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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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平倉城 (北安曇郡小谷村中谷平倉山)  

◆スズメバチの攻撃により退却を余儀なくされた飯森十郎春盛討死の城◆

前回掲載した須立之城ですが、下書き保存したつもりが「本チャン保存」で掲載されていたのにはタマゲタ(汗)

うたた寝しながら記事を書いているので、どんな終了方法をしたのか記憶に無いのである・・。

後悔公開してしまった以上慌てて続きを書いて上書きたのは云うまでも無い・・・(笑)

さて、寄り道し過ぎたのでそろそろ小谷村に戻るとしようか・・・(爆)

平倉城(小谷村) (9)「切った屋敷」入り口の説明板。

先月発刊された「信濃の山城と城館➐ 安曇・木曽編」の中の宮坂武男氏のコラム「山城の歩き方③」に「平倉城麓の切った屋敷」が登場する。

看板から更に進んだ奥の削平地が屋敷址で、平倉城の東麓の黒岩集落にある地名のようだ。

平倉城(小谷村) (5)「切った屋敷」(推定)

【切った屋敷】

平倉城を攻略した後、武田方では一門一族の残党狩りを行い、生き残った者、傷ついたものを捕えて男は皆切ってしまった。その場所を切った屋敷と呼んでいる。
この時在る家のお婆さんは十歳ぐらいの男の子の孫を救うため女装をさせ、検分役人の前へ引き出された時、男根を股から後ろへ廻して押へ、難を逃れたとの事である。(説明板より)

宮坂氏のコラムによれば、切った屋敷でお婆さんが必死に守ったのは討死した飯森十郎信春の嫡子だったという。その後、斉藤氏に身を隠し、もっぱら農業を営み、斉藤氏の婿となって残ったという。

そういえば上田市の鳥屋城も別名「首切り城」と呼ばれて武田による残党狩りと処刑が行われた場所の言い伝えがあったのを想い出した。被征服地の悲話は信州の各地に残っている。

平倉城(小谷村) (10)黒岩集落の外れにある遊歩道の看板。地元の方には「遊歩道」かもしれないが、我々には「登山道」とか「修行・試練・苦難」の表示がお似合いだ(笑)

【立地】

姫川と中谷川の合流点の北、標高721m、姫川よりの比高260mの、突兀と屹立する山塊上に構えられた山城である。
およそ戦国時代の山城を築く地形としても、姫川谷を南北に見通し、各地の山城と連絡でき、交通の要となる位置からみてもこれほど適した場所は少ないのではないだろうか。(小谷村誌より)

平倉城(小谷村) (3)東側の白岩地区からの全景。

この壮大なロケーションと比高差を見た時に戦闘意欲がマイナスになった。「やっぱやめようよ・・」(涙)

【城主・城歴】

「信府統記」の「来馬平倉山古城地」に記載がある。それによれば「・・・応永ノ頃、城主飯森山城守平朝臣盛照ト云フ人在住セリ、是小谷周辺ヲ領セシ故、当城ヲ ヲタリ城ト云フ・・・」

飯森氏は仁科氏の支族で白馬飯森から小谷一帯を領有していたらしい。

天文十七年(1548)に塩尻峠の合戦で仁科一族は小笠原軍として参戦するが、戦線を離脱し二年後に仁科宗家は武田氏に降る。

しかし一族の古厩氏(小岩嶽城)と飯森氏は武田への徹底抗戦を唱えるが、天文二十一年(1552)に武田の猛攻を受け小岩嶽城は落城し古厩氏は滅亡する。

平倉城(小谷村) (11)山頂にあった平倉社は住民の高齢化により参詣が大変ということで平成10年に山麓に移された。

天文二十二年(1553)に第一次甲越合戦が勃発。晴信は適当にあしらって木曽・下伊那・佐久を制圧。国境の仁科口方面は捨て置いたようだ。

第二次甲越合戦の天文二十四年(1555)、旭山城を巡り200日に及ぶ対峙を経て今川義元の仲介により旭山城の破却を条件に双方が和睦。
北信濃の豪族の旧領復帰を認めざるを得ず、武田晴信は川中島四郡で臥薪嘗胆を強いられる。北信濃の攻略は深志~仁科口(大町)~美麻(千見)~柏鉢(中条)に限られ苦戦する。

平倉城(小谷村) (13)息絶え絶えで15分。搦め手の要害だった鉄塔のある出城へ。

弘治三年(1557)の第三次甲越合戦は晴信が決戦を避けたが盤石の支配体制を確立している。

その前の年、武田軍は山県昌景に仁科方面の平定を命じ、小川庄の大日方氏が守る仁科口の千見城、白馬の飯田城、茨山城を陥落させ、大日方氏を恫喝し服属させたという。

平倉城(小谷村) (15)保安道を登れば鉄塔のある出城(搦め手方面)である。

飯森城の城主である飯森十郎盛春は迫りくる山県昌景率いる武田軍を迎え撃つが、持ちこたえられず越後の上杉謙信を頼って逃亡する。

申し訳無いが、あの程度の貧弱な山城で迎撃が出来るほど武田軍は甘くない。しかも猛将山県さんですもの。
飯森さん、見くびり過ぎでしたね・・(汗)

平倉城(小谷村) (21)鉄塔の建設で改変されたらしいが、ここからの景色はピカイチであろう。

平倉城(小谷村) (20)平地を歩くより山並みを越えた方が早いというのはマジなのだ。

んでもって下記に見取図を示します。残念ながら踏査出来なかった場所は封印させてもらいました。

自分の目で見て調査して納得出来たら、いつか追加するんでしょうねえ・・(笑)

平倉城見取図①

武田晴信が仁科口と呼ばれる国境の城を攻め立てたのは、上杉軍の川中島への補給路を断つ為だったという。

仁科宗家が武田に服従しても徹底抗戦を続ける飯森氏には、それなりの何か特別な理由があったのかもしれない。

飯森氏の配下の土豪であった小谷五人衆(のちに二人増えて七人衆というのが正規らしい)のうち、太田土佐、山田左近、田原主馬、細野織部は武田方に降り、山岸豊後は飯森氏と上杉方に逃れて行動を共にしたという。

平倉城(小谷村) (17)鉄塔から臨む城跡。君の行く道は果てしなく遠いのだと実感する瞬間であった(汗)

翌年の弘治三年(1557)、雪で進軍を停止している武田軍の隙を付いて小谷村に戻った飯森十郎盛春は、要害堅固な平倉城(小谷城)を取り立てて武田軍に備えた。

同年七月、上杉の援軍(後詰め)を信じ籠城する飯森十郎盛春は、武田軍の山県三郎兵衛昌景の猛攻に奮戦するも空しく、山県配下の曲淵庄左衛門に討ち取られたという。(落城は七月五日だという)

仁科一族が敵味方に別れた攻城戦は壮絶な激戦だったらしく、武田方として参戦した穂高父子は討死したという。戦後に晴信は攻城戦に参陣した諸将に感状を出している。

国堺の小谷を制圧した晴信は千国氏による警固を強化し、謙信は国境の最前線となる根知城(根小屋)に村上義清を城将として置き、武田の越後侵入に備え監視を強化するよう命じている。

平倉城(小谷城)は飯森氏の滅亡とともに廃城となったようで、その後の文献に登場する事は無かった。

現在の登山道である搦め手付近の防御が脆弱であり、武田軍は恐らくそこから攻め上がったのであろう。
南側の大手を抑えて搦め手を制すれば袋のネズミとなり逃げようがない縄張り上の致命的な欠点は、現地に登ると良く理解出来る。

武田統治時代は、千国庄の黒川城が改修を受け国境の城としての役割を果たしたものと思われる。

平倉城(小谷村) (31)鉄塔から15分登ると四段の削平地が現れる。

平倉城(小谷村) (29)城跡と秋葉社は密接な関係である。

秋葉社のある郭から並行に100mほど南へ移動すると城の中心部となるのだが、中間地点には四基の石塚がある。
宮坂氏によれば、これは攻撃用の投石が集められた場所だという。

平倉城(小谷村) (75)投石用の石塚。

そういえば若槻山城干沢城にも投石用の石を集めた置き場があったのを想い出した。

「一昔前の近所のクソガキじゃあるまいし、石投げが戦国時代の攻撃手段なの?」と思われる方も多いかもしれない。

武田信玄の西上作戦における三方ヶ原の合戦は、武田軍の投石部隊による徳川軍への挑発から始まったという。

「腑抜けの徳川には石だけ投げれば勝てる」

馬鹿にされた徳川軍の最前線の兵士がこの挑発に乗っかってしまい、まんまと武田の罠にハマったらしいのだが、真実かどうかは不明だ(笑)

投石も弓や槍と並び攻撃方法の一つであったことは間違いないらしい。

平倉城(小谷村) (34)43×22で最も大きい郭だが、削平が不完全で工事が間に合わなかったという印象を持つ。

平倉城(小谷村) (42)同じ場所を上段の旧神社跡から撮影。

現地に行くと分かるのだが、この山は基本的に岩山であり、削平にはかなり手間取ったと思われる。

飯森城の落城から僅かな期間で平倉城を仕上げるには条件が悪すぎた。

平倉城(小谷村) (40)近年まで社が建っていた郭。

平倉城(小谷村) (38)虎口ではありません。旧平倉社の参道跡です。

立地的には文句の無い要害だ。上杉を頼って一時的に越後へ逃れた飯森氏の平倉城籠城に対して、謙信は何の援助もしなかったのだろうか?

今回見れなかった「坪根(局)の平」は土塁を多用しているが上杉流の山城とは考えづらい縄張りのようだ。

平倉城(小谷村) (44)頂上へ向かう途中には岩盤を刳り抜いた堀切がある。

平倉城(小谷村) (53)痩せ尾根の剥き出しの岩盤。

平倉山の頂上部分は「郭」とは言えず「一騎駈け」と呼ぶべき防御構造であろうか。

「首かくしの洞穴」と呼ばれる不可解な穴が無数にあり人工的な手が加えられたとは到底思えない天然さである。

平倉城(小谷村) (57)山頂の標識。

平倉城(小谷村) (56)首隠しの洞穴。(推定)

頂上付近から北へ逃れる道もあったようだが、東の搦め手を落とされれば背後に回り込まれてしまうので進退極まったとみるべきであろうか。

平倉城(小谷村) (60)神社跡が指令所だったと思われる。

【スズメバチと云う名の黄色備えの猛将現る】

平倉社のある郭から50m下った場所に「局(つぼね)屋敷跡と呼ばれる三段の郭がある」と現地の説明板に書いてあった。

我々は事前に「坪根平(つぼねだいら)」と呼ばれる尾根が居住空間であり、何らかしかの掘立小屋の跡である事を情報として入手していたので、進軍を開始する。

平倉城(小谷村) (61)数段の段郭が尾根上に展開している。

平倉城(小谷村) (66)位置確認を行う「ていぴす殿」ここからが坪根平だったのに・・。

「注進、黄色備えのスズメバチの攻撃有り。撤収すべし・・」

それはまさに予想しなかった事件であり、苦渋の決断であった。

単騎のスクランブル発進で我々に対して捨て身の攻撃をして来るとなると、巣は近いはずで、大群のスズメバチの来襲は時間の問題である。

「フン、飯森十郎の逆襲か! 急ぎ撤収じゃ!」

平倉城(小谷村) (65)急な斜面を必死で登り撤収する。

例年ならこの時期は」死滅しているスズメバチも異常気象で生きながらえている。

我々にとっては迷惑な話である。

中途半端な調査のままでアップするのも躊躇したが、その険しさ故に落城悲話の残る城は信州ならではのものであると思う。

次回リベンジ編ではハチ対策をしっかりとせねば・・・(笑)


≪平倉城≫ (ひらくらじょう 小谷城・白米城)

標高:790m 比高:330m
築城年代:不明
築城・居住者:飯森氏
場所:北安曇郡小谷村中谷平倉山
攻城日:2013年9月29日 
お勧め度:★★★★☆  
城跡までの所要時間:60分
駐車場:遊歩道入り口手前に路駐。
見どころ:郭、堀切、土塁など
注意事項:ハチに注意。カモシカも生息。
参考文献:「信濃の山城と館➐ 安曇・木曽編 宮坂武男著」
付近の城址:稲葉城、立山(平倉山の南の山で物見跡らしい)
Special Thanks:ていぴす様

平倉城(小谷村) (2)やっぱ登山になった平倉城遠景。














Posted on 2013/11/12 Tue. 22:44 [edit]

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千国城峯 (北安曇郡小谷村千国)  

◆千国集落背後の見張り砦か?◆

攻城戦記の記事を信州に戻すとアクセス数は飛躍的にアップするという驚愕の真実を目の当たりにする。

信玄に蹂躙された信濃の田舎ネズミが他府県の記事を書いても信憑性は無いらしい・・(笑)

今回紹介するのは「千国城峯(ちくにじょうみね)」

「千国城」と紹介する文書やサイトもあるが、貧相な単郭の物見なので「城峯」というこの地域の独自の呼び方が似合っているので、ここでは千国の城峯としておく。

千国城(小谷村) (24)尾根筋の入り口を探すヒマと余裕がない場合は直登が最善の策である(笑)

小谷村誌によれば、小谷村で「城(じょう)」と名のつく地名は村内に24ヶ所あり小屋は7ヶ所あるという。

「そんなにあったの????」

そういう疑問の声も聞かれそうだが。境目の領域とは集落防衛の為にあちらこちらに物見を置く過酷な運命に翻弄されたのである。

千国城峯見取図①

【立地】

親沢と黒川沢が姫川へ合流する手前の突き出した半島状の尾根にある。千国集落の北側に位置し、北西200m(比高60m)には立屋の城峯がある。ここからは千国街道は無論、対岸の黒川館、黒川城が良く見通せる。

千国城(小谷村) (3)尾根上に長さ100m巾15mの削平地が続く。

峯の先端には堀切を穿った単郭があるだけで、他には何も無いようだ。

この砦の唯一の見どころはその単郭の切岸で、実に見事な削りっぷりである。

千国城(小谷村) (6)「ていぴす」さんも納得の加工度の高い切岸。

千国城(小谷村) (11)祠2つが鎮座する狭い曲輪。

縄張りとしては貧弱なので、立屋城峯の出城か物見台だったと思われる。(立屋の城峯は後日掲載予定)

千国城(小谷村) (15)曲輪背後の堀切。要害性は低い。

さしたる見どころも無い見張り砦なのだが、記録に残さなければ存在した場所すら忘れ去られるだろう。

千国城(小谷村) (17)尾根の付け根にも堀切が残る(現在は墓地)

名門仁科一族の派生である千国氏。ここら周辺には結構千国という名字の方が多いので、帰農し土着したのであろうか。

千国城(小谷村) (19)目と鼻の先にある立屋の城峯。千国城峯が支城(出城)としては最適な位置にある事がわかる立地である。

一族が敵味方に分かれようとも、家名を残す事こそ肝要。そんな時代を生き残れた事は幸運だったと思われる。


≪千国城峯≫ (ちくにじょうみね 千国城)

標高:680m 比高:60m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:北安曇郡小谷村千国
攻城日:2013年9月29日 
お勧め度:★★☆☆☆  
城跡までの所要時間:10分 駐車場:道路脇に路駐。
見どころ:切岸、堀切。
注意事項:尾根手前からの入り口は私有地で分かりづらい。適当に直登するのが最適である。
参考文献:[小谷村誌][図解山城探訪 第六集安曇編 宮坂武男著]
付近の城址:立屋の城峯、黒川館、黒川城。
Special Thanks:ていぴす様







Posted on 2013/10/11 Fri. 20:59 [edit]

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稲葉城 (北安曇郡小谷村中谷)  

◆越後へ抜ける中谷川沿いの間道を押えた平倉城の支城◆

先日の管理人の画像掲載は衝撃笑劇というか刺激的であったらしい・・・(笑)

「こんなヤツが攻城戦記を書いていたとは片腹痛いわ!!」罵声が聞こえそうですネ・・(爆)

そこらへんの山とか博物館とか図書館で見かけたら、エサを与えないで下さいネ・・一生付いていきますよ(笑)

さて、今回ご紹介するのは平倉城の東約3kmに位置する稲葉城。

稲葉城(小谷村) (44)民家の裏山が稲葉城。

【立地】

平倉城から中谷川沿いの街道を東へ進むと、稲葉集落のすぐ東に沿うように、北西に向かって突出する狭い尾根の上に立地している。
小谷温泉から越後へ抜ける間道と、大宮諏方神社から土谷川へ抜ける間道を抑える要衝の地であり、戦国時代には平倉城の支城として機能したと思われる。

稲葉城見取図①

稲葉山城は、室町初期の築城様式を基本にした大小七つの郭に、戦国時代の拡張工事により造成した鞍部の削平地(居住用か?)と搦め手の防御郭、オーソドックスな二重堀切を追加した連郭式の山城である。

登城口(大手口)は、稲葉沢を川沿いに進み橋を渡ると戻るようなコースで尾根筋を登る道があるので、そこから入る。

稲葉城(小谷村) (40)比高50m程度なので気楽に登ろう。

稲葉城(小谷村) (1)大手口の最初にある西端の曲輪。

稲葉城(小谷村) (4)堀切に見えるかは経験次第?

ここの城跡の最大の見どころは、郭2と郭1の間にある塁壁(切岸)であろう。ヘタな堀切以上の堅い防御である。

稲葉城(小谷村) (7)傾斜のある郭3.

稲葉城(小谷村) (16)城内で最大の面積を誇る郭2.

稲葉城(小谷村) (9)郭2から見た背後の塁壁。

段々郭を尾根に積み重ねる手法は信濃の山城に良く見られる縄張である。

中には異常とも異様とも思えるような執念で尾根を切り刻んだ段郭に出くわす事があるが、堀切よりも有効な防御手段だ。

稲葉城(小谷村) (14)切岸の石積みは後世の土留めと思われる。

稲葉城(小谷村) (19)郭1。

当初の城域はここまでだったようだ。砦というよりは烽火台程度だったのだろう。

稲葉城(小谷村) (22)落差のある背後の尾根には何も無い。

稲葉城(小谷村) (23)鞍部の郭4.削平が甘いが東側に土塁を盛り防御を強化している。

小谷村の村誌では、郭4の西側の小郭を本郭と見ている。確かに城域では最も高い場所にあり背後も二重堀切で穿っているが、増設された郭4の背後を守る為の措置であり指揮所では無いと思う。(宮坂武男氏も否定的だった)

戦国時代への突入で風雲急を告げる信越国境の地も大忙しで自己防衛を迫られた事であろう。

稲葉城(小谷村) (30)堀切㋑。結構しっかり掘られてマス。

稲葉城(小谷村) (34)㋑と㋒は北側の斜面で堀底を連結して集合掘りにしたような跡があるが中途半端で終わったようだ(堀底に立ってるのは‘ていぴすさん‘)

位置や大きさ、目視で確認出来るかどうかを含めて平倉城の支城という見方もあるが、元々は中谷川沿いの集落の見張り砦であり、飯森十郎春盛が平倉城に籠城するに及び後詰めの兵士を入れたのかもしれない。

稲葉城(小谷村) (33)北へ続く尾根を遮断する堀切㋒。

冬将軍が来れば身動きの取れない豪雪地帯。このような場所でも敵からの侵略に備えて砦を築く時代とは、いったいどういう時代であったのか?

当たり前の疑問に、今さらながらにその答えを探し続けるのであった・・・・。

稲葉城(小谷村) (41)稲葉城の登城口からは平倉城、そしてその向こうの千束城(せんぞくじょう)が視界に入る。

≪稲葉城≫ (いなばじょう)

標高:654m 比高:84m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:北安曇郡小谷村中谷稲葉
攻城日:2013年9月29日 
お勧め度:★★★☆☆  
城跡までの所要時間:10分 駐車場:適当に路駐
見どころ:土塁、堀切など
注意事項:特に無し
参考文献:[小谷村誌][図解山城探訪 第六集安曇編 宮坂武男著]
付近の城址:平倉城
Special Thanks:ていぴす様

稲葉城(小谷村) (42)








Posted on 2013/10/08 Tue. 20:20 [edit]

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黒川館 (北安曇郡小谷村千国)  

◆武田・上杉・小笠原に翻弄された千国一族の居館跡◆

イベント紹介という姑息な手段で攻城戦記の掲載を引き延ばしてみたが、これ以上は無理のようである・・(笑)

さりとて、三河・遠江遠征記も飽きられて来たようなので、ここらで地元を掲載しましょう。

今回ご紹介するのは塩の道「千国街道(ちくにかいどう)」で有名な信越国境小谷村(おたりむら)の黒川館。

黒川館(小谷村) (2)千国駅横のグランドから見た居館跡。河岸段丘上の要害の地であるが地震や浸食でかなり崩落しているのが分かる。

居館跡に立つ説明板にも「ここは中世の土豪千国氏(ちくにし)の居館跡である」としかない。

千国氏とは何者なのかを調べないと、小谷村ツアーは面白くないので郷土誌を参考に調べてみた。

黒川館(小谷村) (51)居館跡はこの先15m(南側より見る)。千国駅または南小谷駅から姫川を渡り一本道を進む途中にあり車で訪問可能。

【千国氏の出自】

千国氏は仁科一族の堀金氏(ほりがねし 現在の安曇野市堀金)の出自だという。

室町時代の安曇地方は、南を小笠原氏・北は仁科氏という二大勢力が領有し西牧氏と細萱氏はその間にあった。
当初は穂高川が境界線だったようだが、仁科氏の南進は続き古厩(小岩嶽・穂高有明)を制し、更に烏川を越え堀金の地に及ぶ。

仁科宗家は一族に古厩氏を名乗らせ、堀金氏も古厩氏の同族というのが定説である。

黒川館(小谷村) (6)つい見落としてしまいそうな居館入り口の標識。雰囲気を壊さない配慮が嬉しい。

堀金氏の初見は天文二十年(1551)で「高白斉記」の十月二十日の条に「(晴信)深志へ御着城、二十二日ホリカ子出仕」とある。

この三日後に反武田勢力の拠点だった平瀬城は武田軍の猛攻により落城、二十七日には小岩嶽城は放火されている。(小岩嶽城は翌年八月には晴信が自ら出陣し落城させられた)

既に仁科宗家は前年の天文十九年(1550)七月に武田晴信に出仕していたが、堀金氏は最後まで武田に降るか迷っていたようである。

黒川館(小谷村) (9)居館手前の堀切と北側の弓屋敷。

小岩嶽城の陥落により安曇郡は武田氏の支配下となったが、小谷の仁科氏の支族飯森十郎春盛は越後の長尾氏に通じて武田晴信への徹底抗戦を続けていた。

弘治三年(1557)七月、武田晴信は平倉城(小谷城)に籠る飯森十郎春盛を攻め滅ぼし、堀金氏もこの戦に出陣したようで、慶長十六年(1611)書留の千国文書によれば、
「此丹波(堀金氏三代目の兄)武田信玄(晴信)随申(身)、千国之平平倉責之節軍功ニ依て千国六ヵ村を被出置、則千国名字ニ信玄より被仰付、堀金職を捨、千国名字ニ成ル」とされている。

※小谷は来馬・石坂・千国・中谷・土谷・大網・深原の七ヵ村で、飯森氏の支配下にあったわけであるが、これに代わって堀金氏がこの支配を命じられたようである。しかし千国文書にみえる「千国五ヵ村の地頭」の五ヵ村がどこを指しているか明白でない。山口裕氏所蔵文書の「堀金氏之事」によると、千国丹波は千国黒川で病死していることからして千国枝郷の黒川城主であったようである。

以上「堀金村誌 上巻(自然歴史編)平成三年三月刊行」より引用。

黒川居館跡見取図①

平倉城の落城については、近日掲載予定の平倉城で書こうと思っているのでここでは割愛させていただく。

武田統治時代の安曇野地方は、当初仁科一族の間接支配という形をとってきたが、北信濃を巡る上杉との緊張が高まると信玄は後顧の憂いを断つ結論を出した。

信越国境の安曇野を固める為に仁科宗家を滅ぼし、自分の子の五郎に仁科宗家を継がせて仁科五郎盛信と名乗らせたのである。

黒川館(小谷村) (14)上巾15mの巨大な堀跡。

盛信はそれまでの安曇野地方における仁科支配体制を継続し優れた手腕を発揮し、信玄亡き後は兄の勝頼を補佐して信越国境を抑えた。

仁科盛信が仁科領国を統治していたのは10年間だが、千国氏も盛信の配下として小谷十人衆と共に小谷の地を治めたものと思われる。

黒川館(小谷村) (23)堀底を歩く「ていぴすさん」。巨大な堀であることがお分かりいただけるでしょうか?(土塁より撮影)

黒川館(小谷村) (17)堀に接続する高土塁。


【天正壬午の乱における小谷の争奪戦】

武田氏滅亡後の天正十年(1582)三月、織田信長は武田に反して織田軍に味方した木曾義昌に安曇・筑摩の両郡を与える。義昌は直ちに仁科一族や在地土豪の家臣化に着手した。

一方、上杉景勝は信越国境の根知城に西片次郎右衛門房家を入城させ、小谷から仁科方面への通路を閉鎖し兵士を送り込んだ。

六月二日の本能寺の変で信長が横死し信濃から織田方の武将が撤収すると、上杉軍は直ちに小谷から安曇野方面へ侵入し在地土豪より人質を取り制圧。

さらに小笠原貞慶の叔父である貞種を擁して木曾義昌の深志城を攻めてこれを駆逐し、七月五日には入城に成功する。

黒川館(小谷村) (27)一部耕作地になっているが、地元の住民には本丸と呼ばれる居館跡地。

これに対して小笠原貞慶は徳川家康の支援を得て旧領の旧家臣団を募り、七月十六日には貞種を追い出し深志城の奪取に成功した。

上杉氏は小谷・白馬方面を抑えていたが、貞慶が安曇野における仁科一族の大半を味方に引き入れ、八月には上杉方となった日岐城を攻め落とし犀川を北上。麻績・会田を席捲すると同時に大町以北も支配下として小谷で上杉軍と対峙する。

黒川館(小谷村) (31)土塁に立つ石碑と千国丹波守利秀の墓碑。天正十年7月5日落城とある。

天正十年十一月二日付けの「上杉景勝感状」(中土小谷温泉 山田寛氏蔵)によれば、上杉方では西片房家の配下にあった大所豊後守をはじめとする小谷衆が、この頃小笠原方の支配下にあった千国城を攻略し、付近一帯を焼き払っている。
※この千国城は「千国の城」とのみ書き記されているので黒川城を指すのか不明である。

これに対して小笠原貞慶も千国の地の確保に努め、翌天正十一年(1583)三月三日付けの「小笠原貞慶黒印状」(三郷村 千国靖夫氏蔵)によれば、貞慶はそれまで千国丹波守が握っていたと見られる千国の跡職(支配権)を善左衛門以下十人の「千国奉公衆」に宛行い、槍と鉄砲を十丁ずつ確保して小谷筋の警戒をするように命じている。

黒川館(小谷村) (33)居館跡から見る南の砦群。

ここで矛盾が生じている。

居館跡の墓碑によれば千国丹波守利秀は七月五日に上杉方の攻撃により死亡(落城)している。

しかし小笠原方の文書によれば、千国丹波守は上杉方なのである。

一族で敵味方に分かれた為に丹波守を名乗る人物は二人いた(?)のであろうか。

黒川館(小谷村) (37)北に突き出た先端部分が最終。その先の土塁で終わっている。

小谷地方における小笠原VS上杉の仁義なき戦いは千見城を巡る攻防戦同様に一進一退が続き、最終的に小笠原の支配権が確定するのは秀吉の裁定が下りる天正十四年(1586)である。

まさに「やられたら やり返す、倍返しダ!」を実践している(笑)

黒川館(小谷村) (41)度重なる地震や姫川の浸食で西側はかなり崩落が進んでいる。

黒川館(小谷村) (38)東斜面の胡桃沢は土塁と空堀で防御を強化している。

小谷村誌を基にツラツラと書いてきましたが、如何だったでしょうか?

えっ、よくわかんない? 小生も千国一族だらけでよくわかんない・・(汗)

境目の城も大変だけど、境目の住民も大変だってのが良く分かっただけでも「ヨシ!」としないとネ!(笑)

黒川館(小谷村) (47)千国街道を見下ろす絶好のロケーションには違いない。

≪黒川館≫ (くろかわやかた)

標高:580m 比高:50m(姫川より)
築城年代:不明
築城・居住者:千国氏
場所:北安曇郡小谷村黒川
攻城日:2013年9月29日 
お勧め度:★★★☆☆  
城跡までの所要時間:- 駐車場:適当に駐車
見どころ:土塁、堀切など
注意事項:崖注意。
参考文献:堀金村誌、小谷村誌
付近の城址:黒川城、千国城、立屋の城峯砦など
Special Thanks:ていぴす様







Posted on 2013/10/05 Sat. 22:49 [edit]

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千見城③ (大町市美麻千見)  

◆小笠原と上杉が固執した仁科口の真相とは?◆

さて、撮影した千見城C地区の記憶が風化しないうちに記事をまとめてみようと思う(汗)

千見城見取図①

B地区からC地区へは「図解山城探訪」の宮坂氏の縄張図によれば道が付いているのである。

我々は恐る恐るB地区の郭3から獣道のような道を辿ってみた。

この道が正しいのか誰も分からない・・(笑)

案の定、途中で不安になり、ていぴす殿を斥候として北東の尾根に登らせる(申し訳無いがこの場合、年齢の若い奴が犠牲になる軍律なのだ)

千見城C地区

間もなく本隊はC地区に到達したことを確認する。斥候は無駄だったのだ・・・(爆)

千見城 (81)西尾根の堀切㋘。

縄張図を見ても分かるのだが、この地区は連絡用あるいは物資補給用の郭だったらしく防御構築はかなり緩い。

A地区への侵入は東側の岩壁が障害になり無理であり、B地区への移動もかなり制限される。

仲場(語源は帳場が転じたらしい)に監視の城への侵入者の番兵を置いたらしいので、城の水の手を守る出城だったと想定される。

千見城 (83)尾根上の細長い郭。

【城主・城歴】

水内群と安曇郡の境目に接する千見城は仁科口への備えとして、従属していた村上氏の命により小川庄を治めていた大日向氏の本城「布留山城」の支城として築かれたという。

天文二十一年(1552)、安曇野郡へ侵入した武田軍の飯富昌景(山県昌景)の攻撃を受け、城将の大日向長辰は激戦の上討死し、千見城は落城したという。

千見城 (84)C地区先端の郭(18×9)

城跡に立つ麻績村教育委員会の説明板によれば、弘治元年(1555)に武田晴信が千見城を乗っ取った功により大日向主税助に感状を出しているという。(大日向文書)

つまり、一度落城した千見城は武田方に敵対する勢力により奪還されているのである。

大日向氏の同族による内紛とみて良いような気がする。

その辺の経緯は、大日向氏の出自にまで遡る必要があり、一族の血生臭い葛藤は小川村の諸城を調べてみないと何とも言えないのでここでは割愛する。

最終的に大日向氏は武田氏に恭順したのは事実であり、主税助が手土産として千見城を差し出したのである。

千見城 (85)堀切㋙からみた先端の郭。

●天正十年(1582)、武田氏滅亡後は上杉景勝の領地になる。

●天正十一年四月二十四日、景勝は大日向佐渡守に武備を固めさせる。

●天正十二年(1584)、府中を回復した小笠原貞慶は仁科衆に命じて千見城を攻め落とし沢渡盛忠、渋田見源助らに城番を命じている。
同年四月、上杉景勝が攻め入り千見城を奪還し、須田信正が城番となる。その後、小笠原軍の仁科衆の攻撃を受けるが、小田切左馬助が死守する。

●天正十三年(1585)、小笠原貞慶再度攻めてこれを奪取。翌年六月に二木盛正に城の普請を命じている。

千見城 (87)堀切㋙


まあね、普通だったらここら辺で抗争を諦めるのですが、景勝さんと貞義さんは仁義無き戦いが好きだったようで、天正十八年九月に景勝さんの部下は突如として千見城(安曇郡)、青柳城(筑摩郡)、大城(生坂村)を急襲し占拠するという暴挙に出た(汗)

秀吉の惣無事令に反したという事で北条氏が七月に滅ぼされたのに、この暴挙はある意味凄い(笑)

秀吉さんも景勝のヤンチャぶりには手を焼いたのでしょう。

結局火事場泥棒の景勝さんは、兵の引き上げを命じられて退散止む無し(爆)

貞慶さんと景勝さんが執念を燃やし続けた千見城。

あと二回ぐらいは現地を調べないと真相は藪の中のような気がします・・・(汗)

千見城攻略図


≪千見城≫ (せんみじょう) 

標高:835m 比高240m
築城年代:不明
築城・居住者:大日向氏
場所:大町市美麻千見
攻城日:2012年10月20日 
見どころ:高土塁、堀切、郭群
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:60分
注意:A地区背後の岩場は転落注意。
付近の見どころ:
参考文献:「図解山城探訪 第六集 安曇史料編 宮坂武男著」「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望 平山優著」





Posted on 2012/12/04 Tue. 22:43 [edit]

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地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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