らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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青鬼の城峯 (北安曇郡白馬村青鬼)  

◆集落の見張り砦から街道の監視砦へと改変された境目の要害◆

信濃の山城と城館の第一人者である宮坂武男氏の縄張図は、その正確な断面図や独特な堀切記号で初心者だけでなく城ヲタクと呼ばれる我々をも魅了した。

が、しかし、図面の技巧さに魅了されてしまい実物に過度の期待を寄せると、思いがけず「がっかり」する事があるので注意が必要である・・・(笑)

今回ご案内するのは白馬村と小谷村の境目に位置する「青鬼の城峯」(あおにのじょうみね)。WEB初公開らしい。

青鬼の城峯・西通山城201409 (1)
姫川第二ダムの東側にある隠れ里のような青鬼集落(あおにしゅうらく)。高地性集落がタイムスリップしたかのようだ

【立地】

青鬼沢と姫川の合流地点にある姫川ダムの右岸の山頂に立地する。眼下に塩島城を見下ろし、四ヵ庄平(しかじょうだいら)一帯と姫川沿いの千国街道を監視できる位置にある。まさしく要衝の地である。

青鬼の城峯・西通山城201409 (5)
城域手前の尾根の平削地。

青鬼集落から意気揚々と攻め始めたのは良いのだが、途中で方向を見失い、反対側へ進み過ぎて途方に暮れる(笑)
思いきって反転し試行錯誤の上でようやく城跡に辿り着くが、藪で地形の確認もままならず閉口する・・(汗)

青鬼の城峯見取図①

【城主・城歴】

白馬村誌によれば、ここが城跡だという伝承は公式には無く、青鬼集落の言い伝えとして残っていたものらしい。「青柳藤九郎の屋敷址と伝え、僅かに堀跡を残すのみ。(中略) 塩島の砦か」
史料・伝承等全く不明の城である。

青鬼の城峯・西通山城201409 (18)
堀切㋓。ここと堀切㋒までの間の処理は独特である。

青鬼の城峯・西通山城201409 (25)
壁のような通路は天水溜めの工事の際に掻き揚げた土を叩き土塁にしたものであろう。

青鬼の城峯・西通山城201409 (19)
これほど藪が酷いとは想像を超えた堀切㋒。この城域のメインの防御構造である。

【城跡】

通常、物見の置かれる場所は尾根の最高地点か全方位をある程度見通せる場所に作られるのだが、ここの物見は北側が全く見通せない位置にある。脇を通る千国街道と南の四カ庄平だけを見張るなら申し分の無いロケーションではある。
当初は青鬼の集落防衛の為の単純な砦だったものを、甲越戦争の緊張が高まると同時に大勢力によって三方の尾根に周到な堀切を設けて、二段の郭を平削し拡張したのであろう。
城域全てが藪に覆われてしまい、写真ではお伝え出来ないが、保存状態は悪くない。

青鬼の城峯・西通山城201409 (32)
三角形の主郭。適当な整地である。

青鬼の城峯・西通山城201409 (38)
北西の尾根への処理。急傾斜に垂直に近い「壁」(へき)を作る事で厳しい防御に徹している。

青鬼の城峯・西通山城201409 (36)
北西の尾根の処理。堀切一条と武者走りのような郭(長さ50m)である。

青鬼の城峯・西通山城201409 (40)
上巾6mの堀切㋑。

青鬼の城峯・西通山城201409 (43)
隣接する郭2と郭4と堀切㋑の処理方法。

青鬼の城峯・西通山城201409 (47)
藪に埋もれた堀切㋐。写真に補助線を付けないと分からない酷さ。

ここを城跡と知って訪れる人など皆無であろう。場所の特定すら危ぶまれるので、かなりのリスクがあると思われる。
同行した「ていぴす」さんと二人で尾根を右往左往しながら「迷い道くねくね」(笑)
宮坂氏の縄張図の美しさに惹かれて訪問したが、実情は藪だらけの城であった・・・(汗)

青鬼の城峯・西通山城201409 (50)
郭4は長方形。

青鬼の城峯・西通山城201409 (56)
中央部分に高みを残す郭2。

青鬼集落から沢伝いに東へ向かえば物見山(1433m)があり、鬼無里(きなさ)へと通じる古道があったという。
鄙びた古民家の集落には、豪雪の季節を何百年も越えてきた生活の知恵と工夫が今も伝承されている。
ここにも戦国時代の痕跡が残っているとは驚きであった。

青鬼の城峯・西通山城201409 (3)
現在も独自の形をした古民家十数棟が残り、補修しながら生活を営んでいる。まるで桃源郷のようである。


≪青鬼の城峯≫ (あおにのじょうみね)

標高:857m 比高:270m  
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:北安曇郡白馬村青鬼
攻城日:2014年9月27日 
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:40分(迷わなければ20分) 駐車場:青鬼集落駐車場(寄付金制度あり)
見どころ:堀切、郭
注意事項:迷うと厄介だが、尾根を南へ伝うように歩けばOK。
参考文献:「信濃の山城と館⑦安曇・木曽編 宮坂武男著」
付近の城址:塩島城、西通山城など

どうしても辿り着きたい方は以下を参考に。

青鬼の集落の有料駐車場から西側に戻り古民家の脇道を登る。(車両通行不可)

青鬼の城峯・西通山城201409 (69)
古民家再生プロジェクトが進行中。大工さんに挨拶して脇道を登る。

青鬼の城峯・西通山城201409 (62)
しばらく進むと用水路のある段差。ここを左に折れる。

青鬼の城峯・西通山城201409 (61)
用水路を辿り途中から沢の奥へ進路変更。藪漕ぎが続くが最短の経路である。

地形図とコンパスは忘れずに。スマホのGPSでも大丈夫だと思いますが、バッテリーの残量に注意(笑)



塩島城(白馬村) (48)
塩島城から見た青鬼の城峯。







Posted on 2014/11/13 Thu. 22:36 [edit]

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塩島城 (北安曇郡白馬村北城)  

◆四ヵ庄平(しかじょうだいら)の北端を抑える要害城◆

先日、白馬村役場から電話があり三日市場城の原状回復の途中経過報告と協力要請があった。
宮坂武男センセも笹本教授にも来て貰いご教示を受けたとか・・。アマチュアの小生に何が協力出来るの??

詳細はまた追々とアップしますが、とりあえず下調べの為に破壊前の写真を持って現場確認に出掛けた。

まあね、覚悟はしていたけど、現場の悲惨な破壊の痕跡には絶句!(怒)

三日市場城20140802 (26)
破壊された三日市場城の北側の二重堀合流部分。沢へ落ちる竪堀も土砂と伐木で埋めてあり、観るも涙、語るも涙・・・

現場で3時間縄張図と写真とニラメッコ。ホントに元通りになるのかしら・・チョッと心配になった・・(汗)
まっ、出来る限りの事は協力させていただく覚悟です。


そんな訳で、せっかく白馬まで来たので、藪の少ない城無いかな~と思い・・・・あった、あった塩島城、まだ行ってなかったよ!(笑)

【立地】

四ヵ庄平(青木湖以北から姫川手前までの白馬村のある盆地一帯を指す)の北端で、松川と姫川が合流する左岸の小山に位置する。鬼無里街道(きなさかいどう)と千国街道(ちくにかいどう)の陸路が交わる交通の要衝で、低い小山ながら東と西を断崖で囲まれた要害の地である。

塩島城(白馬村) (2)
思わず通り過ぎてしまった入口の看板。駐車場が無いので適当に路駐するしかない。

城跡は白馬村が遊歩道として整備されたらしいが、所詮お役所仕事なのでその後の手入れはしてないようで荒れ放題。

塩島城(白馬村) (4)
城跡入口にある八幡社。ここから城跡を一周出来る遊歩道があるので、迷う事は無い。

【城主・城歴】

塩島村は室町期にその名が見え、安曇郡千国荘に属したと云う。
塩島城は、安曇地方を領有した名族仁科氏の家臣で塩島氏の居城と伝わる。弘治二年(1556)、塩島但馬守勝雄が城主の時に武田軍の山県昌景に攻められ落城、降伏して武田に降ったという。
一説によれば、その後塩島氏は謀叛の疑いをかけられ、正命寺において浴室で斬殺されたが、やがて疑いは晴れて弟の昌賢が塩島家を継承し再興を赦されたという。城に隣接する塩島氏の菩提寺である日光寺は、武田軍の城攻めの際に焼失したらしい。

塩島城見取図①


塩島城(白馬村) (9)
城域で最も低い城跡の北側。鬱蒼とした遊歩道は薄気味が悪い。

年にこの遊歩道を何人の方が訪れるのだろうか?

要望があって設置した訳でもなく、予算消化の為に作られた遊歩道や公園。長野県下にはそんな場所を多く見かける。

塩島城(白馬村) (10)
日光寺跡の北側を横堀㋐が貫通している。寺も防御施設と看做していたのであろう。

【城跡】

城域の背後を松川が流れ、南端をピークに北へ向けて低くなる台地形で、この地を要害として選ぶのは正しい判断であろう。しかしながら、兵士数の限られた土豪が守るにはいささか広すぎて、後詰めが見込めないのであれば籠城すら難しいと思われる。

塩島城(白馬村) (11)
日光寺跡の郭の東側の高台。物見櫓が置かれたのであろうか。

塩島城(白馬村) (14)
北側に対する防御を意識した堀切㋐。小山を貫通する厳重な横堀である。

横堀㋐から南側のピークへ向けて城の中心部が構成されている。小山全体が耕作化されたとも伝わるので、往時の遺構がどこまでなのかハッキリしないらしい。それにしても鬱蒼とした林は薄気味悪く、寒気がする・・(汗)

塩島城(白馬村) (17)
少し傾斜のかかった郭4.

塩島城(白馬村) (20)
南端の郭3.両サイドは松川への深い崖となっている。

主郭は52×18の長方形をしたピーク部分になり、西側は土塁付きの帯郭(郭2)が厳しい防御を敷いている。現地では郭2は空堀として表示されており、通路も兼用していたと見るべきかもしれない。

郭4の西側に隣接する郭5と6は、間に堀切が貫通していたものと推定され、耕地化に伴い埋められたようだ。

塩島城(白馬村) (22)
長方形の主郭。

塩島城(白馬村) (32)
空堀跡と表記されている郭2。武者溜まりのような構造でもあるが。

塩島城(白馬村) (39)
郭5に接続している堀切㋐。貫通していたと思われる。

塩島城(白馬村) (41)
郭6。このあたりに掘立建て物があったのだろうか。

塩島城(白馬村) (43)
郭6の端には三峯社。

塩島城(白馬村) (47)
武田軍の攻撃で焼失したという日光寺跡。武田さんも敵対する族のお寺を焼くのか好きな武将です・・(汗)

いかん、またツラツラと写真を並べてしまった・・・・・(笑)

どうもねえ、こういう場所は民家が近くにあっても気味が悪いので早く退散したい・・・・・(汗)

風呂に入っているところを斬殺されるなんぞ、源義朝さんみたいです。おいたわし・・・。

塩島城(白馬村) (48)
塩島城から見た「青鬼の城峯(あおにのじょうみね)」。晩秋に攻め込みたいと思っています。鬼はマストですもの(笑)



≪塩島城≫ (しおじまじょう)

標高:717m 比高55m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:北安曇郡白馬村北城
攻城日:2014年8月2日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要:-
駐車場:無し、適当に路駐。
見どころ:堀切、郭など
付近の城跡:中込城の山城、青鬼の城峯、西通山城、立の間浅間山城など
注意事項:特に無し
参考文献:「信州の山城と館⑦安曇野・木曾編」(2013年 宮坂武男著)

塩島城(白馬村) (49)
北側から見た塩島城遠景。




Posted on 2014/08/03 Sun. 21:03 [edit]

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立屋の城峯砦 (北安曇郡小谷村千国乙立屋)  

◆千国街道の監視砦◆

♪持て余してるFrustration you`ve got an easy day 嘘を呑み込み静かに眠ってるMAD city
そしていつでも そうComplain you`ve got an easy day 諦め顔の 良く出来た歯車のように・・♪

BOOWYの世代ではないのだが、「マリオネット」はその昔のカラオケの十八番で大好きなロックである。

なんで冒頭にこの歌詞かって?山城紀行のトップシーズンだってのに何処へも行けずに約3週間。フラストレーションは溜まるし不満(Complain)もピークって訳さ!(笑)

まあ腐っても仕方無いので、今回ご案内するのは「立屋の城峯砦」(たてやのじょうみねとりで)でございます。

立屋の城峯砦 (34)場所は分かりづらいのだが、立屋のバス停を目印に道を登って行くと良い。(バス停から振り返った中央の小山が城跡)

【立地】

小谷村の千国集落の北西で親沢と黒川沢に挟まれた段丘上にある。立屋集落の北東で比高20mの小山。ここから南東200mの尾根には千国の城峯がある。姫川の上流となる白馬方面を監視出来る位置にあり黒川館への中継地点でもある。

立屋の城峯見取図
※図の左側が北になるので注意。

【城歴】

伝承、記録が無いので不明だが、千国氏関連と伝わる「千国の城峯」から移転した可能性も考えられる。
また、対岸の黒川館の物見砦とも伝わるが確証は無い。

立屋の城峯砦 (32)城域南側の切り通し。堀跡だったようだ。

立屋の城峯砦 (4)縄張りの西側は緩やかな傾斜を伴う帯郭。

【城跡】

あまり期待せずに訪問したが、しっかりとした遺構が残っているのには驚いた(汗)。切り通しを含めれば四条の堀切でキッチリ区分けされている。西側の傾斜の緩さを除けば砦として真面目に普請されている。
恐らく千国の城峯の改修を早々に諦めてこの小山に新たに縄張りしたのであろう。

立屋の城峯砦 (6)土手付きの堀切㋑。

立屋の城峯砦 (9)主郭跡にある祠。

見取図の堀切㋑と堀切㋒の間にある火の見櫓の立つ郭が主郭だと思われる。残念ながら藪茫々である。

立屋の城峯砦 (10)何が潜んでいるか分からない笹藪を歩くのは気が引ける(汗)

立屋の城峯砦 (16)堀切㋒。北側に土塁を伴う。

立屋の城峯砦 (21)郭2から主郭を見る。ていぴす様がいる場所が堀切㋒。段差を付ける事で高所からの狙い撃ちを可能にしている。

縄張りは単純だが、シンプルさのメリットを生かしている。意図的に高低差をつけているのだ。メリハリを付ける事で、防御機能は格段の違いとなる。

立屋の城峯砦 (18)郭2はきれいに整備されている(笑)

立屋の城峯砦 (26)巾も高さもある堀切㋓は砦仕様としては驚きだ。

千国氏の最初の本城はここだったのではないか?という憶測も納得出来る縄張りである。少数精鋭の兵力が立てこもるには良く計算された仕様だ。千国城峯もこの砦の一部と看做すべきであろうか。

本拠地を黒川館に移した後も、千国街道の物見または烽火台として機能していたと思われる。

≪立屋の城峯砦≫ (たてやのじょうみねとりで 金比羅山)

標高:740m 比高:20m(立屋集落より) 比高:190m(姫川より)
築城年代:不明
築城・居住者:千国氏?
場所:北安曇郡小谷村千国乙立屋
攻城日:2013年9月29日 
お勧め度:★★★☆☆  
城跡までの所要時間:5分 駐車場:立屋バス停付近の空き地に路駐。
見どころ:土塁、堀切など
注意事項:特に無し
参考文献:小谷村誌
付近の城址:黒川城、千国城、黒川館など
Special Thanks:ていぴす様

黒川館(小谷村) (47)対岸の黒川館から見た遠景。あちらこちらで狼煙を上げている(?)


Posted on 2013/11/21 Thu. 21:51 [edit]

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茨山城 (北安曇郡白馬村神城)  

◆仁科口の東の間道を抑えた砦◆

あっちこっちと場所が飛んでしまい節操の無い掲載を深くお詫び申し上げます・・・・(汗)

んで、長野市から今度は白馬村でございます。その昔掲載し忘れた城をチョコっとアップさせて下さいませ(笑)

茨山城 (6)城跡に建つ城峯神社(明治42年に建てられたという)

今回ご紹介するのは白馬村神城(かみしろ)にある茨山城(いばらやまじょう)。

神社の建立でかなり改変されてしまい見る影も無い・・(涙)

白馬周辺諸城配置図場所がイマイチという方は白馬神城ネットワークをご参照下さい。(仁科口と呼ばれる要衝の地なので砦や城が林立している)

【立地】

神城地区堀之内集落の東に突き出た小高い丘の上にあり屋敷地(居住地)としては良い物件だが、要害性は周辺の砦に比べると低い。
ここから東へ向かえば鬼無里や小川庄(現在の小川村)へ抜ける間道が通りその先は善光寺平に繋がる。また南は仁科郷・安曇野に通じる交通の要衝である。
茨山城の南800mには三日市場城がある。

茨山城見取図①

【城を取る】

問題は立地における要害性の低さを縄張りでどこまで防御性を上げていたのか?となるのだが、残念な事に主郭が改変されているので周辺のみの検証になる。

長野県町村誌には神社建立前に「回字形」という記載があるようなので、中心付近から二重の円郭式にして周囲を横堀が廻っていたように思える。(あくまで想像だが・・)

茨山城 (3)参道を登ると最初に出現する堀切㋐

茨山城 (8)主要部分の横堀だった可能性のある堀切㋑。

茨山城 (12)神社北側の土塁。

社殿の北側は切岸で円墳が連続で続いている。東側に土橋状の構築があるので円墳の周囲は堀か池だった可能性がある。善光寺周辺には古墳を取り込んだり、石室を利用した城跡を多く見かけるが、茨山城も北側の搦め手方面からの侵攻に対して遮蔽物として利用したのであろうか?

茨山城 (21)落書き多用(笑)最初の円墳。

周囲に横堀を穿つ技術は三日市場城に見られるので、恐らく同時期に改修を受けたものかもしれない。

茨山城 (23)北側の古墳。

三日市場城の支城(砦)という位置づけなので、いざとなったら本城に逃げ込めば良いのでこの程度の装備だったようだ。ただ、搦め手の北方面にも堀切があるようなので、弱点の改修は続けられたようだ。

茨山城 (24)社殿からみた南方面。失われた遺構はどのような構築物であったのだろうか。

【城歴】

小川村誌には大日方氏の堀之内の城として記載があり、飯田城と共に大日方氏の持ち城だったというが、確かな記録は無い。
沢渡氏の三日市場城の支城という説が近いのではないかと思う。いずれにしても三日市場城も茨山城も武田統治時代に改修を受け、戦国末期の天正壬午の乱では小笠原貞慶と上杉景勝の争奪戦の舞台となったので最後まで使われ続けた事が想定される。

茨山城(28)茨山城の登り口。

≪茨山城≫ (いばらやまじょう 城峰) 

標高:791.5m 比高40m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:北安曇郡白馬村神城
攻城日:2012年10月20日 
見どころ:土塁、堀切
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:5分
注意:特に無し
付近の見どころ:記事の地図を参照願います
参考文献:「図解山城探訪 第六集 安曇史料編 宮坂武男著」
Special Thanks:ていぴす様、馬念様

茨山城 (26)目と鼻の先には三日市場城がある。技巧的な縄張りは素晴らしいので必見の山城だ!


Posted on 2013/11/19 Tue. 00:00 [edit]

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平倉城 (北安曇郡小谷村中谷平倉山)  

◆スズメバチの攻撃により退却を余儀なくされた飯森十郎春盛討死の城◆

前回掲載した須立之城ですが、下書き保存したつもりが「本チャン保存」で掲載されていたのにはタマゲタ(汗)

うたた寝しながら記事を書いているので、どんな終了方法をしたのか記憶に無いのである・・。

後悔公開してしまった以上慌てて続きを書いて上書きたのは云うまでも無い・・・(笑)

さて、寄り道し過ぎたのでそろそろ小谷村に戻るとしようか・・・(爆)

平倉城(小谷村) (9)「切った屋敷」入り口の説明板。

先月発刊された「信濃の山城と城館➐ 安曇・木曽編」の中の宮坂武男氏のコラム「山城の歩き方③」に「平倉城麓の切った屋敷」が登場する。

看板から更に進んだ奥の削平地が屋敷址で、平倉城の東麓の黒岩集落にある地名のようだ。

平倉城(小谷村) (5)「切った屋敷」(推定)

【切った屋敷】

平倉城を攻略した後、武田方では一門一族の残党狩りを行い、生き残った者、傷ついたものを捕えて男は皆切ってしまった。その場所を切った屋敷と呼んでいる。
この時在る家のお婆さんは十歳ぐらいの男の子の孫を救うため女装をさせ、検分役人の前へ引き出された時、男根を股から後ろへ廻して押へ、難を逃れたとの事である。(説明板より)

宮坂氏のコラムによれば、切った屋敷でお婆さんが必死に守ったのは討死した飯森十郎信春の嫡子だったという。その後、斉藤氏に身を隠し、もっぱら農業を営み、斉藤氏の婿となって残ったという。

そういえば上田市の鳥屋城も別名「首切り城」と呼ばれて武田による残党狩りと処刑が行われた場所の言い伝えがあったのを想い出した。被征服地の悲話は信州の各地に残っている。

平倉城(小谷村) (10)黒岩集落の外れにある遊歩道の看板。地元の方には「遊歩道」かもしれないが、我々には「登山道」とか「修行・試練・苦難」の表示がお似合いだ(笑)

【立地】

姫川と中谷川の合流点の北、標高721m、姫川よりの比高260mの、突兀と屹立する山塊上に構えられた山城である。
およそ戦国時代の山城を築く地形としても、姫川谷を南北に見通し、各地の山城と連絡でき、交通の要となる位置からみてもこれほど適した場所は少ないのではないだろうか。(小谷村誌より)

平倉城(小谷村) (3)東側の白岩地区からの全景。

この壮大なロケーションと比高差を見た時に戦闘意欲がマイナスになった。「やっぱやめようよ・・」(涙)

【城主・城歴】

「信府統記」の「来馬平倉山古城地」に記載がある。それによれば「・・・応永ノ頃、城主飯森山城守平朝臣盛照ト云フ人在住セリ、是小谷周辺ヲ領セシ故、当城ヲ ヲタリ城ト云フ・・・」

飯森氏は仁科氏の支族で白馬飯森から小谷一帯を領有していたらしい。

天文十七年(1548)に塩尻峠の合戦で仁科一族は小笠原軍として参戦するが、戦線を離脱し二年後に仁科宗家は武田氏に降る。

しかし一族の古厩氏(小岩嶽城)と飯森氏は武田への徹底抗戦を唱えるが、天文二十一年(1552)に武田の猛攻を受け小岩嶽城は落城し古厩氏は滅亡する。

平倉城(小谷村) (11)山頂にあった平倉社は住民の高齢化により参詣が大変ということで平成10年に山麓に移された。

天文二十二年(1553)に第一次甲越合戦が勃発。晴信は適当にあしらって木曽・下伊那・佐久を制圧。国境の仁科口方面は捨て置いたようだ。

第二次甲越合戦の天文二十四年(1555)、旭山城を巡り200日に及ぶ対峙を経て今川義元の仲介により旭山城の破却を条件に双方が和睦。
北信濃の豪族の旧領復帰を認めざるを得ず、武田晴信は川中島四郡で臥薪嘗胆を強いられる。北信濃の攻略は深志~仁科口(大町)~美麻(千見)~柏鉢(中条)に限られ苦戦する。

平倉城(小谷村) (13)息絶え絶えで15分。搦め手の要害だった鉄塔のある出城へ。

弘治三年(1557)の第三次甲越合戦は晴信が決戦を避けたが盤石の支配体制を確立している。

その前の年、武田軍は山県昌景に仁科方面の平定を命じ、小川庄の大日方氏が守る仁科口の千見城、白馬の飯田城、茨山城を陥落させ、大日方氏を恫喝し服属させたという。

平倉城(小谷村) (15)保安道を登れば鉄塔のある出城(搦め手方面)である。

飯森城の城主である飯森十郎盛春は迫りくる山県昌景率いる武田軍を迎え撃つが、持ちこたえられず越後の上杉謙信を頼って逃亡する。

申し訳無いが、あの程度の貧弱な山城で迎撃が出来るほど武田軍は甘くない。しかも猛将山県さんですもの。
飯森さん、見くびり過ぎでしたね・・(汗)

平倉城(小谷村) (21)鉄塔の建設で改変されたらしいが、ここからの景色はピカイチであろう。

平倉城(小谷村) (20)平地を歩くより山並みを越えた方が早いというのはマジなのだ。

んでもって下記に見取図を示します。残念ながら踏査出来なかった場所は封印させてもらいました。

自分の目で見て調査して納得出来たら、いつか追加するんでしょうねえ・・(笑)

平倉城見取図①

武田晴信が仁科口と呼ばれる国境の城を攻め立てたのは、上杉軍の川中島への補給路を断つ為だったという。

仁科宗家が武田に服従しても徹底抗戦を続ける飯森氏には、それなりの何か特別な理由があったのかもしれない。

飯森氏の配下の土豪であった小谷五人衆(のちに二人増えて七人衆というのが正規らしい)のうち、太田土佐、山田左近、田原主馬、細野織部は武田方に降り、山岸豊後は飯森氏と上杉方に逃れて行動を共にしたという。

平倉城(小谷村) (17)鉄塔から臨む城跡。君の行く道は果てしなく遠いのだと実感する瞬間であった(汗)

翌年の弘治三年(1557)、雪で進軍を停止している武田軍の隙を付いて小谷村に戻った飯森十郎盛春は、要害堅固な平倉城(小谷城)を取り立てて武田軍に備えた。

同年七月、上杉の援軍(後詰め)を信じ籠城する飯森十郎盛春は、武田軍の山県三郎兵衛昌景の猛攻に奮戦するも空しく、山県配下の曲淵庄左衛門に討ち取られたという。(落城は七月五日だという)

仁科一族が敵味方に別れた攻城戦は壮絶な激戦だったらしく、武田方として参戦した穂高父子は討死したという。戦後に晴信は攻城戦に参陣した諸将に感状を出している。

国堺の小谷を制圧した晴信は千国氏による警固を強化し、謙信は国境の最前線となる根知城(根小屋)に村上義清を城将として置き、武田の越後侵入に備え監視を強化するよう命じている。

平倉城(小谷城)は飯森氏の滅亡とともに廃城となったようで、その後の文献に登場する事は無かった。

現在の登山道である搦め手付近の防御が脆弱であり、武田軍は恐らくそこから攻め上がったのであろう。
南側の大手を抑えて搦め手を制すれば袋のネズミとなり逃げようがない縄張り上の致命的な欠点は、現地に登ると良く理解出来る。

武田統治時代は、千国庄の黒川城が改修を受け国境の城としての役割を果たしたものと思われる。

平倉城(小谷村) (31)鉄塔から15分登ると四段の削平地が現れる。

平倉城(小谷村) (29)城跡と秋葉社は密接な関係である。

秋葉社のある郭から並行に100mほど南へ移動すると城の中心部となるのだが、中間地点には四基の石塚がある。
宮坂氏によれば、これは攻撃用の投石が集められた場所だという。

平倉城(小谷村) (75)投石用の石塚。

そういえば若槻山城干沢城にも投石用の石を集めた置き場があったのを想い出した。

「一昔前の近所のクソガキじゃあるまいし、石投げが戦国時代の攻撃手段なの?」と思われる方も多いかもしれない。

武田信玄の西上作戦における三方ヶ原の合戦は、武田軍の投石部隊による徳川軍への挑発から始まったという。

「腑抜けの徳川には石だけ投げれば勝てる」

馬鹿にされた徳川軍の最前線の兵士がこの挑発に乗っかってしまい、まんまと武田の罠にハマったらしいのだが、真実かどうかは不明だ(笑)

投石も弓や槍と並び攻撃方法の一つであったことは間違いないらしい。

平倉城(小谷村) (34)43×22で最も大きい郭だが、削平が不完全で工事が間に合わなかったという印象を持つ。

平倉城(小谷村) (42)同じ場所を上段の旧神社跡から撮影。

現地に行くと分かるのだが、この山は基本的に岩山であり、削平にはかなり手間取ったと思われる。

飯森城の落城から僅かな期間で平倉城を仕上げるには条件が悪すぎた。

平倉城(小谷村) (40)近年まで社が建っていた郭。

平倉城(小谷村) (38)虎口ではありません。旧平倉社の参道跡です。

立地的には文句の無い要害だ。上杉を頼って一時的に越後へ逃れた飯森氏の平倉城籠城に対して、謙信は何の援助もしなかったのだろうか?

今回見れなかった「坪根(局)の平」は土塁を多用しているが上杉流の山城とは考えづらい縄張りのようだ。

平倉城(小谷村) (44)頂上へ向かう途中には岩盤を刳り抜いた堀切がある。

平倉城(小谷村) (53)痩せ尾根の剥き出しの岩盤。

平倉山の頂上部分は「郭」とは言えず「一騎駈け」と呼ぶべき防御構造であろうか。

「首かくしの洞穴」と呼ばれる不可解な穴が無数にあり人工的な手が加えられたとは到底思えない天然さである。

平倉城(小谷村) (57)山頂の標識。

平倉城(小谷村) (56)首隠しの洞穴。(推定)

頂上付近から北へ逃れる道もあったようだが、東の搦め手を落とされれば背後に回り込まれてしまうので進退極まったとみるべきであろうか。

平倉城(小谷村) (60)神社跡が指令所だったと思われる。

【スズメバチと云う名の黄色備えの猛将現る】

平倉社のある郭から50m下った場所に「局(つぼね)屋敷跡と呼ばれる三段の郭がある」と現地の説明板に書いてあった。

我々は事前に「坪根平(つぼねだいら)」と呼ばれる尾根が居住空間であり、何らかしかの掘立小屋の跡である事を情報として入手していたので、進軍を開始する。

平倉城(小谷村) (61)数段の段郭が尾根上に展開している。

平倉城(小谷村) (66)位置確認を行う「ていぴす殿」ここからが坪根平だったのに・・。

「注進、黄色備えのスズメバチの攻撃有り。撤収すべし・・」

それはまさに予想しなかった事件であり、苦渋の決断であった。

単騎のスクランブル発進で我々に対して捨て身の攻撃をして来るとなると、巣は近いはずで、大群のスズメバチの来襲は時間の問題である。

「フン、飯森十郎の逆襲か! 急ぎ撤収じゃ!」

平倉城(小谷村) (65)急な斜面を必死で登り撤収する。

例年ならこの時期は」死滅しているスズメバチも異常気象で生きながらえている。

我々にとっては迷惑な話である。

中途半端な調査のままでアップするのも躊躇したが、その険しさ故に落城悲話の残る城は信州ならではのものであると思う。

次回リベンジ編ではハチ対策をしっかりとせねば・・・(笑)


≪平倉城≫ (ひらくらじょう 小谷城・白米城)

標高:790m 比高:330m
築城年代:不明
築城・居住者:飯森氏
場所:北安曇郡小谷村中谷平倉山
攻城日:2013年9月29日 
お勧め度:★★★★☆  
城跡までの所要時間:60分
駐車場:遊歩道入り口手前に路駐。
見どころ:郭、堀切、土塁など
注意事項:ハチに注意。カモシカも生息。
参考文献:「信濃の山城と館➐ 安曇・木曽編 宮坂武男著」
付近の城址:稲葉城、立山(平倉山の南の山で物見跡らしい)
Special Thanks:ていぴす様

平倉城(小谷村) (2)やっぱ登山になった平倉城遠景。














Posted on 2013/11/12 Tue. 22:44 [edit]

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