らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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山吹山狼煙台 (木曾町日義)  

◆木曾氏の本拠地「福島」を守る北の関門◆

例年にない晴天と高温の続く今年のGWには辟易する。残り少ない山城シーズンは、呆気ない終了のゴング・・(汗)

今回ご紹介するのは、木曾ノロシ台シリーズ第二弾の山吹山狼煙台(やまぶきやまのろしだい)。

山吹山烽火台 (1)
登山口に立つ説明板。残念な事に肝心なここの「山吹山」が抜けているので何の意味も無い・・・(汗)

旧日義村(現在は合併して木曾町)時代より毎年8月14日に「らっぽしょ」という祭りが行われている場所で、京都の大文字焼きのように、山の急斜面に松明で「木」の文字を人文字で表す火祭りが有名。(現在は木曾義仲公旗揚げ祭りに名称を変えている)

登り口は山吹山南西山麓の徳音寺集落から祭り用の登山道が整備されている。子供でも登れるようにしっかり整備されているので迷う事は無い。尾根に出たら東に進み展望用の東屋の場所が狼煙台跡で、片道約30分の道のりだ。

山吹山烽火台 (2)
登山口。駐車場は無いので、登り口の手前付近の路肩に止める。往来の邪魔にならないように注意が必要。

【立地】

木祖村と旧日義村の境で、木曾川が大きくクランクする場所の付き出た尾根上にある。ここから木曾谷が一望出来る最高のロケーションで、狼煙台を設置するには最適の場所である。福島に入るための最後の関門となる。

山吹山烽火台 (3)
「らっぽしょ」祭りで「木」の文字が表示される場所の尾根から見た木曽町福島方面。

【城主・城歴】

木曽氏の築いた狼煙台で、贄川口(にえかわぐち)のルートの一つになる。
狼煙通信網は、木曽氏の本拠地である福島の居館に近い火燃山(ひともしやま、ひよりやま)を中心として以下の3ルートがあったという。

●北:贄川口   砦山(旧楢川村贄川)~鳥居峠~山吹山~相図ヶ峯~火燃山

●南:美濃口   妻籠城山~三留野城山(みどのじょうやま)~大桑長野城山~台ケ峰~火燃山

●西:飛騨口   西野城山~黒川アカシ場~相図ヶ峯~火燃山

しかし、実際に現地に立って展望したり、地形図を見たりする限りでは、これだけの拠点数では絶対に繋げないのである。
中間に中継局を置かないと煙幕はおろか鉦を叩く音すら聞こえない。
その辺りの解明は後究に待つとしても、山吹山が木曽氏の重要な狼煙台兼見張り台であったのは紛れも無い事実であろう。

山吹山烽火台 (8)
お祭りの準備小屋を通り過ぎて痩せ尾根を登り詰めた先に狼煙台跡がある。



山吹山狼煙台①
縄張りは火燃山と同じ形式のようだ。

【城跡】

展望用の東屋の建つ部分が主郭で土塁と横堀で区分が為されている。
※東屋は経年劣化が進み木製の鎹(かすがい)が腐ってきているので登らないほうが良いだろう)

堀切㋐は土手付きで北斜面に対して50mほどの竪掘りとして斜面を下っている。残念ながらかなり埋もれているが、往時の堀底は現在よりもい1m以上は深かったと思われる。

山吹山烽火台 (11)
堀切㋐から見た東屋(本郭)

山吹山烽火台 (12)
北斜面に対して長大な竪掘となる堀切㋐。現在は便宜上木製の橋が架かっている。

山吹山烽火台 (21)
横堀㋑。後付けの改修工事と思われるがどうであろう。

防御の指向は北側で、東に対しても一条の堀を穿っているが、木曾川に突出する東斜面から攻められる事はないだろう。
着目すべきは、侵略者に藪原砦(鳥居峠)を突破された場合の有事を前提に作られている。

山吹山烽火台 (29)
東斜面の堀切㋒。尾根を遮断しているが、他の堀切に比べるとあまり緊迫感は感じられない。

山吹山烽火台 (34)
堀切㋒の東側の平削地。いざとなったら宿城の機能も持ち合わせていたのだろうか。

山吹山烽火台 (37)
「ていぴす殿」のいるあたりが土塁跡。

何といっても此処の狼煙台の素晴らしさはそのロケーションであろう。

山吹山烽火台 (44)通山にもかつて義仲旗揚げ関連の火祭りがあったという。


山吹山烽火台 (45)
 野上集落には「屋敷の原」という根々井行親または今井兼平の屋敷跡があるというが伝説の域を出ない。

旧日義村は戦国時代の木曽氏よりも木曾義仲に名関する名所や旧跡がテンコ盛りである。素生の分からない戦国時代の木曽氏よりも、松尾芭蕉の愛した義仲さん関連を巡る旅で訪れても面白そうだなあーなんて思う。

山吹山烽火台 (46)
残念ながら北側の木祖村方面は雑木林が多く見晴らしは悪い・・・・。


≪山吹山狼煙台≫ (やまぶきやまのろしだい)

標高:1089m 比高:210m 
築城年代:不明
築城・居住者:木曾氏
場所:木曾町日義山吹山
攻城日:2015年3月22日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:30分
駐車場:登り口付近に路駐
見どころ:堀切、土塁など そして圧巻の展望
参考文献:「信濃の山城と館⑦ 安曇・木曽編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版) 
注意事項:東屋に登る時は木の柱が腐ってきているので注意
付近の城跡:木曾義仲居館跡、屋敷の原、中原兼遠居館跡など
その他:木曾氏の経歴についてはぼちぼち調べてますが、全く進みません・・・(笑)

山吹山烽火台 (52)
南側の木曾川沿の向小路付近から見た山吹山狼煙台。















Posted on 2015/05/04 Mon. 07:27 [edit]

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火燃山狼煙台 (木曾町福島関山)  

◆木曾谷の情報を集約した重要な狼煙台◆

宮坂武男氏が調査したのが平成13年4月と記載してある。今から14年前の当時は笹藪が無かったのだろうか?

それとも藪すら見通せる「スケスケビーム」の眼力をお持ちなのだろうか??・・(汗)

「ヤブの城」=「火攻め」という短絡思考しか持ち合わせない小生には危険な遺構であろう・・・(笑)

火燃山狼煙台 (1)
木曾蒼峰高校グランド(上之段城跡)の隣にある関山公園から尾根伝いに遊歩道がある(途中で不明瞭になるが・・)

※木曾養護学校の北側の伊谷の一の沢を詰める登城ルートは藪が酷くお勧め出来ない。


【立地】

木曾川左岸、福島町の東で、関山の東嶺973.3m火燃山(ひともしやま)の頂きに狼煙台がある。この山は根井山ともよばれるようで、木曾川と八沢川の間にある山の一角で、ここからは、木曾谷の谷内はもちろんのこと、黒川の谷や熊沢の谷を見通す事が出来る。西北西1.5kmには木曾氏の福島城が指呼の間にあり、西南西1kmには上之段城、その先には小丸山城があり、北方1.7kmの所には相図峯の狼煙台が見え、更に遠く南西8km弱の台ヶ峰も見通す事ができる。

火燃山狼煙台 (4)
高校のグランド横からも遊歩道が登っているが公園からも合流出来る。

火燃山狼煙台 (10)
10分程上ると「防空監視哨」の記念碑がた建つ場所に出る。戦時中の敵戦闘機の見張りが置かれていたようだ。

更に尾根上を10分ほどゆっくる登っていく。途中で猿軍団に遭遇し緊張が走るが撤退してくれたのでホッとする(笑)

雑木林も葉が落ちているし見通しも悪く無いので、遺構もキチンと見れるだろうと期待していたのだが・・・・

火燃山狼煙台見取図①

【狼煙台跡】

根井山の972mのピークに土塁で囲まれた主郭を置き、その前後に堀切で区画された郭を繋げた単純なものであるが、山吹山烽火台と共に重要視されたらしく作りはしっかりしている。
がしかし、この遺構のあるピークだけが身の丈もある笹藪に覆われてしまい、詳細の観察が出来ない・・(汗)

火燃山狼煙台 (13)
最初に現れる尾根の南の堀切。かなり埋没している。

信州の山城は大抵ブナやナラなどの広葉樹系の林なので、冬は落葉し非常に見易いのだが、どうしたことか笹藪や竹林、椿などの常緑樹に覆われてしまった城跡もあり難儀する。特に笹藪は表面観察すら不可能にしてしまうので脅威だ。

火燃山狼煙台 (15)
西側尾根を遮断する土手付きの堀切。何がなんだか・・・(汗)

火燃山狼煙台 (16)
北側の斜面から見た土手付きの堀切。堀底に残雪が残るので窪みが辛うじて分かる程度。

火燃山狼煙台 (17)
主郭に連結している削平地。ここだけが笹藪の猛威を回避していた。

もはや写真では何が何だかの主郭。何が飛び出してくるか分からない笹藪と格闘しながら、土塁の全周を辛うじて確認する。虎口もあるので、狼煙台といえども上位クラスの普請である。

火燃山狼煙台 (19)
以前に笹藪で蛇を踏んでしまい、恐怖のあまり全力でダッシュした苦い記憶が甦る・・・・(汗)

火燃山狼煙台 (22)
写真を撮影してもご覧の有り様。

火燃山狼煙台 (29)
ピカソも真っ青の落書き・・(笑)

こんな場所でも、景色が良ければ救われたのだか、全くもって見晴らしも悪いので特に言う事は無い・・・

火燃山狼煙台 (33)
場所が違っているかと思って確認しても、スマホは微動だにせず・・・・(笑)

火燃山狼煙台 (37)
こんな感じで攻め上がりましたが、ショック隠せず・・・・(汗)

甲斐の躑躅ヶ崎の館から、御親類衆の木曾義昌に対しての指令がここに来ていたと思うと、今さらながらその通信速度と正確さには驚愕せざるを得ない。無論、早馬や飛脚などの手段も併用されていたと思うが、美濃と国境を隣接する木曾は信玄にとっても武田領国の生命線となるべく重要視されていたに違いない。

火燃山狼煙台 (41)
関山公園から見た福島城。武田統治時代は麓の上之段城に情報を伝えていたものと思われる。

≪火燈山狼煙台≫ (ひともしやまのろしだい 根井山)

標高:972m 比高:200m (木曾川より)
築城年代:不明
築城・居住者:木曾氏
場所:木曾町福島関山
攻城日:2015年3月28日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:30分
駐車場:関山公園の駐車場
見どころ:堀切、土塁など
参考文献:「信濃の山城と館⑦ 安曇・木曽編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版) 
注意事項:降雪時は止めましょう(笑)
付近の城跡:上之段城、小丸城、木曾氏居館(山村代官屋敷)、福島城など
その他:木曾氏の経歴についてはぼちぼち調べてますが、進みません(笑)

木曽氏居館 (19)
木曾氏居館跡(木曾福島小学校)から見た火燃山狼煙台。









Posted on 2015/04/27 Mon. 22:01 [edit]

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中原兼遠居館 (木曾郡木曾町新開上田)  

◆木曾義仲が元服するまで過ごした養父「中原兼遠」の居館跡◆

小生の住む上田市は、某国営放送局の2016年の大河ドラマ「真田丸」が決まったとたんに木曾義仲に関する史跡や伝承、名所・旧跡の整備を途中放棄した。

上田市としては毎年某国営放送局に陳情し、666,666人の署名まで集めた「真田幸村」のドラマ化が進展しないとみるや、挙兵の地として「木曾義仲」にスイッチして北陸四県を巻き込み次の大河ドラマ推薦への展開を画策していたのだ。

木曾義仲 020
旧日義村の義仲館の義仲公と巴御前もさぞかしご立腹であろう。

戦国時代に家名存続を賭して「表裏比興の者」という評価を受けた昌幸公なら許せても、次回の選挙の人気取りの為に右往左往する現職のM市長の謀略は許し難い愚策の連続で、地元の名士の方々も呆れておられる原状・・・・(汗)

まあ、そんなこんなで上田市とゆかりの深い木曾義仲公なので、今回は木曾の養父の居館跡をアップしましょう・・(笑)

【立地】

旧木曾福島町の上田地籍にあり、合併前の日義村との境に位置する。正沢川と天神川に挟まれ木曾川に合流する手前の河岸段丘の先端が居館跡と伝わる。北は山吹山を越すことで宮ノ越、藪原、その先の鳥居峠、南は福島に接する要衝の地でもある。

居館跡への標柱がないので、居館跡の位置と行き方がわからず右往左往を繰り返す。人も歩いていないので聞き取りもままならず地形から辛うじて特定した。ダメ元で適当に農道を彷徨ったら辿り着いた(汗)

中原兼遠居館 (43)
国道19号線の長野トヨタ自動車木曾店の信号機を西へ入るとこの場所に辿り着く。高架橋の手前の農道を徒歩で右へ。
※木曽福島方面からの登坂車線なので塩尻方面からは曲がれないので注意。

中原兼遠居館 (47)
JR中央本線の高架橋から見たこの景色が居館跡。線路の東の農道を徒歩で歩き途中から線路の下を潜れば良い。

中原兼遠居館 (39)
ここからの道順は標柱も何も無い。居館跡は全て私有地なので無理からぬ事である。

中原兼遠居館 (37)
中央線の下を貫通するトンネルを潜って道なりに進む。

中原兼遠居館 (35)
綺麗に手入れされた天神川の畔には橋が架けられている。ありがたい。この道を登ると広大な居館跡に出ます。

【館跡について】

広大な居館跡地の「木曾義仲元服の松」付近には「中原兼遠屋敷跡」として説明板に以下の記載がある。

「木曾川と正沢川・天神川に囲まれた南北百五十メートル、東西約600m(?数値がおかしい)に及ぶ河岸段丘の自然の城塞をなすこの要害の地は、木曾義仲の養父中原兼遠の館があったとされています。貝原益軒の「岐蘇路記」には‘宮の腰より一里下に上田と云所あり、兼平が父イソの仲三兼遠が屋敷の跡あり、木曾義仲の父帯刀先生義賢、悪源太義平に殺されし時、義仲二歳なりしを、母抱て信濃にくだり木曾の仲三兼遠を頼りしかば、兼遠養育してひととなりぬ・・・・‘とあり、義仲(駒王丸)はこの家で十三歳の元服をむかえるまでの幼少期をかくまわれて過ごしたといわれています。正面の古松は義仲元服の松と呼ばれ、水田の中の竹林には兼遠の碑があります。」(木曾町)

中原兼遠居館 (16)
居館の南側と福島方面。跡地は耕作地で面影などないが、周囲が天然の切岸となっていて防御性は高い。

中原兼遠居館 (17)
兼遠塚。

【居館跡地】

木曾川に突き出た崖淵の台地を利用した要害の地である。居館の跡地は耕作地となり、往時の遺構は全くないが、台地の縁は天然の切岸が囲み容易に人を寄せつけない厳しさがある。
そもそも800年も前の話なので屋敷の存在すら微妙だが、この地であれば何らかしか建物があったのであろう。

中原兼遠居館航空写真①
グーグルマップの航空写真に手を加えてみた。なんとなく感じがわかるかしら?


中原兼遠居館 (10)
兼遠塚。大事にされてきたようです。

中原兼遠居館 (31)
北側から見た屋敷地全景。広いだけで何とも・・。

そうは言っても、この場所は完全に私有地だし不法侵入には間違いはないので、居館跡に建つ民家の方に取材許可を求めようとしたが留守だった。民家の脇には標柱があり、消えかかった地主さんの手作り看板もあったので木曾義仲の史跡巡りの方の訪問については暗黙の了承をしているらしい。(訪れる人も最近は途絶えているようにお見受けしたが)

中原兼遠居館 (21)
民家脇の標柱。下の手作り板には「・・竹藪の中にあります・・」と読めるので、兼遠塚の場所を書いてあったと思われる。

民家から北への畦道を進むと「木曾義仲 元服の松」があり、説明板が立っている。

中原兼遠居館 (24)
歴代何代目の松であろうか?途切れることなく松を植えて口伝を伝承する地主さんの努力には敬服しました。

中原兼遠居館 (25)
この場所で義仲が元服の儀式を執り行ったのであろうか・・。

一般的な歴史学としては、「源平合戦」という認識のもとに平氏の専横的な貴族政権に対する源氏の反乱という図式で語らがちな鎌倉幕府成立までの過程ではあうが、それは大きな間違いであろう。

源氏VS平家もあり、源氏VS源氏の一族・身内の戦いもあり頼朝政権の樹立までには紆余曲折があったのだ。

平家政権打倒の第一走者が義仲であり以仁王の令旨に従い、依田城で挙兵。北陸経由で平家を撃破し京都に進軍。都から平家を追放する。第二走者は兵法の天才として兄頼朝の手足となって縦横無尽の働きをした義経だ。関東に引き籠り機が熟するのを待った頼朝は上皇との関係が悪化した義仲を排除し、逆にその上皇の朝廷に利用されそうになったおバカ義経を恫喝して奥州に追い払い、義経を匿って頼朝の命に従わない奥州藤原氏を朝敵の名のもとに滅ぼし鎌倉政権を盤石なものとした。

まあね、このぐらいドイヒーなヤツじゃないと歴史に名は残せない・・・(笑)

中原兼遠居館 (26)
そのような事はこの説明板に書いてありません・・(汗)

勝者によって敗者の歴史は塗り替えられる事が繰り返されてきました。

その結果、日本史は訳の分からない欠落した歴史学に苛まれる結果となり現在にひきずっております・・・(汗)

この居館の主である中原兼遠も得体の知れないおっさんになってますが・・・。

中原兼遠居館 (1)
居館近くにある「手習天神」。中原兼遠が義仲の学問の神として勧進したものだと伝わる。

≪中原兼遠居館≫ (なかはらかねとお きょかん)

標高:816m 比高:20m (木曾川より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:木曾郡木曾町新開上田
攻城日:2015年3月28日
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:中央本線の高架橋より徒歩5分
駐車場:無し
見どころ:兼遠塚、元服の松、切岸など
参考文献:「信濃の山城と館⑦ 安曇・木曾編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版) 
付近の城跡:福島城、火燈山狼煙台、木曾氏居館など

中原兼遠居館 (42)
中央本線の高架橋から見た居館跡の全景。








Posted on 2015/04/21 Tue. 21:26 [edit]

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福島城 (木曽郡木曽町福島)  

◆武田氏の侵入に備えて築かれた城◆

先週も今週も日曜日しか休みがとれず、出掛けたくても雨には勝てず・・・仕方なく記事でもアップするか・・(汗)

今回ご案内するのは「八甲田山死の彷徨」まがいとなった「木曽福島城の彷徨」。お付き合い頂いたのはていぴす殿。

天は我らを見捨てなかったが、50cmもある残雪の城攻めは人生初であった・・・ってかおバカ!!(笑)

木曽福島城 (132)
城の大手口に残る石垣。

【立地】

福島城は木曾町福島の中心部、木曽川右岸の城山になる。福島小学校の裏山が福島城で一般に「お城山」と呼ばれている。黒川が木曽川に合流する位置にあり、飛騨高山へ通じる木曾街道と中山道が交わる要衝を抑える。大手は居館(向城)のあった福島小学校からの道であったと思われるが、山村稲荷から先が不明瞭で良く分からない。

木曽福島関所 061
徳川直轄領時代の山村代官屋敷は、木曾氏の居館跡に建てられている。(現在の小学校も敷地だった)

【城跡への登り方】

興善寺の裏にある木曽福島郷土館(冬季間は閉鎖)を目指してすすみ脇の林道から紅葉ヶ丘へ。軽自動車の四駆なら車で紅葉ヶ丘まで行けるが冬季間は通行不可。そこから城跡までは遊歩道が整備されているので迷わず辿りつける。

木曽福島城 (1)
林道入口。郷土館に車を捨ててここから黙々と残雪の残る林道を20分歩いて紅葉ヶ丘へ。

●紅葉ヶ丘

城からの眺望は冬でもほとんどダメなので、ここからの眺めがお勧め。町全体はもちろん、周辺の城館や街道の様子も掌握出来る絶景である。天気が良ければ山城としては国内標高1754mの最高峰に位置する楡沢山城(にれさわやまじょう・木曽義仲隠れ城)が見えるはずだが、今回は生憎の小雨模様で見る事すら叶わなかった・・。

木曽福島城 (2)
東方面。上之段城は木曾西高校への改変を受けて西半分が削られたという。天気が良ければ左上に義仲隠れ城。

木曽福島城 (2)
小丸城は三つの城の中では一番古いという。八沢川の河岸段丘を利用した城である。

木曽福島城 (5)
木曽川と福島宿が眼下に見下ろせるビューポイント。

【城主・城歴】

木曾氏全般については、木曾義仲の末裔だとする説もあるが現在では否定する説が有力である。今回、須原等の木曾氏に関連する周辺の諸城の現地調査が出来なかったので、いずれ改めて掲載したい。

永正六年1509)、木曾の領主木曾義在は、木曽川と八沢川に挟まれた上の段・山平(やまひら)の高台に館を構え、上之段城を築いた。上之段城は、続く義康・義昌と三代にわたる居城であった。
天文年間(1532~55)、甲斐の武田晴信は、たびたび信濃に侵攻した。義康は北方からの侵入に備えて、木曽川の対岸に詰城として福島城を築いた。上之段城に対して向かいの城であったので、「向城」(むかいじょう)とも呼ばれ、今も地名として残っている。

木曽福島城 (8)
こんな雪の中の面会は遠慮しておきます・・・(汗) 

紅葉ヶ丘から普通なら10分程度で城跡になるのだが、雪中行軍なので2倍の時間と労力。雪山で汗まみれ・・(笑)

木曽福島城 (11)
膝まで埋まる雪に悲鳴をあげながら辿り着いた郭3。主郭をすっ飛ばしていきなり南尾根に行くのがプロだとか(笑)

福島城見取図①
防御の指向性は北と東。つまり鳥居峠を越えて来るだろう武田軍に備えた縄張りである。

【城跡】

木曽川と八沢川が東に張り出す尾根が黒木沢の浸食により南北にL字となるピークに主郭を置き、それぞれの尾根を堀切で断ち切った連郭式の山城である。

●三の郭と南尾根

この尾根の西側に大手道が付いている。郭の先は浅い二重堀切で区切りその先は荒く平削された平場あある。

木曽福島城 (12)
二重堀切㋓の手前側。

木曽福島城 (15)
南尾根の平削地。なだらかに下っているだけで、その先には何もない。

●郭3~興禅寺山に続く東尾根の処理

郭3からL字となる東尾根は急斜面を上巾17mの堀切で断ち切り、その先は長さ約100m程の細長い郭が続く。途中南の居館に対して竪堀が一条あるので、通路として使われたのかもしれない。

木曽福島城 (22)
郭3から堀切㋒を覗きこむ。ロープはあるが、何が楽しくてこんな雪の急斜面を下りるのか・・(汗)

木曽福島城 (26)
雪の堀切が嬉しくて駆けまわった・・・まるで犬のようだった(笑)

木曽福島城 (31)
堀切の向こうの尾根が城域。下ったら登らねばならないのだ・・・

木曽福島城 (41)
100mの長さの郭。何か柵でもあったのだろうか?

木曽福島城 (43)
木曾氏居館方面に落ちる竪掘。荷揚げ用の通路か?

●郭3~郭2

郭3の北側には喰い違いの堀切の先に土塁付きの勢溜のような連結部分があり、上巾15mの堀切㋑を介して郭2の馬出しに向かう。主郭も同じように馬出しが接続しているので、福島城の特徴ともいえる。

木曽福島城 (48)
郭3と郭2の間にある郭。

木曽福島城 (57)
上巾15mの堀切㋑。落差があるので防御は固い。

木曽福島城 (63)
郭2側から見た堀切㋑

木曽福島城 (68)
全然雪が融けていないので、歩きづらかった郭2。さすがに「二の丸城跡」の表示はヤバイでしょ(笑)

木曽福島城 (65)
北東尾根の帯郭を歩く「ていぴす」さん。その先の尾根にも細長い郭があった。

●主郭とその周辺

主郭は標高1041mの高さにあり、広さは30m×40mのおむすび型の平地で、北東の飛騨海道(現在の木曾街道)黒川の谷に向かって階段状に腰郭を設け、東方には急斜面の下に武者走りを巡らせている。西側は一段下がって小さな帯郭を置き、東尾根を堀切で断ち切りその先に細長い郭を置いて見張りとしている。

木曽福島城 (74)
東の沢に接続する堀切㋐

木曽福島城 (85)
郭1も郭2も一段下に出撃用の陣地(馬出し)を置くのは面白い。

木曽福島城 (87)
主郭。八幡社、城山大権現、秋葉大権現の三社が祀られている。

木曽福島城 (91)
西尾根に対しては、かなりの落差があり切岸も入念に整備されている。

福島城は、主郭の北東尾根が搦め手であり、同時に厳重に警戒すべき尾根でもあった。その為にこの尾根に対しての主郭の切岸は異様なまでの角度で削られ、断ち切る堀切は鋭角。その先に横矢の掛けられる郭を回す作りは極めて厳重な仕様である。

木曽福島城 (92)
北東尾根の搦め手に対しての馬出し。

木曽福島城 (95)
搦め手に張り出した帯郭。尾根伝いが凍結していて転落する危険があるので堀切㋐からの連絡通路へ迂回する。

木曽福島城 (105)
帯郭から見上げた主郭の切岸。芸術作品のようだ。

木曽福島城 (108)
堀切㋔を撮影する「ていぴす」さんを撮影する小生・・(笑)

木曽福島城 (114)
堀切㋔。

木曽福島城 (119)
段郭を連続して置き、最も警戒した搦め手方面。

木曽福島城 (128)
改変された堀切一条のみ残る西尾根。

木曽福島城 (131)
西尾根から見た主郭。

如何でしたでしょうか?

「真っ白で良くわかんない・・・・」なるほど・・(笑)

一説によれば木曾義昌が築城したという話もあるようですが、武田信玄の婿養子になった義昌がこんなプアな城を築城する事は信玄が赦すはずもありません。
とすれば、武田軍の侵略に対抗すべく義康が築城したとみるべきでしょう。

天文十八年(1549)、甲州勢は木曾へ侵入した。義康は鳥居峠にこれを迎え討って撃退したが、甲州勢は再び攻め寄せ、鳥居峠を越えて藪原へ陣を敷き木曾勢と対峙した。同二十四年、甲州勢は大軍をもって攻め寄せた。木曾勢は日義の小沢川で防戦したが、多くの武将を失い、義康は遂に武田方の軍門に下り和睦した。

木曽福島城 (133)
大手の石垣・・・ちゃんとみましょうネ(笑)

信玄の没後、義昌は織田方に加わって武田勝頼の軍を破った。この働きにより信長から安曇・筑摩を与えられて深志城に入った。信長が本能寺で無くなった後、深志城の旧主小笠原貞慶は徳川家康の後ろ盾によって深志城を取り戻し、天正十二年(1584)、木曾へ侵攻して上之段城を焼き払った。義昌は、菅路(行人橋付近)へ退き福島城へ立て篭もった。そのうち南方からの見方の援軍を得て小笠原軍を追い返した。


≪福島城≫ (ふくしまじょう 城山・おてんじょう)

標高:1041m 比高:270m 
築城年代:不明
築城・居住者:木曾氏
場所:木曾町福島
攻城日:2015年2月15日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:40分
駐車場:木曾郷土資料館の駐車場借用
見どころ:堀切、土塁、馬出しなど
参考文献:「信濃の山城と館⑦ 安曇・木曽編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版) 
注意事項:降雪時は止めましょう(笑)
付近の城跡:上之段城、小丸城、木曾氏居館(山村代官屋敷)、火燃山狼煙台など
その他:木曾氏の経歴についてはぼちぼち調べてみます

木曽福島城 (135)
飛騨街道側(黒川)から見た福島城遠景。















Posted on 2015/03/08 Sun. 21:51 [edit]

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王滝城 (木曽郡王滝村崩越)  

◆戦禍に巻き込まれた数奇な運命の山城は、山深き湖岸に眠る◆

故あって、白馬村の飯田城の掲載は延期して二年越しの王滝城をアップしようと思う。

木曾編の第一号の城は、Web上でも初公開となる希有な城であるが、その経歴は数奇な運命に翻弄されている。

王滝城 (1)牧尾ダムから臨む王滝城。

ネタに尽きて、とうとう南木曽まで攻め入ったか?と思われるかもしれないが、仕事上のお取引先のお客様が王滝村にいらっしゃるので、年一度この時期に通っているのである。

さすがに遠い。同じ長野県とは思えない・・(笑)

昨年も攻めてみたのだが、御岳湖の水位が高過ぎて城跡が水没状態だったので断念。

今年は雨も少なかったので再チャレンジして、ようやく80%は何とか見れそうなので訪問してみた。

王滝城 (6)対岸から見た王滝城。

王滝城は王滝川の崩越(くずれごし)集落の河岸段丘上の北を城域としていたが、昭和36年(1961)に牧尾ダムが完成すると御岳湖により水没してしまい、水位が下がった時に現れる幻の城である。

明治の終わりに城跡から対岸の鞍馬(あんば)まで吊り橋が掛けられたようで水面からの高さは30mあったというから、深い渓谷の要害の地だったらしい。

王滝城見取図①
国土地理院25000分の1の地図を基に作成。

城跡は崩越集落の「木曾牧尾ふるさとの家」(現在は休業)のテニスコートの北側で御岳湖に突き出た場所だという。

テニスコートや自然遊歩道(現在は藪だらけ)の造成で城域の北側に何があったのは見る影もないが、湖底に沈んでいたB(下の城)は綺麗に残っている。

王滝城 (15)広大な下の城。

王滝城 (20)西側方面。この先の湖底には対岸へ張り出す段郭があり、その先に鞍馬橋が掛けられたという。

王滝城 (16)隣接する郭A。一段高い位置にある。


長野県町村誌には「崩越の古城」として「人家の北にあり、昔木曾左京大夫義元、飛騨軍を拒む要害の遺址なり。今此地畑になり、号して下夕の城と伝。側の小高き所に林あり、此所に源氏の守神八幡宮の小祠を祀る、年月不詳」とある。

王滝城 (41)郭A。往時はここに祠があったが集落の地蔵堂に移された。

「木曾惣図」によると「義昌古城」とあるようで、永正元年(1504)七月に飛騨の三木重頼は兵数百で木曾に侵入、義元の武将上野肥後の守る上島砦を攻め落とす。義元は急を聞いて王滝城で迎撃したが態勢の整わないうちに攻撃されて落城し敗走中に傷死する。

王滝城 (11)背後の崩越集落と見張り砦(?)

弘治元年(1555)武田軍が木曾へ侵入し、義元の孫の義康は大滝城に、その子義高は福島城を守った。武田軍は二手に分かれて両城に迫る。この時末川から間道を入った一隊は黒沢の和田砦を抜いて王滝城に向かったが、和をもって木曾氏は武田に降った。

王滝城 (17)下の城背後の断崖。テニスコートやグランド跡地も郭だった可能性があるが、そうすると城域はかなりの広さがあったと思われる。

霊峰御嶽山の麓で、こんな山奥の小村が幾度かの戦禍に巻き込まれたとは俄かには信じ難い。

しかも武田軍が攻めて来たのだ・・・各個撃破とはいえ、信玄公の執念恐るべしである。

王滝城 (47)遊歩道跡には石垣の虎口があった(笑)


和田砦 (9)牧尾ダムの脇にある和田砦。武田軍により落城。


さて、木曾の紅葉祭りは如何でしたでしょうか?(えっ、違うの・・笑)

数奇な運命を辿った山城が湖底に眠るとは驚きでしたネ。水位がもっと下がれば全容が明らかになるのでしょうが、謎のままでもいいのかなあーなんて思ってます。


≪王滝城≫ (おうたきじょう 御岳城、崩越城、下の城、鞍馬城) 

標高:870m 比高-
築城年代:不明
築城・居住者:木曾氏
場所:木曽郡王滝村崩越
攻城日:2012年11月?日 
見どころ:広大な郭
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:-
注意:増水時には見れません。
付近の見どころ:和田砦
参考文献:「図解山城探訪 第二集 木曾史料編 宮坂武男著」


王滝城 (48)対岸から見た王滝城。湖に浮かぶ空母のようだ。




Posted on 2012/11/10 Sat. 16:04 [edit]

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