らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0212

和田城 (飯田市南信濃和田)  

◆戦国時代を生き抜きながら、跡目争いであっけなく滅んだ江儀遠山氏の最後の居城◆

十原館をそそくさと撤収した我らは、遠山氏の最初の居城である長山城に攻め入るかどうかを協議するが、つるべ落としとなる晩秋の夕暮れの16:30は危険と判断して「後ろ髪惹かれる思い」で断念。
ならば遠山氏の最後の居城の和田城だけは「足跡だけでも・・」と寄った次第・・(笑)

IMG_4119.jpg
遠山郷土館。既に閉館していたのは言うまでもない。

【立地】

遠山川の左岸で盛平山(森山)の西麓の河岸段丘上に立地している。西側は和田宿に向かって20mの急崖になり、南側は小池川の扇状地に崖となっていて、背後は盛平山の急斜面を背負った形で比高こそ少ないが、要害の地形である。江戸時代初期まで和田城の西側は遠山川の深淵であったが、盛平山の崩落により川床が大きく変わり現在のような地形に変化したという。

IMG_4120.jpg
南信濃和田は、長野県で最も日の入り時間が早いと云われているので、資料館の閉館時間も早いらしい・・(汗)


【城主・城歴】

遠山氏の土着についてははっきりせず、鎌倉時代末期の古文書に、信州遠山に地頭がいたことが明記されており、室町時代の応永7年(1400)に信州で勃発した大塔合戦にも「遠山出羽守」なる人物が参戦していることが明らかになっている。
遠山郷の神社の多くは「鎌倉正八幡社」と号しており、多くの系図や伝承でも、遠山氏の先祖は鎌倉からやってきたと伝えているので、遠山氏は早ければ鎌倉時代、遅くとも室町時代にはこの地に住み、周辺の地方豪族たちと対等に渡り合っていたと想定されている。そして戦国時代に入り、遠山氏は歴史の表舞台に登場したのである。

遠山氏の出自と経歴については他の城館を調査した上でいずれ掲載したいと思うが、今回は郷土館にある二代「遠山景直」についてのみ触れておこう。

IMG_4122.jpg
郷土館の敷地内にある「徳川家康に謁見する遠山土佐守景直」の銅像

≪遠山土佐守景直≫

武田氏の衰退後、下伊那地方は織田氏、ついで徳川氏の支配下に入る。 天正13年(1585)、上田城の真田昌幸が家康に抵抗した際、遠山家二代当主土佐守景直は下伊那の諸侯とともに家康側として出陣。その時の功が認められ、景直は慶長初年(1596頃)に岡崎城内で家康に謁見を許され、領地の安堵を得る。

この時の逸話として下記が伝わるという。

土佐守景直が家康に謁見した際、家康から食事を賜った。そのとき土佐守は左手で茶碗を隠しながら食事をし、食べ終わってから茶碗の上に箸を渡して置いた。(いわゆる「渡し箸」)。
家康がその作法を不審に思って訳を尋ねると、土佐守は 「遠山は貧しい山国で米がとれないために、身分の上下を問わず麦や粟を常食としている。 よって尊い方の前で食事をするときは、恥じて隠しながら食べるのが習慣になっている」 と答えた。
家康はこれを聞いて気の毒がり、上穂(現駒ヶ根市)1000石を加増し、箸を茶碗の上に置いた形を家紋とするように沙汰したという。

IMG_4123.jpg
和田城から見た遠山郷の集落。

迫りくる日没には勝てず、本郭だった龍渕寺も調査出来ないまま僅か数枚の写真を撮り、後ろ髪惹かれる思いで我々は和田城を離脱した。
遠山氏関連だけで10か所ある城館は泊りがけで踏査する価値があるので、次の宿題にしておく。


≪和田城≫ (わだじょう)

標高:427m 比高:20m
築城年代:不明
築城・居住者:遠山氏
場所:飯田市南信濃村和田
攻城日:2015年11月22日 
お勧め度:★☆☆☆☆ (再調査予定)
城跡までの所要時間:3分 駐車場:あり
見どころ:切岸、郷土館見学
注意事項:特になし
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版) 遠山郷観光協会
付近の城址:長山城、大町城、八重河内城など
Special Thanks to ていぴす殿、u-naomochi殿










Posted on 2016/02/12 Fri. 21:51 [edit]

CM: 4
TB: 0

0209

十原館 (飯田市南信濃和田十原)  

◆地図を読み違えて辿り着いた長山城の対岸の居館◆

真田丸第五話「窮地」、ご覧になりましたか?

内野聖陽家康とゆかいな仲間たち(特に浜谷半蔵はツボ)の「笑っちゃいけない伊賀越え」は大爆笑でした・・(笑)

家康の伊賀越えは家来200名が落命した壮絶なサバイバル戦だったのは事実で、服部半蔵も実はヤバかったらしい。

そうそう、信州上田のロケ地を掲載しておきますネ。以下の写真で思い出せる方は「真田丸検定第三級」かしら・・・(笑)

IMG_4718.jpg
場所は真田氏本城(上田市真田町本原 2/6撮影)

IMG_4723.jpg
ヒントはこの白樺の丸太椅子。

さて、真田丸は次回のお楽しみとして、今回ご案内するのは南信濃シリーズの「十原館」(とっぱらやかた)。

下伊那城館ツアーの初日の11月22日、我々は下伊那郡阿南町の権現城を15:30に離脱し、次の目的地である旧南信濃和田村(現在は飯田市)に向かった。距離は約33kmで移動時間は約50分。和田では当初三ヶ所の探訪を予定していたが、秋の日没は早いので遠山氏が和田城に移る前の本拠地だった長山城を目指した。

十原城 (2)
和見の旧小学校跡地から見た長山城。尾根伝いに容易に登城出来ると信じたおバカ三人組であった。

「なんだ、楽勝じゃん!」

とはいえ、山間地なので道幅も狭い為、乗用車を和見集落の旧小学校跡に捨て徒歩で城跡に向かった。遠山川が大きく蛇行する車道を歩き長山城を目指した。

歩く事15分で「十原」(とっぱら)という集落に辿り着いたが長山城のかけらも見いだせずにいた。

十原城 (3)
「十原城跡ののろし台」と書かれた立て看板。さて、長山城の別名なのか?

散歩していた近所の方に城跡の場所を尋ねると、「あの鳥居の見える神社だよ」と教えてもらい、一安心。だが、持参した縄張図とは明らかに違うし、長山城に神社など無い。

「とりあえず行ってみましょうか・・・・」

IMG_4113.jpg
そう、ここは十原城跡であって我々の目指した長山城ではないことが判明した。

「おのれ遠山土佐守、我らを謀ったかー!!」

いえ、違います。道を間違えてわざわざ長山城の対岸の居館跡に偶然に辿り着けただけです・・・・・・(汗)

説明板を読み我々は全てを察したのであった・・・・(笑)

IMG_4115.jpg
城神社の社殿のあたりが一段高くなっている。


十原城 (7)
社殿のある場所はかつて物見小屋か櫓台があり、歩哨が置かれたのであろう。


【立地】

遠山川を挟んで対岸に長山城があり、遠山川が大きく蛇行するところへ突出した台地上に十原館がある。十原集落が緩斜面に展開し、館のある所は岬状に張り出した付け根にあり、北西に続く尾根先の両側は絶壁に近い急斜面で、ここに遠山川畦の畑に下る道がある。まさに人を寄せ付けない要害の地形に立地している。

十原館見取図①

【館主・館歴】

遠山土佐守景直の弟の景忠の拠ったところという。遠山川左岸の大町城・大町・和見・十原・尾之島・和田城と続く道の抑えとしても大事な位置といえる。対岸の長山城とともに、遠山谷西口の防衛拠点で、地元の人は城山と呼んでいる。

十原城 (12)
神社の社から落差のある尾根は深く抉られた土橋が続く。

【城跡】

何の前知識もなく訪問したので、神社のある辺りを中心とした単郭の砦程度の認識しか持てなかった。後で確認すると、村道「尾之島大町線」から入った50mあたりに堀形があり城域の境界線になっていたらしい。そこから神社の鳥居のある辺りまでの直線距離約60mの休耕地が居館跡だという。説明版によれば裏山に武田氏時代の狼煙台があるというが今回確認は出来なかった。
和田城に移る前の遠山氏の本拠地の防衛では重要視されたのであろう。

十原城 (14)
遠山川に突き出る先端には堡塁を連続させている。(ピンボケご容赦)

十原城 (15)
台地の最先端。ここから先は斜面が急落し遠山川の河原に続く。

十原城 (21)
残念ながら、居館跡の痕跡の写真はこの一枚しか撮られていなかった・・(汗)

その後、我々は長山城に向かうのだが、日没が迫り万事休す。「秋の日は、つるべ落とし」・・・この事であった。

遠山氏の物語はいずれまたの機会でお話しさせていただきたいと思う。



≪十原館≫ (とっぱらやかた、城山)

標高:442m 比高:85m
築城年代:不明
築城・居住者:遠山氏
場所:飯田市南信濃村十原
攻城日:2015年11月22日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:15分(軽自動車なら十原集落まで入れる) 駐車場:特になし、適当に路駐 
見どころ:土橋など
注意事項:特になし
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編 宮坂武男著」
付近の城址:長山城、和田城、大町城、八重河内城など
Special Thanks to ていぴす殿、u-naomochi殿






Posted on 2016/02/09 Tue. 21:52 [edit]

CM: 2
TB: 0

0206

権現城 (下伊那郡阿南町大下条南條)  

◆南信濃で下条氏と抗争を繰り広げた関氏最後の拠点◆

2014年3月23日、我ら信濃先方衆は同胞のていぴす殿とともに南信濃の国人「下条VS関」抗争劇の舞台となった城巡りを敢行。
がしかし、関氏の最後の居城だった権現城は通常ルートが土砂崩れで通行止めとなり、迂回ルートの林道に迷い込みタイムアウトで訪問叶わず後ろ髪惹かれる思いで撤収した・・・・。

そして1年半後の2015年11月、我々の願いがようやく叶い、リベンジとなった。

「下伊那は 遠くにありて 想うもの」 このことであった・・・・・(笑)

権現城 (2)
城の入口の合戸橋から和知野川を撮影。城跡は和知野集落の対岸に位置し橋を渡り右へ登り徒歩約20分。

権現城 (1)
橋の手前の道路脇には説明版がある。関氏に関しての事前知識が無いと「??」となり、通りすがりの探訪者には優しくない(笑)

【立地】

権現城は和知野川右岸に、天龍村神原郷戸の余脈が和知野川に突出する標高520mの険しい山の峰に築かれている。もともとこの地は猪毛(いもう)と呼ばれ、天龍村福島領分であったが、当時の関氏が威力で強引に築城した。左方の崖下を南沢(犬坊沢)が、右方は城沢が流れ、共に和知野川に注いでいる。
和知野川の河岸より急峻を焼くkm登ると緩い傾斜地があり、ここに屋号を「城」という人家(10年前に火災で焼失)と畑がある。関氏以前より居住していた坂部熊谷家の別家で、落城後再びもとの地に住むこととなったのである。

権現城 (15)
火事で焼失したが、最近になって再建を始めたという熊谷家。城の大手で居住区だったと思われる。(郭6)

権現城 (16)
城平より見た対岸の和知野集落。和知野川をどうやって渡河していたのか問題となる。

【城主・城歴】

伊勢平氏を祖とする関氏は室町時代のはじめに信濃の南部伊那郡に来往し、新野(現在の阿南町新野)を拠点として勢力を蓄積し信濃守護であった小笠原氏の支配下にあってこれに従属した。時には小笠原氏の指揮に従い、各地を転戦ししばしが軍功を挙げて伊那郡南部にあっては下条氏とともに相当強大な勢力を擁するに至った。

IMG_4109.jpg
関三社八幡宮への参道を比高30m登ると鳥居があり、ここから城の主要部(郭3)となる。

新野の日差城にあった関氏は、春光の子春仲にいたり、勢いようやく強大となってきた永正の頃より、次第に外部に向かって勢力の伸長を図り、はては和知野川を越えてその以北の大下条の地域に進出しようとするに至った。
(この時に急遽築かれた砦が八幡城だとも)

権現城見取図① 001

所領を接している下条氏はこれに対し、前々より警戒を怠らなかったが、関氏の圧力は次第に強く、このままの状態で放っておくと下条氏の存亡にも影響するものがあるとして、下条氏はついに大永五年(1525)兵を構えて関氏の進出を阻止する為に、関氏の兵と大下条早稲田に戦った。

権現城 (26)
南側から撮影。2と3の段差は曖昧だ。

しかし、合戦は関氏の勝利でとなり下条家氏は敗退。逆に関氏の大下条侵略を許す結果を招いてしまった。一説によれば下条氏は松尾小笠原家と対立状態にあり、充分な兵を投入出来なかった事が原因とも云われている。
関春仲はこの勝利に乗じて勢力拡大を画策し、大下条の地籍に矢草城を新たに築城し新野より拠点を移し、下条氏と対峙して版図拡大の機会を狙った。そして10年後、更に上田城を新たに築城し備えを盤石とした。

下条VS関の経緯

このころ、関春仲は家督を子の盛永に譲った。その盛永は上田城の築城の二年後の天文七年(1538)、更に地形の要害である和知野に新たに城塞を築いてこれに移った。これが権現城(和知野城)である。

権現城 (28)
郭2と主郭(社殿のある場所)との段差。

以後、権現城は関盛永の居城で関氏の最後の拠点となった要害である。その築城にあたっては領下の住民を使役し、城主の盛永が驕慢(きょうまん)に走り民心を失った。盛永は主な老臣、同族の忠告も入れず、家臣たちの不信を高めた。加えて北方の下条氏に対して幾度か軍事衝突があった。この時、吉岡城にいた下条氏の当主時氏は、ついに天文十年(1541)兵三百を率いて関氏の居城和知野を攻撃した。しかし、この時も関氏の守備は固くかえって撤退の際に関氏の逆襲と追撃受けてしまい、下条時氏は大沢古城に辛うじて逃げ込み事なきを得たという。

IMG_4110.jpg
主郭に建つ関三社八幡宮。

この時の関氏の版図が最大で領有地は二十七ケ村、石高は三千二百三十二貫文に及んだ。しかし前述の通り領民に対する過酷な労役や戦役を強いた為に人心は関氏より離れ、家臣らも城主盛永を疎んずるに至った。

権現城 (33)
主郭に残る往時の建物の礎石。

この情勢を察知した下条時氏は、天文十三年(1544)八月、おりからの月明りに乗じて一挙に関氏の居城和知野を急襲し落城させた。一説にはその時、城内では月見の宴の最中だったといい、内応者が下条氏の兵を城に密かに引き入れたという。不意打ちされた関氏の近習はこれを防ぐことが出来ず、一族郎党の多くが討死または四散した。関春仲とその奥方は混乱の中で殺され、城主盛永も近臣の一人犬坊丸に槍で刺されて死に、南信濃に覇を唱えた関氏はここに滅亡する。

権現城 (35)
関一族の祟りを恐れて建立された関三社八幡。

一方、関盛永の奥方であるお萬の方は、落城の際に一子長五郎(五歳)を伴って城を脱出し、山伝いに向方村に廻り、生家の浪合に逃れようとした。途中戸口(とこう)の伊藤惣十郎を頼ったが、欺かれて母子は殺されたという。お萬の方の墓は天龍村大河内にある。(残念ながら今回は訪問できませんでした・・・)

権現城 (37)
城の西側の段郭。

【城跡】

縄張りは単純で他の関氏の築城した城と変わり映えしないが、立地条件がその脆弱さをカバーしたなかなかの要害の地である。和知野川が城の大手を守る天然の堀となり、城の東西は犬坊沢と城沢の深い渓谷に守られ人を寄せ付けない険しさである。唯一の攻め場所と思われる主郭の背後の南尾根は一騎駆けの細尾根で巨大な空堀が穿ってある。

権現城 (49)
石垣の施された一段高い位置に置かれた本殿。

本殿よりもさらに高い三角形の場所が城の最高位(郭4)で、ここに関家当主関盛永、父の関安芸守春仲、その室の三基の墓碑が立っている。

IMG_4111.jpg
右から「枯嶽浄栄居士」(関盛永)、「殊光院山燈了関居士」(関安芸守春仲)、「灌山貞頂大姉」(春仲室)」の墓碑。

権現城 (56)
郭4から尾根に向かっては一騎駆けの痩せ尾根が23mの長さで続く。

権現城 (60)
深く巨大な堀切㋐を上からのぞき込む。

IMG_4112.jpg
堀切㋐を介して向こう側に関氏の氏神である「熊野権現社」(奥の院)が見える。権現城の名前の由来はここからきている。

権現城 (63)
堀切㋐の堀底。東西の沢へ落ちる斜面の角度が急なので竪堀にする必要はない。

権現城 (70)
熊野権現社のあるところが郭5.その先もやはり一騎駆けの痩せ尾根だ。

権現城 (83)
南端の二条の堀切。(ていぴす殿のいる場所が堀切㋑)

人を寄せ付けない要害の地に築城された権現城が、僅かな兵の下条軍の攻撃によって落城するとはとても思えない。やはり関氏の城の守備側に内応者があり、あらかじめ攻撃日時や攻城の際に手引きし下条軍を引き入れたと思われる。

権現城 (30)
権現城の主郭の東斜面の切岸を調査する「ていぴす殿」とゲストの「u-naomochi殿」

南信濃の山間部の土豪から急成長した関氏であったが、経済地盤が固まる前に無理な築城を繰り返し領民の恨みを買い、また下条氏との度重なる戦で人心の離反、家臣の不信が募り自ら破滅の道を辿った。

関氏を滅ぼした下条氏は従来の所領に関氏の所領三千貫を加えて、南信濃では松尾小笠原家を凌ぐ大身の国人となり、その後信玄の信濃侵攻では武田に降り、信玄の妹を娶り伊那郡代秋山信友の配下として百五十騎の軍役を課されている。(ちなみに松尾小笠原は百騎、松岡は五十騎)

がしかし、下条氏も戦国時代を乗り切るあと一歩のところで滅んでしまったのは、ご存じのとおりである。

権現城 (4)
再建中の熊谷家(郭6)の背後の小山が権現城の主要部。帰り際にご子息と色々とお話をさせていただきました。ありがとうございました。


≪権現城≫ (ごんげんじょう 和知野城、城山)

標高:466m 比高:125m
築城年代:天文七年(1538)
築城・居住者:関氏
場所:下伊那郡阿南町大下条南條
攻城日:2015年11月22日 
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:20分 駐車場:特になし、橋を渡り右へ曲がり適当に路駐 
見どころ:堀切、関氏の墓碑など
注意事項:熊谷さんのお宅の私有地を通るので、家の方がいる場合は挨拶してから登りましょう。(気持ちよく許可してもらえます)
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編 宮坂武男著」「下伊那郡史第六巻」(下伊那教育会編纂 )「定本 伊那谷の城」(1996年 郷土出版社)
付近の城址:矢草城、八幡城、上田城など
Special Thanks to ていぴす殿、u-naomochi殿










Posted on 2016/02/06 Sat. 13:40 [edit]

CM: 6
TB: 0

0130

信玄塚 (下伊那郡根羽村横旗)  

◆武田信玄の終焉地はここだったのか?◆

某国営放送局より受信料のリベンジを行うべく大河ドラマの真田丸を「BSプレミアム」(18:00~」)⇒「総合テレビ」(20:00~)と連続して観て、挙句の果てに録画までしている念の入れようである・・・(笑)

「小生は真田丸ブームになど惑わされない・・・」といいつつ草刈安房守昌幸よろしく表裏比興だったりする・・(汗)

さて、残念ながら第二話では、世間から絶大な支持を得た平岳大勝頼は自刃して武田家は滅亡し、小山田温水信茂は主家を裏切る不忠を詰られて織田玉置信忠により誅せられた。

岩殿城①
小山田信茂が城代だった岩殿城全景。単体の山城としては険しい立地にあるが、縄張は単純で後詰めが無ければ長期の籠城など無理である。

土壇場で勝頼を裏切った小山田温水信茂の評価は最悪だが、敢えて弁護させていただくと、長篠の戦いでは武田軍最大の三千の兵を投入しほとんどが討ち死するという損害を被っている。この時、御一門衆の穴山榎木梅雪は戦いにロクに参加せず真っ先に戦線離脱し武田軍総崩れの元凶となったので、勝頼が心情的に小山田を庇っているのは理解できるのである。

まあ、真田丸のよもやま話は都度挟んでいきたいと思うが、今回ご案内するのは信玄終焉の地と比定されている「信玄塚」。

ここは以前のブログで「武田信玄終焉地考」という書籍をご紹介した時に触れているが、今回ようやく現地を訪問することが出来た。

IMG_4141.jpg

【場所】

長野県の南西端となる下伊那郡根羽村横旗(よこはた)の国道153号線の道路沿い西上の山の中腹に八幡社と共に供養塔(宝篋印塔)が祀られている。根羽村の中心部と平谷村との境の赤坂峠との中間地点で、周囲を山に囲まれた谷間の傾斜地で民家が点在する淋しい場所。バイパス開通後は注意しないとうっかり通り過ぎてしまうので注意。

根羽村周辺図 001

【根羽村の宝篋印塔】

ここに高さ1.9mの花崗岩で造られた宝篋印塔(墓石・供養塔)があり、地元の人は「信玄の五輪」と呼んでいる。元々は現在地から東へ数十メートル先の国道下にあったようで、その場所が信玄塚と呼ばれ、クマサキの大木が生い茂り武田一族の名の刻まれた石塔群とともに道を挟んで十王堂が淋しく立っていたという。
国道拡幅のバイパス工事に伴い、信玄塚のあった場所は壊され地中深く眠り石塔群と十王堂は国道下の別の場所に移された。(今回は時間の都合で現地確認していない)

IMG_4138.jpg
かつて信玄塚のあった場所は国道の下に眠っているらしい。

元亀三年(1573)西上作戦で大軍を率いて三河に侵攻した信玄は、長篠で越年して正月より野田城攻めを行うが、陣中で病を発症し病状回復せず甲州へ帰還する三州街道の途中の旧暦4月12日に卒去。享年53歳。

信玄終焉の地は三州街道のどこなのかはっきりしたことは分からないのだが、定説として認められているのは「駒場(こまんば)であろう」という事らしい。

が、駒場には信玄卒去に関連したものが何もないのである。
※遺品の兜の前立二種と火葬場の伝承はあるが古文書は残っていない。

信玄塚 (7)
バイパスを西に曲がれば信玄塚である。

「武田信玄終焉地考」を書いた一之瀬義法氏が根羽村説に拘ったのは、城主大名級の供養塔(宝篋印塔)が何故根羽村に建立されここに設置されたのか?という素朴な疑問だったと後述しています。

信玄の終焉地としては、

①駒場説                「当代記」「御宿監物の長状」

②浪合あるいは浪合・平谷説   「徳川実紀」「三河物語」「三河風土記茎葉集」

③根羽説               「甲陽軍艦」「熊谷家伝記」

④田口説               「野田城記」「野田実録」等

四か所が候補として挙げられているものの、③根羽の宝篋印塔(供養塔)を覗いて何もそれを示すものは残っていない。(田口に小さな五輪塔が一つあるという)

なるほど考えてみれば根羽村の土地の人々何もない横旗にお金を出して立派な記念塔を立てる理由はないし、戦国時代の有力大名の出身地でもないのだ。

偉大な信玄公の終焉地(亡くなった場所)として武田家の旧臣やゆかりの者がお金を出し合い供養塔を建てたというのが真実のようで、現に一之瀬氏の調査では古老の話として浪合村の高坂氏が信玄の命日である四月十二日に「信玄公を祀るように」と毎年酒や物を村人に贈って依頼していたという。

信玄塚 (9)
石段を登った先にある八幡社の社務所。

現在の信玄塚には昭和56年の説明版と平成6年の説明版の2枚がある。恐らく国道のバイパス工事に前後した為であろう。
小生が色々申すよりも説明版の文言をお読みいただき、考えていただくのが得策かもしれない・・・(笑)

信玄塚 (11)

信玄塚 (13)
六尺五寸の宝篋印塔と他の二神の祀られている八幡社。

信玄塚 (12)
平成6年の説明版。

IMG_4142.jpg
花崗岩で出来たかなり立派な宝篋印塔が鎮座している。

信玄がご臨終した場所を特定することで、歴史学が変わる事は恐らくないだろう。

それでも、戦国最強の武将だった武田信玄が西上の夢を果たすことが出来ずに息を引き取った場所がここかもしれない・・と言われれば、その無念さが胸に去来するのである。

信玄塚 (14)

「巨星墜つ」

新田次郎原作の「武田信玄 山の巻」の目次にあるこの見出しは「焼き印」の如く頭を離れなかったが、信玄塚に立つと不思議に心の「つかえ」が取れた気がした。

信玄塚 (6)
信玄塚のある国道153号線のバイパスの壁画。なかなかの力作である。

信玄の西上作戦の目的は「京都へ上る事」ではなく「徳川・織田領への侵攻作戦」という考え方もあるようだが、自分の寿命を知っていた信玄は京都に是が非でも行くつもりだったと小生は考えているが、どうであろうか・・。

≪信玄塚≫ (しんげんづか)

標高:810m 比高:10m
造営年代:不明
造営者:不明
場所:下伊那郡根羽村横旗
攻城日:2015年11月23日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:バイパス脇に駐車場有り 
見どころ:宝篋印塔
注意事項:特になし
参考文献:「武田信玄終焉地考」(一之瀬義法著、1987年教育書籍)
付近の城址:根羽砦、根羽城ヶ峯、根羽女城、滝之沢城など
Special Thanks to ていぴす殿、u-naomochi殿

信玄塚 (2)
甲府への帰還途中の篭の中で、遠のく意識と闘いながら信玄は最後に何を思ったのだろうか・・・。










Posted on 2016/01/30 Sat. 22:12 [edit]

CM: 10
TB: 0

0124

滝之沢城 (下伊那郡平谷村靭)  

◆押し寄せる織田軍を相手に奮戦するも身内の造反により落城◆

北信濃の城ばかりだと寒いので、ここからしばらく南信濃の城について触れてみたい。

掲載したからと言って北半球の寒気団が引っ込む訳ではないが、このまま消費期限切れの不良在庫にするよりはマシなのだ(笑)

今回ご紹介するのは天正十年(1582)二月、甲州征伐の岩村口からの織田軍の侵入を喰い止めるはずだった滝之沢城。

IMG_4126.jpg
滝之沢城の入口。国道153号線(三州街道)の靭(うつぼ)バス停の脇にデカい看板があるのでその脇の道を入る。

【立地】

天文23年(1554)~弘治年間にかけて、伊那谷を攻略した武田信玄は、"伊那六関"を設けた。市之瀬(滝之沢)、清内路、小野川、帯川、心川、波合に設けられた関所は、隣国の三河、美濃の動向を監視し、物資の荷改めや人改めの役割を果たしていた。(現在の阿智村、平谷村を通る三州街道沿いに置かれていた)

滝之沢城 (4)
道路脇を下って行くのだが、「ホントにこんな場所にあるの?」(ピンボケご容赦!)

六関の中の滝之沢関は、「とつばせの関所」と呼ばれ、平谷口の交通の要衝の地でもある事から砦が併設され滝之沢城と呼ばれたようである。国境である根羽村ではなく、ここに砦が築かれたのは、三河・美濃方面への眺望に優れている事と、防御に優れた立地条件だという。

滝之沢城見取図 001
柳川と関川が合流する段丘の突き出た部分に本陣の比定地があり、まさに要害である。

ちなみに「とつばせ」とは、両岸が迫り出すように近づき、急速に川幅が狭まる漏斗状地形(ろうとじょうちけい)を指す方言である。三河・美濃方面から攻め込んだ敵を迎撃するには絶好の場所で、信玄がこの地を選んだのも納得である。

IMG_4127.jpg
北側の削平地を踏査するスペシャルゲストの「u-naomochi」さん(手前。奥の方はていぴす殿)

滝之沢城 (12)
本陣比定地の南側より見た北の郭部分。

「比定地」という言葉を使っているが、とつばせの関所は実は場所が確定されておらず、平谷村教育員会は消去法で柳川と関川の合流地点に接する場所に標柱を建て、段丘上の削平地を滝之沢城の本陣としている。

IMG_4128.jpg
本陣比定地に建つ標柱。

【城主・城歴】

平谷村誌によれば、弘治年間あるいは永禄年間にとつばせの関と滝之沢城が設営されたらしいが史料、伝承等が無く不明だという。
滝之沢城が史料に登場するのは「信長公記」と「甲乱記」だという。
また、「下条記」は信憑性には欠けるが、下条氏の遍歴については今のところこの資料で辿るしかないようである。

滝之沢城 (20)
標柱には別名の「南部の要害」と記されている。デジカメの写真は何故かピンボケばかり・・(汗)

天正十年(1582)二月、甲州征伐に際して岩村口から織田信忠、河尻秀隆が伊那方面に向けて進軍を開始。この時、武田領の南西端を領していた下条伊豆守信氏は兵を二手に分け、自らは平谷口の滝之沢城で嫡男信正と共に迎撃態勢を敷き、間道である売木口の抑えは居城である吉岡城に留守居として弟の下条九兵衛氏長を置いて織田軍の迂回に備えた。

IMG_4125.jpg
城跡の説明版。郭名が沢山並んでいるが、これは縄張ではなく合戦時の下条軍の迎撃の陣形の誤りであろう。

二月六日に始まった滝之沢城を巡る攻防戦は、武田軍の先方として各地を転戦して数々の軍功を挙げた下条伊豆守信氏が寡兵ながら一歩も引かず奮戦し戦いを優位に進めたていた。しかし、この時すでに織田方に内応していた弟の下条九兵衛氏長は売木口の間道より織田方の河尻秀隆を吉岡城に引き入れ城を明け渡していた。また、後詰めの松尾城の小笠原信嶺も既に織田方に内通しており、滝之沢城の北側の治部坂峠から松尾小笠原と下条氏長の裏切り部隊がイッキに駆け下り滝之沢城の背後を突いた。

IMG_4129.jpg
本陣比定地。(南の土塁側より撮影)

背後からも敵を受けた下条信氏軍は総崩れとなり滝之沢城は落城。下条伊豆守信氏・信正父子は敗走し三河国の作手黒瀬に落ち延びた。

滝之沢城の落城の知らせは伊那谷で迎撃態勢を敷いていた武田の諸城に伝わり、戦わずして自落する者が続出していく。

滝之沢城 (14)
本陣の西側から南側にかけて残る土塁跡。

【城跡】

三州街道に沿って流れる柳川と関川の合流する段丘は、南側から見るとその斜面は自然地形ではなく人工的な切岸として加工されていたことが分かる。現地に立つと確かに河岸が狭くなり合流地点が一番狭く、ここに何らかの陣地が築かれていたのであろう。そして説明板の絵に描かれていたように、川に迫る両崖や両岸の上に迎撃用の横矢を仕掛ける郭があったのかもしれない。当日は時間が無く付近の形状を調べることは出来なかったので、次回の課題としたい。

滝之沢城 (23)
本陣の土塁の南端。

滝之沢城 (27)
南側から見た切岸。

滝之沢城 (35)
関川と柳川の合流地点に立つ関所跡の標柱。比定地であり確定していない。

滝之沢城 (37)
柳川の崖の上に迎撃用の空き地があったのだろうか。

滝之沢城で織田軍を迎え撃った下条伊豆守信氏は、身内の反逆により城も領地も失い三河作手奥瀬で逃亡生活を送る。剛勇で知られた嫡男の信正は迎撃戦の時に負傷した傷が元で亡くなり、信氏も故郷に戻ることなく失意のうちに病死。だが、次男頼安は本家再興の望みを捨てなかった。

一方、兄の信氏を追い出して吉岡城主となった九兵衛氏長に対して下条家の家臣たちは反発し密かに頼安に連絡を取りクーデターを計画。信長亡き後の下伊那の覇権を狙う徳川家康が頼安を後援し氏長を処断、下条宗家の再興に成功する。

その後の下条頼安の活躍、松尾小笠原家との怨念の争い、あっけない没落に感心のある方は⇒「吉岡城」の記事でご確認ください。

滝之沢城 (38)
このあたりで標高1000mってのも凄い。

≪滝之沢城≫ (たきのさわじょう 南部の要害)

標高:1000m 比高:15m
築城年代:不明
築城・居住者:武田氏、下条氏
場所:下伊那郡平谷村靭(うつぼ)
攻城日:2015年11月23日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:5分 駐車場:特になし、路駐 
見どころ:土塁、切岸など
注意事項:特になし
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編 宮坂武男著」「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望」(2013.6 平山優 著)
参考歴史小説:「戦国鬼譚 惨 (いらぬ駒)」 (2012年 伊東潤)
付近の城址:根羽砦、根羽城ヶ峯、根羽女城など
Special Thanks to ていぴす殿、u-naomochi殿













Posted on 2016/01/24 Sun. 16:46 [edit]

CM: 0
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top