らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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上田城 (下伊那郡阿南町大下条西条)  

◆無駄な城の築城に領民を酷使して怨みと反感を買い、僅か三年間で廃城にされた上田城◆

そもそも何で南信州辺境の地国境の阿南町、しかも超マイナーってか3Aレベルの土豪である下条氏と関氏の領土争いの地を訪ねる気になったの?と思われる方も多いかもしれない。

信州の城と古戦場 表紙①

この本は、宮坂武男氏の「図解山城探訪」と並ぶ小生のバイブルであり、小生がブログを開設するキッカケを与えて頂いた中世城郭研究のパイオニア的な存在のHPで城と古戦場~戦国大名の軌跡を追う~の管理人マサハレ氏の愛読書でもあるという。

この本の中に「城を多く築いて恨まれた城主」という史実が紹介されていたのと、「犬坊狂乱」という井上靖先生の短編時代小説のネタ元という話も聞いて、どーしてもその舞台に行って現物を見たかった・・・それだけである(笑)

真田軍記表紙①
「犬坊狂乱」は「真田軍記」という色々な戦国時代の短編小説を集めた井上靖氏の文庫本に収録されている傑作。その他の物語も面白いのでお勧めだ。「海野能登守自刃」という物語は真田ファン必読であろう。

さて、今回ご案内するのは、「驕れる関一族は久しからず」の序章となった阿南町にある上田城。

関春仲が領民を酷使して築城したというのだが、現地を訪れて開口一番、「ホント、がっかりだよ!」(笑)

上田城(阿南町) (1)
城の搦め手の鳥居。あなん少年自然の家の北東にある知方神社境内が城跡。すぐ近くまで車で行けるのでありがたい。


【立地】

阿南町大下条小野の西方に連なる山陵の突端部に築かれた城である。北方は深い谷になっており、千木沢が流れ、対岸に深見部落があり、砦山・田上の台地に接し、深見池をその下に湛えている。南方は崖下に作洞洞があって、平久の山々に対し、東方の断崖下には小野部落越しに天竜川を望む。三面に急斜面を有する要害の地である。

上田城見取図(下伊那郡阿南町)
図面を引くまでもなく、酷く退屈な縄張り。

【城主・城歴】

この城は天文五年(1536)八月、春仲が矢草城より移り、以後三年間居城とした城である。
築城にあたり、下方の千木沢より石材(砂岩)を運び上げるなどして領民を酷使したため、その恨みから領民が関氏から離れる端緒になったとの前章があり、在城わずか三年で、関氏は城を捨てる事になったのだという。(現地の説明板)

上田城(阿南町) (2)
城域搦め手側の堀切㋐。堀底に鳥居が建つ。

上田城(阿南町) (3)
主郭の南尾根の腰郭。削平も中途半端で終わっている。

矢草城を居城として約十年間過ごした春仲が、南東約800mの尾根先に上田城を築城したのには以下の理由があったと思われる。(あくまでも小生の想像であるが)

①矢草城では北の下条氏の侵入には対応出来ても、東方の天竜川を境として対立する南信濃和田の遠山氏の抑えには不安

②見名峠への街道筋を矢草城、上田城にて抑える。(新野への撤退路の確保)

③天竜川の対岸の泰阜村(やすおかむら)方面への出撃拠点としての築城

上田城(阿南町) (5)
堀切㋐と主郭の接続部分に残る土塁跡。

上田城(阿南町) (6)
土塁から堀切㋐を見下ろす。角度も深さも甘いと云わざるを得ない。

上田城の築城で領民に賦役が課されただけであれば、それほどの恨みを買いはしなかったであろう。

ところが上田城に居城を移した二年後の天文七年、和知野川の河岸に突き出した和知野集落の対岸にある尾根に、嫡子盛永(もりなが)の城の築城を命じ、再び領民に労務賦役を課したのである。

上田城(阿南町) (8)
半円形の南半分の「1‘」。ゲートボール場にされた城跡の比率を調査してみたい気分になる(笑)

上田城(阿南町) (14)
主郭を段差で区分する手法は矢草城と共通している。上座下座の分けで防御の意図は無いと思う。

和知野川への新城(権現城)の築城は恐らく盛永の暴走であると思われ、当主春仲も家臣も止められなかったのであろう。北の下条領への侵攻がダメなら、東の天竜川流域に侵略の活路を見出そうとするなら、権現城の築城場所は絶好の位置である。

上田城(阿南町) (17)
主郭の北半分(郭1)無理やりコースを作っている・・・(汗)

上田城(阿南町) (18)
ゲートボール場になる前に発掘調査して欲しかったなあー。

上田城(阿南町) (12)
知方神社&関八幡宮。関氏の滅亡後に祟りを恐れた領民は八幡社を勧進したという。(権現城にもある)

二年も経たないうちに再び築城工事に駆り出された領民は、関一族に対して深い恨みを抱くようになった。

関家四代目当主の春仲は嫡子盛永に家督を奪われ、上田城に居住するも周辺の領民とは一触即発の状態だったらしい。

僅かな供回りの家臣しかいない脆弱な縄張りの上田城では、反感を持つ集団に襲われたらひとたまりもない。

天文八年(1539)、春仲は上田城を捨て、盛永の権現城へ移った。以後上田城が使われる事は無かったという。

上田城(阿南町) (19)
主郭東側の二重堀切。やる気の無い堀切だ・・(汗)

上田城(阿南町) (20)
堀切㋑。イイ意味では箱堀(?)。

上田城(阿南町) (24)
堀切㋒。堀に伐木を投げ入れるのは止めましょう(笑)

【城跡】

矢草城より単純で、主郭の他には南側に数段の帯郭が作られ、西側の搦め手には二条の堀切(一つは消滅)、東側には二重堀切が作られ、南北81m・東西81mのほぼ半円形の城跡である。
本郭の中央には、かつて祟りを恐れて創建された関八幡社があったが、第二次大戦後に下方にあった小野村の知方神社を合祀した。

上田城(阿南町) (30)
北斜面に竪掘りとして落ちる堀切㋐

縄張りは矢草城よりも単純で、実戦を想定して築城されたとはとても思えない酷さである。
神社の正面の鳥居の南側の切岸付近に石積みらしき跡があるが、往時の痕跡とは判断出来ない。

上田城(阿南町) (31)
集落から比高140mの高さにあるので、石の運搬は大変な重労働であったろう。

いくら南信濃の辺境の地とはいえ、童の戦遊びじゃあるまいし、こんな古めかしい縄張りで築城を敢行し領民を酷使したとは情けない話である。

倅の暴君として悪名高き盛永が築城した権現城も、縄張図を見る限りでは上田城より幾分はマシだが落城しても仕方のない仕様だった。(残念ながら今回は途中の道路の土砂崩れで辿りつけなかった)

上田城(阿南町) (16)
主郭北側の切岸。

八幡城2(長野市)

今回、残念ながら関氏最後の城だった権現城は見る事が出来なかった。

ここで権現城における関盛永の最後を記載するのは小生の主旨とは違うので、いつの日にかキチンと権現城を踏査してから記載したいと思う。未熟者ゆえにご迷惑をお掛けしますが、学会には発表しないので、どうかご容赦願います(笑)


≪上田城≫ (うえだじょう 城山)

標高:617m 比高:140m
築城年代:天文五年(1536)
築城・居住者:関氏
場所:下伊那郡阿南町大下条西条
攻城日:2014年3月23日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:あなん少年自然の家駐車場
見どころ:堀切、土塁
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編 宮坂武男著」「定本 伊那の城」
付近の城址:八幡城、矢草城、砦山城、権現城など
Special Thanks to ていぴす殿

上田城(阿南町) (33)
矢草城登り口の井戸集落から見た上田城。







Posted on 2014/04/10 Thu. 22:31 [edit]

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0408

矢草城 (下伊那郡阿南町大下条西条)  

◆下条氏の領土を「黒く塗りつぶせ!」◆

北条早雲(伊勢新九郎長氏とも?)が同族として一目を置くほどの新興勢力の実力がいよいよ開花する時が来た。

新野の領主関家の四代目の安芸守春仲(あきのかみはるなか)は三代目の父である春清が早世したために、叔父右馬允(うまのすけ)に厳しい戦乱を生き抜く為の心構えを教え込まれ、そしてその才能は自らの決意によって開かれた。

春仲の脳裏に浮かんだのは「下条領を黒く塗りつぶせ」このことであった。

矢草城(阿南町) (67)
矢草城の入口の熊谷家にある井戸。往時も城の水の手として使われたといい、今も枯れる事無く水を湛えている。

「俺のハートは Get No Satisfied !」彼が永ちゃんの如くそう叫んだかは不明だが(笑)、下条氏の領内である早稲田に密かに八幡城を築き大永五年(1525)、関安芸守春仲の軍勢は見名峠を越え下条領の和知野を制圧し更に北の大下条の早稲田へ向かった。

「新野の関安芸守春仲の軍勢、早稲田へ向けて侵攻中!!」

八幡城の北東1,000mに位置する大下条の砦山城から吉岡城の下条時氏のもとへ早馬の伝令が走った。

矢草城(阿南町) (63)
矢草城の南東の沢は小屋掛けに適した土地であり、城館が置かれていたと思われる。(堀切㋐の終点付近より撮影)

信濃守護だった小笠原家が内部抗争で府中・松尾・鈴岡と三家に分裂すると分流の下条氏は鈴岡に与するが、松尾小笠原家が鈴岡小笠原家を滅ぼすと、直接敵対する関係に陥り戦線は膠着状態となり泥沼化していた。

この仁義なき戦いのドサクサを利用して関氏は下条領に侵攻したのであった。

矢草城見取図①
重宝していた旧バージョンの国土地理院1/25000の地図が使えなくなったので、無理やり縄張図を引いてみた(汗)

それでも下条家の当主である時氏は集められるだけの軍勢を割いて早稲田に急行させるも、関氏との合戦に敗れてしまい、大下条からの撤収を余儀なくされ支配権を失った。

矢草城(阿南町) (10)
南西から見た主郭1。

急ごしらえの八幡城では早稲田を含む大下条の統治拠点としては不便だと考えた春仲は、八幡城の北500mの一段低い山に新たに縄張りを行い、新しい領主としての築いた城が矢草城である。

矢草城(阿南町) (6)
城域最大の堀切㋐(上巾15m)


【立地】

阿南町の大下条田上上に氏の境に連なる標高980mの弁当山の支脈が東方に伸びた一丘陵にある。西方を家古沢川(やこさわがわ)が流れ、下方で千木沢となり天竜川に注いでいる。

矢草城(阿南町) (8)
堀切㋐を南側より撮影。関氏の築城した城の中では一番マトモで落差のある堀切である。

矢草城(阿南町) (14)
郭1の北側の土塁。全周していたとは思われず、北だけに限定されていたようだ。

矢草城(阿南町) (17)
主郭は蝶が羽を広げたように段差を付けて二分割されている。我々はこの後で移転した上田城でも全く同じ縄張を見る事になる。


【城主・城歴】

世の中の中世城郭において文献その他で築城年代がハッキリ分かる城は僅か数パーセントだという。
奇跡的な事に、矢草城はその数%に属する築城年代の記録の残る貴重な城で、大永5年(1545)の築城だという記録が残る。

その年の八月に急造した矢草城がひとます完成し、春仲は八幡城から移ったという。相変わらず下条領と隣接する北限の境目の城に領主自らが居城を構えるという異例の事態であるが、彼の「黒く塗りつぶす」という決意の表れであろうか。

矢草城(阿南町) (13)
北西の尾根に突き出る郭4。削平が丁寧だ。

矢草城(阿南町) (21)
関一族の石積み堀切の集大成と思われる堀切㋑。馬出しの郭3に対する防御であろう。

【城跡】

城は純然たる山城で、山頂にひょうたん形の平地があり、これを本郭としてその下方に数段の小郭がある。空堀の跡も、東西二箇所に認められる。城跡には矢竹の材料となる篶竹が多く生えているところから、城の名はこの矢草より付けられてと云われている。

大手筋にあたる郭2への登城路は城坂と呼ばれ城門があった可能性がある。

矢草城(阿南町) (28)
郭3は矢草城の馬出しがあり、石積みを備えた完成度の高い縄張を見る頃が出来る。

矢草城(阿南町) (31)
しっかりした造りの郭3(馬出し)

矢草城(阿南町) (36)
丁寧に削平された郭2(33×18)

関安芸守春仲は、この矢草城を居城と定めて10年間をここで過ごし新天地の治世にあたったという。

下条氏も奪還の機会を狙うも松尾小笠原家との確執に翻弄され、その機会をいたずらに損失ばかりしていたのである。

矢草城(阿南町) (51)
地元では郭5の部分を「山の神」と呼ぶらしいが、祠やそれらしき形跡は見当たら無かった。

大永五年(1524)~天文三年(1534)までの十年間を居住した春仲であったが、南東1km先の尾根先に新たに上田城の築城を命じ、十三ヵ村の領民に重い賦役を課し突貫工事で完成させると直ちに居城を移した。

空き城となった八幡城と矢草城は身内の金田盛形が守ったという。(金田氏については前回記事の八幡城を参照願います)

矢草城(阿南町) (54)
城域の北側の峰続きには大日堂が勧進され大日如来が祀られていたというが、現在跡地には石仏が安置されている。


矢草城(阿南町) (57)
大日堂跡に佇む石仏。賽銭箱の代わりに貯金箱が置かれていたが、誰か参拝するのだろうか?


【領民を奴隷の如く扱う成り上り者「関一族」への憎悪】

大下条に暮らす人々にとっては新野から攻めてきた関氏が新しい領主になったものの、年貢に加えて度重なる矢草城の改築と上田城の新築という終わる事無き毎年続く労働賦役に対する不満は限界に達していた。

「もうわしらは我慢できねえズラ!(怒)」


次回「領民の怨嗟に屈し、三年間で終わった上田城での眠れない夜」を待て!(爆)

矢草城(阿南町) (60)
南の沢へ落ちる堀切㋐。

≪矢草城≫ (やぐさじょう 家古沢城(やこさわじょう)井戸城)

標高:679m 比高:105m(旧道より)
築城年代:大永五年(1525)
築城・居住者:関氏
場所:下伊那郡阿南町大下条西条
攻城日:2014年3月23日 
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:15分 駐車場:無し(ふもとの道路脇に路駐)
見どころ:堀切、土塁、石積みの堀切と馬出し、郭など
注意事項:熊谷家は現在無人だが住宅内敷地及び耕作地は無断侵入厳禁。マナーは守りましょう。
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編 宮坂武男著」
「定本 伊那の城」※この本には入山困難と表記されているが、夏場以外なら充分城跡が確認出来る状態である。
付近の城址:八幡城、上田城、砦山城など
Special Thanks to ていぴす殿

矢草城(阿南町) (65)
麓の熊谷家付近から見た矢草城遠景。













Posted on 2014/04/08 Tue. 06:00 [edit]

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0406

八幡城 (下伊那郡阿南町西条)  

◆下条氏の領土に突如打ち込まれた進撃の楔(くさび)◆

昨日は4年ぶりに葛山城(長野市)を再訪し、四時間半も籠城して隅から隅まで調べてスッキリした!(笑)

旭山城と並び甲越合戦における争奪戦の舞台としてメジャー級の城なのだが、小生のブログは何故か未掲載・・(汗)

あ、思い出した、旭山城も未掲載だ!エヘン!(爆) ま、そのうち地元ならではの視点での掲載ということで・・。

今回ご消化い(気持ちは分かる・・・笑)ご紹介するのは、関氏の下条領への進撃の砦と伝わる八幡城(はちまんじょう)

八幡城(阿南町) (45)
早稲田より林道木曾畑線を登る。大下条地区の早稲田配水池の脇からテキトーに這い上がろう。

【立地】

大下条区の早稲田の西方で、井戸沢の右岸にあたり、風越木平(ふこぎだいら)の北方の標高740mの山頂にある。
最近まで林道脇に城跡の標柱があったようだが、朽ち果てたらしく見当たらなかった。

八幡城見取図①
単郭に堀切を穿った簡単な縄張で急ごしらえなのが縄張図からも見て取れる。

【城主・城歴】

関氏の物見城という伝承がある。大永五年(1525)、関氏の四代目の安芸守春仲は本拠地新野を出て峻険の見名峠を越し、下条時氏と早稲田にて戦いこれを破る。
この戦の前後に関氏が突貫工事で築城して下条領侵略の足がかりとし、下条氏に勝利した同年の八月に井戸沢の対岸に矢草城を築城し移る。その後、関一族の金田氏が城を預かったという。

八幡城(阿南町) (2)
思わず通り過ぎて気がついた堀切㋓。

八幡城(阿南町) (7)
堀切㋒の堀底を踏査する「ていぴす」さん。北側より撮影。急な傾斜を利用しているのが分かる。

八幡城(阿南町) (10)
この城の見どころは主郭背後の堀切㋑。主郭側の堀を石積みにしている。関一族の城の変な(?)特徴の一つだ。

この城を関春仲より預かった金田一族については「定本伊那の城」(1996年3月 郷土出版社)の猪切智義氏の掲載文を引用させていただく。

「この城に勤めたのが、関氏一族の金田氏(かなだし)である。金田家に伝わる貞享二年(1685)金田春盛の記述によると、先祖は豊後国(大分県)国東郡金田庄から出、初代領主は新野、関盛春の二子で兄伊勢守盛岡の弟が金田を名乗り金田伊賀守盛数を初代として続く家である。

八幡城(阿南町) (11)
土留めと思われる石積みの跡。北側の堀㋐にも見られる。短期間での工事における土砂崩落を防ぐ目的か?


関氏が早稲田に進出した折に、早稲田村の一部を割いて井戸村を解説し、そこに本拠を置いて八幡城を管理していたのである。関氏が矢草城を去った後は上総守盛形がその後を守り、その子飛騨守春守-佐左衛門春年と続く。弟次右衛門盛春は和知野村に帰農している。

金田家は関氏滅亡後も、已む無く下条方に従い、下条氏滅亡後は井戸村に帰農し、代々続いて今日に至っている。同家の墓地に自然石の墓碑に上総・飛騨と読める文字が残っている。阿南町に金田姓の多いのは、この系統に繋がる家が多いのである。」(引用終わり)

八幡城(阿南町) (17)
主郭南側。藪で酷いのもあるが削平が甘く大雑把な作り。

八幡城(阿南町) (22)
主郭東側の切岸。急造された感じが残る雑さ。

八幡城(阿南町) (23)
主郭の北側。ここは一生懸命削平した跡が残る(笑)


【関氏の下条領への侵攻に伴う築城と最期】

伊那の小豪族の興隆と領土争い、そしてその終焉に至る経緯などは興味が無い方も多いかもしれない。
でも誰かが伝えていかないと、南信濃の最果てで存在していた関一族は忘れられてしまうような気がしてならない。

まあね、領民を酷使し城の新築移転を繰り返したが為に最期は自業自得のような幕切れとなった関一族だけど、下条さんも領民に嫌われてたから、どっちもどっちだと思うが。

八幡城2(長野市)
関一族の興亡史。こんな図を作成したのは小生ぐらいであろう(笑)※上田城の築城は天文三年とも。


【城跡】

主郭は52×11の短冊形で前後に堀切㋐と㋑を入れている。堀切㋑には石積みが施され、堀底にも崩れたと思われる石が散乱している。山麓から運び入れたように思える。
主郭の北側には数段の帯郭が見受けられ、防御構築が為されているので防御指向は「北」で下条氏からの攻撃を意識しているのが分かる。(大手筋もこの方面だったのだろう)

八幡城(阿南町) (25)
北側から見た主郭。短冊形に湾曲している。

八幡城(阿南町) (24)
主郭北側から見下ろした堀切㋐。急斜面に堀割りを造成する技術が未熟なのか中途半端な感じを受ける。

八幡城(阿南町) (32)
東側の堀底から撮影した堀切㋐。横堀というよりは段郭のように見える。

関氏が下条領の早稲田のこの場所にゲリラ的なアジトを確保し、北への橋頭保(陣城?)にしようとした事が分かる。

残念ながら現在の城跡からは雑木林が邪魔して景色が良くないが、往時は北に広がる大下条区が一望に見え物見には適した場所だった事が理解出来る。

八幡城(阿南町) (37)
北斜面の段郭周辺にも石積みの跡が見られる。

山間地の痩せた耕作地が多く畑作中心で収穫物も少なかった新野周辺に比べ、古代より稲作に恵まれた和知野川以北の村は、関氏にしてみれば喉から手が出るほど魅力的な土地だったのである。

この時の下条家の当主時氏は、隣接する松尾小笠原家との因縁の対決に兵を割かれてしまい、大永五年の関氏との戦いには充分な兵力で臨む事が出来ずにまさかの敗退を喫して、大下条一帯を取られてしまった。


この続きは次回の「十年住んだら飽きてしまった矢草城」で・・・(笑)

八幡城(阿南町) (39)
北の斜面から見た主郭方面。砦の立地としては及第点だ。

八幡城(阿南町) (47)
登り口手前の林道から下条区を撮影。八幡城からはこんな景色が見えていたはず。


≪八幡城≫ (はちまんじょう)

標高:758m 比高:185m(旧道より)※林道の登り口からは80m程度
築城年代:不明
築城・居住者:関氏
場所:下伊那郡阿南町大下条西条
攻城日:2014年3月23日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:20分 駐車場:林道脇へ路駐。
見どころ:石積みの堀切
注意事項:夏は藪が多そう
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編 宮坂武男著」「定本 伊那の城」
付近の城址:矢草城、上田城、砦山城など
Special Thanks to ていぴす殿

八幡城(阿南町) (48)
対岸の上田城から見た八幡城。

Posted on 2014/04/06 Sun. 12:36 [edit]

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0405

日差城 (下伊那郡阿南町新野)  

◆北条早雲もその実力を認めた下伊那国境の関一族興隆の地◆

♪♪思えば 遠くへ来たもんだ~♪♪ 武田鉄也率いる海援隊の歌詞が自然に言葉になって出る(笑)

ここから4km先の新野峠(にいのとうげ)を越えれば奥三河(愛知県)である。

今回ご紹介する日差城のある阿南町新野は、南信濃和田の遠山郷(現在は飯田市)と並び、「忘れえぬ心の故郷」なのだと勝手に思い込んでいる(汗)

日差館(阿南町) (5)
「道の駅 信州新野千石平」では「幸法(さいほう)」という新野雪まつりに登場する神のモニュメントがお出迎えしてくれるが、夜になったら出歩いていそうでチョッと怖い(汗)

【立地】

日差城址(ひさしじょうし)は新野高原(海抜800m)の中央部にあたる、市の瀬川と樽川合流地点に挟まれた中間地点にある。かつて中央に殿屋敷(とのやしき)という地名の少し小高い場所があった。
この南・東北面は小高い土手になっており、西方は掻き上げ式の空堀をもって区切られたものと思われる。

現在は昭和四〇年代後半に農業改革事業が行われ、一帯が区画整理されたため、中井川も付け替えられたが、国道151号線と国道418号線の交わる場所の東側に当たる部分と思われる。

日差城見取図①
殿屋敷と呼ばれる場所が推定書館跡。※yahoo地図の航空写真を加工しています。

【城主・城歴】

日差城の館を築いた伊勢平氏である関盛春が、救援を頼って伊勢国(三重県)鈴鹿郡関町にいたが、文安五年(1448)二子を伴って信州新野村に落ちて来た。

土地の主だった村松・金田・五島らの人々が、盛春が名家の末で勇士であることを聞き、これを領主と仰ぎ、村の中心部とら窪の地に掻き上げの館を築いた。これが五月の天差日に出来あがったことから日差城と号し、春盛父子をここに留めたと「熊谷家伝記」「関伝記」にある。

日差館(阿南町) (1)
国道151号線の新野峠方面。画面右のモニュメントは道の駅入口の「幸法」の後ろ姿。

関氏の名が最初に文献にあらわれるの㋐h、応永七年(1400)の大塔合戦の記録の中で、そこには「関豊後守」とある。応永七年は、文安五年より四十七年も前である。

次いで永享十二年(1440)七月の「結城陣番帳」に「二十二番関殿・同名又六郎殿」とあるが、これによれば明らかに関氏は南北朝以後信濃守護である小笠原氏の被官として、伊那郡の南辺を経営し、和知野川以南の地を与えて、この地に居らしめたと推定出来るのである。

日差館(阿南町) (2)
阿南町教育委員会の説明板が道路脇に立つ。

日差城の関氏には、代々遠江守盛春(享徳二年没)ー伊勢守盛国(大永五年没)ー近江守春清(文亀元年二十八歳にて早世)-安芸守春仲(幼少の為叔父右馬允春光が後見役として一家の処理にあたり、永正十六年春仲長ずるに及び右馬允補佐役を辞す)らがいた。

応永初年より約140年余、日差城に在城した関氏(関伝では文安五年より)は向方・福島・長沼それに加えて坂部・三州分大谷・市原・河内を加えて下郷とし、1,100貫文を領有した。
城に必要な推理として、中井川を市の瀬川の本流で堰きとめて引水したる側に流し城の固めとしていた。

信州松尾小笠原・鈴岡小笠原・深志小笠原などの争乱にあって仙境新野にあり、超然とその潜在力を高めていた。

日差館(阿南町) (3)
日差城の居館跡。農地改良で遺構など全く無い。水田脇の石碑は何か関係があるのだろうか?

永正三年(1506)八月、静岡の今川氏親が今槁城(豊橋)を攻めるに当たって、時の伊勢新九郎盛時(のちの北条早雲)が氏親に力を貸したため、松尾の小笠原氏が今槁城の応援をしないよう早雲が連盟を求めてきた。
その折、死者大井宗菊が持参した書状に、早雲は関氏と吾らは、同一氏族から出た一族であることを記し、関氏に小笠原との交渉のいっさいを依頼してきている(「勝山小笠原文書」)

この両者の仲介を為したのが、春仲の後見役の右馬允であった。

日差館(阿南町) (4)
北条早雲の使者もこの地を訪れたようだ。

【城跡】

現在、城跡の遺構は何も無い。

明治八年(1875)頃までは、屋敷と云われる水田の中に7.3m四方の石が積み重ねられたものがあったと云われるが、現
在では取り壊され無くなってしまった。

この屋敷の北側を古市場といい、城下町の小集落や市場・高札場があり、賑やかな所で、道路もここを中心に東西南北に走っていたが、元禄時代にこの辺一帯を水田の土地にするため、民家を現在地の山寄りに移したといわれている。

日差館(阿南町) (6)
道の駅の新設でさらに変化が著しいが、観光での活性化に活路を見いだせると思う。

さて、関氏三代を経て、成人した四代目春仲は新野からの更なる領土拡大を目指し下条領への侵攻を始める。

続きは次号「下条領に突き刺した楔(くさび) 八幡城」

≪日差城≫ (ひさしじょう)

標高:789m 比高:-
築城年代:不明
築城・居住者:関氏
場所:下伊那郡阿南町新野
攻城日:2014年3月23日 
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:道の駅
見どころ:無し
注意事項:無し
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編 宮坂武男著」「定本 伊那の城」(猪切智義氏の記述引用有り)
付近の城址:新野八幡城、権現城など
Special Thanks to ていぴす殿

日差館(阿南町) (8)
日差城跡の遠景。戦乱なき世は桃源郷だったに違いない・・(そして今も)

せっかくなので「おまけショット」

日差館(阿南町) (9)
新野の「進撃の巨人!!」(笑)






Posted on 2014/04/05 Sat. 01:35 [edit]

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0403

吉岡城 (下伊那郡下條村陽皐)  

◆戦国乱世サバイバルレースの勝者になり損ねた悲運の下条氏の居城◆

世の中には虚言癖という自覚症状のない病気の方が多々いらっしゃるようで、特に政治家さんに多いらしい。

チャックの閉まらないボストンバックに現ナマ5,000万円を詰めて運んだとノタマウ前東京都知事の方や、酉の市で戦勝祈願の熊手を買うために8億円の借金を申し出た○○なの党の○辺○美代表とか・・。金銭感覚がともかくオカシイ。

共通しているの、チョッと人気が出ると人間そのものが偉くなったような不遜な態度と言動。

「驕れるヤツは久しからず」と昔から平家物語も警告しているが、果たしてその通りに天罰が下るのである・・(汗)

吉岡城(下條村) (41)
国道151号線という名の新たな堀切(?)が城域を貫通してしまった吉岡城跡。(本丸橋から北大橋を撮影)

今回ご案内するのは、最後の詰めの一手を間違えたが為にキングボンビーに取り憑かれて潰された下条氏の吉岡城。

※キングボンビーとは、その昔流行したTVゲームソフト「桃太郎電鉄」(通称;ももでん)における史上最強のボスキャラであり、こいつに遭遇または取り憑かれると財産は全て没収された上に巨額な負債を背負わされる。ボンビー=ビンボーという業界用語だ。

吉岡城(下條村) (3)
現在公園となっている主郭(130×60)。下条氏の経歴と吉岡城の概略図が掲示されている。

【立地】

下条村南部の盆地状地形の中央部、南の沢川と北の沢川(牛ヶ爪川)とによって出来た台地上にあり、西より東へ緩い傾斜をした地形d、東へ行くに従い幅広くなり、末端部は阿南町に入り天竜川の渓谷に落ち込んでいる。

北東1.5kmには足畑山の狼煙台がある、南東1.2kmには大沢城がある。吉岡城に入ってくるには、四周からの道があり、その各々の要所に木戸を設けたようである。

吉岡城見取図①
コピペと模写は全く違う。現地を歩いて確認する作業が無ければ、図面をわざわざ書く必要も無いが、歩いてみると宮坂氏と微妙に違う解釈も有る。そこが中世城郭の面白いところである。


【城主・城歴】

吉岡城主は下条氏である。下条氏は甲斐の武田氏の一族で、室町時代に下伊那の阿南の地に来往したとされる。

後世の記録では初代頼氏氏より五代が大沢城を本拠としたのち、同族の小笠原政康三男氏康が継承したが、大沢城は要害ではあるが狭隘(きょうあい)のため、文明七年(1475)、富山に築城して地名を吉岡に改めたという。

以後、七代116年間にわたり居城とした。

吉岡城(下條村) (6)
主郭の西端に残る土塁。

吉岡城(下條村) (13)
主郭西側の大堀切の南側(上巾11m)。落差があり吉岡城の見どころの一つでもある。

吉岡城(下條村) (16)
神社の勧進による改変された北側の堀切。土留めの石積みも確認出来るが後世のものであろう。

下条氏は小笠原氏との縁もあって、その一族あるいは被官として勢力を張り、八代目の時氏の代の天文十三年(1543)には南の関氏を破るなどして、阿知川(あちがわ)以南と隣接する美濃・三河の一部までを領有した。

小笠原氏との関係では、応永四年(1400)、信濃守護小笠原長秀に従って大塔合戦で戦死した伊那武士の中に「下條美作守」、永享の乱後の永享十二年(1440)の結城城(茨城県結城市)攻めで幕府軍陣中奉行政康に従った中に「下條殿・同名下野守殿・同名山田河内守殿」、また「諏訪御符札之古書」文明十三年の条には「伊賀良庄小笠原政貞代官下条家氏」とある。

明応二年(1493)の鈴岡と松尾両小笠原家の戦いでは、下條氏は鈴岡側であった。

吉岡城(下條村) (18)
郭6に建つ寺尾神社社殿。主郭南側と西側の攻撃兵に対する火点(射撃陣地)だったと思われる。

吉岡城(下條村) (20)
主要な堀切二条の間にある郭6(寺尾神社)には往時も似たような櫓があったと想像出来る。

武田による下伊那侵略は九代目の下条信氏の時で、下条氏は武田氏にいち早く臣従している。通説では下条氏が武田の武力の前に降ったと云われるが、実のところは甲斐源氏で武田の支流の下条氏に対して信玄が懐柔策に出て、妹を娶らせ自分の一字を与えるという破格の待遇をしたのではないか?との説もあるようだ。

吉岡城(下條村) (21)
郭6の西の堀切は険しい斜面を効果的に利用し上巾13mというスケールを誇る。

信氏は武田軍における信濃先方衆の伊那衆筆頭として信玄・勝頼に仕え数々の武功を立てる。

天正十年(1582)二月、織田信長による甲州征伐の際に武田勝頼の命で伊那口の守備につき、攻め手の総大将の信忠軍を相手に健闘するも一族の家臣下条氏長の織田への内通により部隊を支えきれず嫡子信正と共に三河へ敗走。

徳川家康が信長には内緒で匿っていたが、失意で過ごすうちに嫡子の信正は病死、信氏も後を追うように急死してしまう。

吉岡城(下條村) (24)
城域先端の四差路交差点は南北の堀切跡になっている。

吉岡城(下條村) (26)
交差点の南側の竪掘を見下ろす。なるほど、強力な堀切跡だ。

主家を裏切り家督を手にした下条氏長は、信長が本能寺で横死すると下条家の家中から不忠者として反感を買い孤立していった。

下条家の家臣団が結束して、三河に逃亡していた信氏の次男の頼安に連絡を取りクーデターを計画。武田の旧臣の掌握を画策していた徳川家康はそれに同調し支援を行い、クーデターを決行。氏長とその一味を謀殺し頼安は吉岡城を奪還し旧領を回復し、下条家十代の当主となった。

吉岡城(下條村) (30)
郭7は坊垣外(ぼうかいと)と呼ばれ、周囲は立派な石垣が周回している。


【天正壬午の乱で徳川家康を支えた下条氏、そしてあっけない幕切れ】

吉岡城に復帰した下条頼安は、武田滅亡とともに旧領復帰を果たした神之峰城の知久頼氏、松尾城主小笠原信嶺(のぶみね)、伊那春近衆ら近隣の伊那の諸士を徳川方に帰属させる事に成功した。

吉岡城(下條村) (29)
郭7(坊垣外)から主郭方面。

武田旧領を巡る天正壬午の乱は、信長横死により息を吹き返した上杉景勝がいち早く川中島四郡を奪取し、残りの信濃(中信濃・佐久・伊那)、上野国及び甲斐は徳川と北条の草刈り場となった。

圧倒的な兵力を誇る北条軍に対して徳川軍は苦戦を強いられるが、甲斐国では武田遺臣を掌握しゲリラ戦で戦闘を有利に進め、信濃の佐久における攻防戦では依田信蕃が北条方となっていた真田昌幸の引き抜きに成功し北条勢を駆逐。

しかし、諏訪頼忠・保科正直が北条方として伊那に侵攻し、家康の後ろ盾で深志に復帰した小笠原貞慶が北条方に寝返る事態となり、奥平信昌、下条頼安・鈴木重次らの徳川軍は飯田城に籠城し北条の脅威に晒され続けた。

吉岡城(下條村) (32)
郭7の石垣はかなり本格的なので、下条氏廃絶の後に代官所が置かれた場所はここかもしれない。

天正十年(1582)十月末、清州会議で家康支援を決定していた織田政権が秀吉派と勝家派に内部分裂し援軍の派遣予定がが中止されると、徳川家康は北条と和睦する。

北条侵攻の危機が去った下伊那では、領土が隣接する松尾小笠原と下条氏の対立が激化し天正十一年(1583)の六月と九月の二度に渡り合戦が行われたという。

天正壬午の乱ではいち早く徳川家康に忠誠を誓い、数々の武功を立てた下条頼安に対して家康は下伊那の所領を切り取り次第に加増すると約束したのに対して、松尾小笠原の当主信嶺は本能寺の変に際しては、木曽義昌の所へ避難し徳川への従属表明が遅れた。

吉岡城(下條村) (35)
坊垣外から見た南の沢川と吉岡城南大橋。

もともと松尾小笠原家と下条氏は犬猿の仲であり、松尾小笠原家と敵対していた鈴岡小笠原家に属していたのが下条氏である。

この因縁はこの時に始まったものではなく。室町時代に三家に分裂した松尾小笠原家が鈴岡小笠原家を謀殺し断絶させると、鈴岡小笠原家に従属していた下条時氏を松尾城に呼び出し斬殺するというおぞましい事件があった。

吉岡城(下條村) (38)

小競り合いならともかく、合戦として記録されてる以上は徳川家康にも報告されたと思われるが、何の沙汰も無い。

「下条記」によると、下条氏と小笠原氏の合戦に心痛めた双方の菩提寺の住職が話し合い、和睦を提案し小笠原信嶺の息女を下条頼安に嫁がせる事で合意したと云う。

天正十一年(1583)十二月に輿入れし、翌正月二十日に下条頼安が松尾城の舅である小笠原信嶺に挨拶に伺い、その場で斬殺されたという。頼安は享年二十九才だったという。歴史は繰り返されてしまった。

吉岡城(下條村) (42)
道路の堀割りにより城跡は国道が貫通している。事前に発掘調査が実施され出土品も多数見つかったという。

ところが、これだけの大事件でありながら徳川家康は見て見ぬふりをしたばかりではなく、騙し打ちした小笠原信嶺にも沙汰を課す事もしなかった。
用済みにありつつある下伊那の豪族が互いに消耗戦で潰し合ってくれれば、片づける手間が省ける・・・そんな程度にしか思っていなかったのだろう。

下条家は勇将頼安を失い、信正の嫡男牛千代はまだ十歳。弔い合戦も出来ずに耐えるしかなかったらしい。

吉岡城(下條村) (44)
見取図に示した郭2。想像でしかないが、本郭は上下二段で郭2と郭3も含めていたと思われる。

吉岡城(下條村) (47)
公民館の建っている場所が郭3。

天正十二年三月、小牧・長久手の合戦で徳川家康より参陣を求められ初陣を果たした下条牛千代は、その後も徳川の先方として働き、木曾義昌が秀吉方に寝返り家康の重臣石川数正が豊臣へ出奔しても動じる事無く、徳川に忠誠を立て伊那衆の中心的存在となっていた。

吉岡城見取図①
文章が長くなっているので、見取図を再掲載(汗)

吉岡城(下條村) (49)
郭2と郭4(二の曲輪)との間の堀切。石組は後世の土留めの為の造作のようであるが、どうだろうか。

徳川家康も領国信濃に対する秀吉の調略で木曾義昌に次いで小笠原貞慶、更に真田昌幸が反旗を翻すに至り、下条頼安亡き後の下条家の動揺を抑えようとして牛千代には自らの名前の一字を与え「康長」とし、感状を与え美濃の領地まで加増したという。

吉岡城(下條村) (48)
同じ堀切だが、北側はこんな感じ。

これだけ徳川に対して忠義を尽くした下条氏だったが、その幕切れは呆気なかった。

天正十三年(1585)八月、真田昌幸の上田城攻めで徳川軍として陣中にあった下条氏は、陣小屋で火事騒ぎを起こした。下条氏に謀叛の嫌疑がかけられ、幼少の当主牛千代に代わり家臣が抗弁し、失火の原因となった家来の佐々木氏を成敗する事でお咎め無しとなった。

ところが、失火原因を作った佐々木氏は逃亡し無実を主張し精巧に捏造した証拠書類を徳川家に提出し逆提訴に及ぶ。

キチンと申し開きもせずパニくった下条家の六人衆の家臣たちは、伊那郡代の菅沼定利によって飯田城に軟禁されていた牛千代(康長)を連れ出し逃亡という愚行に及ぶ。

是に怒った菅沼氏は六人衆を探し出し処刑。他の下条家の家臣は康長とともに他国へ逃れ下条家は完全に没落してしまった。

以上は下条記に記された話であり、史実の裏付けの史料は何一つ無いと云うが、案外そんなことなのかもしれない。

徳川家康にしてみれば、用済みになった下条家を取り潰す思案をせずとも、相手が勝手にコケたのだからラッキーと思ったのであろう。

吉岡城(下條村) (57)
見取図の郭4と郭5の境が二の曲輪と三の曲輪の境界で、二の門があったと標柱が示している。

吉岡城(下條村) (60)
枡形址。説明板には「県下の中世の城館にはあまり見られないので貴重」だそうだが、そうだろうか。

吉岡城(下條村) (65)
見取図の郭5と郭8の間には水路となった推定「堀跡」がある。石積みは往時のものだろうか?


【城跡】

城域は西方から東方にかけて緩やかに傾斜しており、西から出曲輪(郭7)・殿曲輪・本曲輪(主郭)・二の曲輪・城下に空堀で区画される。

本郭は東へやや傾斜しており、本城と呼ばれる。二の曲輪は本曲輪と堀を隔てて東方に続くなだらかな平地で、本城ともいうが上町・屋敷町ともいい、家臣の屋敷地であったという。

二の曲輪の東北隅を大手裏といい、このああたりが大手とみられる。二の曲輪の東方は城下町で中心に竪町、そこを下ると横町があり、その先には馬場・小路・紺屋屋敷・門屋などの地名がある。

吉岡城(下條村) (69)
大手裏と伝わる場所。

吉岡城(下條村) (72)
大手門跡。

吉岡城(下條村) (73)
高札場あたりが城下町の東端のようだ。

さて、長々と書いてしまった下条物語は如何だったでしょうか?

伊那の土豪は早めに信玄に降ったので家名の生存率は高かったのですが、天正壬午の乱あたりで武田領に侵攻してきた徳川家康の為にイッキに淘汰されてしまい、結局最後まで残ったのは高遠の保科家と松尾小笠家だけという過酷な結果となりました(汗)

そんな悲しい伊那の戦国時代背景を思い浮かべながら城跡を散策するのもお勧めです。

≪吉岡城≫ (よしおかじょう)

標高:525m 比高:33m
築城年代:不明
築城・居住者:下条氏
場所:下伊那郡下条村陽皐(ひさわ)
攻城日:2014年3月23日 
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:本丸公園に駐車場有り 
見どころ:郭、堀切など
注意事項:民間の住宅地での撮影はプライバシーに注意。耕作地への侵入は禁止。
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編 宮坂武男著」「信州の古城」「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望」(2013.6 平山優 著)
付近の城址:大沢城、上田城、八幡城、矢草城など
Special Thanks to ていぴす殿

吉岡城(下條村) (1)
本郭の公園にある散策図を参考にされても良いかと。












Posted on 2014/04/03 Thu. 12:53 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

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