らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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千見城① (大町市美麻千見)  

◆戦国末期まで争奪戦の繰り返された境目の要害城◆

上伊那の城の在庫ネタは高遠城ぐらいしかないので、安曇郡の攻城戦記に戻る事にする・・(汗)

同迷軍の「ていぴす」殿のブログ「長野県の歴史を求めて」が上伊那に攻略軍を展開しているので、相互不可侵条約を破る訳にはいかない・・(笑)

千見城 (1)千見城入口にある案内図。

旧美麻村千見(現在の大町市美麻)にある千見城(せんみじょう)は、天正十年(1541)に天正壬午の乱が勃発した際に、小笠原貞慶と上杉景勝が熾烈な領土争いを展開した水内郡と安曇郡の境目の城である。

信州の山城群でも幾度の戦禍にまみれた希有な山城なのだが、立地条件の険しさ故にWebでもあまり公開されていないのが現状のようだ。(クーさん注意報も誇大宣伝されているというが)

千見城 (2)山麓を流れる土尻川。

「ジッちゃんの名にかけて攻め落とすしかあるまい・・・・」

しかし、小生は父方も母方の祖父も生まれる前に亡くなっているので顔も名前も知らない・・(爆)

一人三役で演じた軍議の結果、同迷軍のていぴす殿に支援を依頼し客将として相模より馬念殿をお招きした。

クーさん恐れるに足らず・・このことである(笑)

千見城見取図①

千見は「狭い谷間」を意味しているという(図解山城探訪の宮坂氏解説より)

その千見集落の北側の険しい岩山の上に千見城があり、水内郡と北安曇を抑える要衝であった為に戦国時代には武田vs上杉、武田氏滅亡後は小笠原貞慶vs上杉景勝が争奪戦を繰り広げた地となった。

千見城 (4)仲場と呼ばれる裏巡回路の沢筋。

案内図によれば「表巡回路」(千見公民館からの登路)と「裏巡回路」(仲場への沢を詰めて北西の尾根への登路)があるようだが、「人生は裏街道こそ本懐」と信じる我々は迷わず裏手を攻め上がる事にした・・(笑)

以下は今回の攻略図である。続くものあらばご参考にされるのも良かろう。(全行程ゆっくり巡り3時間程度)

千見城攻略図A・B・C全て見れるコース。大町市に採用申請中・・ウソです、笑)


【千見城 A地区】

本来は一城一記事がモットーであるが、城域の特殊性もあるのでA・B・Cの三地区分割で詳細をお伝えする事にした。ご容赦願いたい。

千見城A地区

仲場という場所には廃屋の跡と墓所があった。そこから右手に折れて沢筋を詰めて北西尾根の稜線に辿り着く。

城の背後で搦め手方面と思われるが確証は無い。ここから恐ろしい急斜面を登るのだが、堀切㋐と㋑の間には橋頭堡がありその先は更に高さ10m以上の岩壁が城域への侵入を阻む。

千見城 (6)堀切㋐

千見城 (9)鉄塔保安道の階段を登る馬念殿。

千見城 (11)橋頭堡から見下ろす堀切㋑。

屏風のような岩壁が連続し傾斜もキツイ北斜面からの攻城は不可能だろう。

千見城 (16)「安全は全てに優先する」(笑)

千見城 (17)こんな所きとうなかった(涙)

まあね、そうは言っても困難を乗り切ると雄大な景色のご褒美があるわけで・・・。

千見城 (19)千見城で唯一視界が開ける場所である。

そんなこんなでようやく標高831mの頂きに到達する。往時は見張り台と烽火台だったと思われる。

この南側が主郭を含む千見城の主要部なのだが、山を削った大掛かりな土木工事の跡があり驚いた。

千見城 (23)削平された頂部。

千見城 (24)頂部から東へ落差のある塁壁。

千見城 (30)主郭を守る屏風として削られたのが分かる。

千見城 (25)説明板の立つ場所は犬走りか?

A地区の見取図には郭1・郭2・郭4として記したが、微妙な段差や工事途中で放棄されたような場所があるのでA地区全体を本郭として捉えたほうが分かりやすのかもしれない。

千見城 (31)東尾根に続く塁壁。

千見城 (32)堀切㋒。東尾根の先は犬戻りと呼ばれる崖となるのでこの程度でも充分か。

千見城 (35)南東斜面の堀切㋔。

千見城 (39)ていぴす殿と横堀㋓。斜面に対して土塁を付けている。

いかん、またツラツラと写真を並べて文章力の無さをカバーしようとしている・・・(汗)

小屋掛け出来そうなのは郭2と郭4と想定される。

千見城 (41)郭4(20×15)

千見城 (47)意味不明な盛土が二ヶ所ある郭2(25×40)

さて、A地区をザーっと駆け足で見てみましたが如何だったでしょうか?

えっ、写真ばっかで良くわかんない?・・・(汗)

城歴や争奪戦について記載して欲しい・・・(汗)

まあ、それは次回以降のお楽しみということにしましょうか・・(笑)

千見城 (51)B地区から見上げたA地区方面。比高差は30mだが切岸として加工された急斜面は攻城兵の体力を奪うに充分である。

怒涛のB地区攻防戦は次号でご紹介!





Posted on 2012/11/23 Fri. 11:39 [edit]

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三日市場城 (北安曇郡白馬村神城)  

◆二重横堀に放射状の竪掘を組み合わせが見事な沢渡氏の居城◆

白馬地方を代表する山城である。

ここ半年の間「見たい」「行きたい」「彷徨いたい」という思いばかりが募って悶々としていた・・
(やはりビョーキが進行している・・・笑)

先日、馬念様に無理をお願いしてご案内していただくことが出来た。

三日市場城 (2)城の登り口に鎮座する神明社(国重要文化財)

仁科三湖の北橋にある青木湖のほとりから佐野坂を越えると、四か庄平(しかじょうだいら)という盆地になる。
盆地の東側に位置するのが三日市場集落で、ここに沢渡氏(さわどし)の居館があり東の独立峰のような山頂に三日市場城(大宮城)がある。
※御屋敷という地籍に居館があったようだが、現在は遺構すら残っていないという

茨山城 (26)北にある茨山城から見る三日市場城。

沢渡氏がいつ頃仁科氏から分かれたかは不明であるが、数多い支族の中でも重きをなしていたようで、その所領については現在の白馬村南部の佐野、沢渡、堀の内付近であったという。

白馬周辺諸城配置図
四か庄平の城砦群(国土地理院1/25000引用)

その後、天文年間に信濃に侵攻してきた武田方に降り配下として引き続きこの地方を所領し、武田氏滅亡後は小笠原貞慶に従い、小倉藩小笠原家の家臣として明治維新を迎えたという。

沢渡十人衆と呼ばれる在地土豪が沢渡氏に仕えていて、周辺に点在する砦や物見を守っていたとされる。

三日市場城縄張図①

三日市場城の大手は神明社のすぐ南の尾根道で、城は標高875m、麓からの比高125mである。

傾斜の緩い北側の斜面に部分的に二重の横堀を巡らせ、十条近くの竪掘を組み合わせている。
主郭の周囲を段郭で固め、隣接する郭2は北へ向けてL字で二重となる横堀で遮断されている凝った縄張りを持つ。

三日市場城 (6)最初に現れる大手筋の堀切。

三日市場城 (9)左右に堀切を入れた郭4。

三日市場城 (14)防御の厳しい郭3。

三日市場城 (17)武者溜まりを想定する郭6。(40×10)

大手筋にあたる南側は段郭を置いて竪掘を配置する事で動きを制御しているのが見て取れる。

主郭を1とするか2とするかは難しいところであるが、指令所とすれば標高の高い場所にある郭1であろう。

三日市場城 (15)北側にのみ土塁を置く主郭1。

三日市場城 (23)堀切㋐と周囲の土塁。

三日市場城 (26)郭2から見た堀切㋐と高土塁。


郭2の背後の高土塁は、堀切の高さを稼ぐ効果と共に、外から郭内部を目隠しする効果がある。


三日市場城 (29)堀切㋑。

三日市場城 (30)斜面に残る井戸跡。

三日市場城 (36)東尾根の最終堀切㋒。

さて、三日市場城はその城館と共に天正年間に武田氏により破壊されたという伝承があるが、どうであろうか?

信玄は仁科宗家に対して上杉への寝返りの嫌疑を掛けて滅亡させると、その名跡を盛信に相続させ仁科氏を名乗らせている。
直轄地における懐柔策として信玄の用いる常套手段であり、信越国境の警備を引き続き盛信が担当していた。

三日市場城 (40)城域北東の堀の処理。

三日市場城 (41)段差を付けた北側二重横堀の遺構。

青木湖の湖岸に位置する森城が強大な軍事拠点として機能していたので三日市場城は捨て置かれたのであろう。

甲越同盟が成り、天正9年(1581)に織田・徳川の包囲網に対する軍事再編成で仁科盛信は高遠城へ。

翌天正十年に甲州征伐で武田が滅亡すると安曇地方は筑摩と共に木曾義昌に加増されるが、本能寺の変で織田氏が斃れると天正壬午の乱が勃発。安曇地方も例外なく徳川・北条・上杉の草刈り場となってしまう。

三日市場城 (54)北斜面に放射される竪掘。


三日市場城 (57)最大の防御となる北側斜面の処理。

木曾⇒上杉⇒小笠原貞慶と目まぐるしく変わる支配下で、沢渡氏も小豪族の悲哀を感じていたのかもしれない。

最終的に貞慶の配下となった沢渡氏は上杉との国境警備で重要な役割を果たすようになり、三日市場城も再興され現在の姿に改修されたのであろうか。

三日市場城 (79)城域南斜面に突き出た段郭。

朝日村にある武居城と比高や標高、縄張が良く似ている。この地方を代表する秀逸の山城であり、大事に保存してもらいたいものである。


≪三日市場城≫ (みっかいちばじょう 沢渡城、宮原城、大宮城) 

標高:875m 比高125m
築城年代:不明
築城・居住者:沢渡氏
場所:北安曇郡白馬村神城三日市場
攻城日:2012年10月20日 
見どころ:二重横堀、畝傍状竪堀、堀切など
お勧め度:★★★★★(満点)
城跡までの所要時間:20分
注意:特に無し
付近の見どころ:神明社、白馬山城ネットワーク
参考文献:「図解山城探訪 第六集 安曇史料編 宮坂武男著」「探訪 信州の古城  湯本軍一監修」

三日市場城遠景


















Posted on 2012/11/18 Sun. 11:03 [edit]

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一夜山城 (北安曇郡白馬村神城)  

◆腰掛け呼ばわりされた不名誉な城◆

今年は例年より冬将軍の足音が早くて、昨日本日と白馬村方面は積雪状態となった・・(汗)

今週末に平倉城を攻める予定だったが、週末も雪の予報らしく小谷村方面への進軍は諦める事にした。

今回ご紹介するのは飯田城の対面にある「一夜山城(いちやさんじょう)」

秀吉の墨俣一夜城のような出世城ではなく、一夜で落城したという不名誉な城歴を持つ城である。

一夜山城 (2)先頭を歩く「ていぴす」さん。だらだらした上り坂は小生も苦手である。

この日は、キラネーム同迷軍に馬念様を加えた豪華キャストで千見城、三日市場城、茨山城を撃破し最終に攻め込んだのが一夜山城であった。

「比高100mなど、攻めたうちに入らぬ!!」(山県昌景談)  このことである・・(笑)

一夜山城見取図①

飯田城の北東にある独立丘陵が一夜山で、最高地点の標高851m、山麓からの比高は110mである。

登り始めて直ぐにデジカメのバッテリー切れとなり、仕方なく携帯電話のカメラでのショボイ撮影となる・・(汗)

一夜山城 (3)プアな堀切跡

痩せ尾根の道を登るのだが、どこからが城域なのか不明である。

この手の城は尾根上を数本の堀切で穿つのがセオリーなのに、防御がかなり甘い。

一夜山城 (4)主郭虎口と堀切㋐、そして土塁。

永遠と続きそうな緩い上り坂を詰めると平場になり、ようやく堀切があって一段登るような虎口に至る。
※この虎口は後世のもので、往時は北西にあったらしい。

主郭手前の堀切なのに中途半端で、左右の斜面に対しても竪掘りの処理もしていない。

一夜山城 (5)
本郭に祀られた秋葉社と三尺坊の祠。

一夜山城 (8)
祠の側面の北西側は高土塁で囲まれている。

本郭の東側には山麓の長谷寺に通じる道があったようだがハッキリしていない。

プアな城にしては郭2との接続部分に平虎口を構えているのが面白い。門があったのだろうか?

一夜山城 (9)

攻め手を意識しているのは北西方面であり、郭2の下に犬走りのような段郭を設けているのだ。

一夜山城 (11)
郭2(52×25)

標高のピークに郭3を置いている。

南尾根からの迎撃用の郭であり、櫓が置かれていた可能性もある。

一夜山城 (13)郭3。

郭3の先には土塁で囲まれた「馬場跡」と説明板に書かれた郭がある。

「馬隠し」だったとあるが、こんな場所に馬を置くはずなど無く、堅固な土塁の構築から見ると城域南側の防御施設であろう。

その証拠に土塁下の尾根にはこの城で唯一の幅広な堀切が存在している。

一夜山城 (18)「馬隠し郭」と土塁。虎口のように見えるが後世の破壊であり、連続した土塁だったと思われる。

一夜山城 (21)馬隠し郭と二重堀切。


【城主・城歴】

仁科氏の氏族である大森氏の居城。弘治二年(1556)、千見城を落とした武田軍の山県昌景は白馬街道の諸城を攻め落とし、飯森春盛の守る飯森城(一夜山城)に迫る。
ここでの籠城戦は不利とみた飯森盛春は、城を捨て越後に逃げたという。

一晩にして落城したこの城は「一夜山城」と呼ばれた。

※飯森春盛は翌年二月に小谷村の平倉城に復帰し武田に抗するが、厳冬期を押して急襲してきた山県勢に攻められ奮戦空しく討死した。

一夜山城 (25)山麓にある長谷寺(ちょうこくじ)。飯森盛春の夫人の墓所がある。

一夜山城は別名「飯森殿腰掛城」と呼ばれる。

飯森信春も、これだけのプアな城では武田軍の猛攻に耐えられないと読んでいたのであろう。

飯田城に逃げ込むつもりが、先に飯田城が落城してしまった以上、逃げるしかなかったのかもしれない。

一夜山城 (27)長谷寺にある飯森夫人光姫の墓。

「大将たるもの、いかに生き恥を晒そうとも、生き延びてその汚名を果たす事こそ肝要である。」

小生の好きな信長公の名言であり、座右の銘である。

しかし、豪雪を押して出撃した山県昌景の執念は、飯森氏を卓越してしまった。

これも戦国の定めであろうか・・・・。

一夜山城 (24)
長谷寺付近から見た一夜山城。

≪一夜山城≫ (いちやさんじょう 飯森城、飯森殿腰掛城) 

標高:851m 比高110m
築城年代:不明
築城・居住者:飯森氏
場所:北安曇郡白馬村神城
攻城日:2012年10月20日 
見どころ:堀切、郭、土塁など
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:20分
注意:特に無し
参考文献:「図解山城探訪 第六集 安曇史料編 宮坂武男著」

Posted on 2012/11/15 Thu. 21:34 [edit]

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飯田城 (南安曇郡白馬村神城飯田)  

◆三方堅固の鉄条網を備えた山城◆

場面を白馬村に戻そう・・(笑) 

そうは言っても、木曾地方の諸城攻略は来年の課題として残しておこうと思う。楽しみである。

白馬村にある飯田城は秀逸の縄張りを持つ城なのだが、Webでの記事が無い。明確な登城経路が無いという事であろうか?

「落ちぬなら、落としてみしょうホトトギス」 ビョーキ同迷軍に不可能はありえない事を立証したかった(汗)

飯田城攻略図①飯田城攻略図。(国土地理院1/25000参照)

この城の攻略方法は二つしかない。

犬川から月夜沢の大手筋を探して詰めるか、飯田城秋葉砦の尾根を登り縦走して北西の城域へ入るか二者択一である。

午前中に佐野城の攻防戦で疲労困憊してしまったキラネーム同迷軍は、当初の予定だった秋葉砦からの縦走を体力消耗の理由により諦め、西尾根の大手筋からの攻城で軍議を決する。しかしこの決定こそが悪夢の始まりだった。

飯田城(白馬村) (76)ベースキャンプから見た攻撃路。

城域北側を流れる犬川の対岸に車を捨て、犬川を渡河する。大手に通じる月夜沢を目指すが途中で藪が酷くなり道も消えてしまい、進軍停止となる。

「直登するしかないのか‥…」

傾斜角45度以上はある。午前中に攻めた佐野城への尾根よりも酷い斜面であった。

斜面の木立をロープ代わりにして時には根っこさえ掴みながら這いつくばる。滑り落ちたら止まる保証など無い。

飯田城(白馬村) (1)竪掘㋐の側面を登るていぴす殿。

山県さんもこのような無謀な城攻めなどしなかったであろう・・(笑)

飯田城(白馬村) (2)尾根が見えていても一進一退の繰り返しである。

楽勝で攻める予定がドツボにハマった蟻地獄である。「なんでそうなるの??・・(汗)」

飯田城見取図①
無謀な攻城ルートと見取図。

地形図だけ見れば北東の尾根伝いに登るというルートがありそうだが、犬川で刻まれた崖淵と雑木が立ち塞がり絶対に無理であった。

苦闘すること30分で堀切㋐へ到達。竪掘は横への動きを止めるというのをマジで体験出来たのは貴重だ(笑)

飯田城(白馬村) (3)上巾4mの堀切㋐


【A地区】

標高989mにある主郭1を中心に西尾根・北東尾根・南尾根を城域として展開している。
西尾根は岩場の断崖絶壁でありここからの侵入は不可能である。

飯田城(白馬村) (5)四段程度の段郭を備え、北は絶壁。

主郭は14×18の方形。藪だらけで虎口ははっきりしない。一段下を囲むように段郭が展開する。

飯田城(白馬村) (7)藪で荒れ放題の主郭。

飯田城(白馬村) (8)郭の東西に土塁が確認出来る


飯田城(白馬村) (9)西側の腰郭。横堀を入れている

南尾根は例の如く段郭を階段状に重ねる手法だが、斜面に横堀や竪掘を入れて寄せ手の動きを制御している。
冬は積雪が多い地域なので、雪の重みで木の枝が地面を這うように伸びている。(これが結構邪魔なのだ)

飯田城(白馬村) (12)主郭西側の土塁と切岸。木が横に生えているのがお分かりだろうか。

A地区におけるウィークポイントは北東の尾根になる。我々のように強引に北の斜面を登るヤツは考えられないので(笑)、北東尾根へ横移動して尾根伝いに攻めるというのがセオリーだろう。

飯田城(白馬村) (18)西尾根を強力に遮断する二重堀切

飯田城(白馬村) (19)上巾6m堀切㋑

飯田城(白馬村) (25)北側斜面に落ちる堀切㋒(上巾5m)

飯田城(白馬村) (27)南側へ竪掘として50m近く延びる

二重堀切から北東の尾根には土塁を壁にするような形で築いてして北斜面からの侵入を防御している。
尾根へは数段の細長い郭を置いているようだが、灌木と藪に阻まれて詳細が確認出来ない。

飯田城(白馬村) (32)北東尾根へ続く土塁

飯田城(白馬村) (33)北東尾根の郭。これ以上先には入れなかった

B地区へ繋がる東尾根を下る途中に、尾根を遮断する横堀㋓がある。

南側を土塁で迫り上げたこの横堀は、竪掘となって斜面を下る堀切㋑と㋒に合流していたフシがある。主郭への侵入に対する厳しい防御の一環であろう。

飯田城(白馬村) (36)横堀㋓

【B地区】

南東に位置する秋葉砦へ通じる尾根上にある。居住区と推定される南沢にあるC地区と本城のA地区を守るために増設されたと見るべきであろうか。
秋葉砦側の尾根には強力な防御ラインとして㋔㋕の二重堀切で遮断している。

飯田城(白馬村) (41)郭2(19×7)

残念な事にここに展開する段状の郭群は例によって灌木が密集していて侵入すら出来ない。辛うじて郭2が確認出来るくらいである(汗)

飯田城(白馬村) (44)山を越えた先が秋葉砦方面。


飯田城(白馬村) (48)補助線を引いても分かりづらい写真

飯田城(白馬村) (50)堀切㋔。通路としても利用したのか?


【C地区】

A地区とC地区に挟まれた南側の沢部分である。宮坂武男氏はここに居住区があったと推定されている。
月夜沢に通じるこの区間は城の大手筋であり、物資の補給はここから行われたと思われる。
日当たりは悪いが、城の最も重要な場所であり、戦時はここを指令所としてAとBに指示や伝令が為されたものであろう。

飯田城(白馬村) (55)かなり広い削平地

ここには大手口と断定する証拠としての虎口が確かに存在しているのだ。

飯田城(白馬村) (56)しっかりとした遺構が残る


飯田城(白馬村) (62)虎口を下りて突き当ると月夜沢。往時は運搬用の通路もあり水の手だったと思われる。


【城主・城歴】

飯田城は天文年間に仁科氏の家臣大日向佐渡守の居城だったと伝わる。
弘治二年(1556)、武田方の飯富昌景(山県昌景)の攻撃により落城。
この城を接収した昌景が一時的に白馬平定の前進基地として使ったようだが、廃城時期は不明。

飯田城(白馬村) (64)犬川より見た飯田城西尾根。


月夜沢から下ったものの、どうやってベースに戻るのか全く分からず試行錯誤で犬川を渡河する。

疲労困憊はピークで、何とか雑木林を抜けて出発地点に戻れた。大手筋からの攻城など無理であったと思う。

まさに「三方堅固の城」であった。これだけの縄張りの城を大日向だけで造ったとは思えない。

仁科氏の家臣を総動員して要塞化したのであろう。(対岸の飯森城が極端にプアなのは疑問だが・・)

飯田城(白馬村) (67)飯田城遠景

同迷軍としてお付き合い頂いたていぴす様には感謝でございますw

≪飯田城≫ (いいだじょう月夜沢城 犬川城) 

標高:984m 比高240m
築城年代:不明
築城・居住者:大日向氏
場所:北安曇郡白馬村神城飯田
攻城日:2012年11月3日 
見どころ:二重堀切、郭、土塁など
お勧め度:★★★★★(満点)
城跡までの所要時間:直登で30分
注意:地図・地形図・コンパスは必携。一人での訪問は避けるべし。
付近の見どころ:冒頭の記事を参照
参考文献:「図解山城探訪 第六集 安曇史料編 宮坂武男著」












Posted on 2012/11/11 Sun. 10:46 [edit]

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佐野城 (北安曇郡白馬村神城佐野)  

◆標高1200m、比高450m。険しき尾根伝いの中腹に存在する謎の要塞の正体とは◆

300番目の城は、白馬村に展開する城塞群でも謎に満ちた佐野城となった。

この城の存在を知ったのは、城郭サイトのパイオニアである城と古戦場の管理人マサハレ殿からの小生宛てのメールであった。

実際にこの城を訪れているのは宮坂武男氏、三島正之氏、そしてWEBでは登山家のMIHARUさんだけらしい。

信州の山城を掲載する小生にとって、避けては通れない山城らしい・・(笑)

佐野城(白馬村) (1)さのさかスキー場を抜ける林道が登城口。

この時期、単独での攻城はクーさんの籠城が予想されるので、長野県の歴史を探し求めての管理人である「ていぴす」殿に援軍要請を行う。中塔城攻めでその真価を発揮したビョーキ同盟軍は11月3日の総攻撃で軍議を決したのである。

白馬周辺諸城配置図                 白馬村神城周辺の城の配置図。

山の持ち主さえ場所を知らないという佐野城の攻略については慎重な事前計画を練った。(でも当日のみ)

しかし、同迷軍の戦術は「尾根をタダヒタスラノボル」という宮坂武男氏の言葉しか無かったのである(笑)

佐野城攻略図

気温0度の9:10に侵入開始。荒れた林道らしく車での侵入を諦めて徒歩で林道の分岐点を目指す。

佐野城(白馬村) (88)林道の分岐点。右へ折れる。


分岐を右に入り林道を5分ほど歩くと佐野城へ続く尾根の先端に辿り着く。ここまで所要時間20分。

踏み跡もケモノ道も無き喘ぐような急斜面の尾根を「ただヒタスラノボル」のである。

佐野城(白馬村) (3)尾根の先端。登るのに苦労する。

佐野城(白馬村) (5)先陣のていぴすさん。キツイ斜面である。

身の丈以上ある灌木が密集する道無き急斜面を傷だらけで這い上がる。

尾根先から約30分の悪戦苦闘を経て標高1100m付近に小さな棒状の郭と堀切を確認する。

佐野城(白馬村) (9)郭から見下ろした堀切。

「あと100mぐらいで城域だろうか・・・」

中腹に築かれた城ほど厄介なものは無い。尾根を間違えたら発見出来る可能性など皆無に等しいからだ。

佐野城見取図①
主要な郭が並列式の珍しい縄張りの佐野城。


佐野城(白馬村) (10)城域手前の削平地(20×10)

「まるで紅葉祭り」このことである(笑)

黄色とオレンジ、茶色の景色ばかりで、この先に目指す城跡があるのか不安になる。

戦闘開始から1時間10分でようやく城域の始まりを示す二重堀切㋐㋑に到達する。

佐野城(白馬村) (13)埋もれてハッキリしない堀切㋐

佐野城(白馬村) (15)北の沢へ向けてほぼ直角に遮断する二重堀切の上部7で7ある㋑

堀への虎口ははっきりしないが、尾根に向けて土塁を施した二重堀切が尾根側を完璧に遮断し、南北へ竪掘として落とされているのが確認出来る。

佐野城(白馬村) (18)北側の斜面へ竪掘で続いている

堀切の上段は斜面を削平したと思われる窪地となった段郭が三段ほど確認出来る。

数時間前にはクーさんがラジオ体操をしたらしく、落ち葉が土まみれで獣特有の臭いが残る(汗)

佐野城(白馬村) (23)クーさんはここで体操か?

窪地の上は土塁を周回させた堀切㋒がW型で城域を遮断している。念を入れた防御構造である。

佐野城(白馬村) (24)城域西側

佐野城(白馬村) (26)城域北側は二本の竪掘り接続させて斜面の動きを封じている

佐野城の横堀㋐㋑㋒は、このあとに攻め落とした飯田城と共通する防御構造であることが判明する。

恐らくこの要塞も沢渡氏が関係したものだと思われるのだが、どうだろうか。


さて、この横堀の斜面を登ると、世にも奇妙な並列する郭群に遭遇する。

佐野城(白馬村) (49)この削平地に何があったのか?

尾根筋の斜面を削り、更に掘り下げて空間を確保すると共に南北の郭を谷間で独立させている。

いったい何の為に?そしてこの場所は何に使われたのだろうか???

やはりクーさんが遊んでいたと思われる跡が鮮明に残っている・・・(笑)

佐野城(白馬村) (27)南の郭群。

佐野城(白馬村) (30)方形の郭2。

佐野城(白馬村) (33)連続する郭と堀切の土塁。

中央分離帯ともいうべき場所について、宮坂氏は天水溜めあるいは小屋掛けと推定している。

小生は現地を見た限りでは、足弱の女子供を寒さ厳しい風雨から守る掘立小屋があったのだろうと推定する。

佐野城(白馬村) (66)北側に位置する郭1。


北側にある本郭からは周辺の様子が手に取るように見える(といっても現在は藪で視界はあまり良くないが)

佐野城(白馬村) (72)郭1から見た北北東方面。

佐野城(白馬村) (70)山麓の佐野集落。

佐野城(白馬村) (79)南東の青木湖も視野に入る。

ある程度規模のデカイ物見と考えられない事もないかもしれない。

しかし、ここが物見や逃げ込み城では無かったというのが、その厳しい防御ラインの構築に見て取れるのだ。

これだけの高地にある砦ならば、下から攻め登る敵に対する㋐㋑㋒の堀切は納得出来る。

しかし、並列の郭の登り斜面の傾斜に更に土塁を伴う堀切㋓を穿って上からの攻撃に備えたのはどういう訳であろうか?

佐野城(白馬村) (63)堀切㋓。

佐野城(白馬村) (64)北へ竪掘として落ちる堀切㋓。


驚愕すべき事実は、堀切㋓の更に上の登り斜面に堀切㋔があるのだ。1600mの尾根先からの敵の来襲に備えたというのか??

佐野城(白馬村) (76)急斜面の堀切㋔。

佐野城(白馬村) (75)斜面の上から見下ろした堀切㋔。R型になっているのが分かる。


三島正之氏の調査によれば、この尾根の上にも堀切があるらしいが今回は断念した。クーさんを追いつめてはいけない・・(笑)


さてさて、撮影した写真は見事に「紅葉祭り」となってしまい、何が何だか分からないので補助線を落書きしたのでご容赦願いたい(爆)

佐野城(白馬村) (80)ズーム7倍で青木湖を撮影。


【佐野城の考察について】

城主・城歴とも伝承が無く全く不明である。地籍は城平というのは確からしい。
周辺には白馬城塞群ともいうべき城や砦が多数あり、仁科氏の配下である沢渡氏や大日方氏がこの地方を治めていたので佐野城もその一部として築かれたものであろう。
領民の逃げ込み城ではないか、との推察もあるが、果たしてそうであろうか?

信州において標高1200mというのは雲がかかるかどうかの境界の高さであると思う。
物見や烽火台としては、雲に隠れては意味が無いと思われる。

この標高に匹敵するのは松尾城の尾根伝いにある遠見番所の1270m。とても居住空間ではない。
奇妙山も似たような標高だが、戦国期は烽火台としての価値であろう。
標高と使用目的に近いのは中塔城かもしれない。

佐野城で特筆すべきはその防御構造であると思われる。
尾根側に対して二重堀切+7本の竪掘り+W型の堀切を設けている。そして段郭を置く事でその守りは鉄壁となっている。

城の主要部は小屋掛けの左右に小高い郭を置いて侵入者を水際で撃破する構造である。
この縄張りには「守り抜く」という強烈な意思が存在している。

普請に際しては地元領民や土地の土豪だけでは到底不可能で、縄張りに段郭を多用し横堀を穿つ手法は飯田城と共通しているので、沢渡氏が関係していると思うのだがどうであろうか。

いずれにせよ、これだけ高い場所の斜面によくこんな城を造ったものである。
風雲急を告げる信濃への侵略者に備えた仁科一族の拠点だった事に間違いないと思われる。

佐野城(白馬村) (90)林道中間地点から見る佐野城(ズーム7倍)

紅葉祭りの城跡からまさに転がり落ちるように下界へ戻った(笑)

きっとまたクーさんが城主として遊んでいるのであろう(爆)

≪佐野城≫ (さのじょう) 

標高:1200m 比高450m
築城年代:不明
築城・居住者:沢渡氏か?
場所:北安曇郡白馬村神城佐野
攻城日:2012年11月3日 
見どころ:堀切、郭、土塁など
お勧め度:★★★★★(満点)
城跡までの所要時間:1時間10分
注意:地図・地形図・コンパスは必携、熊対策グッズ必死。一人での訪問は避けるべし。
付近の見どころ:冒頭の記事を参照
参考文献:「図解山城探訪 第六集 安曇史料編 宮坂武男著

無理を言って同行していただいた「ていぴす」さんには感謝感謝でございます。

この場を借りて心よりお礼申し上げます。

佐野城(白馬村) (91)国道から見た佐野城遠景。

この後同迷軍が攻め入った「飯田城」(白馬村)の悲惨な攻城戦は、次号でご紹介しましょうか・・・(汗)













Posted on 2012/11/07 Wed. 07:39 [edit]

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