らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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間山館 (中野市間山津島)  

◆中野小館に引っ越す前の高梨氏の本拠地◆

台風よりも寒冷前線に一度お出まし頂き、広葉樹の葉っぱを片っ端から落として頂きたいと願っております。

もちろん農作物に影響の無いように、さりげなくササッと・・・・(笑)

今回ご紹介するのは「ここら辺にあったのだろう」と云われている高梨氏の拠点の間山館(まやまやかた)。

間山館(中野市) (5)
石動社と見間違えた「間山の双立道祖神像」(中野市指定有形文化財)。


【道祖神】(どうそじん)

信州の田舎暮らしでは「道祖神祭り」なるイベントが集落単位で行われる。同じ長野県でも地方によって習わしが違う。
そもそも道祖神とは、一般的には「道の神」あるいは「旅の神」と考えられているが、村の入口や峠に祀られている事から「境を守る神」または「悪魔や疫病神を追い払う神」(村に入れないようにする)とも伝わる。

双立道祖神(そうりつどうそじん)は信州に多く見られる、いわゆるバカップル仲良き夫婦の像を彫ったものである。微笑ましい立像からエロスの極限まで表現された立像まで多彩な表現がありまさに民衆美術の先駈であろう。

間山館(中野市) (6)
間山の双立道祖神は、オカンがひょうたんの徳利、オトンが杯を持つ愛らしき夫婦像である。


【間山館の立地】

信州が生んだ偉大な作曲家の中山晋平記念館の南東400mの旧日野村の間山集落で、津島公会堂の横にある「石動社」(いするぎしゃ)の近くに「石動の館」(いするぎのやかた 間山館)と呼ばれる居館があったとされるが、場所は特定されていない。
古くから交通の要衝にあたり、北国往還の間山峠や大熊峠の北側を抑えるにはピンポイントである。

間山館周辺の城砦群
間山館を囲むように城砦群が展開する。

【城主・城歴】

井上氏の一族から派生した高梨氏は、須坂の高梨から拠点を「くぬぎ原」(現在の小布施町都住付近)に移し、高梨政盛の代の文明十八年(1486)までは拠点としていた事が「諏訪御符札之古書」の記録に残っている。(現実にはもうしばらく在住していたという)
しかし、その前に一時期前山(間山)にいたことがあるようで、近世文書(白井ちか氏所蔵)中に「政盛の軍は牛頭天王の社前で戦捷を祝し、それから間山の館へ帰る、石動(いするぎ)の構えなり」とあり、現に間山の津山地籍に石動神社が残っている。(長森原の戦いで関東管領の上杉顕定を討ち取った時の戦勝祝い)

間山館周辺図
津山集落と石動の社。この辺に居館があったらしいが、場所は特定されていない。

間山の背後は険しい産がkが連なり、両側も馬蹄形に山で囲まれた天然の要害をなし、その間に間山城や小曽崖城(新野)を配置し、更に峠道によって山田や菅へ通じる交通の要所となっている。
しかし、中野扇状地や小布施方面を一望に収める事が出来ない山間地であったので、領域支配の中心としては好条件といえず、何らかの事情により暫定的な本拠地とされたのであろう。
それは文明年間まで高梨本郷がくぬぎ原に置かれていたことからも推測される。

間山館(中野市) (16)
集会所の脇には今も石動の社(いするぎ)が残る。

間山館(中野市) (13)
若干の段差があるだけで、居館の面影など何処にも無い。

高梨家の中興の祖と云われる高梨政盛は、越後守護城代の長尾為景と縁戚関係を結び越後にも所領を持ち、維谷城を中心として関東管領や越後守護との抗争に突入し北信濃の豪族も巻き込む事態となった。
※この時代の仁義なき戦いは知識がとても欠乏しているので、そのうちチャンと整理してお伝えしたい・・(汗)

間山館(中野市) (17)
間山館の西側の小曽崖城(おそがいじょう)。この城の麓に中山晋平記念館がある。

間山館(中野市) (20)
背後を山に守られた要害の地である。

間山館(中野市) (22)
謎のベールに包まれた真山城はここにあったのだ。

間山館は一時的な本拠地であり、高梨政盛は中野氏を滅ぼすと居館を中野小館に移している。
※一説には政盛の後継者である澄頼の代とも伝わる。

間山館(中野市) (24)
間山館の北東を守る尾根の砦二ヶ所。

ここから虎視眈々と中野氏の所領に対する侵攻準備を着々と進めていたのだと思われる。
小豪族が外敵から身を守るには最適の要害であるが、中野扇状地を見渡すには中途半端な場所で、所領の全体を掌握出来ない。

関東管領を斃した政盛の武勇は全国に知られる事となり一躍時の人とはなったものの、戦国大名への道を歩むには絶対的な何かが足りなかったようである。

間山館(中野市) (26)
間山館付近から見た中野市方面。


≪間山館≫ (まやまやかた 石動の館)

標高:400m 比高:-
築城年代:不明
築城・居住者:高梨氏
場所:中野市間山
攻城日:2014年5月11日 
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:無し
見どころ:-
付近の城跡:真山城、小曽崖城など
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃高梨一族」(平成19年 志村平治著)、「信濃の山城と館⑧」(平成13年8月 宮坂武男著)、「中野市誌 歴史編」(昭和56年 湯本軍一)

間山館(中野市) (31)
近くにある中山晋平記念館。(奥の山峰が小曽崖城)

「カチューシャの唄」は知らなくても、心温まる童謡の数々はは知っている。が、「東京音頭」が彼の作曲だとは晴天の霹靂であった・・・(汗)










Posted on 2014/10/12 Sun. 07:51 [edit]

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中野小館 (中野市中野)  

◆北信濃最大の中世居館跡◆

平時は麓の居館で政務を執り、戦時は背後の険しき要害(詰めの城)に籠り侵略者に対抗する・・・

いわゆる中世戦国時代における「城館一体型」(館と山城のセット)については賛否両論があり、色々な方々の意見を読んだり聞いたりするのであるが、イマイチ決め手に欠く。

当初は戦など起きる事など想定せずに、領主が所領を統治するのに都合のよい場所に建てた居館だったはずである。

それが風雲急を告げる戦国時代に突入していくと、近くに山など無い平野部では居館を戦闘用に改修せざるを得なくなり、山間部の猫の額ほどの狭い居館に至っては改修するスペースも無いので、背後の山に専用の防御施設を作り始めた・・・案外そんな理由だけかもしれない。

高梨氏館跡 (3)
この中世の素晴らしい遺構を自ら買い取って後世に残してくれた高梨家旧臣畔上氏には感謝ですw

今回ご紹介するのは、中世の城館の基礎が学べる方形居館の「中野小館」(なかのおだて・高梨氏館跡)
ここのパーツが理解出来ると、山城は基本パーツの応用なので難しく考える必要がなくなるので、お勧めだ。

高梨氏館跡 (4)
居館の内部への入口は「虎口(こぐち)」と呼ばれる。中野小館の三ヶ所の虎口は冠木門(かぶきもん)だったという。

【立地】

中野扇状地の東側に聳える大平山の西麓で大日神社の西隣りにある。高台なので、中野盆地は一望出来る位置にあり、東虎口は搦め手とされ、鴨ヶ岳城に通じている。

高梨氏館跡 (6)
美しい薬研掘(やげんぼり 巾は約8m)と復元された木橋。

【城主・城歴】

築城年代について「高梨由来記」の観応二年(1351)築城説含め諸説あるが、中野氏の館跡を永正の頃(1504~1520)に高梨政盛・澄頼父子が大修築したものである。
武田信玄の北信濃侵攻により高梨政頼が飯山城に退去した後は、武田に降った高梨氏の旧臣である小島氏が入城し、武田滅亡後は上杉景勝に旧領安堵された小島氏が引き続き居住するが、天正十八年に高梨頼親が小島氏の協力もあって悲願の本城復帰を果たす。
その後慶長三年(1598)、景勝の会津転封により高梨氏もこの地を去り廃城となる。

中野小館見取図

その後の寛永六年(1666)、高梨氏の旧臣畔上新兵衛(あぜがみしんべえ)が館跡を買取り、尾張高梨家に差し上げ、天和年間(1681~1684)畔上六兵衛らが、尾張高梨家と交渉して開墾し、以来年々方物を尾張高梨家へ送ったという。
明治九年(1876)、尾張高梨家の末裔が移り住んで以降、高梨氏の所有であったが、昭和六十一年(1986)に高梨家から譲り受け、居宅部分を残して中野市の所有となった。
※尾張高梨家は高梨政頼の後を継いだ喜三郎の長男。喜三郎は御館の乱の際に誅殺され宗家は弟の頼親が継いだ。


高梨氏館跡 (9)
発掘調査により、居館を囲む土塁は元々築地塀で内側に堀が巡っていたものを二度の改修で現在の形にした事が判明。

【城跡】  ※信濃高梨一族 (平成19年 志村平治著 P166~168の本文引用)

昭和61年から平成4年にわたって「高梨氏居館跡公園」整備のため発掘調査が行われた。
その結果、館内の南東から庭園跡、門跡一棟、中央部から礎石建物址五棟、掘立建物址七棟、計十二棟の建物址群、南と南西の土塁からは新たに虎口や水路などが見つかった。また、多数の中世土師器(はじき)や陶器・珠洲焼(すずやき)・古銭が出土した。土塁の三段階以上の構築過程等も確認され、中部地方の中世史・戦国時代史を考える上で、武士団の文化レベルや方形館の発展過程を示すものとして高く評価され、高梨氏館跡は、平成十九年(2007)二月六日付けで国の史跡に指定された。

高梨氏館跡 (7)
南虎口から西側の大手虎口に向けての堀跡。

高梨氏館跡 (11)
居館の東半分には庭園跡があり建物12棟の内の主殿を含む8棟が集中している。

高梨氏館跡 (19)
池は後期バージョンがの枯山水仕様が復元され、滝石組・護岸石などの露出と修復を行い、築山などの地形を再現している。

庭園跡は館の東南隅に鴨ヶ岳を背景に池が造られている。枯山水の庭園である。東南隅に三個の石組みからなる滝があり、この石組の裏に北から続く水路が巡らされている。この石組の間から水を落としたとみられ、池が広がっていた。池の岸は山石や河原石で囲まれ、複雑な汀(みぎわ)線を構成している。池の周囲には回遊の園路が設けられ、水路にも蓋石が置かれていた。池の中央には「中島」と考えられる石組みもあり、京都の文化を取り入れた庭園である。

高梨氏館跡 (20)
池から北側はこんな感じ。

高梨氏館跡 (30)
北東の土塁の上から見ればこんな感じであろうか。

高梨氏館跡 (26)
搦め手から見た南へ続く堀。

高梨氏館跡 (32)
居館北側の薬研堀。これだけの遺構が残っているとは凄い事である。

城館の周囲に残る地名は「館回り」くらいで、城館集落の様子をよく伝えていないが、やや離れた北西の方角(松川地籍)に「馬場」や高梨氏の建立した「阿弥陀堂」地名が見える。それに続いて南に「西屋敷」・「笠屋敷」があり、さらに城館の南方に「市道」・「屋敷添」・「東屋敷」・「西屋敷」があるから、集落は城館の西方(市街地)から南方(下小田中)にかけて展開していたものとみられる。
城館の東方から北方にかけては屋敷地名が少なく、かわって、「如法寺」・「寺西」(常楽寺か)・「霊閑寺」・「阿弥陀堂」(前記)地名が見え、寺が集まっている。当時はまだ兵農未分離であったから、家臣としては重臣や高梨惣領の直轄する足軽・中間クラスしか城館周辺に集住せず、他の家臣はほとんど在郷・在村していたのである。

しかし、農工・農商未分離に近い商工業者も若干在住し、地名「市道」に示される如く、市座のある六斎市場をもった領域内の流通経済上の中心をなしており、高梨氏がこれを統制していたものと見られる。だがそれは、近世城下町の縮図の如きものではなく、中世的な淋しい城下集落にすぎなかったものとみられる。
※中野市誌 歴史編(昭和56年 湯本軍一)よりP317~318引用

高梨氏館跡 (34)
北西と南西の土塁の隅には物見またはそれに類する櫓が置かれていたと考えられる。(写真は北西の土塁)

高梨氏館跡 (35)
高梨家の末裔の方の住居と北側の土塁。土留めの河原石の石積みが見られる。

高梨氏館跡 (36)
北側の虎口。高梨家の末裔が移り住んだ時に新たな通路で改修されたような気がする。往時は無かったと思うが。

高梨氏館跡 (41)
本来の大手虎口。単なる平虎口で何の工夫も無い。京風の邸宅には戦仕様の門などありえませんもの(笑)

高梨氏館跡 (44)
西側の堀切。土留めの石積みは後世のものであろう。

高梨氏館跡 (45)
南西の土塁上にも隅櫓があったという。

意外と認知度の低い北信濃の名族高梨氏。

中興の祖と云われる高梨政盛は、越後の守護代となった長尾為景の同盟軍として関東管領であった上杉顕定を永正六年(1509)に長森原の戦いで破り首級をあげている。

その孫の政頼は越後守護代の長尾晴景を廃嫡し出家していた長尾景虎(のちの謙信)を還俗させて越後国主として擁立し、時の関東管領上杉定美にこれを認めさせた。
高梨氏の功績が無ければ、謙信さんは信玄さんと戦うことは無かったのである・・・(汗)

まあ、ここまでは良かったのですが、そのあとがパッとせず衰退の一途を辿ります。それも定めか・・・・

高梨氏館跡 (40)
大手虎口から見た居館内部と背後の詰め城城塞群。

≪中野小館≫ (なかのおだて 尾楯城、小館城、中野御館 国指定史跡)

標高:382mm 比高:-
築城年代:不明
築城・居住者:中野氏、高梨氏
場所:中野市中野
攻城日:2013年6月23日 
お勧め度:★★★★★(満点)
城跡までの所要時間:-分 駐車場:無料駐車場有り
見どころ:郭、土塁、堀切、石積み跡など
付近の城跡:鴨ヶ岳城、鎌ヶ岳城、箱山城、菅の山城など
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃高梨一族」(平成19年 志村平治著)、「信濃の山城と館⑧」(平成13年8月 宮坂武男著)、「中野市誌 歴史編」(昭和56年 湯本軍一)

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (80)
鴨ヶ岳城より見た中野小館(ズーム5倍)









Posted on 2014/10/09 Thu. 20:14 [edit]

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鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市中野・山ノ内町戸狩)  

◆記念すべき500番目掲載の山城~北信濃の豪族 高梨氏の詰城◆

そそくさと記事を書き続けていれば半年前には通過していたのだろうが、なんせ道草や寄り道、廻り道が大好き(笑)

「迷った道が私の道です・・・・」  

そういえば、そんなCMありましたっけ・・? あっ、ありました!



このCMシリーズを見ると、昭和の人間で良かったなあーと思います。(酒も好きだし、酔っぱらいだしネ・・・笑)

今回ご案内するのは2枚抜きの秘境卑怯技で498⇒500へイッキ駈けする「鴨ヶ岳城」(かもがたけじょう)と「鎌ヶ岳城」(かまがたけじょう)
※正確云うと鴨ヶ岳城が高梨氏の詰城で、尾根続きの南の鎌ヶ岳城は配下の浦野氏の持ち城である。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (203)
日本土人形資料館の先に無料駐車場があり、そこから遊歩道が整備されているので迷う事は無い。

【立地】

千曲川流域で北側の夜間瀬川(よませがわ)と南側の松川に挟まれた中野の扇状盆地の東側に聳える大平山の頂部に「鴨ヶ岳城」、その南に「鎌ヶ岳城」がある。峰の北側は箱山峠を挟んで箱山城があり、鎌ヶ岳城の南側を下れば菅の山城(すげのやまじょう)がある。
麓には高梨氏の城館「中野小館」(なかのおだて)があり、鴨ヶ岳城との間には如法寺の曲輪群、七面山砦があり、高梨城砦群の中核を形成している。

高梨領の城砦配置

【中野郷と中野氏、高梨氏の進出】

中野郷(中野市)と志久見郷尾(野沢温泉・栄村)は鎌倉時代には地頭職として中野氏が治めていたという。(中野郷の北側は笠原氏とも)しかし、一族の内紛が続き所領が細分化され、さらに志久見郷に至っては縁者となった市河氏の巧妙な計略にかかり地頭職を奪われてしまう。
戦国期に入ると、須高より所領を拡大し北進してきた高梨氏そして北からは市河氏の南進で挟まれて、中野氏は衰退の一途を辿る。中野氏の滅亡の時期は定かではないが、高梨氏が領土を北へ拡大していく過程で拠点を高梨(須坂市)⇒くぬぎ原(小布施町)⇒間山(中野市)と移しており、中野扇状地の奪取は夜間瀬川の水利の確保とともに高梨氏にとっては領土の中心拠点とすべき重要な戦略だったと思われる。
高梨氏中興の祖と云われる政盛は、この時に一族で勢力を拡大していた山田高梨氏(高山村)を追放し、越後の守護長尾氏と婚姻を結びイッキに中野氏を滅ぼし中野小館を改修し本拠地を中野郷に移したと伝わる。
(がしかし、この時の過酷な処置や高梨家臣団に対するパワハラが後に怨嗟を買い深刻な内部分裂の原因となる)

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (2)
途中に害獣除けの防柵があるので外して入る。(自信があれば、飛び越えてもイイんです!・・笑)

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (8)
10分ほどで鞍部に着くと左に郭7.その先を下って行くと七面砦へ(今回は何故かパスしてしまった・・なんで?)

【城主・城歴】

前述したとおり、ここは中野氏の統治下だったので鴨ヶ岳城の前身は中野氏によって作られたものであろう。高梨氏が本拠地を間山の石動館(いするぎのやかた)から中野小館を改修して移り住むと同時に、この城も詰めの城として改修が加えられたものと考えられる。
しかし、武田軍の北信濃侵攻が本格化し甲越が全面戦争に突入した弘治年間、高梨政頼は謙信より飯山口の方面司令官として飯山城において泉氏とともに守備を固めるよう命じられる。この間、武田信玄の調略の手は高梨軍団の切り崩しに成功し小島修理亮、木島出雲守、夜交甲斐守が離脱。嘗ての宿敵であった市河信房も武田方となり、北信濃で信玄に対峙するのは島津氏と高梨氏のみという状況に追い込まれた。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城見取図2014
連郭式の頂戴な山城。鎌ヶ岳城と呼ばれる場所は他と異なり戦国末期まで改修が続けられたのかもしれない。

高梨城(中野小館・鴨ヶ岳城とその周辺)の落城時期についてははっきりしないが、弘治三年(1556)の飯山城総攻撃の時とも、永禄二年(1559)の謙信の上洛時の隙をついた高坂弾正による攻撃の時とも云われている。
城域の南に位置する菅の山城を抑える小島氏と、城域の北東地域(山ノ内町)領有する夜交氏(よまぜし)が既に武田側に降っていたので自落したと見るのが自然だと思うがどうであろうか。

高梨政頼の落胆ぶりはかなり酷かったらしく、飯山城の守備大将を命じられてもその動向を見張るように謙信は配下の泉氏に厳命している。
その後の永禄四年(1561)、謙信の再上洛の時には春日山城の留守将を命じられている。これは飯山城代の時に暗躍する武田方の調略を受け往還の念を強くしてしまった叔父さん(政頼)に自覚を促す為だとも云われている。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (19)
郭7の先を登ると分岐があり、左に進めば箱山峠に通じる。箱山城への連絡道だったのだろう。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (22)
途中は結構厳しい遊歩道。階段付けると逆に疲れる(汗)

武田統治時代は、かつての旧臣で武田方に降った小島氏が中野小館に入り鴨ヶ岳城も武田方の城塞として整備されたものと思われる。武田滅亡後の天正十年(1582)八月、高梨政頼の跡を継いだ政親は景勝より安源寺周辺に二千貫の地を安堵され故郷に往還するが、本拠地の中野小館に戻ったのはその八年後であった。慶長三年(1598)、景勝の会津転封に伴い高梨氏も奥州へ去り無住となった小館と鴨ヶ岳城(鎌ヶ岳城)も廃城となった。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (29)
岩が剥き出しの稜線だが人の手で加工されたのが分かる。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (31)
北側から観た堀切㋓と郭3

【城跡】

●概要

標高688mの頂上に残る諸郭・土塁や切り立ったような深い大堀切等は、眼下から吹き上げる荒涼とした戦国初期の勇壮な山城の姿を留めている。そこに立てば背後の山ノ内方面、更に中野扇状地一帯から飯山方面を一望出来る。山城の形式は基本的には、戦国期の関東や信濃に多く見られる「郭が一直線に並ぶ」連郭式であるが、帯ノ瀬方面に突出した尾根の先端に出郭(七面山砦)が設けられている点がやや異なる。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (35)
郭3から堀切㋔を隔てて郭1を見上げる。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (43)
郭1から堀切㋔を見下ろす。豪快な戦国期の山城の正統派である。

●郭1

35×8の長方形で南側に一段高い櫓台を備える。前後を大堀切の㋔と㋕で遮断され眺望も素晴らしい。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (44)
主郭

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (46)
夜交氏(よまぜし)の領有していた山ノ内町方面。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (49)
郭の北側の櫓台。ここに三角点(688.3m)がある。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (54)
櫓台から堀切㋕(上巾20m)から郭2を見る。この堀切の巾は圧巻である。

●郭2

ほぼ方形で現在は手作りっぽい(?)東山大神が勧進されている。ここには古井跡がある。井戸と云っても天水溜めの穴であろうか。ここから郭4までは尾根上に数段の段郭を配置し堀切㋖を穿って郭4へ接続している。
ここからの中野扇状地や飯山方面、長野市方面への眺望は最高。苦労して登った事が救われる爽快感だ。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (66)
中心部の神社と天水溜め跡

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (56)
櫓台からこの城域最大の広さと深さを誇る堀切㋕を見下ろす。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (65)
郭2から対岸の郭1の櫓台を見る。豪快だ!

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (73)
高梨領の最南端の立ヶ花城方面。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (72)
高梨領の西側の抑え。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (75)
高梨領の北方面。武田侵攻後は飯山口方面の最前線となった蓮城(はちすじょう)や壁田城(へきだじょう)が見える。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (81)
山麓の中野小館(倍率5倍) 遠くに頼親が築城途中で放棄した安源寺城が見える。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (85)
高梨氏は須坂高梨荘→くぬぎの庄(小布施町)→中野郷と北へ所領を拡大してきたのである。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (86)
郭2

●郭4と背後の二重堀切など

中野氏時代の鴨ヶ岳城は物見程度の簡単な砦で、頂上のみの利用に留まっていたと思われるが、やがて高梨氏の居館の詰め城として戦国時代に突入すると大幅に改修と増築を重ねたものと思われる。
郭4とその背後の二重堀切は加工度も高く村上氏や武田氏への防御を意識したものであろう。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (92)
北側から見た堀切㋖

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (97)
東側に土塁跡の残る郭4.全周していたのか?

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (100)
堀切の土をかさ上げして接続部分に土塁を構築。この地方ではトレンドスタイルだ。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (101)
超荒っぽい作りの堀切㋗(上巾17m)。「ワイルドだろう?」・・(死語・・・笑)

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (111)
二重堀切の二番目堀切㋗。(上巾8m)

●鎌ヶ岳城(郭5)とその周辺

二重堀切を見て帰っちゃう人は「もったいないお化け」が出ます。腰まで生えている竹笹をものともせずに突き進む勇気のある方に鎌ヶ岳城は微笑みます・・・(何のこっちゃ??)
まあね、訪れる人も少なくなっちゃたんで、原野に戻りつつありますが、ここを見ずして鴨ヶ岳城は語れない(偉そうである・・笑)

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (119)
堀切㋚。かなり埋まってしまっている。堀の前後は門跡のような土塁の高まりが左右にある。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (122)
他の郭とは明らかに用途や目的が違う広大な郭5。最初のうちは良かったのだが・・

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (126)
途中から熊笹に覆われて道が良く分からなくなる。それよりも何か出てきそうな恐怖感でイッパイイッパイ(汗)

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (127)
説明板も笹の中・・(笑) 最近は来る人も絶えたのだろう。

高梨政頼の統治時代の家臣団の中に「浦野与五右衛門尉宗実 鎌ヶ岳城主」と名が出てくるので、鴨ヶ岳城の支城として広大な尾根の平削地に城館を構えていた事も想像出来る。

ここの見どころは何と言っても石積みで強化された土塁で大堀切㋛であろう。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (144)
至る所で石積みが見られる

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (150)
堀底に下りてみた。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (152)
何か「コンニチワ」って向こうから出てきそうで怖い・・(汗)

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (154)
堀の壁は垂直に近い加工が施されている。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (139)
西斜面に増設されたと思われる横堀㋝。こんな場所まで見る人はビョーキです。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (138)
傾斜の比較的緩い西斜面に対して郭の周囲に土塁を盛ってます。

巨大な堀切㋛の先は斜面を下り最終の堀切㋜があり城域は終わる。更に南に下れば更科峠(さらしなとうげ)、その先に小島氏の菅の山城(菅城)に通じる。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (160)
最終の堀切㋜。大量の熊笹で道が消えかかっている。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (164)
堀切㋛の堀底に散乱する石。この堀切の形態は小布施町の二十端城(つつはたじょう)にも共通している。

【らんまるの所感】

さすがに北信濃の雄と云われた高梨氏の詰め城であり、見応えがある。単純な連郭ではあるが、堀切の落差、堀壁の加工度は高いものがある(高梨氏が実施したとは断定できないが)
注目すべきは鎌ヶ岳城周辺で、戦国末期まで加工が継続されたように思える。高梨頼親が安源寺城を築城途中で放棄したが、ここにその続きを実施していた可能性がある。万が一の時の山の上の城館を建設していたのだろうか。
高梨氏の城館は周辺の支城も含めて訪問して見ると、色々な共通点があるので想像が膨らむ。そしてその位置を地図上にプロットしてみると、高梨領のエリアがはっきりするので面白い。周辺の諸城へも是非足を運んでいただきたい。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (180)
北端の物見の郭6.ここからは箱山城が一望できる。

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (182)
このあと訪れた箱山城。


≪鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城≫ (かもがたけじょう・かまがたけじょう)

標高:688.3mm 比高:300m(東山より)
築城年代:不明
築城・居住者:中野氏、高梨氏
場所:中野市中野・山ノ内町戸狩
攻城日:2014年5月3日 
お勧め度:★★★★★(満点)
城跡までの所要時間:40分 駐車場:無料駐車場有り
見どころ:郭、土塁、堀切、石積み跡など
注意事項:鎌ヶ岳城方面は笹藪が多いので歩行注意。
参考文献:「信濃高梨一族」(平成19年 志村平治著)、「信濃の山城と館⑧」(平成13年8月 宮坂武男著)、「中野市誌 歴史編」(昭和56年)

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (208)
中野小館から見た遠景。




Posted on 2014/10/05 Sun. 17:40 [edit]

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安源寺舘 (中野市安源寺)  

◆方形居館に固執した高梨氏の仮住まい◆

とうとう9月はブログ開設以来二番目に低い月間更新数となった。重ねてお詫び申し上げます・・(汗)

「テキトーな記事とテキトーな写真の掲載なのに毎日更新出来ないの?何で??」と思われる方も多々あろう。

意外と小心者なので、小生の記載した記事が史実と誤認されては拙いし、写真もそれなりに悩んで選択しているのは事実。金は使わないが気は使っているので結構大変・・・(笑)。睡魔との戦いはもっと大変・・・(爆)

箱山城(中野市・山ノ内町) (4)
中野市のクリーンセンターは鴨ヶ岳城の山麓にあるのだが、茶目っけたっぷりの白亜の城郭風。センスが良い。

今回ご案内するのは、別に案内してくれなくても「イイじゃないのお~」と云われそうなんだけど、「ダメよ、ダメダメえ~」(笑)な安源寺舘(あんげんじやかた)。

【立地】

千曲川の右岸で安源寺集落の中にある。現在、周辺は耕作地と果樹園になっているが取り立てて要害の地では無いが、北東400mの丘陵上には安源寺城があり、南方600mには茶臼峯砦があったという。(現在は土石採集により消滅)

安源寺館(中野市) (6)
居館の大手があったと思われる松島氏の墓所付近(東)から現存する土塁周辺を撮影

【城主・城歴】

長野県町村誌には「古宅址」として記載があり「高梨氏の幕下某居城せしならん」とあるがはっきりしたことは分からない。高梨領であったことから、高梨氏の一族または家臣が居住していたものと考えられ、武田氏滅亡後の高梨氏の北信濃旧領復帰に際しては一時的に高梨頼親による安源寺城の築城が普請されていることから、使用されなくなった居館跡を頼親が改修して住んだことも考えられる。

安源寺館見取図
典型的な方形居館で1990年には発掘調査も実施されたという。

安源寺館(中野市) (3)
現存する土塁付近から北側を見る。

安源寺館(中野市) (7)
約20mの長さの土塁。これだけ残っただけでも奇跡に近い。

【館跡】

現在は堀は埋め立てられてしまい、一部は道路となっている。土塁は南側に約20mほど残っている。昭和三十年代に実施された長野県の中世城館調査における略測図にはコの字型の図面(縄張り図)が示されているが、明治時代までは堀も土塁も回字形で現存していたという。
中野小館(高梨居館)と類似する作りである。旧領復帰した高梨頼親は、先祖代々の居館であった中野小館への帰還を上杉景勝に願い出るが、嘗ての家臣であった小島氏が入城しており、御館の乱以降の景勝時代の貢献度の低さもあり許可が得られず、安源寺に城館を普請し始めた。(※安源寺城の記事を参照願います)

安源寺館(中野市) (9)
東の大手入口付近の堀跡。

恐らく高梨頼親は中野小館の小島氏を恫喝したのであろう。主家に叛いて武田に内通し、高梨家の旧領を恩賞として与えられ、武田が滅ぶといち早く景勝に降りそのまま中野に居座った小島をネチネチと締め上げたのかもしれない。

主家である高梨家のイジメに耐えられなくなった小島氏は居館の返上を景勝に申し出て許可され、頼親は中野小館に復帰したので、安源寺城の普請は中止され、安源寺舘も放棄されたのであろう。

安源寺館(中野市) (1)
北東には安源寺城がある。

さしたる貢献もせずに我儘ばかり主張する高梨氏は、やがて景勝の逆鱗に触れ改易されてしまう。
その後、上杉家が米沢藩に転封された際、復帰を赦されたというが真相は闇の中であるらしい・・・。

≪安源寺館≫ (あんげんじやかた)

標高:339m 比高:-m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:中野市安源寺
攻城日:2014年5月5日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:無し(適当に路駐)
見どころ:土塁、堀跡など
注意事項:耕作地なので侵入不可
参考文献:「信濃高梨一族」(平成19年 志村平治著)、「信濃の山城と館⑧」(平成13年8月 宮坂武男著)

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (72)
鴨ヶ岳城から見た安源寺城・安源寺舘とその周辺




Posted on 2014/10/01 Wed. 22:46 [edit]

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箱山城 (中野市中野・山ノ内町戸狩)  

◆そこに城跡が待っているというのなら行くしかあるまい◆

昨日から「そっと」山城攻めを再開してみた。(笑) その前から行ってるじゃん!というご指摘もあるが、散歩程度の足慣らしである。

5年前の「登っただけ」の城を端から端まで歩いて廻り、実に素晴らしい宿城だった事を思い知らされた。やはり、城は可能な限り二度三度と訪れてみないと、築城者の意図が見えてこないと実感した次第。そのリテイク記事はまたの機会に・・。

内山城2 (119)
今じゃコスモス街道として有名な佐久市の内山街道。城攻めの疲れを癒すにはもったいない程の景色であった。

今回ご紹介するのは、北信濃の豪族「高梨氏の城館シリーズ」再開記念第一弾の箱山城である。

箱山城(中野市・山ノ内町) (1)
県史跡の高梨居館跡から見た箱山城。

【立地】

中野市街地の東、鴨ヶ岳城(大平山)の北側の箱山峠の北に聳立する山が箱山である。「長野県町村誌」には鴨ヶ岳城古跡絵図」の中に箱山峠の道に続いて斥候古跡と描かれている。
雲井岳より北へ延びる山嶺が夜間瀬川(よまぜがわ)で終わる所にあり、山体が旧で独立峰のような山であるために、ここからの眺望は優れていて、高井地方の展望台の観がある。  (図解山城探訪 高井編 宮坂武男氏の記述より引用)

箱山城(中野市)
峠の監視砦としての機能なので、この程度の縄張りで充分であろう。

【登り口について】

①鴨ヶ岳城からの縦走(車2台または単独なら車+チャリ)
・尾根続きなので一番分かり易い方法であるが、2台の車を使うデポジット方式でないと大変な距離を歩いて戻る事になる。この場合、箱山峠のトンネルの東側(山ノ内町側)の道路沿いにもう一台を駐車させればOK。(チャリでも可)

②オーソドックスな単独攻め
・楽に登れそうな場所を探して周辺を周回するが道も無さそうなので、道路脇に適当に車を捨てて斜度の赦そうな山ノ内町側の箱山峠(車道トンネルの上部)を目指して適当に登る。峠の上まで農道はあるが、廃れてしまい軽の四駆でも入れない。あとは稜線沿いに登山道があるし虎ロープもあるので問題ない。北尾根の栗和田から浅間社を通るルートも下見したが道がはっきりしないので止めた方が良い。

箱山城(中野市・山ノ内町) (109)
道無き道を掻き分けて進むのは慣れましたが、生傷が絶える事は無い・・・(笑)

箱山城(中野市・山ノ内町) (108)
構成するパーツとパーツの距離が長い。バイパスが長いのは苦手だが、ここまで来たら逃げられない・・(汗)

城攻めも600を越えたあたりから、だんだんと苦痛になってきた。

「楽して登れないものだろうか・・・」  まあ、そんな場所に作ったら簡単に攻め落とされてしまうではないか!(笑)

箱山城(中野市・山ノ内町) (5)
郭4から見た南方面(中野市・小布施町)

【城主・城歴】

高梨氏が小布施から中野へ進出していく過程で、詰め城である鴨ヶ岳城の支城として整備され夜間瀬氏(よまぜ)の境となる箱山峠を監視したものであろうか。
武田の侵略により高梨氏が中野を退去し上杉領へ落ち延びた後は、武田方に降った夜間瀬氏、小島氏、市河氏によって烽火台として使われたかもしれないし、武田滅亡後の天正壬午の乱においては上杉軍が川中島四郡の制圧の過程で手を入れた可能性もあるかもしれない。

箱山城(中野市・山ノ内町) (15)
郭3から数時間前に滞在していた鴨ヶ岳城を望む。鉦や銅鑼を鳴らしても充分に聞こえる距離だ。

【城跡】

郭3までは楽勝ペースだったが、ここからが急峻となる。近年までトレッキングコースとして整備されていたようで虎ロープが張られているので助かった。主郭は峯のピークで695m。そこから各尾根のコブを堡塁として加工が施されている。
加工度は低いが、これだけの険しい岩場の独立峰であれば、余計な造作も不要だったと思われる。

箱山城(中野市・山ノ内町) (17)
急斜面を這うように登る。ロープの助けが無ければかなり困難な攻城戦になるところだった。

●郭2
・33×7の長方形の平場で、先端には数段の段郭を備えている。

箱山城(中野市・山ノ内町) (22)
郭2.

箱山城(中野市・山ノ内町) (20)
西の尾根先は段郭で加工している。

●主郭
・広さは20m×13ほどの台形で、三方の尾根に対して堀切で遮断している。北側に低い土塁が確認出来るので、往時は全周していたかもしれない。御岳社・浅間神社・霊神碑が建立され、天水溜のような穴も確認出来る。

箱山城(中野市・山ノ内町) (23)
郭2からは結構な急斜面をよじ登る感じだ。

箱山城(中野市・山ノ内町) (25)
堀切㋐(上巾9m)

箱山城(中野市・山ノ内町) (98)
郭1から見下ろした堀切㋐。広さよりも落差を重視した厳しい備えだ。

箱山城(中野市・山ノ内町) (33)
主郭。ビニールシートとスコップが放置されているので、年一回は手入れされているようだ。

箱山城(中野市・山ノ内町) (35)
本城の鴨ヶ岳城の死角を補う素晴らしいロケーションである。

箱山城(中野市・山ノ内町) (91)
主郭の一段下に平削されたところがあり、その左右に堀切跡(堀切㋒)が確認出来る。この先は50mほど下ると浅間社

箱山城(中野市・山ノ内町) (96)
切り立った崖の上が主郭。

●堀切㋑と郭6・7
・主郭から東尾根方面は比較的に傾斜が緩く天然の岩場を加工して郭を連続させている。

箱山城(中野市・山ノ内町) (43)
主郭から堀切㋑を見下ろす。

箱山城(中野市・山ノ内町) (50)
郭6。天然の岩石がディフェンスを作っている。

箱山城(中野市・山ノ内町) (53)
郭7(15×6)

●東端の堡塁「郭8」
・岩場の険しい一本道を進むと堀切㋓を介して東の堡塁8へ着く。ここからは山ノ内町方面の動向が手に取るように分かる。高梨時代には大いに活用されたのであろう。

箱山城(中野市・山ノ内町) (55)
何が楽しくてこんなヤバイ場所を通らねばならないのか・・(汗)

箱山城(中野市・山ノ内町) (59)
堀切なんて作らなくても充分防御になると思うが・・

箱山城(中野市・山ノ内町) (65)
郭8(17×17)

ひたすら岩場を歩いてきたご褒美はそのロケーションであろう。
別に戦国時代じゃなくても、信州は美しいと再確認出来る瞬間である。

箱山城(中野市・山ノ内町) (72)
湯田中温泉郷。そしてその奥は志賀高原に続く。

箱山城(中野市・山ノ内町) (69)
登り口の箱山峠が見える。あそこまで帰るのかと思うとゲッソリする・・・(笑)

箱山城(中野市・山ノ内町) (75)
東尾根を遮断する堀切㋔。主郭北側の堀切㋒と同じように郭+堀切という構造だ。

中野地方と山ノ内町を眼下に抑える要衝の地である。支脈の堡塁を生かした独立峯の砦としては加工度は低いながらも少数の兵力で充分守りきれる仕様に仕上がっている。
キチンと遺構も残っているので、大事に後世に伝えたいものである。

箱山城(中野市・山ノ内町) (87)
武田軍の対上杉掃討作戦における飯山口の重要拠点となった壁田城(へきだじょう)と蓮城(はちすじょう)が見える。箱山城も烽火台として連携していたと思われる。

≪箱山城≫ (はこやまじょう)

標高:695m 比高270m(栗和田より)
築城年代:不明
築城・居住者:高梨氏など
場所:中野市中野・山ノ内町戸狩
攻城日:2014年5月3日 
見どころ:堀切、堡塁、壮大な景色など
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:トンネル付近より30分
駐車場:無し(邪魔にならないように路駐)
その他:結構急斜面なので、それなりの装備は必要。虎ロープも傷んできているので注意。
参考文献:「信濃の山城と館⑧」(宮坂武男著 2013年)
付近の城跡:鴨ヶ岳城、高梨居館、鎌ヶ岳城、菅の山城など

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (218)
南側の山ノ内町佐野付近から見た遠景。実は標高は箱山城のが7m高いのだ。(リンゴ畑でよく見えない・・汗)
















Posted on 2014/09/23 Tue. 11:16 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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