわらじょう 城の平)

標高:840m 比高:60m(小渋川より)
築城年代:不明
築城・居住者:香坂氏
場所:下伊那郡大鹿村上蔵
攻城日:2017年3月19日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:福徳寺より歩いて5分 駐車場:無し(福徳寺付近に駐車場あり)
見どころ:堀切、郭、石碑
注意事項:途中耕作地があるので注意。
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編 宮坂武男著」 「定本 伊那谷の城」
付近の城址:香坂高宗の墓所、松平城、堀田城、大島城など
Special Thanks to ていぴす殿

DSCF4013.jpg
福徳寺付近から見た大河原城。城跡までの道は分かりづらいので注意。

Posted on 2017/04/04 Tue. 22:00 [edit]

CM: 4
TB: 0

0308

新野八幡城 (下伊那郡阿南町新野)  

◆関氏四代目の春仲の後見人 関右馬允の居館跡◆

気分転換と思い、5年ぶりとなる模様替えをしていたら、せっかくの平日休みが終了してしまった・・・(汗)

先日買った平山優氏の「武田氏滅亡」も未だ「108/751」で先に進まないのに・・・「春眠暁を覚えず」である・・・(笑)

IMG_0359.jpg
戎光祥出版には10万円以上の散財をしているので上得意様であろうか。それにしても「武田氏滅亡」の本の厚さは凄い。

今回ご案内するのは、新興勢力として下伊那に覇を唱え、次々と築城を繰り返して領民の怨嗟を買い滅亡した関氏の三代目春清の弟の居館跡と伝わる新野八幡城(にいのはちまんじょう)である。

戦国時代の初期、奥三河と下伊那の境の新野盆地から下伊那に覇を唱えた関氏五代については下記を参照願えれば幸いです。

日差城
八幡城
矢草城
上田城
権現城

新野八幡城(阿南町) (2)
館跡と伝わる曹洞宗祥雲山瑞光禅院の山門。

【立地】

下伊那郡阿南町(あなんちょう)の新野盆地の西北の寺山の麓。東と西に尾根が延び、その間の南斜面の台地上に瑞光院があり、その前身が居館跡だという。

【城主・城歴】

関氏の三代目当主の清治の弟の関右馬允春光(せきうまのじょうはるみつ)は、下条氏と争って下伊那に覇を唱えた四代目春仲の幼少期の後見人として関氏を支え、新野城の北東の鬼門に館を構えたので八幡殿と称せられたという。
その館跡が瑞光院で八幡城と呼ばれるが、関氏の八幡城は上記の案内の通り他にも存在するので、新野八幡城と仮称する。

関右馬允春光は、永正十七年(1520)三月に、北方にあった瑞光庵を館の傍に移し、享禄元年(1528)長子義玉(越前守と称す)が28歳で早世すると、その菩提を弔うために、三河国二連木全久院二世光国舜玉和尚(武田信虎の弟)を招いて開山として、境内、伽藍を改め、瑞光院とする。この時に寄進されたのが日差城の隣の仏具田という。享禄三年(1530)、右馬允が大村に分知し、居館を瑞光院に寄進し、自分は日差城に住む。天文十三年(1544)、関氏が滅びた後も、下条氏、徳川氏の保護を受けて、信濃南端の一大伽藍を誇っていたが、近年火災で焼失。現在は再建されている。

新野八幡城(阿南町) (4)
瑞光院(居館跡)からみた南西の傾斜地。嘗ては家臣の屋敷が並んでいたという。

新野八幡城(阿南町) (5)
最近再建されたという社殿。

【城跡】

館城時代よりも寺院境内として長年使用され、また近年の罹災による再建で削平がやり直しされているので、旧態ははっきりしない点が多いが、東西80m、南北40めほどの所が主要部分になる。沢水も豊かで、国道までの100mの傾斜地には、家下等の屋敷があったものと思われる。南面した山塊に抱かれているために、要害性も考えている。

日差城跡は、水田化の上、跡形もなくなっているが、この八幡城は寺となっていたために旧態をある程度残すことが出来た。
日差城は南西約1km弱の位置にある。

(以上、「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」P381を引用)

新野八幡城(阿南町) (7)
こんな南信濃の片田舎のお寺にしては、壮大な伽藍の寺院なので驚いた。

新野八幡城(阿南町) (8)
お寺の西側。

関氏三代は、伊勢崎町にある瑞光庵に葬られ、その後の享禄元年(1528)、関右馬允春光がその供養の為に古鐘を鋳造し寄進したという。その鐘がこの瑞光院に伝わる。

新野八幡城(阿南町) (6)
瑞光院に伝わる関右馬允の古鐘。

一説には、日差城の鬼門除けの場所なので、関右馬允春光が館と寺院を築き自らが住んだのだとも伝わる。
確かに日差城(現在の道の駅 信州千石平)からは北東約1kmの位置である。

関氏四代目の当主の春仲は、叔父の春光の後見により経営基盤の安定を得ることが出来、そのおかげで成人したのちも堅実な成長路線を続ける事が出来た。
しかし、嫡子の盛永が五代目当主となるに及び、慢心による無益な戦への兵役と度重なる築城に対する労役負担で領民の我慢は限界となり、そこに付け入った下条氏の奇襲により関一族は権現城で滅亡する。

新野八幡城(阿南町) (10)
瑞光院の参道は嘗ての館の堀跡であろう。

新野八幡城(阿南町) (12)
参道を南から撮影。

20160206092050862[1]
関氏一族の興亡をまとめた解説もご確認ください。(我ながら秀作、自画自賛・・・笑)

≪新野八幡城≫ (にいのはちまんじょう)

標高:812m 比高:22m
築城年代:永正十七年
築城・居住者:関氏
場所:下伊那郡阿南町新野寺山
攻城日:2014年3月23日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:5分 駐車場:瑞光院の駐車場借用
見どころ:古鐘
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編 宮坂武男著」「定本 伊那の城」
付近の城址:八幡城、矢草城、砦山城、権現城など
Special Thanks to ていぴす殿

新野八幡城(阿南町) (13)
参道腋の水路。東側にも同じように水路が巡っているので、館城時代の堀の跡と思われる。

Posted on 2017/03/08 Wed. 22:40 [edit]

CM: 5
TB: 0

0212

和田城 (飯田市南信濃和田)  

◆戦国時代を生き抜きながら、跡目争いであっけなく滅んだ江儀遠山氏の最後の居城◆

十原館をそそくさと撤収した我らは、遠山氏の最初の居城である長山城に攻め入るかどうかを協議するが、つるべ落としとなる晩秋の夕暮れの16:30は危険と判断して「後ろ髪惹かれる思い」で断念。
ならば遠山氏の最後の居城の和田城だけは「足跡だけでも・・」と寄った次第・・(笑)

IMG_4119.jpg
遠山郷土館。既に閉館していたのは言うまでもない。

【立地】

遠山川の左岸で盛平山(森山)の西麓の河岸段丘上に立地している。西側は和田宿に向かって20mの急崖になり、南側は小池川の扇状地に崖となっていて、背後は盛平山の急斜面を背負った形で比高こそ少ないが、要害の地形である。江戸時代初期まで和田城の西側は遠山川の深淵であったが、盛平山の崩落により川床が大きく変わり現在のような地形に変化したという。

IMG_4120.jpg
南信濃和田は、長野県で最も日の入り時間が早いと云われているので、資料館の閉館時間も早いらしい・・(汗)


【城主・城歴】

遠山氏の土着についてははっきりせず、鎌倉時代末期の古文書に、信州遠山に地頭がいたことが明記されており、室町時代の応永7年(1400)に信州で勃発した大塔合戦にも「遠山出羽守」なる人物が参戦していることが明らかになっている。
遠山郷の神社の多くは「鎌倉正八幡社」と号しており、多くの系図や伝承でも、遠山氏の先祖は鎌倉からやってきたと伝えているので、遠山氏は早ければ鎌倉時代、遅くとも室町時代にはこの地に住み、周辺の地方豪族たちと対等に渡り合っていたと想定されている。そして戦国時代に入り、遠山氏は歴史の表舞台に登場したのである。

遠山氏の出自と経歴については他の城館を調査した上でいずれ掲載したいと思うが、今回は郷土館にある二代「遠山景直」についてのみ触れておこう。

IMG_4122.jpg
郷土館の敷地内にある「徳川家康に謁見する遠山土佐守景直」の銅像

≪遠山土佐守景直≫

武田氏の衰退後、下伊那地方は織田氏、ついで徳川氏の支配下に入る。 天正13年(1585)、上田城の真田昌幸が家康に抵抗した際、遠山家二代当主土佐守景直は下伊那の諸侯とともに家康側として出陣。その時の功が認められ、景直は慶長初年(1596頃)に岡崎城内で家康に謁見を許され、領地の安堵を得る。

この時の逸話として下記が伝わるという。

土佐守景直が家康に謁見した際、家康から食事を賜った。そのとき土佐守は左手で茶碗を隠しながら食事をし、食べ終わってから茶碗の上に箸を渡して置いた。(いわゆる「渡し箸」)。
家康がその作法を不審に思って訳を尋ねると、土佐守は 「遠山は貧しい山国で米がとれないために、身分の上下を問わず麦や粟を常食としている。 よって尊い方の前で食事をするときは、恥じて隠しながら食べるのが習慣になっている」 と答えた。
家康はこれを聞いて気の毒がり、上穂(現駒ヶ根市)1000石を加増し、箸を茶碗の上に置いた形を家紋とするように沙汰したという。

IMG_4123.jpg
和田城から見た遠山郷の集落。

迫りくる日没には勝てず、本郭だった龍渕寺も調査出来ないまま僅か数枚の写真を撮り、後ろ髪惹かれる思いで我々は和田城を離脱した。
遠山氏関連だけで10か所ある城館は泊りがけで踏査する価値があるので、次の宿題にしておく。


≪和田城≫ (わだじょう)

標高:427m 比高:20m
築城年代:不明
築城・居住者:遠山氏
場所:飯田市南信濃村和田
攻城日:2015年11月22日 
お勧め度:★☆☆☆☆ (再調査予定)
城跡までの所要時間:3分 駐車場:あり
見どころ:切岸、郷土館見学
注意事項:特になし
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版) 遠山郷観光協会
付近の城址:長山城、大町城、八重河内城など
Special Thanks to ていぴす殿、u-naomochi殿










Posted on 2016/02/12 Fri. 21:51 [edit]

CM: 4
TB: 0

0209

十原館 (飯田市南信濃和田十原)  

◆地図を読み違えて辿り着いた長山城の対岸の居館◆

真田丸第五話「窮地」、ご覧になりましたか?

内野聖陽家康とゆかいな仲間たち(特に浜谷半蔵はツボ)の「笑っちゃいけない伊賀越え」は大爆笑でした・・(笑)

家康の伊賀越えは家来200名が落命した壮絶なサバイバル戦だったのは事実で、服部半蔵も実はヤバかったらしい。

そうそう、信州上田のロケ地を掲載しておきますネ。以下の写真で思い出せる方は「真田丸検定第三級」かしら・・・(笑)

IMG_4718.jpg
場所は真田氏本城(上田市真田町本原 2/6撮影)

IMG_4723.jpg
ヒントはこの白樺の丸太椅子。

さて、真田丸は次回のお楽しみとして、今回ご案内するのは南信濃シリーズの「十原館」(とっぱらやかた)。

下伊那城館ツアーの初日の11月22日、我々は下伊那郡阿南町の権現城を15:30に離脱し、次の目的地である旧南信濃和田村(現在は飯田市)に向かった。距離は約33kmで移動時間は約50分。和田では当初三ヶ所の探訪を予定していたが、秋の日没は早いので遠山氏が和田城に移る前の本拠地だった長山城を目指した。

十原城 (2)
和見の旧小学校跡地から見た長山城。尾根伝いに容易に登城出来ると信じたおバカ三人組であった。

「なんだ、楽勝じゃん!」

とはいえ、山間地なので道幅も狭い為、乗用車を和見集落の旧小学校跡に捨て徒歩で城跡に向かった。遠山川が大きく蛇行する車道を歩き長山城を目指した。

歩く事15分で「十原」(とっぱら)という集落に辿り着いたが長山城のかけらも見いだせずにいた。

十原城 (3)
「十原城跡ののろし台」と書かれた立て看板。さて、長山城の別名なのか?

散歩していた近所の方に城跡の場所を尋ねると、「あの鳥居の見える神社だよ」と教えてもらい、一安心。だが、持参した縄張図とは明らかに違うし、長山城に神社など無い。

「とりあえず行ってみましょうか・・・・」

IMG_4113.jpg
そう、ここは十原城跡であって我々の目指した長山城ではないことが判明した。

「おのれ遠山土佐守、我らを謀ったかー!!」

いえ、違います。道を間違えてわざわざ長山城の対岸の居館跡に偶然に辿り着けただけです・・・・・・(汗)

説明板を読み我々は全てを察したのであった・・・・(笑)

IMG_4115.jpg
城神社の社殿のあたりが一段高くなっている。


十原城 (7)
社殿のある場所はかつて物見小屋か櫓台があり、歩哨が置かれたのであろう。


【立地】

遠山川を挟んで対岸に長山城があり、遠山川が大きく蛇行するところへ突出した台地上に十原館がある。十原集落が緩斜面に展開し、館のある所は岬状に張り出した付け根にあり、北西に続く尾根先の両側は絶壁に近い急斜面で、ここに遠山川畦の畑に下る道がある。まさに人を寄せ付けない要害の地形に立地している。

十原館見取図①

【館主・館歴】

遠山土佐守景直の弟の景忠の拠ったところという。遠山川左岸の大町城・大町・和見・十原・尾之島・和田城と続く道の抑えとしても大事な位置といえる。対岸の長山城とともに、遠山谷西口の防衛拠点で、地元の人は城山と呼んでいる。

十原城 (12)
神社の社から落差のある尾根は深く抉られた土橋が続く。

【城跡】

何の前知識もなく訪問したので、神社のある辺りを中心とした単郭の砦程度の認識しか持てなかった。後で確認すると、村道「尾之島大町線」から入った50mあたりに堀形があり城域の境界線になっていたらしい。そこから神社の鳥居のある辺りまでの直線距離約60mの休耕地が居館跡だという。説明版によれば裏山に武田氏時代の狼煙台があるというが今回確認は出来なかった。
和田城に移る前の遠山氏の本拠地の防衛では重要視されたのであろう。

十原城 (14)
遠山川に突き出る先端には堡塁を連続させている。(ピンボケご容赦)

十原城 (15)
台地の最先端。ここから先は斜面が急落し遠山川の河原に続く。

十原城 (21)
残念ながら、居館跡の痕跡の写真はこの一枚しか撮られていなかった・・(汗)

その後、我々は長山城に向かうのだが、日没が迫り万事休す。「秋の日は、つるべ落とし」・・・この事であった。

遠山氏の物語はいずれまたの機会でお話しさせていただきたいと思う。



≪十原館≫ (とっぱらやかた、城山)

標高:442m 比高:85m
築城年代:不明
築城・居住者:遠山氏
場所:飯田市南信濃村十原
攻城日:2015年11月22日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:15分(軽自動車なら十原集落まで入れる) 駐車場:特になし、適当に路駐 
見どころ:土橋など
注意事項:特になし
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編 宮坂武男著」
付近の城址:長山城、和田城、大町城、八重河内城など
Special Thanks to ていぴす殿、u-naomochi殿






Posted on 2016/02/09 Tue. 21:52 [edit]

CM: 2
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top