らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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上之段城 (木曽郡木曽町福島)  

◆天正十二年、徳川を裏切り秀吉に寝返った為に小笠原貞慶に攻め込まれ焼き討ちされた義昌の居館◆

険しい木曽谷は、その地形自体が天然の防御であり、山城や砦など築かれなかったと思う方も多いと思われる。
小生もそう思い込んでいたのだが、屋敷址も含めれば実に80ヶ所以上あるという。

戦国時代に実際に戦場となった場所は、美濃国との境目の妻籠城、松本平との境目の鳥居峠、木曽氏の本拠地の福島ぐらいなので北信濃や東信濃に比べると人気が全くないには致し方が無い・・・(汗)

今回ご案内するのは、福島で唯一焼き討ちされたという史実の残る「上之段城」(うえのだんじょう)。

上之段城 (3)
城址は福島関所跡の東側の関山公園の入口で、木曽青峰高校の第二グラウンド付近。

【立地】

山頂に火燃山狼煙台が置かれた根井山の山裾の西端で、木曽川と八沢川の合流地点の手前に位置する。木曽川を挟んだ対岸には福島城、その山麓に木曽氏居館がある。また南の八沢川を挟んで小丸山城があり、木曽氏の本拠地を形成している。

上之段城① 001
上之段城とその周辺の航空写真(Yahoo地図を加工しています)

上之段城 (6)
水無神社(すいむじんじゃ)の大鳥居の脇から主郭のある小山に登ってみる。

【城主・城歴】

木曽氏は須原に本拠を置いていたようだが、応永年間に木曽親豊が小丸山城を築いて福島に本拠地を移し、後の永正六年(1509)に木曽義在が上之段城を築き、その子義康、孫の義昌も居城する。
木曽氏は武田氏に属しその姻戚として栄えるが、武田氏に衰退の兆候が見え始めると織田氏に通じ結果として武田氏滅亡のきっかけを作る事となった。

上之段城 (7)
本郭の手前に堀形のようなものもあるが、加工など無くほぼ地山だったようだ。

天正十年、武田が滅び織田が斃れ天正壬午の乱が勃発すると、木曽義昌は上杉に奪取された筑摩・安曇の失地回復を条件に徳川方に味方するが、小笠原貞慶が家康の後ろ盾てで深志に復帰したために約束は反故となった。天正十二年、家康との決着が避けられなくなった秀吉は小牧・長久手の戦いの最中に木曽義昌を調略。家康に不信感を募らせていた義昌はこれに応じ徳川から離反する。

上之段城 (13)
主郭の削平地。何の変哲もない。

家康は深志城の小笠原貞慶と伊那郡代の菅沼定利に木曽攻めを命じた。五月に貞慶は鳥居峠に進軍するが、義昌は辛うじてこれを迎撃し撃退した。続けて九月に伊那の菅沼が妻籠城に攻めかかり、義昌の重臣である山村良勝率いる木曽軍は籠城戦で持ちこたえ秀吉も森忠政の援軍を差し向けた。やむを得ず徳川軍は退却したという。(この時の戦の様子は妻籠城の記事を掲載する際に詳しく記載したいと思う)

上之段城 (17)
主郭から見下ろす二の郭(グラウンド)。比高30m程度である。

菅沼定利の妻籠城への進軍に併せて深志城の小笠原貞慶は再度木曽へ進軍。木曽方の贄川氏を調略し鳥居峠を越え木曽氏の本拠地である福島に攻め入った。妻籠城より帰還した木曽軍は迎撃の準備が整わず防戦虚しく城下町は小笠原軍により放火され、上之段城も焼け落ちたが、義昌は福島城に籠城し抗戦を続けたという。
近隣の集落が木曽軍の応援部隊として参戦するに及び長旅と長期の戦闘で形勢不利を悟った小笠原軍は撤退したという。

上之段城 (21)
関山公園側から見た二の郭。

【城跡】

木曽青峰高校のグラウンドになった為に大きく改変を受けていて往時の面影を想像するのも非常に厳しい。主郭はグラウンドの東の小山で、グラウンドの拡張の為に裾部分を削り取られてしまったという。
この山の東西に堀が入っていてグラウンドの所が2の郭、3の郭は上之段の大通寺あたりという。
江戸時代に山村代官の上級家臣の屋敷が二十軒近く残っていたという。上之段城の屋敷がそのまま残ったもので、上之段の用水も原形は当時のものという。

上之段城 (22)
二の郭跡。女子ソフトの練習をしていたので写真撮影はかなり厳しい状況。見つかれば即「変態・通報・逮捕」となる・・(汗)

上之段城 (23)
郭2.後方に相図峯狼煙台(1200m)が見える。そのうちあの山にも登る日が来るのか・・・(汗)

上之段城 (1)
関山公園から見た主郭。こうしてみると立派な山城である。


≪上之段城≫ (うえのだんじょう)

標高:812m 比高:52m
築城年代:不明
築城・居住者:木曽氏
場所:木曽町福島
攻城日:2015年3月28日 
お勧め度:★☆☆☆☆
館跡までの所要時間:- 駐車場:関山公園駐車場
見どころ:特になし
注意事項:高校なので不用意に撮影すると通報される可能性あり。要注意。
参考文献:「信濃の山城と館⑦安曇・木曽編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版 P442参照)「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望」(2011年 平山優著 戎光祥出版)
付近の城址:福島城、木曽氏居館跡、小丸山城、火燃山狼煙台など

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小丸山城付近より見た上之段城と火燃山狼煙台。





Posted on 2016/09/09 Fri. 23:09 [edit]

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小丸山城 (木曽郡木曽町福島)  

◆木曽氏が須原より移り最初に築いた山城◆

「木曽路は全て山の中である」の書き出しで有名な島崎藤村の「夜明け前」。

木曽を語るのなら一度は読むべしとibooksでダウンロードし2/3まで読み進めたが、半年前に止まったままである・・・(汗)

彼の小説も凄いが、彼の一生をそのまま本にしてもベストセラー間違いなしであろう・・・。違う意味で凄い人生である。

今回ご案内するのは、そんな木曽谷を拠点として戦国乱世を乗り切った木曽氏の福島における最初の館城「小丸山城」。

小丸山城 (18)
木曽青峰高校のグランドと隣接するNHK中継基地が城跡だという。

【立地】

八沢川の左岸の段丘上が小丸山城のある所で、現在その主要部分はNHKの中継所や木曽青峰高校の敷地となっている。この台地は、北側と西側は八沢川と木曽川の段丘崖になっていて、その両面は人を寄せつけない。

小丸山城 (2)
八沢川と木曽川の合流地点に突き出る形の断崖上に主郭が置かれたようだ(現在はNHKの中継所)

【城主・城歴】

「西筑摩郡誌」(大正四年)によると、「小丸山は又八沢城とも言へり。応永忠(1394-1427)木曽親豊の築ける所 本丸 二の丸 出丸の遺址皆存す。~中略~小丸山は今日公園となり観楓を以て名あり」とある。

木曽福島には三つの山城があるが、その中でこの小丸山城が最も古く、次いで上之段城、それから福島城の順になる。親豊は須原(現在の大桑村須原)を本拠地としていたが、木曽谷の中心部で飛騨・伊那へ通じる交通の要衝「福島」の此の地に築城し、居館を移して木曽谷を制した。その子信道、孫の義元もこの城を使う。

小丸山城 (3)
中継所は立ち入り禁止なのだが、指揮所としては50×30ぐらいの充分な削平地である。

天文24年(1555)八月、武田晴信が木曽に侵攻した時には、「木曽古道記」によると義康が上之段城にその子義昌が小丸山城(八沢城)に籠り防いだが降伏したために戦火を免れることが出来た。
その後についてははっきりしない。福島防衛の一翼を担っていたものと思われるが、山村氏の頃になり、その必要性が薄れて廃城になったものと思われる。

小丸山城 (4)
郭2が現在高校のグラウンドになっていて面影は無い。

小丸山城① 001
航空写真で見るとこんな配置(Yahoo地図を加工)

【城跡】

諸記録によれば、主郭はNHKの中継所のある50×32m程のところで、二の郭は高校の所、三の郭はその西下の木曽福島駅の所で、ここが牛越の地名で居館地と言われる。
終戦まで主郭の東側に二段の腰曲輪があり、西側に上下二段の帯曲輪と西斜面に横矢掛りが残っていたというが今は無い。
山麓の八沢町はもと富田町といい、城下町として発達した所という。

小丸山城 (10)
主郭付近より三の郭(居館跡)があった駅方面を望む。

小丸山城 (12)
城址から見る福島城と居館跡。


≪小丸山城≫ (こまるやまじょう やさわじょう)

標高:811m 比高:58m
築城年代:不明
築城・居住者:木曽氏
場所:木曽町福島
攻城日:2015年5月24日 
お勧め度:★☆☆☆☆
館跡までの所要時間:- 駐車場:無し。道路狭いので路駐不可
見どころ:居館跡からの景色
注意事項:高校なので不用意に撮影すると通報される可能性あり。要注意。
参考文献:「信濃の山城と館⑦安曇・木曽編」(2013年 宮坂武男著 P441参照)
付近の城址:福島城、木曽氏居館跡、上之段城、火燃山狼煙台など

小丸山城 (15)
指呼の間に上之段城。

小丸山城遠景
木曽氏居館跡から見た小丸山城。


Posted on 2016/09/08 Thu. 07:43 [edit]

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木曽氏居館 (木曽郡木曽町福島)  

◆武田領の西端を守り続けた木曽氏の居館跡◆

記事は久々の木曽方面となる。

そう、某国営放送の大河ドラマ「真田丸」の第七話で、威張り三昧の田舎侍として登場した木曽義昌。人質となっていた信繁の祖母である「とり」に幼少名の「宗太郎」と呼び捨てにされ叱られた気弱なヤツといえば、何となく思い出していただけるであろうか・・・(汗)

今回ご案内するのは、武田氏滅亡の重大戦犯と言われ続け人気が全く無い木曽氏の居館跡。
家名存続をかけた木曽義昌の決断が非難されるのは何故なんでしょうかねえ・・。

木曽氏居館 (6)
現在の福島小学校が木曽氏居館の中心地だったという。

【立地】

福島城のある城山の南東の山麓が居館跡(向城 むかいじょう)である。木曽川へ黒川と八沢川が合流する所に木曽福島のまちがあり、木曽川の両岸の段丘上と山尾根上に多くの城砦、狼煙台があり、木曽氏及び後の山村氏の本拠地を形成している。

木曽氏居館 (7)
山村代官屋敷は木曽氏居館を更に拡張した広大な屋敷地であった。(写真は小学校に隣接する下屋敷)

【館主・館歴】

「長野県町村誌」に「木曽氏竝山村氏宅跡」として、「城山の麓、木曽氏の古宅跡、山村氏之に居住す。面積建坪一町五反九畝十一歩、外郭厩六畝二十七歩、馬場二反一畝、城山新建林一町、統計二町八反七畝八歩、木曽氏之を築くや、義元と云ひ、義康と云ふ。古記證すべきなし。伹殿守楼櫓の宏壮、木曽氏の建築ならむ。明治四年山村氏来地返上、悉皆破毀し田園と為す。曩者(さきの日)山村氏黒川を引て城山を囲繞し、向城用水と為す。其間二十六町。新開村平民、古畑惣右衛門、談兵を好み、築城の技に精し、山村氏選挙し之を督せしめ、文化十二年(1815)成る。之の陰地、水保ち難く溝廃す。明治三年之を復し、址田に灌ぐ。」とある。

木曽氏居館跡見取図①
木曽氏居館跡とその周辺。(yahoo地図を加工しています)

木曽氏の本拠は須原であったが、応永年間に親豊が小丸山城を築いて移り、以来木曽氏の本拠地となる。武田氏の木曽進入の時には、上之段城には義康が、其の子義昌は小丸山城を守ったが、義康父子は武田氏に降り、両城は戦火から免れた。その時の武田の陣城が向城とされる。
居館の造営の時期は、「木曽古道記」に「弘治二年(1556)義康新造ノ館善尽シ美尽シテ成ル(大川ノ西今山村氏ノ屋敷是ナリ)」とあり、弘治の頃に城山の福島城も築城されたと考えられている。

木曽氏居館 ①
福島小学校の校庭。木曽氏⇒山村氏と屋敷地であった。正面に火燃山狼煙台(ひともしやまのろしだい)が見える。

武田氏滅亡後、木曽氏と府中の小笠原貞慶との間に争いがおこり、貞慶の軍が福島まで攻め込み、上之段の館は焼かれ、義昌は向城の館に居館し守っている。天正十八年(1590)義昌は秀吉により下総に移封され、犬山城主の石川氏が木曽を支配する。木曽氏が改易になると木曽氏遺臣、千村氏・山村氏が木曽党を集めて家康に属して木曽へ乱入し、これを奪還し、その功績で山村氏は代官として以後維新まで木曽氏館跡に居住し、木曽を支配することとなる。

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居館跡から見上げる福島城。ここからの登城ルートが大手らしいが、道がハッキリしていない。

木曽氏居館 (16)
小笠原貞慶によって焼き討ちされたという上之段城の遠景。

木曽氏居館 (25)
段丘の先端にある小丸山城の遠景。

【館跡】

館跡に立つ「山村代官下屋敷」の案内看板には、山村氏は鎌倉幕府の大学頭大江氏の分流で木曽氏の重臣として活躍し、関ヶ原の合戦の前哨戦で功をあげ木曽代官として、木曽の山林、福島の関所を守り強大な権力を手中にする。屋敷は豪壮を極め、文政十一年の絵図によると、福島小学校を含む敷地に、庭園が二十あり、その一つが現存する下屋敷の庭とある。

この館は木曽義康の館に始まり、更に石川氏の代官が居て、その後山村氏が完成させたということになる。
山村氏の勢威は、その墓所を見ればいかに強大であったかが伺える。

木曽氏居館 (8)
説明板に掲載されている山村代官屋敷。壮大な屋敷地であったことが分かる。

木曽氏居館 (9)
下屋敷地には山村大明神なる稲荷社が祀られている。


≪木曽氏居館≫ (きそしきょかん 向城・山村代官屋敷)

標高:765m 比高:10m
築城年代:不明
築城・居住者:木曽氏、石川氏、山村氏
場所:木曽町福島
攻城日:2015年5月24日 
お勧め度:★★☆☆☆
館跡までの所要時間:- 駐車場:町営駐車場を利用
見どころ:山村代官屋敷(有料)
注意事項:小学校なので不用意に撮影すると通報される可能性あり。要注意。
参考文献:「信濃の山城と館⑦安曇・木曽編」(2013年 宮坂武男著 P441参照)
付近の城址:福島城、小丸山城、上之段城、火燃山狼煙台など

小丸山城 (13)
対岸の小丸山城から見た木曽氏居館遠景。

Posted on 2016/09/03 Sat. 10:58 [edit]

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木曽義仲居館 (木曽郡木曽町日義)  

◆27才の義仲が挙兵したと伝わる居館跡◆

再び木曽義仲伝説にリターンするのか?と危惧されている皆さん・・・

「安心してください、これっきりですよ!」 (笑)

2015年のテーマとなった「木曽義仲の史跡巡り」のラストの一歩手前は「木曽義仲居館跡」 (一歩手前??)

木曽義仲居館 (47)
旗挙八幡宮(はたあげはちまんぐう)と義仲公居館跡の碑。

いつか行かねばと思いつつ、いつも素通りしていた木曽義仲公居館跡。

「遺構が無いので後でもいいや・・・」

これこそ「明日やろうはバカ野郎!」の「らんまる家の家訓」に叛いている事に最近気づいた・・・(笑)

木曽義仲居館 (23)
神社の向きが木曽川方面なので、背後の国道19号線を通るドライバー向けの看板。

実はこの時期に年一回は必ず木曽町三岳に商用があるので、その帰りにチョッと寄ってみた次第。

決してサボりではありません・・・運転疲れのしばしの休息ってことで・・・・(汗)

【立地】

旧日義村(現在の木曽町日義)の山吹山狼煙台の南1km、木曽川左岸段丘上の旗挙八幡宮の一帯が木曽義仲の居館跡の伝承が残る。
ここから南へ約5kmで義仲が育ったという中原兼遠居館がある。

木曽義仲居館 (11)
何故か線路側が正面の参道になっている八幡宮。

木曽義仲居館 (7)

【旗挙八幡宮の由来】

幼名を駒王丸と名付けられ、養父中原兼遠によって育てられた義仲公は このあたりの平地に城を構え八幡宮を祀ったと伝えられている。十三歳にして元服。名を木曽次郎源義仲と改め、治承四年(1180)一千騎を従え、ここに平家打倒の旗揚げをした。時に義仲27歳であった。
以後、旗挙八幡宮と呼ばれている。   ※現地の説明板の文章を引用

木曽義仲居館 (1)
義仲公ゆかりの大欅(けやき)。嘗ては周囲12m高さ30mあったという。樹齢800年なので旗挙時の植林だろうと推定されている。

木曽義仲居館 (2)
二代目の大欅(けやき)は樹齢150年。初代の大欅の樹勢が衰えたために後継のご神木として育てられている。

義仲居館跡 001
居館跡付近の航空写真(Yahoo地図を引用し加筆)


【館跡】

東は通山(1030m)、西は木曽川に挟まれた地形で、現在は山麓を国道19号線が走り、木曽川の脇を中央西線が通っている。旗挙八幡周辺も耕作地となり、往時の居館がどのような規模であったかは遺構も境界線も無いので確定できない。
この場所だけをみれば要害地形とは思えないが、往時は木曽谷全体を要害とみなしていたので局地的に防御を強化する必要はなかったと思われる。

木曽義仲居館 (25)
神社の北側の耕作地。

木曽義仲居館 (10)
南の木曽福島方面。中原兼遠の居館がギリギリ見える位置。

日義の徳音寺集落では無形民俗文化財として「らっぽしょ」という山吹山に因んだ火祭りが毎年お盆に行われ、山から松明を持って降り徳音寺にある義仲の墓に詣でるという。また東の通山(かよいまや)にもかつては火祭りがあったとされ、この地域には義仲にまつわる伝説や地名が多い。

木曽義仲居館 (15)
義仲居館跡から見た北側の山吹山。天然の防御システムだ。(戦国時代は狼煙台が置かれ遺構も残っている)


≪木曽義仲居館≫ (きそよしなかきょかん)

標高:882m 比高:23m (木曾川より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:木曾郡木曾町日義
攻城日:2015年10月27日
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:-
駐車場:3台程度
見どころ:大欅、旗挙八幡宮
参考文献:「信濃の山城と館⑦ 安曇・木曾編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版) 
付近の城跡:山吹山狼煙台、巴淵、義仲館(歴史館)、中原兼遠居館跡など



【木曽義仲伝説の残る巴淵】

木曽義仲居館跡から北へ約500mの山吹山の裾に「巴淵」(ともえぶち)と呼ばれる義仲伝説の地がある。木曽川が山吹山と通山の深い渓谷によりクランク状に折れ曲がる南側の場所で現在は巴橋という橋が架かっている。

木曽義仲居館 (30)
紅葉とのコントラストの時期が最高らしいが、チョッと早すぎたようです・・・(汗)

歴史が漂うこの淵は巴状にうずまき巴淵と名付けられました。
また、武勇に長けた麗将として有名な巴御前にちなんだ深淵でもあり、伝説にはこの淵に住む龍神が木曽義仲の養父中原兼遠の娘として生まれ、巴御前に化身して義仲の愛妾として、彼の生涯を守り続けたといわれています。
巴御前はここで水浴をし、泳いでは武技を練ったと云われています。  ※現地説明板より引用

木曽義仲居館 (31)
巴淵にかかる巴橋。


【謡曲「巴」と巴淵】


謡曲などと書かれると、そちらの知識はまったく「ゼロ」なので、そのうち小生の崇拝するその道のプロである「つねまる」様が解説してくれるような気がします・・・なので、とりあえず説明版に書いてあることを書き写しておきます・・・(汗)

謡曲「巴」は修羅物の中でも女性を主人公にした唯一の作品です。
木曽の僧が滋賀の粟津原に来ると、一人の里女が社の前で泣いている。事情を聞くと「木曽義仲が討ち死にした場所で、弔って欲しい」という。
僧が読経していると、先ほどの女が武装して現れ「自分は巴という女武者。木曽義仲の供をして自害しようとしたが女だからといって許されなかった」と語る。巴の霊はその無念さと義仲への恋慕から、成仏できずにいたのだった。

巴は少女時代、この巴淵で泳ぎ、近くの徳音寺にある乗馬像のように、野山を駆け巡って育った。淵をのぞき込んでいると、そうした巴の姿が彷彿と浮かんでくるようです。  ※謡曲史跡保存会の看板より引用


木曽義仲居館 (33)
ここで巴御前が泳いていたと想像すると、チョッと艶めかしい・・・(笑)

木曽義仲居館 (34)
プロのカメラマンではないので、このアングルも微妙かと・・・。

皆様も木曽路へお越しの際は、巴淵にお寄りください。10月下旬から11月上旬の紅葉の時期がベストかと。



という訳で早速その道のプロの「つねまる」様より謡曲「巴」についてご解説をいただきました。

流石でございますw 勉強になりました・・・・

↓↓↓(以下は つねまる様の解説文です)

謡曲「巴」は、女性が唯一薙刀を手に舞う曲です。

共に戦った義仲から、「汝は女なり」と小袖を木曽へ届けよと告げられ、薙刀を手に「かくて御前を立ち上が」った巴は、四方を払う八方払い、木の葉返し、等で勇猛に戦いますが、「今はこれまで」と、ふと振り返った義仲は既に自害。
巴は約束の小袖を胸に義仲の死骸に暇を告げ、烏帽子・武装を脱ぎ捨てつつ木曽へと向かうのでした。

とかく勇ましい巴の姿が頭に浮かびますし、能のいいとこ取りの仕舞でも薙刀で戦う場面を舞いますが、この曲の真骨頂は、義仲と共に自害することを許されず、女ならばたどり着けるだろうからと別れを告げられた巴が泣く泣く木曽へ向かう最後の場面。
情感を込めすぎず、少ない型の中でいかに巴の心情を表すかがとても難しい曲です。

木曾義仲 036
木曽町日義に展示されている巴御前の絵画(画:内田青虹、木曽町蔵)

つねまるさん、解説ありがとうございました!!

この場を借りてお礼申し上げます。









Posted on 2015/11/08 Sun. 10:39 [edit]

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奈良井城 (塩尻市奈良井)  

◆往時の姿を留める在地土豪の方形居館◆

「日本の100名城」クラスの近代城郭になると、最近は「○○戦国武将隊」なるビジュアル系にも優れたお兄ちゃんやお姉ちゃんが常駐して戦国ブームを盛り上げてファンの拡大に貢献して頂いている。

真田丸2014 (7)
真田十勇士に扮した上田城の戦国おもてなし隊の皆さん。

そんな夢を抱くファンの方には申し訳無いが、「命のやりとり」というヤクザ渡世そのもの(まあ、さしづめ暴力団の権力抗争を主題とした 仁義なき戦いでしょうか・・)だった中世~戦国時代。

そして静かなる日本刀のブームらしいが、人を二人斬ると「なまくら刀」となり使い物にならない往時の日本刀が、千人斬っても抜群の切れ味を誇るゲーム「戦国無双シリーズ」・・・・(笑)

どんな手段を用いようが、平和ボケした日本人が祖国の歴史に興味を持つ事は大歓迎である。

今回ご案内するのは、戦国時代における在地小豪族の存続にあと一歩で敗れ去った奈良井義高の居館「奈良井城」。

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城跡は奈良井宿の西側の高台にあります。

【立地】

奈良井宿後背の高遠山の山裾にできた木曾川右岸の段丘面に立地していて、比高は崖下より約30mあり、西側はカツ沢の谷が自然の堀となっている。

城跡までは農道が入っているので、軽自動車なら奈良井宿入口の手前を右折して八幡宮脇を道沿いに進めば到達出来る。が、せっかくの宿場町なので、観光がてら街並みを歩いて途中から城跡に登るのがお勧めだ。

奈良井宿 (6)
奈良井駅横の駐車場から宿場町経由で歩いて10分もかからない。

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駅から二番目の水場の脇を右へ上がる。

奈良井城 (53)
わざわざ道から外れたこんなとこに道標立てて誰が見るの?(笑)

小生は車で城跡を目指すも運悪く道路工事中。仕方なく徒歩で八幡宮経由で居館跡へ・・・(汗)

【城主・城歴】

奈良井治部少輔義高の居館跡とされる。この地方を治めた国人の奈良井氏は、木曽福島に本拠地を構えた木曽氏の支族とも、また隣接する洗馬を治めた三村氏の一族とも云われるが確実な史料はない。

甲陽軍鑑によれば、天文十八年(1549)に武田軍は木曾路侵攻作戦を開始し贄川・奈良井・平沢を焼き払うが、鳥居峠で木曽福島の援軍に敗れたとしている。この時に奈良井治部少輔義高は木曾義昌に援軍を求めたとしているので、同盟関係にあったのだろうか。

天文二十四年の春に武田軍は再度藪原に布陣したが、川中島で越軍が動いた為に抑えの守備兵を残して主力は転進。
八月に木曽攻略で再度鳥居峠に木曾氏を攻めるが和議となる。武田軍がすんなりと藪原まで進軍しているので、この時すでに奈良井氏は武田に降っていたと思われる。塩尻峠の戦いで小笠原長時を裏切り武田に従った洗馬の三村氏が、戦の後に謀叛の疑いありとして晴信に甲府で成敗された事も影響していたのだろう。

奈良井城見取図①

木曽氏が武田氏に下り御親類衆の扱いとなると、奈良井氏は表面上は木曽氏の配下とされたようだが、信玄から木曽氏の監視任務も仰せつかったらしい。木曽氏の家臣であった贄川氏、山村氏、千村氏も武田直臣同等の扱いであったらしく、木曽氏の地位は信玄の娘婿というだけで実質的には木曽地方の代官程度の扱いだったという。

奈良井城 (5)
北側から見た城館と周囲の堀切。

その後の奈良井義高は、贄川砦の在番衆として木曾義昌の配下として洗馬宿方面と義昌の監視を続けていたようである。その後、木曾義昌が武田勝頼を見限り信長による甲州征伐で武田が滅亡すると、義昌は深志・安曇の二郡を信長より拝領するが、本能寺で信長が斃れると、天正壬午の乱が勃発し木曾義昌は徳川家康に与する。

一説によれば、奈良井治部少輔義高の正室は、信濃国の守護だった小笠原長時(貞慶の父)の娘であったとされる。
天正壬午の乱が勃発すると、家康の後ろ立てで上杉景勝に奪われた深志・安曇の二郡を回復した小笠原貞慶が洗馬と隣接する贄川・奈良井の義高にコンタクトを取るのは必然的だったと推察される。

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最近までは耕作地だったようだが、地権者の御好意で居館跡として一般開放されている。有り難いことですw

秀吉・家康が天下の覇権を巡り「小牧長久手の合戦」が天正十二年三月に勃発すると、突如として木曾義昌は徳川軍に叛き秀吉の調略に加担する。

※この辺の経緯については「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望」(平山優著 2011年 戎光祥出版)が詳しい。

木曽家臣団においても豊臣秀吉への帰属を巡り家中の意見がかなり分かれたと思われ、貞慶の親族であり反秀吉の先鋒だった奈良井義高はこの時に木曾義昌によって成敗され、以後奈良井家は断絶したと思われる。

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木曾義昌のこの過酷な処置に、,奈良井義高と関係の深かった贄川氏・千村氏は貞慶に内通したという。
徳川家康は木曾義昌の謀叛に対して妻籠城を攻めるが山村氏の奮戦により撤退。しかし小笠原貞慶に命じた木曽攻めは、貞慶の電撃作戦と木曾義昌家臣の贄川氏の内通により、木曽氏の本拠である福島まで攻め入り居館を焼き払い木曽氏滅亡まであと一歩のところまで追い込んだ。

奈良井城 (9)
500年前の堀切が拝めるのは貴重な事なのだと改めて思いますw

【城跡】

東西60m南北50mの方形居館で南斜面に対してやや傾斜している。堀を挟んだ北側の耕作地も居館の一部のようだが、伝承等なく不明である。南西の稲荷社から三段の平削地を通って居館となるので往時の大手は神社への参拝道だったと思われる。

奈良井城 (25)
方形居館の北側には土塁があったようだが、耕作地化により失われたという。

奈良井城 (42)
居館の北側の堀。一部土橋らしき遺構が確認出来る。

奈良井城 (47)
東側の堀底から見た遺構。

奈良井城 (46)
城域東側の堀切が南側に下る。

天然の沢を利用した小さな方形居館だが、眼下に集落を形成し木曾路を通行を見張るには良い立地である。

ここで来襲する敵を防ぐのは無謀だが、いざとなったら藪原砦(鳥居峠)で迎撃すればよいので、平時の居館としてはこんなものだろう。

奈良井城 (3)
上の農道から攻め入る場合の参考写真。カツ沢の手前に南へ下る作業道があるので、それを下っていくと居館跡に通じる。

奈良井氏については義高のみが伝承に記述されているようだが、前後を含めて木曽氏との関連も併せて新しい史料が出てくる事を望みます・・。

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木曽大橋付近から見た奈良井城遠景。

≪奈良井城≫ (ならいじょう 城)
標高:980m 比高:30m (奈良井宿より) 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:塩尻市奈良井
攻城日:2015年5月27日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:15分 (奈良井宿より徒歩)
駐車場:奈良井駅駐車場
見どころ:堀切
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版) 「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望」(2011年 平山優著 戎光祥出版)
注意事項:特に無し
付近の城跡:藪原砦、妻籠城、須原城、木曽福島城、など

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宿場町としての景観や建物の維持管理は住民の皆さんの協力と努力があってこそ。感謝感謝でございますw








Posted on 2015/05/28 Thu. 02:03 [edit]

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