らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0607

山田氏居館 (上高井郡高山村中山)  

◆枡形城を乗っ取られた山田高梨氏はここに住んでいたのか?◆

関東にお住まいの皆さまには連日の豪雨、謹んでお見舞い申し上げます。
土砂崩れや低い土地の浸水、付近の河川の氾濫には充分ご注意下さい。ヤバくなる前に必ず逃げましょう。

雨雲が関東方面に援軍で出払ったせいか、信州は曇り時々パラパラ・・・(って踊るんかい!)

先週に引き続き戸隠・鬼無里への遠征も無事に完了しました。貴女紅葉さんのお話はそのうちに。

紅葉伝説201406 (146)
鬼無里の「東京(ひがしきょう)」の加茂神社の狛犬。ワールドカップに向け練習中だとか。

今回ご紹介するのは、枡形城の麓にある山田氏の居館と伝わる場所で、真法寺。

山田氏居館(高山村) (1)

【立地】

枡形城の記事でも紹介したが、この場所は間山峠、大熊峠などを通る通称「謙信道」と呼ばれる古道が通る所で戦略上重要な場所であった。

山田氏居館(高山村) (2)
山門脇の説明板。

説明板によれば、天正六年三月に城が燃え奥州に退去したとある。同月には上杉謙信は亡くなっているが、武田勝頼の勢力下なので関係は無さそうだ。戦国時代のボヤ騒ぎは「叛意あり」とみなされ厳しい沙汰が下されるし、まして城を焼失したとなれば言い逃れ出来ないと追い詰められて逃亡したのだろうか?

山田氏居館跡見取図(高山村)

全国的に居館の跡地に神社仏閣が移転しているケースが多々あるが、全てがそうではないだろう。
往時の宗教勢力は武装勢力としても侮りがたく、豪族側が意識的に取り込んだとしても不思議はない。

真法寺は枡形城主の原氏の承諾を得て居館跡に移転したというが、奥州に逃亡した領主に許可を求めるのは可笑しな話で、武田勝頼が原氏の領分の一部を寺領として寄進したか、それ以前にこの場所にあったと思われる。

山田氏居館(高山村) (5)
本堂を囲む長屋には石仏が所せましと並んでいる。

山田氏居館(高山村) (10)
本堂。大抵は屋根の頂部に「紋」が施されているのだが、真法寺には無かった。

【城主・城歴】

高梨氏の家臣として須田領と接する松川以北を守備していた山田氏だったが、弘治三年(1557)に武田方が葛尾城を急襲し落城させ全員が虐殺されると、武田の調略により内通。(夜間瀬氏・小島氏も同調したらしい)

その後、怒り爆発した謙信により山田城(枡形城)と福島城は取り返されてしまうが、再び武田が制圧する。

山田氏居館(高山村) (13)
お寺の西側の墓地から見た枡形城。あっという間に草茫々でございます(笑)

その後、飯山城を境として信越国境がほぼ確定すると、山田氏の監視体制は用済みになった可能性は否定できない。

山田氏居館(高山村) (14)
北西隅には土塁のような盛土の跡があるが、往時のものだろうか。(花桃の花弁が地面をピンクに染めている)

山田氏居館(高山村) (17)
居館南の道路は堀だった可能性がある。

寺=中世の城館という図式が当たり前になっているようだが、そこはキチンと調べなければ間違った情報になる。
古文書も限られ、家長制度が崩壊し先祖代々の口伝もロクに伝わらない現代において、課題は山積である(汗)

山田氏居館(高山村) (18)
居館の西側。道路は堀形、垣根には土塁があったと思えばそれらしく見えない事も無いが・・。

≪山田氏居館≫ (やまだしきょかん)

標高:546m 比高:-m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上高井郡高山村中山
攻城日:2014年5月17日 
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-
見どころ:北西の土塁跡
注意事項:お寺さんといえど民家です。
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井編 2013年 宮坂武男著」
付近の城跡:枡形城、山田高梨居館など

城山城(上水内郡高山村) (84)
松川を挟んだ対岸の須田領の城山城から見た枡形城、山田氏居館とその周辺。








Posted on 2014/06/07 Sat. 22:34 [edit]

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大岩城 (須坂市日滝)  

◆険しい尾根の稜線上に築かれた大岩郷須田氏の要害城◆

「食べログじゃないので、真面目に山城の記事を掲載してチョーだい!!」

そういう影の声が聞こえそうなこの頃ではある。

「手抜き記事が多いのでは?」とお叱りを受けそうだが、不器用な凡人の努力は報われないのであろうか・・・・・(笑)

大岩城(須坂市日滝) (3)
大岩城を無理なく攻めるのなら、北東の尾根がセオリーだと宮坂先生もおっしゃっている。なのでそのコースを辿る。

今回ご紹介するのは、痩せ尾根の岩盤を利用し周囲の切岸を石塁で覆った大岩城。

【立地】

明覚山(みょうかくざん 957.8m)から北へ派生した尾根上にあり、細長く険しい岩山で、要害堅固な地形で近寄りがたい。後背の尾根を登り切ると、明覚山の山頂の東の山になり、そこには雨引城(あまびきじょう)があり、大岩城の搦め手を守っている。
雨引城のある山(明覚山)は、高山村や日滝地区と、南の豊丘、塩野地区との間にあり、両地区を結ぶ謙信道と呼ばれる灰野峠がある。

須田氏山城縦走MAP①
里山といえども踏査前のルート選びは入念に行う。しかし計画通りに登れるほど山城の立地は甘くないのだ・・(汗)

大岩城(須坂市日滝) (13)
斜面に数段の段郭を見ながら郭7へ。この先の尾根は痩せた岩場が続くので防御は不要としたのであろう。

「なんだ、楽勝じゃん・・・」

そう思ったのもつかの間、ここから本城までは長く険しい道のりだったのだ。

大岩城見取図①
険しい場所にある山城の縄張図は等高線をトレースする作業が凄く面倒臭い。

大岩城(須坂市日滝) (16)
10分ほど尾根を歩いて登ると見張を置いたと思われる見晴らし良好の堡塁へ。(先陣は、ていぴす殿)

この城、稜線と堡塁による防御が基本らしい(点と線の組み合わせ)。隣の月生城が笹郭(ささくるわ)という面と竪堀を中心とした防御特性なので相反した縄張りだ。

大岩城(須坂市日滝) (24)
殺風景だが攻城兵はここで相当な苦戦を強いられるであろう。

大岩城(須坂市日滝) (20)
対岸の東尾根の月生城。大岩城とは似たような標高に築城されている。

大岩城(須坂市日滝) (27)
堀切㋑。あってもなくても変わらない?

この先から城域の主要部になるのだが、スリリングな岩場の連続で滑落の危険を伴う(汗)

いわゆる「一騎駈け(いっきがけ)」と呼ばれ攻城側は一列縦隊を強いられるのだ。防衛側は一人一人潰せば良いのだ。

大岩城(須坂市日滝) (32)
コケたらマジヤバイっす!!

大岩城(須坂市日滝) (35)
郭6は北西尾根からの峰の分岐点に位置する。今回北西尾根の踏査は時間の都合で断念した。

大岩城(須坂市日滝) (36)
加工する必要もあまりないと思われる郭6。

【城主・城歴】

信濃源氏である井上氏の分流が高梨氏・須田氏となり、室町時代~戦国時代にかけて北信濃の高井・水内地方はこの三家が押領による領土拡大を争うようになった。
須田氏は小山(現在の須坂市小山)を本拠地として高梨氏と同盟して井上氏と争い、井上氏の領土を侵食して須田郷・大岩郷と領土を拡大し、井上氏は没落していく。(高梨氏は松川以北の小布施に本拠を移して北への拡大を画策)

大岩城(須坂市日滝) (45)
堀切㋒を越えると城の主要部に入る。郭5には櫓台の跡が確認出来る。(南側から撮影)

大岩城(須坂市日滝) (46)
主郭の手前には二条の堀切で仕切られ周囲を岩崖で守られた橋頭保が立ちはだかる。

大岩城(須坂市日滝) (52)
主郭(郭1)手前の堀切㋔。(上巾8m)

戦国時代に入ると須田氏は満栄の後継を巡り二派に分かれ、須田郷の須田信頼、その嫡男信正は須田城に居城し、もう一派は須田満国、弟の満泰その嫡子満親の系統で、大岩郷を領して大岩城に拠ったと伝わる。

大岩城(須坂市日滝) (58)
郭1.(31×14)。

大岩城(須坂市日滝) (60)
錆びつき古びた標柱が山城の郷愁を誘う。(ってか一年間で何人がこの看板を読むのか?)

高梨氏は隣国の越後守護代長尾氏の縁戚となり同盟を強化する事で村上氏の脅威に対抗したが、須田氏は村上氏の配下となる事で領土の安堵を保証された。

しかし、武田氏が信濃へ侵入すると、須田郷の須田信正は真田昌幸の調略により武田へ下り誓詞を差し出したと云う(高白斉記)。一方、大岩郷の須田満国は村上方として残り、満親の初陣は信玄の戸石崩れだったとう説もある。

大岩城(須坂市日滝) (63)
主郭の西側切岸の石積み。

大岩城(須坂市日滝) (65)
郭1の西側の帯郭。城域の守備の指向性は西の居館方面なのが分かる構造である。

天文二十二年に葛尾城を脱出した村上義清が越後の上杉謙信に助けを求めた事から端を発して、五回に及ぶ甲越合戦の幕開けとなる。村上方の属将であった大岩系須田氏も武田に対する抵抗を続けたが、弘治三年1557)二月に休戦協定を破った信玄が葛山城を落とし城中の者を皆殺しにすると、長沼城の島津氏は恐れを為して大倉城へ後退し越後へ逃亡。須田城の須田父子は予定通り武田に降り、枡形城の原左京真亮も武田方となった。
周囲を敵に囲まれた大岩郷須田氏は大岩城に籠城し防戦するも支えきれず越後へ逃れたと云う。

大岩城(須坂市日滝) (73)
西側の斜面を100mほど下ると巨大な天水溜め(16×17)がある。戻る体力を考えす下りた事を後悔した・・(汗)

大岩城の落城時期については諸説あるが、弘治三年の攻防戦による戦火で城と居館、城下町は焦土となり、須田氏の文献資料等も焼失したという。
(須田氏のその後の経歴は雨引城でまた再開したいと思います)

大岩城(須坂市日滝) (77)

大岩城(須坂市日滝) (78)
上巾9mながら落差のある堀切㋕の断面。

大岩城(須坂市日滝) (84)
削平の甘い郭4.奥に見える山は雨引城。遠過ぎるゾ!!

【城跡】

三つの尾根と天然の岩盤を生かしているが、技巧的な防御構造というのはあまり見当たらない。大きな竪掘は武田軍による改修と思われる。また、防御の指向が何故西斜面なのかも疑問で、髻山方面を意識したのかは分からない。
この地域の城砦群はほとんど石積みを多用する縄張なので、迫力がある。手っ取り早く手に入るのが「土」では無く「石」なので、理に叶った築城方法であろう。

大岩城(須坂市日滝) (85)
郭4から見た北方向。連郭式の単純な縄張である。

大岩城(須坂市日滝) (86)
郭4から見下ろした堀切㋖。此の城内最大の落差と巾(17m)を誇る圧巻の仕様である。

大岩城(須坂市日滝) (94)
西側斜面を100m以上の長さで竪掘として下る堀切㋖。武田軍の改修の跡であろう。

大岩城(須坂市日滝) (96)
まさに軍事構築物の美学である(笑)

雨引城へ向かう尾根には二条の土手付き二重堀切を穿つ念の入れようで、これも武田時代の産物であろうか。

大岩城(須坂市日滝) (99)
痩せ尾根は果て無く続く。

大岩城(須坂市日滝) (103)
堀の中央に土塁を盛ったW型の堀切㋗

大岩城(須坂市日滝) (110)
堀切㋘。ちょっと中央がモッコリしているのがお分かりだろうか?

大岩系須田氏が越後に逃れると、武田氏に降った須田郷須田氏の支配下に入るが、その時にある程度武田による改修が為されたと思われる。
最期はちょっと駆け足的な解説になったが、尾根に張り巡らされたクモの巣のような変わった面白い山城であった。

≪大岩城≫ (おおいわじょう 水沢城)

標高:679m 比高:265m
築城年代:不明
築城・居住者:須田氏
場所:上高井郡高山村中山
攻城日:2014年4月20日 
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:60分(主郭まで)  駐車場:無いので適当に路駐。
見どころ:段郭、堀切、土塁、石塁、天水溜めなど
注意事項:北東尾根からが安全。イノシカネットがあるので、開けたら必ず閉めよう。
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井編⑧ 2013年 宮坂武男著」、「信濃須田一族」(平成22年 志村平治著)
付近の城跡:雨引城、月生城、福島正則居館跡、城山城など

月生城(上水内郡高井村) (90)
北東の麓から見た大岩城遠景。広大過ぎて全て納まらない・・(笑)







Posted on 2014/05/28 Wed. 23:35 [edit]

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0524

山田高梨居館  

◆高野山への参拝中に本家に乗っ取られた分家の居館跡◆

「矢留め」とはなったものの、先週末も相変わらず北信濃の山ノ内町あたりをウロウロしていた。

んで、昼飯食べに寄った湯田中温泉駅に変な(?)ラッピング電車が止まっているのを発見!

モンハン①

「モンハン特急??」  (1939年のノモンハン事件なら歴史で習ったのだが、それと違うの・・汗)

同行していた家人に聞いたところ、人気ゲームの「モンスターハンター」と渋温泉の「スノーモンキー」(温泉に浸かる猿の事)のコラボ企画らしい。

モンハン②

らんまる:「そんじゃ、温泉に入るモンキーを退治しに出掛けるっちゅうゲームなの?、んで丸焼きにして食べるの?」

家人:「・・・・・・・(アホか!)・・・」

スノーモンキー①

小生もその昔、XBOXでネトゲにハマってしまい、俳人廃人になる手前で足を洗った過去がある・・・(笑)

モンハン③
湯田中温泉街の中にも「モンハン集会所」なるブースが出来ていたので興味のある方はこの電車で来てネ!

さて、山ノ内町の観光大使に任命されている訳ではないので、本題に戻り「山田高梨居館」のご案内をしよう。

山田高梨居館(高山村) (3)
標柱が無ければただの果樹園で、何が何だか・・(汗)

【立地】

上高井郡高山村の駒場集落の東側の果樹園が居館跡と推定されている。山田神社の北東にあたり、「堀之内」の畠と呼ばれている。一帯は松川によって形成された段丘面で、西から北、東にかけて屏風のように山が連なり、南面した山懐で、南に松川の谷がある為に、自然の要害地帯である。後背の山頂には滝ノ入城があり、東側の尾根を越えた先には枡形城がある。

山田高梨館見取図

【城主・城歴】

枡形城の記事でも解説したが、高梨一族は同族による寺社領や守護領に対してしたたかに押領(おうりょう)を進め、中央政権が介入しようものなら同族一揆で対抗し支配権を確立していった。

この山田においても鎌倉時代から文明十六年(1484)まで、高梨氏の有力な分家が駒場に居館を構えていた。高梨日向守高朝は、山田城(枡形城)を要害として、当時大熊、江部を領有していた。

分家の支配領土の拡大は、惣領家の意に反逆ありとみなされ、同族同士の対立となった。

山田高梨居館(高山村) (4)
標柱があるだけマシだが、消えかかっている(汗)

高梨家の中興の祖である高梨政盛(謙信公の叔父)の活躍については、別の機会でご紹介したいと思うので、ここでは通り一遍の解説となるが、ご容赦願いたい。

隠居した政高の後継の政盛は、文明十六年(1484)、分家の高梨朝高が高野山参拝中に山田城を急襲して朝高を追放する。この瞬間から「一族一揆=同族同盟⇒所領安堵の主従関係」に変わったのである。

山田高梨居館(高山村) (6)

惣領家が一族・分族をまとめながら平穏に暮らす時代は終わり、敵から領土を守りかつ拡大していく政策に方向転換していく必要に迫られた訳である。

故郷に帰還出来なくなった山田高梨氏は小県郡の高梨郷(現在の上田市西内)に落ちのび、最終的に真田家に仕え、その後奥州に渡り仙台藩に召し抱えられたと云うが、ハッキリした事は分からない。

山田高梨居館(高山村) (5)
方形居館であるとするなら、納得出来るサイズではある。

【館跡】

現在、一帯は果樹園になっている。堀形も土塁も全く確認出来ないが、標柱のある場所から農道西側がやや方形になっているので、このあたりだろうと想像してみるしかない・・・(汗)

山田高梨居館(高山村) (7)
こんな感じなんでしょうネ。

この時、高梨本家の本拠地は「くぬぎ原庄」にあったと云われている。(現在の小布施町の下六川周辺とも)
中野氏の所領への進出を企む高梨政頼にとっては、間山峠や大熊峠という重要な間道を押えている分家の朝高が邪魔になったのかもしれない。

せっかく高野山にお参りに行ったのに、家も城も、まして領地も失うとは・・神様の御利益などあったもんじゃない・・(笑)

≪山田高梨居館≫ (やまだたかなしきょかん)

標高:514m 比高:-m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上高井郡高山村駒場
攻城日:2014年4月27日 
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-  駐車場:ふれあい広場
見どころ:ー
注意事項:耕作地には入らない事
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井編⑧ 2013年 宮坂武男著」、「信濃高梨一族」(平成19年 志村平治)
付近の城跡:枡形城、滝ノ入城、城山城など

城山城(上水内郡高山村) (84)
須田領の城山城から見た居館とその周辺。(中央を流れる松川が高梨領との境界線であった)





Posted on 2014/05/24 Sat. 08:07 [edit]

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福島城 (須坂市福島)  

◆武田軍によって修築された北信濃侵攻の軍事拠点◆

某国営放送局の二年後の大河ドラマが信州上田になったからという訳ではないが、「軍師 官兵衛」が面白い。

明智光秀の謀叛とともに謎とされる荒木村重の謀叛を真面目に取り上げているのだから大したものである。

謀反①

このドラマの前半のハイライトは、官兵衛が有岡城の地下牢に一年近くも幽閉される場面なので今週末は見逃さずに是非見て欲しいものである。

謀反②

まあ、受信料払ってるのに更に某国営放送局の宣伝するのも片腹痛いので(笑)、本題に戻ろう。


今回ご紹介するのは須坂市にある「廃城とともに地上から消された武田流の平城、福島城(ふくじまじょう)」

福島城(須坂市) (1)
福島町の公会堂に立派な史跡案内図があるので、道に迷ったらここに立ち寄ると良いでしょう。

【立地】

千曲川右岸の福島集落は、古く北国街道脇道と大笹街道が分岐する場所であり、千曲川の布野渡し場として宿場町も置かれた交通の要衝である。

福島城(須坂市) (5)
道標の「左大笹街道」を折れて進むと福島城址がある。

福島城見取図②
文禄三年(1594)の福島宿の図。この時点で既に城跡の記載すら無いので消滅していたのであろう。

【城主・城歴】

福島城は須田氏によって築かれた武田方の平城である。城の場所は良く分からない。須坂市福島町の大笹街道起点、道標の東方にあったとされるが、現在の町はかつての街道より東に動いているといわれる。

福島城の築かれた福島は、古代より千曲川の布野の私があった。平城を大河の近くに築く事は、武田氏の特色であった。

福島城①
農道の左脇に標柱がある。うっかり通り過ぎて気がついた(汗)

福島と指呼の間にある井上には、武田氏の直轄地があったとも推察される。

福島城は、重要な軍道が通る拠点、または渡河地の守りとして築かれたと考えられる。
弘治三年(1557)に上杉氏により山田城とともに攻められているので、築城はそれ以前であることが分かる。

福島城見取図①
近年耕地整理されてしまい、特定はますます不可能になった。

城代は須田信正であった。須田氏は千曲川沿岸の豊かな地を領していた。永禄九年(1566)さらに八重森の地を給されるように墨坂神社に祈願している。天正十年(1582)武田氏が滅び、須田氏は上杉氏に出仕した。天正十一年~天正十二年頃、須田信正は領地の寄進をしている。

福島城②
地主さんの話によれば、耕地整理前はクランク状(枡形)の細い街道だったという。城の大手だったのだろうか?

信正は天正十三年(1585)、上杉氏より西山山中の千見城への移動を命ぜられたが、これを不服として真田氏と通じた。このため海津城将の上条氏(じょうじょうし)に誅された。

そしてこの年、一族須田満親が海津城将として入城、一族の左衛門尉(さえもんのじょう)が福島に入城した。
現在、城(じょう)、仲間分、御天地、八幡社、番小屋、井戸などの地名が残る。

~以上、「定本北信濃の城」(1996年 郷土出版社)の馬場廣幸氏の解説文より引用~

福島城(須坂市) (21)
福島城の北側部分(推定)。周囲は泥田堀に囲まれた城だったという。

福島城(須坂市) (24)
福島城の南側部分(推定)

また一説によれば、天正十二年(1584)の麻績城攻めの際に抜け駆けして軍法違反に問われ、結果として領地を削られて景勝を怨むようになり城を増築改修した。長沼城代の島津忠直が使番を出して須田信正に真意を問いただそうとしたところ、使者を切り捨てた為、長沼城番として詰めていた夜間瀬(よませ)、寺尾、保科、大室が軍勢を率いて福島城を攻撃し、須田信正は城より打って出て討死、須田氏は滅亡し福島城もそれ以降廃城になったという。

福島城(須坂市) (2)
現在の福島町。かつて江戸時代には千曲川の布野の渡しより荷揚げされた物資が大笹街道を経て江戸に運ばれた。

築城から僅か30年で消されてしまった福島城。恐らく須田信正が真田昌幸に唆されて徳川に内通した事が発覚し、怒った景勝が長沼城代の島津氏に命じて須田氏を成敗し、海津城代だった上条氏を解任したというのが事実なのだろう。
この時に上杉方により徹底的に破却された(破城)と思われる。

福島城(須坂市) (27)
千曲川の堤防道路から見た西方面。


≪福島城≫ (ふくじまじょう)

標高:336m 比高:-m
築城年代:弘治元年(1555)~ (天正十三年五月に落城・破却)
築城・居住者:須田氏
場所:須坂市福島
攻城日:2014年4月27日 
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:公会堂から歩いて5分 駐車場:福島公会堂借用
見どころ:城址よりも宿場町の史跡?
注意事項:耕作地には入らない事
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井編⑧ 2013年 宮坂武男著」、「定本北信濃の城(1996年 郷土出版社)
付近の城跡:井上城、須田城など

福島城(須坂市) (8)
地元の方の熱意が感じられる素敵な石版の説明書(地図入り)




Posted on 2014/05/21 Wed. 12:23 [edit]

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枡形城 (上高井郡高山村中山)  

◆高梨領の南を守る要塞◆

三日市場城の件では皆さんの多大なる声援ありがとうございます。これからが正念場なので引き続き原状回復されるまで執拗に食い下がってまいりますので、引き続き宜しくお願い致します。

んで、矢留めしたらコツコツと真面目に攻城戦記でも書けば良さそうだが、記事を書くのも面倒クサい・・(笑)

北信濃を代表する二大豪族といえば村上氏と高梨氏で、祖先はいずれも清和天皇の孫の源頼信であるという。

小生、自慢じゃないが村上さんについては熱心に調べてそれなりに知識を有しているが、高梨さんについては上杉謙信の叔父さんだった程度の知識しかなく、慌てて高梨一族について勉強中である・・(汗)

枡形城(高山村) (2)
日常生活においても「へそ曲がり」なので、城の攻め方も玄人っぽくしたいというワガママだけである(笑)

さて、今回ご紹介するのは南に隣接する須田領との境に位置する枡形城(ますがたじょう)。高梨さんちの南の要だ。

枡形城(高山村) (4)
さっきの標柱の場所から東へ200m進むと枡形八幡広場があり、八幡社の裏側が東尾根で大手道となる。

【立地】

高山村の中央を流れる松川右岸の中野市との境界となる山嶺から張り出した独立峰に近い山に枡形城がある。この山の背後には、間山峠、大熊峠、桉沢峠があり古来より戦略上重要な所で、甲越戦争時には謙信道として川中島方面への軍用道にもなっていた。

高梨領南側の城砦
網の目のように張り巡らされた高梨氏の山城ネットワーク。

【城主・城歴】

長野県町村誌によれば、応永年間(1394-1427)に山田四郎国政、その子能登守が居城し、応永廿二年(1425)原飛騨守隆昌が遠州より来て山田氏の幕下となり代々居住したとあるが、それだけでは良く分からない点が多過ぎる。

「信濃高梨一族」(志村平治著 平成19年)によれば、枡形城と居館のある東条荘山田郷は高井郡井上を主要領主地とする井上氏の所領であったが、寛正六年(1645)に井上氏は村上氏と合戦に及び、山田郷は高梨家の有力庶子家である山田高梨高朝が領有するようになったという。

枡形城(高山村) (6)
八幡社で武運長久をお祈りして東尾根を登り始める。

枡形城が記録に登場するのはこの時で、高梨宗家は正高が隠居し中興の祖として名高い政盛が引き継ぐ。
政盛は、庶子家の山田高梨朝高が惣領家の意に反して勢力拡大を図るのを不快に思い一掃することにした。

文明十六年(1484)、山田城(枡形城)の高梨朝多可と対立していた高梨政盛は、朝高の高野山参拝中に山田城を急襲して追放し、朝高の所領を一族の将秀(まさひで)、高秀の両名に与えている。(政盛さんの功績はまた後日に)
「諏訪御符礼之古書」に「この年五月、山田城の高梨日向守高朝、高野仏詣の留守中を、高梨刑部大輔政盛、城を取られ候」とある。

山田城(枡形城)には原(山田)左京亮(はらさきょうのすけ)が引き続き置かれたようなので、原氏が政頼に内通したと見るべきであろう。

枡形城(高山村) (19)
段郭を刻み防御としている東尾根。結構険しい斜面で辟易する・・(汗)

その後、弘治三年(1557)二月に武田氏が上杉氏との和睦の停戦協定を破り葛山城を急襲して陥落させ、枡形城の原左京亮は弘治三年(1557)に武田氏に内通する。これに怒った謙信は阿修羅の如き怒涛の出撃を行い、北信濃から武田軍を追い出し善光寺平の旭山城を再構築し本陣を置いた。この時一時的に枡形城と福島城も奪還されたが、その後は再び武田方の城となった。武田氏滅亡後の動向は定かでないという。

枡形城(高山村)見取図①

【城跡】

独立峰の頂上に主郭があり南北方向の上下二段で構成され、郭1は北と東に土塁が残り、郭2は東側に土塁が残る。
周囲は石塁(石積み)が全周していてこの地域の城砦群のトレンドを踏襲している。

城の正面側となる南尾根、東尾根は段郭を多用した防御構造で堀切はほとんど無い。このような急斜面の尾根では堀切よりも段郭のが有効でありそれを実践している。

枡形城(高山村) (26)
東尾根稜線上の不整形な帯郭。

枡形城(高山村) (30)
尾根伝いに郭2に入るのは楽勝と思っていたのだが・・・。

枡形城(高山村) (34)
まあね、玄人好みの攻め方とは苦難が常らしい・・・(汗)

岩場だし、痩せ尾根で転落したらヤバそうだし、灌木の藪漕ぎは痛そうだし、竹藪になんか潜んでるかも?
「どうする俺!!」・・・まあ、行くしかないでしょう・・(笑)

枡形城(高山村) (48)
郭1から見下ろした郭2.

枡形城(高山村) (40)
郭2から郭1を見上げる。切岸には石塁が施工あれていた跡が残る。

枡形城(高山村) (45)
物凄い量の石が切岸を全周している。さぞかし大変な土木工事かと・・(汗)

枡形城(高山村) (43)
苔むした石の斜面が郷愁を誘う・・・

枡形城(高山村) (106)
主郭(32×14)

この辺りの城砦仕様だと主郭の背後にバンバンと大堀切を造成するのだが、枡形城の主郭は独立した峰の頂上で北側の傾斜もキツイ為に斜面を80m下がった場所の搦め手方面(北西尾根)に申し訳程度の三連の堀切がある。
北東の尾根の先端にも段郭と小さな堀切二条が設置されているが、その程度でも充分だったと思われる。

枡形城(高山村) (59)
主郭背後は深い沢のような急斜面。堀切など不要の天然の防御施設である。

枡形城(高山村) (69)
80mの長さの急斜面を下りて後悔する。「あーあ、この坂また登るんかい・・・」(笑)

枡形城(高山村) (81)
北西尾根最終の堀切㋗

枡形城(高山村) (72)
堀切㋕

枡形城(高山村) (75)
鉄塔は堀切を避けるように建ててありました。中電さんありがとう!

宮坂氏の縄張図と解説によれば、主郭周辺の切岸には畝状堀の跡があるようだ。確かにそれらしき形状が確認出来るし、もしそうだとすれば上杉軍による改修の跡であろうか。

枡形城(高山村) (96)
雨水による裂け目とも見えるが、畝状堀と云われればそうにも見える。

枡形城(高山村) (100)
この斜面に畝堀を施せば鬼に金棒であろう。

郭2~南尾根にかけても結構な急斜面であり、二十近い段郭や帯郭で防御を固めている。
通路に石が敷き詰められているので不思議に思うが、雨が降れば通路が排水溝になってしまい城にも登れないのでわざわざそういう加工をしたのであろう。

枡形城(高山村) (35)

枡形城(高山村) (118)
石畳のように通路に石が敷かれている虎口までの登り。急斜面なので石が無ければ雨なら滑って登れないと思われた。

枡形城(高山村) (125)
斜面には段郭が連続する。

枡形城(高山村) (138)
尾根筋の通路は石で覆われている。補給物資は南尾根経由で運び込まれたのであろうか。

山田氏によって築城された枡形城は高梨氏や原氏によって維持され若干の改修はされたであろうが、最終的な現在の縄張と防御構造は武田または上杉という大勢力の手でくわえられたものと考えられ、戦国末期まで現役として交通の要衝を守る砦として利用されたのであろう。
大切に後世に残したい城である。

≪枡形城≫ (ますがたじょう 山田城)

標高:711m 比高:175m
築城年代:不明
築城・居住者:山田氏、高梨氏、原氏など
場所:上高井郡高山村中山
攻城日:2014年4月27日 
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:30分 駐車場:公園脇に路駐。
見どころ:段郭、堀切、土塁、石塁など
注意事項:東尾根側からのチャレンジは藪漕ぎ必死、転落注意。安全に行くなら南尾根の通常ルート。
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井編⑧ 2013年 宮坂武男著」、「信濃高梨一族」(平成19年 志村平治著)
付近の城跡:記事の最初の国土地理院の地図を参照願います。

山田高梨居館(高山村) (1)
南西から見た枡形城全景。




Posted on 2014/05/18 Sun. 14:48 [edit]

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